2014/06/05

931・わざわざクサくしたシャツを売りだすなんて世の中だんだんとクサイことが多くなって困ったもんだ

 エレベーターや電車の中で、クッサイ女が乗ってきて、ほんとに困ることがある。
 ブサイクな女には、そっぽ向くとか目を閉じればよいが、クサイ女対策は、もう逃げるしかない。せっかく座った電車の席を明け渡すこともしばしばある。

 それが今度は男である。男のシャツを、わざわざクサくして売るのだそうだ。「香りを繊維に付着させた」と書いてある。
 これからは男からも逃げなきゃならんのかよ、いいかげんにしてくれよ。
 こんなクサイシャツを売ってもらっては、ほんとに困るんだよなあ。
2014年06月05日掲載:男のシャツの新聞広告

 大音声でイヤホンから音漏れを構わず、音楽を聴くやつもいる。でも、これは注意すれば聞いてくれる。
 でも臭いには、クサイシャツを脱いでくれと、いうわけにはいかない。クサイ香水女も、どうしょうもない。

 おかしなことには宣伝文句には、「衣類用消臭スプレーセット」も付けると書いてある。
 臭いをつけて売っているに、臭いを消す薬付きとは、これいかに。多分、他の衣類に臭い汚染しないようにする為なんだろう。
 福島の事故原発対策に凍る地下壁をつくるから、その凍結装置の電力の原発が要るってのと似てる。

 わたしは臭いに敏感であるとかアレルギーがあるとかではないが、物事はできるだけ自然がよろしい。シャツに臭いをつけるなんて、大きなお世話である。
 あ、そうだ、ホテルなんかで部屋がクサイことがある。花の香りだと、サービスのつもりらしいが、大きなお世話を越えて迷惑である。無臭が一番よろしい。

 さて、わたしには加齢臭なるものが発生しているんだろうなあ、自分ではわからないけどね、あっ、ってことは、もしかしたらこのシャツは、高齢者に向けて売る気なのか? う~む、、、。



2014/06/02

930気象台ができてから急に暑くなった故郷の盆地

 昨日(2014年6月1日)のNHKニュース岡山県版にこうある。
「1日の岡山県は高気圧に覆われてよく晴れ、厳しい暑さとなりました。このうち高梁市は日中の最高気温が35度1分とことし県内で初めて猛暑日となりました。また6月1日に猛暑日となるのは県内の観測史上、最も早いと言うことです。」

 と言うこと、だそうですが、誰が言ってるんでしょうかね、気象台ですかね。
 近ごろは異常気象が多いけど、気象台は対策をとらないのか、なにをしているか?
 気象台ってのは国土交通省の機関だそうだから、これはやっぱり安倍内閣が無策なのがいけないっ。

 上のニュースに出てくる高梁とは、実はわたしが少年時代を過ごした生まれ故郷である。
 一昨年だったか、日本一暑い街って全国ニュースに出たことがある。今年はもう、県内で最初の猛暑日を迎える「栄誉」に輝いたらしい。
 関東では熊谷とか高崎とか甲府などの、内陸部盆地地形の街が猛暑としてしょっちゅうあがっていたから、高梁盆地も例外ではない地形だ。
 思い出したが、20年以上前、高崎で40度という気温の日の記憶がある。燃えるような暑さだけが高崎の記憶である。

 そうなると居直って「アツイぜ!高梁市」とかって、キャッチフレーズで売り出そうとしているとか。
http://www.city.takahashi.okayama.jp/soshiki/2/atsuizetakahashi.html
 でもなあ、「暑いぜ」なんて関東方言のような気取った言い方が、なんだかおかしいよなあ。
 高梁弁ならば「あちーがあ!たかはしゃあ」でしょ。え、これじゃあ読んでもわからんか。

 それにしても、わたしの少年時代には、自分の住む街が日本一暑いなんてニュースを聞いたことがない。どうしてなのかと、故郷にいる旧友に尋ねたら、思いがけない答えが返ってきた。
 高梁が暑いというニュースが多くなったのは、高梁盆地の中に気象台の観測所ができてからのことだというのである。いつできたか聞きのがしたが、そう遠くない前だろう。
 そうか、急に暑くなるはずがないと思っていたが、気温を計るようになったので、他の地域と比べて暑いことが分かった、というわけだ。

