2010/09/15

317【くたばれマンション】衣のファストフード、食のファストファッション、そして住のファストハウス、ファストマンション

 衣食足って礼節を知る、と、昔の人は言った。
 一般に衣食住と3つを並べていうけど、なぜ住はなくても礼節を知ることができるのか?
 食は足りすぎた先にファストフードとかジャンクフードとか、立ち食い屋みたいなどうにも礼節のない輩が登場している。

 では衣はどうか。最近はユニシロとかでてきて、それを真似するて安売り衣料屋が流行るとかで、それらをファストファッションというそうだ。
 ファストフードもファストファッションもそれなりに美味いものもあり、格好も良いものもあるのが、なんだか癪に障るが、戦後半世紀以上経って衣食はようやくそこまで来たってことである。

 で、残りの住はどうか。ファストハウスとかファストマンションとか、そんなものがあるのだろうか。夜な夜な立ちあがるダンボールハウスのことか。
 住だけは安くて品が良いってファスト段階にはいまだに及ばなくて、高くて品が悪い名ばかりマンションがはびこっている。衣でいえばプレタポルテ時代だな、食で言えばいまだに代用食時代だな。

2010/09/09

316【都市・地域、くたばれマンション】首都圏の住みたい街アンケート回答御三家は吉祥寺・自由が丘・横浜だって?

 マンション販売屋の大手8社が調査した、首都圏での住みたい街アンケートが発表されている。http://www.major7.net/contents/trendlabo/research/vol013/
 2005年から2010年までのランキングを見ると、毎年ベストテンに登場しているのは、吉祥寺、自由が丘、横浜が毎度のトップ御三家である。そのほかは二子玉川、恵比寿、広尾、鎌倉が毎回登場している。ふ~ん、そういうものなのか。
 マンション屋のアンケート調査だから、共同住宅を買って住みたい街はどこかという問いであり、一戸建て住宅や賃貸住宅は回答の対象ではないであろうことを前提に考えなければならない。
    ◆
 この中で横浜と鎌倉はほかと比べてエリアが広すぎるけれど、多分、共同住宅が多く建つところでそれなりに地域イメージがあるのは、横浜ならば関内あたり、鎌倉ならば旧鎌倉の市街地を言っているのであろう。
 東京では下町はでてこないし、千葉方面もない。ベスト20くらいまで入れると、豊洲や浦安が出てくる。
 川崎は、武蔵小杉だけが登場する。最近になって、大希望工場跡地ににょきにょきと超高層共同住宅群が登場した。マンション屋としてはイメージ作戦で武蔵小杉をベストテンに入れさせたかったのであろう。でも、あの街のどこがよいのかしら。環境とか景観よりも、比較的交通便利で比較的安価が理由であろう。
    ◆
 吉祥寺と自由が丘が毎年トップを争っているが、どちらもわたしには縁が深い町である。
 自由が丘は大学時代は遊ぶ街であったし、家庭教師アルバイトの街であった。その後も日吉に住んで通勤の行き帰りに何かと縁がある。いまでもたまに昔からの飲み屋に行く。あんなゴチャゴチャしたところが、どうして住みたい街なのかしらと首を傾げたくなる。
 吉祥寺は1970年代に、まちづくりに通っていた街である。その伊勢丹ができてからがらりと変わった。まあ、住みたくなるような街を作ったひとりかもしれないとも思う。でも、東京でトップになるってのがよく分からない。
 二子玉川は、学生のころは山岳部トレーニングでマラソンしてよく行った。その後は幼い息子をつれて遊園地に行った。あのあたりは上野毛からの台地にお屋敷があって、庶民が住みたいと思うようなところではなかった。それが高島屋のショッピングセンターができてから、ガラリと雰囲気が変わった。いまは遊園地であったところに超高層マンションが建ちつつあるらしい。
 恵比寿も昔はどうってこともないところだった。大きなビール工場があり、あたりは起伏の多いゴチャゴチャとした住宅街であった。ビール工場の跡地開発が街のイメージをがらりと変えた。
    ◆
ここまでを見て、自由が丘だけがずいぶん違うことに気がついた(横浜と鎌倉は別格)。どこも何か大規模な開発があってガラリと転換して行ったのだが、自由が丘は特にそのようなこともなく、狭い道のままに、じわじわと住宅街に商業が滲み出しつつ、なんとなく賑わいが出てきた街である。駅前の姿なんてわたしの学生時代と大差がない。ちょっと妙な街である。
 鎌倉は四半世紀住んだところ(ただし共同住宅でない戸建住宅)、横浜の関内の隣の関外に現在は住んでいる(ただしマンションではない賃借共同住宅)。東京の吉祥寺や自由が丘には住めなかったが、わたしもまあまあのミーハー居住地選択だった。そうだ、学生時代には自由が丘の隣の緑ヶ丘に住んでいたぞ、大学の中の寮だけど。
●参照→251百貨店時代の終わり

