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2010/01/04

225【法末の四季】大雪の中越山村

 今、中越の山村・法末集落は、暮から降り出した雪が積り積っている。
 その法末にある仲間の活動拠点「へんなかフェ」に、M田さんは28日からひとりで泊まりこんでいる。いや、もう住み込んでいるといったほうがよいか、。
 大晦日、M田さんは1mの視界の吹雪の中を、集落の中の山頂にある神社に、雪を掻き分け掻き分けて2年詣でをしたそうだ。
それは集落の年中行事の一つであり、どんな吹雪の大晦日でも住民はおまいりをするのだ。
 そうして民家に戻れば、屋根に厚く厚く積った雪を家の周りに落とし、その落とした屋根に登れば吹雪で飛ばされそうになる。雪をまた家から離れた場所に片付けなければならない。
これを雪かきならぬ雪堀りという。その寒さの中でも、雪との格闘は汗ダグになってしまう。 しかし地上に積った雪の上に、更に屋根から落ちた雪が積って、もう軒までもの雪山になってしまうと、手作業ではとてもできない。除雪機を頼むしかない。
 そうやって除雪しても、また天から雪は更に次々と降り積もる。天気予報はず~っと雪マーク。
そんな豪雪の村からのM田さんの日常報告ブログを、はらはらしながら見ているのである。
 応援に行きたいが、今すぐはちょっと都合が、、、う~む。
(追記)1月14日の現地情報は、ものすごい近来まれな大雪とのこと。

●参照→法末天神囃子   ・中越・法末四季物語

2009/09/30

185【法末の四季】棚田で稲刈りが終わったがへとへと 

 棚田の稲刈りをこの前の週末2日間で終えた。3段に分かれた棚田の約700平方メートルの稲を、延11人が取り組んで、実働は10時間くらいで、全部をハサにかけた。
 倒れている稲が6割くらいあって、腰を曲げて起こしつつ刈るのは骨が折れた。

 更にまた、水が引いていないところが全体の2割くらいあって、ここでの稲刈りは、田の草取りと同様の難儀なことであった。
 とにかく脚が泥田に取られて、簡単に移動できないのだ。
 泥の中に倒れている稲を起こしつつかるのだが、刈った稲を泥の中に置くわけにも行かないので、畦まで持っていくのが一苦労である。

 地元の人たちはコンバインでダダダ~ッと刈り取り・脱穀・稲藁裁断散布を同時にやっているが、わたしたちは昔流の手刈りだ。
 しかし、手刈りだけだと2日間では終えることができないので、バインダーなる手押し刈り取り&結束機を借りてきて、一部は機械刈りとなった。
 刈った稲を束ねて、背負ってハサ掛け場まで持って行き、ハサに下から順に乗せ掛けていくのだ。

 この作業を一日中やっていると、次の日は背中と腰が猛烈に痛くなって、2~3日は起き上がれなくなる経験を3年前にした結果、いまではアミノバイタルなる筋肉疲労予防薬をあらかじめ飲んでから取りかかっている。どうやら効き目があるらしい。

 今年はプロの田んぼも稲の倒壊が著しい。倒壊した稲を刈るコンバインは大型でないと、起こしながら刈ることができないのだそうだ。
 機械が刈り取りやすいように、倒れた稲を一定方向に揃える人手もかかる。

 ある地元の篤農の人の話では、稲のでき具合はそれほど悪くないのだがほとんど倒れたために、いつもは要らない大型コンバインを借りた損料や、人手が要ったための人件費などで、これも百年に一度の不況みたいに人生70年初めての天候のせいで、今年は稲作の儲けはゼロになったと嘆いていた。

 ハサ掛けで乾燥した米を取り込んで、脱穀・籾摺・精米して飯となって口に入るのは、2週間後のお楽しみである。

2009/09/25

184【法末の四季】もうすぐ美味い新米が食えるぞ嬉しいなあ

 明日から稲刈りである。中越山村・法末集落の棚田の米作りは今年で4年目、稲は稔っている。
 今年は雨が多くて育ちが悪いのか良いのか、半分以上は育ちすぎて倒れているので、稲刈りが面倒そうである。いちいち起こしながらかるので、手間がかかるのである。

 わたしたちの田んぼばかりではなく、米つくりプロの地元の人たちの田んぼでも、今年は稲が倒れているところが多い。
 わたしたちは手で刈って、ハサ掛けして天日干を10日ばかりやった後に、脱穀・精米する。

