2019/12/23

1432【現代演劇鑑賞】秋元松代作「常陸坊海尊」の演劇公演を観たが脳内で夢幻能に再構成してやっと理解できた


●演劇「常陸坊海尊」の時代と風土


 神奈川芸術劇場(KAAT)にて、現代演劇「常陸坊海尊」を観た(2019年12月6日)。秋元松代作、長塚圭史演出、白石加代子主演。
 能楽をちょくちょく観るほかは、舞台劇を観るのはオペラと歌舞伎がごくたまにあるくらいで、とくに現代劇というか新劇の舞台を見ることはめったにない。
 はて、この前に見たのはいつどこでだったか。新宿紀伊国屋ホールで「父と暮らせば」(井上ひさし作)という分りやすい演劇を観たのはもう10年も前だったろうか。
 大昔に渋谷のパルコ劇場で「砂の女」(安倍公房作)を観て、なんだかわからないが面白かった記憶がある。

 「常陸坊海尊」の舞台の時代設定は、第1と第2幕が1944年~5年、つまり戦争が過酷になり終った時であり、第3幕が1961年、つまり戦後復興から高度成長へと踏み出した時である。1945年前後は戦争疎開の小学生の少年の眼から、1961年はその16年後のその少年たち眼から見る地域社会である。
 秋元松代がこれを書き下ろしたのは1964年だそうであるから、その時代の空気の中で構想したことになる。

 この演劇を観るわたしは、1945年は8歳で山陽の小さな盆地の小学生、1961年は大学を卒業して社会に出た年だから、1911年生れの秋元はわたしの父母の世代だが、舞台登場の少年たちとわたしはほぼ同じ世代として、それなりに時代の空気を分る。
 だが舞台の空気は、東北の小さな町であるから、言葉も風土も私の育った山陽のそれとは大きく違うのが、理解を難しくする。しかし、地の風土よりも社会の動きから見るとよく分るのである。

 演劇の舞台の東北の風土をほとんど知らない、演劇の底流を流れる常陸坊海尊伝説も知らない、演劇を通して語る津軽弁の科白を聞き取りにくい、なによりもこのような純粋な演劇を観ることはめったにない。
 それなのに観たのは、いつだったか昔にこの演劇の評判を高く聴いていた記憶、そして趣味の能楽鑑賞の延長上で観ようと思ったからである。
 実は見てもその場ではよく理解できなかったのだが、あとでじわじわと分ってきたので、ここに自己流演劇評を書いておく。

●第1幕、第2幕1944~45年

 第1幕と第2幕の舞台は、東北津軽の田舎町の温泉旅館とその山奥の家、登場人物は東京から戦争による学童疎開の少年たちと引率の教師、地元側はイタコのオババとその孫娘の雪乃、住民たちである。
 疎開児童たちは戦災で東京の家族も家も失って、終戦になっても戻るところがない。その現実を受け入れできない少年は、疎開先の旅館から山奥のオババと雪乃の家に逃げ出す。

 オババの家には常陸坊海尊のミイラがあり、オババはその海尊の妻であり、夫をミイラにしたのだと言う。ミイラを見せてイタコ口寄せ、そして時には身を売って、孫娘と生きて来たらしい。その孫の親のことは何も語らない。
 オババは母を恋しがる少年に、イタコの口寄せで少年の母親を呼び出してみせる。少年は美少女の雪乃に惹かれている。
 時にはどこからか時と空間を越えて海尊が舞台に登場して、琵琶に載せてその裏切り物語を詠い、ストーリーの背景に裏切りと悔悟の海尊伝説があることに気がつくのだ。

 疎開して戦災の逃れた少年たちには、戦争に勝つと教えられた大人には裏切られ、まさに時代に裏切られたのである。そのいっぽう、少年たちは死んだ親や家族を裏切って生き残り、逃げたとする悔悟があり、世の中に超然とする土俗きわまるオババの世界に逃避する。
 これらの裏切りと裏切られは、まさに土俗的海尊伝説の世界の現代表現になるのである。海尊は義経を頂いて鎌倉や京都の中心世界から裏切られて逃走、身を寄せた平泉の藤原氏にも裏切られて襲われ、それを更に主の義経を裏切って逃亡する。
 京や鎌倉と平泉、東京と津軽の田舎町、田舎町とその山奥の家、これらのいくつもの同心円的な中心と周縁の裏切りや逃避が、舞台でも重なっていく。

