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2016/12/27

1242【東京駅周辺徘徊その2】ナントカランドになっちゃった東京駅丸の内駅舎の歴史についてご隠居と八五郎の10年ぶりの長屋談義

東京駅周辺徘徊その1】からの続き

八五郎:ご隠居、元気ですかい。
隠居:おや、八ッぁんかい、ひさしぶりだね。うん、元気だよ、口だけは。
:先日ね、10年ぶりに東京駅のあたりをぶらぶらしてきましたよ。いやもう超高層ビルがびっしりで、あたまのうえあたりが鬱陶しいったらないね。あんなにビル建てる場所ありましたっけ。
:いやいや、建ち並んでた高層ビルを、もっと高く太く次から次へと建てなおしてきてるんだな。
:壊す費用だって莫大だろうに、それでも儲かるんですね。でも東京駅だけは低いままに建て直してましたよ。
:あれは建て直したのじゃなくて、戦後修復した建物に3階部分を増築して、ついでにお化粧直ししたんだよ。いわば再修復だけどね。
:そういえば、そのことで10年前にご隠居と長屋談議をやったことがありましたね。どうせならもっと高く建て直しゃよかったのに、なんでです?
:うん、まあ、昔の形に戻してみたかったんだな、その化粧代金が500億円かかったけど、もっと髙く建てられる権利、つまり頭の上の空気を売って調達したんだね。
:すごいねえ、ホントに空気を金にするんだもんねえ、人間はキツネやタヌキ以上ですね。
◆このあたりの詳しい談議はコチラ
 
:ちょっと東京駅の歴史を振り返ってみようかね。これが1914年にできたときの写真だよ。
:そうそう、10年前の姿から今はこの姿に戻ってましたよ。赤くてキンキラで派手なもんで、ナントカランドみたい。1914年にこれを見た日本人は、そのキンキラキンの西洋建築に圧倒されたでしょうねえ。
:その頃の日本は、日清、日露、日独って10年ごとの戦争に勝ち続けて、先進の西欧列強に並ぶ帝国になる背伸びを始めた発展途上国だったからね、このような成り上がり的建築にあこがれたんだよ。

:でも、次のアメリカとの戦争では負けちまって、東京駅は敵からの空爆で燃えてしまったのでしたね。
:そう、1945年5月のこと、屋根は燃え落ち、内装は全焼、でも煉瓦壁やコンクリ床は燃え残った。
:創建から31年目ですよねえ、もったいない、でもまあ、東京中が燃えたんだからしょうがないや。

1945年3月10日の東京大空襲で炎上し屋根がなくなり壁だけになった東京駅

:そこでね、燃え残った煉瓦壁や床を再利用して応急修復したんだよ。それができたのが1947年のことだった。
:その戦後修復東京駅が2007年まで見えていた姿だったのですね。
:そうだよ、それが60年間もあった。創建時の姿は31年間だから、戦後修復の姿の方が2倍くらい長くあったんだね。
:戦後応急修復建築にしては、エラク立派なものでしたねえ、今の姿からキンキラキンを取り除くとあの姿でしたねえ。
:そうだね、あの金も物資もない時に、機能的には要らないものなのに燃えた3つのあのデカいドーム屋根まで作り直したんだからねえ、よくまああそこまで立派に修復したもんだよ。
:かんがえようによっては、あのままでこそ重要文化財級でしたね、対清露独戦勝+対米敗戦記念碑だったんですものねえ。


:それが1970年代の終わりころから、国鉄は赤レンガ駅舎を高層ビルに建て直したいといいだし、歴史文化好きの市民たちは保存しろとか、建築史関係者は辰野金吾の設計だから復元しろとか、あれこれ騒がれてきたんだね。
:どこかの市長が、壊すならうち市のの公園に移築してひきとる、なんて言いましたね。
80年代半ばの世の中のバブル景気と国鉄民有化政策も絡んで、いろいろあったけど結局は「東京駅周辺地区総合整備基礎調査報告東京駅専門有識者委員会が「現地で形態保全とし、政府もそう決めたんだな。そのときに空中権の移転も示唆されているよ。
それで今のようにキンキラキンの昔の姿に戻すことに決めたんですか。今や時代は右寄り、なんだか復古調の世の中ですからね。
いや、専門家の委員会では、復元せよとは言っていないよ。わたしは戦後修復の姿で保存するべきと思っていたけど、その後に復元する方向になったらしいね。
:そう、建築の世界じゃあ、古い姿ほど価値があるって思い込みがあるでしょ。わたしたちの時代の歴史的意義が深い戦後修復よりも、1914年の姿が価値があると思うらしいですよ。
:でも、復元たって実は半分上は2012年にコピーして作った新しいものなんだな、へんだよね。やっぱりナントカランドが好きなだけなんだろ。
:じゃあ、三菱1号館美術館と大差ないですか。
まあ、これらキンキラ出現もまたひとつの歴史ではあるけどな。ただねえ、あの戦後修復の姿は、日本の愚行と不幸を今に眼に見えて伝える戦争と復興の記念碑だった、それが消えて惜しいことをしたよ、国鉄建築家の伊藤滋の修復デザインとしても秀逸だったしねえ
2012年にキンキラキン化粧の1914年の姿に戻った現代の東京駅