 田植えも手でやったし、草取りも這いつくばってやったし、そんな手間のかかることやっているのは、これが趣味だからである。
 地元の人たちはコンバインなる機械で、ダーッと刈り取りから脱穀・稲藁を切り刻んで田に撒くところまでいっぺんにやってしまう。乾燥は機械で行なうのだ。

 でも、集落内のところどころにハサ掛けもしているから、プロだって自分の食べる米は美味いのが良いと、ひと手間かけているらしい。
 春の田植えからようやく口に入るときがやってきた。あと半月ほどである。
 農作は天の導くままに1年がかりのサイクルでやるだけで、高度工業化しようと高度情報化しようと、急ぐこともゆっくりすることもできない。

2009/08/05

160【法末の四季】都会の中の自然の音と山村の自然の音

 横浜都心の7階に住んでいると、聞こえる音は、ほとんどが自動車走行の騒音であり、近くに消防署があるので救急車が特にうるさい。
 朝はシャッターが上がる音が毎日定時に聞こえる。時には人の声も聞こえるが、それは喧嘩のような大声であるときだ。
 時にはどこかのビルの火災報知非常ベルが聞こえ、いつまでも鳴っていると不安になる。

 自然の音といえば、強風のときの壁に当り角を切る音が強烈である。
 雨は、吹き降りで窓にたたきつけると音が聞こえるが、普通の雨はまったくわからない。雨だれの音はないから、外を見ないと雨かどうかわからない。
 今は真夏、この季節だけは蝉の鳴き声が、ミ~ンミンミン、ジージージーと聞こえている。これがこの家でのもっとも自然の音らしい音である。

 蝉といえば、生家は神社の鎮守の森の中にあったから、夏の間は蝉の声に包まれていた。それはもう、森の中の空間には蝉の声が充満していた。森の中に縁台をだして、蝉の音にくるまれつつ昼寝をしたものであった。
 その音色が夏のはじめから秋に向って次第に変っていった。それは蝉の種類が変るからだ。その音色の変り具合で、耳から季節の変化を感じ取ったものである。ヒグラシが鳴き出すと、夏も終わりの寂しさがただよう。

 中越山村の法末の夏、茅葺民家に寝ていると、早朝一番にヒグラシが鳴きだす。日暮しならぬ日明しである。その音でちょっとだけ目を覚まし、あちこちでカナカナカナと交互に呼び合いつつ鳴く声を聞きながら、また寝入るのは心地よいものである。
 夜中には、庭の池の主である蝦蟇がゲコゲコググと鳴き続けるの聞きつつ寝入る。

 茅葺の上にトタンを張っているから、雨音は大きい。雨だれが土を打つ音も聞こえる。でも、雨音で目覚めることはない。
 朝目覚めて初めて聴く雨音で、今朝は田んぼ仕事は休みだなあと、また2度寝に入るのは、ちいさな幸せである。

2009/06/20

143【法末の四季】法末にさわやかな夏が来て田んぼの草取り

 今年も棚田の米つくりである。
 田植えには都合悪くて行けなかったが、その2週間後の草取りに、同年の友人FとTの二人を誘って行ってきた。
 地下足袋を履き、鎌を持って田んぼに入ると、ひんやりと気持ちが良い。

 棚田だから田んぼと田んぼの間は高さ2~3メートルの急斜面で、そこに雑草がはびこっているのを刈り取る。
 年寄りたちだから腰が痛くならないように、一生懸命にやらないでチンタラやろうよ、と注意しつつ鎌を振るう。
 草刈機で刈ればわけはないのだが、そうすると田んぼの水面に刈った草が落ちてしまうから、手で刈って斜面に押し付けておくのだ。

 ときどき腰を伸ばして美しい棚田風景を見渡すと、早朝の梅雨の晴れ間の陽はゆるゆると照って、暑くもなし寒くもなし、薄いもやがかかる緑の田や森や山が伸びやかである。
 そばの林の中から、ウグイス、ホトトギス、カッコウがしきりに鳴き声を響かせる。ケキョケキョケキョとウグイスは谷渡り、ホトトギスはトッキョキョカキョク、カッコウはクックー、それぞれに面白く鳴くのをどうも頭がオノマトペにして聞いてしまうのが、われながらおかしい。

 朝飯前の仕事にして9時頃に終えて食事をして、洗濯やら掃除そして昼飯の握り飯弁当を作って、今度は尾根道にトレッキングに出かける。
 農道が棚田群を結んでいるから歩きやすいのだが、遊歩道ではないから案内板にはめったにお目にかかれない。