2010/09/08

315【各地の風景】浅草寺の門前町に今じゃあ建築という見世物小屋も建つんだな

 建築は見世物である。最近そう思うと、いろいろなことが分かるようになった。
 建築家は、自分のことをもちろん建築家というし、設計するものはもちろん建築と言うが、同時に「作品」とも言う。
 つまり、画家とか作家とかに肩を並べて「家」をつけたがるし、設計したものは絵画や小説と同じに芸術品でありたいらしい。
 ところが世間ではそうは言っていないのである。「建物」をつくる「設計士」である。街の不動産屋さんは「物件」という。どちらも「物」である。設計士と言うと、弁護士と肩を並べているようだが、どうも庭師とか指物師のような職人に聞こえる。
    ◆
 ヨーロッパに初めて行ったのは、もう40年も前だった。都市の観光コースには必ず地元のガイドが乗ってきて、ひととおりの説明をする。
 こちらは建築史の出だから、都市によっては世界的に有名な建築があって、写真で知っている現物に出会って驚き、喜ぶこともしばしばある。
 そのような建物の説明は現地ガイドはその設計者も入れて説明する。こちらは知っているから、ああ、あの建築家の名前を言っていると、外国語でもある程度は分かる。
 ところが、これを日本人通訳が翻訳すると、必ずといってよいほど建築家の名前を言わないのである。それは多分、怠慢ではなくて、建物ごとになんで設計した人の名を言うのか、そのこと自体が理解できていないからであろうと思った。それが悪いといっているのではない。日本はそういう文化なのだ。
    ◆
 日本の観光名所に行って美しい建築があると、パンフレットなどに説明書きがある。そこには必ずといって良いほど設計者の名前があることはない。広さが広いとか、こんなに昔に建ったとか、柱が太いとか、欄間が精巧であるとか。だれそれという有名人が住んでいたとか、ようするに不動産の物件説明よりましな程度の見世物としての説明である。
 東京駅を今、昔の姿に戻す工事をしている。1945年に戦災で焼けた3階から上を復原するのだという。わたしに言わせると、戦災から復興したときから今までの姿こそが、戦争とその復興を記念する姿だから、昔の姿に戻すべきでないと思うのだ。

 ところが世間では、JR東日本はすごい、500億円もかけて、昔の姿に戻すとはえらい、コピーであろうとレプリカであろうと早く明治(実は大正だが)の栄光の姿を見てみたいものだ、なんて、もてはやすばかりである。
 単なる見世物として期待をするのである。ディズニーランドと同じである。

