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2011/10/25

513城下町・高梁の玄関の風景

 久しぶりに故郷の高梁の駅に降りた。駅前から見る風景は、城下町とは思えないのは、全国どこの城下町駅でも同じことだ。
 でも、通りの向こうに霧にけぶる山が見えるのがうれしい。この山あての風景こそが高梁の大切な個性であるし、わたしの記憶の中の大切なふるさと風景である。
 とくに高梁の象徴である備中松山城のある臥牛山(がぎゅうざん)は、街のどこからでも山あて風景となっている。
 でも、並木がどうしてこんなにショボイのかしら。

 ありふれた駅前風景だが、おや、なんだか目障りな看板がビルに張り付いている、ブサイクな風景だなあ。
 え、「学園文化都市 ようこそ高梁へ」だって?
 これってどうみても非文化的な風景だけどなあ。
 その上にはまたひときわ大きく「備中高梁 ロケのまち」ってある。
 ロケってどんな高梁名物なの?

 で、駅の方に振りかえると、おお、こちらも負けすに大きな看板。
 あのね、この備中高梁駅舎って、歴史的な代物なんですよ。なにしろ1926年、大正15年8月にできたってのですからね。
 今はなんだか年寄りの厚化粧って感じだけど、皮をむくと昔の姿が出てくるだろう。
 やる気があるなら登録文化財くらいにはしてもバチが当たらないと思いますがねえ。もうちょっと大切に姿をまもってあげてはどうですか。

 もちろん、宣伝なさるのはよろしいのですが、どこかこの風景は、品がないと思うのです。
 学園文化都市もよろしいし、映画になるような文化的風景都市もよろしい。
 ですが、もうちょっと、文化的な宣伝のしかたというか、文化的な風景になる看板のあげ方がありそうなもんです。
 せっかく、歴史的街並みの保存の努力をなさっているのに、玄関先がこれじゃあねえ。
 
 ついでに、自動車での玄関口を見るかと、グーグルストリートを探した。
 高梁川沿いに国道180号を北上してきての玄関は、向こうに臥牛山が山あてで見えているのはよいのだが、鉄塔やら赤い看板やらなにやらが、いただけない。
 お客をまねきいれるホスピタリティに欠けていて、愛想なしである。
 両側に樹木を植えた美しい並木道にして、うるおいある風景にしてほしいものである。
 もうひとつの玄関は、ループ橋からおりきったあたりだろうが、そこはグーグルストリートにはでてこない。どんな風景なのだろうか気になる。
 どこの町でも、こういうところには派手な看板が立ちならんで、ゲンナリとさせてくれる。
 実例として、長野県の城下町・松代に行ったときの、わたしのゲンナリ風景をご覧ください。
http://datey.blogspot.com/2008/10/blog-post_27.html

 ふるさとの街の客間や居間をきれいになさるのはもちろん嬉しいことですが、玄関もきれいにしてくださるといいのになあと、おもいました。

2011/10/23

512路地と小路

 街の中の狭い道が、自動車が通りやすくとか、災害時に消防車が入りやすくとかの理由で、次第に広げられていく。
 昔の道は、人が歩き荷車がとおればよいから、ほとんどの道幅が6尺程度でよかった。街を貫通する大動脈のような数本の主な表通りは広くても、それらをつなぐ毛細血管のような道は細くてよいのだ。

 そこでは子どもの遊び場でもあったし、ちょっと広がったところに井戸があって井戸端会議をする。縁台を出して涼みながら将棋をうったりして、近所つきあいの場でもあった。
 先般、ネパールに行ったとき、カトマンヅ盆地の古都バクタプルを訪ねて裏町を歩いたら、子どもが遊び井戸端会議のある路地が生きていた。

 戦前の都市計画では、便所の汲み取り路として、細い裏道をわざわざつくったものだ。それが生活の道となって今も生きているところがある。東京の銀座にもそのような細い裏道が今も生きている。
 そんな狭い横丁や裏道を「路地」とか「小路」とか、各地で呼び名がちがう。
 いまは法律が4m幅未満の道路を許さない。だから、今も生き残る狭い路地は道路としては違法であるか、または道路ではない街の隙間である。

全国路地サミット」なる妙な名前の会合が、毎年一回は各地で開かれている。今年は、東京都墨田区の向島地区である(2011年10月21~23日)。
 毎回、100人ばかりが全国からやってきて、うろうろとあちこちの狭い路地を歩きまわったあとは、みんなで集まって路地を守ろうと気勢を上げる。もちろん路地裏の飲み屋での2次、3次の会が続くらしい。

 自動車が通りやすいように道を広げてばかりいるが、狭い道がかつて持っていた地域での生活の場としての役割を見直そう、というのが会合の大義名分である。そのいっぽうでは裏路地の飲み屋の保存も大切な目的であるらしい。
 新潟市や諏訪市など、かなり興味深い路地保存運動がされているところがある。行政マンが市民運動として保存運動をしているのも面白い。

 墨田区では、来年の夏にスカイツリーなるノッポ鉄塔ができて、これの見物客がわっと押し寄せる。そうすると路地にも観光客が入り込んでくるかもしれない。
 表通りの商売人は喜ぶだろうが、路地はほとんどが住宅地だから住民は大いに迷惑である。さて、どう考えるか、そんなことが話題になっている。

 だが、住宅地の面白くもない路地に入ってくるのは、物好きだけだろうとおもう。
 もっとも、鉄塔がらみの観光客は年間2千万人と皮算用だそうだから、その0.1パーセントの物好きがいても2万人か、ちょっとした数ではある。