 気温が高いから暑いのではなくて、暑いから計ってみたら気温が高いのだが、感覚というものはおかしなもので、気温が高いから暑いのだと思う。
 気象台の発表する今日の天気の気温を、予想や結果よりも2、3度低く発表し、日本全国にある温度計を2、3度低く表示するよう改造したら、どうだろうか。そうすれば、ちょっとは涼しいと思いこむかもしれない。簡単な避暑方法である。
 

2014/05/29

929【五輪騒動】高さだけが景観なら新国立競技場の高さを0mにする名案があるぞ!

 本日(2014/05/29)のニュース
建築家などから景観を損ねると反対意見があることから、従来の想定より建物の高さを5メートル低い70メートルとし、周りの景観に配慮しています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140528/t10014801481000.html

 ということで、オリンピック運動会用の新国立競技場は、当初発表の計画よりも高さを低くするそうである。
 まあ、なんというか、75mならダメ景観、70mなら景観配慮ってのは、面白いお話であるよなあ。
 不動産屋が15階建ての名ばかりマンション計画を発表して景観破壊だと騒がれて、それじゃあ14階にしますと言って納める、とか、本日3割引き大安売りと言って、もともとが3割高い値段だったという、あのもともと上乗せ戦術なんでしょうか、JSCさんも。
 ならばもうちょっと騒げば、65mになるかもしれないなあ、そうすれば景観はますますよろしい方向になるというわけですな。

 そもそも景観とはなんだよ~、高さのことかい?
 昔々になってしまったが、京都景観論争ってのがあった。お寺さんの見物お断りまで騒動が広がって、京都駅から北は低く、南の方は高くてよろしいなんて、妥協があった。
 でもなあ、5重の塔なんてのは高いんだよ、あれならいいのかい?

 そうそう、丸の内でも景観論争という名の、高さ論争があったよなあ。
 あの赤い東京海上超高層ビルが出現するにあたっての、総理大臣まで出てくる騒ぎは、どうやら皇居を見下ろすのがケシカランという天皇制へのおもんぱかりが、もとだったらしい。
 そこに三菱地所の不動産作戦のゴチャゴチャが絡んで、その後あれこれあって、高さ100mで妥協した。本質的な意味での「景観」はどうでもよかった。
 ところが今じゃあ、高いも高いの200mほどにもなってきて、皇居はしっかり覗ける(のだろう)。
 景観イコール高さとすれば、もう丸の内はめちゃめちゃ景観になっているぞ。いいのかい?

 え~っと、何の話だっけ、あ、そうそう、新国立競技場の景観問題だった。
 そう、そうやっていろいろな事件を経てきて、景観とは高さのことなんだと、普通の人たちは思い込んだんだよなあ。
 だったら、新国立競技場なんて簡単でしょ、観客席を地面を掘って下へ下へと擂鉢にすればよろしい。いろいろな部屋も地下に造れば、もしかしたら高さ0mの深刻じゃあない新国立競技場だって可能でしょ、これなら風致地区制限15m見事にクリアー、え、どうです?
 こういうのを伊東ナントカさんに作ってもらって提案したらどうでしょうかね?
世にはくそまじめな人いるので念のために書いておくが、これはパロディですからね
ついでに言うけど、高さが問題なら、いまの国立競技場も神宮球場も第2球場も、そしてそして、あの聖徳記念絵画館さえも、1970年指定の風致地区では高さ制限に違反している建築(既存不適格)なんですね。
 だから、これらを早く取り壊すべきなんだけど、だれもそんなこと言ってないのはどうして? それどころか、今の国立競技場を壊すなという人たちがいるらしいのが、不思議。

 あのね、景観てのは、高さもあるでしょうが、もっと総合的なもんでしょ。
 高さで景観がどうとかって騒ぐのなら、スカイツリーが高すぎるって、だれか騒いだのでしょうか。あの下町の低い街並みの中に、にょっきり異物も異物、あんなもの建てて景観はよろしいのでしょうか。
 ね、分ったでしょ、景観ってのは高さじゃないんですよ。 

