■コロナいよいよ盛況
コロナはますます大繁盛であるが、ロシアとアメリカとイギリスでワクチン開発できたらしい。それでなんとかなるのかしら、それはいつのことかしら。
昨日の全日本感染者数は過去最多記録更新で約3000人、全国で昨日までの累計17万人余、死者2500人余。
世界では感染者累計6900万人、死者累計167万人、アメリカがトップを今も維持しており1540万人感染累計・死者累計29万人、インド、ブラジル、ロシアと続く。
そんな日に、故郷の高梁盆地の旧友から地元新聞切り抜き画像メール、昨日の高梁市で2人新規感染発生、これで累計5人のコロナ感染者発生とて、市長が特別記者会見している。人口3.2万人だから1万人当たり1.56人感染。
そしてこちら、わたしの住む横浜市では昨日の新規感染者数が112人、累計6801人、そのうちでわたしの住家がある中区では累計感染者415人、人口15万人だから、1万に当たり28人感染となる。
ということは、故郷とこちらとで感染度合に18倍の差がある。これじゃあ故郷に移転するコロナ疎開をしたくなる。だが、移転者がコロナ運搬者になるおそれがあるから、あの戦時疎開とは大いに違う時代状況である。戦争や天災による避難の疎開よりも、病魔から避難する疎開のほうが条件が厳しいと気が付いた。
■ソーシャルディスタンスの日本語訳
このコロナ流行激化地から避難するというコロナ疎開は、ソーシャルディスタンス行為のひとつであるが、そのソーシャルディスタンスという言葉そのものが、以前から気になっている。それは、パソコンとかスマホとかに言う様に、日本人は長たらしいカタカナ外来語を短縮して日常語にしてしまう才能があるはずだ。スクリーンショットをスクショと言うのに笑う。
それなのにソーシャルディスタンスという言葉は、現在では1年近く流行しているのに、いまだに長いカタカナ語であるままとはなぜなのか。それとも私が知らないだけで、実は世間では縮めて「ソーデス」とか、あるいは「SD」とか言ってるんだろうか。だが聞いたことが無い。
さらに不思議なのは、日本語訳の単語がいまだにないことである。そのまんま「社会的距離」と翻訳している例も見受ける。生物としての人間が相互の位置の物理的間隔をあけるのが、どうして社会的距離になるのだろうか。
日本語で社会的と言うと、社会学とか社会運動とか社会主義とか情報社会とか車社会とかを連想して、距離とか間隔という物理的事象に対応しない気がする。違和感がある
現今で一番の普及しているソーシャルと言えば、SNS(Social Networking Service)だろう。だが、これに対応する日本語がないらしい。内容から言うと、ここでのSocialの意味は「交流」であろう。あえて訳せば「人間交流電網方式提供」ということか。
ソーシャルが交流の意味で使われてきたのはソーシャルダンス、すなわち人と人が互いに接触して踊ることを通じて交流する「社交ダンス」であろう。英語のsocialには社交の意味もあるのだ。
ソーシャルディスタンスを「交流距離」あるいは「社交距離」と翻訳すれば、対人相互の間隔の意味に近くなる感がある。なのにそう翻訳しないのはなぜか。
◆フィジカルディスタンス
ソーシャルディスタンスをネット検索してあれこれ読んだら、これは正確には「フィジカルディスタンス」と言うべきであると、コロナ防疫の大元締めの世界保健機関(WHO)が推奨しているそうだ。
つまり、ソーシャルディスタンスは「人と人との社会的なつながりを断つという誤解を招きかねず、社会的孤立を生じさせる」おそれがあるので、「身体的、物理的距離の確保」を意味する「フィジカル・ディスタンス(phyical distance:物理的距離)」と言え、とのことである。
やっぱりそうか、わたしの違和感は正しかったようだ。「物理的距離」ならばわかりやすい。しかし、実際に「フィジカルでスタンス」という掲示やニュース記事などに出会ったことがない。世間に違和感あるままに受け入れられている言葉なのだろうか。だれも違和感がないのだろうか。
なお、英語解説的ネットページにこんなことが書いてある。要約すると「英語圏の人々はSocial distancingという。Social Distance は、もともと「社会的な階級(地位や人種、性別、性的志向)の違う人達の心理的な距離」を表す言葉だから、英語ニュース新聞には Social Distancing という。distancing とすることで、「距離」ではなく「距離をとるという行為」を表す」(http://www.nagareyama.ed.jp/ootakatyuu/kyounoootakachu/R2.5.15%E3%80%80%E3%80%80%E8%8B%B1%E3%83%BB%E2%91%A3.pdf)
これが正しいならば、更に進んでWHOが言うように「phyical distancing」と言うべきことになる。「物理的間隔を開けること」である。それは「3密を避ける」と同義になる。
さて日本では今後もソーシャルディスタンスといい、社会的距離と言い続けるのだろうか。これを正しく「フィジカルディスタンシング」と言い換えるならば今のうちだが、アンリにも長すぎる。さて、日本語にどう言い換えたものか。
◆フィジカルディスタンシングと疎開
以前からわたし思っていて、そのことをこのブログに書いたこともあるが、さらに考えてみたい。https://datey.blogspot.com/2020/04/1457.html
とりあえずここではソーシャルデシスタンスを、フィジカルディスタンシングと言い換えることにする。日本語にこのphysical distancingに相当する単語は無いのであろうか。いつまでも長たらしく、しかも違和感あるカタカナ語のままコロナ時代を過ごすのだろうか。
