2025/11/18

1919【老酔録⑨】久しぶり銀ぶらと歌舞伎芝居見物でわが身の一層の老酔状況を知る

  久し振りにお上りさんになって、印旛饂飩(インバウンド)大盛りの銀座雑踏をぶらつき、さらに歌舞伎も観てきた。この前にこのあたり来たのはコロナ以前だった。あの頃のここでの自分の動きも思い出して、今のよろよろ老衰ぶりにガックリとするのであった。

 銀座4丁目交差点であたりを見回して、久しぶりにしてはあまり変わらないなあと思う。浦島太郎気分にならない。だがふと、なんだか欠けているような気がする、おお、そうだ、三越も服部時計店もあるのに、三愛ビルが無いのだ。

印旛饂飩(インバウンド)の波に浮かぶ銀座の街 三愛が消えた

 そうか、あのガラスの円筒ができたのは、建築学生の頃だったかしら、こんなところにあんな床効率悪い建築建ててなんだろうと思ったが、あれは広告塔だったのだな。で、もうあの広告塔の時代じゃないのかしら、後にどんな広告塔が建つのだろうか。

 東へ歩いて三原橋まで来たら、すっかり様子が変わっている。ここの地下に映画館とか飲み屋とかあったが、今はどうしてるのかなあ。ここにあった小さな戦後近代建築を撤去した跡の道路ふくらみは緑地になっていて気持ちよろしい。

三原橋で超高価な寝床の男

 ふと見れば、植え込み際の石張り床に毛布にくるまり悠々と寝ている人がいる、ほう、住民かしら。その彼の半畳の寝床の地価の高いことよ。この東京一等地の大騒音に中に秋の日を浴びて悠然と寝るのも風流なものだ。羨ましいような。

芝居小屋の華やかさが薄れたか歌舞伎座

 東銀座の歌舞伎座にやってきた。そういえば、この再開発ビルのデザインは建築家・隈研吾だったなあ、冗談地口が浮かんでくる、東京都心にもクマが出没か、と。この角地のビルも合わせて建て替えると、目立ってよかったろうになア。

今日はここで三谷かぶき芝居見物

 本日の目的はここで芝居を見ることだ。この前ここに入ってからもう10年くらいだろうか、建て直してすぐの頃だったか。そういえばあの頃は銀座通りからここまで歩くのはなんでもなかったのが、いまや杖を突いてゆるゆるヨタヨタとしている自分がいる。

 今日の目当ての出し物は、「三谷かぶき」である。三谷幸喜作・演出の歌舞伎仕様の喜劇で、義経千本桜の四段目のキリを題材とのこと。面白そうだから見に来た。実はこれまで三谷幸喜の芝居をじかに見たことはない。2、3の映画を見た程度だ。

 歌舞伎だって見たことがあるとはいっても、実はめったにないのだ。だから両方とも不案内だが、この辺で三谷作品を見ておかないと、見ないままに死ぬのも癪だを思っていた。それがちょうどこれを見る機会になっただけ、それ以上のことはないのだ。

わが名前入りのチケットとはねえ

 ただ知っているのは、この出し物は「四の切」のパロディらしいので、面白いだろうと勝手に思い込んだのだった。そして結論を先に書くが、じつは全然面白くなかったのだ。いろいろな意味でがっくりした。今どきの歌舞伎俳優をほぼ知らないこともある。

 三谷喜劇だから面白いギャグがあるらしいが、TVを見ないわたしに現代のそれを理解できるだかとの事前の疑問はあった。現場では皆が笑っているからギャグだろうとは思っても、どれひとつわからなかったのは、予想通りだった。

 わたしでも理解できるであろう時事的なギャクが全然なかった。今揉めているタカイチさんなどギャグ種に最適だろうと思うのになあ、商業興行演劇では無理なのかねえ、楽屋落ちのようなギャグはあったのかねえ。

 ではストーリーが面白いというか、興味深かったか。人形浄瑠璃から歌舞伎狂言へと移行する初期の事件を喜劇にしてみ見せるというあたりに、歴史的興味を引くものがあったが、これが三谷の狙いだろうか。

 前半の舞台裏のあれこれが面白くもなく長く続くので、肝心の四の切の舞台は出ないままに終わるかと心配したが、杞憂であった。回り舞台の回転にほっとした。ようやく芸を見せてくれると期待した。

 だがしかし、四の切芝居もドタバタ過ぎて鼻白むばかり。例えば欄干渡りを左右で二人(2匹)でやる趣向は面白いので、中途半端ではなくて立派にやって見せてほしかった。また、せっかく僧兵に扮した役者もいたのだから、立ち回りを見せてほしかった。宙乗り迄も見せろとは言わない。わが老衰による理解度低下を棚に上げて文句を言っている。

 全体に期待が大きすぎて空振りした感がある。東京新聞(11月14日)にこの三谷歌舞伎劇評(歌舞伎研究家・矢内賢二)が載っていた。褒めていないのだ。そう、設定に鋭さを欠いている、との評に対して、何となく賛同する。思うに前半では思い切りギャグって、後半では芝居をしっかりやって見せて、そのギャップの意外感をオチにするってのが、いいような。

東京新聞掲載矢内賢二劇評の一部

 とは言いつつも、久しぶりの銀ブラ、芝居小屋の華やかな雰囲気、客席で食う弁当の美味さ、階段座席の上り下り苦労、芝居見つつのわからぬながらもあれこれ飛ぶ思いなどなど、秋の日のまあまあ結構な暇つぶし時間であった。

 たぶんこれでもうここに来ることはあるまい・・・こういう歳よりお決まりフレーズを、これから何回言うことだろうか。あ、そうだ、近所の横浜能楽堂が休止中のために、能の公演にも長らく行っていないが、再開したら同じように理解できなくなっているだろうか、心配になってきた。

(20251118記)

ーーーこのブログで関連ページーーー

・【歌舞伎】歌舞伎舞台は舞台装置が余りにチャチ2018/09/23
https://datey.blogspot.com/2018/09/1164.html

・【歌舞伎】新歌舞伎座タワーの頭に千鳥破風でカブく2013/10
https://datey.blogspot.com/2013/10/839.html

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2025/11/06

1918【老酔録⑧今年の新語・流行語】大賞ノミネート30件中10件を知っているがこれは多いか少ないか

老酔録⑦】の続き 
 毎年暮れが近くなると、どこかから出てくる「今年の新語・流行語」なるもの、だれがどうやって選ぶのか知らない。でも毎年、それらの内からわたしが知っている言葉を数えて、世間との距離を測っている。

 今年の新語流行語大賞の候補言葉30件の発表があったと今日の新聞にある。ノミネートされた言葉のうち、わたしはいくつを知っているかを見た。毎年やっているが、わたしの老い具合を判定するためである。なお、これからベストテンの発表があるとて、その時はまた書き加えることにする。

 まずは候補の内、わたしが知っているものは30件中の10件である。この1/3つまり33.3%という認知度合いは、世の中一般ではどの程度に当たるのだろうか。たぶん、TV放送を見る見ないで大差があるだろう。わたしはTV放送を全く見ないから、かなり遅れを取っているだろう。

 しかし毎日新聞2紙(朝日、東京)、毎月雑誌1誌(世界)を読み、ネットではSNS(FB、X、UTUBE)をかなりの頻度で見て書いている。それでも3分の1しか知らないのは、わたしは世の中の三分の一に属する人たちのネット社会に属しているのだろう。  

 これまでの毎年のわたしの新語流行語認知でおに関する同じ記録がある。意外にも去年よりも今年の方が認知度が高い。というよりも去年が低すぎたようだ。

 2025年:10(33%)2024年:7(23%)、2023年:15(50%)、2022年:11(37%)、 2021年:11(37%)、2020年:21(67%)、2019年:12(40%)、2018年:15(50%)

 なんにしても、こうやってわが老酔度合いが次第に深まっていく。

(2025/11/06記)

(2025/11/15追記)

 今朝の新聞に、今年の暮れのNHK紅白歌合戦出演者の名簿が載っている。エッ、紅白歌合戦なんて、今でもやってるのかい、へえ~、昔々にTVなんてものを見ていた頃の記憶にある芸人は、たった三人だけ!、石川さゆり、郷ひろみ、布施明なんて、まだ生きてるんだねえ。


 

(2025/12/02追記)
 今年の新語流行語大賞は、高市さんが首相になったときの「働いて働いて・・・」だそうだ。え~っ、高市さんの言った流行語ならば、それじゃなくて「台湾有事は存立危機事態」でしょう、何しろ国際的に中国を怒らせるほどにも有名な答弁になっていますよ。今や観光事業は被害が起つつあるでしょ、「働いて働いて・・」なんてのんきなこと言っていられないでしょ。
 あ、そうか、大賞業者が大賞候補リストを発表した時点では、高市さんはまだこれを言ってなかったんだね、じゃあ、来年の大賞はこれだね。
 年間大賞なんて行っているけど、構造的におかしい感じがある。つぎからは2027年1月に発表するように変更しなしよ。

           ーーこのブログでの関連記事ーー

・2024/12/03・1852【今年の新語流行語
候補30中7語、トップテン中の2語のみ
https://datey.blogspot.com/2024/12/1852.html

・2023/12/02・1754【今年の新語流行語
テレビを全く観ないわたしが知る言葉はわずか2語のみhttps://datey.blogspot.com/2023/12/1754.html

・2023/11/03・1728【今年の新語流行語候補
老人でもこれくらいは珍語流語を知っているhttps://datey.blogspot.com/2023/11/1728.html

ーーー
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2025/10/29

1917【老酔録⑦】知らぬ間に診療報酬詐取事件の片棒を担がされた、この歳で臭い飯を食うかも、まさか

老酔録⑥】の続き

●詐欺話の出だしは警察からの電話

 米寿になるほどに歳取ってしまったわたしも、さすがに今年から「かかりつけ医師」なるものができてた。去年まではめったに医者に行くことは無かったが、歳とるとそうもいかないものかと思っていたら、診療報酬詐欺事件に巻き込まれたらしい。え、老酔か~?

