表に出てみると駅前広場ははまだまだ工事中だが、すぐ頭の上にデッキがかかり、更にそのデッキの上には布の大きなテントが張ってある。
このテントはなんだろうか、雨除けか、日除けか、ただの格好つけか。
日除けにはなるだろうが、雨除けとしては、あまりに高いところに張ってあって、ちょっとの風で横から濡れそうだ。もちろん台風では役に立たないどころか、もしかしたら飛んでいくのではあるまいか。
格好づけとしては、真っ白な(そのうちに灰色になるだろうが)大きな横長の帆は、面白い。
●2013年10月東京駅八重洲口駅前広場の姿
さて、八重洲通りからの東京駅への眺めを、年代とともに追ってみよう。
●1987年8月東京駅を八重洲通から見た姿
真っ黒な壁のような鉄道会館が建っている。中には大丸百貨店が入っていた。
わたしは80年代半ばまで勤め先がこの近くだったので、通りすがりによく寄ったものだ。
このビルの上の方の階に、全国の自治体の出先の物産売り場や観光案内所が並んでいて、わたしが好きだったところである。
このビルは、はじめのころは途中まで建っていて、しばらくしてから上に増築したような記憶がある。まだ延ばすつもりだったかもしれないが、その前に取り壊されて、今のようにただのテントになってしまった。
これより前の写真は撮っていないのに、なぜこの年があるかと言えば、その頃、東京駅周辺地区再開発調査の仕事をやっていたからである。
仕事の大元の発注者は国土庁、建設省、運輸省、委員会は八十島義之助を長として、石原舜介、芦原義信、村松貞次郎などそうそうたるメンバーだった。
そのときが始まりとなって、丸の内赤レンガ駅舎の保全や八重洲側の整備などの基本方針が決まり、今に至っているのである。
●参照⇒東京駅周辺地区総合整備基礎調査報告書(1988年3月)
わたしはその時の調査の知見をもとにして、丸の内赤レンガ駅舎の復元反対論を唱えて、ウェブサイトでも論考を書き、毎年の大学での講義で学生や院生を洗脳してきたつもりだが、残念ながら全く相手にされることなく、現物が復元されてしまって完敗した。
●参照⇒「東京駅復原反対論」
●2009年3月東京駅を八重洲通から見た姿
鉄道会館が取り壊しになると聞いて、あわててて撮りに行った。真っ黒なビルが真っ白なビルに替わっていたのが面白かった。向うに、建て直した新丸ビルの上の方が見えている。
●2011年1月東京駅を八重洲通から見た姿
鉄道会館がすっかり消えて、新幹線がむき出しで見えるようになった。
丸ビルと新丸ビルが並んで見えるのだが、八重洲通りと行幸通りは一直線にとおっていないので、芯がずれて新丸ビルが真正面に見える位置に来る。
どうして、この二つの道路を一直線になるように、市区改正時代のプランナーは決めなかったのかと、不思議である。
●2013年10月東京駅を八重洲通から見た姿
アメリカの建築家ヘルムート・ヤーンのデザインであるという。そういえば、丸の内側にある中央郵便局再開発のJPタワーの折り紙ヒコーキも、ヘルムートヤーンのデザインであるらしいから、東京駅周辺御用達米国建築家かしら。
では駅前のビルから見る八重洲駅前を見よう。
●1987年10月東京駅八重洲口駅前の姿
堂々たる鉄道会館健在で、その向こうに観光会館ビルも鉄鋼ビルも見えているが、どちらも今は消えた。その更に向こうには新日鉄ビルが見える。
新幹線の向こうには、今は無き元鉄道省、元国鉄本社のビルが健在である。
●2013年10月東京駅八重洲口駅前の姿
鉄道会館は布庇に替わった。向うの高いビルは、丸の内赤レンガ駅舎から容積移転して建てたJRのビル。その足元の鉄鋼ビルも消えて、今は建て替え工事中。
●2013年東京駅八重洲駅前広場正面の姿
そこにバス、自家用車、タクシーの乗降場ははもとより、地下駐車場やら長距離バスセンターなどもあって、交通処理がまことに不便であった。そこで鉄道会館をどかして、そこまで広場を広げることにしたのある。
関東大震災のあとの復興事業で、八重洲側にも広い立派な駅前広場をつくり、赤レンガの駅舎も作る計画だったが、広場は地主の反対でできなかった。
八重洲側の赤レンガ駅舎もできなかったが、その構想の姿を両国の震災記念堂で見ることができる。
●2013年10月東京駅八重洲口駅前広場整備中の看板と住民
そのそばには、どうやらここの住人らしい方の住居がある。この人もそのうちに整備されるのであろう。移転補償はあるのかしら。
0 件のコメント:
コメントを投稿