 実はわたしは中国山地の盆地の神社に生まれ育ち、この演劇舞台と同じ1945年にはその神社には疎開学級の児童が暮していた。その兵庫県芦屋市の国民學校6年生20名は、わたしよりも4歳ほど年上のほぼ同世代である。
 その児童たちも疎開中に芦屋の街が空襲に遭って、親を失った子たちもいたのだから、舞台の温泉旅館に疎開していた学童たちと思いは同じだっただろうか。
 そんな少女の心を、その頃の幼いわたしは知る由もなかったが、暗い神社の森の中から明るい都会に逃げ出したかったことだろう。今のわたしには、少年がいくつか年上の美少女雪乃に焦がれ逃避したかった気持ちもわかる。

 戦争が終わると、疎開児童引率の教師は東京に逃げ出して消息不明、戻ることころのない少年たちは、地元のあちこちの家にもらわれるのだが、この劇の主人公の啓太少年は、オババ、雪之と共にどこかに逃走雲隠れする。
 それは少年の仲間への裏切りであり、裏切られた社会からの逃避であり、一方、戦争に右往左往する中心から超然としていた周縁のオババの土俗世界があり、オババによる海尊の血の系譜継続の陰謀と表裏をなしていた。

●第3幕1961年

 第1幕から16年後、舞台の場所は移って津軽のどこかの海に近い街の岬にある神社の境内。
 舞台には鳥居、拝殿、本殿が建つのだが、そのシルエットは立派な神社建築を見せているのに、わざとペラペラの書割りであることを誇示しているのが、カリカチュア的である。
 温泉町を逃げ出したオババ、雪乃、啓太3人のその後がこの神社にある。
第3幕の神社の舞台装置は書割の
骨組みさえ見えているペレペラ感


 公演を思い返すと舞台装置に限らず、この幕はすべてがカリカチュア的であった。登場人物の有様はいずれもファナティック、エキセントリックなのである。
 第1幕と第2幕では土俗な世界であっても、それなりにリアルな風景であり人物像であったのと比べて、あまりに対照的である。

 疎開児童だった啓太は、神社境内の掃除をするような下働きになっている。オババの孫娘の雪乃は、美少女から成長して妖艶な巫女となり、神社を事実上支配しているようである。
 オババは今はミイラとなり、第1幕の山中のあばら家にあった海尊のミイラはここの移り、それら2体の神社秘宝であるらしい。その秘宝の公開でもって神社は町の観光名所になっており、東京から観光団体がやって来る。
 東京に戻った疎開児童の豊が、啓太を探して来訪して二人は再会、その会話で今の状況が露わになってくる。

 雪乃は啓太の子を産んで、海尊の血をつなげたいとしたオババの陰謀の通りになっている。だが啓太と雪乃は夫婦ではなく、その関係は女王と奴隷の間柄の様だ。腑抜けになって雪乃にまとわりつく啓太は、今も逃避を続けている。
 雪乃はオババの構想を見事に現実化して、あの山中からこの由緒ある神社に海尊のミイラを移動して安置し、それにオババのミイラも並べて、自信満々の若オババの様である。どうやら奔放な性的行いもうかがえるのは、オババと同様である。

 オババの頃のあの土俗きわまる山奥から、ここ観光名所として大きな神社に移り変り、社殿は立派らしいが妙に軽やかに存在している。
 1960年安保闘争から1964年東京オリンピックへと喧騒な中央の空気の一部が、津軽の最果ての地にも片鱗を見せて、団体観光客が一様な姿でお仕着せツアーにやって来る。
 日本のマスツーリズムは1960年代に始まり、70年代からはノーキョーと言われる海外旅行ブームになるのだが、まさにこの舞台に登場するのはそのような始まりのころの旅行客である。土俗世界も変容する。

 だが、登場人物たちの奇矯さはどうだ。妖艶にして驕慢なる支配者然とふるまう雪乃、その雪乃に下男扱いされて悄然と従うばかりの啓太、宮司補の海を渡って大陸への逃避行の奇矯さ、東京から再訪した豊もまた雪乃に翻弄され、団体観光客の一様なる腑抜けさ、どれもこれもエキセントリックであり、カリカチュアでさえある。

