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2013/01/16

707豪雪3mの中の年中行事「賽の神」から戻れば東京横浜も豪雪10cm

 青空の東京を出発して、上越国境トンネルを抜けると越後は雪降りだった。
 ことしも法末集落の小正月行事「賽の神」と「初釜茶会」に行ってきた(2013年1月14日)。
 「賽の神」はこのあたりの昔から伝わる年中行事のひとつで、日本各地で「ドンド焼き」とか「左義長」あるいは「三九郎」と言われる小正月行事である。

●真っ白な法末集落



●私たちの拠点「へんなかフェ」は雪の中

 集落の中心部にあるキャンプ場の雪の中に、笹の葉がついたままの青竹を2本立てて、その周りに稲藁やマメガラを巻きつけて、藁でぐるぐると巻いて高さ6mほどの塔にする。
 藁やマメガラは、この日に備えて各家に保管してあり、各自が背負って持ってくる。わたしたちも稲刈りの時にとっておいた藁束を納屋から出して運んだ。
 塔の正面と決めたほうに、正月飾りやしめ縄類を塔にぶら下げ、その手前に雪で祭壇をつくって、お神酒や肴を供える。
 雪の降る中、ここまでを午前中に集落の男衆10数人があつまってやるのだ。毎年のことで、その協力の仕方も要領がよい。

 ●できあがった「賽の神」の前でわたしの喜寿記念撮影

 雪は降りやまないが、午後1時から行事開催、60人くらい集まってきた。
 このうち集落住民は4分の1くらいだろうか、それぞれの子や孫がこの日のためにやってきたのだ。めずらしく子どもの声が聞こえる。
 わたしたちは、毎年バスを仕立てて関東からやってくる。今年は15人がやってきた。中越大震災の翌年の2005年以来、毎年やってきている。

 今年は巳年なのでその年男や年女が、その塔の根元に火をつけることから行事が始まる。でも神事はない。昔はあったのだろうか。
 お神酒を祭壇から下げて、紙コップで参加者に配り、最長老94歳の正平さんが音頭をとって、祝唄「法末天神囃子」をみんなで歌うのも恒例である。
 正平さんはあい変わらぬ元気ぶりである。この人は太平洋戦争の悪名高い負け戦インパール作戦に参加した、数少ない生き残りである。

 燃え上がる藁から黒い灰が落ちてくる。これをコップ酒に受けて、藁の火であぶったするめや餅を肴にして飲めば、今年は無病息災。
 久しぶりの出会いの挨拶などしながら、降りしきる雪の中で、突っ立ったままの宴会は続く。
 子どもはみんな宴会に飽きて、そばの雪の斜面を登り滑りを繰り返して歓声を上げている。この集落で子どもの歓声を聞くことはめったにないから、大人たちも嬉しくなる。

 ●「賽の神」は燃え上がる。


 1時間ほどで、藁の塔はくずおれて燃え尽き、今年の賽の神もお開きである。まだ雪は降りやまない。
 さて次は、会場を屋内に替えて「初釜茶会」である。ぞろぞろと会場のやまびこ食堂に集まる。本式のお手前で立てた抹茶をいただくのである。
 集落の人々が神妙なお手付きでお茶いただく様子は、賽の神の陽気な気分と対になって、なかなかに法末らしい小正月の雰囲気を醸し出している。

 茶会は法末の新しい年中行事である。中越大震災の翌年に「復興見守り隊」として入った国際女性建築家会議日本支部(UIFA)のメンバーが始めたのである。
 初釜茶会は、いまではもう法末の年中行事に定着した感がある。
 わたしが乗ってきた貸し切りバスは、じつはUIFAのお茶会担当が法末に行くために出したので、それに便乗したのだ。

 おわって17時ころにバスは出発して帰途についた。
 ところがこの日、関東地方も北部から南部まで思わぬ積雪だそうで、交通路線は大混乱、かなりの渋滞が予想されるので覚悟せよとのこと。
 高速道路は閉鎖で、雪の一般道を南下するが、2時間近くたっても新潟県を抜けられない。このままだと東京着は、夜中の2時か3時ころとの予想である。

 そうなると東京からまだ南下するわたしは、電車が無くなってしまう。タクシー料金と新幹線代を比べ、さらに体力も考慮して即座に決断、越後湯沢駅で新幹線に乗り換えることにした。
 意外にもこの判断をしたものは15人中の3人だけ。なんだか仲間を置き去りにして逃亡する気分であったが、残る方もそれなりの判断であろう。

 わたしたち逃亡組は21時30分には東京駅に着いたのだが、後で聞いたらバス組は、やはり練馬ICを降りたのは午前2時ころであったという。
 そこから先もタクシー探し騒動やら、都心仕事場泊り込み始発電車帰宅やらと、大変だったらしい。
 それはそれで貴重な体験であるが、年寄りにはつらいから、われらが判断はよかった。

 それにしても豪雪3mで平然としている法末から戻ってみると、こちらは10cmで豪雪騒ぎであった。

関連サイト
法末集落の四季
中越山村の暮らし

2012/10/30

682越後の棚田天日干し新米と地元産野菜のお得なセットはいかがですか?

