2013/06/22

798【横浜ご近所探検】三渓園で荘川村からきた合掌造り巨大民家を見て建築の移築保存の意味を考える

 歩いて行けないこともないが、梅雨の雨もよいなのでバスに乗って。ご近所探検隊は三渓園に行ってきた。
 いつもは非公開の重要文化財建築を見せていると聞いて、突然、思い出した。そうだ、ここにも学生時代の思い出があったぞ、1960年のこと、あの移築工事中だった巨大民家は今どうなっているだろうかと。プチセンチメンタルジャーニーである。

 その、民家は何やら奥深い谷間に埋もれるように立っていた。
 はて、53年前はもっと明るく広いところだったような記憶があるが、それは工事中だったことや、戦後の荒廃期から立ち直りつつある時期で、木々も繁っていなかったのだろう。
 あのときは、大学で所属したばかりの歴史研究室の先生や先輩、同期生たちと、移築工事中を見に来たのであった。既にサスは立ち上がり、たくさんの萱の束が積んであった。
 「旧矢篦原家住宅」といい、岐阜県飛騨の山奥にある荘川村からやってきた。御母衣ダムに水没する重要文化財の避難先がここであったのか。

 あれ以後に三渓園に来たのは、これがは初めてではない。
 4年ほど前にも入ったが、その時はこのことを忘れていたし、古建築や庭園に興味薄れていて、裏門から入って展望台に上り、また裏門から戻っただけであった。もっぱら埋立海岸のものすごい景観に目が向いていた。
 そのときの写真はこれ(右図)である。かつて原三渓が松風閣から愛でていたであろう海の風景は、今はこんなになっているのだ。
 せっかくなので、三渓さんが眺めた風景を復元してみたのが、これ(クリック)である。

 今回は正門から入った。53年前もここから入ったのだろうが記憶がない。
 日曜日とて、大勢の人がぞろぞろと歩いている。わたしの目的は荘川民家だが、ついでに原三渓がどこかから移して建てたいくつかの家屋も見た。
 ボランティアガイドの説明を耳にはさんだが、建物がいかに古く由緒あるかとか、贅を尽くしているとか、細部の特殊さとかを強調して話しているのに、どうも違和感をもった。いわゆる変古珍奇なるものを尊重する、旧弊な博物館の思想をひきずっている。
 ここでは建物よりも、建物から庭園へと風景を観ることこそが原三渓への礼であると、わたしは思うのだ。三渓の思想に近づくガイドをしてほしい。
 原三渓は審美眼にたけた人だったらしく、建物蒐集趣味というよりも、それを使っての造園趣味であったらしい。

 由緒ある古建築をいくつも持ってきて、自分の好みに改造し、地形も変えながらそれらを適切な位置に配置し、木を植え池を掘り谷川をつくり築庭していく。こうして自分が好む風景をつくりあげていったようだ。
 建物は緑の中にさまようように繊細な軒の線を描いている。庭と建物は一体、というよりも建物も庭そのものである。
 それは一貫して大名庭園風であり、貴族趣味である。

 風景と言えば、山上に見える三重の塔が、この庭園のランドマークである。三渓がここを1906年に一般開放し、それから8年後のこの塔を移築して、その時点で外苑は完成したとされる。
 ところが、その塔に競うように山の向こうから顔を出してるものがある。ロケットのような煙突のような鉄の筒型の塔である。
    これは上に書いた松風閣からみた、1960年代につくった本牧埋立地にあるコンビナートの一部である。1939年に他界した原三渓はあずかり知らない風景である。
 後世の人々は、さすがに園内では風景のコントロールできても、外のコンビナートまでは無理だったのだろう。三渓が生きていたら、どうしただろうか。

 荘川村からやってきた合掌造り巨大民家も、三渓はあずかり知らないことである。
 この民家が、外苑の大風景にはまったく登場しない奥まったところの配置されているのは、三渓がつくった風景を乱さないようにしたのであろう。
 だが、奥まった谷間の狭いこの位置が、この巨大な建物にとって、適切であるのだろうか。
 余所から移築してきたのだから、これのもともと建っていた環境の再現をしているはずだが、どうなのだろうか。

 そこで移築時の公式資料「重要文化財旧矢篦原家住宅移築修理工事報告書」(三渓園重要文化財建造物修理委員会 1960年11月)をもとに調べてみた。
 結論から言えば、この建物の立地環境に関しては、全く触れていないのである。ひたすら建築のことしか書いていないのである。そういうものであるのかと、意外であった。
 荘川村きっての豪農の家であったとあるから、庭園だってあっただろう。この4月に遠野で見てきた千葉家住宅のように、大きな付属屋だってあったろうと思うだ。

 この報告書にある解体中の集落風景写真では、広い盆地の中にあって、移築後の三渓園の中のような狭いところではない。(矢篦原家が建っていた岩瀬集落の風景も参照のこと
移築前の東面には池のあるにわがあったらしいが、今はいきなり崖である。 

