2012/01/14

570野の字改造内閣

今朝の新聞にある野田改造内閣(改造なんて工事みたい)の一覧表を眺めている。
 当然のことに、震災と原発問題が一番の頭の痛いことだから、ここに重要人事を持っていったのであろう。
 なになに、ふむふむ、まずは環境と原発担当の細さん、復興と防災担当の平さん、エネルギー問題は経済産業で枝さん、科学技術問題は文部科学の平さん、汚染食糧問題は農林水産の鹿さん、、か。
 どんなお人たちかぜんぜん知らないが、、、、おお、わかったぞ、人事って簡単だあ~、要するに重要なところには、がつく人を据えればいいんだよ!!。
 そういうや、首相が田さんだ。

2012/01/10

569小沢と木嶋両被告の呼び方は?

夕刊のトップ記事である。
 資金管理団体「陸山会」をめぐる土地取引事件で、政治資金規正法違反の罪で強制起訴された民主党元代表・小沢一郎被告(69)の第12回公判が10日、東京地裁で開かれた。小沢の被告人質問が始まり、土地購入費として(以下略)朝日新聞2012年1月10日15時6分

 同じ夕刊にこういう記事もある。
 首都圏で2009年に起きた男性3人の連続不審死にかかわったとして殺人などの罪に問われている木嶋佳苗被告(37)の裁判員裁判の初公判が10日、さいたま地裁(大熊一之裁判長)で始まった。3件の殺人罪について、木嶋被告は「私は殺害していません」と述べ、(以下略)朝日新聞2012年1月10日2012年1月10日13時23分

 小沢被告は2回目以降は小沢となるのだが、木嶋被告はその後もずっと木嶋被告のままである。
 日経と毎日は、小沢被告から小沢元代表に変化するが、木嶋被告はその後もずっと木嶋被告のままである。

 この違いはなんであろうか。両被告とも容疑を否定しているから同じはずなのに、片や敬称をつけて小沢氏とか小沢元代表ならば、どうして木嶋氏とか木嶋元ナントカ(無職らしいから木嶋無職か、あるいは確実なのは木嶋元小学生)といわないのか。
 読売と産経を見るとは、小沢被告はその後も小沢被告と呼んでいるし、木嶋被告も同様である。

 朝日と日経と毎日は、なんだか偏見がある新聞社であるような。あるいは小沢は無罪になり、木嶋は有罪になると、どこかから裏情報でも仕入れているのだろうか。

●関連→290新聞の人名呼称
http://datey.blogspot.com/2010/07/289.html
●関連→195女は悪いが男性は悪くない
http://datey.blogspot.com/2009/10/195.html

2012/01/09

568新聞の人名表記

人名表記について、新聞屋はどういうつもりなんだろうか。こんな記事がある。

 東京都台東区のマンションで台湾人の女子留学生・林シエイさん(22、シはくさかんむりに止、エイはさんずいに火ふたつと宝のうえの点なし)と朱立ショウさん(24、ショウは女へんに捷のつくり)が殺害された事件で、警視庁は8日、殺人容疑で、同じ日本語学校に通う台湾人留学生の張志揚容疑者(30)=同区台東3丁目=の逮捕状を取り、公開指名手配した。(以下略) (asahi.comニュース012年1月8日19時57分)

 記事の内容には興味がないが、名前の文字の解説に興味がある。
 こういう解説が必要なのだろうかと思ったのだ。その字を教えるとおりに書いてみても、よほど漢文の素養のある人のほかは、それが読めるはしない。
 いや、読み方がシとエイとか書いてはあるから、ここでは読める。でも、それは日本での漢文での読み方だろうか。
 だとしたら、その発音をしたところで、その人の人名としてなんの意味もないだろう。
 それとも台湾での発音だろうか。それだって日本人がそう読んでも、台湾人には伝わる発音ではないから、意味がない。

 そもそも外国人の名を、たまたま漢字という共通の文字があるからといっても、あちらとこちらでは発音も意味もまったく異なるから、それを漢字で書いたり、日本読みのカナにしても仕方がないだろうと思う。
 他の言語圏の人にはそうしているように、できるだけ現地読みに近いようにカナで書くのが、とりあえずは妥当だろう。そのまま読んでも通じはしないだろうが、それは他の国の人の名でも同じである。
 中国人にだけなぜそうするのだろうか、わたしはまえまえから合点が行かない。

2012/01/08

567今年の寒中見舞い

毎年の年賀状をやめて、寒中見舞いに替えて久しい。今年のそれをぼちぼち出しつつある。
 今年の年賀状をいただいた方、いただかない方をあわせて全部のかたがたに、ここで寒中お見舞い申し上げます。
 実際に出す葉書は、文の4分の1はひとりひとり違う内容で、宛名と自分の名は筆で書いている。
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 寒中見舞