今年も棚田の新米ができた。今が一番うまい。
 2004年に中越震災復興支援で入って、2006年から耕作放棄田で毎年の米つくり、山村の棚田の米がうまいのは、深い雪が融けて土にしみ込んだ水のせいらしい。
 特に冷めたごはんがうまいので、握り飯が楽しみとなる。
 うまいはず、この棚田のあるところは、魚沼産コシヒカリとブランド名をつけることができる地域の境界から50mほどである。
 その棚田の新米と集落産の野菜を、わたしも出資する現地法人「株式会社 法末天神囃子」が販売中です。
=======================
 越後の天日干し棚田米と地元産野菜のお得なセットです
 小国町の山間地にある法末集落は棚田に囲まれた村です。
 雪解けの湧き水と標高300mの高地が美味しいお米を育てます。
 そのコシヒカリを自然の太陽の恵みの天日で干して、香りと甘味のあるお米に仕上げました。
 黒姫山と米山を望む棚田で育てられたコシヒカリを、暮れのご挨拶にいかがですか。

[セット1] 5,000円(送料込)
 プレミアム棚田米(天日干し)5kg+地元産野菜(1,000円相当) 
[セット2] 3,000円(送料込)
 プレミアム棚田米(天日干し)3kg+地元産野菜(500円相当) 
[セット3] 3,000円(送料込)
 美味棚田米(機械乾燥)5kg+地元産野菜(500円相当) 

●お問合せ・ご注文は下記まで
株式会社 法末天神囃子  販売担当 宮田裕介
電話:0258-95-3125 メールアドレス:miyata@h-tenjin.com
=========================

●参照
法末集落へようこそ
https://sites.google.com/site/hossuey/
株式会社法末天神囃子
http://blog.h-tenjin.com/
https://sites.google.com/site/tenjinbayashi/
法末の四季
http://homepage2.nifty.com/datey/hosse/hosse-index.htm

2012/10/24

680中越山村の美しい風景には柏崎刈羽原発からの死の灰の脅威が潜んでいた

熊五郎 やあ、ご隠居、元気かい。
ご隠居 ああ、熊さん、おまえはいつもうるさいね。
 え、珍しくご機嫌ななめですね。
 熊さんにあたってもしょうがないけど、ちょっと、聞いとくれ。まずこの写真をご覧よ。
 おお、いい景色だなあ、これ見て不機嫌なんて、ご隠居もモウロクしたね。
 そうじゃないよ、これは私がもう7年も通っている新潟県の山村だよ。
 ああ、いつもご自慢の法末集落でしょ。棚田の米がうまい、人情が厚い、四季の風景が美しいってね。
 そうだよ、いまはちょうど新米ができたてて、毎日3食とも美味い飯を食ってて、生きててよかったと思ってるんだよ。
 いいねえ、それなのに何で不機嫌なんです?
 じゃあね、これをご覧よ。

 地図ですかい、なになに、「柏崎刈羽原発事故で放射性物質が拡散した場合に避難すべき量が落下する方位別の原発からの距離」って、なんです、こりゃ?
 今日(2012年10月24日)、原子力規制委員会が日本の各地の原発事故によるシミュレーションを発表したんだけどね、その法末集落が避難するべき位置にあるんだよ。
 この赤い印のところが法末ですか、で、なんで避難するんです?
 それがだな、緑の線があるだろ、風向きのせいで、その線から原発に近い側は「国際的な避難基準である1週間の積算の被ばく量が100ミリシーベルトに達する地点」なんだそうだよ。
 それがどうしたんです?
 早く言えば、そこには核毒の死の灰が死ぬほど降り積もるってんだな。
 ウワッ、ブルブルッ、そうなりゃ美味い米も篤い人情も美しい景色もあったもんじゃない、なにもかも放り出して逃げるに限るってことになっちゃうんだ。
 そうだよ、わたしが通ってる自慢の村がそうなるなんて、不機嫌なわけがわかるだろ。まあ、この写真をご覧よ。
 ウワッ、冬の雪ですね。
 そう、4メートルも積もるんだ、今見えてるのは2階だよ、こうやって出入りするんだ。
 ってことは、もしも冬に原発事故あると、こんなふうに死の灰が積もったのが目に見えるんですね。
 これが毎日降ってくるから毎日雪堀りしなきゃ、閉じ込められて出られなくなるし、家がつぶれるんだな。でも、雪堀りすると死の灰を浴びてしまう、どっちにしても死ぬんだな。
 でも、まあ、明日や明後日にあるわけじゃなし。
 いや、いつ起きるかだれもわからないよ、福島の人たちだってそうだったんだから。
 そうですねえ、こわいこわい、ご隠居、こうなりゃ法末に通うよりも、国会議事堂や首相官邸周辺に通って、原発反対デモするんですね。
 国会デモには7月に一度行ったきりだが、またいかなきゃならないね。
 今度はあたしも連れてってくださいよ。 デモにも法末にも。
 こうやって自分の身近なことになって初めて目が覚めるんもんだね、なさけないけど。

(訂正:2012年10月29日に原子力規制員会が、24日発表の資料の訂正を発表したので、地図を差し替えた。どちらにしても法末は危ない地域である)
参照⇒原子力規制委員会の発表
http://www.nsr.go.jp/committee/kisei/20121024.html

2012/10/10

675のどかな法末集落の初秋風景はいつもの秋と同じようだが実は変化してきている

2012年、初秋の10月初め、法末集落を訪れた。
 5月の田植えのあと、草刈りにも、9月末の稲刈りに来ることができなかったので、4か月ぶりである。
 その間で何かが変わるほどのこともあるまいと思うのだが、やはり変わっていることがある。もちろん自然や農業の風景は変わるのは当たり前だが、人間の営み風景が変わっているのだ。


 では、久しぶりに集落を一巡してこよう。
 わたしたちが現地活動拠点の家(通称「へんなかフェ」)がある地区名は「おじゃんち」と呼ばれる。小千谷道のことである。


              (おじゃんち地区の全景)

 
「おじゃんち」地区には6軒の住家がある。今年はそのうちの2軒の家で土蔵が消えた。豪雪で傾いたので取り壊したのだ。
 そして今年は住む人の一部も変わった。一軒の家では家長がなくなり、年老いた女性の一人暮らしが始まった。これはこの集落では珍しいことではない。互いに助け合って暮らしているし、近くの街に暮らす子や親せきがちょくちょくやってくるのだ。

