2019/06/18

1405【1950年代モダニズム建築の再生】2:横浜の紅葉ヶ丘の今昔と神奈川県立図書館・音楽堂


【1950年代モダニズム建築の再生】(1)からつづき

 今年5月に鎌倉の八幡宮境内にあった神奈川県立近代美術館が閉館して、建築は復元的再生して別のミュージアムに生れ変った感想を、このブログの前の記事として書いた。続いて同じくこの春に復元的再生をした県立音楽堂について感想を書く。
 県立美術館は1951年開館、音楽堂は県立図書館と合せて1954年に開館、どちらもオーナーは当時の神奈川県知事内山岩太郎である。内山は会館知事と言われた程に沢山の開館を県内に建て、今でいうところの箱モノ行政をやって、あの貧乏な時代に人々の文化への希求をうまくとらえたともいえる。

紅葉ヶ丘の文化施設群
●驚くべき紅葉ヶ丘の景観変化

 鎌倉八幡宮で美術館を見てきた眼で、横浜市中区の紅葉ヶ丘に立って県立音楽堂を見ると、その景観のあまりに奇妙さに、音楽堂を可哀そうに思ってしまった。

左に県立音楽堂、正面は高層共同住宅群とMM21超高層建築群
左端に音楽堂、右上は青少年センター
音楽堂ができた頃はこのむこうには空だけだったはず
今ではそれなりに見慣れたが、それでも昔の景観を思いだすと戸惑う気分になるのは、ここは髙い丘の上なのに、丘の下に建つ超高層ビルから見下ろされているからである。
紅葉ヶ丘の音楽堂前の駐車場広場の標高は約25mの高台だが、その東側の丘の下は海を埋め立てて造った標高4m程の平らな街がひろがり、そこに建つ超高層建築群が丘よりも高くそびえているのである。

 紅葉ヶ丘の景観の主役であった音楽堂・図書館そして青少年センターは、その座をひきずりおろされてしまっているのである。
 かつて東に大きく開かれて広場は、妙にデコボコスカイラインと色とりどり建築ファサードに取り囲まれた。たぶん今後も増加して変化していくだろう。
 それはひとりの建築家がつくりあげた紅葉ヶ丘上の建築群のまとまりある景観に対峙して、何ともまとまらない景観を投げかける。
 この景観の大変化の中で、建築保全とはいったい何だろうかと、鎌倉の旧美術館と比較するとあまりの違いに、都市景観と建築について大いに考えさせられるのである。
  
紅葉ヶ丘を見下ろす丘の下の超高層建築群
紅葉ヶ丘は、横浜が開港した19世紀中ごろ、幕府はここに奉行所を設置して、横浜の街を管理した官庁街だった。戦後は県公舎用地となり、知事公舎と職員住宅が建っていた。その知事公舎跡地に1954年に立てたのが図書館と音楽堂だった。
 その頃は丘の上から東の横浜港を俯瞰すると、目の下には横浜造船所のクレーンやドックのある工場が広がり、その向こうに東京湾を出入りする船が見えていた。
 それが20世紀末になると造船所は引っ越し、海を埋立てて土地を作り、「みなとみらい21」プロジェクトの新市街形成が進んだ。横浜で最激変の地である。
1988年丘の下の造船所跡地等埋立大変化中
わたしは20年も前だったか、久しぶりに音楽堂にやってきた時に、ランドマークタワーが音楽堂にのしかかっているのに遭遇し、文字通りにビックリ仰天したものだった。えっ、こんなに近くてこんなに髙いのかと、ただ見上げるばかり。
 そのときは紅葉ヶ丘の景観に割り込んでいたのは、ランドマークタワー一本だけだったが、その唐突さに不思議な思いだったが、その後にまとまりなくあれこれと景観は乱れて行った。
 今では音楽堂のすぐ下の斜面地にあった、中層の花咲団地が建てなおされて高層建築共同住宅群になり、いまや海も見えないどころか、丘の上から見晴らす風景が消滅してしまった。

●“黒沢天国”の紅葉ヶ丘

 それを嘆くことではないが、あまりの景観変化に今でもまだ戸惑いがある。横浜だけではあるまいが、海や川沿いの低湿地と丘の上の高燥な土地との間には、自ずからそれぞれの品格の上下差があって、もちろん丘上が格が上で低地を見下ろしている。
 そこで思い出すのが、黒沢明監督映画「天国と地獄」(1967年)であり、その天国とは丘の上の住宅、地獄とは低地のスラム街であり、横浜がモデルになっている。あの凶悪犯は低地から丘の上を見上げて、そこにいる富裕層への劣等感をつのらせる。
 ところが紅葉ヶ丘は、見事に低地から見下されていて、なんだか逆転している感があるのだ。この現象は実に現代的で、興味深い。
映画「天国と地獄」の天国と地獄の風景
丘の上と下の関係で言うと、市民の利用する文化施設の図書館・音楽堂を、紅葉ヶ丘の上という駅からも街からも遠くて、急な坂を登る不便なところつくったのだろうか。
 たまたま県有地があったからとは言い切れないのは、美術館の例を見ても明らかだし、関内には空き地だらけで県有地もたくさんあったはずだ。