:ところが、そのナントカランドキンキラ新東京駅もまわりから攻められてますよ。前後左右からガラス箱大入道集団に襲われているみたいですよ。
:そのガラス張り超高層は、東京駅空気を売った先のビルなんだな、だからあんなにもデカいんだな。
:そうか、お化粧代として空気を売ったら、お返しとして日陰になった、あ、そうか、身を売って日陰者になっちゃった。
東京駅が上空の空気を売った先の6つのデカビル

:身を売った先ばかりじゃなくて、これからどんどん大入道が建ち並ぶらしいよ。これは八重洲側の開発について最近その事業者が発表した絵だよ。
:おやおや、乱杭歯のように立ち並ぶねえ。

:さてさて、この先どうなるのだろうねえ。
:ちょっとそれを描いてみましたよ。どうですかい、もちろん、いい加減な推測戯画ですよ。
:うわっ、どうせならこんな乱杭歯じゃなくて、金屏風を立てたように都市デザインすればいいのにねえ、キンキラ新東京駅がもっとキンキラキンになるようにね。

:あ、そうだ、こんなのもありますよ。ほれ、30年ほども昔々に建築家の丹下健三からの提案があったでしょ、辰野金吾デザインをそのまま高さ100mにするって、それを絵にしてみたんですよ、
:うわ、すごいねえ、あ、そうそう、わたしは丹下事務所でその模型を見たことがあるよ、ほう、これなら東京駅自体が金屏風、いや赤屏風になるんだな、わはは、う~む。

つづく


東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)


2016/12/24

1241【東京駅周辺徘徊その1】東京の丸の内と大手町は今やデブデカ超高層ビル群おしくら饅頭なんとも鬱陶しい景観

派手に着飾った東京駅はいまや八重洲側の開発で背景もこんなに賑わってきた
まだ歯抜け背景だけど続く開発でこれから乱杭歯が建ちならぶので乞うご期待

 久しぶりに東京駅下車、1985年頃から毎年2回くらいは定点観測し続けてきたのだが、さすがにもう飽きた。
1960年代末から80年代半ばまで、東京駅北口にある事務所に通勤していたので、八重洲・丸の内・大手町の30年前の姿が脳裏に刻まれている。
 特に、1980年代半ばに政府の仕事で東京駅周辺再開発計画を担当したので、表面的なことばかりではなく、ある程度は深く知ることもあった。
 その後も、このあたりが中高層ビルから超高層ビルへと、都市景観が変化しつづけるのを観察するのが面白かった。

さて、久しぶりの丸の内・大手町は、建築群がここもそこもかしこも高く髙く太く太く大きく大きくと、一途に増殖し肥満し続けているのであった。すごいのだが、どこか狂気のごとくも見える。
 昔の超高層建築は細くて高くて孤立していたから、すらっとして格好が良かったのだが、今どきの超高層建築はデブデカ肥満児というか巨体に成長して、しかも群れているのである。
 それらデブデカ建築群がおしくら饅頭でひしめきつつ、道の両側からてんでにワラワラと覆いかぶさってくるのは、なんとも鬱陶しいものである。

 建築を作品として鑑賞する気にならないのは、鑑賞するような建築がないのか、それともこれほど立ち並ぶとよほど奇抜なデザインでないと見るべき建築にはならないのだろうか。例えば三菱一号館美術館のようにクラシックコピー建築にするとか。
 摩天楼の街のニューヨークやシカゴのような建築的面白さが、丸の内と大手町にはないのだ。

 1988年であったか、丸の内の大地主の三菱地所が、いわゆる「三菱丸の内マンハッタン計画」なるものを発表して、超高層の墓場のような将来像が不評を買ったことがある。
 そしてそれから30年ほどの今の丸の内・大手町は、中高層ビル群は次から次へとガラスの石塔群に建て替えられて、超高層ビルが雨後の竹の子のごとくたちならんでいる。あまつさえ超高層ビルを壊して超高層ビルに建て替えることさえやっている。
1988年丸の内三菱マンハッタン計画の丸の内俯瞰図

