2014/07/24

974往生際の悪い世の老人どもはウェブサイト終活をどうやってるんだろうか

 例えば、たくさんの本を出版している人は、死んだあとのその本のことをどう考えているのだろうか。まあ、本は物質だから、いずれは自分の後を追って消えてしまうから、それでいいのだと考えるのだろう、と思う。
 ところが、本ではなくて、ウェブサイトに載せている本、つまり電子本の場合はどうするのだろうか。まあ、いずれ買う人がいなくなるから、それでいいのだ、なのだろうか。でも、紙の本と違って、自然に消滅はしない。

 こんなことを考え出したのは、だれかが忘れられる権利とか言い出して、ネット情報屋さんが、申告した人の情報を消すということがニュースにあったからだ。
 わたしはニフティに入会したのはもう30年以上も前だったか、そこのサーバにはわたしがナンダカンダと乗せている論文や雑文類が、数えきれないほどある。
 最初の日付になっているものは、学生時代の卒業研究の学会発表論文だから、半世紀分以上の駄文集である。
 つまり、これはわたしにとっては人生アーカイブスである。あのころはこんな言っていたのだと、たどることができる。

 わたしが死んだら(死ななくてもボケたら)、プロバイダーとの契約は不要になる。契約を切ったら、頼まなくてもわたしの「まちもり通信」サイトは削除されるのだろう。
 まあ、それでよいのだけれど、若干は未練が残る。
 そこで考えたのだが、ニフティは金の切れ目が縁の切れ目だろうから、こちらが会費をはらわなくなると「まちもり通信」サイトは消えるだろう。
 でも、補完的に併用しているグーグルサイトは無料だから、こちらが死んでも先方は気が付かない。だから、わたしの駄文を、死後もサーバーに保管してくれるのだろう、たぶん。

 ということで、死ぬかボケの準備として、ニフティサイトの駄文類をグーグルサイトにコピーする作業を始めた。
 こっちがニフティサイトHP
  http://homepage2.nifty.com/datey/index3.htm
 こっちがグーグルサイトHP(まだ制作中)
  https://sites.google.com/site/machimorig0/

 ヒマだからいいようなものだが、これがまあ、分っていはいたが、コピーする数が多いので大変である。いちいち文をコピーしてグーグルサイトのページに移し、写真をダウンロードしてこれまたアップロードと、原始的極まりない。
 いまどき、もっと簡単なやりかたがあるのだろうとも思うが、知らないからしょうがない。
 それに、もっと今どき流のちゃらちゃらデザインにした方が良いのかもしれないが、もともとが読みたいお方だけが読めばよろしいって態度で作ってるんだから、これでいいのだ。

 でも、やってて面白いのは、自分の人生アーカイブスをたどるのだから、そうか、あのころのオレはこう考えていたんだな、今と大差ないなあ、とか、もっといい考えがあったのになあとか、客観的に人生を振り返ることである。
 まさにこれは老人の遊びである。

 そういえば、終活という言葉があるらしい。人生の終りのための活動のことであるから、今わたしがやっていることは、気がつけば終活であるのだった。
 そうだよなあ、オレの歳ならそうだよなあ。でも往生際が悪いよなあ。
 ほかの往生際の悪い老人どもは、自分のウェブサイト終活をどうやってるんだろうか。

 あ、そうだ、話を本のことに戻して、今ある何千冊かの蔵書をどうするのか、この終活もやらなきゃならんなあ。だれかほしい人いたらタダであげるんだけどなあ。
 都市系、建築系、民俗学系、能楽系、近代史系など、けっこう自分では面白い本があると思ってるんだけどなあ、もっとも、ずっと積ン読の未読本が多いなあ。
 ちょっと、終活したい本棚の一部をお見せします。昔は自分が何を読むのか見せるって、かなり恥ずかしかったのになあ。ほしい本があればメールを下さい。





2014/07/21

973ゴミがゴミを呼ぶ、ゴミが増える

●ゴミがゴミを呼ぶ
 「大型ごみ」なるゴミを初めて捨てた。布団10枚である。横浜市のごみの捨て方リーフレットを読んだら、布団は2枚で1点に勘定して、1点ごとに200円を支払う。
 支払い方はコンビニ店で大型ごみシールるなるものを買ってきて、捨てるゴミに張り付ける。これを収集してもらうために、市清掃局に連絡をして、日取りを決める。電話でもよいが、わたしはインターネットで予約した。