 この家長が耕作していた棚田を、集落の他の農家やわたしたちの仲間で引き継いだのである。そうやって集落の人々で農耕地を維持していくのである。だが、いつまで続けることができるだろうか。

 おじゃんち地区の中の空き家に、都会から新たな住人が入ってきた。その家からピアノの音が聞こえるのは、法末の新しい息吹である。
 こうして、おじゃんちの6軒の家のうち、3軒は余所からやってきた人が住んでいる。こうやって集落は存続していくのかもしれない。

この続きと全文は「棚田の稲刈りが終わった初秋の法末風景
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hosse201210




2012/05/16

619この冬の4mもの豪雪被害があちこちにあっても集落の暮らしにまた春がきた

中越山村の法末集落にも春がやってきた。ブナの芽吹きが美しい。
 一面の雪の下から顔を出して目覚めた村は、またいつものように田植えに忙しいシーズンになった。山菜も出盛りだ。

 この冬はものすごい雪で、法末集落は4mもの積雪であった。
 冬の間は毎日毎日、集落の人たちは必要なところを除雪して、雪害対策に怠りなく過ごすのだが、油断したり不能だったりで除雪をしないと、大変なことになる。
 道路のガードレールの類が、雪に乗っかられて車と違う荷重からガードができなく、ヘナヘナになってしまっている。
 
 鉄でも曲がるのだから、わたしたちの活動拠点の家の庭の竹藪は、すっかり折れて倒されてしまった。今年はたけのこが生えてくるだろうか。

 でも山の木はさすがにしぶといものだ。雪の間はその下で地に身を伏せていたのだが、雪解けとともに曲がった腰を弓のごとくに反り返らせて、春の日に芽を吹きつつある。

 家屋の屋根の除雪をしないで4mも積もらせてしまうと、そのとんでもない重みで軒が折れるのは当たり前、屋根の小屋組みをつぶされて落ちたり、そっくり倒壊したりする。
 放棄された空き家が、毎年の冬にだんだんと大型廃棄物と化していく。その人と自然の互いの営為を、わたししは定点観測として興味もって眺めている。
     
    <ある空き家の2009年の姿>
    <おなじく今年2012年の姿>

 わたしたちの拠点の家も、母屋は手入れしているが、蔵と渡り廊下は2度の震災による痛みと手入れをしていなかったので、とうとう今年の豪雪に負けてしまった。

 <「へんなかフェ」の蔵と渡り廊下の2007年の姿>
 <「へんなかフェ」の今年2012年5月の姿>

 さて、わたしたちの700㎡・3段の棚田での米つくりも7年目、先日は田植えの準備で畦を土で塗り固めてきた。これをやらないと、下の田に水が抜けるからである。
 田んぼから泥土をすくっては、長い畦の横と上に塗りつけていく。体力というよりも腕と腰に響く仕事で、一枚の棚田の半分もやったら、もう腰が痛くて退散した。
 棚田の中の足湯にも春が来た。休日はお湯が出ている。
https://sites.google.com/site/hossuey/

2012/05/11

618棚田の風景は美しいがその裏には大変な技術と労働があるのだ

今日の新聞にこんな記事がある。
 佐賀県玄海町の「浜野浦の棚田」で、田んぼに張られた水が玄界灘に沈む夕日で輝き、幻想的な光景をつくり出している。
 大小283枚の水田が11.5ヘクタールにわたって広がり、「プロポーズに適した場所」として、NPO法人・地域活性化支援センター(静岡市)による「恋人の聖地」の一つに選ばれている。町によると、棚田が夕日に染まる風景は、田植えが終わる20日頃まで楽しめるという。(2012年5月11日16時51分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/zoom/20120511-OYT9I00173.htm

そしてピンクの逆光に染まる棚田群の写真がついている。
なるほどなあ、「プロポーズに適した場所」ねえ。田舎風景の宣伝にしてはちょっとハネた感じ。
この新聞記事のように、棚田の風景は“見た目は”たしかに美しい。
ここで“見た目は”といったのは、その美しい風景の裏には、それを作り出した人々の、長い間の積み重ねた棚田特有の技術とたゆまぬ労働を想うからである。

実はわたしは明日から、中越山村の長岡市小国町の法末集落の棚田に行くのである。
中越震災の翌々年からはじめて7回目の米つくりの今年の最初の仕事として、月末予定の田植えの準備にいくのだ。棚田の斜面を治し、代掻きをし、畦を塗り、水路を整備したりするのだ。
棚田は棚と棚の間に大小の崖地斜面がある。もともとは傾斜地の自然地形を、水田として水を溜めるために棚の段々にしたのだ。
それらの崖は、自然の慣わしとしていつも崩れる方向に働こうとする。毎年どこかが崩れるので、その修復、維持、管理を怠ってはならない。
平地の広い田んぼと違って手間がかかるのだ。

自然地形を手作業で棚田にするときに、もっとも省力的な方法は等高線に沿うように伐って行くことだ。それらの積み重なりが等高線に沿いつつ曲線の複雑な形状になってしまったのである。好きであのような風景を作り上げたのではない。
今の技術なら土木機械で造成して、広く平らな田んぼにすればよいのである。それをやったのが、中越地震で崩れた棚田の復興であった。