 さて、建築見世物論を十分に堪能させる建物が建ちつつある。東京は浅草の観音様の雷門、その道の向かいに建築中の「浅草観光センター」である。
 なんでも去年、台東区主催で建築デザインコンペをして、一等賞は隈研吾さんだったとかで、さて地元説明会も終えて着工したろころで、地元からクレームがついた。
 それが浅草寺と地元商店街からだそうだ。審査員には地元商業界代表もいたし、もう決まって半年以上たつのに、どうしたことか。
 WEBサイトを探すと、それらしい区議会への陳情書があり、「雷門を起点とする浅草寺境内の宗教的聖域性に調和しない同センターの高さなどの空間的実感について、地域住民および関係者の要望を反映して現行案を縮小するように変更していただきたく存じます」と再考を求めている。
 マスメディアの報道なども読むと、どうもデザインがどうとかではなくて、雷門が日陰になるのが嫌だという浅草寺の強硬なる意向に、観音様で食わせてもらっている商店街が同調したようである。
    ◆
 さて、そのコンペ当選案を台東区のサイトで見たら、なんともはや、これこそ神社仏閣の祭りのときににわかに登場して祭が終わると消えさる、あの懐かしい見世物の掛け小屋のデザインである。筵の掛け小屋が立体的に積みあがっているのだ。
 そのザンシンさに噴き出してしまった。さすがにあのバブル時代に名を成した隈さんである。これは21世紀の浅草凌雲閣である。あの関東大震災でもろくも折れた浅草十二階がこんな形で戻ってきたのだ。
 浅草寺のクレームは、高さだけに対するもので、デザインにではないらしい。その見世物小屋デザインは「宗教的聖域性」にはマッチしていると思っておいでなのであろう。そこのところが、まことに興味深い。
 コンペでは2等賞は乾久美子さんだったが、この案もなかなかに門前町らしい賑わいに富んだ見世物デザインである。わたしとしては隈案よりもこちらのほうが好きである。
 いずれも、なんでもありの日本の門前町の景観を、建築という見世物にして見せてくれている。
 といことで、こんなのが家の近くに建ったら、とてもじゃないがたまらないけど、浅草には見世物小屋がよく似合う。あ、そうそう、川向こうにある空飛ぶ黄金色のウンコも浅草によく似合う。

2010/09/07

314【横浜ご近所探検】日の出町から伊勢佐木町へ

市立図書館にぶらぶらと歩いて通う。図書館近くの日之出町界隈はどこか戦後の下世話な雰囲気がある。
「ストリップ浜劇」が幹線道路に面して建っている。その向かいには「光音座 神奈川で唯一のゲイムービー(成人向け)」と看板のある映画館もある。
 図書館の近くでは風俗営業は禁止であるはずだが、図書館のほうが後からできたのだろう。

 大岡川を渡ったところのビルの谷間に、2階建て瓦屋根の煉瓦造の蔵がひっそりっ建っている。1945年の戦災の焼け残りであろうが、寂しそうながらけなげである。
 もうすこし伊勢佐木町よりに、全身が緑のツタにおおわれていて、何階建てか分からないビルがある。もこももとした姿が、ドーモ君にソックリである。今ならエコビルといわれるのか。でも窓まで塞いで暗いから電気代がかえってかかるかも知れない。

 更に進んで伊勢佐木町になると真っ赤で巨大な蟹がビルの壁に張り付いて、眼、爪、脚を振りたてている。どこか大阪的などぎついユーモラスさがある。
 大阪と書いたが、この「かに道楽」創始者は、たしか但馬の城之崎あたりの出身であったと覚えている。昔々その人に会ったことがある。そうだ、思い出した、日和山観光の今津さんといった。エネルギッシュな人であった。
 ぶらぶら徘徊していると、いろいろと興味をそそられる物件がある。

2010/09/05

313【言葉の酔時記】ヘンな「させていただく」の大流行

これほどまでになっているのかと、驚いた。2010年9月4日の朝日新聞(Be on Sunday)にあるアンケート結果である。
「させていただきます」がヘンであるか、ヘンでないか4202人の読者に聞いたところ、変だ54%、変でない45%だというのである。
 おおそうか、これほどにも「させていただく」が、変でない言葉として普及しているのか。