 要するに建築家の下手な設計がいけないんです、わかりましたか。
 え、わからん? ウン、そうでしょうねえ、わたしも建築家の上手な設計って、分りませんからねえ、。
 最後に一言、国立競技場がらみの景観論には、どうも天皇制が背景にある権威主義がちらつくのが、わたしには気に食わない。景観とはそういうものだ。

◆参照→◆新国立競技場と神宮外苑そして2020五輪運動会についての瓢論・弧乱夢
http://datey.blogspot.jp/p/866-httpdatey.html


2014/05/28

928・講演「松岡駒吉と山口文象が青雲荘に込めたメッセージ」

 「コンドルと惟一館/山口文象と青雲荘」と題する展覧会が開催中である。会場は友愛労働歴史館(東京都港区芝2-20-12)、会期は2014年3月10日から8月30日まで。

 コンドルとは、日本の明治政府がイギリスから招へいした建築家で、19世紀末から日本に洋風建築をもたらし、日本人建築家を育てた人である。
 山口文象とは、コンドルよりも2世代ほど後の建築家で、20世紀前半のモダン近代建築で一世を風靡した人である。
 この二人の建築家の作品、イギリス人の設計した19世紀末の和風建築「惟一館」の隣に、日本人が設計したモダン建築「青雲荘アパートメント・友愛病院」が、並んで建ったのが1936年のことだった。

 そして、このことについてわたしに講演を依頼されたのである。依頼主は展覧会主催の友愛労働歴史館と労使関係研究協会であり、聴衆は労働組合関係者を主とする。
 その講演題名は「松岡駒吉、山口文象が青雲荘に込めたメッセージ」であり、労働組合団体関係者にこの青雲荘と友愛病院の建築的意義を話せとの求めである。
 都市建築関係者や学生院生たちを相手に講演は何度もしてきたが、労働組合関係者相手とは珍しい体験である。
 聞く方も、労働運動などについての講演は聞くことはあっても、こういうテーマは珍しいことであるらしい。こちらにとっても、なにか新しい情報が得られるかもしれないと、楽しみである。

 ということで、2014年5月27日の午後の2時間を、有意義に過ごしてきた。
 なんと47名もの聴講者がいらして、研修会場が満員になった。その世界のことはよく知らないが、参加者リストにはUAゼンセン、JP労組、CSAなどの団体名が書いてある。山口文象創設のRIAから数名参加している。
 ドイツでの左翼活動とか、労働者への医療、あるいは東京駅の容積移転などについての質問や意見があって、こちらが勉強になった。

 勉強になったと言えば、この講演のために、松岡駒吉という戦前から戦後にかけて日本の労働運動の強力な指導者について、にわか勉強をして、これは面白かった。
 松岡がどうして山口文象を起用したか、そこをを知りたいが、憶測の遊びしかできない。

 話の基本的なことは、既にこの「まちもり通信」に、「コンドルの和風建築と山口文象のモダン建築の出会い」と題して書いているが、講演だからいろいろと派生する話題にも広げるし、ほとんど憶測になることもどんどん話したのであった。
 当日講演会で使用した映像資料は下記を参照のこと。
講演画像「松岡駒吉と山口文象が青雲荘に込めたメッセージ5MBPDF 2014)

参照:◎1936青雲荘・友愛病院診療所(東京市)
まちもり通信総合目次

 

2014/05/23

927・集団的自衛権と原発とは何が共通するのか分ったぞ

 今朝の新聞(朝日,2014/05/23)に、新聞屋の各社が集団的自衛権に対して、どのような態度か一覧表が載っている。
 ふ~ん、そうなんだあ、、。

 これを眺めていて、似たようなことを思い出した。
 ずっと前に、これと同じような分類を、自分で作ってみたことがあったなあ、そうそう、原子力発電に賛成か反対かの分類を、新聞屋別にやってみたんだよなあ。ブログに書いたような気がするが、見つからない。
 そう、集団的自衛権への態度と、原発への態度は、キレイに相関関係にあるように見えるのだが、どうだろうか。

