サツマイモのような形の高梁盆地の東の丘の中腹にある社に、街の道路から鳥居をくぐって参道を登る。
昔は石段だったが、いまは車が登れるように急な坂になっている。
その鳥居をくぐろうとして、なにやら雰囲気がおかしい。みれば、鳥居が新品の真っ白な総御影石造りになっている。
おや、ここには江戸時代からの風雨に耐えた風格ある鳥居があったはずだが、これはどうしたことか。江戸時代がリセットされてしまっている。
「再建立 平成二十三年八月吉日」、もう一本の柱に「干時文化七庚午年六月吉辰」とあるのは、こちらが元の鳥居に書いてあったのだろう。そうか、1804年に建てたものだったか。
本当かどうか怪しいけれど、この神社の創建は774年とあるから、先代の鳥居も何代目かだったのだろう。 知人にきいたら、参道を登っていた自動車が、何かの間違いでバックして鳥居にぶつかって、片足がぽっきり折れた。保険で立て直したのがこれだそうだ。
さて、鳥居のそばには鐘撞堂(かねつきどう)が建っている。4階建てくらいはある搭状木造建築である。次はこれが建て直しになるような気がする。
いや、取り壊しになるか。
ここには17世紀はじめの鋳造になる釣鐘があり、時の鐘として定時に神社の宮司が打っていた。そう、父が朝昼晩と登って撞き鳴らしていた。父が戦争に行っていたときは、母が撞いていた。
19世紀はじめに生れた鳥居は、207年を経て21世紀はじめに新たに生まれかわったのであった。
新しくなった鳥居 |
いや、取り壊しになるか。
ここには17世紀はじめの鋳造になる釣鐘があり、時の鐘として定時に神社の宮司が打っていた。そう、父が朝昼晩と登って撞き鳴らしていた。父が戦争に行っていたときは、母が撞いていた。
その釣鐘は、1941年の暮れに、戦争のために供出されて出て行ったまま、いまだに帰ってこない。
終戦の次の年、父とわたしは、瀬戸内海の直島にその鐘を探しに行った。まだ鋳潰していないかもしれないという、父のはかない期待は外れた。大砲にでもなったのか。
島の精錬所には、鋳つぶされずに残った全国各地からの無数の釣鐘が、夏の日に照らされて小学生の校庭の朝礼のように行儀よくならんでいた。そのシュールな光景を思い出すと、あれはなんだか夢であったような気がする。終戦の次の年、父とわたしは、瀬戸内海の直島にその鐘を探しに行った。まだ鋳潰していないかもしれないという、父のはかない期待は外れた。大砲にでもなったのか。
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