2010/09/05

313【言葉の酔時記】ヘンな「させていただく」の大流行

これほどまでになっているのかと、驚いた。2010年9月4日の朝日新聞(Be on Sunday)にあるアンケート結果である。
「させていただきます」がヘンであるか、ヘンでないか4202人の読者に聞いたところ、変だ54%、変でない45%だというのである。
 おおそうか、これほどにも「させていただく」が、変でない言葉として普及しているのか。

 世の中の言葉はこうやって、正反対の方向に変わっていくのだろうか。
 とにかくわたしは「させていただきます」を聞くと、背筋がムズムズするので、できるだけ聞きたくない。珍妙な遣い方だとふきだしてしまう。
 アンケート回答にもその例があり、不動産屋にこのあたりの道は渋滞するかと聞いたら、「朝はかなり渋滞させていただきます」と答えたという。読んで吹きだした。

 ある会社に電話をして知人につないでもらおうとしたら、本日お休みをいただいておりますとか、お休みさせていただいておりますなんて答えがあった。
 ほかでも一度ならずそれがある。おいおい、おれは休ませろなんて言った覚えはないぞといいたくなる。

 もちろん使って良いときもあるのだが、ほとんど正しい使い方であることはないのが原状だ.。これほどの割合で正しいと信じている人がいるとはねえ。

(追記)9月6日朝刊に小澤征二さんが「ひとこと謝らせていただきます」といったとある。腰痛で予定していた指揮ができなくなった音楽会でのこと。
 小澤さんはわたしと同じ年齢であるはずだ。う~む、困ったもんだ。間違って遣ったのでないとすれば、謝れといった人がいたのであろう。
   ◆
 この言葉については既に別に書いているが、ここに全文掲載しておく。

●イチャモンコラム8月号●させていただきたくない
 「作業スタッフ4~5名で伺わせていただきまして、お部屋の中からお部屋の中までお運びさせていただきまして、インターネット割引をさせていただきまして、できるだけお勉強させていただきたいもので、上司に交渉させて いただきましたところ、100,000~120,000円(税別・保険代(1,000円))まで、何とかOKを、取らせていただいたのですけれども・・・」(原文のまま)

 これは最近、引越し見積もりをインターネットで取ったら、ある業者からの返答メイルの一部である。オオ、6回も「させいてたただく」の大インフレ。全文この調子で、目が引っかかってチカチカイライラする。

 この10年くらいだろうか、「させていただき」大流行、挨拶なんぞで舌を噛みながら言っているやつもいる。
 元来「させていただく」の意味するところは、「あなた様のご意思に従ってそのようにいたします」という謙譲言葉とわたしは解釈しているので、こちらがそうは思っていないのに勝手にそう思わせられては困るし、腹も立つのである。

 「お疲れさま」とか「ご苦労さま」とか、若いやつから言われるとムカッとする。
 言うほうは無邪気なもんだろうが、元来はねぎらいの言葉は上から下に言うものである。お前にねぎらわれるほどもうろくしてないよ。

 居酒屋で注文すると「それでいいですか?」、ムカッ、そんな安物注文で悪かったよなあ、俺はそれいいから注文したんだっ。

 電車で「お忘れ物ございませんようにご注意を、、」と放送、おいおい、車掌の荷物までオレが知るかよー、「ございます」は自分のことに使うもんだよー、・・なさいませんようにって言え。

 故障の時など「ご迷惑をおかけしました」といって、それでおしまいの放送がよくある。迷惑かけた認識はあるらしいが、だからといって「お詫びします」とは言わないから、詫びないのである。

 この暑いときに、どうか日常語くらいは、いらいらさせていただきたくないものである。年とると骨が折れることが多くなるもんだなあ。(020722) 

2010/09/01

312【横浜都計審】市民委員退任にあたっての反省記

 役人や大組織の人事異動のときの挨拶の言葉として、他に出て行く人は「大過なく無事に務めることができてありがとう」という。
 これに対して入ってくる人は「図らずも任じられて来ましたがよろしく」という。

 わたしが横浜市都市計画審議会委員を、2008年11月からやって今年の7月で任期を終えた。
 これに関して挨拶するとしたら、「図って任じられましたが、大過なく無事に務めて残念でした」ということになる。
 公募に自分で応募したのだから、図ったのである。