 世の中の言葉はこうやって、正反対の方向に変わっていくのだろうか。
 とにかくわたしは「させていただきます」を聞くと、背筋がムズムズするので、できるだけ聞きたくない。珍妙な遣い方だとふきだしてしまう。
 アンケート回答にもその例があり、不動産屋にこのあたりの道は渋滞するかと聞いたら、「朝はかなり渋滞させていただきます」と答えたという。読んで吹きだした。

 ある会社に電話をして知人につないでもらおうとしたら、本日お休みをいただいておりますとか、お休みさせていただいておりますなんて答えがあった。
 ほかでも一度ならずそれがある。おいおい、おれは休ませろなんて言った覚えはないぞといいたくなる。

 もちろん使って良いときもあるのだが、ほとんど正しい使い方であることはないのが原状だ.。これほどの割合で正しいと信じている人がいるとはねえ。

(追記)9月6日朝刊に小澤征二さんが「ひとこと謝らせていただきます」といったとある。腰痛で予定していた指揮ができなくなった音楽会でのこと。
 小澤さんはわたしと同じ年齢であるはずだ。う~む、困ったもんだ。間違って遣ったのでないとすれば、謝れといった人がいたのであろう。
   ◆
 この言葉については既に別に書いているが、ここに全文掲載しておく。

●イチャモンコラム8月号●させていただきたくない
 「作業スタッフ4~5名で伺わせていただきまして、お部屋の中からお部屋の中までお運びさせていただきまして、インターネット割引をさせていただきまして、できるだけお勉強させていただきたいもので、上司に交渉させて いただきましたところ、100,000~120,000円(税別・保険代(1,000円))まで、何とかOKを、取らせていただいたのですけれども・・・」(原文のまま)

 これは最近、引越し見積もりをインターネットで取ったら、ある業者からの返答メイルの一部である。オオ、6回も「させいてたただく」の大インフレ。全文この調子で、目が引っかかってチカチカイライラする。

 この10年くらいだろうか、「させていただき」大流行、挨拶なんぞで舌を噛みながら言っているやつもいる。
 元来「させていただく」の意味するところは、「あなた様のご意思に従ってそのようにいたします」という謙譲言葉とわたしは解釈しているので、こちらがそうは思っていないのに勝手にそう思わせられては困るし、腹も立つのである。

 「お疲れさま」とか「ご苦労さま」とか、若いやつから言われるとムカッとする。
 言うほうは無邪気なもんだろうが、元来はねぎらいの言葉は上から下に言うものである。お前にねぎらわれるほどもうろくしてないよ。

 居酒屋で注文すると「それでいいですか?」、ムカッ、そんな安物注文で悪かったよなあ、俺はそれいいから注文したんだっ。

 電車で「お忘れ物ございませんようにご注意を、、」と放送、おいおい、車掌の荷物までオレが知るかよー、「ございます」は自分のことに使うもんだよー、・・なさいませんようにって言え。

 故障の時など「ご迷惑をおかけしました」といって、それでおしまいの放送がよくある。迷惑かけた認識はあるらしいが、だからといって「お詫びします」とは言わないから、詫びないのである。

 この暑いときに、どうか日常語くらいは、いらいらさせていただきたくないものである。年とると骨が折れることが多くなるもんだなあ。(020722) 

2010/09/01

312【横浜都計審】市民委員退任にあたっての反省記

 役人や大組織の人事異動のときの挨拶の言葉として、他に出て行く人は「大過なく無事に務めることができてありがとう」という。
 これに対して入ってくる人は「図らずも任じられて来ましたがよろしく」という。

 わたしが横浜市都市計画審議会委員を、2008年11月からやって今年の7月で任期を終えた。
 これに関して挨拶するとしたら、「図って任じられましたが、大過なく無事に務めて残念でした」ということになる。
 公募に自分で応募したのだから、図ったのである。

 大過なく無事で残念とは、あれだけ毎回がんばっても、毎回わたしの意見は通らずに、審議会は毎回何事も無く終わったということである。
 7回の審議会に一度の欠席もせず、毎回事前調査を現地や市役所で行い、毎回議案の問題点を指摘する意見を映像資料を使って発表し、終わると毎回の状況をその都度「まちもり通信」に掲載してきた。
 これを愚直といわずしてなんであろう。