 その物好きのひとりであるわたしは、昨日、向島の玉の井をうろうろしてきた。永井荷風が愛した私娼窟だった街である。
 実は歩いてみても、その名残はなにもないのである。東京下町によくあるありふれた木造建物が密集する住宅街である。

 1923年の関東大震災以来のその下半身商売繁盛の街は、1945年の東京大空襲による丸焼けのあともさらに北に広がって繁栄する。1956年の売春防止法の施行によって幕を閉じた。
 いま残るのはその曲がりくねった細道ばかりだが、これは江戸時代からの遺産で、田んぼの畦道がほとんどそのままに現代に引き継がれているのだ。

 細い路地を通り抜けながら、故郷の高梁小路(しょうじ)をおもいだしていた。
 こちらは江戸期の都市計画の城下町だから、道は曲がりくねるのではなくて直線だが、ところどころに筋替えとなる食い違いがあるのが特徴である。
 向島はまったいらだから、路地の向こうには広い表道に建つビルが見えるが、高梁は盆地の中で小路の向こうには必ず山が見える。ハイデルベルグの路地と同じなのである。

 高梁救助か町にはたくさんの小路があるが、それらの名前のなかでわたしの記憶にあるのは「菊屋小路」と「牢屋小路で」、「森小路」というのがあったような気がする。
 菊屋小路は幅6尺ほど、わたしの生家と母の実家を結ぶ路の一部だったので、よく通ったものだ。両側に蔵が並び、途中で食い違いに折れ曲がる。
 幼児のわたしが、ひとりで母の実家に行くとき、母に必ず言われたことは、菊屋小路からでて本町(ほんまち)通りを横切るときには「左右を見てバスに気をつけて!」
 その本町通りは、なんとまあ狭い道であることか。

 だが、高梁のそのような小路も、自動車が通りやすいように道幅を広げているし、食い違いはまっすぐにしている。時代の要請だろうが、道の先が見え隠れする面白さがなくなって、味気ない風景となっていく。
 せめて道の上に、元の道の形を色違いにして描いて、城下町の記憶のよすがにする工夫をしてほしいものだ。

 菊屋小路は今もあることを先日に確認したが、この道は都市計画によって12mに拡幅されることになっている。
 はたしてそれが必要なのだろうかと思うが、わたしのノスタルジック小路は、さて、いつまであるものやら。
 牢屋小路はいまもあるのだろうか。

2011/10/22

511【ふるさと高梁盆地】小堀遠州作の名園の借景を守る

 高梁には江戸初期の幕府官僚アーキテクト・小堀遠州政一がデザインをした頼久寺庭園がある。
 小堀遠州は15年ほどの間、備中松山藩の代官だったことがあり、頼久寺に居を構えていて作庭をした。
豪快なサツキの大刈り込み、その背景の高い生垣、その向こうに雄大な愛宕山(あたごさん)がゆったりとやさしい三角の山容を見せている。遠近が効いていて大きな庭になっている。
 この愛宕山の借景が、遠州の作庭のポイントであったのだろう。
 
 ところが、地図や航空写真で見ると、実にちっぽけな庭である。それがどうしてあれほど大きく見えるのか、そのポイントは遠くにある愛宕山の借景にある。
 庭と愛宕山頂上とは、水平距離にして1.5kmもはなれている。その距離をこの庭に圧縮してとりこんだのである。  

 同じような借景庭園として有名なものに、京都岩倉の円通寺がある。比叡山をとりこんでいる。
 頼久寺と同じ頃に作られたが、こちらは後水之尾上皇による。頼久寺が武家の作庭なら、こちらは公家のそれである。

わたしは1960年ごろに、この庭を見た記憶があるのだが、そのときは刈り込みの背景の生垣の上に、すぐ外にある養老院のセメント瓦の屋根が見えていたような気がする。
 そう思ってアルバムを探したら、わたしが撮ったそのとおりの写真があった。

今は外の建物が見えないのは、その建物がなくなったのかと思って、向こうの生垣のすぐ外に出てみた。
 下の写真に見るように、それらしい建物が今もあるから、建物の高さを低く建て直し、周りに常緑樹による生垣を高くめぐらしたようだ。



 そう思って庭の中からみると、生垣がちょっと高すぎる感がある。外の建物を見切るためにそうなっているのであろうが、内外の境界を感じさせる。
 当然のことに、小堀遠州が作庭したころは、外は田園であろうし、小さな茅葺きの家はあったかもしれないが、刈り込みの背景をこれほど高い生垣をたてて、外を見切る必要はなかっただろう。
 いまよりは低い生垣で、おおらかに外の風景につながっていたにちがいない。

 それにしても、庭園の中から見る愛宕山と、庭のすぐ外の墓地に出て同じ視線でみる愛宕山とは、あまりにも異なる風景であることに驚く。とても同じ山を眺めているとは思えない作庭テクニックである。
 借景庭園の外に、高い建物が建って借景の山は見えなくなってしまった庭は多くあるだろう。
 あるいは借景の山がなくとも、庭園を取り囲む樹木の連なりが美しい庭園の外に、庭の樹林の上に無粋な四角なビルが顔を出したりすることも多い。
 東京の名園はどこもかしこも、ビルにのぞきこまれていいる。のぞきこむ名園が隣にあることを売り物にしている住宅ビルもあるから、まったく始末におえない。
 そのおかげで東京の浜離宮庭園が、ニューヨークのセントラルパークみたいになって、大名庭園は台無しになった

