(このエッセイは、雑誌「本の雑誌」に投稿して2011年11月号に掲載された)
小中学生のころは戦争直後で、本が無かった。あちこちの大人の本棚をあさったので、戦前の漱石とか日本古典の全集もあったが、戦後のカストリ雑誌も読んだ。
貸し本屋が流行っていて、少ないお小遣いで探偵小説を借りたものだ。わたしには大人用の江戸川乱歩が先だった。
勤め人になって自分の金で本を買えて嬉しかったが、狭い家ですぐに困って、本棚の空きと相談して買うようになった。
50歳でフリーランスとなって、東京に仕事場と平日泊りの部屋を借り、鎌倉の自宅は休日用にした。3ヶ所あればもう置き場に困らないと、本買いが止まらなくなった。
そして20年、仕事をやめて大量の本の処分に窮した。古本屋に売る気にならず、知人たちにあげたり、イベントに無料お持ち帰りをと出したりした。たくさんの「本の雑誌」、「東京人」(坪内さんのころか)、「季刊銀花」なども同じ運命。
なんとか整理して自宅だけにしたが、ついつい本買いが止まらない。だがいまや本棚も年金家計も限界である。
そこで去年から、近くの市立と県立図書館の積極活用で、本買い停止と決めた(あ、「本の雑誌」だけは買ってます)。
近頃の図書館員は若い美女が多くて、「どうぞこちらへ」「ありがとうございました」なんて、町の本屋並みに親切、もっと前から利用すればよかったなあ。
蔵書量増加は止まったが、机上のPCの中のデータはどんどん増えていく。これは置き場に限度は無いが、難点は整理しにくいことだ。
本は版型や色を視覚で記憶しているから、たとえ名前がわからなくても、ほぼ間違いなく見つけられる。PCデータは名前でしか記憶できないので、歳とともに名前を忘れるから行方不明が増加する。もっとも、棚の蔵書と同じく、保存してから一回も見ないデータがけっこう多いのだが。
さて、自分の蔵書が増えなくなったので、他人の蔵書を増やしてやる趣味をはじめた。PCの中にあるわたしの著述類を机上で編集して、「まちもり叢書」と名づけて十数種類、これを装丁・印刷・製本して手製ブックレットにする。
いやとは言わせないように、わたしの遺言だから受け取ってくれと、知人たちに配っている。ただいま延べ発行部数105冊。(伊達美徳・都心隠居74歳・横浜市)
(この投稿に対して本の雑誌の浜本編集発行人のコメントがついている。曰く「なにはともあれ、本誌だけは購入いただき、ありがとうございます」)
●参照→まちもり叢書
http://datey.blogspot.jp/p/dateyggmail.html
2011/10/18
2011/10/11
506濃縮核毒と共に生きる
どうもわからない。原発から降ってきた核毒を、地上から取り除く「除染」である。
おなじことを何回も考えては書いてしまう。
「消染」ならわかるが、除ってのはとり除くだけで、染まった核毒が消えるのではない。消すことができないらしい。
だから、ここからとり除いた核毒は、何十年か何百年か知らないが、あいかわらずどこかにあるのだ。
しかも、除染作業によって集めた核毒ゴミは濃縮されたことになる。除染濃縮核毒である。
そんな濃縮毒物質をどこか最終処分場にもっていくまで、あちこちの中間貯蔵場に積んでおくらしい。右にあった毒を左に置くだけである。
で、その中間貯蔵場は、あたりまえなのことに、だれもがNIMBY(NOT IN MY BACKYAD)である。東電からの贈り物なんか、うちの裏庭においてほしくない。
だからわたしはITNPY(IN TODEN NUCLEER PLANT YARDS)しかないと思うのだが、誰もそういわないのが不思議である。
そこで更に思うだが、もうものすごく核毒降り積もる東電福島第1原発の周りの除染はどうするのだろうか。
あ、そうだ、原発そのものの除染はどうするのだろうか。ものすごい毒性でものすごい量のゴミが出るだろう。どこかに持っていくなんて常識はずれだ。
考えてみると、原発を要としてひろがる核毒扇のどこまでを除染するのだろうか。
その除染超濃縮核毒汚染ゴミを、常識的には持っていくところがあるはずがない。
それなのに、中間貯蔵場とか最終処理場とか言う。そもそも処理できるものなのか。
わたしたちは核毒と共に生きていくしかない、いや裏庭の核毒に埋もれて死んでいくしかない、思えば思うほどそうとしか思えないのである。
除染、除染とこのところ騒がしいが、多分、除染産業なるものがおきるだろう。いや、もう起きているだろう。
福島の産業の再生は、除染産業がになうことになるだろう。そして除染科学が地域に学問を興すかもしれない。
それは原子力産業が支える地域の、もうひとつ姿である。
それは核で生きてきた地域の悲しい宿命である。
福島のほかにもその宿命を背負う候補地があることを、忘れてはならない。
おなじことを何回も考えては書いてしまう。