 マドンナという議題を一生懸命追いかけて、自分では口説いているつもりが、結局は相手にされない。
 そして次の審議会という旅にでて、またしょう懲りもなく次の議題というマドンナを口説くが結果は同じ。まったくもってフーテンの寅さんの気持ちがよくわかった。
 あるいは風車に立ち向かうドンキホーテであったかもしれない。

 終わって反省と立腹とがあるので、一応のまとめをしておいたので、お暇な方はお読みください。
 
参照⇒あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている2013:横浜都計審の実態(要約版)

2010/08/31

311【くたばれ乗用車】ドケドケッてお顔の自動車

 自動車には興味がない。ただし、ジャマだという意味では大いに興味がある。
駐車場を通り抜けていて、ふと気がついた。なんだか睨みつける沢山の視線を感じるのだ。
 わかった、並んでいる乗用車の人相(車相か)がドレもこれも、典型的な悪人とか意地悪な面構えなのである。
 オラオラ、ボケッとあるってんじゃね~よ、ドカねーか。
 このド太いでっかいバンパーが見えねーのかよ、撥ねっ飛ばすぞー。
 奈良美智の作品に出てくる例の意地悪顔ソックリのものもある。でっかいグリルでっかい電球目玉で、真っ赤に塗ると祭りに出てくる唐獅子面ソックリの奴もいる。真っ黒でダースベーダーな奴もいる。
 昔オーストラリアのリゾートにいったときに(調査にね)、あまりに太くてでっかい頑丈なバンパーをつけている車ばかりなので聞いたら、カンガルーが突然飛び出すからだそうだ。アチラのほうがでかくて、車が壊れるので対策だそうだ。
 日本では、いまや歩行人間がカンガルーなみに扱われるようになった。
 自動車デザイナーというか自動車メーカーの思想がよく分かる。

2010/08/28

310【本づくり趣味】手製本「まちもり叢書」第3号と4号を発行

本作り趣味を始めて、第3号と第4号の著書を作った。
 第1号は「父の十五年戦争」(発行部数11部)である。父が兵役についた満州事変、日中戦争、太平洋戦争の時に書いた手記である。
 
 第2号は「横浜B級観光ガイドブック・関外編」(同6部)。関外地区のことをあれこれ書いている。
 このガイドブックは、表紙をデザインしてくれた友人に3冊、そのほかの友人2人に1冊ずつ、息子に一冊で、今日までに合計発行部数は6冊である。

 今度の第3号は「波羅立ち猜時記」なるイチャモンエッセイ集で、堂々の120ページである。背に文字が入る。これは友人3名に居酒屋で押し付けた。今のところ発行部数3部である。

 つづく第4号は「あなたの街の都市計画はこんな会議が決めている」というのである。
 2008年11月から今年7月まで横浜都市計画審議会で公募市民委員を務めたので、その全7回の会議のドキュメンタリー報告である。これも堂々の112ページ。
 これは発行部数2冊、都市計画審議会の会議のための下調べなどで協力してくれた友人2人に送った。

 オンデマンド出版である。もっとも、デマンドはどこからもないので、デマ運動出版の押し付け発送である。
 だれかに送りつけようと思いついたら、その都度、内職みたいに机上作業をやる。何冊もやってくるとそれなりに手際がよくなってくる。
 いまのところホッチキス中綴じ製本だが、いつになったら糸でとじて、花きれもつけ、ハードカバーで、革装の豪華本を制作することができるだろうか。