 頼久寺も円通寺も、その危惧があるので、庭から見える借景の範囲にある街に、高い建物を建てないように、都市計画で規制をしている。
 頼久寺の場合は、吉備国際大学の新設のときに、「地区計画」(都市計画の規制手法のひとつ)を決めたそうだ。
 それまでは特に高い建物が建つようなところでもなかったが、大学ができると高いビルが建つことは十分に考えられる。
 都市計画の用途地域も、それを許す指定であったので、市民から何とかするべきとの声が上がった。

 そこで、庭園の外の借景が見える方向の街の中の、高い建物が建ちそうなところに風船を上げて、頼久寺の庭から眺めてそれが見えない高さに、建物の高さ規制値を定めたそうだ。
 市民の努力は実って、いまも借景の愛宕山は美しい姿を見せている。
 そういえば庭園ではないが、高梁の近くにある倉敷市の有名な倉敷川あたりの美観地区では、その風景の背景に高いビルが建たないように条例を決めて規制している。(2011.11.121960写真追加、関連して文を一部修正)

参照→景観戯造(各地の借景庭園風景)

参照→怨念の景観帝国(京都岩倉円通寺庭園の今)

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伊達美徳=まちもり散人
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2011/10/21

510ふるさとの鎮守の森

 久しぶりの生家の御前神社訪問で、鳥居が新品で白くなってびっくりしたが、参道を登って境内広場に入ってまたびっくり、見えなかったもう一段上の境内にある社殿が見えるのだ。
 参道を登って丘の中腹を、2段に伐って境内地はつくられている。その下の段に広場があり、ここではかつては祭りには神楽が舞われ、戦時中には武道訓練の矢場になったり、戦後食糧難の頃は芋畑になったりしていた。いまは駐車場である。

 ここからまた鳥居をくぐって、石段を登り上の段の境内にでると社殿がある。下の段から上の段の社殿は、森の樹木の葉にさえぎられて見えない、はずなのが、今は丸見えになっているのである。
 その森の何本かの大木が伐られて、見通しがよい、明るいのだ。

 私の住んでいた宮司住宅はとりこわされて空き地に、それにつながる社務所は建て替えられえ、明るい白壁が見える。
 1957年にわたしが出てゆき、弟たちが去り、そして最後に両親がここをあとにしたのは1966年であった。

 少年の日と比べて、なにもかも明るい。広場も建物もきれいに管理されている。
 少年のわたしは、ここを掃除させられるのがいやだった。掃いても掃いても落ち葉はあるし、むしってむしっても草は生える。
 社殿の横で栗の実を一つぶ拾った。ここでは少年の頃にも拾ったと思い出したが、何代目の木だろうか。ジーンズのポケットに、いまもはいったままだ。

 おもいだせば、あれは戦後すぐのころだろうか、下の段の境内広場の南にあった、大人が3人でかかえるくらいの、イチョウの巨木を倒したことがあった。ここにしか倒す方向はないという位置に、樵職人はみごとに切り倒した。(参照→大銀杏の死

 家にかぶさるように枝葉を張っていたモミの大木があった。家の中から窓ガラス越しに枝葉とその間に見える空が描く複雑な模様を見上げて、なにか怪物の影にみたてて怖がった幼年のわたしを思い出す。これを切り倒したのは、いつだったのだろうか。

 周りは暗く真上の空だけはやけに明るい境内の森の中を、社務所で敗戦の放送を聴いたばかりの大人たちが、列になって黙りこくって参道を下っていく風景を思い出す。
 それは1945年8月15日、暑く快晴の昼過ぎのことであった。(参照→66年目の空襲と疎開

 高校生だった1955年の夏、少し遠くに住む同級の友人が遊びにきた。
 持ってきたてメタセコイヤの苗木を、境内の石垣の小段に植えた。すくすくと育って30mくらいの大木になっていた。
 青春の記念樹であったが、これも伐られて大きな切り株だけになっていた。大木が風でゆすられて、石垣が危うくなったのだろう。
 わたしも木も歳をとりすぎた。 わたしの記憶の中にある秋と春の祭礼の日には、境内から参道に幟旗やぼんぼりが立ちならび、綿菓子を売る露店などがでて、街から人々がおおぜいやってきた。
 そして人々の肩にかつがれた重い神輿が、行列をしたがえて街の中をめぐる。神輿の直前には、装束をつけた父が歩いている。

 今も、祭礼はあり、神輿が街を巡るそうだ。
 だが、氏子といわれる旧城下町の北半分の街の人口は減り老齢化が進む。神輿はトラックの荷台に載せて巡るそうだ。あとは推して知るべしである。

2011/10/20

509鳥居が200年ぶりにリセット

 久しぶりに故郷・高梁の生家の御前(おんざき)神社を訪ねた。跡取り息子のはずのわたしが逃げたので、今は近所の別の神社の宮司が兼務である。
 サツマイモのような形の高梁盆地の東の丘の中腹にある社に、街の道路から鳥居をくぐって参道を登る。
 昔は石段だったが、いまは車が登れるように急な坂になっている。

 その鳥居をくぐろうとして、なにやら雰囲気がおかしい。みれば、鳥居が新品の真っ白な総御影石造りになっている。
 おや、ここには江戸時代からの風雨に耐えた風格ある鳥居があったはずだが、これはどうしたことか。江戸時代がリセットされてしまっている。

鳥居の柱に書き込んである。
再建立 平成二十三年八月吉日」、もう一本の柱に「干時文化七庚午年六月吉辰」とあるのは、こちらが元の鳥居に書いてあったのだろう。そうか、1804年に建てたものだったか。
本当かどうか怪しいけれど、この神社の創建は774年とあるから、先代の鳥居も何代目かだったのだろう。
 知人にきいたら、参道を登っていた自動車が、何かの間違いでバックして鳥居にぶつかって、片足がぽっきり折れた。保険で立て直したのがこれだそうだ。
 19世紀はじめに生れた鳥居は、207年を経て21世紀はじめに新たに生まれかわったのであった。