 でも、なぜ相関するのか不思議なので、しばらく考えてみたら、これらに共通するのは、おお「」だよ~、、、核兵器と核発電であると気が付いて、こわくなった。
 う~む、原発は核兵器のもとになるプルトニウムの生産装置だと聞いたことがあるからなあ、相関関係にあるのは確かだよなあ、。

 集団的自衛権の行使を確実にするためには,今や核兵器は欠かせない、そのためにはプルトニウムの生産を絶やしてはならない、そのためには原子力発電所が必要だ、と、まあ、こう言うことなんだろうなあ、これって、風が吹けば桶屋が儲かるよりも、はるかに現実味があると思うよ。

 う~む、ホントかあ、怖いなあ、、まあ、集団的自衛権も原発事故も、わたしより若い人たちが推進しているらしいので、とにもかくにも、わたしが死んでからその威力を発揮してくださいね、おねがい、、。


2014/05/19

926・霧の海に浮かぶ故郷の古城が天空の城とて急に評判とか

 小さな盆地の城下町で、わたしは生まれ育った。四周を囲む山稜の鍋底の街に、江戸時代から今に至るまで、1万人ほどが暮らしている。岡山県の高梁盆地である。
 城下町の景観が今に伝わり、盆地北端の山上には古城があって、昔からそれなりにマニアの観光地となっている。ところが最近、急に観光客が増えてきたと、故郷の旧友からの便りである。

 その故郷の山上の古城が、盆地を埋める深い霧の海のうえに、その姿をぽっかりと浮かべてみせる幻想的な風景が、今、評判になっているそうだ。

 城郭建築を愛でる旅は珍しくないが、ただ、古城があればよいのではなくて、その古城をめぐる個性的な風景をめでるようになったらしい。
 雲海に浮かぶ城址と言えば、朝来市にある竹田城である。天守は失われているが、壮麗な石垣が有名である。その竹田城と並ぶ天空の城ともてはやされているらしい。

 わたしが少年時代を過ごしたその街は、朝起きるとあたりはすっぽりと深い霧に埋もれてしまっている日が、しょっちゅうあったような記憶がある。
 そのような日は、旅人は今日は雨が降るかなと思うのだが、霧の底に暮らす者は、霧が深ければ深いほど今日はしっかり晴れるぞと思うのである。そして10時頃から急に霧は消え去って、抜けるような晴天が盆地の蓋となって現れる。あの敗戦の日も、そうであった。

  お城山(正しくは臥牛山というが地元では誰もそう言わない)には、多分、故郷で過ごした少年時代に100回は登ったような気がする。そこから盆地をめぐる丘陵の稜線を歩いて回ったことも何度もある。
 だが実はわたしは、その備中松山城が雲海に浮かぶ姿を見たことはない。
 雲海に浮かぶ天守が幻想的風景であるとは聞いてはいたが、それを観るには時期、時刻、場所がかなり限られるから、わざわざその気にはならなかった。
 地元に住んでいればいつでも見られるさということもあったかもしれない。そして見ないままに故郷を離れた。

 故郷の旧友からの便りには、天空の城を観る術が書いてある。
「高梁では3月初旬~4月初旬、2~3日前に雨が降った後で前日との最低気温と最高気温の差が大きく、当日、晴天・風が弱い日の7時30分~8時30分の間です。
 場所は楢井から大松山へ向けての山道に天空の城展望台があります。

 条件が揃っていてもシャッターチャンスに遭遇するにはキャンプを張るぐらいの気持ちで一か月ぐらい臨戦態勢で撮影場所へ通う気構えが必要と思います。朝起きて、家から山を見て霧が出ているからと走って行っても遅いのです。
 高梁へ帰られることがあれば展望台から城を眺めるのは何時でも案内をします。」