そしてもっと複雑なのは、あの棚田群に一様に水を湛えるための水路システムである。
多分、はじめから設計したら、あんな複雑な棚田群に、円滑に水を送る灌漑水路の図面は描けないだろう。棚田を造るごとに工夫して、地下トンネルを掘り、水路を作り、溜め池を掘り、そうやって積み重ねて今の棚田群に水が来ている。
現場を見るとどうしてここにと思うようなところに、背丈ほどもない素掘りのトンネルがあったりする。
中越大地震でそれらの水路が壊れたために、棚田は無事でも耕作放棄となったところがずいぶんあった。

そして水路とともに複雑なネットワークは、農作業機械の通る農道である。
農作業用の機械がなかったころは人が歩いて行けばよかった棚田も、今では機械が入ることで棚田での米つくりが続いている。
現に機械の入らない棚田は耕作放棄されつつある。
ただし、観光的な棚田の保全は、これとは別の論理というか経済原理の外で成り立っている。

そういう手間がかかるのに、なぜ棚田で米を作るのか。もちろん山村にはそこしか田んぼがないからである。そして米つくりがいちばん安定した農業だからだ。
更に棚田の米はうまいからである。法末では水が地中からわいて来る。冬の4mもの豪雪が土にしみこんで、それが湧き出してくる。谷川の水よりも、うまい米を作り出すらしい。

さて法末集落で「プロポーズに適した場所」なんて宣伝したら、わんさと人がやってくるんだろうか。
きてもらっても困るだろう。狭い農道にたくさんの遊びの車に入られては迷惑である。ゴミばかり置いていかれても腹が立つ。
来客相手になにか商売をしようとて、自家用栽培の野菜でも売るか。
まあ、大量にこられても対応できないから、パラパラとでも来てもらうと多少は村にも活気が出るかもしれない。
でもやってくる人が多くなると、中には住んで百姓をやってみようかと思う人がないとも限らない。それは歓迎である。
まず、わたしたちのやっている米つくりの仲間になることからやってはいかが?

参照
●法末集落にようこそ

https://sites.google.com/site/hossuey/

●法末棚田ハザ掛け天日干し米つくり
https://sites.google.com/site/hossuey/home/hasakakemai

●法末集落の四季の風景
http://homepage2.nifty.com/datey/hosse/hosse-index.htm

2011/12/19

556大橋正平戦場物語

中越山村の法末集落は、今年もまた大雪になりそうだ。
 そこの最長老の大橋正平さんは、今年91歳。カクシャクたるものとは、こういう人のことを言うのだ。
 昨年のことだが、正平さんから戦場の話を聞いた。アジア太平洋戦争では悪名高い負け戦のインパール作戦の生き残りである。
 ここに正平さんとご家族のお許しを得て、わたしのインターネットサイトに公開する。
 オーラルヒストリーとして、ひょうひょうたる口ぶりで語る戦争の悲惨さを味わってみてほしい。

●参照→「大橋正平 戦場物語
https://sites.google.com/site/matimorig2x/%E5%A4%A7%E6%A9%8B%E6%AD%A3%E5%B9%B3%E6%88%A6%E5%A0%B4%E7%89%A9%E8%AA%9E


2011/11/01

518天日干し自作新米がやってきた

 さあ、今夜は自作のうまい米の飯だあ!
 中越の法末から新米コシヒカリが、先ほど届いた。
 わたしもメンバーの「法末棚田クラブ」の仲間たちで作ったものである。
 今回で6回目の収穫である。
 わたしは今年は、田植えと稲刈りの2回だけの参加だったが、実態は、会費さえ払えば、それだけで米ができるものではない。
 田植えの前の準備、田植えしてから水の管理と草取り、ハサつくり、稲刈り、天日干し、そして脱穀、精米、袋つめ、発送などなど、たくさんの仕事がある。
 指導してくださる地元の田の持ち主、ちょっと現地にはまって稲作をがんばってくれる仲間たちがいるからこそ、うまい飯に到達できる。感謝。
●参照→中越山村の四季

2011/09/22

498中越震災7年目の山古志と法末

 久しぶりに山古志を訪ねた。この前は中越震災から4年目の2007年の秋であった。ようやく一般人も山古志に入ることが許された年であった。
 そのときは2日間にわたって10数kmを歩いて、被災と復興の様子をながめたのであった。参照→
https://matchmori.blogspot.com/2021/07/yamakosi2007.html
 同じところを4年ぶりに歩いて、その後の様子をみる予定であったが、9月なかばというのに猛烈な暑さで、熱中症寸前になって予定の半分も歩けなかった。
 詳しいことは、まちもり瓢論に書くことにするが、少ないながら生活の場が戻っていることがうれしく、そして山古志闘牛が復活していたのがおどろきであった。

 歩いているときに、偶然にも今日は闘牛が開催と聞いて、次にまた来ることはなさそうだと考えて2000円を支払って見物。
 1000人は入りそうな野外のアリーナである。うちはなしコンクリート表現で、なんだかモダンなデザインである。
 お昼過ぎからの開演で、16組の闘牛である。2頭の牛が頭と頭、顔と顔、角と角を合わせて、ぐいぐいと押し合う。牛が巨大なので迫力がある。
闘牛の動画


 勝負に賭けるのかと思ったら、それは一切なしで、原則として引き分けにする。それでも見れば勝ち負けの分かる場合もある。

 どうもこの闘牛は、元は牛飼いの遊びが、今は金持ちの道楽になっているらしいようだ。山古志の集落で育てているオーナーもいるが、東京とか新発田とか岩手だとかにいるオーナーの牛も出てくる。肉牛とあわせて闘牛も育てているらしい。
 だから観光の呼び物ではあるが、元来は地元の人々や牛の飼い主が楽しんでいるらしい。ヤマコシハルウララなんて名の牛もいれば、大勝力なんてのもいる。
 何番か見て途中で会場を出て、バスで小千谷にくだり、法末からの迎え車にのった。

 次の日は一転して寒いような雨となった。朝から雨中で稲刈り、ハサかけの労働。暑いよりは助かるので、けっこう能率が上がった。
 今年は、小正月に来て賽の神の行事、5月に来て田植え、今回の稲刈りで3回目である。
 2005年から震災復興の手伝いでやってきだしたが、いちじは月に2回もきていたものだたが、もう疲れてきた。
 稲刈りも体力がついていかなくなったらしい。休み休みに怠けてやっても、腰が痛い、足が痛い。
 震災から7年、集落の人たちも老いたし、わたしも老いてきた。人口は減少しても増えることはない。

 さて、7年先の三陸は?、フクシマは?