 2004年の中越大震災で棚田もあちこち崩壊して、土木機械で復旧工事をした。
 昔からの棚田は、人力で小さな水平面をいくつも作って重ねてつくったから等高線に沿った曲線である。
 これに比べて、土木機械で作った棚田は幾何学的な直線や円弧となっているから、すぐわかる風景である。
 緑濃い中越の山の植生にも地形にも、震災がもたらした大きな影響が見える。

 あちこちに大きな斜面草地が現れるのは、耕作を放棄した棚田である。茅が背丈ほどにも生い茂って、段々の地形も畦道も消えつつある。
 放棄棚田を棚田に戻すことは耕作者がいないので不可能だろうから、これを早期に森に戻す方法はないものか。放棄のままでなく、農地から林地への適切な移行計画、農業から言えば縮退計画、林業から言えば拡大計画が国土の保全のために政策として必要なようである。

 地図にある一周して戻るはずのたどっていた農道が、茅の茂る草地斜面の中でとうとう行きどまりになっってしまった。棚田を耕作放棄したので道も震災復旧しなかったからだろう。
 しかたないので来た道を戻って、往復6時間半、約10キロのぶらぶらハイキングだった。

参照→●中越震災の山村で棚田米をつくる

2009/04/20

119【法末の四季】甲州の桃花から信州の桜花そして越後のブナの森へ

この1週間、ふらふらと甲州ー信州ー中越と鈍行列車に乗って、花と若葉を訪ねてきた。
 甲州では韮崎で、桃畑に菜の花の取り合わせが、まさに桃源郷であった。
 ちょうど雨が降っていたのだったが、しかしそれはそれで、原色の桃色が雨にかすんで、黄と桃のおぼろなたゆたう風景もまたよかったのであった。
 実はここは生産の世界である。台地上の桃畑では、花摘みの最中だから、花見をする身には惜しいような、でも花摘みするから美味い桃が食べられる、まあ仕方ない。
 でも、桃畑のまわりに菜の花を植えて、畑を飾っているのが嬉しい。
 雨の花見もよろしい。
   ◆
 信州では高遠の桜である。高遠城跡公園の小彼岸桜は昨日の雨で半分散っていたが、それでも花見観光客は大変なものである。
 まさにお花見産業が成立しているのだが、今年は花の季節が短くて、ちょっと不景気だろう。
 実は昨年に最盛期にやってきて、はじめてこの有名な桜の公園を見物したが、あまりにどど~っと咲き誇っていて、どうもなんだかはしたないと閉口したのであった。あの花盛り加減には狂気がある。参照→高遠の花

 今年はそこからちょっと離れたところにあるしだれ桜を観にいった。これまた有名らしく、団体バスがどどっとやってきては、さっと帰る人の波が押し寄せているのだった。
 そのしだれ桜はちょうど満開である。数本があまり近づかない位置で咲いているのがよろしい。
 墓場で咲く桜がなんと言ってもいちばんよろしい。花の下には死体が埋まっているといったのは、坂口安吾だったか、そんなことを思いながら、石塔群の中をうろうろするのであった。

 なかに一本、このあたりの親分格の巨大しだれ桜が、花の入道雲を大きく広げている。う~む、どうもその姿は、ピンクの縫いぐるみのモンスターに見えるのであった。
 やはり日本の桜花は、散りゆくものの儚さを予期させる、どこか楚々とした姿のほうがよろしい。過ぎたるは及ばざるが如し。
 小彼岸桜がめったやたらの方向に枝を出し花をつけるのに比べて、しだれ桜は重力方向に垂れ下がる秩序観があるので、花の下の狂気が薄れてちょっとだけ安心させられるのだった。
   ◆
 中越では、いつも行く法末集落である。今は山菜の盛りであるが、今年は雪が少なくてすぐ解けたために、山菜の時期がピンポイントになってしまったそうだ。
 拠点とする家の庭に生えてきたウドを今年もいただいた。もうすぐタケノコである。
 同じく庭のユキワリソウの花は終わっていたが、ミズバショウが盛りだった。
 ブナの木の若葉が萌黄色の炎となって空を覆い、それはそれは美しい。
 尾根筋のブナの森の中でじっとしていると、山はなかなかに喧騒である。風のそよぎに、幾種類もの鳥が次から次へとやってきて、まるで会話をしているように鳴きつづける。
 いつもは歩いて通り過ぎていて静寂な山中だと思っていたのに、じっとしていると実は驚くほどに、自然の声の賑わいがあるのだった。
参照→中越山村・法末の四季物語
(鳥の声と虻の羽音が聞こえる動画です)