 思うに、昔は(今もか)文化施設は、猥雑な街なかを避けて丘の上とか郊外の緑の中とかに作っていたものだった。文化は高尚だからと思っていた節もある。
 利用する市民の不便さよりも、立地の環境が美しく建物も景観的に見栄えが良いようにつくり、行政トップの政治的見栄としての箱モノ行政だったようだ。今もその傾向があるのは、隣の横浜能楽堂がそうである。

 実は紅葉ヶ丘はわたしの今の住み家から近いので、図書館に調べものでよく訪れるし、趣味の能楽鑑賞で横浜能楽堂にもちょいちょい入る。音楽堂と青少年センターにも、たまによって音楽や演劇鑑賞もする。
 東の桜木町から紅葉坂を歩いて登るアプローチは、なんと高低差約20mもあって、歳とるとなんとも苦しいので、わたしは日ノ出町方面からバスで登るのだ。
桜木町から登る紅葉坂
桜木町方面から路線バス便は無くて、音楽堂のイベントに合わせての特別バスだけである。ぜひとも紅葉坂を登る路線バスを開設してほしい。
 桜木町駅から横浜美術館、MMホール、紅葉ヶ丘の図書館、音楽堂、青少年センター、掃部山の能楽堂、野毛山の横浜市立中央図書館、そして日ノ出町駅へと巡回してはどうですか。
 
●“黒沢地獄”の丘の下

 1950年代半ばに内山知事があちこちで箱モノを目論んでいた頃、鎌倉の美術館は高台ではないが、超一級の立地であることは確かだ。
 では県立図書館・音楽堂はどうかと言えば、まさに丘の上の“天国”立地だが、なぜ人々が利用しやすい横浜都心の関内や関外ではなかったのか。
 この問いに最も直接的な回答は、そのころは横浜の関内関外のほとんどが、敗戦と同時に進駐してきた連合軍の基地として占領されていたので、そこに建てるとは誰も考えようがなかったからだろう。
1954年開館当時の図書館・音楽堂 手前に県の公舎が見える
 図書館・音楽堂が開館した1954年前後の紅葉ヶ丘は、空襲による焼失を免れて、林の中に県の公舎が立ち並び、県知事公舎もあり、まわりも静かな住宅地だった。
いっぽう、丘の下の桜木町から関内・関外にかけての市街地は、空襲によってほとんど焼失した後に、敗戦直後から占領軍に半分以上を接収されて兵舎や軍用機財置き場等の用地になった。
 そこで、接収を免れた桜木町あたりから野毛、日ノ出町、黄金町にかけての大岡川から日ノ出川沿いに人々が移ってきて、戦後の横浜都心になた。つまり紅葉ヶ丘と野毛山の麓が新たな都心になったのだ。

 1950年に朝鮮戦争が始まると横浜港はその兵站基地となり、紅葉ヶ丘下の横浜港も横浜造船所もおおいに活況を呈して、多くの労働者が全国から集ってきた。麓の狭い土地に集る人々で、街は闇市と安宿の密集スラム街となり、街も丘も野宿者たちがあふれ、犯罪が横行していた。黒沢映画の“地獄”はその一部である。
 そして紅葉ヶ丘には、高尚なる文化の殿堂の図書館音楽堂が建った。まさに“天国”である。県都横浜の都心に作りたかったかもしれないが、地獄の街に文化施設はありえなかったのだろう。
1956年の紅葉ヶ丘(黄丸)と横浜都心北部
下中央部に占領軍接収地の兵舎群が見える
2018年の紅葉ヶ丘(黄丸)と横浜都心北部

●音楽堂は昔も今も超一級ホールか?

 それにしてもそのような時代なのに、いやそのような時代だからこそか、図書館・音楽ホールとよく作ったものだ。開館当時から西欧の名演奏家がこの音楽堂にやってきたそうだが、その聴衆は下界の労務者たちではなかったことはたしかだろう。
 もっとも下界のアメリカ軍キャンプでは、ジャズ音楽が響いていたことだろう。
 その頃の、レコードによる西欧クラシックの復活について、個人的な記憶がある。わたしの1954年頃は、住民が1万人程の城下町盆地で高校生だったが、LPレコードでクラシックを聴く会になんどか行った記憶がある。片面30分のレコード盤が出てきた頃で、田舎高校生でもクラシック音楽に憬れていたのだった。