 賀状をありがとうございます。当方は二人ともそれなりに元気にいたしております。
 大地震の冬は大雪説のとおり、中越震災復興支援から今は米つくりに行く中越山村も豪雪になりつつあります。地震津波原発豪雪と、なんとも心が落ち着かない日々が続きます。

 福島第一原発事故の直後から、これこそ世界遺産に登録するべきと考えています。世界を震撼させた爆発の無惨な姿を保存して、先輩の世界遺産・広島原爆ドームとともに、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」のある重要なる文化遺産として後世に伝えましょう。原発廃炉という大義名分で、大悲劇を忘れさせるように姿を消滅させてはなりません。

 66半年前の大悲劇の太平洋戦争の空爆で破壊され、戦後すぐに修理して今日まで使ってきた赤レンガ東京駅が、この春には戦前の姿に復原されて出現します。東の原爆ドームとして、戦争の愚行と戦災からの復興のシンボルだったその姿の消滅を悲しみます。

 今年の仕事始めは2月5日、久しぶりに故郷の高梁で講演します。その次の仕事はありませんが、それでよいのです。
 本年は、人生はじめての後期高齢者突入、さてどういう年になりますか。この長々とした寒中見舞もボケ防止活動のひとつと思ってお許しくださいませ。

 どうぞ今年もお元気におすごしください。

 2012年1月 寒

 ●●●様              伊達美徳

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●関連→077年賀状をやめる

2012/01/06

566瓦礫の焼却だって?

震災関連用語で前からわからないやつがいっぱいある。せんだっては除染と電源喪失がわからんと書いたが、今日も新聞にある「がれき」がわからん。

 東日本大震災で大量に発生したがれきの広域処理について、全国知事会(会長、山田啓二・京都府知事)は6日、がれきやその焼却灰の一時保管費用は国が負担することなどを求めた要望書を環境省に提出した。(産経新聞 1月6日(金)12時34分配信)

「がれきやその焼却灰」とあるのだが、がれきって瓦礫のことでしょ、瓦と石ころだよ、これを焼いても灰になるはずがないだろう。
 燃えるのなら、こんどうちの庭の石ころを紙くずと一緒に燃えるゴミの袋に入れて、持っていってもらおうっと。

 まちがってるよ、新聞屋さんよ。それを言うなら大型ゴミとか廃物とかでしょうに。
 携帯電話機がケータイになるように、いっそのこと瓦礫もがれきとせずにガレーキといってはいかが。

2012/01/04

565高梁:盆地の山並み風景

●山あての風景
  盆地は周りが山だから、街に中のどこからも山が見える。外の通りからでも家の庭からでも、向こうに必ず緑の山があり、それが背景となって風景を作っている。

 高梁盆地にJR伯備線で高梁川をさかのぼって南から入ると、向こうに見えるのが臥牛山である。ああ、高梁だとこれではっきりと認識する。それは舟で海に出ている漁師が、自分の港に戻るときに陸にある山を目印にする「山あて」とおなじである。

 高梁に暮らして毎日見ていると何ということもないだろう。だが、久しぶりに故郷を訪ねて、駅前から稲荷山が、駅の向こうにお城山が、街の通りの向こうに高倉山が、小路の向こうに八幡山が、方谷橋のアーチの向こうに方谷林が、その反対からは御前神社のある秋葉山が、それぞれに特徴を持って見える。どれもこれもなるほどなるほどと、独りでうなづきたくなる。

 だからわたしはハイデルベルクで、同じような山あて風景に出会って、懐かしい風景であることを再認識したのであった。 もちろんそれだけではなく、方谷林から見下ろすように、ハイデルベルクの哲学の道から見下ろし、あまりの類似に驚いたのだ。

●つづきの全文は→高梁:盆地の山並み風景
http://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/takahasi-yamanami

●関連→ふるさと高梁論集やあれこれ
http://homepage2.nifty.com/datey/index3.htm#takahasi

2012/01/02

564箱根駅伝と日本近代化遺産群

珍しくTV放送を見た。箱根駅伝である。
 最後の山登りに東洋大のこの3年間の名物男が出るところだけを観るつもりである。
 ところが今年はトップで襷を受けとって走り出したから、とたんに興味を失った。
 
 さて、箱根駅伝の山登りを毎年観る重要な目的は、実は別にあるのだ。
 箱根湯本の手前に「東京電力山崎発電所」、湯本を過ぎて「早川取水堰」、どちらもまだ健在かどうかTVで確認するのである。
どちらも山口文象の設計で、1936年に竣工したものである。今年は発電所は見逃したが、取水堰は健在であった。

 これらは日本の近代化時代にできた遺産である。土木学会が近代化遺産として認定している。
 箱根にはこのほか、旭橋、千歳橋、函嶺洞門、富士屋ホテル、箱根登山鉄道など、多くの近代化遺産に認定や文化財登録した建造物があり、駅伝のルートで見つける楽しみがある。