2011/05/28

425田植えと原発

 今年も田植えに行ってきた。中越山村の法末集落の棚田での米つくりは、これで6年目である。
 福島原発の放射線が降る地域では、田植えができないという。思い出せば、こちらでも2007年の中越沖地震で柏崎原発に事故があった。そのときに法末には来ていたのだが、原発事故については他所事と思っていた。法末集落と柏崎原発とは20キロ離れているからだ。
 だが今回の福島の事故で、あのときも場合によっては20キロ離れていたとて、田植えなんてできないことになっていたのだと知った。
 どうも、なにか身に沁みる大事故が起きないと、自分のこととして自覚しないものだと、つくづく思った。
    ◆
 日本では何か世の中が変わるのは、外圧と人柱によるしかないのだと、これまでの長い人生経験でずっと前から思っていた。
 今回は太平洋からやって来た地震と津波という外圧、そして2万人を超える人柱という外圧と人柱の両方にぶちあたったから、日本も大きく変わるに違いないと思うのだが、どうだろうか。
 原発事故によって放射線が降り注ぐのも、自然という人間の制御できない外の世界からのゆり戻しだとしたら、これも外圧かもしれない。
 願わくばその福島原発で人柱が建ちませんように。
 というわけで、原発廃止の方向に世論が大きく傾くと思ったら、新聞の世論調査ではそれほどでもないのが、どうも不思議である。
 遠くのドイツでは廃止の方向にグルッとまわって政策転換したのに、火元の日本ではそうならないのは、どういうわけなのだろうか。
    ◆
 話は戻って田植えのことである。5月の半ば2日間で、天候に恵まれて3段の棚田の手作業による田植えができた。6回目となるとさすがに上手になって能率が上がる。
 もちろんその前に、代掻きやら肥料や除草剤散布などの準備が、田の持ち主がやってくださっているからだ。
 田植えの前の日に、六角なる道具を田に転がして、苗を植える位置の印をつけておく。いい加減な位置に適当に植えても稲は育つのだが、不ぞろいだと刈るときにバインダーという半手動手刈り機の能率が上がらないのだ。
 いまや機械で植えて機械で刈り取るのがあたりまえなのに、わざわざ手で田植えするし、手で刈り取るのだのだ。6年もやっていると、これは趣味としか言いようがない。
 ここに来ると自分たちが作った米を食うのだが、自宅には法末の営農組合から毎月10キログラムを送ってもらう。精米1キロが600円の棚田米は美味い、特に冷めても美味いので、知人たちにも勧めている。
    ◆
 田植えの頃は山菜の季節でもある。わたし達の拠点の家の庭でもウドやフキノトウが生えてくる。フキノトウはもう遅い。
 ちょっと歩けば、山ウドはもちろん、ミツバアケビの新芽、サンショウの葉、ヒメタケノコ、タラの芽、ワラビ、ゼンマイが、棚田の法面、耕作放棄田、林の中で待っている。
 毎日の自炊料理が、山菜の天ぷらやら和え物である。1週間つづけたら、さすがに嫌になってきた。
 山ウドが売るほど採れるので、秋にでも食べることにして、塩漬けにした。葉を落として茎だけを適当の長さに切って、樽に塩と交互にいれ入れつつ重ね、落し蓋をして錘を載せる。
 2日目に水が上がってきたので捨て、茎をビニル袋にまた塩と共に入れて樽にいれ、また重石をしておいた。食べるときは塩抜きをする。
 この豪雪でなだれで崩れた崖面もある。山菜取りは、見つけると採らずにいられなくなって夢中になり、崖から落ちることもあるそうだが、わたしもその資格は十分にあると気をつけたのであった。
自然環境に還る人文空間

追記
 田植えから20日、苗は順調に育っていると、M田さんからの現地情報。

2011/05/09

420原発から20kmの集落は今

 おお、柏崎原発から20kmだよ~、わたしが仲間と棚田米つくりをしている中越の法末集落のことである。2004年に中越地震で被災した山村だ。

 もう6年も前から行ってるのに、今頃になって気がついた、というか、気がつかされた。2004年中越地震、2007年中越沖地震とたて続けに大震災があって、柏崎原発も問題となったが、もうすっかり忘れていた。
 でもあの時、もしかして福島第一原発のようなことがおきていたら、どうなっただろうか。ことしも法末集落の田植えのシーズンがやってきた。福島ではどうしているのだろうかと思うと、中越だって現実のこととして考えざるを得ない。