 わたしの住む共同住宅の1階に、ゴミ置き場があり、大型ごみの置場もある。
 今日の回収予約なので、早朝に運んで出した。既に先客大型ゴミが大勢いる。
大型ごみ収集待ち状況
ところがシールを張ってあるものもあるが、ほとんどが貼っていない。 しかも、今日や昨日に出したものではない。置きっぱなしの大型ごみである。
 これはいったいどういうことなのだ。まったくもって、この共同住宅の住人ときたら、、。

 どうも、最近になってこの違反大型ゴミが増えてきたようである。去年の春に、清掃担当者が辞めて、別の人になってからその傾向が著しい。
 前任者は、違反ゴミを玄関先にもってきて注意を促していたし、整理整頓をよくやっていたから、捨てに来る人もそれなりに対応し
大型ごみ収集後、置き去りの違反ゴミ
ていたようだ。ゴミ置き場がきれいだった。

 ところが、こんどの清掃担当者は、ある程度散らかってから整理する。散らかったゴミは散らかったゴミを呼ぶ傾向があるので、加速度的に散らかってくる。
 ゴミだし違反者は、違反とも思わなくなってくるらしく、違反ゴミが増える。困ったもんである。


●ゴミになりかけたプリンター
 3年使ってきたキャノンのプリンターが、故障した。廃インク吸収材が満杯になったから取り替えろと、サインが出る。しょうがないので買った店に修理に出した。
 13日目に治ってきて、代金11500円、買った時の価格が23000円だったから、まあ、しょうがないかと支払った。
 
 ところが、1週間使ったらまたストップした。しょうがないからまた修理に出した。また11500円請求されるなら修理しないで捨てよう、新しい安いプリンターを買おうと考えた。
 これをゴミに出してよいのかどうか、ゴミだしリーフレットを見たら、50センチ以下ならプリンターも燃えるゴミだという。このプリンターはピッタリ50センチだから、燃えるごみである。あんなものが燃えるのだろうか。

 さて、今度は15日目に治ってきた。無料であった。さすがに1週間で故障再発では、金をとるわけにはいかないのであろう。では、この前の修理は何をしたのだろうか。 
 とにかくそれで、こいつはゴミにならないで済んだのであった。
 戻ってきたプリンターに、何処を修理したか書いた紙が貼ってあり、最後にこの度はご迷惑をおかけ致しました。今後とも、品質向上に努めてまいりますので、キャノン製品のご愛用のほど、よろしくお願い申し上げます」と結んでいる。

 これって、「ご迷惑をおかけ致しました」だけ、つまり、迷惑をかけた認識はあるのだが、それは悪いことである認識はないらしく、「お詫びいたします」とは一言も書いていない。
 故障修理を続けて2回もやるドジをしても、それが当たり前で、迷惑かけっぱなしでも、お詫びはしないキャノンであった。 
 また1週間で故障するではあるまいなあ。

2014/07/17

972「安全だと言わない」という原子力規制員会委員長は委員会設置法違反のような

 昨日(2014年7月16日)、原子力規制委員会は九州電力川内原発1、2号機(鹿児島県)について、「新規制基準に適合している」とする審査書案を定例会で了承したので、これでもって政府は安全のお墨付きが出たので、再稼働へGOサインを出すというニュースである。

 ところがメディアのニュースには、田中委員長が記者会見で「基準への適合は審査したが、安全だとは私は言わない。」と言ったとある。
http://mainichi.jp/select/news/20140717k0000m040063000c.html
 え、そういうものなのかい、規制委員会でしょ、規制に合うようにしたから、規制解除してもよい、だから「安全になった」のじゃないのか、どういうことなんだろ?

 しょうがないから、「原子力規制委員会設置法」なるものを読んでみた。
 その目的は、第1条「原子力利用における安全の確保を図るため必要な施策を策定し、又は実施する…中略…、もって国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資する」とある。
 ほら、「安全を確保」って書いてあるでしょ?
  