    どうも、この巨大な合掌造りの家屋のみに焦点を当てて移築したらしい。文化財の保存とはそういうものだろうか。

 これを移築するときに原三渓が生きていたら、どうしただろうか。
 彼は単に建物蒐集趣味ではなく、自分流に環境まで作って移築し改造もしているから、こうはならなかっただろう。
 いや、貴族趣味の三渓が、このような木太く大屋根の鈍重なる風景の民家を、そもそも歓迎するはずがないようにも思う。
 わたしが三渓だったなら、この民家を付属屋ももってきて、座敷の正面に池のある庭をつくり、その外には田畑のある山村風景をつくりだす。内苑が日常の住まいとすれば、これは風雅な田舎の別荘とするだろう。それはもう三渓園のなかではできないことである。

 実は、内苑に見える瓦の大屋根にも、これは三渓の大名庭園風とは異なる感があると、違和感を抱いた。この写真は2009年の春にとったものである。
これは1987年移築とあるから、三渓の死後のことである。やはりそうかと思う。コンビナートの煙突ほどではないが、どこかその屋根の硬質さが、他と異なるのである。檜皮葺にすればよいかもしれない。
 三渓なきあとに持ち込まれた建物は、これら二つと新築の三渓記念館と管理棟である(らしい)。この記念館のデザインは誰に寄るのか知らないが、ピンとこない。
 中途半端なのである。どうせやるなら、三渓流にどこかから古建築を移築して、白雲邸の延長として三渓の庭園を補強する意気込みでやるか、真反対に現代建築デザインで真正面から三渓の庭園デザインと勝負するか、そのどちらかでやってほしかった。

 矢篦原家住宅についての三渓園での解説は、あまりに簡単すぎる。どうしてこれを移築しなければならなかったのか、そこのところが全く抜けているのが、気になる。
 実はこの移築の背景には、日本の戦後復興期の大きな騒動があるのだ。その後に各地で起こってくる大規模公共事業反対闘争の初期における、ダム反対闘争である。
 今、世界遺産となって観光地化している白川郷は、そのときの御母衣ダムに水没しなかった集落であり、この荘川村の白川郷は、村民たちの7年半にわたる強硬な反対闘争の末に水没したのであった。

 上白川郷といわれた豊かであった荘川村の6集落、面積700ヘクタール、254戸、1206人が水没対象となったが、それは、荘川村の生産と経済基盤の約50パーセントにあたるものであったそうだ。(この数字はwikipediaによる)
 それが関西の都会へ送る電力というエネルギー源として消えた。矢篦原家住宅もそのひとつであった。
 そこには悲劇もあったろうが、荘川桜のような美談も語られている。
 そのような地域史の背景も語るのが歴史的建築物の保存だろうと、わたしは思うのだが、ここでは何も語られない。


西面(移築前)

西面

南面(移築前)
北面
「おくざしき」の床の間(移築前)

「おくざしき」の床の間

「ひろま」から格子ごしに外を見る動画

 荘川村の集落については下記のベージが参考になる。
「御母衣ダムが建設される前、そこには360棟の合掌造りの家が建つ大集落があった」
http://doyano.sytes.net/keiryu/3/
http://doyano.sytes.net/keiryu/3/img/miboro-2.swf
http://doyano.sytes.net/keiryu/3/img/miboro.swf

●景観戯造「横浜三渓園」(昔の景観を復元してみた)


2013/06/19

797【横浜ご近所探検】戦後復興期の防火建築帯がこのまま老朽立ち腐れの道をたどるのは惜しい

 ふらふらと長者町通りの商店街を歩いていたら、店にシャッターが下りて「閉店のお知らせ」と書いてある。
 その理由として、「建物老朽化に伴い、お客様の安全が確保できない為」とある。
え、ちょっとまてよ、この店は、その名も「長者町8丁目共同ビル」なる4階建て共同ビルの1階にあるんだぞ、隣の店もその隣もさらに隣も同じビルだろ、建築構造体は一体だろ、ということはこのビルもついに取り壊しか。
 当然に、ほかの店も閉めているのかと見ても、普通に営業していて、他に閉店らしいところはない。なかには、内装工事中で新開店するらしいところもある。

 
 外から見たところでは、共同ビルの1、2階は各店舗のコマ割りのままに上下が続いている店らしいが、3階から上の住宅は全く別のところから階段で登るのだから、下とは関係なさそうだ。
 となると、この閉店した店だけが老朽化したからといって、ここだけ取り壊して建て直すことはできないし、安全でないと言ってここだけ耐震工事しても意味がない。
 ここで安全でないと宣言されても、ほかの店や住宅から文句は来ないのだろうか、なんて、大きなお世話の心配をするのである。
 たしかにこのビルは年季が入っている姿である。一回も修繕したことがないかのように、汚れに汚れているが、倒れる程かどうかは分からない。

 長者町通りには、戦後復興期の防火建築帯の4階建て程度のビルががたくさん建っていて、いまも現役として使われている。
 このビルもそのひとつで、資料「横浜市建築助成公社20年史」(1973年発行)で調べてみると、土地所有者8人が共同しており、1957年度に融資したとあるから、次の年くらいに竣工したのであろう。。
 ということは、建ってから55年ほどは経っているのである。