新しくなった鳥居
 
 さて、鳥居のそばには鐘撞堂(かねつきどう)が建っている。4階建てくらいはある搭状木造建築である。次はこれが建て直しになるような気がする。
 いや、取り壊しになるか。

 ここには17世紀はじめの鋳造になる釣鐘があり、時の鐘として定時に神社の宮司が打っていた。そう、父が朝昼晩と登って撞き鳴らしていた。父が戦争に行っていたときは、母が撞いていた。
 その釣鐘は、1941年の暮れに、戦争のために供出されて出て行ったまま、いまだに帰ってこない。

 終戦の次の年、父とわたしは、瀬戸内海の直島にその鐘を探しに行った。まだ鋳潰していないかもしれないという、父のはかない期待は外れた。大砲にでもなったのか。
島の精錬所には、鋳つぶされずに残った全国各地からの無数の釣鐘が、夏の日に照らされて小学生の校庭の朝礼のように行儀よくならんでいた。そのシュールな光景を思い出すと、あれはなんだか夢であったような気がする。
 今はもう多分80歳を超えたであろう鐘撞堂だけが、ひとり黒々と立ち尽くしている。

●参照→ふるさと高梁の風景

2011/10/19

508故郷のoldtown&newtown

 久しぶりに故郷の高梁に行った。
 高梁川をさかのぼる伯備線で、倉敷から30分、典型的な盆地の旧城下町である。
 ここは映画「男はつらいよ」シリーズに登場する、いわゆる懐かしい町である。

 寅さんの義弟がこの町の出身となっている。上流武家屋敷町だった石火屋町にある豪壮な旧家のお屋敷が、その生家である。今回の訪問でその前を通ったら健在であった。
 少年のわたしは親に命じられて、なんどかこの家にお使いに行ったことがある。二つの玄関があって、どちらからはいるべきか悩んだものだ。

 その武家屋敷町は、かなり前から町並み保全と修景をしているから、いかにも城下町らしい風景である。観光拠点にもなっているので、いかにもそれらしい風景である。しかし、空家空き地が目立つようになっているのが気にかかる。
 武家屋敷町は空家空き地になっても、土塀で囲まれているから、一見したところでは町並みが連続している。

 だが、商家町では空き地が目立って、歯抜けになった町並みとなっている。
 かつての繁華街だった本町や下町の商店街は、商店街の体をなしていない。空き店舗と住宅の連続になっているが、その中のあちこちで空き地が目立つのである。駐車場になっているが、がらんとしてガラクタがおいてあり、草が生える。これは寂しい。
 これらの空き地には、元はといえば格子窓や連子窓の瓦屋根の堂々たる旧家が建っていたのだ。跡地に新たな住宅でも建ってくれればよいのだが、歯ヌケのままで寂しい。

 それは今に始まったのではないが、人口減少が止まらないからだ。旧市街地を中心とする合併前の高梁市の区域の人口が、1960年には約35000人いたが、現在は約24000人である。このさきも減少は止まりそうにない。空き地空家が出るのは当たり前である。
●以下続きの全文は「故郷のオールドタウンとニュータウン」
http://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/takahasi111013

●関連→ふるさと高梁の風景

2011/08/15

474 66年目の空襲と疎開

 あれから66年、またもや空襲を逃れて疎開する日々が来ている。東日本大震災による原発事故で、核汚染物質の飛来から逃れるためである。
 太平世戦争末期の焼夷弾の空襲におびえたあの日々の死の恐怖は、どこまで次世代・次次世代に伝えられているのだろうか。
 日本全土の都市が攻撃された空爆による死者の総数は、(諸説あるらしいが)約50万人だったそうだ。そのうち半分は原爆によるから、今も死者は増加中である。
 あのときの恐怖は66年前のこの日8月15日に終わった。
 この核汚染物質の空襲におびえる日々に、8.15はいつ来るのだろうか。
   ◆
 東日本大震災の死者と行方不明者を合わせると、約2万人程度になるようだ。
 核物質汚染による被害は地域的にも内容的にも範囲を広げつつある。
 この空爆による死者は、今は出ていないのかもしれないが、その性格からして原爆のように後々に出るかもしれない。
 特に食品汚染への恐怖は、真綿で首を絞められるようにじわじわと迫る恐怖である。
 66年前のこの日、戦争による死の恐怖は去ったが、次は食糧不足による飢えの恐怖が始まったことを思い出す。
 少年だったわたしの戦争に関連しての恐怖は、日々の飢えだけであった。毎日腹が減っていたなあ。また飢えるのか。
   ◆
 この日が来ると、毎度書いているような気がするが、また書く。
 わたしの生家は岡山県の中部にある、小さな城下町の盆地にある神社であった。
 あの日の正午、その鎮守の森の中の社務所の前に、ラジオを囲んで集まったのは、大人と小学生を合わせて20名足らずだったろうか。
 大人は近所の人たちだったが、小学生たちはその社務所に遠く兵庫県から疎開してきていた女子児童たちである。当時はラジオが初期のTV程度の普及だったろうか、その疎開学級はラジオを持っていた。
 わたしはなにしろまだ8歳だから、これが終戦の詔勅放送だったとは後から聞いたのだろう。日ごろにない集まりを眺めていただけで、放送の音についての記憶はまったく無い。
 だが鮮明な記憶は、聞き終わった大人たちが、なんとなく列を作って誰も一様に黙りこくったままに、森の中から暑い日差しの町へと、参道の石段をおりて帰っていく姿である。子供心にも異様であったから覚えているのだろう。
   ◆
 その盆地は、B29空襲はこない平穏な日々であったが、空襲から疎開してきた学童たちがいたという現実に戦争の影はあった。
 その疎開児童がどこから来たのか調べいて『学童疎開の記録』(1994全国学童疎開連絡協議会)という本でわかった。芦屋市の精道小学校の学童が、岡山県上房郡高梁町(現・高梁市)の頼久寺に126名、同じく金光教会に47名が疎開したと記してある。
 わたしの生家の御前神社は出ていないが、これら2箇所と至近にあるから、どちらかの分教室であったのだろう。
 その芦屋が8月6日に空襲に遭って、学童たちの家族も被災し、親の死で孤児となった悲劇もあったようだ。
 空襲のもうこなくなった焼け野原の都市に戻っていったあの少女たちは、その後どのような人生を歩んだのだろうか。
   ◆
 わたしの父はそのころ小田原で、湘南海岸に上陸すると見られるアメリカ軍を迎え撃つ本土決戦の準備中の通信兵であった。
 小田原は8月15日の前夜半に、この戦争の最後の爆撃を受けた。父は郊外の山中で陣地構築の穴掘りをしていて、炎上する市街地の火を見ていた。
 その月末に兵役解除となって帰宅してきた。
 彼の戦争は、1931~34年と1938~41年の2度の中国、そして1943~45年の内国と、実に15年戦争の半分を兵役に送り、これが3度目の生還である。このとき35歳の老兵であった。
 参照「父の15年戦争、本土決戦」