 じゃあ規制員会の任務は何かと読めば、第3条「原子力規制委員会は、国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資するため、原子力利用における安全の確保を図ること」とある。
 ほら、「安全を保障」して「安全の確保」と書いてあるでしょ。

 それなのに、委員長が「安全とは言わない」と言うことは、川内原発は安全じゃないんだよなあ。
 だから、メディアが報じる様に、安全じゃないものを政府が再稼働にGOサインを出すって、そんなことがあるはずがない、そうにきまっている、、、そう、、だよね、。

 ということで、新規制基準に合っているかどうか審査するってことは、文字通り調べて査定して、委員会設置法の任務にもとづいて、その原発は「安全」てことにしたんだから、それを「安全とは言わない」という委員長は、原子力規制委員会設置法第3条違反である。
 もしかして、委員長は原発に対して、ひとりの科学者として、一定の矜持を示したのかもしれない。
 だが、矛盾は矛盾である。設置法違反の行為である。

 その規制基準そのものの意味を問われないままに、規制基準に合いさえすれば安全というは、まるで解釈改憲と同じじゃないか。
 なんとか3原則とかって新基準に合いさえすれば、第9条の本質の意味を問わないままに戦争の加担するってことと、ほぼ同じような気がする。
 そうやって、今度もまた「解釈安全」をやるらしい。原発に対する市民の「集団的自衛権」はどこかにおかれている。


2014/07/16

971【五輪騒動】新国立競技場計画用地は既に解釈改憲で風致地区除外同然になっているなあ

 2020年世界運動会のメイン会場に予定されている国立競技場の建て替えについて、今度は別の団体がシンポを開いて、批判をしている。
 環境アセスメントの権威者の原科幸彦さんたちである。
http://www.youtube.com/watch?v=vKtdrLUQKRE

 建築家たちの議論が、コンペ基準や審査や都市計画への手続き不信という、どこか後追いの内向き方向なのが、わたしは気になっていたが、どうやら神宮外苑を中心とする環境という外向きの議論に広がってきたのが喜ばしい。
 コンペ手続きのこと、デザインのこと、景観のこと、事業費と税負担のこと等を総合して、オリンピック競技大会がもたらす自然的社会的環境影響評価へと、広い視野を持つ批評へと展開しはじめている。

 だが、この大規模建築事業阻止への戦略・戦術が、まだ見えない。
 手遅れ感も見えるなかで、政界経済界庶民歓迎オリンピック雰囲気のなかで、なにがこれからできるのだろうか。
 シンポの最後にパネラーから、「オリンピックを来なくするのだけはやめて下さいッ!」と発言があったので、わたしのような世界運動会観戦スポーツアホバカ論者には、なんとも居心地が悪い。 

 ところで、先日のシンポジウムの映像を観ていて、気になったことがある。
 新国立競技場の計画地区は、都市計画の風致地区に指定されている。都条例で建築物と敷地についていろいろ制限があるが、分りやすいのは高さを15m以下にせよということである。
 現段階の新国立競技場の高さは65mであるらしい。だから、特別扱いをしなければ建てることができない。
http://www.city.shinjuku.lg.jp/seikatsu/kenchikusc01_000555.html

 シンポ会場から、JIAのメンバーと名乗っている人から発言があった。JIAだけではなんだかわからないが、多分、日本建築家協会の略称だから、この人は建築家なのだろう。だから建築にかかる制度についてはプロのはずだ。

 発言の要旨は、「新国立競技場の建築を、計画通知の手続きで通すには、風致地区を外す都市計画手続きが必要なので、渋谷区や新宿区の区長や区都市計画審議会に、そうしないように働きかける」とのことである。

 だが、どうも、渋谷も新宿も、それはやらないでもOKってことにしてあるらしいのである。
 東京都風致地区条例とその許可基準を読むと、テキはぬかりなく既に2013年から2014年にかけて改定してあって、そのあたりはすらすらとクリアーできるようにしてあるんですなあ、残念ながら、、、。
 それはなんとまあ、神宮外苑の新国立競技場区域に限る「S甲地域」という、特例許可基準を新設してるんですよねえ。SはspecialのSなんでしょうねえ。

 このS甲地域許可基準を読むと、これはもう風致地区の趣旨をを放棄したも同然、つまり解釈改憲じゃなくて解釈改法になっている。
 これなら憲法改訂じゃなかった、風致地区を除外する都市計画変更をするべきだろうが、憲法改訂と同じで、そりゃもう揉めてしまうだろうから、こうやって行政の中でできる許可基準を変えたのだろうなあ。

 JSCは(実務は日建設計+日本設計+梓設計+アラップジャパン)、この許可基準に従って新国立競技場を設計しているに決まっている。
 いや、まてよ、設計に合わせるように許可基準の方を変更した、とするのが正しいかもなあ。

 その中身を簡単に言えば、地区計画で高さが緩和されることになっていれば、風致地区規制もそれに従うってこと。だから、建築都市計画行政としては、75mまで建てることができるように、既になっているのである。だから、建築都市計画行政手続きとしては、都市計画審議会を開いて決定する必要は、既にないのである。