「消染」ならわかるが、除ってのはとり除くだけで、染まった核毒が消えるのではない。消すことができないらしい。
だから、ここからとり除いた核毒は、何十年か何百年か知らないが、あいかわらずどこかにあるのだ。
しかも、除染作業によって集めた核毒ゴミは濃縮されたことになる。除染濃縮核毒である。
そんな濃縮毒物質をどこか最終処分場にもっていくまで、あちこちの中間貯蔵場に積んでおくらしい。右にあった毒を左に置くだけである。
で、その中間貯蔵場は、あたりまえなのことに、だれもがNIMBY(NOT IN MY BACKYAD)である。東電からの贈り物なんか、うちの裏庭においてほしくない。
だからわたしはITNPY(IN TODEN NUCLEER PLANT YARDS)しかないと思うのだが、誰もそういわないのが不思議である。
そこで更に思うだが、もうものすごく核毒降り積もる東電福島第1原発の周りの除染はどうするのだろうか。
あ、そうだ、原発そのものの除染はどうするのだろうか。ものすごい毒性でものすごい量のゴミが出るだろう。どこかに持っていくなんて常識はずれだ。
考えてみると、原発を要としてひろがる核毒扇のどこまでを除染するのだろうか。
その除染超濃縮核毒汚染ゴミを、常識的には持っていくところがあるはずがない。
それなのに、中間貯蔵場とか最終処理場とか言う。そもそも処理できるものなのか。
わたしたちは核毒と共に生きていくしかない、いや裏庭の核毒に埋もれて死んでいくしかない、思えば思うほどそうとしか思えないのである。
除染、除染とこのところ騒がしいが、多分、除染産業なるものがおきるだろう。いや、もう起きているだろう。
福島の産業の再生は、除染産業がになうことになるだろう。そして除染科学が地域に学問を興すかもしれない。
それは原子力産業が支える地域の、もうひとつ姿である。
それは核で生きてきた地域の悲しい宿命である。
福島のほかにもその宿命を背負う候補地があることを、忘れてはならない。
2011/10/08
505除染核毒は東電が持っていくのが当り前
福島第1原発が発射した核毒物質に汚染された地域を除染(この用語がでてこないのでPCに今教えたぞ)するのだが、その汚染土壌などをどこにおくかということが、問題になっていると報道が伝える。
そんな毒物質を集めて、自分の家の近所に置かれてはたまったものではないってのは、実に健全なる考えである。
そりゃNIMBYだよって思う向きもあろうが、これがNIMBYと違うのは、ゴミや車や火葬場のような、その発生に自分がかかるものではないことにある。
毒の発生源はあくまで東電のせいであるから、これは東電が引き取るのが当たり前と思うのだが、そんなことは新聞のどこにも書いてない。
誰もそう言っていないのだろうか。不思議である。
そもそも東電から、その毒物を返していただきますって、言いだすべきであると思う。原因者が責任とるのは、なんでもあたりまえでしょ。
全部引き取るには土地が足りなければ、福島第1原発の周りの土地を買いとればよいでしょ。いくら地主が愛着あるといったって、あんな毒だらけの土地にだれが住むもんですか。
今はやく、除染した毒物を引き取るって東電が言えば、それだけ社会不安も減少するはずでしょ。除染毒の処理で地域コミュニティが壊れそうなのが心配である。
はやいこと、もう戻れない地域を決めて、そこに核毒をどんどん運び込むしかないと思う。そしてそこが「東日本大震災記念公園核毒禁断の森」になっていくのだ。
そんな毒物質を集めて、自分の家の近所に置かれてはたまったものではないってのは、実に健全なる考えである。
そりゃNIMBYだよって思う向きもあろうが、これがNIMBYと違うのは、ゴミや車や火葬場のような、その発生に自分がかかるものではないことにある。
毒の発生源はあくまで東電のせいであるから、これは東電が引き取るのが当たり前と思うのだが、そんなことは新聞のどこにも書いてない。
誰もそう言っていないのだろうか。不思議である。
そもそも東電から、その毒物を返していただきますって、言いだすべきであると思う。原因者が責任とるのは、なんでもあたりまえでしょ。
全部引き取るには土地が足りなければ、福島第1原発の周りの土地を買いとればよいでしょ。いくら地主が愛着あるといったって、あんな毒だらけの土地にだれが住むもんですか。
今はやく、除染した毒物を引き取るって東電が言えば、それだけ社会不安も減少するはずでしょ。除染毒の処理で地域コミュニティが壊れそうなのが心配である。
はやいこと、もう戻れない地域を決めて、そこに核毒をどんどん運び込むしかないと思う。そしてそこが「東日本大震災記念公園核毒禁断の森」になっていくのだ。
2011/10/04
504なんだ?4K3DTVって
4KTV受像機なるものを電気屋が売りだすそうだが、なんのこっちゃ?