2008/12/15

074【法末の四季】大雪にそなえて冬支度を始めた 

 中越・法末の活動拠点「へんなかフェ」は、雪のシーズンに備えて冬支度をした。
 窓や縁側のガラス戸の外を板で囲った。そのままにしておくと積もる雪がガラス戸を押して壊すので、板で守るのである。
 玄関を冬用の入り口に変えた。便利な入り口は、屋根から落ちてくる雪でふさがれるから、ちょっと不便でも雪が積もりにくい形になっている庇の下の入り口にした。

 わたしたちの拠点民家にはないが、庭を大切にしている家では、庭木を板で囲ったり、雪釣りして倒れたり枝が折れないようにしている。
 雪国育ちでないわたしには、そんなことがことのほか珍しい。

 春から秋は明るく風通しのよい家だが、冬は昼間も電灯をつけていないと薄暗い。はっきり言って陰気である。
 古い家は傾いていて戸の建て付けが悪いし、外壁や床のインシュレーションもよくないから、寒い。
 周りを板で囲っているから、もしも夜中に火事となったら、逃げ出すのは玄関しかない。考えると恐ろしい。
 伝統的民家が美しいと言っても、住むとなると苦しい。

 でも、春から秋にかけての快適なこと、特に夏の昼寝の楽しみは、冬のことを忘れさせる。
 冬の伝統民家の楽しみは、囲炉裏の火を囲んで、だらだらとしゃべりつつ、酒を飲み、鍋料理をつつき、餅や銀杏を焼いて食い、時にうとうと居眠りをすることである。
 集落のいくつかのお宅を訪れたが、めったに囲炉裏にはお目にかかれない。どこもコタツと石油ストーブである。ストーブの温風をパイプでコタツの中に取り込んでいる工夫が面白い。

2008/11/10

062【法末の四季】秋深い法末で紅葉をめでつつ蕎麦の脱穀をした

 中越の山村法末は、今、紅葉が盛りである。山林には、黄色はブナ、ミズナラ、イチョウ、赤色はヤマモミジ、ナナカマド、ヤマウルシ、ヤマザクラなど、緑濃い針葉樹林と混交しながら競い合っている。


 集落の中は、家の周りは用材と防風のために針葉樹林が取り巻き、そのところどころにイチョウやブナあるいはモミジが色を添えている。
 稲を刈り取られて来春を待つ棚田は、法面の枯れ草と田んぼの土の色が交互に重なっている。

 先月末に刈り取って、茎がついたままに軒下につるして乾燥させていた蕎麦の実を脱穀した。
 脱穀機は、戦前の製品らしい「組合号」と名前がついている足踏み式である。簡単な器具だから、長持ちするのだろう。

 それで脱穀しても、葉っぱなどが混じっているから、篩でより分ける。しかし、乾燥が足りなくて、実だけの分離がしづらい。もう一度乾燥させてから篩にかけることにした。まだ蕎麦を食うには半月は先となる。
 蕎麦は、畑での栽培は簡単だが、刈り取りから後が手間がかかるものである。

 刈り取りを泥がつかないように注意ながら慎重にやり、乾燥、脱穀、葉や茎などのゴミを取り除いてようやく実だけにして、石臼で挽いて粉にし、打って、切って、茹でてようやく食べることができる。
 わたしは育ちがうどん文化圏だったから、よほどうまい蕎麦でないと食う気にならない。初めて蕎麦を食ったのは19歳で関東に移った時である。こんなまずいものをよく食うもんだと思った。有名な信州に行けばうまいかと思ったが、もっと不味かった。

 ついでに言うが、うどんについても関東の流儀では、どうしてこんなにも不味い食い方なのかと、今も不思議である。
 蕎麦なんて土地の痩せたところでないと育たないから、不味くても仕方なく食うもんだろうとバカにして、今もめったに食わない。そばがきの方を好む。
 あるとき、蕎麦うち趣味の友人が、新取り入れの蕎麦の引き立ての新粉で、打ちたて、茹でたてで食わせてくれて、初めて蕎麦の味が分かった。もう60歳を越えていた。大人でないと分からない味である。
 その友人の打つ蕎麦だけがうまい蕎麦で、店などで食う蕎麦を美味しいと思ったことは一度もない。
 そのうえ、気取った蕎麦屋で出してくる、はげ頭の櫛毛のようなざる蕎麦の値段のバカ高いことは、いったいどういうことなのか、たかが蕎麦で、、。 