 この風致地区での特別扱いの手続きは、JSCが新国立競技場の計画通知(民間の確認申請に相当する)を通すためには、新宿渋谷両区の区長と協議をすることになっている。
 民間の事業者なら区長の許可だが、国の機関だから協議である。官尊民卑か。法的には、協議しさえすれば、協議が整わなくて物別れになっても、協議した事実があればよいのだろう。まあ、いまどきそうもいくまいから、許可基準を読むと、協議もこれに準じると書いてある。

 で、準じたらどうなるかと言えば、上に書いたように、高さ75mまでOKなのである。
 渋谷区や新宿区の担当役人たちは、だって、こう書いてあるんだもん、いまさらゴチャゴチャいわれも困るんだよなあ、って思っているだろう、、たぶん。
 今になって何かやるとしたら、計画通知が出る前に、許可基準をまた変更させるってことかなあ、それには政治的な働きかけしかなさそうだなあ、、、、。

 このシンポで森まゆみさんが、「東京都の都市計画審議会には、建築の専門家も都市計画の専門家もいないのが、非常におかしい、専門家を入れるべきだ」と言っておられる。
 たぶん、委員の中には、「わたしは専門家だよ」って、いう人ももいそうだが、まあ、なんにも発言せず、審議していないことも事実である。
 まあ、こうやって、都市計画審議会への一般からの関心が高まってくれると、この騒ぎも意義あることだなあと、思わないないでもない。横浜都計審で嫌になってしまった経験者としてはね、、。

 実はこの映像を観たのは、あの名前だけは知っている浜野安宏さんが、どう発言されるんだろうか、ってのが、わたしの興味だったのだが、、え、こんなお方だったのかあ、う~む、、、、、。

 ということで、建築家はその専門領域である都市計画を勉強してほしいなあっていいたい、自ら行動を起そうとしない徘徊老人の小言でした。

参照
【五輪騒動】新国立競技場・神宮外苑・2020五輪運動会騒動瓢論
http://datey.blogspot.jp/p/866-httpdatey.html
あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている2013:横浜都計審の実態(要約版)
https://sites.google.com/site/matimorig2x/essay-cityplanning

2014/07/06

970空を飛ぶ夢を超久しぶりに見た

 昨晩、空中を遊泳する夢を見た。この前に空飛ぶ夢を見たのは、いつだったろうか、かなり久しぶりである。少年、青年の頃はよく見たものであったのに。
 夢のわたしがいるところは、どうやら山川がある村のようである。その山中から、自分の家に戻りたいわたしは、草の繁る野の道を歩いている。

 歩きにくい。ひょいと思いついて、そうだ、空中を飛べばよいのだ。さっそくピョンと飛び上れば、地上10mほどをスイスイと飛びだした。そうそう、こうやって行けばよいのだ。
 おや、深くて広い渓谷があって、その手前に樹林がある。この谷を飛び越すかと、樹林の枝葉の間をくぐりぬけて、渓谷の青い水の流れの上を飛んでいく。

 地上の水や緑、田畑の風景が美しい。
 でも、こういう風景を、どうしてオレが知ってるんだろうかと、ふと疑問が浮かんだ。半分くらいは、これは夢なんだと、自分でも分かっていた感じである。
 そこでわれながら思い出して可笑しいのは、そうか、これはグーグルアースをちょくちょく見ているからなんだと、夢の中の自分が納得したことであった。
 大人になっても夢で空中を飛ぶことができるのは、グーグルのおかげであるのか、苦笑、、。 

 渓谷を飛び越えたところで、地上の道に降りると、目の前に廃屋があり、このあたりから集落である。
 ここの空中を飛ぶと、家の中を覗くことができて、面白いかな、いや、騒ぎなるからやめとこう、なんて、夢なのに妙に分別が働いた。

 ここからは地上を歩く。夢を思い出しても、現実のわたしは知らない集落風景なのだが、夢の中のわたしは何度も歩いた道で、その先がどこにいくのかわかっている。
 そこから先の夢は支離滅裂になって、突然に親戚に家に泊まっていることになって、その家に戻って、自分の荷物のリュックサックをもって出ようとするのだが、もう、うまく思い出せない。

 空飛ぶ夢は、だれでも少年時には見るらしい。わたしもそうだった。しょっちゅう見ていた。
 わたしの生家は、盆地を囲む丘の中腹にある神社であった。街の道のそばにある鳥居をくぐって石段の参道を20mほど登ると境内の広場になって、その一角にある家だった。社殿はそこからまた鳥居をくぐって、10mほど石段を登った広場に建っていた。