●関連→306手製本2種

2010/08/23

309【歴史・文化】映画「キャタピラー」と「氷雪の門」を見た

 近所の映画館ジャックアンドベティで、二つの映画を見た。
 ひとつは話題の新作「キャタピラー」、もうひとつは1974年の旧作「氷雪の門」リバイバルである。11時半から15時半まで、続けざまに見て疲れてしまった。
 ここでは俳優や映画制作については、知識がないから語らない。
 二つとも反戦映画という分類はなるだろうが、36年という時間のギャップが見えて、そこが面白かった。
 簡単に言えば、「氷雪の門」が一方的な被害者として戦争を語るのに対して、「キャタピラー」では加害者としての戦争も語るのである。これははたして時代の思潮の差なのだろうか。
   ◆
 映画「氷雪の門」を制作した頃は、ベトナム戦争の末期に当り、加害のアメリカ、被害のアジアという図式があった。それをサハリンに置き換えたのだろうか。
 あるいは、加害のアメリカ、被害の沖縄という図式の、サハリン版であったのだろうか。映画「ひめゆりの塔」(1953年)を連想する。
 氷雪の門では、加害者としての日本は全く登場しない。日ソ不可侵条約を一方的に廃棄して、日本が敗戦降伏後も戦いを挑んで、多くの死者を出したソ連を糾弾している。
 それはそれで事実であろう。だが同時に「キャタピラー」を見てしまったものには、あまりに安易なストーリーに見えてくる。
 なぜ今、リバイバル上映になったのか、そこが分からない。
   ◆
 サハリンの歴史は複雑である。歴史的に大昔からロシアと日本の共有の形であったが、互いに自国領土としていたようである。
 いさかいもありながら共有してやってきたのだが、そのけりを正式につけたのが、1857年の「樺太・千島交換条約」の締結であった。日本は樺太島の領有権を完全に放棄して全島がロシア領となったときである。
 この制度的に明快に落着した状況が破綻したのは、1904年に始まった日露戦争で、日本軍は樺太に上陸して占拠した。1905年日露戦争は日本の勝利となり、ポーツマス条約で樺太の南半分が、ロシアから日本へ割譲された。
 その後、日本はこの地に植民して開発してゆく。大勢の朝鮮人の徴用があって、その問題は今に尾を引いている。ここには植民地としての加害の歴史がある。もっとも日本の制度としては、朝鮮や台湾と違って本土の一部と決めたので、形式上は植民地ではないとしてるらしい。
 ロシアにとって見れば、条約で正式に領土となったものを、その後の日露戦争でむしりとられたとしていただろう。現代のいわゆる北方領土問題は、その延長上にある。
   ◆
「氷雪の門」に登場する若い女性が、わたしはここで生まれて育ったのだからここで死にたい、という。
 そこに植民地の深層にいたる問題があるのだが、映画ではそうは語られない。故郷を奪われる悲哀のみである。
 日本からの満州への植民で、現地の農民が追われたような加害は、サハリンではなかったのだろうか。歴史的にロシア、朝鮮、日本からこの島に人々が住み着いていたのだから、日本領となったときに何かがあったに違いない。
 1974年の公開当時に、ソ連がこの映画に不快感を示して、当時の日本映画会社とソ連との合作映画制作とからんで、全国上映が円滑にできなかったという。この映画がフィルム配給制度を押さえている日本の大手映画会社の制作でなかった為である。
 ソ連の不快感は、この映画を見れば単純によく分かるが、この島のソ連と日本の間の歴史的ななにかを見つめることも必要であろうと思う。
   ◆
 さて「キャタピラー」である。性的な場面で話題のようだが、それは女性の俳優に気の毒である。
 手足を戦場でもがれて芋虫(キャタピラー)となって帰還した男との性行為は、男の中国戦場での強姦という加害と関連あるために必要であるが、それは特に芋虫男である必然性はなかっただろう。映画として猟奇性の話題であろうか。
 この加害の場面は、「氷雪の門」で上陸してきたソ連兵の、市民への無差別殺戮と同じである。
 閉鎖的な農村の日常から針穴のような視界で、あるいは茅葺屋根の農家の座敷の茅の中から、日本の戦争を見渡すというこの映画の手法は、なかなかよくできている。ニュース映画の引用の戦場とのギャップが深い。
 いっぽうの「氷雪の門」は、戦争の大局的な視界の中のひとつの悲劇の場面として描かれる。これが映画としては普通の描き方だろうが、「キャタピラー」のひとひねり、ふたひねりにはとても敵わない。
 皮肉にも、前者がかなりの制作費らしいのと比べて、後者はかなり安かったように見える。
 性と食の同じような執拗なるくり返し場面が、徐々に変化していく作り方が面白かった。それにひきかえ、茅葺農家の点在する棚田の村の風景は、全く変らない。
   ◆
 わたしが気になった登場人物は、「あいつは戦争があるごとに気が触れる」といわれている、赤い着物の中年男である。
 この赤い着物は、芋虫男の軍服の対照として描かれている。どちらが狂気か、どちらも狂気か。
 このキャラクターは狂言まわし役であろうと期待していたが、それほどのこともなかった。もう少し、なにかをやらせることで、狂気と正気との逆転世界をあぶりだして見せてほしかった。
 敗戦となった日、赤い着物から着替えて白ワイシャツと黒ズボンで出てきて、バンザイと叫ぶのも、分かり易すぎてちょっと安易であった。もうひとひねりほしい。
 キャタピラーとは芋虫のことだそうだが、「氷雪の門」には戦車が登場して、ごうごうとキャタピラー音を立てて迫ってくる。思い出すと場面が混同する。
 芋虫男のことで、だいぶ前に読んだ『ジョニーは戦場へ行った』(Johnny Got His Gun ドルトン・トランボ作1934年)を思い出した。
 もうひとつ思い出したこと。戦後、街角やお祭の露天の間に、カーキ色の戦闘帽、病院の白衣、黒眼鏡の風体で手足の切断面を見せ、座り込んだり松葉杖で立ちつつ、アコーデオンを弾いて物乞いする男たちがいた。傷痍軍人と呼ばれ、1960年代には消えた。
   ◆(追記100826)
 大江志乃夫『日本植民地探訪』(新潮選書1998)を読んでいたら、サハリンのことも出ている。
 それを読むと、映画「氷雪の門」の真岡郵便局事件は、その局長が後になって書いた「美談」を元に脚色しているらしい。
 しかし、後に別の人が生き残りの人たちに聞き取りして出版しているが、それによると、真岡局には他にも局員はいたし、交換手も全員自殺ではなくて生き残りもいた、とある。
 わたしは娯楽映画が真実を描くべきとは全く持っていないが、事実はまた違うところにあることに興味を持った。