2011/02/03

373積雪4メートル

ものすごい雪
最新情報の中越山村・法末集落のわたしたちの活動拠点の風景
左に見えている三角屋根は2階の上

こちらは2008年の1月の同じ風景
このときもすごい雪と思ったが今年に比べると幼稚園なみ
参照→山村の豪雪風景を見て考えこんだ

2011/01/17

368大雪の賽の神とお茶会

 今年の新潟は昨冬にも増しての大雪、その長岡の法末集落の小正月年中行事に行ってきた。
 わたしたちの震災復興支援仲間の活動拠点の「へんなかフェ」は、すっかり雪のふとんをかぶり、雪の綿の中に沈みこんでいる。玄関にたどりつくにはその雪をかき分けかき分けて、谷間のような廊下のような道をつくらねばならない。
 外の集落の道ももちろんどこもかしこも真っ白な谷間の廊下である。除雪車が毎日走って壁はどんどん高く、谷間はどんどん深くなる。
 久しぶりに大好きな囲炉裏に炭火をおこして粟餅を焼く。この餅は仲間が粟の実を畑に蒔くところからはじめてつくったものである。美味い。
 もちろんこれで暖をとるには寒すぎるか石油ストーブが燃えている。わたしは炭火をおこし、その火を見るのが好きなのである。ほかの仲間はどうも興味は無いらしい。
    ◆
 集落の小正月の行事は、賽の神という。
 会場は、集落の中ほどにある森の中のキャンプ場で、雪を均してある。朝早くから集落の家々から稲藁を持ち寄ってくる。
 集落の男達は、てっぺんに葉を残した竹竿を雪中に数本立てて、これに稲藁を添えて縄でまきつけて8mほどの上すぼまりの塔状に仕立てる。
 わたしたちも田圃の米つくりでとっておいたたくさんの藁束を、橇に載せて曳いて持って行った。10時半ごろ塔は建ちあがった。
 午後一時から行事を開始とて、集落の人たち、今日の行事に里帰りしてきた子供連れの家族、そしてわたしたち震災復興応援団17名も混じって、総勢40人余が取り囲む中を、恒例により年男二人が塔の裾の稲藁に点火した。
 配られたコップ酒の越の寒梅をそれぞれ手に持って、燃え上がる火を見つめる。
 90歳の長老が集落独自の祝い歌「天神囃子」のゆったりとうたい始めると、それに合わせてみんなで歌う。
 炎と勢いよく燃えあがり、森の中に煙が舞うと、黒い灰がみんなの上に降り、あたり白い雪も灰色になってくる。
 この灰を身にかぶり、コップに入った灰を酒と一緒に飲むと今年は健康に過ごすことができるのである。
 雪の上に立っったままでガヤガヤとしゃべりつつ、酒を飲み、火で焼いたするめや餅を食べる。
 集落にはいつもはいない少年や幼児たちが、よろこんで走り回っている。
 身内に不幸があった人たちは不参加なので、今年はなんだか参加者が減ったような感じである。
 いつも陽気な何でも知っている主婦のTさんが暮に逝った。歌の上手い長老のKさんは寝込んでいるそうだ。集落のリーダー格のSさん夫妻は、親戚の不幸で遠出だそうだ。
 でも元気な子供、幼児がやってきてよかった。
 降るったりやんだりの雪の日の賽の神のときだけ晴れ間が見えたのが不思議である。
 1時間ほどで藁の塔は焼けおちてしまって、解散。
    ◆
 さてその後は、新年大茶会である。
 これは賽の神のような伝統行事ではないが、仲間の女性建築家たちに茶道の心得のあるものたちがいて、5年前からはじめたのだ。今では集落の年中行事になっている。
 元小学校の「やまびこ荘」の食堂に集った一同は、神妙に机にむかって腰を掛け、正面で立礼式でお茶をたてている和服の女性たちのお手前を神妙に見ている。
 やがて配られたお菓子、抹茶をいただく。これを始めた頃はみんな戸惑っていたが、今は、お作法にそって堂々といただいている。
 幼児たちも神妙に、大きな抹茶茶碗に顔を突っ込むようにして飲んでいる。男の子は、ニガ~イとすぐ口を離して顔をしかめ、女の子はオイシ~イと飲んでいるのがおかしい。
 外は雪や霰の吹雪が降ったりやんだり、時には青空も見えたりと忙しく天候が変わっている。冬の中越のいつもの天気である。

参照→豪雪の山村で考えこんだ

2010/11/04

345【法末の四季】法末にも秋の色が濃い

中越山村の法末に秋がやってきた。棚田の米の穫り入れはもう全部終わった。
 今年の夏は暑すぎた。それなのに不思議なことに水は不足しなかった。こんなもうすぐ尾根になる谷川もないところなのに、どのような水路のネットワークがあるのだろうか、深雪が土中に蓄えられているのか。
 わたしたちの棚田の米の収穫は、去年の8割くらいだった。味は良いのだが、見たところ白濁粒が混じる率が多いようで、透明感に欠ける。
 売り物としては、一等米の率が少ないのはそういうところにあるらしいが、わたしたちは見た目よりも美味ければそれで良いのだ。
 もうすぐやってくる豪雪に備えて冬支度にとりかからなければならない。
この前の冬は豪雪で2メートル以上積った。道路は集落共同の除雪機がまわるけれど、自分の敷地内は自分で除雪しなければならない。
 しばらく留守にすると、庭に積った雪が屋根の雪とつながって、家はすっぽりと深雪に包まれてしまう。
 雪かきと言わず雪掘りというくらい深い。年とると雪国の冬は暮しにくい。
 家を放棄して街に暮らす人が増える。廃屋が増える。冬の雪がやがて廃屋を押しつぶし倒壊させる。そこに蔦が絡まり、木が生えてきて、そうやって村は自然に還って行く。
 四季の風景は、四季ごとにそれぞれ美しい。人間はいなくなっても、自然は全く自立的にその姿を四季ごとに装う。
 ●参照→山村の四季を愉しむ