2010/10/30

343【父の十五年戦争】続・父の遺品の蛇腹写真機の製作出自が判明した

 昨年4月にこのブログに「118父の遺品の蛇腹写真機」を掲載した。
 それをご覧になった方からメールをいただいた。承諾を得てその一部を引用する。

ご尊父の遺品のカメラですが、戦前に私の祖父が経営していた山本写真機製作所の製品の錦華ハンドカメラに間違いないと思います。1933年ごろの製品です。神田小川町に所在し、近くの錦華公園に因んでKINKAと名付けたようです。山本」(抜粋)

 おお、そうであったか。「日本製だろうか」と書いたけど、れっきとした国産であったか。身元がわかって嬉しい。
 さっそくウェブサイト検索したらCamerapediaというサイトがあり、そこにKinka plate foldersなるページがある。はじめのほうにこう書いてある。

The Kinka (錦華カメラ) 6.5×9cm plate folders were made in the early 1930s by Yamamoto Shashinki Kosakusho. One source says that they were released in 1931. The company later made a number of other cameras under the Kinka brand: see Kinka Lucky, Kinka Roll and Semi Kinka.」

 これによると錦華カメラは、1930年代に山本写真機工作所が製造販売したらしい。
そこにカメラ雑誌の「アサヒカメラ」1932年6月号に載っている広告の画像があるので引用した。
 このFAMOSEを辞書を引いても分からないが、FAMOUSの書き間違いだろうか。
 父がカメラを買ったのは、多分、初めての子が生まれた1935年だろうから、山本さんのメールにある1933年ごろの製品とすると年代的には合う。

 ここに載っているカメラと父のカメラとは、形はソックリだけど、部品はちょっと違うようだ。
 父のカメラのレンズは、Munchenとあるからドイツ製らしいが、シャッターはELKA T.B.C.T.とあって、Camerapediaで調べると製造所はよく分からないが日本製とある。

 値段もわからないが、広告にあるものと大差ないとして30余円だろう。
 物価の差を調べてみると当時の葉書が1銭5厘、今は50円だから3333倍、とすると30円の3333倍は10万円か、高いようにも思うが、今と違ってカメラは珍しい頃だからそのようなものだろう。

 父はどのようにしてこれを買ったのだろうか。昔、高梁の新町に写真機店(店名を忘れた)があったから、あとあと乾板を買う必要もあるからそこで買ったのだろう。
 現像と印画は家でやっていたようだ。薬や印画紙がたくさんあったが、少年のわたしが玩具にして露光させてしまった。
 なんにしてもインターネット時代はすごいものである。普通なら古物写真機マニアにしか分からないことが、こうやって分かるのだから。


2010/08/01

298【怪しいハイテク、故郷高梁】机上で故郷の生家を訪問できるなんて、、、

 わたしの生まれ故郷は岡山県の高梁市である。
 もう20年も前のこと、ハイデルベルクに遊びに行って驚いたことがある。まるで高梁とソックリなのである。
 まちの中を歩いていて、デジャビュに襲われてしまって、どうしてなんだろうと気分がモヤモヤしていたが、アッ、ここは生まれ故郷の高梁なんだと気がついて、晴れ晴れとしたことがあった。
 このことは前にも雑誌に書いているのだが、最近、高校同窓会誌にもそれを書いた。
参照→異国で発見した故郷
参照→高梁:日本のハイデルベルク
    ◆
 ところで、goole streetなるサイトがあって、ここで高梁の街並み見物ができるのである。
わたしの生家は神社なのだが、その鳥居、参道、鐘楼がいまも健在である姿を、机の上で懐かしむことができるのである。
 生家の近くの武家屋敷町も、なんだか映画のセットのようにきれいに見える。高校生が自転車で走っているのも見えるから、絵葉書ではない楽しさがある。
 この高梁は、映画の「男はつらいよ」寅さんシリーズで2回登場する。
 その寅次郎の義弟、つまり妹さくらの夫の生家が、この武家屋敷町の中にある設定になっているからだ。珍騒動の舞台も見える。
 日本各地で撮影車を走らせているgoogle street屋さんて、これでなにをしようとしているのだろうか。
 まあ、便利は便利だが、ただ便利がっていてよいものかしら、、なんだか不気味でもある。