 医療費詐取とはなんだかケチな詐欺罪らしいが、いやいや実は大犯罪かもしれない、などと好奇心を広げて、ヒマツブシをしている。もしやわたし共犯者かもしれない、まさか、この歳で留置場体験なんて、なんだかわくわくする不謹慎さである。

 ことの初めは、今年2025年5月初め、千葉県習志野警察署の刑事と名乗る女性らしい声の電話であった。習志野市内のあるクリニックで受診したことがあるかとの問い合わせだった。そんな遠くで医者にかかった記憶がない。詐欺電話かもと警戒しながら対応した。

 いろいろ聞いてみると、どうやらそのクリニックがわたしの名で架空の診療代を医療保険に請求している事件らしい。どこでわたしの情報を手に入れたのか知らないが、わたしを診療をしたと嘘ついて保険組合に請求して代金詐取したらしい。

 その時の話はそれでおしまいだが、続きがあった。6月12日付で封書がやってきた。発信者は「神奈川県後期高齢者保険広域組合」(以下この文中では という)とあり、内容は上記電話があった習志野市にある「クリニックあらい」(以下という)なる医療機関で診療を受けたことがあるかとの問い合わせであった。

 習志野市内のクリニックということで、思い出したのが上記の習志野警察からの電話である。ハハン、そうか、あのときの架空診療請求事件がこれだったのだな。もちろん、無いと返事を出した。これら二つのことは、このブログに【警察からまた電話が】とのタイトルで、詳しく書いている。

●わたしにも架空診療支給金を返せと

 それでおしまいともう忘れていたら、続きが発生した。2025年10月8日付でまたから文書が来た。「高額療養費について(お知らせ)」との表題で、今年1月20日にわたしに支給した「高額療養費」3,144円を返還せよと書いてある。

 あらら、そんなカネもらったっけ?、振込用の貯金通帳を見ると、確かに入金している。気が付かなかった。お知らせ文書をよく見ると、その架空診療を受けたのは2022年7月と8月であったと書いてある。高額療養費ってなんだっけと俄か勉強した。

 そんな3年も前の診療に、今年1月になって支給するって、常識として遅すぎるだろ。そもそもめったに医者に行かないわたしは、保険制度の高額医療費支給なんてめったに受けたことがない。振込通帳をさかのぼってみたら、パラパラと何回か数百円が振り込まれている。

 それでも、診療から3年も経って振り込んだ例はないようだ。このことがあって気にするようになって、最近の振り込みを見ると今年7月診療を根拠とする高額医療費は、10月16日の支給である。わずかに607円であるが3か月後である。3年も経っての支給ではない。

 その異常な支給時期は、たぶん、架空診療事件捜査対象になっていて、調査中とかで支給が遅れたのだろう。それにしても、それが詐欺行為の案件と分った後だから、支給しなくて良いはず、いや、支給してはいけないと分かっているのだ。にもかかわらず、わざわざ支給して返還せよなんて、手間のかかる奇妙なことをするのか??
支給された高額療養費返還請求文書

 そして更に、またから10月8日付で文書が来た。返還請求金の振込用紙が入っていて、11月4日までに納入せよとある。わたしが支給されるべきでない金だから返還するのにやぶさかでないが、何となくすっきりしない。

●わたしは詐欺医師の共犯者だろうか

 例えばこう考える。わたしとAとが共犯とみなされているのかもしれない。つまり、は診療報酬を詐取し、わたしは高額療養支給金を詐取するのだ。まあ、3000円でリスクとる犯罪ではないが、多くの診療回数があれば稼ぎになるだろう。はたぶん多数の個人情報を仕入れて、多数の架空請求をしたに違いない。わたしはそのほんの一部の片棒を担がされたのだ。

 すっきりしないのは、この加担させられた詐欺の内容が詳しく分らないことにもある。そんなこと知らなくてよいから、とにかくカネ返せは言っているようなのだ。公的機関には珍しい丁寧な言葉使いの文書であるが、慇懃無礼の感がある。

 好奇心に過ぎないが、わたしの名を使ってどのように詐欺事件が展開されたのか、知らぬ間に巻き込まれた当事者として知りたいと思えど、どこにも書いていない。は、ただただ返還せよという。まあ、犯罪に絡むから詳しく開示できないのだろう、とは思うが、、。

 そういえばはいまどうしているのだろうか、クリニックはたぶん閉鎖してるだろうなあ。医師は免許取り上げかしら、裁判中かしら、それとも臭い飯を食う毎日か、あるいは罰金納めて終わったか。
 もしもわたしがこれを返還しなかったら、わたしはどうなるのだろうか。怖いなあ。

●保険診療詐取された審査機関の責任は?

 ところで、この支給を行った機関のKには、責任はないのかしら。文書に添付されている「保険診療の流れ」なるフローチャートに、(審査支払機関とみられる)の役割に「審査」があると書かれている。今回の件はわが受給も含めて審査ミスになる。

 その審査ミスによって、わたしは知らぬ間に詐欺の片棒を担がされたのである。しかも高額療養費支給金詐取までもね。厳密にいえば、支給時に気づいてKに抗議するべきであったのに、それに気づかなかったわたしが悪いのかしら、う~ん?、ハイハイ。

 そのあたり審査責任はどうなっているのだろうか。これは医療保険制度を支える被保険者のひとりとしても、に訊きたいところである。このような審査ミスがどれほどあるのだろうか、めったにないことか、それとも頻発しているのか、気になってきた。

 さて、寒くなったけど腰を上げて返還指定振込銀行にいくかなあ、どうしようかなあ。
 このブログ内容をKに質問しようとKのネットサイトを見たが、電話しかできない。でもこんな長い話を電話でするのはあまりに面倒すぎる。いまどきEメイルが無いのは何故だろう。訊きに訪ねていくには不便なところだ。このブログを読んでくれることを期待するしかない。 
 なお、近所の区役所の保険担当課を訪ねて訊いたが、に訊くしかないとのことだった。(2025/10/30記)


2025/11/04追記
 ともかくも受給するべきでないとされたKからの高額療養費支給金(3144円)を、Kに返還すべく指定納付期限の今日、指定銀行口座に振り込んでおいた。
 まさかと思うが、これも実はKを騙る振込め詐欺であった、なんてことはないだろうなあ。








ーこのブログ内の関連する記事ー
2025/05/02・1884【警察からまた電話が
 https://datey.blogspot.com/2025/05/1884.html

ーーー老 酔 録ーーー
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2025/10/19

1916【老酔録⑥】コロナと介護で縁が切れた世間へ復帰を目指して米寿手習い陶芸教室へ

老酔録⑤】のつづき

●コロナ後の老後をどうしようか

 コロナと老々看護という、わたしの人生末期大事件で、世間と縁が切れてしまって、いまやすでに5年にもなる。
 コロナ期間中は、老人は世間と交際するなとて、世間との縁を断絶させられてしまった。また在宅看護中はは、逆に見知らぬ医療や介護の専門家たちが入れ代わり立ち代わり毎日のように訪問してきて、それまでに経験したことがない賑わいであった。だが、これは限られた専門家たちであり、突然に看護当時者がいなくなると同時に全く縁が切れた。

 もちろんその間も、全く世間と完全に縁が切れてはいなくて、インタネットによるSNS、Eメール、ブログ、ZOOMで、限られた旧友たちとはつながっていた。インタネットのある時代に間に合ってよかったと思ったものだ。だが所詮は、バーチャル空間の中のことであり、面と向かっての縁は切れた。

 コロナも在宅看護も解消したのは2024年の夏だった。2020年に始まった4年も経っていた。さて、縁が切れた世間と復縁しようかと思ったのだが、その間に世間の方が大きく変わって、わたしが復する場所がなくなってしまった。若ければあらためてで付き合いを再構築できるが、いまや老残の身になってしまって、復するべき世間を見つけられないでいる。

 近所に「ケアプラザ」なる公的な高齢者支援施設がある。老々在宅看護を始めるにあたって世話になったところである。ここで高齢者向けにいろいろイベントがあるとて、パンフレットを見て参加するかなと思えど、どうもよろよろ相手の行事ばかりのようだ。こちらももちろんよろよろだが、それほどじゃないからなあ、と思う。実は一度だけ参加したことがある。10人くらいで体操してフレイル度合いを計ったが、継続する興味がわかなかった。

 そんなとき、市の広報の片隅に見つけたのが、「陶芸教室」である。近所の「コミュニティハウス」なる公的施設でやるらしい。そうか、これなら面白いかもと、申し込んだ。わたしは手先は器用であることは、本づくり趣味で自任している。初めてでもなんとかなるだろう。

 陶芸といえば仕事で何度か多治見に行ったことがあるし、人間国宝の加藤卓男氏を市之倉の幸兵衛窯に訪ねたこともある。自分の陶芸とは何の関係もないが、ついそんなことも思い出した。多治見は興味ある街だった。(参照→美濃焼の多治見
 陶芸教室の案内パンフに、講師のお名前が加藤さんとある。おや、卓男、藤九郎など美濃焼著名作家たちと同じだ。

 関連してもう一つ思い出した。同様に伝統工芸の漆芸である。これに関しては越前塗の町にかなり通ったものだった。福井県鯖江市河和田地区である。この街の漆芸の中心となる「漆器の里ーうるしの里会館」づくりで、プロジェクトマネージャーをやった。漆芸についてかなり細かく知ったが、陶芸のように素人習い事として簡単にはできない。

 そういえば、わたしはお稽古事を嫌いな性分であった。これまでそれらしいことは、人間国宝の野村四郎師匠に能の謡を20数年習ったこと(参照→野村四郎師匠逝く)が唯一である。しばらく遠ざかっていた習いごとに、陶芸で復帰するのも面白そうだ。米寿の手習いか。これがコロナと介護で切れた世間付き合いの再出発点になれば嬉しい。

●毎日曜日に近所の陶芸教室へ手習いに

 陶芸教室開催のコミュニティハウスに受講申し込みに行った。費用2800円、簡単に受け入れてくれた。氏名と年齢だけで詳しい個人情報は一切聞かないのが今時らしいのか。年齢も65歳以上か否かだけを聞かれて、「ど~んと上の齢でございます」と答えた。受講生は6人とのこと、こちらもどんな人たちか聞かない。毎日曜日午後で5回連続とのこと。

 さて、初回の日、コミュニティセンターの一室にやってきたのは、わたしのほかは、講師も含めて全員が女性であった。中年以上だろうか、年齢をよく分らないのは、この間の世間と途絶が長かったからだろう。米寿の手習い仲間はどんな方々かしら。

 各人にそれぞれに道具一式をそろえて貸してくれ、粘土を1キロも用意してある。道具に中に小さな轆轤もある。粘土をこねて轆轤にに載せて回すのだが、意外にも難しい。陶磁器産地で轆轤を回しているの見たことがある。あのようにまん丸くすーっと椀の形ができると思いきや、わたしはこんな不器用であったかと思い知らされた。

轆轤回しは意外に難しい

 それでも何とか形にしたのは、出だしは抹茶茶碗のつもりだったが、ひねた形の犬猫用のの飯茶碗みたいになった。そんなのを大小二つと、いびつな角平皿一枚ができた。ま、こんなもんか、何しろ初めてだからね。

 他の人たちの作り様を見るともなく見ると、どなたも洋食器風であるのに対して、わたしはいかにも下手の手びねりである。何やら基本的スタンスが異なるらしいが、それでよし。初日はそれでおわり、次回まで室内で乾燥させておく。いろいろな受講生がいろいろな質問をして、講師の先生は大わらわなようだった。

 1週間後の2回目は、乾いて赤みがかった粘土色の器になっていた。これを鑢やサンドペーパーで修正整形して、これに化粧用の色粘土を溶いた溶液を刷毛で塗って、模様や色付けをするのだ。わたしは、椀については半分だけ白色を塗った。溶液に半分だけざぶんと漬けようとしたが、溶液が浅くて刷毛で塗った。できるだけ人手の跡が出ないようにしたいのだが、刷毛目が付きそうだ。今回はこれまでで、2週間の乾燥をさせる。

 今日はちょっと手すきになったので、講師の入選作品が掲載されている展覧会図録を見せていただいた。その入選作品は焼き物の先入観を破って、抽象的な現代アートであった。いま眼の前でやっていることとのギャップに、ちょっと驚いた。そうなんだ、器ばかりが陶芸ではないのである。としてもわたしにはアブストラクトセラミツクアートは無理である。

 3回目は、窯場のある近くの中学校の地域交流室に移動して、作品を持っていく。わたしは大丈夫とは思ったが、それでも途中で転んで割ってしまうのが心配になり、タオルで包んでリュックザックに担いで持って行った。中学校には電気釜があり、これに入れて素焼きにするとのことで、それは講師に頼んで、今日はここまで。


窯から出したばかりの素焼き状態の椀二つ 良い色だ

●いよいよ釉薬をかけて本焼の窯へ

 4回目は、素焼き作品を窯から取り出した。若干色が変わっていて、このままでもよいような気がした。これにさらに釉薬を塗って、色付け模様がけなどするのだ。色ごとに釉薬が何種類もあるのだが、小さな色焼き見本を見ても、実際にどんな色になるのか、ほとんど想像がつかない。どうなるのかわからないのがむしろ面白いとするべきか。