 都会には本物演奏に憬れていた人たちが多くいただろうから、音楽堂への希求が大きかっただろう。実はこの音楽堂でもその頃にはLP鑑賞会があったらしい。
 まだ日本全体が若い時代、図書館だろうが音楽堂だろうが、文化を求めて丘の上に登るのは苦労ではなく喜びだったろう、ホールらしいホールはここしかなかったから。
 そしてこの音楽堂はクラシック音楽ファンに愛されて、竣工直後に改修や増築しているから設計所で不具合があったのだろう。90年代はじめの建替え話も乗り越えて、2008年には耐震工事を経て今回の大改修へと、今日まで生きてきた。

 わたしは音楽ホールの建築的なことも音楽的なことも知らないが、ちょっと思いつくだけでも今や横浜都心部には音楽系大ホールが、ここのほかに4箇所もある。音楽堂よりもはるかに設備は整っているし、便利な立地にある。
 そのような時代を迎えても、はじめの頃と今とはどのように使い方が変っているのか知らないが、この音楽堂は当初からそして今でも素晴らしい音楽の場なのか、復元保全に値する記念的モダニズム建築だろうか。

 ここではモダニズム建築の保全について書こうとしているのだが、まだ建築と言うよりも都市環境の話から抜け出せない。ほかにもここの建築外部環境への対応にいくつものハテナと思うところがある設計で、あの前川國男も初期の初めての公共建築では下手だったなあと思うのである。
 建築再生の話は続きで。
                 (つづく


2019/06/07

1404【50年代モダニズム建築再生】(1)神奈川県立近代美術館が鎌倉鶴岡八幡宮ミュージアムに転生した

●身近な二つの有名建築公営文化施設の再生

 今年(2019年)の春、身近にあって親しんできた文化施設二つのリニューアルオープンに出会う機会があった。どちらも戦後早期にできたモダニズム有名建築である。
 ひとつは鎌倉の鶴岡八幡宮境内にある「神奈川県立近代美術館」であり、もうひとつは横浜中区の紅葉が丘にある「神奈川県立音楽堂」である。この音楽堂は県立図書館と同時にできた連携する施設であるが、図書館リニューアルは後回しで音楽堂が先行してオープンした。

 実はどちらの施設もわたしが親しんできた施設で若干の思いいれがあり、その建築、環境、景観そしてそれが生れた頃の社会的背景について考えさせられたので、感想を書いておくことにした。
リニューアルオープンした鎌倉文華館(旧県立美術館鎌倉館)
リニューアルオープンした県立音楽堂
 近代美術館は、40年ほど前から四半世紀を旧鎌倉の東寄りに住んでいたので、美術館のある鶴岡八幡宮境内はしょっちゅう通りぬけており、参道に出ている美術館の展覧会ポスターを見て、ちょくちょくふらりと入ったものだった。

 音楽堂については、2002年に横浜の関外に移り住んだので、近くの紅葉が丘にある横浜能楽堂には趣味の能楽見物によく行くし、県立図書館にも調べものでちょくちょく行くから、それらの隣にある音楽堂や青少年センターホールでの出し物に触れるようになった。
 もっとも、鎌倉に住む前は横浜の日吉に10年ほど住んでいたので、そのころも何度か音楽堂に来た記憶がある。

 美術館(設計:坂倉順三)が1951年、音楽堂(設計:前川國男)が1954年の創設だから、まだまだ日本全体が貧困きわまっていて、文化施設よりも住宅を食物を求める時代であった。1950年頃から復興への歩みが起きようとして来て、そのような殺伐とした時代だからこそ文化が求められる空気も出てきたのであろう。

 当時の神奈川県知事は内山岩太郎であり、内山のリードで文化施設として美術館、音楽堂、図書館を造ったのだった。それにしても、どちらもモダニズムデザインの旗手たる建築家をコンペで選出したのだから、よくもやったものである。そのころはわたしは中学生だったが、あの頃の新たな時代への社会の意気込みが分るような気がする。

●近代美術テーマの美術館

 内山が鎌倉に県立近代美術館を作ったのは、美術展覧会のできる会場が欲しいと言う市民の要請があったからのようだが、まだまだ苦しい時代でありながら、文化復興への息吹がようやく出てきたということだろう。政治家としてそれをとらえて美術館に結実させたところがさすがである。

 しかし、建てたのが県都の横浜市内ではなかったのは、横浜が戦中の大空襲による戦災ダメージに加えて戦後は都心部が占領軍基地になっていたからであろうし、古都の鎌倉にしたのは、鎌倉は戦災に遭わず各界文化人たちも多かったことにあるだろう。
 しかも八幡宮境内という絶好の立地を得たのだった。つづく県立音楽堂の横浜の立地と比べると、その後の現在までの立地環境や景観の変化のあまりの差異に驚くのである。

