2013/11/07

854【東京下町徘徊】三ノ輪-新吉原-白鬚-向島百花園-曳舟ウロウロ

久しぶりに東京の向島百花園で、遊び仲間(正確には「街なか研究会」)の会合がある。行かないとあいつもボケたと思われてもシャクだ。夜の会合なのに、どうせヒマだからとて、真昼間から出かける。
地下鉄三ノ輪駅に降りて、適当に東に向かえばいいだろう。大川にぶつかるから、橋を渡ればすぐそばだ。
まっすぐ行っても芸がない。山谷と新吉原に寄ってからにしようかと思う。

山谷は有名なドヤの街である。わたしの暮らしている横浜の関外にも、それに負けない寿町があり、しょっちゅう通っているからドヤ街はもういいやと、新吉原に向かう。
おっ発見、角海老本店じゃんかよ~。なんで角えびなんだろうか、まあいいや、このあたりがかの遊郭街なんだな。
ほほう、見事な下半身商売の街並みである、さすが新吉原。

でも地名が千束町とある。はて、建築家の山口文象が生まれ育ったのが浅草千束町だが、遊郭の中ではなかったはずだ。
これは多分、例の地名変更の結果で、吉原という地名を避けて、千束町を広く決めたのだろう。
なになに、揚屋通りとある。この道には遊郭の揚屋が並んでいたのか。

ハデハデまちなみ建築のそれぞれの前に立つオニイイサン方たちが、お声をかけてくださる。
「どうですか、ちょっと寄りになって」「写真だけでも見てくださいよ」「あ、どうぞ、こちら」
最近、横浜の福富町あたりを歩いても、こちらの貧相な年寄り顔を見て、お声をかけてくださることはない。
ここ新吉原では、きちんとお声がかかって、素直にうれしい。ときには「ありがとう」なんて、御礼の言葉だけでもお返しするのであった。

白鬚橋を渡る。関東大震災の復興橋梁のひとつで、1931年竣工とある。実ははじめてわたるのだ。
ふむ、復興橋梁らしいデザインである。むこうにスカイツリーなる新名所が見えている。わたしはいまだにスカイツリーに登っていない。そう、学生時代に建ちあがっていく風景を見た東京タワーに義理立てして、登らないままにしようと思うのだ。どうでもいいけど。


隅田川を渡れば、墨堤は2階建てになっていて、上に高速道路、下には青テント小屋の暮らしの場である。ちょっと2階が高すぎて、雨除けになるのかと気になる。
上から車の騒音が降ってくることを別にすれば、今日のような日和の中で見る青テント暮らしは、よそ眼にはいかにものんびりとしている風景のアジールである。
住民の方々は、こちらではアルミ空き缶をカンカンとたたいて延ばしておられ、こちらではなにやら工芸品をつくっておられる様子である。

 
 
その青テントアジール街並みの前は広々とした大河の流れがある。そしてその背後には、緑の公園の向こうに延々と連なる共同住宅群の壁がある。
公園の中に隅田川神社がある。どんないわれの社か知らないが、普通は本殿の背後に森があるのだが、ここでは高速道路の桁がかぶさっているのが、いかにもの感がある。

そしてまた、これが木母寺、あの梅若伝説の故地である。ほう、ここであの能「隅田川」の母親は、死した子を葬った塚に出会ったのか。
 
 
あの都から見ると荒漠たる中世の東の果てとして描かれた演劇の風景は、今の高速道路と巨大集合住宅の谷間からはとても想像がつかない。
わたしはこの能を好きだ。世阿弥が期待しながら夭折した息子の元雅の作である。能には珍しく、仏の救いのないままに終幕となる。しかし、実は救いがある演出になっていると、わたしは最近になって発見した。

青色テント住居や木母寺の東側の背景となっているのは、万里の長城のごとき、あるいは新たな墨堤のごとき、高層共同住宅群である。
この新墨堤は、大地震がやってきて下町に大火災が起きたら、この燃えないコンクリ壁群が火を止めて、逃げてくる人々を川のほとりに避難させるって、そういう大野望のもとにつくった代物らしい。ものすごい。

向島百花園での宴会が終わって、曳舟駅から電車に乗ろうとして駅前を見上げたら、スカイツリーらしきローソクが屋根の上にあがっていた。
ちかごろは、こういう代物が立つと、景観がどうやらこうやらと騒ぐ人がいるのに、こいつのときはどうだったのだろうか。低層下町には並はずれて高すぎて、話にならなかったのか。
 
参照⇒オペラ「カーリューリバー」 (まちもり通信G2版)
https://sites.google.com/site/matimorig2x/opera-curlew-river

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