2010/09/22

320【法末の四季】今年の稲刈り

中越の棚田の山村・法末での米つくりは4年目に入った。先日、今年の稲刈りをしてきた。日照りで水不足と聞いていたが、実際はよく実っていた。棚田の場所によっては水不足もあったらしいが、わたしたちの田は大丈夫であった。
 3枚の棚田のうち、初日の午前中に下の一枚を3人で刈り取った。バインダーなる機械を使ったから、3人でも効率が上がった。
 後からやってきた7人を加えて10人で、その日の午後と次の日の午前中ですべて刈り取り、ハサ掛けを終えた。2週間後に脱穀である。
   ◆
 集落では超高齢化が進んで、農作業から離れていく人たちがボツボツと出てくる。
 わたしたちの仲間は、今年はこれまでところに加えて更に2枚の棚田をつくった。この棚田は、去年までは元気であった長老格の人のものだが、体調が悪くて仲間が米つくり支援を引き受けた。これは仲間の一人ががんばって刈り取った。
 ほかにも米つくりを撤退しようかという人もいるそうだ。現実に耕作されていない棚田があちこちに出現している。
 まだ元気だが近くの街に引っ越して行き、こちらの家は農作業用にしている通勤農業の人もいる。あるいは高齢の親を支援して、近くに住む息子夫婦が農作業にかよってくる例も多い。
   ◆
 80人いるかどうかの集落だが、毎年1~2人の死者が出る。入ってくる人はいない。
 この冬は自死者があったそうだ。この男性は首都圏のある都市からこちらに10年位前にやってきた。年金生活者のようであったが、モダンな家を建てて、山野草や盆栽が趣味であった。
 いちど訪ねてその沢山の鉢植えを見せてもらったことがある。解説を聴いたがこちらにその趣味がないのでよく分からない。周りの山の中から珍しい品種を採集して育てるのだそうである。なるほど、こういう趣味でここに住むのは、それなりに目的に適うものであると知った。
 そんな積極的な生き方をしているように見えた人だったのに、この冬、山中の深い雪の中で遺体が見つかり、覚悟の自死であったという。
 それ以上の詳しいことは知らないが、考えようでは、この山里を死に場所として選んだのかもしれない。生きがいのある場所でもあったが、死にがいのある場所でもあったのだろうとも思う。
 この「死にがいのある場所」とは、なかなかに深い含蓄があると思うのだ。
 自分の終焉の場を自分で選ぶのは、実際は難しい。美しい山野があり、清くて深い雪のあるこの地を選んだその人の気持ちが、おぼろげながら分かるような気がする。

2010/07/21

294【法末の四季】地中から湧き出る赤い水で染める「法末赤渋染め」を開発したぞ

 中越震災復興支援中の山村の法末集落に、田圃の草取りに行ってきた。稲は青々と育っている。
 5月末の田植えの最中に、白い帽子を泥田に落として汚してしまった。そのとき思いついて、これを泥染めにすることにした。昨年の田圃仕事で着衣にはねてついた泥が、その形のままに泥土色に染まっているからだ。
 ならばこの愛用のアメリカ製のホワイトハットを、泥で染めてみよう。積極的に染めるならばこの田圃の泥土色の泥ではない、もっと良い色にしたい。

 ちょうど、わたしたちのいる家の近くの崖地から、朱色の泥を含む水が湧き出ているのだ。
 多分、鉄分を含んでいるのだろうが、朱色とクロームオレンジの中間ぐらいの鮮やかな色である。このままの色に染まると実に美しいに違いないと思いついた。

 さっそくに朱泥を採集してきて、バケツに入れて水で掻き混ぜる。その朱色の溶液に白い帽子をもみながら漬け込む。
 しばらく置いておいて、もうよいかなと引き揚げて洗うと、朱は流れていって、あとはまだら薄黄色汚れみたいで、どうも調子が悪い。
 泥水につけて真っ赤になったと喜んでも、洗うとただのまだら黄色汚れになるというくり返しばかり。
    

 その日は横浜に帰宅するので、帽子は泥をしっかりつけたままに室内に干してきた。乾燥させてるうちに染まるだろう、ってなもんである。
 じつは泥染めという言葉は知っていたが、やったことはない。単に思いつきだから、赤い泥をつければ赤く染まるだろうくらいのいい加減さであった。
 簡単には染まらないもんだとわかって、そこは工業大学の卒業だから化学や繊維学の専門の知人がいる。かれらにいろいろメールで聞いてみたら、染料とか顔料とかいろいろ教えてくれた。

 こちらは染料も顔料も区別がつかないのだが、わかったことは、朱泥の粒を1ミクロン以下にすれば、繊維の間に入って定着するらしいことであった。
 粒子には大小があっても、泥水の上澄みにはそれくらい微細な粒子が入っているので、それで何回も染めればよいらしい。
 さて、その超微粒子をどうやってつくるのか。そういう精密機械はあるらしいが、高価なものらしい。

 これに米作り仲間の1人がおおいに興味を示してくれて、磁器性の乳鉢を買ってきた。採取した赤泥をこの乳鉢で乳棒で細かに摺りつぶすと、1ミクロン以下になるというのである。
 そんなこんなで2ヶ月がたち、今回の草取りでの法末行きである。このまえ室内に干しておいた赤泥つき帽子は、仲間が一度洗って干してくれていた。

 原料の朱泥のようにはいかないが、それなりに渋い赤と黄色の中間ぐらいに染まっていて、それはそれでけっこう良い仕上がりである。
 手染めのようなムラもあって好ましい。洗濯機にかけてみたが、色落ちもしない。よしよし。
    
 見れば囲炉裏のほとりには、例の乳鉢と採取した泥の塊がおいてある。今日は来ていない仲間が用意しているようだ。
 それではと、赤泥を乳鉢に入れ、ゴリゴリと陶磁器のスリコギで練っていく。ねっとりとした粘土状の赤泥になる。
 これをポリバケツの中で水で溶いて濃い赤泥液ができた。