 わたしの空飛ぶ夢は、家の前の参道の石段の一番上から、水平に空中に飛び出すのだ。
 そのまま飛行して鳥居の上を越して、竹藪を下に見ながら街の上に出て、連なる瓦屋根の上を自在に飛び回る。
 夢の中の街の空中からの風景は、生家のある丘の中腹から、いつも俯瞰している風景であるから、グーグルアースがなくてもよく分っていたのだ。


参照:高梁盆地
 

2014/07/05

969近ごろの乗用車は奈良美智がデザインをしているのかどれもこれも吊り目で怖い

 横浜の上大岡で、奈良美智の作品に出会った。例の左右離れ吊り目顔の怖い子供である。
 エスカレータの上下するホール吹抜けの途中に、男の子と女の子がぶら下がって遊んでいた。

 この離れ吊り目の人相には、何だか毎日しょっちゅう出会っているなあ、え~っと、どこだけ、あ、そうそう、出会っているはずだよ、最近の乗用車って、どいつもこいつもこの顔だよ。
 吊り目の両ヘッドライトの両眼、人を馬鹿にしたようなラジェーターグリルの口つき、横ぺちゃ鼻。


それぞれメーカーが違うだろうに、どうしてこんな同じように、人を馬鹿にしたような、恨めしそうな、脅かすような不快顔デザインなんだろうか。
 いくら流行だと言っても、メーカーのデザイナーは、互いに真似っこしあってて、恥ずかしくないのだろうか。
 あ、もしかして奈良美智が、カーデザインをやっているんだろうか。

2014/07/04

968【くたばれマンション】だから言ってるでしょ、名ばかりマンション区分所有共同住宅ビルをやめろって

 なんとまあ、11階建ての区分所有共同住宅ビル(いわゆるマンション、わたしが言うところの名ばかりマンション)が、傾いてきたんだと、、、。
 大規模補修計画をやってて、どうもそうらしいと、管理組合が設計施工会社の熊谷組にそう言ったら、調べもしないで、初めからそうだったし、普通のことだと回答があったらしい。
写真の手すりは、傾いた左の棟と傾かない右の棟の間の
エキスパンションジョイントの位置でのズレを撮ったものらしい
あんまりなので、管理組合が専門家に頼んで独自調査したら、いまや1階と11階では5センチの傾きがあることがわかった。もちろん傾きはこれからも進行するだろう
 設計図と昔の地形図と比較して見たら、地中の杭が建物を支えるする硬い地盤まで届いていなことが分かったという。

 さすがに熊谷組も認めて、替わりの住宅を手当てするという。まあ、ここまで来るにはドタバタがあったのだろう。
 区分所有ビルだから、所有者は千差万別である。それぞれに事情があるから、自分の資産が失われるということに対して、驚き、怒り、悲しみ、これからの対応など、大変なことだったろう。

 もうすぐ太平洋の底にある南海トラフが暴れて、大地震が襲ってくるらしい。そうなったら、傾くなんて当たり前、半壊、全壊の区分所有共同住宅ビルが続出する。
 あちこちで高層巨大マンションが建ち、売り出され、買っている人たちがいる。膨大な震災マンション難民予備軍を、懲りもしないでどんどん生み出しつつある。
 
名ばかりマンションにいるお方は、はやく、一棟賃貸借型共同住宅ビルに移った方がいいですよ。阪神淡路地震や姉歯事件の経験から、こちならば早期に何とかなるから。

 それにしても、どうして杭を打つときに支持地盤に達していないと分らなかったのだろうか。おかしい。工事監理者(正しく施工しているかどうか監督する人で、通常は設計者)は何していたのか。
 でも、これって熊谷組の設計施工だから、工事監理者も熊谷組の人で、設計、施工、監理の担当者がすべて同じ。これじゃあ監督しようがない。

 まえまえから、不思議に思っているのだが、マンション広告に設計と工事については、その担当会社を書いてあるのだが、工事監理者を書いてあることはめったにないことである。この人が一番大事な役目のはずである。
 長谷工のように、設計から工事、監理まで一体だから安心ですと、間違った宣伝をしているアホ会社さえある。
 全部グルだから不安です、って、買う人はそう言いなさいよ、いいですか。

○参照
・808「名ばかりマンション」をいまどき売る人買う人の気がしれない
http://datey.blogspot.jp/2013/07/808.html
・664くたばれ名ばかりマンション屋!大ウソつきがばれたぞ
http://datey.blogspot.jp/2012/09/664.html
・くたばれマンション
https://sites.google.com/site/machimorig0/#tosikyoju