 わたしは二つの椀は、校庭でもぎ取ってきた木の葉に釉薬をつけて、器の底に印を押すように葉脈模様をつけた。意外にうまく葉の形が付いた。何色になるのかわからない。もう少し小さいほうがよかったかなとも思うが、まあ、どう出るか分らぬのが面白からこれでよい。そしてこの二つの椀ともに、透明釉薬にざぶりと漬けただけであった。

釉薬をかけたこれを本焼きの窯に入れる どんな色に出るか見当がつかない

 平皿はイメージとして緑色だけの佐野乾山を真似したくて、織部と名がついている釉薬にざぶりと漬けた。果たして緑色になるか。他の人たちは、何やら繊細な絵付けをしておられるようだ。

 こうして釉薬を塗った作品を、今度は本焼きするのだ。それは講師の先生にお任せするしかない。先生はわたしの平皿を見て、釉薬が多すぎるから、うまく削っておくとのことで、ありがとうございます、よろしくお願いしますと、お任せするばかり。今回も初会のごとく、かなり講師の先生の指導をこまごまといただいた。次回の窯出しを楽しみだ。

 今回が最後の教室で、作品が出来上がる。窯の前にみんな集まって、先生が取り出すのを待ち受ける。おお、意外にわが作品はよくできているぞ。初めての経験しては上出来だと、密かに自賛することしきりである。あ、講師の教えがよかったのだ。

 よく見れば、椀二つはほぼ思い通りに近い色だが、白色に刷毛目が出ているのが残念だ。葉の模様付の色が濃過ぎた、もう少し小さい葉の方がよかったか、などと思う。
 でもまあまあ、はじめただからこれでよし、自分に言い聞かせたのだ。さっそく教室での茶話会に使う。

うまく焼きあがった、さっそくこれで干菓子をいただく

 平皿は緑色というには濃すぎた。わずかに縁のあたりが緑色になったが、底は黒色だ。でも一面に真っ黒っではなくて、薬が地に届かないままのいくつかが模様となって、地色が見えているのがかえって味がある、平皿の底に小宇宙を覗く、なんて思うことにする、ふふふ。
 ほかの方たちの作品もそれぞれ出来上がった。それを論ずる能力はない。どの方の作品もわたしのそれとはずいぶん違うなア、と思うばかりだ。

食卓でじっくりと鑑賞中

●わたしの社会復帰はまだ手探り

 こうして陶芸教室は終わった。わたしはこれで社会復帰できただろうか。実のところはよく分らない。客観的に見て、わたしの教室での態度は、かなり不愛想であった。失礼でもあった。わたしの現役時代は、見知らぬ大勢の他人と話すのは、普通のことだった。会議とか、講演とか、大学講義とかで、それが仕事だった。

 そのわたしでさえも、5年ものブランクは、不愛想人間になった。それは、見知らぬ他人との付き合い方を取り戻そうとしても、その距離の取り方を計りかねていたからだ。老いたものだ。いつの日かそれを意識せずに話すことができるようになるだろう。だがその前に、老いがその時が来ることを許さないだろう。だがさて、次はどんな教室に行こうか。

(2025/10/19記)

ーーこのブログの陶磁器関連ブログーー
2013/06/09・791【金継ぎ】琉球焼き物マグカップ金継ぎ修理https://datey.blogspot.com/2013/06/791.html
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2025/10/12

1915【言葉の酔時記:政党名】公明・民主・参政など政党が日本語から普通名詞を奪っていく

 

    そういえばそんな名前の政党が前世紀末まであったよな

 中央政界では、公明党は自由民主党に対して、四半世紀にわたる連立政権から離脱を告げたそうだ(2025年10月10日)。わたしは政治についてはよく分らないから、政界では一大事件らしいことにも、この狂歌程度しか言えない。

 ついでにもうふたつ狂歌を書いておく。
   あこがれの鉄の女になろうとし鉄の男に肘鉄を食らう
       逃げられて参拝障壁ひとつ消え密かににんまりサナエさん

 戯れ言はこれくらいにして、実は公明党にまじめに文句を言いたいことがある。この政党が「公明」を固有名詞として名乗ったために、日本語から「公明」という普通言葉が消滅の危機に瀕していると文句を言いたい。

 この党が1964年に登場するまでは、日本語で公明というは普通名詞として一般に使われていた。例えば「公明正大」だが、この単語の意味説明は不要であろう。ところが公明正大なる政治というと、公明党を持ち上げていると思われるからか、そのような言い方は消えた。

 あるいは「公明選挙」である。これも選挙のたびに使われていた。ネットで見ると1953年に「公明選挙運動」なるものが世の中にはじまり、全国に広がって行ったそうだ。その名の運動団体も数多く活躍しており、選挙では普通に使われていた。

 ところが、公明党誕生以後は、これを言うたびに公明党を応援しているかのごとくになってしまう。1965年に運動団体は名称を「明るい選挙運動」に変更せざるを得なかったらしい。こうして公明なる言葉が固有名詞化して、普通名詞であることをやめてしまった。

 これで日本語は一つの普通名詞を失った。たとえば「創価党」とでもすれば、こんなことにはならなかったろう。公明党の日本語に対する罪は大きい。もしかして公明選挙なる言葉を失ったので、いまだに選挙違反がなくならない、なんてこともあるまいが、残念だ。

 それで思いつくのは、もしかして「民主」もそうかもしれない。なにしろ自由民主、社会民主、立憲民主、国民民主などなど、日本の政党は民主の大安売りである。政党で独占している言葉の感がある。

 もしかして現今の民主主義の衰退現象は、これらが安易に名乗ったせいかもしれない、なんて思う。次に危ない言葉は「参政」である。参政権運動なんて使えなくなるにちがいない。そして政治に参加すること自体が衰えるあろう、心配だ。

 政党名を安易につけることを禁止する法律制定を国会で審議してもらいたい。大いに揉めそうで面白そうだ。       (2025/10/12記)

(20251016追記)

クリックすると音楽が流れます

人気先行くシンジロを追っかけて
どたんばで逆転のウヨクのサ〇エさん
みんなが嗤ってるお日さまも嗤ってる
ルルルルルル今日もノーテンキ

人事で頑張り無視をしたあの事件
ウラガネも起用したイコジなサ〇エさん
みんなが嗤ってる青空も嗤ってる
ルルルルルル今日もノーテンキ

鉄の女と張り切ったそのとたん
コウメイから離縁されマヌケなサ〇エさん
みんなが嗤ってる子犬も嗤ってる
ルルルルルル今日もノーテンキ

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2025/10/09

1914【老酔録⑤】米寿と米呪、老衰と老酔 

 米寿と米呪、老衰と老酔  伊達 美徳

 わたしの郷里に住む歌人藤本孝子さんの第五歌集『碧空へぽかりぽかりとんでゆけ』に、こんな歌が載っています。

 「もう飽きた人生の盆地を飛び出したい」十八の頃と同じこと言ふ

 歌人によると、これはわたしのことだそうです。

藤本孝子歌集『碧空へぽかりぽかりとんでゆけ』 2025年10月版

 そのとおりで、わたしは少年時には、閉鎖環境の高梁盆地を飛び出したいと思い続けていました。少年は誰もそうだったことでしょうが、わたしのそれは十九歳の時にようやく叶いました。飛び出したままのそれから60年後、八十歳になったわたしはこんなことを書いていました。

「思えば十五年戦争のさなかに生まれ、もの心ついたら戦争が終わり、社会に出ると高度成長期、大きな災害傷病に遭遇もせず、平和な時代の幸運な人生だったが、また盆地脱出願望が湧きつつある。80年余の人生という盆地に、疲れてはいないが、もう飽きてきました」(『鳩舎第三号』2018年より引用)

 それからさらに7年後の2025年秋の今、これを書いています。そうです、いまだに飽きた人生盆地にいて、とうとう米寿になってしまいました。その間も平和であったかといえばこれが大違いで、この人生晩期になって、実は二つの大変な事件に遭遇したのでした。

●人生盆地の中で2重落とし穴に嵌った

 それは新型コロナパンデミック老々介護です。これらは人生盆地の底に潜んでいた、大きな落とし穴でした。前者は2020年初から始まり、後者は次の年の夏からと、二つの事件は重なり続きました。
 それらの二重落とし穴のどちらからも、ようやく抜け出すことができたのは、2024年の夏でした。密かに解放宣言を歌い唱えたものです。 

 だがしかし、この間に取り返しできそうにない大問題が起きていました。コロナは人々に出会うことを制限しました。在宅介護は特殊な世界に閉じこもらざるを得ませんでした。
 だから、わたしはこの5年間は世間から隔離されていたのです。それ以前は仕事の延長などで、社会とのつながりがいくつもあったのに、この間にいずれも断絶したのでした。落とし穴から抜け出したら、周りは荒涼たる世界でした。地獄から戻った浦島太郎です。

 若いうちならばこれを修復して世の中に復帰するのは容易でしょうが、後期高齢者にはそれは容易なことではありません。つながる世間そのものが消えているのです。
 コロナパンデミックという地球規模の事件に遭遇するとは、人間として実に稀有な珍しい経験をしたものです。右往左往の地球と世間を面白がってもいたのも事実です。

 そしてコロナ後には人間世界はどう変わって出現するのか、楽しみにしていました。未曽有の地球的事件を越えた人間の英知が、これを教訓に見事に再構築するに違いないと、ほのかな希望を持っていました。それを見たいために2重苦の苦闘の日々を生きてきたと言っても過言ではありません。

 だが実際にコロナの闇夜が明けた今、現実は見ない方がよかった世界が出現しています。まったく酷いものです。この分断世界はどうしたことでしょう。コロナがこれを生んでしまったのでしょう。またもや二度目の地球規模の戦争に出会いそうです。コロナの前にこの世を去っていった友人たちを羨ましいとさえ思います。

 この二重の落とし穴に嵌っている最中、わたしの世間とのつながりは、ほぼインタネットによるもののみであったと言ってよいでしょう。Eメール、SNS、ズームなどによる旧友たちとの交流や、ブログ書き込みなどなど、これがあったので正気を保つことができたと言ってよいほどです。インタネット社会に、わが人生が間に合ってほんとうによかったと思っています。

 そうです、この冒頭写真の歌集づくりも、インタネットがあればこそできているのです。藤本孝子歌集は、2014年の第2歌集「ぽかりぽかり」から第五歌集の今日まで十二年の間に、歌人とわたし(企画、制作担当)、この間に顔合わせしたのは3回のみ、全てインタネットによるやり取りで協同プロジェクトになりえているのです。インタネットあればこそ、こんな活動ができたているのです。

●歌集出版という知的遊び

 そして今年発行の第五歌集『碧空へぽかりぽかりとんでゆけ』は、2025年3月から、毎月10冊程度を制作発行してきました。この10月で100冊になりました。普通なら一度に多数の本にして、多くの人に同時に渡したいところを、このような悠長な毎月10冊発行としたのはもちろん理由があります。

 これまでの藤本孝子歌集の第二~第四歌集「ぽかりぽかり」シリーズは、ソフトカバーでしたが、今回は歌人もわたしも米寿になった記念として、格好つけてハードカバーにしようとなったのでした。 
 ところがこのシリーズは、わたしの趣味である手作りの本なのです。今どきの市販の本はすべて機械で製本していますから、手作りの本なんて珍しいのです。ソフトカバー本は手づくりでも簡単ですが、ハードカバー本はその10倍以上に手間がかかるのです。

 そこで考えたのです。一度に大量制作出版するのではなくて、毎月10冊づつ、毎月の新作の短歌も順次に載せて、手作りして10カ月で100冊にしよう、さらに続けることができたら来年までも続けようとなったのです。月刊歌集です。
 こうして3月から8カ月目の今月で、初期の目標100冊に達しましたが、このまま毎月発行をこれからも続けます。