 美術界のことは知らないが、このとき「近代美術」というテーマを掲げたのは、この美術館企画に深く携わり館長になった土方定一によるものだろう。近代という言葉の持つ前衛性に戦後の文化復興の進路を見出そうとしたのだろうか。あるいは鎌倉の八幡宮境内には「鎌倉国宝館」が既にあったことが、ジャンル分けを明確にさせたのだろうか。

 日本の近代美術館としては倉敷の「大原美術館」(1930年設立)が戦前から有名である。企業家大原孫三郎によるいわゆる泰西名画のコレクションによる私設美術館である。
大原美術館遠望 2011
近代美術に限ってはいないが、その充実がすごい。
 わたしは少年時代を過ごした街が倉敷に近いのでなんどか行ったことがあり、その展示されている名画の数多くを記憶にある。近年に六本木の国立ギャラリーにそれらの多く名画がやってきて「大原美術館コレクション展」があり、懐かしく思い出しつつルノアールやセザンヌを見たのだった。

 考えてみれば、わたしが倉敷でそれを見た頃は、鎌倉の近代美術館が生れた頃のまさに戦後貧困期であった。そしてそれら美術が中学生の心に深く刻みこまれて、なにほどかは後に建築デザインの世界へと向かわせたかもしれないから、この県立近代美術館も都会の少年たちを文化へと目覚めさせたことだろう。

 ところで、いまでこそ近代美術館を名乗るものは多いが、そのころは日本では皆無だっただろう。そして鎌倉の県立近代美術館は、近代美術を掲げた公立美術館としては日本あるいは戦後で最初であったと書いている資料を散見する。例えば「神奈川県立近代美術館」サイト「日経アーキテクチュア1978年8月7日号」、「鎌倉文華館」サイトであるが、わたしの知見では実はこれは正しくないはずである。

 高松市の栗林公園内にあった「高松近代美術館(山口文象設計、後に高松市立美術館)は、1949年に高松市立の近代美術館として開館している。わたしは1978年に訪ねたことがあるが、鎌倉の近代美術館に負けないモダンデザインだったが、大名庭園の中で異彩をはなっていた。
高松近代美術館 1978
これを近代美術館としたのは、この美術館の企画者だった猪熊弦一郎によるものだろうし、山口文象に設計させたのも猪熊の推薦であったとは、わたしが猪熊から直接に聞いたことがある。
 1988年に閉館して市内の別のところに移転した。建築は今は無いが、設計図面はRIAが保管している。山口は次の年の久が原教会を発表して戦後復帰を果たしたのに、この戦後最初の作品とも言うべき高松近代美術館を発表しないままだったのは、なぜだろうか。

近代美術館は八幡宮ミュージアムに

 ところで、この美術館と音楽堂という二つの文化施設の今回のリニューアルオープンで興味深いのは、施設にも運営にも大きな差異が起きたことだ。音楽堂は県立のままだが、美術館は民営になり中身も変わった。
 鎌倉の美術館は「鎌倉文華館・鶴岡ミュージアム」と名を変えて、鶴岡八幡宮が所有して運営、神奈川県は撤退して県立近代美術館の看板を下ろしてしまった。
県が八幡宮から境内地の一部の土地を賃借していたのだが、その賃貸借契約期限が切れて延長ができなかったのがその理由であるという。八幡宮が跡地利用を考えて土地の返却を求めたらしい。

 もっとも、県立美術館は分館が近くにあって継続するし、葉山にもあるから消滅はしないのだが、今の八幡宮境内立地よりも交通不便であり、わたしは鎌倉別館には数回、葉山館には1回訪れたのみである。
 さて八幡宮はどのようなミュージアムにするであろうか。宗教活動の場なのか、それとも純粋に美術館経営をするのだろうか。先般の見学に行ったときに、施設管理者たちの衣装が白衣と水色袴であったのが、いかにも八幡宮施設となったことを認識させた。
鎌倉文華館の鶴岡八幡宮参道からのメインアプローチ

●建築の復元保全について

 当初は八幡宮としては新しい施設を建てなおすつもりがあったようだが、長年親しまれた池に臨む美しい内外の風景とともに戦後名建築の消滅を惜しんだ市民たちの要望があったようだ。
 八幡宮は市民の要望に対応して、美術館建築の本館部分を残して復元的リニューアル、新館は取り壊し、付属棟は建て直して、新ミュージアムとして再登場させたのである。

 これをどう評価するか。景観保全としては成功だろうが、建築保全としてはどうだろうか。わたしはなんでもかんでも当初に復元保全という保存原理主義には同調できないが、ここではどこまで原理主義的であるのだろうか。
 モダニズムデザインとして印象的な本館は、できるだけ復元設計されたとのことであり、池からの景観は美しく、ピロティからの池の眺めも楽しい。