2015年 上の絵とほぼ同じ視覚の丸の内俯瞰画像(google earth)

 マンハッタン計画が発表されたころは、バブル景気初期の頃で、東京のオフィス需要がものすごくなる、それに対応しようとてあれこれあったものだ。
 この計画への世の批判は、その墓場の如き漫画的お絵かきもあったが、基本は丸の内・大手町の都市計画としてその大規模な集中に対応できるのか、そしてまた東京一極集中を助長して国土計画として適切か等であった。

 わたしがこの絵を見て思ったことは、1966年から1年ほど起きた景観論争のことである。超高層の東京海上ビル計画が発表されて、高いビルは皇居を見下ろすのでケシカラン、いや高いビルこそ先進国であるとか、反対賛成の論争である。
 建築家たちは賛成、知識人は反対という構図であった。その頃に誰もが思った基本的な疑問は、超高層建築群がつくりりだす都市景観は、はたして美しいものとなりうるか、という思いだった。

 このとき反対の企業側の急先鋒は三菱地所であった。三菱の反対論の底には、19世紀からえんえんと築き上げてきた丸の内の不動産価値の大きな変動への不安であったのだろう。
 世間も業界もすったもんだ、総理大臣まで介入、行政不服審査にもなり、あれこれの末に、では高さ100mまでにしましょうよと、とくに根拠もない業界手打ち、以後しばらく100m丸の内だった。
 それが三菱丸の内マンハッタン計画は高さ200m提案であるから、20年後の大変節にわたしは笑ってしまった。(美観論争についてはこちらを参照

 その後、バブルパンクとか平成大不況とかリーマンショックとかいろいろあったが、いま見る状況はマンハッタン計画はとにもかくにも実現しそうというか、既に実現してしまったという姿である。
 それはもう底が抜け落ちたというか、天井が破壊しつくされたというか、。
 では、あの頃の批判とか問題をすべて乗り越えることが、東京都心も日本もできたということなのだろうか。う~む、とてもそうとは思えないのだが、。

 そんな摩天楼景観をきょろきょろ見上げて眼も首も疲れるが、ふと、昔ながらの8階建て程度のビルを見つけると、おお健在かと懐かしく見つめるのだった。
三菱地所が「ビルヂング」と命名していた頃の、そんなビルがまだいくつかある。たぶん、建て直しを待っているのだろう。
右端は丸の内超高層第1号の東京海上ビルだが周りが高くなって埋没、
中央の銀行協会ビルは建替えた超高層ビルをまた壊して超高層建替え中

アートで暑苦しさをなんとかするか

こんな笑える自然の広場もある

巨大開発中工事場にとり囲まれてポカッと空いた将門塚は
今どきでも祟りがあるとて誰も地上げしない真空エリア

将門塚を取り囲むこの開発は祟りがあるかもなあ
建築主、設計者、施工者そして入居者のみなさまお大事に

あそこに見える8階建て「ビルヂング」は今や貴重な「低層」建築

そのひとつに「日本ビルジング」があったが、ここの中にあった事務所に通勤してたのだ。
 いま、その前を通れば工事用の囲いがビル全体を覆っていて、解体中であった。こんどは跡地に日本でいちばん高いビルを建てるとか。
日本一床面積が広かった日本ビルも解体中、跡には日本一高いビルができるとか

いまから30年ほど昔だが、東京駅周辺再開発計画の仕事がらみで、このあたりの写真をたくさん撮ったことがある。そのほかにも画像を数多く収集しており、今はそれらがPCの中にある。久しぶりにそれらを取りだして、今の姿、将来を並べてみよう。
 30年前はビルに入って外を撮影するのは難しくなかったが、いまではシャットアウトばかり、しょうがないから、俯瞰写真の一部はgoogle earthのお世話になって比較する。

1987年 東京駅八重洲口大丸屋上から丸の内方面俯瞰
東京駅は復元前、左から中央郵便局・丸ビル・新丸ビル・旧国鉄本社いずれも建て替え前

2017年 東京駅八重洲口の建替え後の大丸12階便所から丸の内方面俯瞰
東京駅は復元後、左から中央郵便局・丸ビル・新丸ビル・旧国鉄いずれも建替え後


1987年 八重洲口大丸屋上から北西方面俯瞰
駅前広場の北にある国鉄本社ビルがまだ健在

2015年 上とほぼ同じ俯瞰(google earth)
左は建替後の新丸ビル、中央に国鉄本社建替後のオアゾ

東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)