3K仕事ってのがあったよなあ、暗い、怖い、汚いってことだったな。
で、TV受像機はどうなのよ、もうひとつ「くだらない」を加えるってことなんでしょうね。
暗いってのは画面があかるくないのかしら、怖いってのはたとえば火が出るとか、汚いってのは画面が汚くなるのかしら、クダランてのは中に映る番組がそういうことなんだな。
では、3Dってなんのこと?
ドジ、ダメ、デクノボー?
まあ、そういう番組ばかりのように思えます。正直でよろしい。
3K仕事ってのがあったよなあ、暗い、怖い、汚いってことだったな。
で、TV受像機はどうなのよ、もうひとつ「くだらない」を加えるってことなんでしょうね。
暗いってのは画面があかるくないのかしら、怖いってのはたとえば火が出るとか、汚いってのは画面が汚くなるのかしら、クダランてのは中に映る番組がそういうことなんだな。
では、3Dってなんのこと?
ドジ、ダメ、デクノボー?
まあ、そういう番組ばかりのように思えます。正直でよろしい。
2011/10/02
503押上の斜塔
東京下町に自転車で行って、今、評判のスカイツリーなるものを眺めてきた。
スカイツリーって「ジャックと豆の木」のつもりかしら、でも、うえがちょん切れている。
ツリーならば枝葉を茂らせているはずだけど、枝も葉もないゴボウ状態の枯れ木である。
まあ、ねぎぼうずのお化けってところか。
下町の河童橋本通りから見るスカイツリーは、電線やら看板やら信号やらの枝葉を茂らせている。
この風景はスカイはないけどツリーになっていて、なかなかによろしい。
浅草寺の伝法院の庭園に入らせていただいた。回遊式庭園そのものはなかなかよろしいが、小高い景色を眺めるところにくると、いけない。
昔は富士山が見えてよかったのだろうが、いまは色とりどりのビルの箱が立ち並ぶ。
久しぶりに隅田川くだりで浜離宮(ちょっとクリックをどうぞ)へ。
優雅な吊曲線を描く清洲橋の向こうにスカイツリー。
スカイツリーって「ジャックと豆の木」のつもりかしら、でも、うえがちょん切れている。
ツリーならば枝葉を茂らせているはずだけど、枝も葉もないゴボウ状態の枯れ木である。
まあ、ねぎぼうずのお化けってところか。
下町の河童橋本通りから見るスカイツリーは、電線やら看板やら信号やらの枝葉を茂らせている。
この風景はスカイはないけどツリーになっていて、なかなかによろしい。
浅草寺の伝法院の庭園に入らせていただいた。回遊式庭園そのものはなかなかよろしいが、小高い景色を眺めるところにくると、いけない。
昔は富士山が見えてよかったのだろうが、いまは色とりどりのビルの箱が立ち並ぶ。
ひょいと視線をめぐらすと、浅草寺の五重塔とスカイツリーが、妍を競っている。これはこれでなかなかよろしい。
久しぶりに隅田川くだりで浜離宮(ちょっとクリックをどうぞ)へ。
優雅な吊曲線を描く清洲橋の向こうにスカイツリー。
20世紀はじめの関東大震災の復興橋梁とその100年後のスカイツリー、前者は地球の重力に横方向に逆らい、後者は縦方向に逆らう。
せっかくだからスカイツリーのそばまで見に行った。
まだ工事中であるが、もう、傾いているような、、、、。
危ないので斜め下から押し上げておいた。何しろ建っているところが「押上」だから。
面白かった。企画とお世話してくださった、
東京ダイバーシティと自転車まちづくり研究会の方々に感謝。
あ、見たのはスカイツリーばかりじゃないけど、
そのほかのことはまたいつか書きます。
2011/09/29
502名作建築と道路拡幅
新発田市のまちなかに、カトリック新発田教会という、アントニンレーモンドが設計した、小品の名作建築がある。
木造のよさをみごとに表現して、和風に陥らずに教会の空間をつくりあげている。
木造のよさをみごとに表現して、和風に陥らずに教会の空間をつくりあげている。
以前は前面の道が狭くて建築全体像は見えにくかったが、それなりに建築と植栽とがよい雰囲気であった。