元の設計のもっとも目立つ真っ白い立面の外壁面は、スレートボードを目地押さえ金物でつなぐといういかにもチープなものであった。これをリニューアルでをどうするのか気になっていて、今どきの設計ならば新館に使ってあったホーロー鉄板を使って目地押さえ金物など使わないだろうと思っていたが、原設計のままにチープさと共にリニューアル復元されていて、それなりに美しくなっていた。
 なおリニューアル設計は丹青社であるが、なぜ坂倉建築事務所ではないのだろうか。

 建築復元としてはともかくだが、最も大きな改変はメインアクセスを八幡宮参道側にしたことだろう。あの大階段が招き入れる機能がほぼ死んでしまったのがもったいない。この大階段を上手に使う展示やイベントがなされることを期待する。
 だが、考えてみると、実質的には入館者のほとんどが参道側から入るだろうから、これが正しくて元の設計が間違っていたといってよいだろうが、なんだか引っ掛かる。
元の正面玄関が裏玄関になった鎌倉文華館
近代美術館だった頃の正面入り口風景 2009年
 県立時代には中庭や外構のあちこちに彫刻作品がおかれていたのが、いまは何もない芝生やペーブになっているのが、何だかさびしい。もとのままに置いておくことはできなかったのか。そのうちに何かがおかれるのだろうか。
かつて県立美術館であった記憶の風景は、建築だけがあればそれでよいのだろうか。わたしの頭には建築と彫刻とが一体になった風景が記憶に刻まれている。
 
●完全消滅した新館

 新館がすっかり取り壊されて、メインアクセスルートの芝生の下に消えた。これは池との関係で悪くない景観ではあるが、新館が影も形もないのが気になる。
左に本館、右に新館があった旧県立近代美術館 2009年
本館と新館の間に池が入り込んでいた 2009年
 新館はいつのころからだったか、建築構造上の問題が起きたとて使用禁止になっていた。それを聞いてわたしが訪ねたのは2009年夏だったが、なるほどあちこちの鉄骨の柱の根元がボロボロに錆びていて、フランジに穴さえ開いていた。
 この鉄骨は耐候性鋼と言われ、錆が被覆となってメンテナンス不要が売り物の新材料だったはずである。わたしも1970年頃にこの鉄骨を使うオフィスビルに関わったが、それは今も健在であるから、ここの鋼材は不良品だったのか。
旧近代美術館時代の新館 右が本館 2009年
コルテン鋼柱の根元の穴空き腐食 2009年
 この増築は最初から予定されていて、開館は1966年だから晩年の坂倉順三(1901-1969)の設計になるそうだ。わたしはこの新館の吹き抜け展示空間を大好きだった。大きな絵を見ることができるし、大ガラス越しの外の池の景色もよかった。
できればこちらも復元してほしかったが、消えたのはどうしてだろうか。そういえば鎌倉文華館の開館記念展示には、本館のことは詳しかったが、新館については全く何もなかったのは、どういうわけだろうか。

 附属棟の跡地の三角屋根展示場も悪くないけれど、復元新館をそれに充てることできなかったのだろうか。せめて、芝生アプローチの中にあのボロボロ鉄骨柱数本を元の位置に建てると野外アートにもなるし、この美術館の変転史を伝えることができるとも思うのだが、記憶に残る建築であっただけに、惜しいことだ。

変わらなかった環境

 さて全体的に見て、これも建築保全としての一つの回答だろうが、建築復元にこだわり過ぎて、どこかつまらないのである。要するに創造的なところがどこにもないのである。
 もちろん元の設計が、小さな建築なのに大きな階段、広い中庭、気持ちよいピロティ、そして何よりも八幡宮境内の環境が素晴らしく、結果は実に良いのだ。森の泉のほとりの宝石箱である

 ただ、これはずっと前から気にくわなかったのだが、あの水と緑の立地環境のなかで、内外相互貫入する建築空間を、一連の連続する空間として体験ができないことである。
 建築に入る段階で入場料を支払う人為的なバリアーがあることで、連続すべき動線が切れてしまうのであるのが、実にもったいない。
 池を巡る道がピロティに連続するようにしてほしい。ピロティや中庭は外扱いにして入場料をとらない、あるいは参道からの敷地入り口で入場料をとればよいのに、と思う。

 創造的なところがあるとすれが、付属棟跡の新展示施設であろうか、あるいは逆説的だが新館の消滅による空間デザインが創造的と言えば言えるだろうが、建築空間としては復元にとらわれているところが、どうも、いじましいのである。
 昔のもとの姿に復元せよと言う、建築保存原理主義者の言い分にに負けたのだろうが、それを一歩踏み出すと新たな創造的空間が生まれるだろうに、惜しいことである。
 最初にコンペで坂倉を起用したように、再生設計コンペにすればよかったかもしれない。これはないものねだりだろうか。いや、坂倉を越えるのは無理か。

 建築的なことはともかくとして、ここでもっともすごいと思うのは、この立地環境がこれが建った1951年からほとんど変化していないということである。後述するが県立音楽堂の立地する横浜紅葉が丘が、都市開発圧力による結果として景観が大変化したことと比べると、こちら鎌倉のほとんど変化しないことに驚く。