2015/05/24

1092【消されゆく戦争の記憶】5月25日の日本の悲惨な記念碑の東京駅を70年経つと積極的に改装して記憶を消してしまった

 5月25日は、東京の悲しい記念日なんだけど、それがなにか知っていますか?
 深夜数時間のうちに死んだ人7415人、22万戸が燃えた、しかも天災じゃなくて人災によって。そう、1945年のこと、戦争である。
 USAB29爆撃機が、東京都心に焼夷弾をばらまいたのだった。

 「日米開戦以来当局は、『東京の守りは万全で、敵一機たりとも侵入を許さない』と発言し続けてきた。にもかかわらずB29はゆうゆうとして侵入。・・・ 
 当夜は 警報発令後数分にして駅前広場に焼夷弾が落下、一面火の海と化した。とみるうちに降車口が焼夷弾を受け出火した。ホテルの部屋続きのため、延焼を防ぐため バケツを持って駆けつけたが、火を吹いてるのは天井でバケツを必死に操作しても火に届かない。
 駅側に手押しポンプ一台があったが、それも役に立たなかっ た。かくするうち、西端の食堂部分からも発火、続いて中央郵便局も火を吹き始め、それまで微風であったものが一五㍍ぐらいの強風が西側より吹き荒れ始め た。・・・

 これは1945年5月25日の深夜、空襲により炎上した東京駅丸の内駅舎にあるステーションホテル支配人だった井上三郎さんの手記の一部である(「東京大空襲・戦災誌」第2巻763ページ)

 その前の1945年3月10日には、罹災者約100万人、焼失家屋は約27万戸、東京の3分の1以上の面積(40平方キロメートル)が焼失した。このときは東京駅は罹災しなかった。
 あまりにも多くの死者で、その数は明確ではないが推定10万人とされる(「東京大空襲・戦災誌」第1巻26ページ)。たったの2時間半で10万人が死ぬ惨劇であった。
 なお、1923年の関東大震災の死者が10万人~14万人と、これもあまりに多すぎて正確な数字はわかっていない。

 その前、日本が太平洋戦争を始めた次の年の1942年4月18日、さっそく東京は米軍機による空襲を受けていたのだった。
 日米開戦以来当局は『東京の守りは万全で、敵一機たりとも侵入を許さない』と発言し続けてきたから、誰もが びっくりし当局でさえもうろたえた。
 この初空襲では、下町方面が爆撃を受けて死傷者346名(死者39名)。焼失破損家屋251戸であった(東京大空襲・戦災誌第2巻22p)。

 というわけで、今朝の朝日新聞に戦後70年連載記事として、1945年5月25日の空襲に関連して、その当時の建物の写真と被災した人の記事が載っている。
 このような庶民の悲しい歴史は、70年も経つと埋もれてしまうから、今のうちに発掘しなければなるまい。

 だが、8年前までは、そのような東京の悲惨な5月25日の記憶の記念物のなかでも、東京だけでなく日本中の人々が知っていた、最も有名だったを戦災記念の建築物があったのだ。
 そして、それを積極的に消滅させてしまった事件があったことを、覚えている人はどれくらいいるだろうか。

 それは、東京駅の赤レンガ駅舎のことである。
 赤レンガ駅舎は1945年5月25日に空爆により炎上したが、木造内装や鉄骨などは燃えたが、赤レンガの壁などは残った。
 鉄道省はすぐさま修復にとりかかったが、終戦を経て、占領軍からの要求なども取り入れて、1947年に修復が完成した。

 その修復された姿は、設計者である辰野金吾(1854~1919)の西洋様式意匠への憧れ時代の下半身に、修復設計者の伊藤滋(1898~1971)のモダニズム意匠の上半身が、実に巧みに乗っていた。
 あの物資がない戦争直後の時期に、よくまあ、あれほどのことができたものである。
戦後修復による東京駅赤レンガ駅舎(2007年再度修復開始直前の姿)

 まさにそれは戦争とそこからの復興の記念碑であり、修復デザインのお手本と言っても良かった。
 それが2007年に壊されるまで60年も保っていたのだから、それは戦災前の1914年から31年間よりも倍も長かったのである。