 この月刊歌集遊びをいつまで続けるのか、それはわたしたちの老いが決めてくれることでしょう。それにしてもこの遊びは、老いゆくわたしには有意義なものです。
 そこで老いについてちょっと述べましょう。

●ついに八十八歳という米呪になったこと

 わたしは2025年5月5日に88歳になりました。昔から世にいうところの「米寿」です。もっとも、数え歳のそれは前の年になっています。これまで喜寿、傘寿なる齢を通り越すときには、ほとんど年齢のことを気にしたことはありませんでした。何を「壽ぐ」のだよ、今じゃそんな年齢は珍しくもないのに、と反発したものでした。

 ところが今年米寿になってみて、考えなおしました。そうか、これは「米呪」だな、この年齢を迎えたことを呪詛するんだなと、気が付いたのです。
 真実に対して遠慮会釈もなく「呪う」といわずに、同音で「壽ぐ」と迂回して言うことで、呪うべき歳になってしまったことを緩和しようとする、世間の浅はかな知恵に違いありません。

 わたしが米寿となって積極的に、これを米呪とも見立てて使おうと考えが変わったのは、もちろん理由があります。まさに呪うべきことが起きているからです。88年も生きたことがもたらす不幸です。

 その呪うべきことは二つあります。ひとつは前述のような事情で社会と断絶されてしまったこと、もうひとつは老いという不治の病に取りつかれたことに気がついたことです。長生きし過ぎたからです、残念無念。
 コロナと介護が明けたらどんな明るい世が待っているのか、大いに期待していましたが、裏切られました。まさに米呪が待っていました。

●コロナ後の世に失望してわが老酔録を書く

 というわけで、いまわたしは老衰期に入ったことを自覚したのです。もちろん人生はじめてのことです。それならば、自分が日々に老い衰えていく様を、自虐・諧謔・ギャグ的に記録しておこうと思いつきました。そうですわがインタネットサイト「まちもり通信」のなかに『老酔録ー米呪を越えて老いに酔い痴れる日々の記録』ブログを設けたのです。これまではコロナ後世界の観察に目を向けていたのですが、現実には失望してしまいました。

 そこで自分自身に目を向けることにしました。わが身がどのように衰えていくのか、おおいに興味があるので、老いて暇すぎる日常の格好のヒマツブシにしようとの魂胆です。ついでにこのブログ記事をインタネットで読んで面白がる人がいるとうれしいですね。

 米壽を呪詛して米呪と言い、老衰を嗤って老酔とするのです。酒飲み酔っ払い老人のようでしょうが、今や酔っぱらうほどに酒を飲む気力も体力も失せてしまったし、酔いでもって失せさせたいと思うほどの悩み事も過ぎ去ったのです。老いに酔い痴れるしかないのです。

 これが「卆呪」から「白呪」へと進む前に、なんとかしてコロリと逝きたいものです。そう、またもや起きるに違いない世界戦争から、絶対安全安心地帯の「あの世」へと避難しておくのです。

 では、「老酔録」の記事をどうぞごひいきに。
 ●老酔録―米呪を越えて老いに酔い痴れる日々の記録―https://x.gd/c1ANm

(注)この文は、藤本孝子歌集『碧空へぽかりぽかりとんでゆけ』(2025年)の、10月発行分に挟み込む「栞」に掲載した。

(2025/10/08日記)

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米呪を越えて老いに酔い痴れる日々の記録

2025/06/14・1893【歌集をつくる
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多分これが最後の本づくり
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2025/10/01

1913【老酔録④】歩行能力維持しようと街を徘徊すれば世界戦争準備中の風景に出くわす

 老酔録③からの続き

●足がのろい

 米呪88歳もの年寄りともなると、あちこち故障が出るものらしいが、私の自覚症状はただ一つ(?)、それは足というか脚に来ている。歩行速度の低下、普通に歩く速度が次第に遅くなっていまでは時速2キロ程度、常人の半分だ。

 階段の上り下りも不得手になってきた。駅では機械に頼るが、ときにそれがない駅もある。手すりがあれば掴まって何とかなる。手すりがないと、考え込んでしまう。でもナントカ杖を頼りに慎重に動けばなんとかなる。その姿は老人そのものだ、あたりまえか、

 日ごろ特に急いで歩く必要もない日常だが、ときには時刻を決めた約束がれば、十分に余裕を持って出かけるようにしている。要するに急ぐことは何もないから、脚が遅くなってもかまわないのだ。でも、こういってしまうのも、ちょっと寂しい。

 少年時は生家が丘の中腹の神社だったから、その参道を平気で昇り降りした毎日だった。大学時代には山岳部に所属して、これはもう足でどこにでも上ってしまうのであった。社会人になっても、知友上のあちこちの都市を歩き回る仕事だった。ああ、それなのに・・。

 足の衰えに少しでも抵抗しようと、毎日せいぜい歩く努力をしている。歩くのは昔から好きだから、全く苦にはならない。この夏のように暑い日が続くころは、早朝の涼しいうちに出かけて、暑くなる前に戻ってくるのだ。

 近所を用もなく1~2時間をぶらぶら歩いてくる(これを徘徊と言う)のが、もう何十年もの生活習慣だ。出かける先は、近所を一回り2キロ程度を基本とするが、1週間に一度は電車やバスを使ってちょっと遠足をする。そんな時は4キロくらいは歩いてくる。

 今もそれを続けているのだが、歩く速度が遅いと、一定時間を歩いても距離が短くなる。一定時間を歩いて疲れるのは同じだから、かつてのように遠くまで行けない。さすがに米呪となると疲れやすくもなる。ただし疲れるが、足腰や身体が痛むことはないのだ。

 歩きながら街や公園などの風景を眺めて、季節により、年代により、世相により、どんなに変化するのかを眺めるのが楽しい。横浜都心部は建設活動が盛んだから、都市風景が急速に変わる。それを追いかけて眺めるのが面白い。批判的に考えると面白い。

 この変化を都市デザインから批評眼で観るのを、かなり昔からやっている。もちろんあちこちへの旅行もそうである。かつてはこれは仕事の一部だったが、今は単なる野次馬、でも楽しいものだ。疲れて歩く距離が短くなれば、毎日の徘徊がつまらない。

●足がふらつく

 だが、更にこの歩行動作についても、なんだか困ることが起きてきた。今年になってからのような気がするが、足元がなんだか安定しない感じなのだ。わずかだが左右にふらつくのだ。なんだか左に傾くようだ。思想はともかく身体は左傾化、右翼化する世相に抵抗か。

 歩いていてよそ見をして元に戻そうとすると、ふらつく感じだ。そうか、これが老酔かもしれない。酔ってくれば足元が不安定になるものだ。ふ~む、そうにちがいない。これは神経のせいか、筋肉のせいか、たぶん両方のせいだろうなあ。

 2022年半ばから、(亡妻)が足をふらつけせて転倒するようになった。最初は街の中の歩道上で転倒して、救急車で病院に運び込んだ。これは顔面打撲傷だけの診断だった。次第に家の中でも転倒回数が増えてきた。わたしもこの初期症状だろうか。

 Kは23年秋に大転倒を機に脳内巨大動脈瘤の存在を発見、で症状悪化し右半見不随の寝たきりとなり、その動脈瘤の破裂で24年の夏に逝った。わたしにもまさかと思うが脳内に何か不具合があって、足元が不安定なのだろうか。ボケか転倒かの二者択一か。

 もしそうだとしても、どうせ治癒しないし、この年で手術する体力もなし、それに従って死ぬしかないが、それでよいのだ。むしろそうなることが、自然なような気もする。この年になって、薬だ、手術だ、リハビリだと、あと数年の命なのに延命手当に意味あるか。

 まあ、できることとして、外出には転ばぬ先の杖ストックを必ず持って出る。このストックは、20年以上もまえに、大学同期仲間十数人と一緒に、5日で百キロを歩く春秋の遊び旅行を何年もやっていたときのものだから、年期が入っている使い慣れた杖である。。

 それが遊びの道具からケア道具に変わったとは、感慨深いものがある。あの頃は1日に20キロ歩いたのだから、今なら10時間もかかってしまうことになる。つくづくオレも老いたものだ、うっかり長生きし過ぎたもんだ、死に損なったもんだ、なんて感慨深い。

●徘徊で戦争準備中風景に出くわす

 さて、先日は急に思いついて遠足徘徊に、横須賀の町まで行って歩いてきた。家から電車で40分ほど、昔、30年間ぐらいを多くの仕事でしょっちゅう行っていたところだ。都市計画の仕事だから、それが形になったとことろもあれば、計画倒れのところもある。

 それらの場所を眺めながら歩くのは、楽しかったり怒ったりほろ苦かったりする。4キロほどをゆっくりと4時間ほどかけて歩いてきた。秋の日は柔らかで風も涼しかった。だが、ぎょっとする風景に出会った。

 この横須賀町徘徊で昔からよく知っている風景だが、あらためて眺めて、今どきだからこその新たな思いに駆られたので書いておく。それは横須賀軍港に浮かぶ旭日旗を掲げる潜水艦や軍艦のある風景にぎょっとしたことである。

公園で弁当を食べてふと目を上げると真っ黒な船が、

旭日旗を掲げる潜水艦が3隻浮かぶ

街なかの歩道橋を渡っていてふと気が付くと軍艦がこんな近くに

 今それらの軍艦群を見て、この生々しさは、まさしく今の地球の不安定な政治事情を反映するものか、世界戦争の準備中の姿か、以前にも何度かこの風景は見ているが、そんな風に思ったことはなかったから、ショックだった。そう思うべき時代の再来か。

 そう言えば、ここにはアメリカ軍基地もあって、核発電施設を備えた航空母艦もしょっちゅうやって来て停泊したいる。このあたりはまさしく戦場となる確率が高いのだ。更に2011年に福島で起きた事件の再現も現実的なのだ。全く怖いところだ。

 そして、老酔録に戻るのだが、わたしはもう88歳の米呪、そんな戦争にまたもや出会うのは嫌だ避けたい、何とかして早期に避難しておきたいものだ。そこに行けばもう2度と避難の必要ない絶対安全安心避難先の「あの世」へ。

(20250930記 つづく)

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2025/09/30

1912【英語しゃべれぬ首相?】トランプと英語で対等やりとりしディールできるか次の首相は

(注)この文の後半に、わたしの揶揄気味駄文に対して、USA在住の旧友が真面目な忠告を書いてくれたので、当人の了解を得て追加掲載した。

 いまどきは日本の首相になるくらいのお方は、当然のことに英語ペラペラだとばかり思っていたら・・なんとまあ・・偶然にYouTubeで、今、選挙運動中の自民党総裁候補の5人が登場する動画を見た。

 それで分ったのだが、なんとまあ、英語を喋れるのは5人のうちの2人だけである。そう、茂木の2人だけ、あとの小林、高市、小泉の3人は英語しゃべれないと暴露されてしまったのだ。

 でも、5人全部がアメリカに長期滞在経験があり、名門大学院の学歴とか、英語使うビジネス等の経歴を披露しているのに、である。まさかと思うが、どこかの市長のように、詐称ではあるまいなあ。

 まあ、策謀が武器の政治家たちだから、ここでワザと英語できないふりすることを選んだのかもしれないけどね、しゃべってボロ出さないように、あるいは、英語できるってひけらかして嫌われないように、とか、英語ってひけらかすほどの才能かしら?