 もちろん鎌倉にも開発圧力は高いのだが、都市計画としては八幡宮境内は市街化調整区域であるし、まわりも含めて古都法や景観法などで環境と景観の保全施策があるし、それよりもなにりも市民に環境保全思想が行き渡っていて、開発となるともめごとになるからだろう。
1956年の鶴岡八幡宮あたりの空中写真
2018年の鶴岡八幡宮あたりの鎌倉空中写真
1990年の近代美術館と鎌倉八幡宮周辺景観
 そういえば、1964年に起きたいわゆる「御谷(おやつ)騒動」といわれる鎌倉八幡宮裏山宅地開発反対運動のときに、この美術館を作った内山知事は、開発行政をつかさどる長の立場にありながら、政治家として開発反対に動いたことで開発は止り、1966年に古都法を生み歴史的環境保全へと歩むようになったのであった。
 
今回の美術館のリニューアルで、建築・環境・景観は1951年時点に復元したことになるのかもしれない。ただしハードウェアはそうだが、公立から離れて宗教法人活動の場となって、ソフトウェアとしては原点復元ではない。
 いや、そうではない、もともとが宗教法人の敷地内だから、宗教活動のできない異物だった公立施設の排除で、むしろこうなってこそが原点復元と言うべきだろう。なかなかに稀有な興味深い事例である。

(次の県立音楽堂の記事につづく

2019/06/03

1403【狐乱夢5月FBまとめ】緑の館シリーズ、おいしい動物園、五輪便乗外苑再開発、武器セールスマン国賓、カイゲンレイ日本、鎌倉風景

まちもり散人【狐乱夢5月FBまとめ】
緑の館シリーズ、おいしい動物園、五輪便乗外苑再開発、
武器セールスマン国賓、カイゲンレイ日本、鎌倉風景

5月1日 【カイゲンレイ下の日本】 
今日は5月1日だけど、メイデイってだれも言わないな、
やめたらしいな、いやカイゲンレイ下だからだろうか、フーン

5月4日【鎌倉門前町風景】
超久しぶりに鎌倉若宮大路二の鳥居あたりへ、警察庁舎が消えて峰医院が消えて、ほほう、そうかそうか、おおッ、あの浅羽屋ビルが無いッ、別のビルが建ってる、門前町の猥雑さを象徴するあの姿、鎌倉名物だったのに消えたとは残念と、よくよく眺めたら、アッ、いやこれはッ、どうも大きさと言い高さと言い、もとの建物を改装したように見える、でも、あんまりデザインが違いすぎて、不思議と言うか面白いと言うか奇妙と言うか、ほほう、これも鎌倉お得意の保存再生ですかね、なかなかやるわい、門前町の猥雑さにまた別の花を添えたねえ、さて、これから見に行く県立近美の坂倉建築も、どう保存再生で化けているか、がぜん楽しみになってきた。

5月8日【カイゲンレイ下の日本】 
30年前ベルリンの壁崩壊で冷戦時代終了
そのとき偶然同時に昭和終了
今年はトランプ対シイチンピン新冷戦時代開始
偶然にも平成終了
「冷WAR」時代開始

5月15日【本づくり趣味】
あら、世の中には、わたしと同じような人がいるんだ、このひとは「手づくり本アーティスト」と名乗って、他人様の本を造っているらしいが、わたしはアーティストなんてのじゃなくて、単なる趣味で自分の著作を、自宅の机の上で、自分で編集して、自分で印刷して、自分で製本して、知人たちに読め読めと押し付けるのだ。DTP/ODPつまり随時印刷卓上出版が趣味である。たまにはこの人のように人さまの本も趣味で作る。
その一覧はこれ。https://datey.blogspot.com/p/dateyggmail.html

5月16日伊達の眼鏡ブログ記事
【五輪便乗再開発】
そうか、ついに動き出したか。
なんとまあ、都市公園指定の土地に、超高層の商業やオフィスなどのビルを、市街地再開発事業制度を使って建てるとのことだ。いやはや面白いことになってきた。
 この計画に関してのわたしの一番の興味は、「都市公園」対「都市再開発」の駆け引きである。
神宮外苑の再開発は、「まちづくり公園制度」を使うらしい。
わたしは都市公園制度のことをよく知らないが、東京都心部にある未開園の都市公園に限っての開発利用の緩和制度らしい。この制度は2013年に作られていて、しかも再開発等促進区の区域に適用するとあるから、2013年に神宮外苑地区計画指定と共に作られたようで、つまり神宮外苑再開発のために作られた制度であるらしい。
 そうだとすれば、さて、どこを都市公園として供用し、どこを都市公園廃止するのだろうか。たぶん、、ふ~む、、なるほどそういう仕掛けであったかあ、フンフン、やるなあ~、すごいもんだ、今ごろになって気がついたバカ、、でも、公園屋さんは、それでいいのかい?