 ここのような横浜都心で、これくらいの規模の建物で、これくらいの年数が経っていると、普通なら老朽化という前にでも建て替えられているだろう。
 それができないのは、たぶん、その共同化による権利関係が複雑であることが原因だろう。
 柱や梁が続いているから、建築構造的に一部だけを取り壊して建て直すことが不可能である。

 全部を建て直すには、土地建物の所有者や賃貸借者の全員が同意しなければならないが、数が多いとなかなか難しいだろう。
 当初は共同所有者が8名だったらしいが、いまは相続や賃貸借でさらに増えているだろう。
 日ノ出町駅前で、再開発ビルを建設中だが、そこにも同じような共同ビルがあった。たぶん、複雑だった権利関係を、時間かけて解きほぐしたのだろう。

 
 ここ横浜都心部では、戦後復興期に耐火建築促進法による防火建築帯という助成制度を使って、主要な道沿いに積極的に共同建築を建てて、戦災と占領による復興の遅れを取り戻したのであった。
 それはまさに模範的な復興事業であり、横浜の街並みが整って行き、現在の都心町並み景観をつくっている。
 そして半世紀以上が経ち、その共同化があだとなって時代に対応する街の更新ができないでいる。

 それが横浜の都心が、関内関外から横浜駅周辺へそしてみなとみらい周辺と移行してきている原因でもあるだろう。
 ちかごろ伊勢佐木モールの店舗の変りようは、場末感がすすむような雰囲気である。
 だが、考えようでは、これだけ長く使ってきた街並みだから、これからも使っていくことができる様に、今の時代に対応すように修復して、生き返らせる方法がありそうなものである。
 技術的に耐震化修復が可能だろうし、デザインもあらたにして街並み景観の再生をしてはどんなものか。

 その目でこの長者町8丁目共同ビルを眺めると、なかなかにモダンでプロポーションも美しいデザインである。
 2階から上のファサードを特徴づける、縦格子は当時としては新しいプレキャストコンクリート板らしい。
 全体にあまりに汚れているが、磨けばよみがえる美しさを秘めているようだ。このまま老朽化立ち腐れの道をたどるのは惜しいことである。

 ところで、この共同化と建て替え困難問題にかんしては、今はやりのマンションなる虚名で売っている分譲集合住宅、正確には区分所有型共同住宅ビルの住宅についても、まったく同じことが言えるのだ。
 ホイホイとアホノミクス宣伝に乗せられて、あんな「名ばかりマンション」を買ってると、いまに面倒なことになっちまうよ、老朽化する前に大地震がやってくるらしいからね。

(2018年6月3日追記)
 長者町8丁目共同ビルは、昨日前を通ったら、きれいに撤去されてしまい、敷地は白い工事用仮設塀に囲まれていた。もうすぐ新建築の工事が始まるのだろう。




 
参照:横浜ご近所探検隊の横浜風景散歩コラム
http://datey.blogspot.com/p/blog-page_19.html
 ◆横浜B級観光ガイドブック
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hama-b
 ◆横浜都心戦災復興まちづくりをどう評価するか
http://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/yokohama-sensai-fukko
 ◆関内地区戦後まちづくり史
https://sites.google.com/site/matimorig2x/kannai-kangai

2013/06/18

796【横浜ご近所探検】寿町のドヤのほうがマシなマンボーネットルームが長者町防火建築帯に汚い店構え

 長者町9丁目の角に、1年くらい間だったか、見た目は何とも汚い広告だらけの店ができた。
 何だろうと近づいてみると、値段表示看板にNetRoomとあって、時間賃貸料金が書いてある。
 各部屋にTV,PC、ソファー、机、椅子があり、共同のトイレやシャワールームとかロッカーもあるらしい。

 ああ、これがネットカフェなるものか、ふ~ン、1時間100円かあ、忙しいビジネスマンが会社や家を離れて仕事するところか、あるいは書斎代わりに使う人もいるのかもなあ。
 あ、24時間2400円か、そうだ、この値段なら寿町ドヤなみだよ。これにエアコン、TV、PCがついてるんだから、ドヤよりこっちの方がいいなあ。ドヤ街から引っ越してくるやつがいるんじゃないかしら、なんて思ったのであった。

 ところがマスメディア情報によると、この事業者が建築基準法違反の超狭くて(3㎡から5㎡)、窓なし部屋を、しかもシェアハウスとして数人に共同貸ししていて、東京都から摘発されたそうである。
 シェアハウスとネットルームと違うのか同じか知らないが、実は同じようなもんだろう。寿町のドヤは5㎡で個室だから、広さはドヤのほうがましである。

 なんにしても、そんなものが流行るなんて、戦後68年たってもいまだに住宅難は解決してないってことだ。
 基本的人権である住まいさえもない階層が増えていて、それを食い物にする商売が成り立つなんて、アホノミクスで景気が良いなんて、ウソでしょ。

 ところでこの横浜長者町のマンボールームのビルは、どうやら戦後復興期の防火建築帯のひとつであるらしい。
 1、2階に店舗、3階から上に共同住宅を乗せた典型的な形である。建ってから、たぶん、50年以上は経っているから、よく働くビルである。