日本語では、この相互間隔を確保するということを、どのように言うべきか。実は、日本語にはそれにぴったりの言葉が昔からあるのだ。それは「疎開」である。
ただし、疎開という言葉は学童疎開や建物疎開とか強制疎開とか、太平洋戦争末期によく使われたので、その時の災害的印象が日本人の強烈な負の記憶になっている。
いまでは災害避難のために居住地を他に移るという意味だけ残って、本来的意味を忘れられている。
しかし実は疎開の本来の意味こそ、social distancingなのであった。ここで「疎開」という日本語を、時代をさかのぼっての使い方を含んで日本語辞典類で調べよう。
・『増補字源』(1955年、初版1923年)における疎開
この辞典には疎開と言う言葉が載っていない。疎も開も熟語が多くあるが、疎開はない。その理由を推測すると、この辞書は中国古来の漢文にある用例に限って掲載してるからであろう。つまり疎開は日本で組合せて作った言葉であるらしい。
・『辞海』(1952年)における疎開
①まばらになるように開くこと。
②密集隊形の距離間隔を開くこと。
③空襲の被害を少なくするため建物の一部を取り払う(住民の一部を他に移す)こと。「建物(強制・学童・集団ー)
・『広辞苑』(第3版1982年)における疎開
①とどこおりなく通じるこ。開き通じること。
②戦況に応じて隊形の距離・間隔を開くこと。
③空襲・火災などによる損害を少なくするため、都市などに集中している住民や建物を地方に分散すること。疎散、「学童ー」「強制ー」
・『日本国語大辞典』(第2版 小学館 2002年)における疎開
①とどこおりなく通じること。開き通じること。また、木の枝を刈り込んでまばらにすること・疎通。(明治時代から見える語だが、挙例の「漢英対照いろは辞典」「新編漢語辞林」にあるように、当初はもっぱら①の意で用いられていた)。
②軍隊で、敵の砲弾からの危害を少なくするため、分隊、小隊、中隊などが相互の距離間隔を開くこと。(大正から昭和初期にかけて(2)の軍隊用語として定着するが、第二次世界大戦が始まると、③の意で一般社会でも用いられるようになった)。
③空襲・火災などの被害を少なくするため、都市などに密集している建造物や住民を分散すること。(「生産疎開」「建物疎開」「人員疎開」の三種類があるが、これは第二次世界大戦下のソ連における工業施設疎開や、ドイツのベルリンで行なわれた人口疎開に学んで実施されたもの)。
◆疎開こそフィジカルディスタンシングの正しい日本語訳
これらの事典で分かるように、要約すれば「木の枝を刈り込んでまばらにすること」が元の意味であった。それが軍隊用語として「戦場で敵からの砲撃を避けるために兵や隊相互間隔をあけること」なり、次に「戦時の強制移転」という意味になった。
この意味①から③への広がりを全体像として見ると、まさに現今のsocial distancingそのものである。戦後に使われることはほとんどなかったが、近年では「原発疎開」で避難の意味で使われ、現今では「コロナ疎開」なる言葉が出てきているから、③の意味は継続している。だが①および②の意味では日常は使うことはない。
なお、戦中末期に使われた疎開と言う言葉は、実際は戦災事前避難行為だったのだが、避難という戦争から逃げる意味を当時の政府が嫌って、疎開を宛てたという。福島原発疎開からコロナ疎開へと変わろうとも、避難であることは間違いない。
このような状況では再び当初からの①および②の意味を復活して、「ソーシャルディスタンシング」を「疎開」と翻訳してはいかがであろう。これがいちばん適切な日本語である。
しかし、現代人からすると古語を引っ張りだして来た感がして、定着しない恐れがある。
◆新造語「開疎」そして「開間」
先般、日本都市計画家協会が主催するシンポジウムを年と視聴していたら、安宅和人さん(ヤフーCSO、慶大教授)がキーノートスピーチをしていた。要するにディスタンシング社会がどのような状況であり、どのような社会になるか、そして都市はどうなるかとの話であった。
その中で安宅さんは疎開ならぬ「開疎」という言葉を使っておられるのだった。その意味は、ここまで書いてきた「疎開」であると、わたしには聞こえた。フィジカルディスタンシングとほぼ同じであるらしく、「開疎する」を「開疎化」というのである。
そのような日本語が現実にあるかと辞典類を探したが、見つからないからこれは安宅さんの造語らしい。彼は疎開の本来的意味を承知の上で、現在の社会的受け入れ状況を考慮して「開疎」なる言葉を発明されたのだろうか。
しかし疎開よりは現代用語として受け入れられる可能性があるし、疎開と文字の入れ替えだけだから通じる感があり、これはよい言葉のように思えてきた。
安宅さんの開疎論は「withコロナ時代のトレンドー、“開疎”な未来を考える」(2020.06.1)https://globis.jp/article/7662を参照のこと。わたしはここでその内容には触れないが、興味深い言説である。
再び辞書を引く。字源には、開と疎について次のような記述がある。
・疎(疏):疎い・遠ざかる(近・親の対語)、希少・まばら(密の対語)、通す
・開:開く・あける・ひろげる(閉の対語)
・密:しげし、稠(疎の対語)
それならば人間は、それに対応する新たな社会とか都市を、積極的に生み出さなければならない。コロナから逃げる自粛逼塞して逃げるだけではあるまい。そのために新たな意味を付託できる日本語を、ソーシャルディスタンシングに与えたいものだ。
ここまで我慢して読んでくださった貴方は、どのようにお思いですか?、さて、ここまで何人がおいでなったかしら、、、、。
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