5月22日 ブログ新掲載記事
【五輪便乗再開発つづき】
神宮外苑に超高層建築を建てる再開発事業は、東京都独自の「公園まちづくり」という制度でやると、今ごろになって知った(はずかしながら)。
 それは都市計画で公園決定していながら、半世紀も公園になっていないなら、一定条件下で廃止しても良いとのこと。その条件とは「地区計画」の「再開発等促進区」による再開発で、面積は6割に減っても実質的に公園を確保するのである。
 さすがに開発圧力が強い東京でこそ可能な、公園と開発の妥協の産物らしいが、まあよいとしよう。
 でも実は、神宮外苑では国有地が公園廃止に大貢献したおかげで、民間主体の再開発が可能となるって、なんだかスッキリしないような、、、。


5月29日伊達の眼鏡ブログ新記事
【五輪便乗神宮外苑再開発幻想長屋談議】
熊五郎:もしもザハ案がこうやって生き返ると、あのときに無念の内に死んだザハ・ハディドも浮かばれるし、国際コンペ結果不履行で大恥かいた日本もちょっとは名誉挽回になるでしょうね。
ご隠居:天才女流建築家ザハ・ハディドへのオマージュになるね、妄想だけど……。
新ラグビー場にザハ・ハディドの幽霊が、、

5月27日【横浜緑の館シリーズ】
今年もまた街に緑色濃い季節がやってきた。





5月31日【横浜緑の館シリーズ:名作発見】
古い商店街をフラフラ徘徊中に発見、これはなかなかの名作、その堂々たる緑の館ぶりにウットリ、毎年の進化を鑑賞に来るかなあ、楽しみな徘徊、いや目的ができると徘徊じゃないな、「商店街活性化に寄与する空き家景観に関する調査」だ~、。まずは景観上で邪魔な駐車場看板を取り払ってよ。

去年はどうだったかとグーグルストリートで比較、フム、フム、
では上から見ようとグーグルアース、フム、
今年は進化して全面緑の屋根になったかな、

5月27日【定点観測風景:八重洲側東京駅前】
おやおや、ヤンマービルから住信ビルまですっかり消えて再開発工事中、丸の内側に負けないように、ここにも超高層建築が建つのだろう。



5月28日【武器セールスマン来訪】
1962年のこと、日本の総理大臣の池田勇人がフランス訪問したとき、ド・ゴール大統領が「トランジスタ・ラジオのセールスマンが来た」と揶揄した。
2019年のこと、アメリカの大統領トランプが日本訪問したとき、アベ首相は「武器のセールスマンが来た」と揶揄した?

5月31日【ご近所違反建築】
竣工間際の共同住宅ビルの1階、道路からの1mセットバック部分に木造で何か作っていると見ていたら、なんと立派な増築だよ~、これにタイル貼ると見分けつかないな、たぶん、公的な竣工検査が済んだのだろう。

5月31日【おいしい動物園】
今日の朝日新聞コラム「天声人語」は「美味しい水族館」
水族館で泳ぐ魚を見て、食欲をそそられる瞬間がある。けれど言葉にはしない。不謹慎な気がするからだ。「水族館でおいしそうと言っていいんです」。青森県の県営浅虫水族館はそう呼びかける展示コーナーを設けた▼「おいしそうに見えるのは魚が健康な証拠。飼育員には褒め言葉です」「おいしい生き物なら食用になり、ずっ・・・
さて、美味しい植物園があってもよさそうだし、美味しい動物園とか、美味しいペットショップってのは、、、あるのだろうなあ。


2019/05/28

1402【神宮外苑再開発幻想】新国立秩父宮ラグビー場建設はこうやって、競技場大ドジからの名誉挽回と急死故ザハ・ハディドの供養だあ~

熊五郎:暑くなったけど元気ですか、ご隠居。
ご隠居:おお、熊さんかい、元気だよ、まあおあがりよ、ちょうど見てほしいものがあるんだよ。
:はいはい、なんですか、アッ、これ?、
:たった今、わたしが作ったばかりのGIF画像だよ。
:ハハン、また例の戯造画像でしょ、え~と見たことあるような、どこだっけ?
新国立競技場と明治神宮外苑だよ。
:あ、そうそう、例のスッタモンダの後でようやく建ち上ってきたのが、この左上の剥げかけベーグルですね、
:そうそう、もうすぐ完成らしい。
:でも、この右の紐かけ亀の甲は、え~っと、見たことあるような、アッそうだ、これってスッタモンダ元凶のザハ・ハディド案新国立競技場でしょ、えっ、ここに建つの、本当?、あれは消えたんでしょ、
:うん、そう、新秩父宮ラグビー場をそのデザインで建てたんだよ。
:え、まさか、、。
:ワハハ、実は昨夜の夢に死んだザハ・ハディド女史が出てきてね、「ウラメシヤ~、没にしたわたしの案を新国立ラグビー場に建ててほしいよ~、、、」と……で、これだよ。
:ウワ、あのカオで幽霊になるとコワイ……、そう言えば最近になって秩父宮ラグビー場と神宮第二球場を入れ替える再開発をやるって、計画の環境アセスメント手続きが始まったそうで、ご隠居はまた野次馬やってるんですね。