2013/06/16

795雑誌「本の雑誌」投稿雑文をここに注釈つきで掲載するが注釈の正否は読者が判断してね

 もう本を買うのはやめたが、雑誌「本の雑誌」だけは毎月買う。そこに投稿したら載せてくれた記事がこれ。
 間違って書いたところもあるので、ここに脚注*をつけて掲載する。

●「本の雑誌」2013年7月号「三角窓口」掲載投稿

「本の雑誌」5月号発売日に有隣堂に寄ったら、村上春樹『色彩を……』(長ったらしくて覚えられない)(*1)も発売日とてドサッと積んである。新刊だからだれも読んでいないはずなのに大評判てのが気に食わない。
 ハルキさんて君の名は(*2)、北欧の林業(*3)とか海辺の鱶(*4)とか知能指数(*5)とかの本で以前にも評判になったような。
 わたしはこの人の本を読んだことがない。実は読みたいのだが、毎度毎度世間が騒げばわが心中の天邪鬼偏屈虫も騒ぐので、これも読めないだろう。
 今回は、出版社のチラチラオモラシ宣伝がインタネットで事前評判になったと新聞にある。でも、インタネットサーフィン好きのわたしが発売日まで知らなかったとは、覗き込む先が普通とは違うのかしら。
 それにしても、本ってのは世間の評判(インタネット)とか、出版屋や本屋の推薦(直木賞、本屋大賞)とかに頼って読むものかいッ、本くらいは自分で選べよなあ。
 だが後期高齢ともなれば春樹と龍(*6)がこんがらかり、これに夏樹と春菜(*7)が参戦してきて脳内混戦中、やはり教えてくれる人が要るかなあ、ねえ、ツノさん
(*8)。


*1:たぶん、眼の病気の悩みを書いた本だろう。白内障手術したわたしには用がないな。
*2:1950年代の人気NHKラジオ大河ドラマ「君の名は」主人公の名が「後宮春樹」
*3:書名は「フィンランドの森」、いや、スエーデンだったかな。
*4:書名は「海辺の蚊不可」で、海水浴で蚊に刺された話ではないかしら。
*5:書名は「ⅠQ84」で、知的障碍者が主人公かしら。
*6:村上龍のことだが、これがまた村上隆(リュウと読める)とこんがらかる。
*7:池澤親子で混戦に参入して四つ巴になって困ったものである。
*8:津野海太郎のことで、「本の雑誌」に『百歳までの読書術』なる老人物コラムを連載していて、どうも同年輩らしく、これがまあ身につまされるんだよなあ。

2013/06/14

794復興庁のエライ役人がツイッタ―なるアホ道具使ってオコラレているらしいがこの人はエライもんだ

 復興庁の水野さんてエライ役人が、ツイッタ―なるアホ道具使って、あれこれとワルクチやらグチを書いて、あちこちからオコラレているらしい。
 ヒマなヤジウマのひとりとして、どんなこと書いたのかとネットサーフィンして探したら、あった、あった。
 よくまあ、こういうのがあるもんだよなあ、あきれた、いや、ツイッタ中身じゃなくて、こんな一部始終蒐集編集ページがインタネットにはあるんだ、ということに呆れた。書いた当人は削除してもムダな努力。

 さて書いてある中身だが、まず、エライと思ったのは、チャンと実名がわかってしまうところである。
 当人は覚悟して書いているのだ、いや、カクゴするほどの内容じゃないけどね。まあ、言いたいだろうなあ、グチ言いたいだろうなあ、と、同情する内容もある。
 天下に高言してバチバチ叩かれるほどの、ものすごいグチであるかといえば、アホツイッタ―と同じで、いまなになにしたナウ、どこどこだナウ、なんて、よくあるツイッタ―マニアのアホプライバシーさらけ出しも多い。

 中には読み方によっては、本当にスゴイかもしれないというのもある。一番感心したのは、これ。
「白黒つけずに曖昧なままにしておくことに関係者が同意しただけなんだけど、こういう解決策もあるということ」
 なかなか、含蓄あることですよ、なにのことでそうしたか分らないけど、なにか復興庁の担当する国策についてそうするなんて、よほど政治的な裏動きがあったんだろうなあ、
 うん、これって皮肉を装った内部告発なんだろうなあ。

 田舎町議会とか左翼のクソとかなんて、そりゃ言いたいことあるでしょうよ。
 その悪口グチを聞かされた相手が怒るのは、言ったのが役人だろうが、徘徊老人だろうが、それはしょうがないことだ。
 役人の場合は、怒られたらばっちりと論理だてて反論するべきと思う。それが役人たるべきことであろう。
 すぐに謝って逃げてしまうのが、よくある役人の手だが、この人はそうではなさそうだ。復興庁も覚悟を持って対決させてはどうか。
 もちろん、間違った反論すれば、ますます叩かれるだろうが、それは覚悟するしかない。

