コロナ過はますます深刻だが、休演となるかと怖れていた12月19日の横浜能楽堂の企画公演は、幸いにも実行だった。大槻文蔵と浅見真洲という大ベテランによる観世流の能「蝉丸」鑑賞、鬱屈する日々の中で伝統芸能堪能でしばしコロナ世間を忘れた。
先月の横浜能楽堂公演「木賊」では、舞台上のコロナ対策らしく、地謡5人が顔から白布マスクふんどしを垂らして横並びの姿は、なんとも異常な舞台風景だった。それが気になるし、そのせいか謡も聞こえにくくて、能に浸れなかった。
今回は、通常は8人の地謡が5人横並びのコロナ仕様は仕方ないとしても、顔にふんどしを垂らしていなくて安心した。だから見所から舞台を眺めている分にはコロナを忘れることができた。流派によってコロナ対策が異なるってのはヘンだ。
だが、出演者たちの舞台から見る見所は、だれもかれもがマスク姿でコロナ風景そのものだったろう。
見所は座席を一人おきの指定席である。入り口で検温、手指消毒、マスク着用要請され、チケットもぎりを自分でやる。チケット介して感染もあり得るのか。
能「蝉丸」は能特有の舞うことは少なく、物語演劇的である。美しい詞章が多い。
主役二人は姉弟であり、兄は盲目の乞食で妹は異形物狂い放浪者、その出自は皇族であるという設定が奇抜である。その故に戦前戦中は不敬にあたるとて、上演禁止であったのだから、まぐさい風が吹いていたらしい。今も吹いていそうだ。
その設定はともかくとして、この能も本質的にはよくある仏道もののひとつであろう。二人の不幸な運命は、前世現世来世のためであり、諦念せよとの教えである。
今がもし中世ならば、庶民であろうが皇族であろうが、コロナから逃れられない、諦めよというのであろう。
だが、能によくあるように、最後に仏道に救済されるハッピーエンドではない。シテの蝉丸は仏道に入るのだが、最後まで救われることはない。妹の逆髪に出会った喜びもつかの間、逆髪は狂気のままに去っていく。盲目の蝉丸はあばら家にひとりただ嘆くのみ。
謡には仏道による救済の言葉はいくつも登場するのだが、それらが姉弟を救うことないし、それらしいほのめかしもなく舞台は終了する。考えようによっては、それだからこそ近代的な解釈を可能にする能であると言えるかもしれない。
今回の能の面白さの中心に、その場所の設定があることを、講演の馬場あき子さんが強調していた。「逢坂の関」は古来から歌われた所ある。関所と言う人々の出会い別れによる多くの情感を込められたところである。文化人類学や民俗学でいう「境界」である。異なる世界相互を行き来する場所である。
だからこそこの能の作者は、登場する姉弟も皇族から放浪者あるいは乞食という両極端な世界を行き来した者として創作した。作者は不詳だが、世阿弥の頃はすでにあった能であるという。
文蔵と真州という両シテ組み合わせに加えて、アイ狂言に野村万作が源博雅として登場したのも豪華配役であった。アイ語りもないこんな簡単な役に万作とはもったいない。
だが実はこの源三位博雅は、この物語では重要な役のはずである。なぜここに彼が登場するのか、蝉丸と同のような関係なのか、それは重要なことなのだが、能の中では一向に出てこない。今昔物語にあるこの話をアイ語りさせるとよいのにと思う。
考えてみれば、能役者たちも今は仕事がなくて大変であろう。このような演能機会はめったにないことだろう。現在は能楽が大衆化して、演能の機会が多くなっていたのに、どうなるのだろうか。コロナ騒動をもとに能や狂言の新作演目が登場するだろうか。
●2020年12月19日14:00~16:30 横浜能楽堂
企画公演「馬場あき子と行く 歌枕の旅」第3回 近江国・逢坂
講演:馬場あき子
能「蝉丸」(観世流)
シテ(逆髪)大槻文藏 シテ(蝉丸)浅見真州
ワキ(清貫)森 常好
ワキツレ(輿舁)舘田善博 ワキツレ(輿舁)梅村昌功
アイ(博雅三位)野村万作
笛 :松田弘之 小鼓:曽和正博 大鼓:白坂信行
後見:赤松禎友 武富康之 大槻 裕一
地謡:浅井文義 小早川修 浅見慈一 武田友志 武田文志
(2020/12/20)
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