国立近代美術館の常設展を久しぶりに見てきた。ここは格好興味ある絵があって好きだ。
だが藤田のこの絵は初めて観た。同じ部屋にいかにも藤田らしい乳白色の女たちの絵があったから、この一面に暗いヘドロ色の絵が、藤田作品とは思いもよらなかった。
あ、これが藤田が戦後に戦争協力者と糾弾された原因の絵なのか。
わたしの藤田に関する知識は概略なもので、戦前にパリで成功した画家であったが、戦中に日本に戻って活躍、戦争画を描いた。しかし、戦後はその戦争画の成功がゆえに画壇から戦争責任を糾弾され、またパリに戻ってそちらで没した。乳白色の女性の絵が有名、この程度である。
だから藤田が日本を捨てた原因となった戦争画も、あの白い女性の絵の延長ぐらいだろうと思い、ときに見る戦争賛美の絵をイメージしていたから、この汚い暗い絵が藤田作品とは意外だった。
この抽象画のような暗い暗い色彩、西欧古典絵画のような人物群像、全体のバランスなどを離れて鑑賞して、さすが藤田だなと思った。
近寄って詳細を観察した。ごちゃごちゃ組み合っている一人一人の人物の描き方を見ると、一応はアメリカ兵と日本兵を、刀と銃、モンゴロイドとコーカソイドの顔、鉄兜のデザインの違いで描き分けているとわかる。
刀を振り回す日本兵へのほうが優位な状況にあると見えるのだが、実は日本軍は全滅だったから、これが、戦争画である特徴だろうか。
この巨大な画面の端から端間まで見ていくと、醜悪陰惨きわまる人間殺戮に気分が悪くなってくる。これこそ反戦画ちうものだろう。そうとしか見えない。
どうして1943年当時に、これが戦意高揚の絵として受け入れられたのか、アッツ島玉砕という悲劇は隠されてはいなかったから不思議である。
会場でそう思ったのだが、今、ネットで調べると、この絵の展示をはじめは軍部もためらったという。ところが、展示したらこの前で手を合わせ、涙を流して賽銭を供える人たちもいて、にくい敵を倒せとの戦意高揚に役立ち、藤田も大得意であったそうだ。そして戦争協力画家たちのリーダともなったという。
絵の表現と画家の行動が分離しているが、それが絵画というものだろう。アートは観る人の側にこそあるものだから、時代によって観る人の目も変わるというものだろうか。
さらに観ていて思ったのは、当然のことに藤田は全滅し占領されたアッツ島に行っていないはずから、想像で描いたのだろう。しかし当時の日本軍とアメリカ軍では武装のレベルが段違いであり、まるで戦国時代のような敵味方が入り混じる白兵戦はあり得なかったろう。
日本軍は刀を振り回して、やけくそで敵陣に突っ込むのだが、その前にたちまち火器で撃ち倒されてしまったはずだ。現にわたしは悪名高いインパール作戦で生き残った人から直接に、悲惨な戦場体験を聞いたことがある。
でも、これを見る大衆はそのような現場を知らないから、藤田は大衆がこの絵をどう見るかを読んで創作した。そこが藤田の大衆に好まれる画家としての成功要因だろう。
この絵は初めのほうの展示室にあったのだが、観ていたら別の展示室でまた藤田の戦争画が登場した。「○○部隊の死闘・ニューギニア戦線 1943年」とある。描き方はアッツ島とまったくと言ってよいほど同じ色彩と構成である。
この近代美術館も写真OKになっていたから撮ってきたのがこれ、ニューギニアの一部分である。
現物はもっと暗いのだが、デジタル写真のおかげでこのようにはっきりと観ることができる。もっとも、これが絵画鑑賞として正しいかどうかは別だが。
この絵のある展示室は戦争画がテーマであり、8点の展示があり、そこには宮本三郎の作品もあった。でも、藤田ほどの迫力ある戦争画はなかった。
今や戦争画も堂々と展示され、堂々と毀誉褒貶に耐える時代になったのだろうか。それともいまや戦意高揚絵画が免罪される時代なのか。
1943年といえばわたしの父が、妻との三人の子たちを残して、三度目の戦場へ出かけた年である。その時の母の号泣を、幼児だった私ははっきりと記憶している。戦争画が示しているように、太平洋は奪われて、父が出ていく船がなくなり、敗戦と同時に帰宅した。戦意高揚絵画は庶民には役立たなかった。
亀倉雄策デザインのポスター「原子エネルギーを平和産業に!」(1990)があった。今やこれも一種の戦争画みたいに見られる時代になった。さてどう見るか。
国立近代美術館では、企画展のほうはチケット窓口は大行列であったが、常設展はガラガラでゆっくりとみることができた。会場内の座る椅子がさすがに近代美術の名にふさわしく、なにもクレジットはなかったがこれは清家清の「畳ユニット」と剣持勇の「ラタンスツール」である。
じつは近くの別館である工芸館にも行ったのだが、そこの椅子類も柳宗理や剣持勇などの作品であったので、しっかりと座って休息しつつ作品鑑賞した。
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