 徘徊老人なら、ごめん、ゴメン、ボケてるもんだから、と逃げるのである。
 わたしもツイッタ―アカウント持っているが、これはなんとも使えない代物である。ブログの書き込み紹介だけである。
 なぜ使えないかというと、この水野さんと同じで、短かすぎてグチになってしまい、言いたいことの1割も書けないからだ。
 ツイッタ―マニアの橋下さんも、長文をちょこちょこ区切って書いているので読みにくい。橋下さんのにかぎらず、わたしはツイッタ―を読まない。
 しょせんツイッタ―は、まとまった文章を書けない奴のアホ道具である。

 これを機に、役人はツイッタ―使うなとか規制するようでは、料簡が狭すぎる。
 お互いにしっかりツイッタ―でもブログでもやりあう方が、明るい社会になると思うよ。なんだかアホアホ会話の2チャンネル国家になりそうだけど。
 もうすぐ参議院選挙でそのアホアホぶりが暴露されるだろう。

793どうもピンとこないが日本は暑くなっているらしく先日は故郷の高梁が日本第2位になったとか

 ここ横浜はふつうに初夏であるのに、どうもおかしい。どうもピンとこないのだが、日本がもう猛暑になっているらしい。
 NHKnewsWEB 2013/06/12にこんなことが載っている。

日中の最高気温は、▽新潟県上越市で35度9分、▽岡山県高梁市で35度6分、▽兵庫県豊岡市で35度1分と、いずれもことし初めての猛暑日になりました。また、▽松江市では34度4分と、6月としては統計を取り始めてから最も高くなったほか、▽秋田県大館市で32度1分、▽北海道北部の名寄市で31度8分などと、広い範囲で30度以上の真夏日となりました。

 おお、高梁市とはわたしの生れ故郷である。
 惜しい、あと4分で日本一だったのに、へえ~、故郷はそういうことを誇る地位?になっているのか。

 関東に住んでいると、日本一は熊谷市とばかり聞いていて、内陸地の盆地が暑くなるんだとおもっていたが、そうか故郷も内陸盆地であった。
 居直って暑さで町おこししているらしい熊谷が暑いのは、新潟・群馬県境の三国山脈から乾いた熱い風が入ってくる地点にあるからだそうだ。

 ということは、高梁も中国山地から同じ現象が起きているのだろう。盆地の底に熱い風が吹き寄せられて溜まっているのだろうか。
 日本各地暑さランキングを見ると、なかなかすごいものである。故郷ももっと頑張って日本一になってほしい??。
 ということで、ふるさとのみなさま、早々と暑中お見舞い申しあげます。

 
 

2013/06/11

792【横浜ご近所探検】神奈川県庁舎屋上から港を眺めて歴史を生かすまちシンポでお勉強して収穫あり

 空梅雨で天気が良いし、暑くもなくて気持ちよい初夏である。ご近所探検隊も出動回数が多い。
 いつもの関内地区ぶらぶらで、神奈川県庁舎の前に来たら、今日は公開日ですと書いてある。

 え、公開?、昔、仕事してた頃は、県庁に用事あってしょっちゅう来たこともあるが、普通には入れたけどなあ。県庁は県民が用のあるオフィスだから、いつだって公開してるはずだよなあ。
 わざわざ公開しますなんてもったいぶっているのは、今は非公開にしたのかしら、おかしいよなあ。ああ、休日なのに公開しているという意味だろうなあ、それならわかる。

 まあ、よろしい、このところ県庁に用がないので長らく入ったことがなかったので、入ってみることにした。
 屋上に登って景色を見るのと、県知事の部屋を覗き込むのがちょっと面白いくらいで、ほかには特に面白くもない。廊下を歩き回るだけなら、平日に用ありげにやってくる方が立ち入り制限が少ない。

 この神奈川県庁の本庁舎の建物は、1938年にできた建物で登録文化財となっている。
 その姿は、いかにも権威主義的な帝冠様式といわれたデザインで、その当時のはやりの官庁建築である。戦前お役所建築の典型で、愛知県庁舎名古屋市庁舎静岡県庁舎も似たようなものである。

 これをつくる前に、公開競技設計をやって案を募集したとて、その応募案の絵が展示してあったのが面白かった。
 一等当選案もその他も、ほとんど同じように見える。まったく独創性のがないのが、時代の様相を見せていて、面白くもあるがなんだか怖くもある。
 

 屋上にのぼったのは初めてである。新館のほうはよく行っていたので、展望レストランから港を見ていたものだが、こちらの屋上は視野が広くてよい。
 真ん前に「象の鼻」が見えて、開港当時の港の風景をしのばせる。
 左前に見える塔が、「ジャックの塔」よばれる横浜税関である。

 この県庁舎の屋上に建つ塔が「キングの塔」で、近く開港記念館には「クイーンの塔」がある。

 3階の大会議室では、「明日の歴史を生かしたまちづくり」なるシンポジウムがあるとて、野次馬気分で出席、けっこう大勢の参加者であるが、見渡せば、横浜歴史まちづくりフリーク感のある仲間内的顔ぶれの感もある。

 わたしのこのシンポでの収穫は、発言された横浜の歴史的建造物の権威者たちの中のおふたりから、「歴史的建造物として、戦後復興期の防火帯建築をどう考えるか」という趣旨のおことばが、ほんのちょっとだけだが、とにかく発言があったことである。