2008/10/16

051【法末の四季】棚田でコシヒカリをつくる稲作遊びはななか難しいけど面白い

 このブログの9月30日の記事に、法末集落の棚田での稲刈りのことを書いた。あれから2週間、ハサ掛けした稲穂が乾いた頃とて、仲間と一緒にハサからおろして脱穀をした。
 脱穀は昔流を貫徹させるならば、稲コキで手でしごかなければならないが、さすがにそこまではやらない。田の持ちのTさんが操作してくださるコンバインを使っての機械式である。

 ハサ掛けのそばにコンバインをつけて脱穀作業開始、ハサ掛けした稲束をはずしては次々に運んでコンバインに入れると、もうもうとした藁埃と稲藁束が排出され、籾は袋に入る。
 脱穀しても稲藁にたくさんの穂が残る問題があり、それを再度抜き取ってコンバインにかける手間があった。
 それは稲束の穂先がそろっていないからである。来年は稲刈りのときに穂を揃えるよう注意して短く刈るようにしよう。
 藁ホコリまみれになりながら、機械に追われて休みなく3時間ほどの労働で、新潟コシヒカリの籾は合計17.5袋、約500kgを得て、米も稲藁束も今年は豊作だった。

 ところが、さて脱穀して籾はできたが、今年の籾は乾燥不足で水分が多すぎることが分かった。乾燥がよくないと梅雨時にカビの原因となる。
 これでは機械乾燥をする必要がある、Mさん所有の乾燥機で引き受けてくださることになり、その作業場に籾を持ち込んだ。
 現在の籾の水分は18.3パーセント、これを理想的な15.4パーセントまでに涼風でゆっくりと乾燥することとし、それは明日までかかる。その上で、後日に精米機にかけることになった。

 一昨年も昨年も除草剤は入れず、機械は脱穀コンバインだけだったが、今年は除草剤を入れ、機械は稲刈りバインダー、脱穀コンバイン、乾燥機を使い、3年目にして農遊から農業に近づく気配がしてきた。
 ということで、いまだに新米の飯にありつけていない。

 なにしろ一年がかりの作業だから、1~2週間ぐらいずれてもどうということもない、、と思ったのだが、考えてみるとそれは大きな問題がある。
 売っているのではないから、マイペースで適当にやりたいと思うのだが、季節がこちらの都合に関係なく、雨・風・気温・水温などで農作業を待ったなし、あるいは延長、延期を要求してくるので、従わざるを得ない。

 機械を使うとなると、こちらは全く所有していないから、地元の農家の方たちに頼らざるを得ない。そうなるとその機械の稼動工程に合わせなければならない。
 稲作の農作業は勝手な遊びでやっているのではできないのだと、3年目にして分かってきたのである。
 実際のところ、田起こし、水管理、農用機械使用、作業のタイミング指導などなど、集落の人たちの支えがあるから作っていられるのだってことを、わすれないようにしなけば、、。

 参照→法末の四季物語

2008/09/30

046【法末の四季】ううっ肩が凝る腕がしびれる腰が痛い、稲刈りをしたのだ

 今年も法末の棚田の米が稔った。出来具合は地元の人がほめてくれるくらいの良さである。
稲刈りを先日の土日で無事に終えた。いや、無事じゃないか、肩や腰や腕が痛い、痛い。
 1日目が10人、2日目が5人、これで棚田3枚、計約700㎡を手で刈り取ってハサにかけるまでやったのだが、やっぱり苦しい。

 機械は使わない主義を放棄して、2日目の昼にはバインダーを、ついに隣から借りてきた。エンジンで動いて稲を刈り結束するのだが、手でハンドルを持って方向を決めて行く。
 本格的なコンバイン稲刈り機ではないが、さすがに人間よりは早い早い、でも荒っぽい。

 稲は不規則に植えてあるし傾いたり倒れたりしているのに、機械のヤツはきれいに一列づつに立ち並んでいることを前提に動く設計らしいから、あちこちに刈り残しやら踏み倒しやらの稲が残る。まあ、それでも早いからしょうがない。

 もうひとつ今年の主義違反は、除草剤を入れたので、田の草取りをしなかったことだ。もっとも、これは田の持ち主が、私たちの知らぬうちに入れたのである。去年の私たちの苦労を見かねての好意であるらしいから、仕方がない。

 そろそろ暗くなろうとする6時頃に、ようやく最後の稲束のハサ掛けを終えた。
 その帰りの新幹線は事故の影響で満員立ちんぼ、ああ、でも稲刈り重労働に比べりゃ、これしきなんてこともない。横浜に帰りついたのが11時半。

 さて次は2週間後の脱穀精米である。ようやく食べられるのだ。
関連サイト「法末四季物語」