2010/08/22

308【言葉の酔時記】沖縄の姓はなんと読むのか?

 高校野球には特別興味はないが、今朝の新聞にあまりにも大きく記事が出ているので、ついつい目が行った。
 で、勝負はどうでもいいが、沖縄興南高校プレーヤーの姓に気をとられた。
 記事で振り仮名のあるものは兎も角として、そのほかもほとんど読めない。ウェブ検索すれば分かるだろうが、わざとしない。

 国吉陸は、クニヨシリクかしら?
 慶田城は、ケタグスクかとおもったら、振り仮名があってケダシロである。
 我如古は、ガジョコ? ワレ、イニシエノゴトシとは、なかなかに風格がある。
 真栄平は、マエヒラか。
 銘刈は、メカリだろう。
 山川は、ヤマカワにちがいないが、この人だけ平凡すぎる。
 伊礼は、イレイかイレか。
 安慶名は、アゲナと振り仮名があった。
 島袋、大城も沖縄の姓だが、これらは人口に膾炙している。
 監督は我喜屋で、ガキヤと振り仮名があった。

 これらを見て、この高校は野球で有名なのかどうか知らないが、全国あちこちから野球の上手い子を集めてきて特別教育をしてるのじゃなくて、地元でじっくりと人を育てているらしいことが分かる。
 ところで、対戦相手の東海大相模高校にも、変わった姓の人がいて、一二三にヒフミと振り仮名がついている。
 やれやれ、ようやく終わってくれて、野球ボケの朝日新聞は普通に戻るかしら。