 大過なく無事で残念とは、あれだけ毎回がんばっても、毎回わたしの意見は通らずに、審議会は毎回何事も無く終わったということである。
 7回の審議会に一度の欠席もせず、毎回事前調査を現地や市役所で行い、毎回議案の問題点を指摘する意見を映像資料を使って発表し、終わると毎回の状況をその都度「まちもり通信」に掲載してきた。
 これを愚直といわずしてなんであろう。

 マドンナという議題を一生懸命追いかけて、自分では口説いているつもりが、結局は相手にされない。
 そして次の審議会という旅にでて、またしょう懲りもなく次の議題というマドンナを口説くが結果は同じ。まったくもってフーテンの寅さんの気持ちがよくわかった。
 あるいは風車に立ち向かうドンキホーテであったかもしれない。

 終わって反省と立腹とがあるので、一応のまとめをしておいたので、お暇な方はお読みください。
 
参照⇒あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている2013:横浜都計審の実態(要約版)

2010/08/31

311【くたばれ乗用車】ドケドケッてお顔の自動車

 自動車には興味がない。ただし、ジャマだという意味では大いに興味がある。
駐車場を通り抜けていて、ふと気がついた。なんだか睨みつける沢山の視線を感じるのだ。
 わかった、並んでいる乗用車の人相(車相か)がドレもこれも、典型的な悪人とか意地悪な面構えなのである。
 オラオラ、ボケッとあるってんじゃね~よ、ドカねーか。
 このド太いでっかいバンパーが見えねーのかよ、撥ねっ飛ばすぞー。
 奈良美智の作品に出てくる例の意地悪顔ソックリのものもある。でっかいグリルでっかい電球目玉で、真っ赤に塗ると祭りに出てくる唐獅子面ソックリの奴もいる。真っ黒でダースベーダーな奴もいる。
 昔オーストラリアのリゾートにいったときに(調査にね)、あまりに太くてでっかい頑丈なバンパーをつけている車ばかりなので聞いたら、カンガルーが突然飛び出すからだそうだ。アチラのほうがでかくて、車が壊れるので対策だそうだ。
 日本では、いまや歩行人間がカンガルーなみに扱われるようになった。
 自動車デザイナーというか自動車メーカーの思想がよく分かる。

2010/08/28

310【本づくり趣味】手製本「まちもり叢書」第3号と4号を発行

本作り趣味を始めて、第3号と第4号の著書を作った。
 第1号は「父の十五年戦争」(発行部数11部)である。父が兵役についた満州事変、日中戦争、太平洋戦争の時に書いた手記である。
 
 第2号は「横浜B級観光ガイドブック・関外編」(同6部)。関外地区のことをあれこれ書いている。
 このガイドブックは、表紙をデザインしてくれた友人に3冊、そのほかの友人2人に1冊ずつ、息子に一冊で、今日までに合計発行部数は6冊である。

 今度の第3号は「波羅立ち猜時記」なるイチャモンエッセイ集で、堂々の120ページである。背に文字が入る。これは友人3名に居酒屋で押し付けた。今のところ発行部数3部である。

 つづく第4号は「あなたの街の都市計画はこんな会議が決めている」というのである。
 2008年11月から今年7月まで横浜都市計画審議会で公募市民委員を務めたので、その全7回の会議のドキュメンタリー報告である。これも堂々の112ページ。
 これは発行部数2冊、都市計画審議会の会議のための下調べなどで協力してくれた友人2人に送った。

 オンデマンド出版である。もっとも、デマンドはどこからもないので、デマ運動出版の押し付け発送である。
 だれかに送りつけようと思いついたら、その都度、内職みたいに机上作業をやる。何冊もやってくるとそれなりに手際がよくなってくる。
 いまのところホッチキス中綴じ製本だが、いつになったら糸でとじて、花きれもつけ、ハードカバーで、革装の豪華本を制作することができるだろうか。