 ようやく、すこし日が当たりそうかなあ、ぜひ歴史的建造物の仲間に、群としての防火建築帯も入れてやってくださいませ。
 わたしは保存原理主義者ではないが、せめて今のうちに何らかの評価をしてあげてほしい。一顧もされずに消えていくのは、さびしい。
 なお、「防火建築」という方が横浜には多いようだが、その街並みを作った根拠法の耐火建築促進法には「防火建築」と書いてある。

◆横浜都心戦災復興まちづくりをどう評価するか
http://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/yokohama-sensai-fukko
 

2013/06/09

791【金継ぎ】琉球の焼き物のマグカップが割れて伝統技法の金継ぎ修理してわが家宝になったのだが…

  「筒井筒とよばれる茶碗があるそうだ。朝鮮李朝期の焼き物で、重要文化財となっている名器だが、それがなんと割れたのを修理している代物だ。
 元は筒井順慶がもっていたが、豊臣秀吉の不興を買ったときに詫びに献上したもの。

 あるとき、秀吉の小姓がそれを割って、手打ちにされかけたのを、細川幽斎が能「井筒」にある和歌をもじってとりなし、事なきを得て金継ぎ修理したという物語がある。
 筒井筒 五つにわれし井戸茶碗 咎をば我に負ひにけらしな
 元歌は伊勢物語にある
筒井筒 井筒にかけしまろがたけ 生いにけらしな 妹見ざる間に
 だから重文になったというのでもないだろうが、面白い。

 話の出だしが格調高いが、わたしもそうなるかもしれない物語を持つ茶碗、というよりも湯呑、いやマグカップを持っているのだ(実は、正確には持っていた、だが)。
 物語の始まりは、いつか忘れたが沖縄に行ったときに、どこか忘れたが、幾らだったか忘れたが、この物語の主人公たる陶製マグカップを買ってきた。
 どうもこれでは出だしからして物語性に欠けるなあ。そこは庶民だから、しかたがない。物語を続ける。

 で、なんとなく日々の酒飲みに使っていた。この3月末のこと、洗っていたらポクッと欠けた。
 捨てようとして、かけらはひとつで簡単にはめ込むことができるので、ふと畏友のFが接着剤の専門家であることを思い出し、どんな接着剤を買ってくればよいか、教えてもらおうと考えた。

 翌日さっそく現物をもってFに会ったのだが、エライことになってしまった。
 日本古来の「金継」なる陶磁器修復方法の講義を聞かされてしまった。金継なる手法があるということくらいは知っていたが、Fがやっているとは思わなかった。
 そのFが物の状況を診断しつつ、1時間半ほどの金継方法を実におもしろく教えてくれて、すっかりその伝統手法でやる気にさせられた。

 ということで、金継師匠のFに弟子入りしたのである。Fにはこれに限らず、化学一般や白内障やらで弟子入りしている。白内障手術は、師匠は片目だけだが、わたしは両目やったから、師匠を越えた。

 さて、金継を始めた。といっても、道具も材料もF師匠に頼りっぱなしである。
 何段階もの工程があり、工程のほとんどはウルシの乾燥待ちである。なんと2カ月はかかるというのだが、急ぐことではさらさらない。
 もしかしたら入門した弟子にだけ教えるF師匠の秘伝の術かもしれないので、ここに細かいことは書かない。

 汚れを入念に落す作業が1週間、欠けたところのほかにある細かいひび割れの接着に2週間かかり、ようやくにして肝心の欠けた破片を元の位置に復して、継ぎ目に塗った漆に金粉を蒔いて最後の作業が終われば、いつしか春は過ぎて初夏になっていた。
 ここから3週間置いたままで乾燥して、仕上げはついている余計な金粉やらウルシやらを丁寧に真綿で磨いてとりされば、おお、金線輝くマグカップが再登場した。
 

 さて、わが宝物になった物語の込められたその琉球マグを、何はともあれ師匠に一番に使ってもらいたいと、これはやはり沖縄料理店で、沖縄ビールを飲むに限ると思って、共に店を訪ねると、昼日中でまだ準備中。
 しょうがないので安居酒屋にて、まずは師匠にできぶりを褒めていただき、黒ビールを飲んでいただいたのであった。
 めでたし、めでたし、、、と、、。
  ・
  ・
  ・
 さて、次の深夜のこと、読書しつつ、寝酒を金継ぎ家宝で飲む至福の時が過ぎていく。
 時計が零時を回った、もう寝ようかと立ち上がったら、ガチャンと足元の床で破壊音が、、、。みればわが宝物は、7つに分かれて転がっている、、、トホホ、、。
 