その前面道路が都市計画道路であったので、このたび行ってみたら拡幅されていて、教会建築がよく見えるようになっていた。
実はまえまえから、その都市計画道路の拡幅が、教会の建物の軒先をかすめるように線引きされていて、そのまま道路ができると教会前の植栽はなくなって、名建築の雰囲気がなくなることを、教会や建築関係者は心配していた。
それがこのたび行ってみたら、道路は予定どおりに拡幅が完了していたのだが、なんとその歩道の中に教会の植栽空間が保全されていたのである。
どのような経緯が関係者の中であったのか知らないが、ひとつの解決策である。 よくあるのは、道路予定地に信仰対象の大木があって、これを道路内に残したり、迂回することだが、民有地の植栽空間を名建築のために保全したのは、これが初めてかもしれない。
できたら、教会側のペーブメントを歩道上にも展開できたら、もっとよかったとは思うが、それにしてもよくできたものだと、関係者に敬意を表する気持ちになった。
レーモンドもあの世で喜んでいるかもしれない。レーモンドの功のついでに、罪のことをこちらに書いているの、どうぞ。
●関連ページ
◆新発田:同時多発の中心街再生策で5年後が楽しみhttp://homepage2.nifty.com/datey/sibata04.htm
◆新発田-雪の城下町(2008)
●関連外部サイト(建築としてのカトリック新発田教会)
2011/09/28
501杉本博司演出の三番叟
神奈川芸術劇場で、杉本博司演出による「三番叟」をみてきた。(2011.9.21)
この劇場はつい最近オープンしたばかり。県立ホールが音楽系で、こちらは演劇系とするらしく、芸術監督は宮本亜門である。
建物の建設に当たって発掘調査をしたら、日本の開国期からの外国人居留地の建物基礎、道路、配水管などの遺構が出てきたそうだ。
古くは古墳時代の遺跡も出てきて、そのころも海ではなくて砂州があって人が住んでいたらしい。
三番叟は能楽の「翁」の一部である。翁は、シテ方と狂言方が交互に出演するという、珍しい形で古式を伝えており、狂言方が担当するのが三番叟である。
演じたのは野村万作と萬斎親子である。同時に出るのではなくて、万作が先に三番叟を舞い、後でまた同じ三番叟を萬斎が舞う。
80歳と55歳の体力の差が歴然と出るのは仕方がないが、残酷なものである。
前段の揉之段は激しい動きであるし、後段の鈴の段は不自然な姿勢を続けなければならない。
万作は2階席でも聞こえる大きな息をついでいたが、萬斎にはそれがない。
10年位前に、観世能楽堂で正月恒例の翁で、萬斎の三番叟を見たことがあるが、汗びっしょりになっていた。
萬斎のうごきにはキレがあるが、万作には流れがあると見よう。
万作が枯淡の境の動きであると見るほどの眼力は、わたしにはない。
杉本演出は、ほぼ三番叟の舞だけに焦点を当てており、能舞台を平土間にすえて、後方からまっすぐに後橋掛かりをつける。
万作の三番叟は、できるだけ古式に近くする意図らしく、目付け柱と脇柱が半分の高さで立っている。萬斎のときはこれをはずしてしまった。
面箱の扱いなど幾分かの省略はあるらしいが、基本的には能楽の舞と囃子には新演出はなかったとみてよいだろう。
新演出は、萬斎の舞台のときに、大地踏みにあわせて稲妻を光らせたことだろう。稲妻効果のためか、舞台は極端に暗い。これをよしとするかどうか、難しい。
いつもの明るい能楽堂では、演者の動きや囃子につれられて、見ているこちらの自由な妄想を楽しむのである。
それが何もない舞台の能楽の面白さである。
ところが、こんな暗い舞台で稲妻が走っては、杉本の意図する世界にはいらざるを得ない。それが演出というものだろうが、そのわざとらしさが邪魔でもあった。
いや、実は、そういう見方を楽しむべきであるのだろう。
この劇場はつい最近オープンしたばかり。県立ホールが音楽系で、こちらは演劇系とするらしく、芸術監督は宮本亜門である。
建物の建設に当たって発掘調査をしたら、日本の開国期からの外国人居留地の建物基礎、道路、配水管などの遺構が出てきたそうだ。