 さて、あのトランプの口から出まかせディールに、いちいち通訳を介してディールを返すようでは、まことにおぼつかない首相となる。今どきの首相は、英語はもちろん中国語も、しゃべれるように勉強するのが常識だろうになあ。だって小学校から英語やっている時代だよ、国会議員になるくらいなら、習ってでも追いつけよ。

 ところで、今の石破首相とか赤沢交渉担当大臣は、もちろん英語ペラペラでしょうね、え、まさか喋れない、なんてことはないでしょうね、でも、あのトランプに振り回されている現状を見ると、じつはしゃべれないとしか思えないねえ。

 わたしはTVなるものを全く見ないから、じつのところPCと新聞でしか自民党総裁選挙のことを知らない。そして更に、ほとんど興味がない。だからこのYouTubeを見て、ほほう、こんな人たちの内から、次の日本の首相が出てくるのかと、しげしげと見た。馬面のウヨクおばさんもいるんだね。

 この映像を見ただけで判断せよとわたしが言われたら、それはもう林さんに決まっている。トランプと面と向かってやりあえるのは、この人しかいないようだ。この人は官房長官だから、毎週の記者会見の様子がTVには出てくるのだろうが、わたしは見たことがない。だいぶ前に菅義偉官房長官が女性新聞記者と言いあう(バカにされている)バカ丸出しの姿を見たことがあるが、林さんは菅さんよりはお利口そうである、あ、比べる方がおかしいか。。

 なんにしても、トランプと言うジャイアンが暴れている妙ちきりんな国際情勢時代に、いまどき高校生でもしゃべる英語さえもしゃべれない(小泉は日本語さえもおかしいと言う人がいる)のに、すき好んで首相になろうとする人の鉄面皮に驚くのである。

 まあ、わたしはもうすぐあの世に避難するから、どうでもいいことだけどね。

(20250930記)

(2025/10/02付記)

 これを読んで、California在住の昔日本人で今はアメリカ人の旧友(私と同年)から、いちゃもんメールが来た。と言うよりも、真面目なご意見を賜ったというべきだろうが、興味深い論調なので、そのまま載せておく。反論する理由は全くなくて、日本の政治家たちに対するわたしの揶揄気分を反省しよう。なお、個人情報にかかる部分のみ修正した。

(以下引用)

 これを読んで、残念ながら言いたいことが吹き出してきました。

 私の狭い観察で、英語を話せてトランプと対等に話のできる方は、皇后陛下くらいなものです。もし、英語の会話能力が一国の首相候補にたいする必要条件であるならば、Empress Masakoに出馬をお願いしてはいかがでしょうか。

 外交交渉での、言葉の選択、すなわちドンナ言葉を使って交渉すべきは、大切な問題です。日本という国の代表者が、アメリカの代表者と正式に会話するさい、もしアメリカの代表が日本語をはなせて、日本の代表が米国語(英語とは少しちがいます)をはなせるなら、双方が好む言葉の使用が許されます。

 もし、アメリカの代表が日本語を話せないとからなどの理由で米国語で話し出すとしたら、正式な通訳をおきます。 すなわち、両国は対等の立場にあると言う原則と了解のもとに、外交交渉がはじまります。

例1:その昔、ライシャワーという方が米国大使でした。この方は日本語が米語ほど達者でした。 でも、日米の正式交渉では、ライシャワーは米語を使い、(英語にたけた)日本代表は日本語をつかいました。そして、双方が各々の通訳をつかいました。 これが、外交の原則です。

例2:ドジャースの大谷や山本は、チームメートと米語を使って、交信しているようです。 しかし、記者会見などのおおやけの場では、通訳を置き、彼を通じて行われます。理由は、大谷も山本も、米国市民と同等な立場で、米国の競技に参加しているからです。 (もし、broken Englishの大谷・山本の記者会見がなされたとしたら、彼らのイメージは、米国市民と同等でなく、格落ちの移民のイメージを植え付けてしまうからです。この理由により、ドジャース本部LLCが上記のような事をSet-Up しております。)

結論:このエッセイやメールにあるように、「トランプと同等な立場で交渉したいので、英語・米語をつかう」のは、間違ったかんがえかたです。 それは、日本を米国の植民地に格下げの印象を与えてしまうからです。 そしてそれは、元日本人として、耐えきれない侮辱をかんじさせられるからです。 (H・O)

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2025/09/22

1911【老酔録③】ツキツキツキゴトンドガドガドガガラガララ、、これが先端医療技術かしらMRIって

 【老酔録②】からの続き

 ツキツキツキツキ、ゴトン、ドガドガドガドガ、ガラガラガラガラ、・・・いやもう全くうるさいことよ、機械騒音の見本市のようなオンパレードの真ん中に、身を縛られている。眼の前も目の下も目の上も、真っ白な円筒が身体を上から下まで、すっぽり取り囲んでいる。

 ここは発射されたばかりの宇宙船の中か、そっれとも潜水艦の機関室だろうか、どちらも乗ったことは無い、たぶんそうんな感じがする。もう20分も続く。
 そう、ここは近所の大病院の地下の一室にあるMRIなる機械の中だ。ここに入れられてもう10分もなるだろうなるだろうか、騒音は一向に止まないどころか、手を変え品を変え音程を変え、音質を変えて響く。こんなのが最先端の検査機械なのかしら、身動きならぬ身体を、金槌で叩いたり、突っ突いたり、削ったり、釘を売ったりしているらしいが痛くはない。体験的には鉄骨工場みたいだ。

 そこでネットで今どき評判のAI君に、「MRIってなあに?」と質問してみた。
MRIとは、強力な磁石と電磁波(ラジオ波)を用いて体内の臓器や血管などを詳細な断面画像として描写する検査法です

 ふ~ん、なんだかわからないが、その磁石と電磁波が大声でわめくなかを、ようやく30分ほどで解放された。わたしは閉所恐怖症だが、特に困った感もなかった。終わると検査技師が、これの紹介状書いたY医師に渡せと、CD-Rをくれた。

 そうであった。ここに来たのはかかりつけの町医者の内科医Yが、「脊柱管狭窄症の疑いがあるから検査を受けてこい」と、この大病院を紹介してくれたのだった。俺が脊柱管狭窄症だって、、と思いもしなかった医師の言にびっくりした。

 さっそくメールで同期生たちに聞いたが、返事くれたものは、わが日常の歩く具合を読んで、否定的な見解だった。そうだろうなと希望的に思うものの、一方で、またひとつ新たな病気にかかったのか、マッタク年取りたくないと、クヨクヨしている。

 さっそくこのCD-RをもってY医師の下に駆け付けたのだった。
 D(医師)「先生、MRIやってきました。これがそのCDです」
 Y(わたし)「いつ検査しましたか」
 D「はい、一昨日です」
 Y「では1週間ぐらいしたら専門医からの診断が来るはすです。わたしが見ても分かりませんから」
 D「え、あ、そうですかあ」(早く知りたかったのガックリ)

 しょうがないからCDを返してもらって、退出する時にひとこと言っておいた。
 D[ねえ、先生、本当に脊柱管狭窄症ですかねえ、友人に数人いますが、だれに聞いても私の歩きぶりでを見聞きして、おまえは脊柱管狭窄じゃないよ、ほんとならそんなに歩けっこないよ、と言うのですが、、、」
 Y「そう、だからこれで本当に脊柱管狭窄症であるか、そうでないかを診るためなんですよ」 と言うことで、まだおアヅケ状態である。もやもや・・

 実はこれまでに20年前に一回だけMRIに入ったことがあり、これがわたしが医師一般にに対する不信のもとにもなった。さらにもう一度、亡妻が昨年はじめにMRI検査を受けて、それで病因が分かり死因ともなったが、かかりつけ医の対応に不満がある。それらもここに書いておこう。  (20280922記  つづく)

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2025/09/19

1910【老酔録②】2時間連続歩行も可能だが次第に速度低下と言うと医師は脊柱管狭窄症だからMRI検査と

老酔録①のつづき

 かかりつけ医師の定期診察を受けている話の続きである。いろいろ老衰現象課題があるが、まずは、服用させられている4つもの薬のうちのひとつを、停止するに成功した。

●歩行速度が普通の半分になった

 D(わたし)「では次の課題ですが、歩く能力が次第に低下しています。毎朝1~2時間を近所を散歩するのですが、徐々に歩行速度が落ちているようなのです。これは老衰自然現象でしょうね」

 Y(医師)「ほう、毎朝歩くのは素晴らしい。どれくらい歩きますか」

 D「歩く距離は2~3キロ、それを今は時速2キロ程度になっています。普通の人の半分くらいの速度でしょうね。歩きだしはもっと早いでしょうが、次第に落ちてきます。努力すればもっと早く歩けるが、長続きしません。歩幅はヨチヨチ歩きではなく、普通の歩幅です。足元がふらつく感じがあるので、転ばぬように杖を突いています」

愛用の杖(中央)

 Y「どれくらい歩いたら休みますか」

 D「1~2時間をほとんど休むことは無いですが、まあ、1時間くらいでちょっとそこらへんに腰をおろすこともあります。でも、あまり長く休むことは無いですね。ただ、速度が日々だんだんと落ちている感じがするのです。脚が重い感じでね。歩く距離はもっと歩けると思いますが、暑くなってくるので帰宅します。それで足が痛いとか、息が切れるとか、そんなことはありません。歩く気になればもっと長時間歩けそうですが、何しろ今は暑いですから、熱中症が心配でそれ以上歩きません」

 Y「そうですか、それは脊柱管狭窄症のようですから、MRI検査しましょう」
 D「エッ、脊椎間狭窄症ならば、わたしの同年の友人に何人か居ますが、いずれも・・」
 医師はわたしの言を遮るように言った。
 Y「とにかくMRI検査しましょう、F医院に紹介状書きますよ」

脊柱管狭窄症だからMRIをと医師が言う

 大学同期の友人に少なくとも3人は脊柱管狭窄症になったと聞いたが、いずれも100mも歩けなくなったと言っていた。わたしはまだまだ歩けるから、まさか脊柱管狭窄症と言われるなんてぜんぜん思っていなかった。

 医師に反論しようかと思ったが、それ以上のことを知ってはいない。医師はなんだか紹介状を書きたがっている様子だ。まあ、MRIなんてものを22年振りにやってみるか、自分の骸骨を見ようかな、なんて思った。

 基本的にわたしは医師に不信感を持っている。2年前に股関節の痛みの診断で、近所の大学病院の医師が不治の難病と診断してくれたが、1年後に自然治癒したことがある。間違った診断つまり誤診だった(こちらを参照)。以来、医師を疑うようになった。今回もまさか・・。

 とにかくMRIの結果を見てからにするが、もしも誤診ならば、このクリニックからおさらばするかなあ。かかりつけ医師無しにするって無理だろうな、これから介護に転落は確実だからなあ。でも医師を変えるのも、変える先のあてがないし、めんどうだしなあ。悩む。

 とりあえずやることは、せっかく紹介状を書いてくれたのだからMRI検査に行くことと、脊柱管狭窄症先輩友人たちにメールして様子を聞くことだな。
 D[はい、それではF病院にMRI検査に行ってきます、あそうだ、十年ほど前に腰椎のひとつを圧迫骨折しています、関係あるかも」

 さて明日はF病院にMRIやりに行ってくるかな、どんなことが分かるのかな、怖くはないけど気になる。老衰期になるとこうやって次々と検査をするのかしら、そうやって医者は稼ぐのだろうか。

 検査して何かわかったら、それに対応してうまく死なせる方法をやってほしい。あ、そうすると金づるがいなくなるなあ、いつまでも細々と生きさせて、次々とカネのかかる延命策をやって稼ぐのかしら。まさか、、。 【老酔録③】につづく 2025/09/19記)

 (20151101追記)
 