 ここで細川幽斎のように、なにか古歌を引いてしゃれたこと言いたが、、う~ん、と、
 割れても末に 買わんとぞ思う
 これは落語の崇徳院である、格調が低い。

 袖にからみ床に落ちたる金継碗 割れてももはや継がぬとぞ思う
 ま、このくらいか。

 というわけで、金継物語はあえなくこれでおしまいである。
 まあ、金継師匠にお褒めをいただき、お使いいただいた後であったことをもって、この物語はハッピーエンドとしよう。
  ◆
 東京駅の復原にいちゃもんつけ、高田の奇跡の一本松復元にその意味を問う、なんてことやってて、自分の茶碗の復元と破壊にはどう評価しようか、なんて思う。
 金継ぎ(金繕いともいう)という手法が面白いのは、元の割れる前の姿に復元をするものではないことである。
 割れて継いだその姿を、新たな創造とみてしまうのである。
 割れ目を縫うように蒔かれた金粉の線状を眺めて、それを「景色」とさえいうのだから、風流なものである。景色を作るためには、割れなかったところにさえ金線をほどこしてしまう。
 これが進んでくると、製作時の釜の中で割れた陶磁器は普通は捨てるのだが、それを金繕いして創作にしてしまう。嵩じると、割れるように焼いて、金繕いする。そのような名器があるらしい。
 建築の保存修復についても、その視点で見ると、面白いことがありそうだ。

2013/06/07

790【横浜ご近所探検】古建物の一部を残して新建築に貼り付ける歴史保存デザインの意味はどこにあるのか

 また昨日の横浜ご近所散歩の続き。
 神奈川県庁の近くに、大きな空き地ができて、建築工事をしている。
 いつもの散歩コースなのに、こうやって壊されてしまうと、ここにはなにがあったか思い出せないのが、なんだか悔しい。
 そういうことがよくあるが、どうも年寄りになって忘却力が増大したからではなく、昔からそういうことが多かった。知人に聞いてもそうだという。

 その工事空き地に、一枚の穴あき壁が建っている。幅3mくらい、高さが3階くらいの一枚のコンクリ板だから、鉄骨で支えてある。
 これから作るビルの一部を模型にして検討しているのかと思ったが、それにしては汚れているし、デザインが模型にして見るにはあまりに変哲もないのである。
 どうも、元ここに建っていた建物の一部を残す形で、その場で切り取ったままに立たせているらしい。これから作る新建築の一部にはめ込むのだろう。

 そうか、これは横浜市のがお得意?の歴史的建築保存の手法のひとつだ。
 馬車道の旧保険会社(元のビルから取り外した部品を新ビルに張り付け)とか、北仲通りの旧横浜銀行本店(玄関部分だけ本物曳家で他はレプリカ)とかのビルでやってきている。
 このビルは、銀行のような石で造った立派な代物ではなくて、変哲もないコンクリートの板であるところがちょっと面白い。これはモダンデザイン建築だったのか。

グーグルストリートで見る元の建物(2012年か)
 
2013年6月の風景 
 

   ネットで調べて分かった。
 1938年に竣工した「神奈川県産業組合館」であり、取り壊される前は「神奈川県中央農業会館別館」だったとある。なるほど日本モダニズムデザイン流入初期の建築であったか。
 戦前モダニズム建築と言えば、東京中央郵便局が1933年に竣工している。東京駅の隣にあって、赤レンガ東京駅はごてごて飾ってあって分かりやすいので、大衆的保存運動が起きたが、こちらは玄人筋だけの保存運動であったのが、興味深いことであった。

 この旧神奈川県産業組合館を、横浜市が「横浜市歴史的建造物」として認定しているのだが、それが今年の1月である。
 ということは、こわされる直前にでもあわてて認定したのだろうか。そして一部だけでも残すとなったのだろうが、その間のやり取りを聞いてみたい。
 それにしても、歴史的建築物としての一定の評価軸が、これまではごてごて飾り立てた様式建築ばかりにあてられていたようだが、ようやくこのような、いわば「町場のモダン」デザインにまで及んできたことを素直に喜ぶものである。

 横浜市のサイトにはこう書いてある。
「こうした意匠をもつ建物は1930年代に世界各国で建てられており、この建物は、同時代の建物の1つの典型といえる建物です。
 周辺の建物とあわせて、関東大震災以降の、戦前の横浜の都市形成の歴史を物語る貴重な遺構であるとともに、神奈川県の農協の歴史としても時代を画すモニュメントといえる存在で、今後、現在進められている隣接地も含む建替計画のなかで、壁面を一部保存しながら外観を復元し、歴史的建造物を保全活用していきます。」
http://www.city.yokohama.lg.jp/toshi/design/press/20130129183422.html

 わたしがこれを「町場のモダン」というのは、やがてこのようなデザインが木造の商店建築のファサードに及んで、現代の日本の都市風景を造ることになるからだ。
 その系譜はやがて戦災から戦後復興期の横浜都心をつくった防火建築帯にいたることになる。今の関内・関外の町場のモダン景観はそうやってできたのだ。
 さて、県庁隣の新しい農協ビルは、どのような現代町場モダンの姿を見せてくれるのだろうか。

 ちょっと気になることがある。
 いま工事現場に突っ立っている保存壁は、たしかに元の歴史的建築物の一部なのだろうが、それを現物として残すほどの価値がどこにあるのだろうか。
 現物として残すには、それが現在では希少であるとか再現が難しい技術とか材料で作られていて、学術的な意義があることが必要条件だと思うのだが、これがそうなのだろうか。もしもそうなら、それがわかるように見せてほしいし、キレイにしないで汚れて年季が入った姿で生かしてほしい。
 そのうちに1950年代の戦後復興期の建築も歴史的建築物になって、その一部を保存して建て替えにするときがくるだろうか。