古くは古墳時代の遺跡も出てきて、そのころも海ではなくて砂州があって人が住んでいたらしい。
三番叟は能楽の「翁」の一部である。翁は、シテ方と狂言方が交互に出演するという、珍しい形で古式を伝えており、狂言方が担当するのが三番叟である。
演じたのは野村万作と萬斎親子である。同時に出るのではなくて、万作が先に三番叟を舞い、後でまた同じ三番叟を萬斎が舞う。
80歳と55歳の体力の差が歴然と出るのは仕方がないが、残酷なものである。
前段の揉之段は激しい動きであるし、後段の鈴の段は不自然な姿勢を続けなければならない。
万作は2階席でも聞こえる大きな息をついでいたが、萬斎にはそれがない。
10年位前に、観世能楽堂で正月恒例の翁で、萬斎の三番叟を見たことがあるが、汗びっしょりになっていた。
萬斎のうごきにはキレがあるが、万作には流れがあると見よう。
万作が枯淡の境の動きであると見るほどの眼力は、わたしにはない。
杉本演出は、ほぼ三番叟の舞だけに焦点を当てており、能舞台を平土間にすえて、後方からまっすぐに後橋掛かりをつける。
万作の三番叟は、できるだけ古式に近くする意図らしく、目付け柱と脇柱が半分の高さで立っている。萬斎のときはこれをはずしてしまった。
面箱の扱いなど幾分かの省略はあるらしいが、基本的には能楽の舞と囃子には新演出はなかったとみてよいだろう。
新演出は、萬斎の舞台のときに、大地踏みにあわせて稲妻を光らせたことだろう。稲妻効果のためか、舞台は極端に暗い。これをよしとするかどうか、難しい。
いつもの明るい能楽堂では、演者の動きや囃子につれられて、見ているこちらの自由な妄想を楽しむのである。
それが何もない舞台の能楽の面白さである。
ところが、こんな暗い舞台で稲妻が走っては、杉本の意図する世界にはいらざるを得ない。それが演出というものだろうが、そのわざとらしさが邪魔でもあった。
いや、実は、そういう見方を楽しむべきであるのだろう。
2011/09/26
500カリフォルニア歌人
今日の朝日歌壇(朝日新聞朝刊2011年9月26日)に掲載の歌のひとつ。
仰ぎ見る万国旗は皆同サイズアメリカアフガン並びてはためく
(アメリカ)大竹幾久子
ことしの1月のこと、やはりこの人の歌が朝日歌壇に載ったことがある。
香港とスロバキヤから来し嫁と厨に立ちて雑煮を作る
(アメリカ)大竹幾久子
この歌人にわたしは面識がない。
だが実は、この人の夫と兄とわたしは大学寮の同期生であった。
のちに夫となる男とは、山岳部仲間として夏の日も雪の日も一緒に山の中のテントで暮らし、岩壁では一本のザイルにつながって身を託しあった。
兄なる男とは、つい先日も新潟で稲刈りなどして一緒に遊んでいる間柄である。http://datey.blogspot.com/2011/09/498.html
この二人が義兄弟になり、妹夫婦はカリフォルニアに住み着いたと、兄から聞いていた。この正月の歌を新聞で読んで、はて、もしかしたらと、その兄に尋ねて分かったのであった。
今日の朝日歌壇には外国からのもうひとつの歌が載っている。
原発にさよならをしたこの秋のドイツの空の風みどり色
(ドイツ 西田リーバウ望東子)
これらの歌には、期せずしてだろうが、地球をひとまわりする想い、あるいは人間の未来に対する思いがこめられている。
ほかの入選歌には、そのようなことを歌うものはひとつもない。
故国の地を離れて歌うときは、人はグローバルに思いをはせるものだろうか。
と思ったが、いつもそうではないだろうから、これは選者の採りあげるときの視点であろう。
さて、来月末には歌人が夫とともに故国にやってくると、その兄が教えてくれたのは、一昨日のことであった。楽しみなことである。
これはその挨拶ブログである。
●参照⇒648日本人は5度も大被曝しても原発を動かす
仰ぎ見る万国旗は皆同サイズアメリカアフガン並びてはためく
(アメリカ)大竹幾久子
ことしの1月のこと、やはりこの人の歌が朝日歌壇に載ったことがある。