2014/07/02

967集団的自衛権問題と原発存廃問題は新聞社判定用リトマス試験紙だなあ

 今朝の各新聞社発表の社説のタイトルと、記事中の1行引用である。それぞれのスタンスの違いが、なんだか原発存廃へのスタンスと似ていて、面白い。

◎産経
集団的自衛権容認 
「助け合えぬ国」に決別を 戦後日本の国の守りが、ようやくあるべき国家の姿に近づいたといえよう。

◎読売
「集団的自衛権 抑止力向上へ意義深い「容認」 
米国など国際社会との連携を強化し、日本の平和と安全をより確かなものにするうえで、歴史的な意義があろう。

△日経
助け合いで安全保障を固める道へ 
大国の力関係が変わるとき、紛争を封じ込めてきた重しが外れ、世界の安定が揺らぎやすくなる。

×東京
9条破棄に等しい暴挙集団的自衛権容認  
憲政史上に汚点を残す暴挙だ。
 
×毎日
歯止めは国民がかける 
「国の存立」が自在に解釈され、その名の下に他国の戦争への参加を正当化することは、あってはならない。

×朝日
集団的自衛権の容認 この暴挙を超えて 
戦後日本が70年近くかけて築いてきた民主主義が、こうもあっさり踏みにじられるものか。

×琉球新報
解釈改憲閣議決定 日本が「悪魔の島」に 国民を危険にさらす暴挙
戦後日本の立脚点を覆す転換が、いともやすやすと行われた。国際社会から日本は原理原則の無い国だと見られても仕方がない。

×沖縄タイムス
[集団的自衛権容認]思慮欠いた政権の暴走
「平和国家」として国際的に認知されてきた日本が失うものの大きさは計り知れない。

参照⇒554福島原発事故の政治的収束
http://datey.blogspot.jp/2011/12/554.html

2014/06/23

966・中越山村の棚田集落は草木の自然と人間の営為が激しく攻防する戦いの最前線の風景

 半年ぶりの中越山村・法末集落である。
愛宕山から見る緑に覆われた法末集落全景 20140622
このまえは小正月行事にやってきて、雪道で転んで捻挫、ほうほうの体で帰宅したが、今回は転ぶこともなく、友人の車で往復した。
 この前来た1月は、どこもかしこも深い雪に埋もれていた。色の白いは七難隠すとて美しい風景だが、豪雪は生活を脅かすものでもある。その一方では美味い米のできる棚田の水源である。

 今や初夏、野山に田畑はどこもかしこも深い緑が覆っている。これも七難かくすとは言わないにしても、雪の白にとって替わる美しい風景である。棚田も稲が育ってきて緑である。
 だが、怖いほどに繁茂する草木は、家々の生活空間や棚田の生産空間を脅かすものでもある。見ようによっては緑に襲われている。豪雪に対応して豪緑とでもいおうか。

 山村集落とは、生活や生産のための山林・田畑・家々が、地域をバランスよく支配している人文空間である。眼に見える緑が多いとて、そこは決して自然そのものではない。
 もともとは草木が支配する自然空間であった山谷を、営々と長い時間をかけて人間が手を入れてつくりあげてきた人文空間である。
 その人文空間は、それを維持する人間がそこに暮らしていてこそ、存在することができる空間である。人間がいなくなると、たちまちにして草木が空間を支配して、10~20年で元の自然空間に還っていく。
法末集落の中の小千谷道(おじゃんち)風景 20140621

上と同じだが2008年の夏の風景 少し異なるところもある
 いま、山村集落は人間が減っていくばかりの人口減少最前線だから、その生産や生活のための空間は縮んで行って、人間が放棄した人文空間に、たちまち自然がはびこってきつつある。
そこは人間が自然を克服する闘いの最前線であったが、今や人間が退却していく最後尾の闘いの地になりつつある。
 そう、殿(しんがり)である。昔から戦いでは、殿が最も難しいされる。

 この山村における人間と自然との戦いの最前線にあるのは、斜面に水面を積み重ねる棚田である。谷筋から尾根へと斜面を幾重にも水平に切り裂いて登っていく。冬の豪雪がもたらす豊かな水が、実に美味な棚田米を生み出すのだ。
 棚田の風景を美しい自然環境と誤解している人もいるが、棚田は決して自然ではない。むしろ人工物の極致と言ってよいほどの、米つくり工房である。
 平地の水田は機械による米生産工場であるのに対して、人手がかかる棚田はまるで盆栽つくりである。それくらい人工度が高い。

