久しぶりの生家の御前神社訪問で、鳥居が新品で白くなってびっくりしたが、参道を登って境内広場に入ってまたびっくり、見えなかったもう一段上の境内にある社殿が見えるのだ。
参道を登って丘の中腹を、2段に伐って境内地はつくられている。その下の段に広場があり、ここではかつては祭りには神楽が舞われ、戦時中には武道訓練の矢場になったり、戦後食糧難の頃は芋畑になったりしていた。いまは駐車場である。 ここからまた鳥居をくぐって、石段を登り上の段の境内にでると社殿がある。下の段から上の段の社殿は、森の樹木の葉にさえぎられて見えない、はずなのが、今は丸見えになっているのである。
その森の何本かの大木が伐られて、見通しがよい、明るいのだ。私の住んでいた宮司住宅はとりこわされて空き地に、それにつながる社務所は建て替えられえ、明るい白壁が見える。
1957年にわたしが出てゆき、弟たちが去り、そして最後に両親がここをあとにしたのは1966年であった。
少年の日と比べて、なにもかも明るい。広場も建物もきれいに管理されている。
少年のわたしは、ここを掃除させられるのがいやだった。掃いても掃いても落ち葉はあるし、むしってむしっても草は生える。
社殿の横で栗の実を一つぶ拾った。ここでは少年の頃にも拾ったと思い出したが、何代目の木だろうか。ジーンズのポケットに、いまもはいったままだ。おもいだせば、あれは戦後すぐのころだろうか、下の段の境内広場の南にあった、大人が3人でかかえるくらいの、イチョウの巨木を倒したことがあった。ここにしか倒す方向はないという位置に、樵職人はみごとに切り倒した。(参照→大銀杏の死)
周りは暗く真上の空だけはやけに明るい境内の森の中を、社務所で敗戦の放送を聴いたばかりの大人たちが、列になって黙りこくって参道を下っていく風景を思い出す。
それは1945年8月15日、暑く快晴の昼過ぎのことであった。(参照→66年目の空襲と疎開)高校生だった1955年の夏、少し遠くに住む同級の友人が遊びにきた。
持ってきたてメタセコイヤの苗木を、境内の石垣の小段に植えた。すくすくと育って30mくらいの大木になっていた。
青春の記念樹であったが、これも伐られて大きな切り株だけになっていた。大木が風でゆすられて、石垣が危うくなったのだろう。
わたしも木も歳をとりすぎた。 わたしの記憶の中にある秋と春の祭礼の日には、境内から参道に幟旗やぼんぼりが立ちならび、綿菓子を売る露店などがでて、街から人々がおおぜいやってきた。
そして人々の肩にかつがれた重い神輿が、行列をしたがえて街の中をめぐる。神輿の直前には、装束をつけた父が歩いている。
今も、祭礼はあり、神輿が街を巡るそうだ。
だが、氏子といわれる旧城下町の北半分の街の人口は減り老齢化が進む。神輿はトラックの荷台に載せて巡るそうだ。あとは推して知るべしである。
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