2010/04/10

258【父の十五年戦争】小田原に花見に行ってきたが実はそこは父の戦場だった

 昨日もまた花見に行って来た。小田原城を訪ねると花盛りをすぎて散りかけている。それもまたよし、花の下で生ビールである。
 そしてまた、小田原から酒匂川を遡って足柄平野の北の松田山を訪ねたのだが、ここの河津桜は緑の葉桜になって、枝垂れ桜が見ごろであった。
 だがしかし、だがしかし、そんなものを見に行ったのではなかったのだ。

 今から65年前、1945年の5月から8月まで、この足柄平野は血走った兵士たち大勢がやって来て占拠されたのであった。
 太平洋戦争の末期、大本営はここを本土決戦の戦場としようとしたのであった。湘南海岸に上陸してくるアメリカ軍を迎え撃つのである。

 その軍の兵士の中に、わたしの父も居たのだ。住民たちも動員してあちこちに銃砲の陣地を作って、上陸に備える準備をしていた。父は松田の山中で穴掘りをしていたという。
 だが、アメリカ軍が上陸してくるよりも前に、敗戦となって穴掘りも陣地つくりも中止、兵士たちは引き揚げていった。跡には掘りかけの穴がたくさん残った。住民たちは疲弊した。

 もしもアメリカ軍が上陸してきたら、武器は足りないし兵は老兵の日本軍ができることは、肉弾戦しかなかったのだ。悲惨な沖縄戦の再現であり、確実に父は死んでいただろう。
 その父が1945年の夏に、はるか遠い岡山県の片田舎の三人の幼子と妻を思いつつ眺めたであろう足柄平野の風景、それを65年後のわたしも眺めてきたのだった。

 今のあまりにものどかで平和な風景では、父のそのときの心境を想像することさえできなかった。
 参照→「父の十五年戦争」全文公開

2010/03/15

250【ふるさと高梁】大銀杏が死んだ日

 鎌倉の鶴岡八幡宮のシンボル的な大樹の大銀杏が倒れた。樹齢は800~1000年だそうだ。いくうもの気根が垂れ下がっていて、いかにも老木の感じであった。
 1219年に源実朝を暗殺した公暁は、このイチョウに身を隠していて躍り出て刺したという言い伝えがある。樹齢800年ならまだ幼木だから身を隠しようもないが、1000年なら可能だったろう。
 生き物だからいずれは死ぬ運命にある。いつ倒れてもおかしくない樹齢である。
 今の鶴岡八幡宮は大きな樹林に覆われていて、大昔からこのような姿だったと思いがちだが、実はそうではない。明治時代の写真を見ると、大銀杏はあるが裏山は貧相な松の疎林である。江戸時代もそうだったろうが、どこでも山は薪炭林として定期的に切りたおしたから、貧養立地で松林が多かった。
 生態景観は替わっていくものである。ただ、大銀杏のように特別に伝説もある樹木は、生態に文化が付与されるから無理矢理に生かされるのもやむをえないだろう。
 もっとも、銀杏は原始的な種だから移植はやりやすいし、 けっこうしぶとく生き残るものだ。この銀杏も根とヒコバエがすぐに生えて来るだろう。
   ◆◆
 大銀杏といえば、わたしの生家の神社境内の広場の端にも、大人3抱えほどもある大銀杏があった。気根はなかったから樹齢は八幡宮のそれほどではなかっただろう。
 毎年秋になるとたくさんの実を落とす。それを拾い集めて、臭い皮を落とし、種を干す。保存食みたいなものだった。戦争直後の食い物のない時代は、街の人たちも拾い来た。
 その大銀杏を、1950年ごろと思うが、どういうわけがあったのか知らないが切り倒した。多分、神社修復費用調達のために売ったのだろう。
 長方形の広場の角にある大木で、広場方向のほかは崖地だから、切り倒す方向は広場の対角線上の位置のみである。さすがにプロの技だったらしく、みごとにその方向に倒れた。地響きがした。
 誤算は、広場に埋設してあった湧水の排水管が破損したことであった。
 切り株からひこばえが何本も出ては消えていたが、結局は再生しなかった。

2009/11/17

200【ふるさと高梁】ふるさとでシンポジウム

 生まれ故郷の岡山県高梁市で、シンポジウムがあるとのニュースが都市計画学会から来た。ご無沙汰しているので行ってみたいが、もう遠いふるさとになってしまった。
 参照→◆高梁:日本のハイデルベルク 

 案内文中に「備中松山城や吹屋ベンガラ村で知られる岡山県高梁市」と書いてある。そうか、合併して吹屋も高梁市になったのである。吹屋のある成羽町には、安藤忠雄の設計した美術館があり、なかなか優れたコレクションがあった。
 もう10数年前だったか、高校同期会をこの近くでやって、伝統的建造物群保存地区の吹屋の街並みと美術館を訪ねたことがあった。あれも高梁市立美術館になったのだろうか。

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(社)日本都市計画学会メールニュースNo.639 (2009年11月17日)