 この演出はいったい何なのか。
 しかも最後の最後に、啓太は突然現れた常陸坊海尊に、おまえも今や第4の常陸坊海尊になったのだと告げられて、その魂を救われてエンディングとなる。これはなんだ。

●この演劇は夢幻能だ

 わたしはここで突然に気がついたのは、この演出はどうやら能に寄っているらしい、ということだ。この最後の突然の主人公の魂の救いは、能の得意とする納め方である。
 死んでも悩み苦しむ主人公を、ワキの僧が祈って成仏させて終る能が、有名な能で例えば「砧」「清経」「藤戸」等いくつかあり、エンディングパターンのひとつである。
 信仰心の無いわたしには、いかにも不自然な終わり方といつも思うのだが、この啓太への救いはまさにそれである。
 
 だが、啓太にとってそれがなぜ救いであるのか。家族が全員戦災死したのに、自分は生き残ったという罪に意識にさいなまれる状況からの救いは、その記憶から逃げるのではなくて、それを積極的に語って後世に伝えることである。それが裏切り者の常陸坊海尊が時を越えて語ってきた生き方である。
 秋元は知らないが、2011年3月11日の大津波による生き死にの別れにおいて起きたことと同様だろう。生き残った者は語ることでしか自分を癒すことはできないのだ。

 そう気がつくと、この演劇「常陸坊海尊」は、じつは能の「夢幻能」の構成を採っていると思えてきた。前場は第1幕と第2幕、後場は第3幕である。
 全体を通して登場するのは常陸坊海尊であり、能に登場する一所不住の僧どころか、時代さえも漂流する一時不住の僧だから、海尊がワキである。
 啓太はワキツレにしよう。前シテはオババ、後シテは雪乃である。

 だが夢幻能とするならば、前場は現在であり、後場は過去であるのが原則であるが、この演劇では前後が時間経過の順序になっているから、これは「現在能」の構成である。
 だが、考えてみると、後場を未来とする夢幻能もあって良いだろうと、新案を思いついたのだ。能にその実例はないが、あってもよいだろう。
 後場を、未来の夢の世界とすれば、そのエキセントリシティとカリカチュアを納得できる。なにしろ夢なのだから。
 では誰の夢なのかといえば、能の基本ではワキの見る夢であるが、ここではむしろオババの見る夢をワキが見させられたとしよう。

 この演劇を能の影響下にあるとみるのは、あながち的外れではないようにも思う。それは第3幕に能そのものがナマで登場するからである。宮司補が突然に謡い舞うのは、義経物の能「屋島」の一部である。
 秋元は能を意識してこれを書いたことは間違いないが、常陸坊海尊はそこには出てこない。

 人物のエキセントリシティを能で解釈すれば、多くの枝葉を切り捨てて抽象化の結果表現であるともいえる。
 またカリカチュアライズは、秋元松代はオリンピックのカラ騒ぎの中でこれを書き、高度成長初期の高揚のむなしさを撃ったのであろう。
 だが前半には、戦争のむなしさを撃つ何かが見えなかったのは何故だろうか。戦意高揚教育をしながら敗戦と共に逃げ出した教師だけに、それを負わせるはちょっと軽いと思う。


 ところで、能楽に常陸坊海尊が登場するかと調べてみたのだが、「義経物」と言われる能は33演目もあるとされ、わたしが見たことがあるのはその内の7演目である。
 それらの内で義経と共に登場する家来は、武蔵坊弁慶の場合がだんぜん多いが、ほかに家来を大勢(11人)連れて登場する演目は「安宅」と「接待」である。
 そこにはとうぜんに常陸坊海尊もいるはずと能謡本を読んだら、「安宅」にだけ「常陸坊」とのみ記してある。その他大勢のひとりの扱いである。
秋元松代「かさぶた式部考 常陸坊海尊」
河出書房新者1982年

 わけのわからない演劇を、こうやって自分流にようやく読み解いたら、観劇から18日も経っているのであった。能よりも見方が難しい。
 この間に秋元松代著「かさぶた式部考 常陸坊海尊」(1982年河出書房新社刊)を数回読み返しもした。舞台を聞いてもよく分らない津軽弁を本で解読した。
 考えようによっては、観劇料金5500円をしっかり取り戻したかもしれない。(2019/12/23)

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