●関連→306手製本2種

2010/08/23

309【歴史・文化】映画「キャタピラー」と「氷雪の門」を見た

 近所の映画館ジャックアンドベティで、二つの映画を見た。
 ひとつは話題の新作「キャタピラー」、もうひとつは1974年の旧作「氷雪の門」リバイバルである。11時半から15時半まで、続けざまに見て疲れてしまった。
 ここでは俳優や映画制作については、知識がないから語らない。
 二つとも反戦映画という分類はなるだろうが、36年という時間のギャップが見えて、そこが面白かった。
 簡単に言えば、「氷雪の門」が一方的な被害者として戦争を語るのに対して、「キャタピラー」では加害者としての戦争も語るのである。これははたして時代の思潮の差なのだろうか。
   ◆
 映画「氷雪の門」を制作した頃は、ベトナム戦争の末期に当り、加害のアメリカ、被害のアジアという図式があった。それをサハリンに置き換えたのだろうか。
 あるいは、加害のアメリカ、被害の沖縄という図式の、サハリン版であったのだろうか。映画「ひめゆりの塔」(1953年)を連想する。
 氷雪の門では、加害者としての日本は全く登場しない。日ソ不可侵条約を一方的に廃棄して、日本が敗戦降伏後も戦いを挑んで、多くの死者を出したソ連を糾弾している。
 それはそれで事実であろう。だが同時に「キャタピラー」を見てしまったものには、あまりに安易なストーリーに見えてくる。
 なぜ今、リバイバル上映になったのか、そこが分からない。
   ◆
 サハリンの歴史は複雑である。歴史的に大昔からロシアと日本の共有の形であったが、互いに自国領土としていたようである。
 いさかいもありながら共有してやってきたのだが、そのけりを正式につけたのが、1857年の「樺太・千島交換条約」の締結であった。日本は樺太島の領有権を完全に放棄して全島がロシア領となったときである。
 この制度的に明快に落着した状況が破綻したのは、1904年に始まった日露戦争で、日本軍は樺太に上陸して占拠した。1905年日露戦争は日本の勝利となり、ポーツマス条約で樺太の南半分が、ロシアから日本へ割譲された。
 その後、日本はこの地に植民して開発してゆく。大勢の朝鮮人の徴用があって、その問題は今に尾を引いている。ここには植民地としての加害の歴史がある。もっとも日本の制度としては、朝鮮や台湾と違って本土の一部と決めたので、形式上は植民地ではないとしてるらしい。
 ロシアにとって見れば、条約で正式に領土となったものを、その後の日露戦争でむしりとられたとしていただろう。現代のいわゆる北方領土問題は、その延長上にある。
   ◆
「氷雪の門」に登場する若い女性が、わたしはここで生まれて育ったのだからここで死にたい、という。
 そこに植民地の深層にいたる問題があるのだが、映画ではそうは語られない。故郷を奪われる悲哀のみである。
 日本からの満州への植民で、現地の農民が追われたような加害は、サハリンではなかったのだろうか。歴史的にロシア、朝鮮、日本からこの島に人々が住み着いていたのだから、日本領となったときに何かがあったに違いない。
 1974年の公開当時に、ソ連がこの映画に不快感を示して、当時の日本映画会社とソ連との合作映画制作とからんで、全国上映が円滑にできなかったという。この映画がフィルム配給制度を押さえている日本の大手映画会社の制作でなかった為である。
 ソ連の不快感は、この映画を見れば単純によく分かるが、この島のソ連と日本の間の歴史的ななにかを見つめることも必要であろうと思う。
   ◆
 さて「キャタピラー」である。性的な場面で話題のようだが、それは女性の俳優に気の毒である。
 手足を戦場でもがれて芋虫(キャタピラー)となって帰還した男との性行為は、男の中国戦場での強姦という加害と関連あるために必要であるが、それは特に芋虫男である必然性はなかっただろう。映画として猟奇性の話題であろうか。
 この加害の場面は、「氷雪の門」で上陸してきたソ連兵の、市民への無差別殺戮と同じである。
 閉鎖的な農村の日常から針穴のような視界で、あるいは茅葺屋根の農家の座敷の茅の中から、日本の戦争を見渡すというこの映画の手法は、なかなかよくできている。ニュース映画の引用の戦場とのギャップが深い。
 いっぽうの「氷雪の門」は、戦争の大局的な視界の中のひとつの悲劇の場面として描かれる。これが映画としては普通の描き方だろうが、「キャタピラー」のひとひねり、ふたひねりにはとても敵わない。
 皮肉にも、前者がかなりの制作費らしいのと比べて、後者はかなり安かったように見える。
 性と食の同じような執拗なるくり返し場面が、徐々に変化していく作り方が面白かった。それにひきかえ、茅葺農家の点在する棚田の村の風景は、全く変らない。
   ◆
 わたしが気になった登場人物は、「あいつは戦争があるごとに気が触れる」といわれている、赤い着物の中年男である。
 この赤い着物は、芋虫男の軍服の対照として描かれている。どちらが狂気か、どちらも狂気か。
 このキャラクターは狂言まわし役であろうと期待していたが、それほどのこともなかった。もう少し、なにかをやらせることで、狂気と正気との逆転世界をあぶりだして見せてほしかった。
 敗戦となった日、赤い着物から着替えて白ワイシャツと黒ズボンで出てきて、バンザイと叫ぶのも、分かり易すぎてちょっと安易であった。もうひとひねりほしい。
 キャタピラーとは芋虫のことだそうだが、「氷雪の門」には戦車が登場して、ごうごうとキャタピラー音を立てて迫ってくる。思い出すと場面が混同する。
 芋虫男のことで、だいぶ前に読んだ『ジョニーは戦場へ行った』(Johnny Got His Gun ドルトン・トランボ作1934年)を思い出した。
 もうひとつ思い出したこと。戦後、街角やお祭の露天の間に、カーキ色の戦闘帽、病院の白衣、黒眼鏡の風体で手足の切断面を見せ、座り込んだり松葉杖で立ちつつ、アコーデオンを弾いて物乞いする男たちがいた。傷痍軍人と呼ばれ、1960年代には消えた。
   ◆(追記100826)
 大江志乃夫『日本植民地探訪』(新潮選書1998)を読んでいたら、サハリンのことも出ている。
 それを読むと、映画「氷雪の門」の真岡郵便局事件は、その局長が後になって書いた「美談」を元に脚色しているらしい。
 しかし、後に別の人が生き残りの人たちに聞き取りして出版しているが、それによると、真岡局には他にも局員はいたし、交換手も全員自殺ではなくて生き残りもいた、とある。
 わたしは娯楽映画が真実を描くべきとは全く持っていないが、事実はまた違うところにあることに興味を持った。