シンポジウムのご案内
『歴史を活かしたまちづくりシンポジウム
 ―岡山県高梁市の「歴史的風致」を考える―』
備中松山城や吹屋ベンガラ村で知られる岡山県高梁市のこれまでのまちづくりの歩みを振り返り、
これから「歴史的風致」の概念をどのように展開し、活力のある地方都市を育てるかを考える。

日時:2009年12月6日(日)17:00~19:30
会場:高梁市文化交流館 3階中ホール
     (岡山県高梁市原田北町1203-1)
参加費:無料

1.基調講演:「歴史まちづくり法の意味とその生かしかたについて」
         西村幸夫(東京大学大学院教授)
2.経過報告:「高梁のまちづくりの今までの展開について」
         小林正美(明治大学教授)
3.パネルディスカッション
   近藤隆則 高梁市 市長
   西村幸夫 東京大学大学院教授
   土井富弘 「高梁の歴史的風致」を考える会 幹事
   石井雅之 たかはしフィルム・コミッション 会長
   小川 博 吹屋町並保存会 会長
   岡山県文化財関係者
   小林正美 明治大学教授 (コーディネーター)

個人申込:申込不要
団体申込:団体名、人数、代表者氏名・連絡先を明記の上、
     事務局までE-MailもしくはFAXにて申込ください。
問い合わせ:「高梁の歴史的風致」を考える会・事務局 
  E-mail:Takahashi-rekimati@etude.ocn.ne.jp
Tel:090-3179-5649(井上)/Fax:0866-23-0708

主催:「高梁の歴史的風致」を考える会  
共催:高梁市、高梁市教育委員会
協賛:(社)岡山県建築士会高梁支部
後援:高梁商工会議所、高梁青年経済協議会、(社)高梁青年会議所
    たかはしフィルム・コミッション
※本シンポジウムは「住まい・まちづくり担い手支援事業」の支援を受けて開催します。

2009/08/15

166【ふるさと高梁】夏の日の鎮守の森で

 ふと目覚めて見上げる窓ガラスの外の空には、樅と杉の大木の枝と葉が黒々と張りめぐらされている。
 枝と葉とが空を覆いつくさないあいまには、未だ薄暗い空を背景にして自然の自在な影絵の造型が見える。
 幼児の眼には、人の顔、動物の頭、怪物の形も見えて、はっと怖くなり布団にもぐりこんでまた眠りにおちる。
    ◆◆
 街の鎮守の神社は、盆地の東の山腹の森にある。
 道から石段を40段も登りつめたところに、南北30m、東西15mほどの平地が造成されて広場となっており、その片隅にわが家が社務所にくっついている。
 3方を樅、杉、松、檜、銀杏等の大木がある森がとりかこみ、もう一方の斜面には竹林がある。そこからまた20段ほど階段を登ると、社殿のある30m角ほどの平地があり、ここも森で囲まれ、背後は山林になっている。
 この境内地は、夏は蝉時雨に溢れて、慣れないと耳が痛いほどである。アブラゼミ、ニイニイゼミ、ミンミンゼミ、クマゼミ、ヒグラシなど、初夏から真夏そして初秋へと、蝉の声はしだいに主流が移り変わる。森の中に縁台を出して、その上で蝉の声を枕に昼寝をする。
    ◆◆
 ある晴れた夏の日のこと、社務所の玄関先に近所の人たち10人くらいと、疎開児童の小学生たちが集まった。
 疎開児童引率の教師が持っていたラジオを、ここでこれから聴くのである。その頃、社務所には兵庫県の芦屋市の小学生1クラスが、アメリカ軍の空爆を避けて集団疎開してきて寝泊りしていた。
 8歳の少年のわたしもそこにいた。ただし、疎開児童たちを受け入れた側である。
 雑音の多いラジオからの言葉を、大人はどう聞いていたのだろうか。少年の耳には内容はわからなかったが、鮮明な記憶がある。
 それは、放送を聞き終えた大人たちが一列になって、社務所から広場へそして石段へと、一様に黙りこくってとぼとぼと歩く風景である。
 暗い鎮守の森から明るい太陽の下の街へ、それは時代の変わり目の象徴的風景として、思い出のなかの64年前の8月15日であった。
 父は月末に戻ってきた。彼の3回も兵役についた長い十五年戦争の日々が、ようやく終わった。
    ◆◆
 その夏休みが終わった日から、国民学校の教壇にある教師たちの戸惑いと転向を、少年ながらに目の当たりにした。
 教室机の並べ方が毎週のように変ったのは、民主教育実験だったのか。
 もっていた教科書に墨をぬった。なぜそれを塗るべきなのか、不思議だった。
 新教科書だといって、8ページ分を1枚に刷った新聞様の紙束が配布されて、裁断して本の形に綴じた。
 教師が黒板に書いたことを、いや、こういうことはいけなんだと、つぶやくのも聞いた。
 まったくもって、ひもじい毎日だった。少年は遊ぶのに夢中になってしまうから、気がついて突然に飢餓に陥り、母親に食い物をねだるが、なにもない。あの頃の親は実につらいものだったろう。
 学校給食のコッペパンと脱脂粉乳ミルクがおいしかった。家の前の境内広場は芋畑になり、人糞肥料の匂いが漂っていた。
 幼児の眼に怖かった樅や杉の大木も、沢山の実を降らした銀杏の大木も伐られてしまった広場は、今は駐車場となっている。耳を圧する蝉時雨は、今も降っているだろうか。
●参照→・戦後60年目の靖国(2005) 
    →少年の日の戦争ー母のための小さな自伝

