●ヒバクシャにノーベル平和賞
今年のノーベル平和賞が、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)に授与された。「核兵器のない世界の実現に向けた努力」を評価したのだそうだ。
受賞した被団協に祝意を表するとともに、この時期にこの団体に授与したノーベル賞委員会に敬意を表したい。それにしても、その受賞団体名が、その悲惨な出自を物語って、いかにも禍々しいことと思う。
ノーベル賞委員会による授与理由には、核兵器を登場の過去、現在、未来の現実の恐怖を圧縮して述べている。人間が核兵器をはじめて戦争に使って80年になろうとする。1945年に最初の核兵器による殺人数は約12万人だった。
そしてその後に核兵器に死んだ者はそれに匹敵する数であるという。そして更に今も核兵器で殺すと脅していると言う。
この間に人間は十分に核兵器の恐怖を知っていて、被団協の人たちが身をもって訴えても、人生ほどにも長い時間が経っても、核を廃絶できないのはなぜだろうか。もしかしたら核という毒は、人間の心に深く入り込んで巣食ってしまった麻薬かもしれない。
核が電気エネルギーを作ることを知った人間は、その時から核が兵器であることを忘れて麻薬に化したのだろう。そして麻薬に侵された人間には、もう立ち直るときが失われているような気がする。
唯一のヒバクシャを出した国であるのに、ここのトップの総理大臣石破茂でさえもが、「核の共有や持ち込み」を具体的に検討するべきだと主張している始末である。そういえば1974年にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作は、非核三原則の表明によるものだった。この国もすっかり核の麻薬中毒になっているのである。
ヒバクシャ発祥から80年も経っているのに、被団協のノーベル賞受賞を祝い事として受けとることを、むしろ悲しむべきであろう。これほど訴えても麻薬から抜け出せないあんまりである。今や、まだ被爆体験がある生きている被団協の人たちがいるうちに、受賞が間に合ったことだけを、うつろに喜ぶしかないのかもしれない。
平和とはもはや叶わぬ夢なれや 核も戦も地球に溢れて
●ヒバクシャ歌人は短歌で核加害を糾弾する
わたしにはの友人の中に広島核爆弾被害者、つまりヒバクシャの兄妹の二人がいる。わたしと同年の兄の方は昨年逝き、今回のノーベル賞には間に合わなかった。
その妹なる人は歌人であり、その父も母も奪った加害者の国USAに住みながら、核兵器を三十一文字の韻文で糾弾してやまない。
その最近作は朝日新聞歌壇の高野公彦選による入選歌(2024年10月6日)
(アメリカ 大竹幾久子)
今や数え歳で米寿になったこの身を、その不幸な出会いから避けるには、できることはたった一つしかない、と思っているのだが、さて、この矛盾をどう考えるか。
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