 この棚田の米が、この地の自然と人間の闘いの最前線から産出する「黄金」である。わたしは食い物にはあまり関心がないのだが、この棚田米を喰い続けていたら、米の飯に関してだけは、すっかり口が奢ってしまった。
 だがこの金鉱山も、次第に鉱脈が後退している。耕作放棄地が広がりつつある。放棄棚田はたちまちにして草地になり、林地へと還っていきつつある。
 今や棚田という人文空間は、人間が自然に押される撤退戦の最後尾の場である。
棚田の人文空間と草木の自然空間が競り合う風景 20140621
耕作放棄地ばかりではなくて、居住放棄家屋も誰も住まなくなると、次第に自然に還っていく。
 毎年の豪雪が、放棄家屋を傾け、押しつぶし、土に還らせる。春になると草が覆いかぶさり、やがて樹木が生えてきて、20年もすれば樹林になる。
今、家屋が今消えようとし、草木の地に還ろうとしている風景 20140622
2年前の上と同じ位置の風景 20140514

5年前の上と同じ位置からの風景 20090418
 この集落の人口は、1950年代末には600人近くもいたのだが減少が進み、2004年の全村避難した中越震災でそれが一気に進み、今は70人、40戸ほどになっている。もちろん超高齢化である。
 ところが、子どももいなくて減少していく一方かと思っていたが、意外にそうでもない。2人の小学生がいて、麓の町の小学校から通学バスがやってくる。
 町に出ていた跡継ぎ息子が戻ってきて農業をしている家もある。町に出て行った元住民で、休日には農作業にやってくる休日住民たちもいる。
空き家を買って2地域居住をしている都市住民が数名いる。今年、夫婦でこの地に移転してきた人もいるそうだ。近いうちに、わたしたちの仲間の一人が、住民票を移して住むという。
 ここは大橋さんと内山さんしかいなかったのだが、姓も多様化してくる。

 人間撤退戦線の最後尾でありながら、意外に善戦する兵士は、美味い棚田米であるにちがいない。この魅力があるから、この山村はしぶといのだ。
 それは深い雪と緑の自然が人間に与えてくれているから、敵から贈られる塩であるのか。
2007年からの活動拠点3代目「へんなかフェ」は豪雪で傾き傷み草にも覆われてくたびれてきた

4代目「ヘンなかフェ」では、農家民宿を始めようか

参照




2014/06/20

965・山口文象設計の総同盟会館・全繊会館という戦後初期労働運動拠点を“発見”

 この「伊達の眼鏡」ブログにも「まちもり通信」サイトにも書いたが、山口文象設計の青雲荘・友愛病院という建築が1936年にできて、それが1894年にできたJ:コンドル設計の日本労働会館(旧・惟一館)と並んで建っていた。
そしてこれらは、1945年に太平洋戦争の空爆で炎上したのである。焼け残りのコンクリート躯体を再利用修復して雑居ビルになっていた青雲荘・友愛病院は、1964年になって消えた。

 山口文象と青雲荘物語はそこでおしまいと思っていたのだが、実はさかのぼって戦後に発展する物語があったことが分かった。
 焼けて消えた日本労働会館跡地に、1949年、総同盟会館・全繊維同盟会館が建ったのだが、これが山口文象設計であったのだ。
 40年ほども山口作品を追っていながら、これは知らなかった。もうドイツにでも行かないと新発見はあるまいと思っていたから、ちょっと興奮した。そのまえにコンドル作品と山口文象作品が並んで建っていたことにも興奮したのだったから、2重の喜びである。

 昨年、この総同盟会館・全繊会館について山口文象設計であろうかと、友愛労働歴史館から問い合わせをいただいて、調べたことがある。
 山口文象の設計かもしれないとの根拠は、青雲荘のオーナーであった財団が発行した『財団法人日本労働会館六十年史」(1991、渡辺悦次著)に、総同盟会館の落成式の様子について、次のように記述(177頁)があることによる。

「会館は正面右側に全繊会館、左側に総同盟会館が並び、コの字型につながる形で建った。山口設計事務所による設計であり、11月に着工、翌1949年8月4日に落成式を行った。(中略)建坪は251坪(総同盟会館111坪、全繊会館109坪)、共通ホール29坪、費用は合計600万円で山口設計事務所の設計により納富建築株式会社が建築した。(中略)山口設計事務所長に感謝状が贈呈された。」