 早川取水堰を観てTVを消した。競技の行方は知らない。
 なお、あのうるさいばかりか、こちらが恥ずかしくなるクサイ文句を平気でしゃべる音声を消して、ただ画面だけ見たのであった。

●参照→山口文象のモダニズム建築 作品新発見か
http://homepage2.nifty.com/datey/bunzo/1936yamazaki.htm
●参照→079箱根駅伝TV無神経CM
http://datey.blogspot.com/2009/01/blog-post_02.html

2012/01/01

563フォトエッセイ「異文化への旅・ネパール風土逍遥」

めったに縁がないのに、2年連続で賞なるものをいただいた。

 フォトエッセイ「異文化への旅・ネパール風土逍遥」
 第16回彩の国ホームページコンテスト2011シニアの部最優秀賞
   (主催:埼玉県情報サービス産業協会)

 昨年も「風景を愉しむ」を応募してシニアの部優秀賞だった。
 シニアの部に限るのが悔しいが、少しは上達したってことらしい。
 あ、まさか年寄り応募者がわたし一人だけだったってことじゃないだろうなあ。
 2011年3月~4月の「ネパール400kmバスの旅」の一部を応募用に編集したのである。

追記2012年1月19日 本日表彰式あり、聞けばシニアの部応募は3点のみ。それに優秀賞は該当作なしとある。冗談抜きにこりゃ入賞率が高いなあ。シニア資格は60歳以上だから、もっといてもおかしくないのに不思議である。
 応募総数は108点、入賞は13点だった。わたしのほかは全員埼玉県内の人、しかも幸手中学校2年生の女生徒がそのうち5点を占めている。それはよいのだが、ほかの中学校はどうして応募しないのか。
 16回目というのにまだ全国的な広がりを持っていないのか。インタネットという無境界性の代物なのに、地域限定的になっているはどういうわけだろうか。
 孫のような入賞者ばかりの中で、そう思った。

2011/12/31

562余はこともなし

本当は、世はこともなし、というのだが、世にはことがあり過ぎるし、余にはことがなさ過ぎるのである。
 一日が夜昼あって、間に睡眠という動物的行為があるから、これは明らかに変化の節目がある。
 しかし、一年が終わるといっても、突然老化が進むという時間が飛ぶわけじゃなし、起きてみたら別の世界にいるって環境が変わるじゃなし、この日から正しく生きようなんて心が変わるじゃなし、何の変化の節目もない。
 それなのに人々は騒ぐのはどうしてか、昔から不思議におもっている。
 
 わたしは、わざわざことをつくるべき理由がないから、普通なる時間をすごすだけである。
 年賀状も書かなくなった。その代わりに寒中見舞いを書くのだが、これは寒さという季節の節目があるからだし、寒いと人間は能力が衰えて病になるから見舞うのは妥当なる行為である。
 明日の朝は、いつもの元日のように雑煮を食うのは、生まれてからの習慣であり、これだけがわたしの唯一の正月らしいことである。
 なお、わたしは服喪という習慣が理解できないので、わたしの父母のときも普通にしていたし、人様のそれもほとんど気にしないので、ますます正月気分はない。

 そんなショウモナイことを言って年を越すことができるのは、これをもって平和であるというなら、余はこともなし。

2011/12/30

561大学卒業50年記念品

先月のことだが、大学同窓会から、大判の本ほどの箱が送られてきた。
 あけてみると、大学本館を描いた風景画を焼きつけたA4版ほどの大きさの陶板である。
 そうか、これは、食卓で使う鍋敷きであるな、寒くなって鍋物の季節を狙って送ってくださるとは、なかなか気が利いていると、ありがたくちょうだいした。

 陶板のほかに木製の架台のようなものもついている。
 あ、そうか、鍋の下に敷いてないときは、これに載せて食卓を飾るのであるか。ふむ、飾りにもなる鍋敷きであるのか、それも気が利いている。
 送り状に、卒業50年の記念品であり、有名な(らしい)画家が描いたもので、なかなか良いものであると自負していると、同窓会長が書いていらっしゃる。

 というわけで、同期の友人たちにメールで話題にしたら、いろいろ返事が来た。
 500年くらい経てば価値が出るからとっておくかとか、半世紀前の頃の風習のレベルを思い出させるとか、もう歳が歳だから無駄なものをなくす身辺整理中なのにこりゃ困ったとか、陶磁器趣味のヤツからはこんな代物をどうすんだよとか、なかなかの評判であるのが面白い。

 ひとつわかったことは、どうも勘違いしていたらしい。これは鍋敷きではなくて、純粋に部屋を飾る陶板画であるらしいのだ。でも鍋敷きにしてもいいでしょ。