 それなのに、あれは仮の姿だから早く元に戻したいものだと、世間では言うし、辰野金吾の系譜にある東大系の建築史学者もそういう。多くの建築家もそう言った。
 そして東大大御所の伊藤滋(1931~修復建築家と同姓同名だがこちらは存命の都市計画家)と鈴木博之(1945-2014)がその音頭をとったのが、このために発明した特例容積制というという都市計画の荒業であった。東京駅に身売りをさせて、500億円の御化粧代を稼いだ。
 その金を使って今の辰野金吾式の賑やかな花魁頭の昔の姿をレプリカコピーで再現してしまった。戦争と復興の記念碑としての価値に見向きもせずに、。
 そして誰もそのことによって、あの日本の悲劇の記念碑が消滅したことを、考えようとしない。

 「あれは仮の姿だから、昔に戻そう」という言葉で連想するのは、「あれは占領軍に押し付けられたから、、、」という、どなたかたちの声高の発言によく似ている。
 そういえば東京駅修復も、占領軍からの推進圧力があった。道路が悪い日本では、鉄道が全国占領統治策に有効だから、その中枢機能(RTO)として東京駅修復が必要だったのだ。

 その現実の価値よりも、出自に問題があるというのは、まるで人種差別みたいなものである。
 戦争が終わって70年、東京駅が炎上して70年、あの戦争記念碑を積極的に消滅させて、あの戦争を積極的に忘れようとしている今の時代を、なんだか怖い。
再度修復でコピー再現された現在の東京駅 
容積移転制度で東京駅が身売りをした揚句がもたらした超高層の風景

●参照
東京駅復元反対論
https://sites.google.com/site/machimorig0/#tokyoeki

2012/11/01

684東京駅復原出戻り譚(その5)東京駅ライトアップは昔からやってたのに急にミーハーで賑わう丸の内


 なんだか東京駅あたりの丸の内が、近頃は休日も夜もにぎやからしい。
 昔は(年寄りはすぐこう言う)丸の内なんて夜は暗いし、休日はガラ~ンとしてさびしかったものだ。
 1988年に4省庁の東京駅周辺再開発レポートを出した八十島委員会での討議でも(わたしはその作業班メンバーだった)、丸の内に百貨店などを誘致してにぎわいをもたらすべきだという意見が出されていた。
 それから四半世紀後の今、こんなににぎやかになるとは、世の中は変わったものだ、と、歳よりは慨嘆というか感嘆というか、ホーッと息を吐くのである。

 噂だけではつまらない、さっそく夜の東京駅に出かけてみると、いるはいるは、お上りさんばかり、という形容はもう古いが、近くからも遠くからもミーちゃんハーちゃんがやってきて、駅の中も駅前広場もウロウロとケータイをカメラにして振り回しているのであった。
 つまり、わたしも今夜はその一人になったのである。

 ふ~ん、赤レンガ東京駅はこうなる前からライトアップしていたのに、そのころはたいして見向きもされなかった。今やディズニーランド並みである。
 前もディズニーランド風ではあったが、復元してますます磨きがかかって、こういうのをディズニーランダイゼイションというのだな、よくわかったよ。
 丸ビルも新丸ビルも東京駅も、中はまるでデパートというか、飲み屋街というか、現代版路地裏というか、たまたま土曜日だったからか、わんさと人がいて飲み食いしている。

 丸ビルから撮った昔の東京駅夜景写真を、同じアングルで今と比べてみたら、今は巨大背後霊をいっぱい従えている。そのなかのひとつは東京駅自身の身売り先であるな。

 これは只今の東京駅夜景。

こちらは2005年の夜景。

 その丸の内側の身売り先のひとつである新丸ビルからの夜景。

 駅前の二つの老舗の中央郵便局と丸ビルも、お化粧なおし山高帽子かぶり再登場。ウゥ~イ、ヒック、酔眼になってきた。



●参照→ 東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2012/10/21

679東京駅復原出戻り譚(その4)戦災復興東京駅は世の噂のように本当に仮の仕事だったのか

 東京駅の赤レンガ駅舎は、1945年5月に空爆によって炎上して、残ったのはレンガ壁とコンクリートの床だけになった。
 その壁と床を再利用して再建したのが1947年の「復興」東京駅で、2007年まで62年間を姿を見せていたであった。
 1914年の「創建」東京駅が姿を見せていた1945年までは32年間だから、「復興」東京駅のほうが寿命は長かった。
 そして2012年10月、こんどは「復旧」東京駅が姿を現した。創建時の旧の姿に戻ったのだから「復旧」なのである。また新たな東京駅の歴史が始まった。