 いまでは雲海の天守を遠くから眺める展望台ができているらしい。山城の周りの森は切り払われて、その姿を遠くからも見える。もちろん雲海のない時にも眺められるから、多くの観光客が山上にやってくるのだろう。
 わたしが少年時代に遊んだ山城は森の中にあって、滅亡した歴史上の城主たちの怨念が見えたものだが、今はあっけらかんと明るい城である。それはそれでよい。


参照:故郷の風景


2014/05/14

925・PCを壊してみたら少年時代のいたずらした気分で楽しかった

 これまでに物書き用の電子機器をたくさん手に入れては捨ててきた。
 始めは今から30数年前だろうが、各種WP(word processor)から始まり、各種PC(personal computer)を、いったい何台を使い潰してきたことか。
 今も3台のPCがあるのだが、そのうちの1台(A4ノート版、MSmilenium)はもう何年も棚の上でほこりまみれになっているので、お払い箱にすることにした。

 昔の簡単に捨てていた時代と違って今はヒマなので、こいつの中はいったいどうなってるんだろうと、壊してみることにした。


小さな小さなビスを、いくつもいくつも外していく。今、そのビスを数えたら41個であった。いくつか落しているから実際はもう少しあるだろう。こんな小さなビスを、人間がいちいち締めて作っているんだろうか。

 小さいビスで思い出したが、鯖江市に仕事で一時通っていたことがある。鯖江は眼鏡の弦の生産で日本一の地である。
 眼鏡には小さな小さなビスが使われている。そう、そのビス製造技術が、いまの電子機器に活かされているのだ。

 『高圧電流に注意』なんて書いてあるので、多少はびくつきながら、裏蓋を開けると、黒い膜につつまれた中身が見えてきた。

 黒幕を取り除くと、おお、これは芸術的な模様であるよなあ、プリント基板とかいう言うものなんだろうか。
 眺めていても何が何をするのかさっぱりわからないが、唯一わかったのが右の方に見える扇風機である。こんな小さなやつが一生懸命に回って、出てくる熱を追い出していたのか、けなげなやつ。
 右上に四角な鉄板の薄い箱がある。何かあ入っているらしいが、ねじが特殊で開かない。これが、たぶん、心臓部のハードディスクなんだろう。熊の肝を切り取った気分である。

 ナンダカンダトあるが、どんどん引きちぎってバラバラにした。上の方に2台の生き残りPCが見える。

 キイボードの裏側はこんな模様なのか。

 少年のときに「4球スーパーラジオ」を組み立てたり、古時計を分解したりしたときの気分を想い出した。
 一時はどこにでも持ち歩いていて、携帯電話機につないでメール送受信をしていたもので、ヨーロッパアルプスにも行ったが、最後に楽しい思いをさせてくれた。


2014/05/13

924【五輪騒動】建築家って何でもどんな条件でも設計できるスゴイ人なんだなあ

 これはひとりの建築家への悪口である。ご当人が、悪口を言われも構わないと、おっしゃっていたので遠慮しないで言う。
 昨夜(2014年5月12日)、新国立競技場に異議申し立てをする人たちが主催するシンポジウムがあった。これで4回目だったかの集まりであり、その粘り強さに敬服する。
 今回のテーマは、現競技場を壊して建替えるという現在の計画を止めて、現在の競技場を修繕改修して2020年の東京オリピック会場に使おうということであった。
 要するに、治して使えば使えるし、その方が安いのに、もったいない、というのである。

 それはそれで、まことに結構なことであると思う。1964年のオリンピックの記念建築のとして、修復保存の意義もあるだろう。
 もっともわたしは1964年のオリンピックを観た記憶はないし、もともとオリンピック嫌いだから興味はない。

 わたしは昨夜のネット中継を、途中から視聴したのだが、気になったのは、その現施設修繕改修案の提案者が、伊東豊雄という建築家であったことだ。
 わたしは伊東については、どんな建築家でどんな設計するのか、ほとんど知らないが、有名な建築家であるらしい。

 ビックリしたのは、この人はこのシンポの主催者が異議申し立てしている新国立競技場コンペに応募して、落選した人であることだ。
 なかなか骨のある人だなあ、落選したのに粘り強くこうやって落選案を持ち込んで、異議申し立てをするんだもんなあ、偉いなあ。