2009/07/22

157【ふるさと高梁】少年の日にあった日食の思い出

 ただいま2009年7月22日午前11時ちょっとすぎ、半分以上は太陽が月に覆われているはずである。
 だが、横浜あたりは空は雲のおおわれていて、なんだか薄暗いだけで、ただいま進行中の日食は目に見えない。

 日食といえば、いつも北海道の北にある礼文島を連想する。
 小学生のころに、皆既食ではないが印象に残る日食を見た。
 生家の神社の境内で、子どもも大人もガラスのかけらにローソクで煤をつけて眺めたものだ。肉眼でも見えるぞと、じっと見つめていたら確かに太陽の姿が見えるのだが、その後しばらく目が見えづらくなった。

 そのときは、礼文島が観測適地だったらしく、新聞に礼文島のことがよく載ったので、記憶に日食=礼文島が刷り込まれている。行ってみたいと思いつつ、いまだに行っていない。
 調べてみるとそれは1948年5月9日のことである。その日は雲のない晴天であった。

 その3年前の8月15日も雲のない晴天であった。その昼過ぎ、この境内を近所の大人たちが黙りこくって、列になって街に戻る姿を思い出す。終戦の天皇の詔勅放送を、神社の社務所に集まって聴いた後であった。

2009/04/28

121【ふるさと高梁】少年のある日に突然に四季を感じるようになった日のこと

 この文は2003年に書いて「まちもり通信」に掲載したが、再掲してまた尋ねたい。
 これを読んでくださっているあなたには、こんな経験がおありでしょうか。

 それはわたしが、多分、中学生の1年生かその前後の歳だったでしょうか。
 ある日の昼まえ、いつものように街を眺めていました。わたしの生家は、盆地東側の中腹にある神社ですから、境内の端から見晴らしが良いのです。

 見下ろした頭を回して、山の中腹の雑木林に目を移してゆきます。
 初夏だったでしょう、新しい葉が黄緑に繁る林の樹冠からは、レモンイエロウの炎がたっているようでした(右の上の絵の左方)。いつも見ている風景です。

 突然そのとき、私の心のなかで何かが動いたのです。
 うまく言えないのですが、そう、四季が見えたのです。自然の移り変わりをはっきりと感じたのです。
 これまでいつも同じに見えていたこの風景は、じつは同じじゃなかったのだ、この世界には四季があり、いつも変化しているのだ、と、気がついたのです。

 風が吹いている、こずえの葉がそよいでいる、色彩がある、雲が行く、陽光がふりそそいでいる、それらが見えてきたのです。
 いつも見ていた風景が、生き生きとわたしに語りかけてきたのでした。

 少年の頃には、四季なんてものはありませんでした。毎日毎日がそれぞれ別々の独立世界だったのでしたが、その日から、私のまわりには毎日連続する時間が生れ、季節が巡りだしました。
 思うに、そのときから思春期に入ったということでしょうか。

 こう書いていると、なんだか自分でも絵空事のような奇妙な感じです。でも、そのときの風景は、もう半世紀を超える前のことなのに、いまもはっきりと目に浮かぶのです。
 今、ふるさとの同じところに立っても、あたりに家が立ち並んでいますが、まぶたの中の風景は昔のままに、畑の向うの林には若葉が萌え、いや、燃え立つのです。

 このことはこれまでも、ときどき思い出したように人に話したことがありますが、書くのは初めてです。
 いかがですか、あなたにはこのような経験はありましたか、教えてください。ひとりだけ友人が高校生になってそのような経験があったと教えてくれました。

 これに関連して、気になっていることがあります。ヘルマン・ヘッセが書いた小説だったと思うのですが、その主人公がこれと同じ経験をする場面があったのを、高校生の頃に読んだような気がするのです。
 それがどこにあるのか探しているのですが、どうして見つかりません。どなたかご存知でしょうか。

 春が来るたびに、老い行く身にもみずみずしい少年の日があったと、ちょっとロマンチック(センチメンタルか)な気分になります。(030309)

2009/04/13

118【父の十五年戦争】父の遺品の蛇腹写真機

 15年前に逝った父の遺品に、ガラスの乾板(65×80mm)に写す蛇腹式写真機がある。カメラというよりも写真機がいかにもふさわしい。
 父のアルバムにある古い写真から判断して、初めて子(夭折したわたしの姉)が生まれた1935年に購入したようである。

 その後のアルバムの様子では、1942年頃までは使ったらしいが、戦争時代になると乾板は手に入れられなくなるし、写す当人の父は兵役で居なくなるし、その留守中にわたしが玩具にして壊したりした。

 それでもわたしが中学生くらいのときに何とか使えないものかと、カメラ屋に相談に行ったことがあったが、もう乾板を売っていないからだめといわれた記憶がある。カメラの名前は「KINKA HAND CAMERA」と書いてある。日本製だろか。

 今ではさわると壊れるくらいに、ぼろぼろとなっいる。もう処分しよう。
 父は映像に趣味があったらしく、手回し式8mm映写機があり、フィルムが2巻あった。そのひとつがチャップリンの出演するものだったが、もうひとつはなんだか忘れた。

 幻灯機もあり、絵を描いたガラスを透過して写すものだった。絵の内容は、宗教的なものだったような、うろ覚えである。
 小学生くらいまでは時々見て遊んだ覚えがあるが、わたしが物心ついてからは、父にそのような趣味はなかったようだ。

 どちらの機器ももうないが、あれば骨董品として価値があるのだろうか。
 いつの日かわたしの遺品のPCやデジタルカメラを見て、同じようなことを息子が思うだろうか。

 追記:これを書いた1年半後にカメラの製造所が分かった
      ●参照343続・父の遺品の蛇腹写真機