 ところで、今回の復原というか復元というか復旧というか、その姿を現した東京駅赤レンガ駅舎を、なぜ戦災前の姿にしたかという理由について、世にこんな噂が流れている。
 それは、戦災後の復興東京駅は、金がなくて元の姿に復旧することができなかったので、とりあえず使えるように応急措置として作り、そのあと本格的に建てる予定で、2、3年も保てばよいような全くの仮の仕事の建物であったからだ、というのである。

 まったくの仮のものという人は、敗戦後の焼け野原の東京に累々として出現した、そこらあたりのありあわせの材料を使って造ったバラック建築と同じだと言いたいのだろう。
 ではそのバラック建築であったと言われる「復興東京駅」を、いま姿を現した「復旧東京駅」と、ちょっと比べてみよう。

 一般に良く見えるもっとも大きな違いは、南北二つのドームの外観と内観、そして外壁である。
  南と北のドームについて、復興と復旧両東京駅の風景を比較する。
 まずは外観、これらを見てどれほどの違いがあるか、わかるだろうか。

これは戦後復興東京駅(2004年撮影)

これは今回の復旧東京駅(2012年撮影)

 そう、復旧東京駅は丸頭、復興東京駅は台形頭である。復興東京駅が仮の仕事なら、切妻の3寸勾配のトタン屋根でもよかったろうに、なぜこんなに巨大な台形ドームを造る必要があったのか。

 当時の東京駅復興の工事現場で設計と工事管理のトップとして采配を振るっていた、鉄道省の建築家である松本延太郎(1910~2002)が書いた「東京駅戦災復興工事の思い出」(1991年自費出版)という本がある。
 そこに松本の上司であった建築課長の伊藤滋(1898~1971)が、ドームの根元は8角形、上に行くと4角形になるドームをつくることを指示したことが記されている。高さは戦前のドームと同じである。
 これは決して仮の姿ではない。

 ドームの中の天井デザインを比較してみる。
 これは戦後復興東京駅のドーム天井(2003年撮影)

これは今回復旧東京駅のドーム天井(2012年撮影)

 今あらわれた復旧東京駅のドームは、華やかな西洋宮殿風に見えるが、よく見ると上部では和風建築の折り上げ格天井をモチーフとしていることも分かって、その折衷ぶりが面白い。
 これに対して戦後の復興東京駅の天井は、まるでローマのパンテオンをベースにして、モダンデザインを展開したように見える。
 これは戦争終結で生産が止まった飛行機工場に残った、戦闘機の材料のジュラルミンを成形したのだそうである。

 このデザインは、上記の松本の本によれば、工事現場で設計監理を担当していた鉄道省の建築家たち12人がデザインコンペをして、今村三郎の案が採用されたとある。
 仮の仕事なら真っ平らに天井を張ってもよさそうなものだったのに、この頑張りはいったい何なのだろうか。

 外壁をみよう。戦後の復興東京駅は2階建て、今回の復旧東京駅は3階建てである。
これは戦後復興東京駅(2006年撮影)
 
これは今回の復旧東京駅

 戦後復興の工事のときに、3階の屋根と壁を取り壊して2階建てにしたので、レンガ外壁についている装飾付け柱(ピラスター)も上部をちょん切られて、柱頭部には何も飾りはないはずだが、上の写真をよく見ると、柱頭飾りがある。
 仮の仕事ならちょん切られたままでもよさそうなものを、わざわざ3階にあったと同じ柱頭を付けて、柱には短くなってもバランス良いように膨らみ(エンタシス)もつけ直したそうである。丁寧な左官仕事であった。まったくもってご苦労なことである。

 だが、さすがに裏側(東側)までは手が回らなかったと見えて、こちらはのっぺらぽうの赤ペンキ塗りであった。これならまさに仮の仕事といえる。西側外壁にいかに力を入れたかよくわかる。
         
戦後復興東京駅の東側の風景(1987年撮影)

 ほかにもいろいろとデザインと工事の苦労を書いている。
 日本が疲弊しきっていた当時、鉄道省の仕事だからこそできたのだろうが、鉄道を使って資材を全国から集め、戦争から本来の仕事に戻った鉄道省建築家たちの努力に頭が下がる。
 この本をどう読んでも、そしてできあがった戦災復興東京駅をどう見ても、それは仮の仕事ではなかったと、断言できる。

 JR東日本や建築界の方々は、辰野金吾にばかり目を向けず、鉄道省の伊藤滋(復旧東京駅づくりの音頭をとった同姓同名の都市計画家と混同しないように)や松本延太郎たちにも、しっかりと目を向けてはいかがですか。
 特にJR東日本の建築家の方たちは、ご自分の先輩たちに、もっと敬意を表してはいかがですか。