2010/08/22

308【言葉の酔時記】沖縄の姓はなんと読むのか?

 高校野球には特別興味はないが、今朝の新聞にあまりにも大きく記事が出ているので、ついつい目が行った。
 で、勝負はどうでもいいが、沖縄興南高校プレーヤーの姓に気をとられた。
 記事で振り仮名のあるものは兎も角として、そのほかもほとんど読めない。ウェブ検索すれば分かるだろうが、わざとしない。

 国吉陸は、クニヨシリクかしら?
 慶田城は、ケタグスクかとおもったら、振り仮名があってケダシロである。
 我如古は、ガジョコ? ワレ、イニシエノゴトシとは、なかなかに風格がある。
 真栄平は、マエヒラか。
 銘刈は、メカリだろう。
 山川は、ヤマカワにちがいないが、この人だけ平凡すぎる。
 伊礼は、イレイかイレか。
 安慶名は、アゲナと振り仮名があった。
 島袋、大城も沖縄の姓だが、これらは人口に膾炙している。
 監督は我喜屋で、ガキヤと振り仮名があった。

 これらを見て、この高校は野球で有名なのかどうか知らないが、全国あちこちから野球の上手い子を集めてきて特別教育をしてるのじゃなくて、地元でじっくりと人を育てているらしいことが分かる。
 ところで、対戦相手の東海大相模高校にも、変わった姓の人がいて、一二三にヒフミと振り仮名がついている。
 やれやれ、ようやく終わってくれて、野球ボケの朝日新聞は普通に戻るかしら。

2010/08/20

307【言葉の酔時記】一度はいたらどんなに汚れても脱げない魔法のパンツ

 海水浴にはもう長らく行っていない。行く元気が出ないくらい暑い。
 19世紀末頃か、ベルツだったか長与専斎だったかが公衆衛生学の立場から、健康医療活動として湘南海岸で始めたのだと、何かで読んだ。
 そこで水着である。ビキニ水着のことは原爆実験に発祥すると書いたから、もう書かない。ここは単に泳ぐためのパンツのことである。
あれをどうして海水パンツというのか。海水浴パンツであろうがッ。海水で作ったパンツかよッ。略して海パンとはなにごとか、海草の入ったパンか、海辺で売っているアンパンのことかッ。
 真水のプールで泳いでも海水パンツとは、これいかに。プールパンツだろッ、プーパンだよッ。いや真水パンツかも。
 水泳パンツといっていたのを、いつ頃から海水パンツというようになったのだろうか。
   ◆
 ところが、今朝の新聞に奇奇怪怪なるパンツの広告が載っている。
 いっぺん穿いたら、もう脱げなくなる魔法パンツだというのである。
 そんな無茶な、ウンコシッコ汗にまみれても脱げないままなるパンツなんて、思うだにぞっとする。
海パンならぬ怪パンである。いや魔パンか。
 パンツ、ズボン、ショーツ、パンティ、パンタロン、、、なんとかせい。