 昔々、前川國男という建築家が、帝室博物館のコンペに落選して(当選案が今の上野の国立博物館)、その落選案をジャーナリズムに堂々と発表して、負ければ賊軍と居直って、コンペに異議申し立てをした事件があったが(といっても建築界のコップの中の嵐だったが)、あれ以来である。
 今、伊東豊雄は、その先輩をなぞっているんだろうが、それでもエライ。

 と思って聞いていたら、どうも、そうじゃなくて、昨日の改修案は主催者側の中沢新一に頼まれて、新たに作ったというのである。
 え、違うの? じゃあ落選案は今の当選案のようなものだったのか。いや、もちろんデザインというか姿は違うだろう。

 しかしコンペ条件からして、高さは70mもあって、巨額工事費と巨額管理費がかかるって応募案だったろう。つまり、シンポ主催者の異議申し立て対象となる。
 もしも伊東応募案が当選していたら、昨日は「被告」の立場で登壇しただろうか。
 なんだか奇妙なのである。

 中沢新一が伊東に改修案づくりを頼んだという。伊東は「悪口を言われてもかまわない、応募したからこそ条件をよく知っているから改修案をつくることができる」という。
 そうか、伊東は自主的に考え直して、応募案はよくなかったと反省して、改修案が良いと発表なさったのではないのであったか。じゃあ、応募案はいったいなんだったんだ。

 でも、よく知っているのなら、応募の時にこのコンペ条件はおかしい、とは思わなかったのか。
 つまり、建築家として頼まれれば、あるいはやる気になれば、どんな前提でも何でも設計をやれるのであるらしい。それもなんだか、ものすごいことである。
 そういえば思い出したが、今、ザハ・ハディドの監修のもとに、ザハ・ハディド案をもとに設計作業をしているのは、なんとまあコンペでザハ・ハディドに負けた日本の建築家だそうだ。商売、商売!

 ここで伊東の大学先輩の建築家たちが、あの1945年の敗戦を境にして見せた変わり身の素早さを、彼も見事に受け継いでいる、とまでの悪口を言うほどのレベルではなさそうだ。
 でも、初めに、さすがスゴイ、闘将前川の再来か、と思ったのを見事に裏切られて、悪口のひとつも言いたくなる。

 もうひとつ別のことで気になったことは、改修案は文部科学省でもとっくに久米建築事務所に委託して作っているし、この前の前だったかのシンポジウムで、他の建築家が提案していた様な気がする。 だから事新しい案でもないのだ。
 それらを俎上にあげずに、なんでまた伊東に頼んだのだろうか。これまでの案がよくないから伊東に頼んだのだろうと思って、ネット中継を見ていたのだが、そういうのでもなかった。

 なんだか知らないが、伊東が有名建築家だし、落選建築家だから、このシンポジウムの人寄せパンダをなさったのだろうか。(でもその役は槇文彦さんが自らかって出ておられる)
 わたしは、その異議申したて運動にケチをつけるつもりはないし、反対もしないのだが、この建築家の態度はなんなんだろうかと、妙に気になる。
 という、お許しいただいて、一介の徘徊老人の悪口雑言である。

(追記20140515)思いついたのだが、伊東は審査員の建築家の安藤と内藤をおびき寄せるための餌のつもりかもしれんなあ、う~ん、食いつきそうにないなあ。

 なお、新国立競技場計画に関するわたしの意見は、下記に載せている。
新国立競技場と神宮外苑そして2020五輪運動会についての瓢論・弧乱夢
http://datey.blogspot.jp/p/866-httpdatey.html

2014/05/11

923【言葉の酔時記】天気予報放送用語は気象予報士の的中自信度合いに左右されるか

 ラジオで今日の天気予報の放送を聴く。
「関東南部は、晴れ」 
 おお、晴れって、自信ありげに断定、よしよし、出かけよう。
「関東北部は、晴れるでしょう」 
 おや、ちょっと違うなあ、自信ないのか。
「甲信地方は、晴れの予定」 
 あれれ、予め定まってるんだな、自信あるんだな。
「新潟地方は、晴れのようです」 
 また自信失ったな。
 