 わたしは復旧東京駅の出現を怪しからんとか残念に思っているのではなく、新たな歴史が始まったことに興味津々なのである。
 だが、あの復興東京駅への評価が、あれは進駐軍に命令されてやった仮の仕事だ、としてさげすむのが、わたしは気に食わないのである。
 まるで日本国憲法への右のほうからの言い分みたいである。

 さて、復旧東京駅を、これから建築や都市関係専門家たちがどう評価し、社会人文系の専門家たちがどう評価するか、楽しみである。        

●参照
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2012/10/17

678東京駅復原出戻り譚(その3)お供に引き連れて戻ったノッポビルに取りま巻かれて日陰者になったなあ

 わたしが1987~88年に撮った東京駅とその周辺の写真がある。これは国が行った東京駅周辺再開発調査(これで保存が決定)のときの資料だが、今の風景と見比べると実に面白い。
 髷を結い直し、簪を取り揃え、真っ赤に紅の厚化粧で出戻ってきた赤レンガ東京駅は、たくさんのお供を引き連れてのご帰還である。そのお供のどれもが大男(大女?)であるのが、ご自分の背が低いだけに目立つのである。

 まずは東京駅の真正面からの、出戻り前の姿である。

 出戻り前の姿の左端に見える2棟の超高層ビルは、大手町の東海朝日ビルと新日鉄ビルである。中央の屋根の左右に少しだけ黒く見えるのが、八重洲口の大丸百貨店(鉄道会館ビル)である。
 
 それが出戻りしてきた今は、5棟も超高層ビルを従えている。

 これらの中よりの2棟が、赤レンガ駅舎の不利用容積率を移転した八重洲側にあるビルで、まさに連れ戻ったお供である。

 連れ戻ったお供のっぽビルは、丸の内側にもたくさんいるのだ。
 東京駅のホームを越えて丸の内側を眺めよう。
 肝心の赤レンガ東京駅舎は、中央線ホームが高いので屋根しか見えない。

 この写真は、八重洲側の北にあるのっぽビルの下層部に移転した大丸百貨店の12階の便所から撮ったものである。この便所の窓は巨大な一枚ガラスで、小便しながらの眺めが実に宜しい。たいていの便所は裏のほうにあるのに、この便所の設計は素晴らしい。

 で、ご覧のようにこちらにはぞろぞろとノッポお供がいる。このうち赤レンガ東京駅が容積を移転した先は、左端の新東京ビル、その右隣のJPタワー、中央の丸ビルを飛ばしてその右の新丸ビル、このほかにJPタワーの陰にあるパークビル、これらの4棟である。
 だから八重洲側の2棟と合わせて6棟が、赤レンガ東京駅のお供である。

 では、4半世紀前の丸の内側を眺めよう。
 これは1987年10月に、八重洲口にあった大丸百貨店の屋上(10階か11階か忘れた)から撮った。

 東京駅の三角ドームと赤レンガ壁(赤ペンキ)がよく見えるのは、中央線ホームが今のように高くなっていないからである。
 周りはスカイラインが31mでそろっていることがよくわかるが、赤いタワーの東京海上ビルをはしりとして、スカイラインが崩れつつあることもよくわかる。

 これから25年、先の写真のようになったのである。わが身のお化粧代を稼ぐために、わが身を切り売りした結果が、ノッポお供に取り巻かれて、なんだかいつも日陰になってしまった。
  ♪ あれ、なにをいわんすか、あたしゃ日陰者じゃないわいなあ~

 では上空からの眺めを、1997年と2011年の比較をしてみる(google earthより)。
 まず1997年である。

次は2011年である。黄色い矢印が、敷地を超えての容積移転である。特定街区、特例容積率による移転例だが、ほかにもあるかもしれないが、全部は知らない。

八重洲側も大きく変化中である。さてどうなるのだろうか。

●参照→
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2012/10/13

676東京駅復原出戻り譚(その2)今や人気者東京駅の隣で誰も見てくれない気の毒中央郵便局JPタワー


 ようやく腰を上げて、昔の姿で出戻りした東京駅を見てきた。
 実はわたしは見なくても、20年以上の研究知識と近頃のネット情報で、どうなっているか分かっているのだが、一応は見ておかなばなるまい。

 で、現実にはわかっている通りであった。
 だが、ちょっと驚いたのは、なんだか見物客がやたらに多いことであった。南北ホールでは、顔やカメラを上に向けている人がやたらに多い。
 外にもカメラはもちろんだが、東京駅外観を絵を描いている人があちこちにいるのであった。