2010/08/18

306【本づくり趣味】手製本を2種つくった

 暑い、暑い、この3日間は締め切って冷房機をつけっぱなし。潜水艦の中にいるようで、閉所恐怖症気味のわたしはどうにもたまらない。
 時々は浮上して窓をあけて、ホンモノの空気を入れるが、これがまあ潜水中にいつのまにか熱湯の風呂桶の中に来ていたらしいのである。
 こもっていて不全をなすだけではなるまいと、ここらで趣味の手製本にそろそろ取り掛かることにした。

「父の十五年戦争」は、5月にキンコーズでプリントだけして、中綴じ10部つくって、息子や弟、従兄妹たちにくばった。これがまあ、テストである。
 今回からは、材料のほかはなにからなにまで自家製とするとして、「父の十五年戦争」新規製作からはじめた。
 東急ハンズで買ってきた二つ折り中綴じ専用のA4用紙に、これも最近買った新しいプリンターで冊子印刷で自家プリント、二つ折り中綴じホッチキスとめ製本、別紙で見返しと表紙をつけて、A5版55ページの本として製作した。これは息子にやった。
 その次は、「横浜B級観光ガイドブック 関外 横浜戦後復興の残照」である。
これには、絵画を趣味とする畏友に表紙のデザインを頼み、ついでに装丁もいろいろと助言してもらった。6冊と20枚程度の失敗刷りを経て、A5版、中綴じ、36ページ、オールカラーでできあがった。
 こちらは「父の十五年戦争」よりも、かなり質が高い。いや中味じゃなくて、体裁のことである。
 さっそく試作第1号を畏友にさし上げたところ、沢山のダメ出しをくらった。どの意見もごもっともである。
 で、今日は大幅に直して、40ページに仕立て直した試作第2号を送った。またどんな意見具申がくるか楽しみである。
    ◆
 こんな程度の厚さの本では、いつか買ってきた道具は、まだほとんど出番がない。
「本の雑誌」9月号に、新潮社では10万部販売突破した自社出版本は、4冊限定で特性の豪華皮装本にするとて、その製本過程のイラストレーションが描いてある。
 これだけで製本方法が分かるわけもなし、ものすごい年季の入った職人芸らしいから、わたしがすぐ真似することはできないが、こちらは自分が書いたものを、自分の趣味で本にするのだから、ちょっとくらい不体裁にできてもいいから、イッチョウやってみるかって気になった。

 立派な本は厚みが必要である。まあ、内容はともかく厚みだけなら、これまで書いてきた駄文を、アンソロジー風に編集すればなんとでもなる。
 しかし、装丁が立派なら、ついでに中味も立派な内容にしたいようにも思う、という大問題がクラウドの如く立ちのぼってきた。あ、いまどきのクラウドとはちがいますね。

 そうだなあ、書きおろしは大変だから、書き下ろし風におおきく編集し直しするか。
 それなら「父の十五年戦争」にくわえて、ご先祖様のこと、故郷のこと、自分自身のそこでの暮らしのことなどを、これまで書いてきたものをつなぎ合わせ、間につなぎ文を書き加えつつ、大河小説風にまとめると、けっこういいかも、、うん、いいぞ、やれ~。だれでもひとつは小説を書けるって、ソレである。

 大問題は、いつになったらその原稿がまとまってできあがるかである。なにしろ出版社から締切を追われることがないのだから、いつになってもできそうもない。
 だが、気がついたのだ、出版社よりも厳しい締切があることに、。
 ボケである。うん、早くやらなくちゃ。
 