 この語尾の違いはどういうことなんだろうか。単に同じ言い方じゃあバカみたいだからとて変えてるのか、それともそれぞれ意味が違うのだろうか。
 予報的中の確率というか、予報的中の自信の度合いというか、それが異なるのだろうか。「晴れ」なら100%、「晴れのようです」ならば70%とか。
 「今日の天気は晴れ、ところにより曇り、あるいは雨、寒いところでは雪かもしれません」てな具合で言えば、的中確率100%。

 天気予報の放送を、「気象予報士の●●がお送りしました」なんて、個人名を名乗っている場合がある。これはその人が予想した天気なんだろう。
 でも、それが当たらなかったとしても、「昨日は当たらなくて、お詫びします」って、謝っているのを聴いたことがない。いいのか。
 まあ、お天気まかせというぐらいだから、いちいち謝っているときりがないか。

 確率と言えば、降水確率というのが、なんだか分らない。
 本日の降水確率50%といえば、1日24時間のうち半分の12時間を雨降りって意味だとばかり思っていたら、何だか違うらしいが、どう違うのか知らない。

2014/05/08

922・大型連休が終ったらしいが終身大型連休服役中のこちとらは関係ないなあ

 大型連休が終わったらしい。こちとらは終るのがいつになるか見当がつかない超々大型連休を服役中だから、関係ない。
 世の中の大型連休の意味が分らない。たった4日間連続した休日なら、これを大型というのか。だって、3連休がしょっちゅうある今時、おかしいでしょ。

 近ごろ国民の祝日なるものがじわじわと増えていて、何のことかわからなくなった。
 海の日とか緑の日とか、いったいなんのことだよって思っていたら、こんどは山の日をつくろうって策動があるらしい。その次は、空の日と言い出して、陸海空3軍そろい踏みなるんだろう。
 まあ、なんでも作ればよろしいでしょう。こちとらはもう関係がないのだ。

 で、大昔の祝日はどうだったんだろうかと、気になって、わたしの亡父の遺品の小さな手帳をとりだして見た。
 1931年に軍隊に初年兵として入ったときに支給されたものらしく、発行は昭和五年紀元二千五百九十年とある。その初めの方のページに、当時の祝日が書いてある。

・大祭祝日
四方拝(1月1日)、元始祭(1月3日)、新年宴会(1月5日)、紀元節(2月11日)、春季皇霊祭(3月21日)、神武天皇祭(4月3日)、天長節(4月29日)、秋季皇霊祭(9月24日)、神嘗祭(10月17日)、明治節(11月3日)、新嘗祭(11月23日)、大正天皇祭(12月25日)

 これらのうちで現在も法による祝日は、元日(1月1日)、建国記念の日(2月11日)、春分の日(3月21日)、昭和の日(4月29日)、秋分の日(9月24日)、文化の日(11月3日)、勤労感謝の日(11月23日)である。

 紀元節、天長節、明治節という天皇制に由来を持つ日が、いまだ名前を替えて存続しているのに、神武天皇祭はともかくとしても、近代以降の天皇で大正天皇祭だけが消えたのが、妙に興味深い。
 こうやって見ると、戦前の祝日は、天体の運行による特定日のほかは、すべて天皇制に連動しているのであった。
 ところが、新しくできた現今の祝日の海の日が、明治天皇の行動に由来するというから、いまだに戦前をひきづっている。

 いまの祝日は、このあたりで法律で決めてくれる休みがあるといいのになあ、有給休暇を取りにくいからなあ、って、いかにも戦後日本的な事情で決めているらしい。
 だから、日曜日と重なると月曜日が代理で祝日になるとか、週の中日だとどっちかによって連休にするとか、もともとの記念日の意味がほとんどなくなってきた。それでいいけどね。
 
 要するに、勤め人がもっと休むためには、お上に頼って法による祝日で決めてもらわないと、有給休暇をとる権利を行使しにくいって、そういう事情が裏にあるんでしょうねえ、ナサケナイ。