香港とスロバキヤから来し嫁と厨に立ちて雑煮を作る
(アメリカ)大竹幾久子
この歌人にわたしは面識がない。
だが実は、この人の夫と兄とわたしは大学寮の同期生であった。
のちに夫となる男とは、山岳部仲間として夏の日も雪の日も一緒に山の中のテントで暮らし、岩壁では一本のザイルにつながって身を託しあった。
兄なる男とは、つい先日も新潟で稲刈りなどして一緒に遊んでいる間柄である。http://datey.blogspot.com/2011/09/498.html
この二人が義兄弟になり、妹夫婦はカリフォルニアに住み着いたと、兄から聞いていた。この正月の歌を新聞で読んで、はて、もしかしたらと、その兄に尋ねて分かったのであった。
今日の朝日歌壇には外国からのもうひとつの歌が載っている。
原発にさよならをしたこの秋のドイツの空の風みどり色
(ドイツ 西田リーバウ望東子)
これらの歌には、期せずしてだろうが、地球をひとまわりする想い、あるいは人間の未来に対する思いがこめられている。
ほかの入選歌には、そのようなことを歌うものはひとつもない。
故国の地を離れて歌うときは、人はグローバルに思いをはせるものだろうか。
と思ったが、いつもそうではないだろうから、これは選者の採りあげるときの視点であろう。
さて、来月末には歌人が夫とともに故国にやってくると、その兄が教えてくれたのは、一昨日のことであった。楽しみなことである。
これはその挨拶ブログである。
●参照⇒648日本人は5度も大被曝しても原発を動かす
2011/09/23
2011/09/22
498中越震災7年目の山古志と法末
久しぶりに山古志を訪ねた。この前は中越震災から4年目の2007年の秋であった。ようやく一般人も山古志に入ることが許された年であった。
そのときは2日間にわたって10数kmを歩いて、被災と復興の様子をながめたのであった。参照→
https://matchmori.blogspot.com/2021/07/yamakosi2007.html同じところを4年ぶりに歩いて、その後の様子をみる予定であったが、9月なかばというのに猛烈な暑さで、熱中症寸前になって予定の半分も歩けなかった。
詳しいことは、まちもり瓢論に書くことにするが、少ないながら生活の場が戻っていることがうれしく、そして山古志闘牛が復活していたのがおどろきであった。
1000人は入りそうな野外のアリーナである。うちはなしコンクリート表現で、なんだかモダンなデザインである。
お昼過ぎからの開演で、16組の闘牛である。2頭の牛が頭と頭、顔と顔、角と角を合わせて、ぐいぐいと押し合う。牛が巨大なので迫力がある。
●闘牛の動画
どうもこの闘牛は、元は牛飼いの遊びが、今は金持ちの道楽になっているらしいようだ。山古志の集落で育てているオーナーもいるが、東京とか新発田とか岩手だとかにいるオーナーの牛も出てくる。肉牛とあわせて闘牛も育てているらしい。
だから観光の呼び物ではあるが、元来は地元の人々や牛の飼い主が楽しんでいるらしい。ヤマコシハルウララなんて名の牛もいれば、大勝力なんてのもいる。
何番か見て途中で会場を出て、バスで小千谷にくだり、法末からの迎え車にのった。
次の日は一転して寒いような雨となった。朝から雨中で稲刈り、ハサかけの労働。暑いよりは助かるので、けっこう能率が上がった。
今年は、小正月に来て賽の神の行事、5月に来て田植え、今回の稲刈りで3回目である。
2005年から震災復興の手伝いでやってきだしたが、いちじは月に2回もきていたものだたが、もう疲れてきた。
稲刈りも体力がついていかなくなったらしい。休み休みに怠けてやっても、腰が痛い、足が痛い。
震災から7年、集落の人たちも老いたし、わたしも老いてきた。人口は減少しても増えることはない。
さて、7年先の三陸は?、フクシマは?
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