脊椎間狭窄症の疑いがあるからMRI検査しろとのことで、近くの大きな病院に行ってきた。結論を先に書けば、脊柱管狭窄症ではなかった
 専門医の所見は「・変形腰椎症:株腰椎主体。・L4陳旧性圧迫骨折。」とある。前者は齢とれば誰もが起こることで珍しくもないらしい。わたしは肩こりとか腰痛もぜんぜんないし、歩行2時間くらいは連続できる。後者は数年前に自転車で転んだ時の傷であり、今はもうなんともない。医師からは姿勢を良くして過ごすことと言われた。ということで、実はMRIは不必要だった感もある。

      

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2025/09/17

1909【老酔録①】老衰遅延策の薬漬けか、老衰死へ適時促進か、老衰初心者の物語

●「老酔録」ことはじめ

 今日から「老酔録」と銘打って、老衰初心者として、自身の身体の衰えを、つぶさに書き込むことにする。ブログタイトルも「伊達の眼鏡ー米呪老酔録」と変更するのだ。

 88歳の超高齢者が、ブログやSNSに自身の老衰進行状況を書き込んでいるなんて、前例はあるだろうと思うのだが、今のところ私は知らない。自身の衰えぶりの真実を、自虐と諧謔の味つけをして語ろうと思う。目的は単なるヒマツブシである。

 実はこれまでにも「伊達眼鏡」ブログに、時々は「老い逝く自分を見つめる」というラベルの駄文を載せている。だがこれまでは、なんとなく老いへの遠慮、いや敬遠のようなものがあった。

 ここにきていまや88歳と5か月、堂々米寿、いや米呪だ。もういいだろうと遠慮会釈もなく「老酔録」と書くことにしたのだ。老いをあしざまに語っても、それは自身のことだから許されるはずだ。

 米壽を呪詛して米呪と言い、老衰を嗤って老酔と言うのだ。そのままに読めば酒飲み酔っ払い老人だが、今や酔っぱらうほどに酒を飲む気力も体力も失せたし、酔いで失せさせたいと思うほどの悩み事もなくなった。老いに酔い痴れるのだ。老いこそ呪うべきもの、嗤うべきものだ、米呪と言おう。

 じわじわと人生に老いという酔いが回る。ほどよく老いを酔いたいのだが、わたしはまだ初心者で生酔いであるらしい。そのうちに酔いが回ってくるだろう、そして酔いつぶれるだろう、そこまでゆったりと人間をやって行こうか。

●服用薬を勝手に減らす

 9月16日(火、曇) 10時ころ、近所のPクリニックへ、今年になってから生まれて初めて決めたかかりつけ医者(そうなった事情はこちら)の、月1回の定期診察である。なお、わたしは20年ほど前に大誤診された経験があるので、基本的に医師に不信感を持っている。

Y(医師)「いかがですか、体調は」
 この男性医師は循環器専門医のほかに2、3の専門も掲げている典型的町医者であるようだ。70歳代前半のようで、余計なことを言わずビジネス的な人である。医師には言いにくかったが、その処方による毎日服用指示の4種の薬のひとつを、勝手に服用停止したことから始めた。

 D(わたし)「いくつか申し上げることがあります。まずは、今月はフォシーガの服用を勝手に服用をやめました。それは夜間に5回も6回もの頻尿にほとほと参ったからです。この副作用で寝不足不機嫌な日々が続くのでイヤになりました。いまは夜間に1回か2回です」

 Y「5回ともなると困りますね。その薬は夜間に尿排泄を促進して腎機能を保つように働くからです。その薬を服用しないでいると、腎臓機能が次第に衰えてゆき、95歳ころには透析になりますよ」

 D「おお、95歳ねえ、そこまで生きていれば、、ですよね。もう十分に生きたから、その前に死にますよ。医師は長く生かすばかりじゃなくて、適時に死なせることもやってはいかがですか。そういう時代が来ていると思いますよ」

 Y 「ええ、はいはい、ムニャムニャ、では、あなたの腎臓関係データで説明しましょう」

こんなにもたくさんの薬って

 医師はわたしの身体のクレアチニンとかNTーproBNPとかGFRとかの値を見せて、専門的かもしれない解説をしてくれた。例えばGFR値は生誕時は100だったが、今は37.4だそうだ。そりゃまあ、こんなに長く生きてりゃ古物化して、製造初期能力の4割を切るってあたりまえだろ、なんて思ったが口には出さなかった。

 この数値について、あとでネットで調べた。30以上は中程度の機能低下で重度疾患ではではないらしい。でも見せてくれたわたしの実績値は、今年3回の血液検査の度に次第に低下している。それは老衰過程にある人間だから当然のことだろう。

 Y「では、ここであなたが選択してください。ひとつは腎臓薬を飲み続けて透析が必要になる時期を先に延ばすこと、もうひとつは服用をやめて95歳頃には透析になるリスクを背負うこと、どちらにしますか」

 D「はい、それはもう当然に後者ですね、日々頻尿による寝不足で不機嫌な日々を送るなんてこの年になってもう嫌です。95歳の未来に良いことがありそうにない、透析になる前に死ぬことにします」

 Y「はい、わかりました。今後は血圧薬だけにしましょう」
 と言うことで、医師は患者の責任で投薬中止にしたのである。よろしいでしょう。

 これまで朝夕の食事に飲めと処方されていた薬は、血圧と甲状腺対応だけになった。それでもまだ3種類もある。さて、これらをやめることができるか、これくらいは服用続けるべきか、悩む。要するに必要もないし望みもしない延命に過ぎない、と思うのだ。

 さて、これで一つ片付いたから、次の作戦に移ろう。脚のムクミと歩行速度低下の問題である。                  (20250917記  つづく) 

老酔録米呪を越えて老いに酔い痴れる日々の記録
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ーーこのブログの関連記事(今年から始めて医院に通いだしたわけ)ーー

2024/12/16・1857【高血圧事件①】米寿にして遂に本物の病人かhttps://datey.blogspot.com/2024/12/1857.html

2024/12/22・1858【高血圧事件②】八十年を超える運転部品にガタhttps://datey.blogspot.com/2024/12/1858.html

2025/01/02・1859【高血圧事件③】 放哉をきどり「屁をしてもひとり」https://datey.blogspot.com/2025/01/1859.html

2025/01/15・1862【介護保険へ】介護保険適用手続きを・https://datey.blogspot.com/2025/01/1862.html

2025/01/29・1865【ある死亡記事】87歳でも老衰死が・https://datey.blogspot.com/2025/01/1865.html

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2025/09/05

1908【参院選挙儲け話】7月の参議院議員選挙に立候補し落選しても大儲けした人たちがいるんだ!

  選挙に立候補して、落選してもカネが儲かるって、知ってましたか?、それがあるんですねえ、驚いたね。
 せんだっての参議院議員選挙について、立候補者ごとの選挙での支出と収入が、新聞に載っている。ただし神奈川県の小選挙区83人のうちの金額が上位の10人のみである。

 実は金のことには興味がないというか計算が得意でないので、あまり気にしないのであるが、ふと、選挙で儲かる人がいるのかしら、と思った。
 そう思いつつ表をみたら、収入と支出を別々の表になっていて、収支の差額を書いてない。これでは損したのか得したのかわからない。

 そこで計算不得意を承知で、収支一覧表を作ろうと試みた(計算間違いがありそうだ)。困ったことに収入の表と支出の表と、載っている人の一部は一致しない。しょうがないから収入優先にして、支出不明の人は、表の最低値903万円以下であることはわかるから、900万円を支出最大値に推定して収支差額を計算した(*欄)。その結果が下表である。

 こうやって見ると、選挙って意外にも儲かるらしいと分かった。収入のトップテンの内で8人までが儲かっており、損したのは2人のみである。エッ、これって意外である。選挙立候補って儲かる商売なんだ!

 選挙期間は17日間(7月3日~19日)だったから、その間で甘利明氏は570万円以上、丸田浩一郎氏は484万円以上も儲けたことになる。一日30万円以上の儲け、すごいもんだ。甘利さんてどんな人か知らないが、お名前のとおりに甘い利得だね。
 
 もっとも、このふたりは当選しなかったから、本来の目的は達しなかったが、そんな短時期でそれだけ儲かれば、結果は上々だったのでしょうね。
 う~む、これはよい稼ぎだ、わたしも立候補したくなった。いわゆる泡沫候補が登場するのは、実はこういうことがありうるからだろうか。

 なんだか卑しい心で国政選挙を眺めている自分をイヤになるのだが、本当に現実はこういうものなんだろうか。
 いや、県選挙管理委員会による正式発表によるものとあるから、正しいのだろうなあ、ふ~ん、そうなのかあ。でも、じっと座っていて儲かる仕事ではなさそうだ、やめとこ。
(2025/09/05記)

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2025/09/04

1907【酒屋が薬屋】薬なんて風邪と怪我しか縁が無かったのに今や朝夕4粒も飲まされて年寄り気分に

●酒屋が薬屋ってマッチポンプだぞ

 いつもは新聞折り込み広告なんて見もしないでゴミ箱行きなのに、今朝は捨てようとしてふと目が留まった。そこにはSUNTORYなる文字が見え、何やら瓶に入った薬のようなものの宣伝らしい。眺めてみてもよく分らないが、これがサプリメントというものらしい。

東京新聞のニュースと折り込み広告

 昨日の新聞一面に、サントリーの新浪とか言う社長だったか会長だったか親分が、毒物サプリメントを輸入とか服用とかで警察に捜査されて、”潔白だけど格好が悪いから辞任する”なんてトップニュースがあったことを思いだしたから、目に留まったのだ。

 ふ~ん、サントリーって酒屋と思ってたら、薬屋もやっていたのかあ。確かに酒飲むと身体に良くないことになる確率が高いから、それを薬で治したいことになる。だから薬を売ればもうかるってことになる。これは酷い商売だ。

 いわゆるマッチポンプだな、火をつけて火事にさせ、消防車を呼んで手柄顔をするなんて、つまり往復で儲けようなんて、新浪って悪い奴なんだな、警察にうんと絞られるのがよろしい。そんな奴が経済界のリーダーであってたまるか。

 いや、もしかして、サントリーの経営が悪くなって来たので、親分が身を挺してサプリメントを大々的に売り出そうとの宣伝作戦かもしれない、なんせ、サントリーと言えば山口瞳や柳原良平や開高健などを輩出した宣伝上手なんだからね。

 てなことで、この一件はこの辺で、よろしいでしょうかね。 と思っていたところに、折も折、うちの郵便受けにこんなものが入っているのを見つけた。エッ、これも新浪宣伝作戦のの一部かな、タイミングが良すぎて気味が悪い、開封するかなあ、どうしようかなあ。



●わたしと薬

 薬と言えば、わたしも今年からとうとう毎日朝夕食後に薬を合わせて4粒も飲む身分になっている。薬なんて傷薬には縁があったが、飲み薬にはたまにかかかる風邪薬くらいのものだった。それが毎日4粒も飲むようになるなんて、、。

いったい何の薬かしら

 身体のどこかが痛いとか痒いとかって自覚症状が何もないのに、こんなもの飲んでよいのか、どうも腑に落ちないが、医師の言うままにしている。今年になって足がむくむとか、夜中の小便回数が増えるとか、これらは薬のせいかもという疑念が抜けない。

 そもそも薬を飲みだした、いや、飲まされだしたのは、去年暮れごろに受診した無料健康診断だ。どこも悪くないけど長期にわたって受診しなかったの気がついて、暇だし無料だから行ってみるかと受けたら、すぐ血圧専門医にかかれと診断されたのが契機だ。