 ●参照→268本作り趣味  http://datey.blogspot.com/2010/05/268.html

2010/08/17

305【父の十五年戦争】戦後60年の靖国神社に野次馬で行ってきた

 戦後65年目の今年の8月15日は暑すぎた。戦後60年目の8月15日に、わざわざ靖国神社に行ったことがあった。
 そのときの感想をまちもり通信に書いたのだが、どこに分類したか分からなくなったので、ここに再掲しておく。
 以下2005年の8月15日の記。
    ◆
 今年は8月15日、野次馬で東京九段の靖国神社に行ってみました。
 このところ総理大臣が参拝して近隣諸国が怒りアレコレあって、有名になりました。
 戦後60年目の節目の年(科学的な根拠はないでしょうが)とかで、どんなことが起きてるのかなあと興味津々、
 でも、実はたいしたことはありませんでした。
 起きてるだろうなあと思ったことが起きていたのは、終戦60年国民大会なる例の単純論調の絶叫が続く集まり、そしてこれも戦争懐古賛美らしき本やら映像やらの販売、無宗教の慰霊施設設置反対署名運動、みんなで参れば怖くない国会議員の集団参拝、日の丸を振る軍服の一団など。

 これらは当然やってるだろうと予想しましたが、ちょっと気になったことは、野次馬らしくない若者たちの姿が多いことでした。
 大勢の若者カップルが賽銭箱の前で手を合わせていて、もしかしたら初詣と間違えているんじゃないかしら、間違えているのならともかく、どこか不気味な感もありました。

 死者を貶めたくない遺された生者の心理と戦争暴力とがないまぜになると、このような社会現象がおきるのかなあと思うのでした。
いずれにしても戦死者を讃えると戦争駆動装置にならざるを得ません。いや、駆動装置だからこそ讃えるのか。
 南海に没した叔父もここに合祀されているのでしょうか。
 それにどんな意味があるのか理解できません。(050824)

   ◆

 上に「南海に没した」と書いた叔父は、フィリピンのマニラ東方山地で1945年5月に戦死したと、1948年になって戦死の公報が、名前を書いた白木の位牌のみ入った骨壷と共に届いた。
 そして遺族が、そのほぼ全滅となった悲惨な叔父の戦場を知ったのは、なんと1987年、死後42年も経ってからであった。
 わずかな生き残りの中の部隊長が、ようやく重い口を開いて手記を送ってきたからであった。そこにはジャングルを「転進」し続けながら、劣勢の中で戦ったことばかり書いてある。フィリピン戦線の悲惨さは悪名高いから、奇妙に思った。

 そこで傍証となる戦記を探したら、同じ戦場で兵站病院の衛生兵であった人の手記が出版されているのを見つけた。その中の一部に叔父の部隊の敗残兵たちの、あまりに無残な様子が書いてある。そこに叔父がいたかどうか知りようがないが、遺族が読むのは苦しい。
 これは父の十五年戦争執筆の、あまりに重すぎる副産物であった。

2010/08/15

304【世相戯評】夏の風物詩?

 東京は蒲田駅のコンコースに、西瓜を入れるロッカーが登場した。
 この駅の利用者は西瓜が大好きで、スイカの季節になると通勤の行きかえりに買っては、この保冷装置つきスイカ専用ロッカーに一時保管する。いかにも夏らしい風物詩である。
ということなのかしらと、昨日、蒲田駅をとおりかかってこれを見て思った。
   ◆
今日は敗戦記念日である。夏になると必ず登場する、古稀あたり以上の人には、それぞれに特別の思い出が詰まった日である。これも風物詩と言えそうである。
 先日、屋根を葺く瓦職人の話を聴く機会があった。そこに持ってこられた多くの見本の瓦のほかに、ちいさな瓦のかけらがひとつ。
 そのかけらの一面は普通の黒い瓦だが、もう一面は表面に粟粒模様が沢山できていて、なんだか煮え立った後のようである。
 実はこれは、1945年8月6日、広島で原子爆弾の灼熱を浴びたものの一部だそうである。
 瓦は熱線で、屋根の上で再び焼成されたのであった。
   ◆
 息子がやってきて、お盆だからやっぱり墓参りに行こう、という。親に似ぬ律儀な奴である。
 アア、そういえば世の中はそうであるな、神社の宮司であった祖父、父にもお盆なんてあったっけか?
まあなんでもいいやと、公園墓地におもむき、超暑い午後の陽に照らされつつ、墓石に榊を立てて、水をざぶざぶとかけてきた。
 これがいちばん夏の風物詩らしい。