 たしかに見物に値する異様な景観が出現した。
 ディズニーランドが出張してきたようだというと、けなしていると思う人もいるかもしれないが、わたしは褒めているつもりである。よくぞまあ、コピーをここまで成し遂げたものだという意味である。
でも、わたしはあのホールのデザインは、なんだか好きになれない。前のパンテオンデザインのほうがはるかに良かった。(下図)
南北二つのドームがあるのだから、どちらかひとつは戦後復興の姿で「保存」してほしかったと思うのである。これを戦争直後に作り上げた人たちの努力は、すさまじいものがあったのに、それには敬意を表しないのだろうかと、わたしは不満である。
 参考までに、その人たちの努力を書いたわたしの記事東京駅復興(その1)を読んでください。

 ただ、わたしは思うのだが、わたしのような東京駅に特別の関心のマニア、あるいは建築史に精通した専門家は別として、ごく普通の人々の眼には、この復元した姿がどのように映っているのだろうか。
 こうやって再現した戦前の東京駅を見た人は今やごく少数であるが、戦災から戦後復興した東京駅を見た人は、ごく普通にわんさといる。

 だがさて、その戦後の姿を見てきた人々に、今の姿はそのどこが変わったのか、わかるのだろうか。
 なんだかキレイになったなあ、屋根を葺き替えて壁のレンガもきれいに洗ったなあ、なんてその程度であろうとおもうのだが、いかがか。現にわたしの息子は、そんなことを言っていた。

 これは世の庶民をバカにしているのではなくて、一般に建築への関心はそんなものである。これを読んでいる、専門でないお方たちに聞いてみたい。
 念のために、今回の復原前の姿を載せておく。冒頭の写真と比べてください。

 東京駅に人気に比べて、お隣の中央郵便局の改築(JPタワー)に目を向けている人は、皆無といってよい。誰も写真を撮らないし、誰も写生していないのである。
 こっちだって、あちこちから保存せよとなんやかや言われて、東京駅に負けない苦労して一部保存して、つい先日やっと復元したのに、この人気の落差はどういうことだ、こんなことならぶっ壊して立て直せば苦労しなかったのに、なんて、JPタワーは嘆いているに違いない。
 やっぱり芸者厚化粧姿の東京駅に、モダンすっぴん姿の中央郵便局が対抗しても、庶民の人気はとてもかないっこない、らしい。

 民営化した郵政会社がこれを壊して建て直すと発表したとき、ひと騒ぎあったことを、庶民のだれが覚えているのだろうか。
 建築の専門家たちが、中央郵便局は吉田鉄郎の設計で、日本モダニズム建築のお手本だ、だから保存すべきだと叫んだのだが、東京駅の時ほどの保存の声は庶民からは上がらず、しょせん専門家のコップの中の騒ぎであった。
               (2012年、東京駅と中央郵便局のどちらも復元工事後)

 と、そこに鳩山邦夫さんという切手マニア?が登場、中央郵便局は新発売切手を買いに通った親しい建築であった(?らしい)。
 彼がたまたま時の郵政所管大臣だったので、地位を利用してかどうか知らないが政治介入して、この郵政建築への愛着と保存を言い立てたのだった。
 これに、一般ジャーナリズムが飛びついて、郵政民営化騒動にからめて面白おかしく記事にした結果が、今の形での部分保存復元である。
      (2008年、東京駅と中央郵便局のどちらも復元工事前)

 でも、隣に派手な東京駅ができたら、一般ジャーナリズムはそっちに気をとられてしまった。東京駅はニュースにとりあげても、JPタワーをとりあげないのである。
 庶民はあの時の騒ぎは忘れて、なんだか超高層がもう一本立ったなあと思うくらいなものである。  

 復元した東京駅が好きな庶民は、このJPタワーにはほんとは感謝するべきなのである。
 だって、東京駅の余剰容積率の一部をこのタワーが買ってあげたから、そのお金であっちは復元できたのだからね、その功績者の写真を撮って、写生もしてあげたら、どうですか。
 復原した中央郵便局の内部もご覧ください。あの8角柱がちゃんと立ってますよ。
 
●関連ページ
101東京中央郵便局と保存原理主義
 105中央郵便局再開発と都市計画
522紙ヒコーキ超高層ビル
022文明批評としての建築
093歌舞伎座の改築
585出戻りお目見え近い東京駅姐さんと紙ヒコーキビル

東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
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