 そして専門医にあれこれ有料検査されて、今年正月からめでたく年寄り仲間に入った如くに、朝夕食後に薬を飲む、いや、のまされる日々が来たのだ。

 もう10年以上も前のこと、大学同期生たち数人と、一泊旅行したことがあった。その旅館での朝夕に、誰もが食卓に薬をならべて片端から飲む。遠足のお菓子のようで、羨ましかった。聞けばそれぞれにそれなりの薬であり、わたしは飲む状況になりたくなかった。

 そして今、わたしもそうなったのだが、どこも悪くないのになぜ飲むのか、毎食後に疑問を持ちながらも、医師の言うことだから悪いことであるはずはないだろうと、服用している。でも、たびたび忘れる。

 ついでに血圧を測って薬の紙袋に記録するのだ。毎度同じようだが若干は上下する値いに、だって俺は機械じゃないから当たり前だよと、いい聞かせるのである。要するに食後のヒマツブシである。これからどんどん粒が増えるかしら、医師と薬屋のいうままに。

(2025/09/04記)


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2025/09/01

1906【早朝の公園に行列】誰もが参加できる野外炊き出し活動は救貧策からコミュニティつくりへの動きか

●衰える歩行能力に逆らって 

 さすがに88歳ともなれば、これが老衰というものかと、じわじわと老いが押し寄せる気配を感じる。身体のどこといって痛くもかゆくもないのだが、日夜にわずかづつなんでもない動作がノロノロ方向へと引きずられている。

 特に歩く速度が普通の半分くらいになった。わが身の得意は歩くことだったのが、こうもノロノロになると、これが老いて衰えると書く老衰なんだなと納得。それに無駄だと分かっている抵抗をしているのが、日課とする早朝徘徊である。

 毎朝6~7時ころに出発して、1~3時間かけてふらふらと歩いてくる。どこと決めているのではなく、家の周りを日によってコースを変えて四角にまわるとか、ちょうどやってきたバスがどこ行きでもかまわないから乗って、適当なところで降りて歩いて戻ってくるとか、地下鉄に乗って遠くまでいってウロウロしてまた地下鉄で戻るとか、日によって気分を変える。

 気分を変えるというよりも、その日に歩いてみる街の風景の変化を楽しむのだ。この町に住んでもう23年だから、ほとんどの道を歩いた。この前ここを歩いたときはどうだったかなと思いだしつつ、ああこの街も衰えたかとか、相変わらずにぎやかだとか、おや、こんなところでこんなビルがっ立ったのかとか、定点観測的に見るのが面白い。

 自然の豊かな郊外の大規模な公園も好きだが、自然は四季しか変化しないし、変化の仕方が決まっている。もちろんそれを楽しむのが公園だが、それよりも短いサイクルで多様な変化が著しい大都市の真ん中を歩く方が、はるかに面白い。

●早朝炊き出しを待つ行列に出くわす

 さて、今朝も6時半頃に出発、まず大通り公園に行ってから、次の方向を考えようと来てみれば、いつもは早朝でほとんど人はいないのに、なんだか異様に人影が多い。
 今朝の伊勢佐木警察署前のブロックには、年配らしき大人たちが長い行列をして何かを待っている様子。行列の先頭あたりの広場では若者たち数人、机を並べたり、テントを立てようとししたり、何やら荷物を運びこもうとしている。

炊き出し食事を待つ人たちの行列

炊き出し食事をつくり配布する若者たち

 はて、どんなイベントか見当がつかないので、支度している若者に尋ねてみた。
「これって、何があるのですか?」
「ああ、8時からカレーの炊き出しをするのです」
「あ、そうですか、毎週日曜日の朝ですか?」
「いや、月に1回です」
「おお、ボランティアですか」
「はい、そうです」
「ほお、どうもありがとうございます」

 自分が炊き出しを受けるのではないにしても、若者たちに礼を言う気になった。そうか、ここでも炊き出しを行っているのか、でも初めて出会った。炊き出しと言えば、寿町の公園で正月に数日を行っているのに、毎年に出会う。

 あれもボランティアなんだろう。寿町のそれがある種の貧窮救済政治闘争的雰囲気もあるのに対して、こちらは総じてのんびりしているようだ。宗教団体かとも思ったが、その雰囲気もない。

 炊き出しを受けようと並ぶ行列が長い。200人くらいはいるが、まだ7時前だから、8時まで立ったまま1時間以上を待つのも、公園の林の下でもこの暑い日では結構大変だ。先頭に人は6時前に来ているようだ。行列の中の話声では、250人分で打ち切りになるとかだから、もうすぐ満杯だ。

 わたしは足の健康のためにここに来たのだから、一応大通り公園の南終点まで歩いて引き返してきた。そしてもう8時直前なので、ベンチに腰かけて見学することにした。部外者のようで何となく気が引けるが、ここは公園だから誰がいてもかまわない。もしかして炊き出しをいただこうかとも思う。

 先ほどから行列は長くなり、ここが最後尾と書いたプラカードを掲げる若者がいたから、そこが250人目なのだろ。でもその後にも数人がならんんでいるのは、余分にありつけるかもと期待しているのだろうか。寿町では4~500人くらいいた規模が違う。

 ボランティアの若者たちは十数名に増えて、おそろいの黒いシャツを着て、きびきびと動いてカレー配布の用意をしている。数名は大きなプラ袋をもって、行列に沿って歩きつつゴミ拾いをしている。彼らが連れてきた幼児たちが数人いて、遊んだり手伝わされたりしているのがほほえましい。まなじりあげるボランティアではないのが気持ちよい。

●公園の緑の中にカレーの匂いが満ちた

 やがて、配布の用意ができたらしく、全員集合記念撮影をしているのも、楽しい活動の様子だ。若者たちの子らしい幼児たちもうろうろ遊んでいる。
 「皆様、おはようございます。では、第16回炊き出しをただいまから行います。メニューは○○提供のから揚げと□□提供のカレーで~す」

 宗教団体ではないらしい、何もそれらしいことも言わずに炊き出し配布が始まった。思い出したのは、十数年前までは、大通公園の北の端あたりで。定期的に炊き出しをやっていたことがあった。それは宗教団体であったらしく、炊き出し食事配布の直前に待っているみんなを集めて、何やら宗教的な説教をしていたものだった。

 ベンチの隣に座った人を見ると炊き出し食事は、水のプラボトル1本と、白い発砲スチロール製の船形皿にご飯・カレー・鶏唐揚げ・千切りキャベツが盛られている。ベンチに座る人、立ったまま食べる人、公園の柵に腰かける人、座りこむ人、あたりにカレーのにおいが充満する。

 やがて列が進んで最後尾のプラカードがやってきたが、その後には30人くらいが続いて行列している。どの人も空のカレー皿をもっていて、後のほうは食べながら歩いている。お代わりを期待する行列らしい。

 それらも一通り配布が済んで、ボランティアの若者がカレーの入った皿を持ってきて、「いる方には差し上げます」というので、わたしもいただこうかと一瞬思ったが、いやいやとひっこめた。周りのカレーのにおいの中で、わたしはもうの満腹気分になっていた。

 配布が始まってこの間は20分ほどだったから、300食ほどがその間に行き渡ったことになる。食べ終わった人々は三三五五にどこかに消えていった。この人たちはどこからやって来たのだろうか。ほとんどが老年~中年男であり、若者も見かけた。女性は5人ほどしかいなかった。見かけから言えば、わたしも立派に仲間の一人である。

●炊き出しを通じてコミュニティ活動へ

 この人たちは、やはり寿町からだろうか。真冬の寿町炊き出しと、真夏の大通公園炊き出しとは、並ぶ人たちは同類だろうか。寿町からここまでは600mほどだから遠くはない。いや、わたしがいただいても一向にかまわない雰囲気だったから、寿町に限るのではあるまい。

 そしてまた、炊き出しをする方の若者たちは、いったいどこのひとたちだろうか。彼らの所属を示すらしい幟が数本立っていて、「横浜チェイヨー45横浜炊き出しの会」と書いてある。さっそくネット検索した。SNSにこの炊き出しの予告が載っている。そこにはこうも書いてある「お子様 親子 外国人の方 どなたでも歓迎いたします」、おお、やっぱりそうなんだ。

 ということは、これはいわゆる貧民救済ではなくて、新たなコミュニティづくりの試みかもしれない。そこが寿の炊き出しとは異なるのだろう。食材を提供する人、労力提供の人、そして炊き出しを受給する人などなどが、月に一度は公園に集まって朝食会をやるイベントなのだろう。

 そこに通りすがりの人がどちらへも加わることもできるのだから、そこが寿公園とは異なる。寿町炊き出しは、まるで異界のごとくこわばっていて、通りすがりで入る人を拒否はしていないだろうが、躊躇させる雰囲気に十分に満ちている。

 わたしも見物する人で、今朝はそのコミュニティの一員だった。非力なよたよた超年寄りにできるのは、その若者たちの楽しそうで意義ある活動の様を、こうしてSNSに書くことで、感謝して紹介するくらいしかできない。

(2025/09/01記)

ーーーこのブログで関連する記事--- 2025/01/31・1866【横浜徘徊】寒空の公園での炊き出しに行列貧困風景 https://datey.blogspot.com/2025/01/1866.html

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2025/08/17

1905【少年の日の戦争】80年前の少年の記憶の戦争は小さな城下町盆地の鎮守の森に

中国侵略日本軍の父(1939年保定にて)
  今年2025年の夏は、1945年8月15日に当時の裕仁天皇が、太平洋戦争に負けたことを、ラジオ放送を使って、国民に直接知らせた日から、ちょうど80年ということらしい。それをなんだか特別に雰囲気が世の中,特にジャーナリズムにある。80年だろうが79年だろうが変わりはないだろうが、なぜか。たぶんそうやって戦争を忘れないようにする仕掛けであろう。それは故人をしのぶ法事のようなものだろうか。

 でもまあ、わたしも88歳という覚えやすい年齢だから、せっかくの敗戦80年に協賛して、幼年時少年時に出くわした戦争の、いかにもそれらしい出来事を、記憶から引っ張り出すことにした。実はこれまでもばらばらにこのブロブに書いている(参照:まちもり通信「戦争の記憶」)のだが、 まだボケないうちに、ここでまとめて書いておくことにする。

 たまたま、今年いっぱいかけて月間として私的発行している歌集に挟み込む栞に、少年時を過ごした生まれ故郷故郷高梁盆地での戦争の記憶を書いたので、それに少し手を加えたものをここに載せる。

故郷高梁盆地の戦争の記憶   伊達 美徳

 この文を藤本孝子第五歌集「碧空へぽかりぽかりとんでゆけ」の8月版栞原稿として書いている日は2025年8月14日です。80年前の明日15日は、日本が太平洋戦争に負けたことを、当時の天皇がラジオ放送で国民に伝えた日です。この日を日本では敗戦記念日としています。夏八月は今でも戦争を思い出します。

 わたしは日本の十五年戦争(1931~45)の真っただ中の1937年に生れ、敗戦の時は国民学校初等科3年生でした。高梁盆地は空襲という直接的な被害はありませんでした、住民の生活には深い被害がありました。わたしには戦後の貧窮で空腹の日々こそが最大の戦争被害でした。8歳の夏に敗戦の日を迎えたわたしの戦争の記憶を書きます。

●80年前の8月15日のこと

 1945年8月15日は、いかにも夏らしい晴天でした。わたしの生家は御前神社です。その社務所の大広間座敷には、その1か月半前から芦屋市の精道国民学校初等科六年生女児20人と職員1名が、集団学童疎開でやってきて滞在していました。盆地内のほかの寺社などに児童51名が戦争避難しており、その子どもには戦場でした。