 1949年に解散した山口文象建築事務所の資料は、RIAが所蔵保管している。その中に青雲荘・友愛病院については、竣工写真や設計図面がある。また当時の雑誌に山口文象の名前で発表している。
 ところがRIAの山口文象資料には、総同盟会館・全繊会館に関するもの全く見当たらない。
 さらに、山口文象建築事務所の最後の所員であった方に直接に聞いてみたが、そのような設計をした記憶がないとのことであった。
 ということで、山口設計事務所の記述でもあるし、山口文象作品かどうか判断できないまま、保留していた。

 5月27日に、友愛労働歴史館での「J・コンドルと惟一館/山口文象と青雲荘」展覧会に関連して、「松岡駒吉と山口文象が青雲荘にこめたメッセージ」と題する講演会があった。わたしが講演者である。
 建築や都市関係者相手のレクチャーは何度もしてきたが、労働運動関係者相手は初めてのことで、なにか新しい反応があるかと期待していたら、やはりあった。
 後日、そこに聴衆としていらした方からお手紙が来た。『全繊同盟史第2巻』(1965年 全繊同盟史編集員会著)のなかに、全繊会館が山口文象建築事務所の設計との記述があると、ご教示をいただいた。 
 その本には、「全繊会館進む」(408頁)と題して、次のように記載されている。

「当時、総同盟においても、もと日本労働会館(戦前の総同盟本部)跡に、新会館建設を決定し(中略)、全繊会館は種々検討の結果、敷地を総同盟会館と同一場所にきめ、土地所有者、財団法人日本労働会館(理事長松岡駒吉)よち借り入れ、建物は総同盟会館と隣接し、共通ホールで接続する設計であった。
 会館建設の概要は次のとおりである。建設坪数1階50.25坪、2階59.33坪、総坪数109.58坪。木造2階建て。主要設備室ー事務室1、応接室1、会議室1、図書室1、宿泊室(洋室・和室)5、小使室1、便所、浴室。
 設計・監督 山口文象建築事務所、請負者 聖徳社納富組、見積工事費 228万1,209円(以下略)」

 これには山口文象建築事務所と正確に名前が出ているし、規模も総同盟会館の記述と符合する。となると、この二つの会館は山口文象の設計であったことは間違いあるまい。
 そこで建築学会の図書館で当時の「新建築」、「国際建築」、「建築文化」を探したのだが、登場してこない。建築雑誌に載るような建築はまだそれほどない時代で、けっこう大きくしかも山口文象設計ならば載りそうなものだが、どういうわけかない。

 山口にとっても、1949年と言えば、仕事がなくて山口文象建築事務所を閉鎖した年だから、宣伝のためにも載せそうなものである。
 本格戦争になった1941年頃からは、めぼしい仕事はなくて軍需工場の工員宿舎の設計で食いつないでいたが、戦争が終わるといよいよ仕事がなくなり事務所は閉鎖した。その後は、猪熊弦一郎の支援で高松近代美術館と久が原教会があるくらいなものだった。山口の戦中戦後ほぼ10年間は、蟄居時代であった。

 こうして戦後初期の時代の大変革の中で、ようやくにして合法化された労働組合運動の拠点として、焼け残り青雲荘も総同盟会館も全繊会館も、大きな役割を果たしたのであった。
 戦後が確実に終わった1964年、これらは取り壊されて高層ビルに建て替えられた。1936年からの山口文象の物語はそこで終わったが、なぜ続かなかったのだろうか。
 多分、山口文象建築事務所が消えてRIAになっていたことを、建て替え時の総同盟側が気が付かなかったのだろうと推測するしかない。

 というわけで“新発見”だが、今のところ図面も写真も、こんなものしか見つからないない。もうちょっと調べてからこの建築のことを書きたい。
この左に焼け残り改修の青雲荘が建っていたはず
全繊同盟史第2巻にある全繊会館の写真

1960年前後頃か、左から改修した青雲荘、総同盟会館、全繊会館
  なお、この新発見を導いてくださった方は、まずは展覧会を開催された友愛労働歴史館事務局長の間宮悠紀雄氏、そして講演会にいらしてご指摘をいただいた、UAゼンセン(全国繊維化学食品流通サービス一般労働組合同盟=旧・全繊同盟)会長の逢見直人氏である。お礼を申し上げます。

参照
講演「松岡駒吉と山口文象が青雲荘に込めたメッセージ」2014年6月
●「J・コンドルの和風建築と山口文象のモダン建築の出会い2014年3月

参照建築家・山口文象+初期RIA(伊達美徳)
  まちもり通信サイト(伊達美徳)