:そうそう、つまりラグビー場を新国立競技場の隣りに引っ越しするってね、また格好の暇つぶしだからね、あの新国立競技場騒動からあれこれ思い出して考えてたもんだから、ザハ幽霊が夢に出てきた。
:そこで彼女の願い通りに描いてみたのか~、なんだかウマく納まってるような、第2新国立競技場だね、まあ、あの騒ぎの中で急死だから成仏してないでしょうけど、これで供養になりますね。
:わたしは彼女のファんじゃないけど、コンペ当選案の肉感的な姿を見た時から、あの場所だからこそあの姿で建ってほしいと思っていて、ブログにも書いてるよ。
男と女
:ボロクソに言っていた世間とは逆ですねえ、だから彼女が夢枕に立ってお告げってことかな。
:いつだったか「インポ建築展」でザハ・ハディド案による完成設計図書を見て、新国立競技場竣工式にザハ幽霊が出て来るぞって書いてたからね。
:考えてみるとこれは合理的ですねえ、なにしろもう設計図は完了してるんだから、それを手直しすれば使えるでしょ、たぶん。
:そうそう、こちらのラグビー場も新国立競技場と同じ文科省が建てるのだから、どうせならある物をリユース、リサイクルすれば、これもエコロジーだね。

:そうですよ、あの没になったザハ・ハディド案にいくらカネかけたのでしょうね。
:あのザハ案を首相が白紙撤回したときまでに、既に支払ったカネと契約で支払うべき
カネが、デザイン監修料でザハ・ハディド・アーキテクツに約15億円、設計料で日建設計・梓設計・日本設計・アラップ設計共同体に約36億円、つまり設計費用だけで約51億円だよ、そのほか国際コンペやらなにやら経費を入れるとざっと60億円。
:へえ~、髙い白紙撤回料だったな~、原資は税金だから納税者としてはちょっとは取り返したいですね。あ、文科省はまたもやドジをしないでもらいたいですね。
:まあ、その設計図をそのままでは使えないから、設計変更が必要だけどね。
:また設計費やら移転新築工事費やらカネがかかるなあ。
:ところがね、こんどは一文もかけないで建てるらしいよ。
:エッ、だれか寄付してくれるんですか。
:いや、わたしが今回発表されたアセス書類の中にある図面を見てて、どうもそうらしいと気がついたんだよ。つまりね、どうやら今のラグビー場の土地を売ったカネで新国立競技場の隣りの土地に引っ越すらしいのだよ。
:そうしたって、土地はできるとしても、建物の建設費がかかるでしょ。

:それがね、土地の単価が引っ越し先の第二球場跡地よりも、今のラグビー場のほうが2倍半くらい髙いんだよ、だから引っ越し先で今と同じくらいの広さの土地を買っても、なおカネが余るからそれで建物を建てる、だからカネがかからない、どうもそうらしい。
:え~っ、ホントですかあ、騙されてるんじゃないのかなあ、そんなウマイことをあの不器用ドジ文科省ができるわけがない。
:うん、いや、都市再開発法の市街地再開発事業でやるそうだから、事業の筋書を推察するとそうなるはずなんだな、もちろん昔都市計画家今野次馬探偵勝手推理だけどね。
:まあ、ご隠居が言う通りなら、いいですねえ、この前は60億も無駄遣いしたけど、こんどは一文も使わないなんて、眉唾だけど、。
ラグビー場引っ越し計画
:そこでね、ラグビー場跡地をできるだけ高く明治神宮や三井や伊藤忠など民間事業者に売りつけて、新ラグビー場を作ってもおカネが余って、ぜひ国民に還元するようにしてもらいたいねえ。
:わたしたちは単なる野次馬だから何もできないけど、せいぜい今後の都市計画の動きを、納税者として観察しましょうかね。
:神宮外苑の都市公園や都市計画に意見を言う立場にある東京都民の人たちは、動きに注意してくださいよ。
:もしもザハ案がこうやって生き返ると、あのときに無念の内に死んだザハ・ハディドも浮かばれるし、国際コンペ結果不履行で大恥かいた日本もちょっとは名誉挽回になるでしょうね。
:天才ザハ・ハディドへのオマージュになるね、妄想だけど……。

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 【五輪騒動】新国立競技場建設と神宮外苑再開発・2020五輪運動会騒動瓢論集