参照:横浜ご近所探検隊の横浜風景散歩コラム
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#yokohama
◆横浜B級観光ガイドブック
https://sites.google.com/site/matimorig2x/yokohama-bkyuu-kankou-gaidobukku
◆横浜都心戦災復興まちづくりをどう評価するか
http://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/yokohama-sensai-fukko
◆歴史の証言としての建築記録保存
https://sites.google.com/site/dateyg/matimori-hukei/miyosi-syogakko
◆関内地区戦後まちづくり史
http://homepage2.nifty.com/datey/kannai200609.pdf

2013/06/06

789【横浜ご近所探検】北仲通北再開発が動きだしたが美しい景観出現にあまり期待し過ぎないようにしよう

 昨日の横浜ご近所探検隊報告の続きである。
 新港地区の運河パークから建設中の結婚式場と大観覧車を眺めて、頭をぐるりと左に回せば、運河越しに大きな空き地があり、何やら工事中である。
 ここは帝蚕倉庫と公団住宅団地などがあったところで、北仲通北再開発地区として事業計画があり、対応して地区計画もかかっているところである。

 帝蚕倉庫跡地は数年前に東京の不動産事業者が買収して再開発するはずが、リーマンショックで止まっていたのだが、動き出すらしい。
 WEBサイトで見たら、事業者が都市計画提案で計画変更を行政当局に出しているようだ。合計床面積33万平米もの高層・超高層建築が立ち並ぶらしい。

 ついこの間まであった公団住宅団地が消えている。
 今は正式には都市再生機構の住宅団地でUR団地とかいうのだろうが、やっぱり公団住宅団地という方がしっくりくるのだ。
 あの5階建て、階段アクセスの公団住宅は懐かしいとおもうのは、若いころに同じ形の公団住宅に住んでいたからだ。公団住宅団地は、戦後の先進的な居住環境づくりのリーダーであった。
 去年、団地の半分くらいは建て替えられて、高層住宅になっていたが、残りもいよいよ建て替えらしい。
2008年 昔の公団住宅がまだある
 
2012年 旧公団住宅が半分建て替えられた
 
2013年 公団住宅が全部なくなった
  空き地の一部に元帝蚕倉庫の赤レンガ建物が、2棟建っている。
これらは再開発の中において、保全再生して再利用することになっているはずだ。ほかにも2棟の赤レンガと白い建物が1棟あったのだが、取り壊された。

  このブロックには、国の出先機関が入っている庁舎があり、もとはそこに赤レンガの生糸検査所の建物があったのだが、これは取り壊されて超高層建築となった。その腰回りに、もとの外観をコピー再現された。
 その再現したデザインが、いま建っている元帝蚕倉庫の赤レンガ建物とそっくりであるのは、横浜の生糸関係の一連の建物だったからだろう。
 道を隔てた向かいには、元横浜銀行本店だった様式建築の一部が、一部曳家した現物だが、これもほとんどコピー再現されて建っている。
  
   複数の民間事業者のコンソーシアムであるらしい帝蚕倉庫跡地再開発と、都市再生機構の公団住宅建て替えの両事業は、この運河に面する横浜でも屈指の景観を誇る地区にあって、どのような姿で再登場するのであろうか。
 対岸で工事中の結婚式場が、横浜市の都市美審議会でそのデザインが揉めたのだが、こちらではどうなるのか、また揉めるのかもしれないと、変な楽しみがある。

 こちらは生糸検査所跡の再開発に見るように、近代開港時の歴史的デザインコードが低層部にはあるとみてよいだろう。そこから大きく外れるには、デザインの力量がいるだろう。
 でも、外れてもいいから、これは美しいと思うことができる空間の出現も期待する。同じような赤レンガコピーなら無難だとされるのも困る。

 問題は高層部、超高層部だろう。今ここに既に出現している国の合同庁舎も都市機構建て替え住宅も、高層部のデザインは良くも悪くもなし、はっきり言えば美しい風景が登場したわけではない。
 どうも、丸の内でも西新宿でも超高層建築群となると、群としての都市景観がさっぱり美しくないのはどうしてだろうか。てんでに勝手な方向を向いて、てんでに違う格好している。ちがっていてもよいのだが、なにかが欠けているような気がしていならない。

 わたしが超高層建築群を群として美しいとみた経験は、ニューヨークのバッテリーパーク開発によるフィナンシャルセンターだけである。
 北仲通り北地区の再開発によって、どんな素晴らしい風景が横浜港に生まれるのか、おおいに期待もするが、あまり期待してがっかりしないように心構えも必要である。

 ついでに、美しいばかりではなく、賃借都市主義者のわたしにとっては、UR都市機構にはアフォーダブルな賃貸住宅を建てることをお願いしたい。民間並みの家賃で貸すようでは、URの存在価値がない。
 日本の戦後の庶民住宅を引っ張ってきた伝統をわすれず、そこをがんばってもらいたい。
2008年 旧公団住宅とランドマークタワー
               ↓
2012年 同じアングル