こんどはティーシャツ作りである。ザブンと漬けて揉んで揚げて、また漬けて揉んでを繰り返す。いつだったかどこかで見た藍染めの仕事を思い浮かべる。
 適当なところで物干しに吊り下げると、おお、いい色である。だが乾燥すると粉が吹いたようになり、水をかけるとまだら黄色になってしまう。

 そうか、藍染めのように何回も繰り返すしかないのだなと、漬ける干すを繰り返していると、指が朱色に染まってくる。おお、これでは朱屋高尾だなって、次第に職人気分になってくる。
 この染がうまく行くなら、法末土産に赤染ティーシャツをつくりたいねと、仲間と話している。
 ネーミングはさしずめ「法末赤渋染」か。
    
 この法末にくることになったきっかけの2004年に中越地震があり、そのあと2007年の中越沖地震もあって、それら2度の揺れで、わたしたちの拠点としている民家の内壁も一部が剥落している。
 米作り仲間たちが、その剥落した塗り壁の修理をする壁塗りプロジェクを始めたのである。それは集落の人たちにも公開して、左官仕事のプロの指導も受けつつ、進めていった。

 その床の間の壁の仕上げの漆喰に、帽子を染めた朱泥を混合したところ、なんともいえず趣味の良い黄色味を帯びた良い色となったのである。もとはあまり品のよくない緑色の模造ジュラク壁であったのが、実に品よくなった。
 問題があるとすれば、今の住人の仲間達が、この床の間を床の間として使っていないことであろう。ついつい物置のようにしてしまうのである。
 2階の床の間も剥落があるのだが、一箇所くらいは震災記念に剥落のままにしておくこともよいと、わたしは思っている。

(追記)化学を専門とする友人が、朱泥を微細粒にする方法を教えてくれた。
 「ボールミル」なる器具があるそうで、それは乳鉢に代えて磁器製の蓋付容器を、乳棒に代えてゴルフボール大の磁器製塊状物数個を用いるものである。普通は電力でまわすのだが、水路でごろごろ回す水車式芋皮剥装置にボールミルを仕込んで、法末の水路に据えるのだという。
 なるほどそれは面白い、やってみたい。実は足湯のそばで水車がまわっているのだから、それにボールミルを取り付けさえすればよいのだ。
 次の問題は、そのボールミルをどこからタダで仕入れてくるかである。


参照→中越山村・法末集落の四季

2010/05/25

269【法末の四季】山村の棚田で今年も田植えをしてきた

 中越の棚田で、仲間10人と田植えをしてきた。久しぶりの法主集落である。
 この冬は、この豪雪地の住人たちさえも話題にするほどの、まれに見る大雪だった。
 行く道の回りにある杉林のあちこちに、幹が途中から折れた跡が、白く痛々しく見えている。
 わたしたちの拠点の民家も、屋敷周りに植えてある杉の木のうちの2本が、根元近くからボッキリ折れた。モウソウ竹も何本も折れ曲がっている。
 北隣との境のケヤキの木は、雪で危ないので隣の方が伐った。庭木の松ノ木も、支柱にしていた竹が支えきれなくて倒れた。
 母屋と土蔵とを結ぶ廊下が、震災で少し傾いていたのが、雪の重みで傾きが進んだようだ。次の冬も大雪になったら倒壊するかもしれない。
 それでも春がくれば、スギナの草原になった庭には、花が咲いて風情がでてくる。タケノコやらウドも生えてきて、美味い料理になった。
   ◆
 田植えする棚田は合計で5段で5枚ある。昨年までは3枚で、今年は2枚増えた。
 さすがに5枚もとなると、あわせて2000平米近くなって、これまでにように遊びでやっているのだから田植えも稲刈りもなんでも人力でやってみよう、ってわけには行かない。
 3枚は田植え機で、広い2枚を手で植えたのであった。手で植える田には、あらかじめ六角という6角柱の木の梯子のような道具を転がして、碁盤目を土につけておく。その交点に植えていくのだが、なにしろ水中にあるから歩くそばからにごって見えなくなるので、ある程度は適当にやることになる。実はいい加減間隔に植えると、あとで困ることがあるのだが、まあいいや。。
 ウグイスを聞きながらの田植えは、腰の痛いのは兎も角としても、なかなかに風流なものであった。
 新たに増えたのは、その持ち主の住民の方から、もう疲れたのでやってくれないかと仲間に話があったので、できるだけ支援してみることにしたのだ。
 限界を超えた集落だから、このようなことが次第に起きてくるだろう。農業後継者がまれな時代だから、集落では珍しいことではなくて既にあちこちで起きていることである。たまたま今回はわたしたちが話を受けてやることになったのだ。
   ◆
 考えてみれば、この集落にはじめて仲間が来てからもう6年目、米作り体験も4回目の季節に入った。
 こうやって話を持ってきてくださるのは、仲間の努力で集落の方たちから信用される立場になったということであろう。
 しかし、農業技術があるわけではないし、毎日いるのではないから、作業方法や日常管理は地元の方の指導に頼らざるを得ない。
 これから米つくり体験の場を増やすわけにもいかない。増やすなら他から人を連れてくるしかない。仲間の中にはそんな実験を始めようとしているものもいる。
 しかしこれから先、どの棚田も誰かが耕作継承とか支援をすることはできないから、放棄棚田は増えてくるだろう。そのままにしておけば、草が生え木が生えて次第に森に還っていくのが、日本の自然の強さである。
 自然はそれでもよいと思うのだが、人間の高齢化は元に還ることはないから、集落はどうなっていくだろうか。集落縮退計画なるものが必要だろうか、あるいはそのような計画がありうるものだろうか。思案する。
●参照→●中越山村・法末の四季
    ●中越法末・四季物語