 そのころはラジオのある家は限られていましたが、その疎開学級にはありました。その社務所の玄関口に近所の人々十数人が集まってラジオを囲んでいます。その横でわたしは大人たちを見ていました。ラジオからヒロヒトさんの分かりにくい言葉と雑音がながれていました。それが敗戦の詔勅放送でした。もちろん8歳のわたしには内容を分りません。その場の情景の記憶のみです。

 放送を聴き終わると誰もみな声もなく散会して、誰もみな黙りこくって一列になって、参道の長い石段をトボトボと下って行くのを、わたしは社務所縁側から見送っていました。緑濃い社叢林の上空あくまで晴れわたり、森の中はいつものように蝉の声に満ちていました。

沈黙の湖になりたる盆の地よ昭和二十年八月真昼 

           (2014年藤本孝子第二歌集あとがき掲載の拙詠) 

 それから数日の後に疎開児童たちは芦屋に戻ってゆきました。ところが芦屋はその数日前に空襲を受けており、中には親を亡くした子もいたのでした。あの女の子たちはその後どのような人生だったのでしょうか。
 その半月後、父が参道の石段を登ってきて、3度目の戦争からの帰還をしました。

●父を戦場に送り出して号泣する母

 わたしの父は、日本の十五年戦争中に三度も招集され、最初と2回目は中国へ赴き、3回目は国内に居ました。延べ7年半も兵員として過ごしたのでした。その三度目の太平洋戦争への招集礼状は1943年12月に来ました。これについて強烈な記憶があります。

 戦争に出かける父の出発を、備中高梁駅で母と共に見送りました。家に帰りついて玄関を上がり、畳の間に入ったとたん、母は前に倒れ、両手で顔を覆って畳に押し付け、号泣し始めました。その慟哭の大声はやむことなくつづきます。目の前で大人に泣かれる5歳の幼児のわたしは、そばに座りこんでおろおろ、号泣に合せて母の背にある帯の結び目が大きく上下するのを、ただただ見つめているばかりでした。

 やがて誰かがやってきたらしく勝手口の方から案内を乞う声が聞こえました。母は急に泣き止み、今泣いていたことを誰にも言ってはいけないと、わたしに厳しく言いつけて立ちあがりました。その時に母の胎内には半年後に生まれる第三子がいましたから、その慟哭は当然でしたが、世間で表向きには、戦場への出征を嘆くのは非国民でした。

 父は南方戦線に送られるのを姫路城内にあった兵営で、しばらく待機していました。何回か母と共にそこに面会に行った記憶があり、幼児には楽しい遠足でした。だが、負け続ける日本軍は制海権を失い、輸送船もなくなり南方行きは取りやめになりました。母とわたしたちには幸運でした。

 1945年春に父の隊は小田原に移駐しました。湘南海岸に上陸するであろう連合軍を迎え撃つべく、本土決戦準備をしていました。小田原はその敗戦記念日となった日に、アメリカ軍の空襲を受けたのですが、父は仰撃陣地づくりの山中に居て無事でした。敗戦の月末に帰宅したときは、家族が一人増えていました。

 こうして幸いにも母の嘆きはむなしいものとなり、戦争が終わると同時に夫を無事に取り戻すことができました。しかし母の実弟は、その年の5月にフィリピン・ルソン島山中のジャングルで戦死し、その若妻と乳児が母の実家に残されたのでした。思えば敗戦時に、父母はともに35歳でしたが、3度の戦争兵役を経て夫婦ともに健在は、奇跡的だったかもしれません。

●国民学校初等科の戦中戦後 

 戦争教育については、国民学校初等科の低学年ですから、あまりそれらしい記憶はありません。修身の時間に校長先生が教室にやってきて、神話の話をしたような気がします。広くもない校庭でグライダーを見た記憶があります。

 本館に天皇の写真があるという奉安殿があり、前を通るときに「奉安殿に礼!」の号令で一礼しました。ある時、悪ガキ上級生が「オオアンゴウに礼!」と怒鳴って逃げて行きました。岡山方言で大馬鹿者の意味です。

 校庭で毎日の朝礼の時に、壇の上に立った先生か上級生かが、モールス信号の機械でなにか文を打ち、分かった生徒は手をあげて答えます。今のクイズのようで面白く「イトー」「ロジョーホコー」と信号を覚えたものです。こうして「銃後の少国民」が育っていました。

 戦争が終わると、月に1回ぐらいの割合で、学級に編入生がやってきました。ほとんどが引き揚げ者、つまり中国や朝鮮半島からの帰国者のこどもです。はじめは転校生に違和感をもっていても、子どもはすぐに仲良くなりました。田舎の子には刺激になりました。隣町の小学校に、満州の奉天(現在は審陽)からの引き揚げ少女が編入しました。ずっと後にわたしの連れ合いとなる人です。

 敗戦の年は教科書が問題でした。教育方針が180度転換して内容を変える必要があるけれど、紙がないし印刷も間に合わない。学校からの指示にしたがって、それまで使っていた教科書のあちこちの文章を、母と一緒に筆で墨塗りしました。教科書は大切にして汚さないようにといわれ、使い終われば知り合いに譲っていたものでした。それをこんなことしてもよいのか、と思ったものです。

  でもそれは、なんだか面白い作業でもあり、あちこち消すために終わりのペー ジまで読むことになり、ちょっと勉強した気になりました。消すところは国語に多くて、どういうわけか理科にもあったような気がします。なぜここを消すのか不思議に思ったところもありましたが、母がそういったのかもしれません。

 次の年、印刷した新しい教科書がきましたが、それは製本してありませんでした。8ページ分が1枚になったままの数枚でしたので、それらを切りはなしてページ順にそろえて、自分流の表紙をつけて1冊の書物に作り上げました。自分が教科書を作ったような気になりましたが、それは今のわたしの「本づくり趣味」のルーツかもしれません。

 大人たちは価値観の大転換に直面してとまどい右往左往でした。小学校の教育のやりかたも変わり、教室の席の並び方が何度も変わった記憶があります。黒板に向いて先生の話を聞く授業から、みんなで話し合って考える方式になったらしいのです。でも、教師もよく分かっていないらしく、グループに分けたり、丸くならべたり、四角にしたりと、あれは実験していたのでしょうか。

 時には、教師が授業中に黒板に書きながら、「こんなやりかたをしてはいけないんだけど、」と、弁解していた記憶があります。それは戦時中の教育方法で、これからはやってはいけないと教育委員会あたりからでも言われていたのでしょう。どこがいけないのか子どもには分かりませんが、教師が学童に弁解するのもおかしなものだと思いました。大人たちは狼狽していました。

●新制中学校へ

 そんな中から、戦後民主主義教育は着々と進んできました。戦後の教育改革でわたしが出会って当惑したのは、1947年に新制度になって新しい中学校が誕生したことです。盆地内には旧制の中学校がありましたが、これを新制の高等学校としたので、新制中学校は盆地内の別の場所に建てられました。

 ところがその新制中学校の急造校舎は狭くて、生徒が入り切らないのでした。そこで二年生からそこに入ることにして、進入の一年生は盆地内の南端にあった南小学校の空き教室に仮住まいしました。わたしたち小学校を卒業してまた別の小学校へ通うのでした。

 わたしの家は盆地の北の方でしたから、通学路は盆地を北から南まで縦断する遠距離でした。2年生から急造校舎の本校へ通うようになりましたが、校庭は狭く、校舎は粗末、鉄道騒音や工場悪臭など、酷い環境でした。だからでしょうが卒業数年後に他に移転しました。

 でも、ここでよかったと思うことは、新制中学校には戦後の新しい高等教育を受けた教師が赴任してきて、素晴らしい教育に出会ったことでした。わたしは戦後民主主義教育の最前線を歩んで来て、「民主主義スクスク世代」と自負しています。教育は敗戦がもたらした良いことでした。

●空腹の日々 

 敗戦は飢餓をもたらしました。幼い少年にとってはここから戦禍が始まりました。盆地内の別のところに、神社経営を支えていた広い小作の水田がありましたが、農地改革でなくなりました。長期割賦支払いの補償金は、戦後の超インフレにより紙屑同然になりました。

 神社の小作米収入が消えて、父母は食糧の調達に苦労をしていたようです。5人家族が食べていくのは大変なことだったでしょう。神社の広い境内広場は、戦中は武道鍛錬の野外弓道場でしたが、戦後は芋畑に転じました。子どもにはただただ空腹の記憶ばかりです。

 なによりも、戦争推進の末端組織の一つでもあった神社への信仰が、敗戦で地に落ちてしまいました。父の神社神主という職業自体がなりたたなくなり収入の道が絶えたようです。 教科書も給食も有料でしたから、学校への支払いについての親の態度で、わが家の経済状態が児童のわたしにもよく分かりました。数年後に父が高等学校に事務職を得るまでは、家計は大変だったようです。

 大人たちは、どこでもいつでも食糧調達の話ばかりしていました。それが大人の通常の会話なのだとわたしは思っていたのですが、あるとき伯父が誰かとの会話で、こんな食い物の話ばかりして世の中困ったものだ、というのを聞いて、これは大人にも異常な状況なのだと気がついたことがあります。

 小学校で給食が始まりました。脱脂粉乳を湯に溶いたミルクと、マイロ粉という輸入トウモロコシ粉の黄色コッペパンがメインで、たまに干した果物がついたりしました。当時でも美味だったとは言えませんが、空腹のこどもには嬉しかったものです。多分、一番嬉しかったのは、一食分を食べさせなくてもよくなった親たちでしょう。

 まともな主食はなくて、朝早く行列して買った水ぶくれこんにゃく、麦のほうがはるかに多いお粥、野菜たくさんの雑炊、薄いうどん粉団子のすいとん(団子汁といいました)、蒸したさつま芋(これはご馳走)などが主役でした。もちろん、これらが同時に食卓に並ぶことはなく、一人あたりの量もすくなく空腹でした。あの頃の親たちは、自分の分を減らし、時には食べないで、こどもに食べさせていたはずです。思い出したくない食い物の恨みです。

●神社に今ものこる戦争の傷

戦争に行った釣り鐘の帰還を待ち続ける御前神社鐘撞堂
 生家のあった御前神社は、今も境内の山林も広場も変わりなく存在しています。戦前からの社殿建築の本殿、拝殿、御輿蔵、鐘撞堂もそのままに建っています。変わったのは老朽化した社務所が建て替えられたことと、宮司の社宅(わたしの生家)が消滅したことです。

 実は神社建築にはいまだに癒えない戦争の傷跡があります。それは17世紀から鐘撞堂に釣られていた時の鐘(1651年設置)が、鋳潰されて兵器となるために1940年に金属供出され、いまだに不在のままであることです。鐘のない鐘撞堂は鐘の帰還を待ちくたびれて、今や立ち腐れしようとしています。

 この鐘は城下に時刻を知らせる「時の鐘」の役目で、当時の藩主により設置されました。藩政期には鐘守役の人たちの住む長屋が近くにあり、毎朝夕の定時につきました。維新以後は神社に帰属して宮司が守役となり、父も撞いていました。父が不在の時は母が撞いていました。高い楼閣に上る急な階段は、結構怖いものでした。

●またもや戦争の気配

 今、世界各地で国家間や国家内部で紛争や戦争が起きて、止みそうもありません。欧米諸国でも日本でも、あの戦争を忘れた言説を唱える極右政党が台頭しつつあります。理解できない奇妙な言動をする大国リーダーたちもいて、力を振り回しています。
 なんだか世界戦争の再来の気配です。戦後90年、戦後100年には、第三次世界大戦になっているに違いない雰囲気です。しかしそうなるにしても、その時にはわたしは存在していないので、安心です。その前に「絶対究極安全圏」へ、早急の避難しておきたましょう。もう88年も生きたので人間生活は十分に体験しました。

(2025年8月14日記、補綴2025/0817)

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