いつもは非公開の重要文化財建築を見せていると聞いて、突然、思い出した。そうだ、ここにも学生時代の思い出があったぞ、1960年のこと、あの移築工事中だった巨大民家は今どうなっているだろうかと。プチセンチメンタルジャーニーである。
その、民家は何やら奥深い谷間に埋もれるように立っていた。
はて、53年前はもっと明るく広いところだったような記憶があるが、それは工事中だったことや、戦後の荒廃期から立ち直りつつある時期で、木々も繁っていなかったのだろう。
あのときは、大学で所属したばかりの歴史研究室の先生や先輩、同期生たちと、移築工事中を見に来たのであった。既にサスは立ち上がり、たくさんの萱の束が積んであった。
「旧矢篦原家住宅」といい、岐阜県飛騨の山奥にある荘川村からやってきた。御母衣ダムに水没する重要文化財の避難先がここであったのか。それ以後に三渓園に来たのは、これがは初めてではない。
4年ほど前にも入ったが、その時はこのことを忘れていたし、古建築や庭園に興味薄れていて、裏門から入って展望台に上り、また裏門から戻っただけであった。もっぱら埋立海岸のものすごい景観に目が向いていた。
そのときの写真はこれ(右図)である。かつて原三渓が松風閣から愛でていたであろう海の風景は、今はこんなになっているのだ。
せっかくなので、三渓さんが眺めた風景を復元してみたのが、これ(クリック)である。
今回は正門から入った。53年前もここから入ったのだろうが記憶がない。
日曜日とて、大勢の人がぞろぞろと歩いている。わたしの目的は荘川民家だが、ついでに原三渓がどこかから移して建てたいくつかの家屋も見た。
ボランティアガイドの説明を耳にはさんだが、建物がいかに古く由緒あるかとか、贅を尽くしているとか、細部の特殊さとかを強調して話しているのに、どうも違和感をもった。いわゆる変古珍奇なるものを尊重する、旧弊な博物館の思想をひきずっている。
ここでは建物よりも、建物から庭園へと風景を観ることこそが原三渓への礼であると、わたしは思うのだ。三渓の思想に近づくガイドをしてほしい。
原三渓は審美眼にたけた人だったらしく、建物蒐集趣味というよりも、それを使っての造園趣味であったらしい。
由緒ある古建築をいくつも持ってきて、自分の好みに改造し、地形も変えながらそれらを適切な位置に配置し、木を植え池を掘り谷川をつくり築庭していく。こうして自分が好む風景をつくりあげていったようだ。
建物は緑の中にさまようように繊細な軒の線を描いている。庭と建物は一体、というよりも建物も庭そのものである。
それは一貫して大名庭園風であり、貴族趣味である。
風景と言えば、山上に見える三重の塔が、この庭園のランドマークである。三渓がここを1906年に一般開放し、それから8年後のこの塔を移築して、その時点で外苑は完成したとされる。
ところが、その塔に競うように山の向こうから顔を出してるものがある。ロケットのような煙突のような鉄の筒型の塔である。
これは上に書いた松風閣からみた、1960年代につくった本牧埋立地にあるコンビナートの一部である。1939年に他界した原三渓はあずかり知らない風景である。
後世の人々は、さすがに園内では風景のコントロールできても、外のコンビナートまでは無理だったのだろう。三渓が生きていたら、どうしただろうか。
荘川村からやってきた合掌造り巨大民家も、三渓はあずかり知らないことである。
この民家が、外苑の大風景にはまったく登場しない奥まったところの配置されているのは、三渓がつくった風景を乱さないようにしたのであろう。
だが、奥まった谷間の狭いこの位置が、この巨大な建物にとって、適切であるのだろうか。
余所から移築してきたのだから、これのもともと建っていた環境の再現をしているはずだが、どうなのだろうか。
そこで移築時の公式資料「重要文化財旧矢篦原家住宅移築修理工事報告書」(三渓園重要文化財建造物修理委員会 1960年11月)をもとに調べてみた。
結論から言えば、この建物の立地環境に関しては、全く触れていないのである。ひたすら建築のことしか書いていないのである。そういうものであるのかと、意外であった。
荘川村きっての豪農の家であったとあるから、庭園だってあっただろう。この4月に遠野で見てきた千葉家住宅のように、大きな付属屋だってあったろうと思うだ。
この報告書にある解体中の集落風景写真では、広い盆地の中にあって、移築後の三渓園の中のような狭いところではない。(矢篦原家が建っていた岩瀬集落の風景も参照のこと)
移築前の東面には池のあるにわがあったらしいが、今はいきなり崖である。
これを移築するときに原三渓が生きていたら、どうしただろうか。
彼は単に建物蒐集趣味ではなく、自分流に環境まで作って移築し改造もしているから、こうはならなかっただろう。
いや、貴族趣味の三渓が、このような木太く大屋根の鈍重なる風景の民家を、そもそも歓迎するはずがないようにも思う。
わたしが三渓だったなら、この民家を付属屋ももってきて、座敷の正面に池のある庭をつくり、その外には田畑のある山村風景をつくりだす。内苑が日常の住まいとすれば、これは風雅な田舎の別荘とするだろう。それはもう三渓園のなかではできないことである。
実は、内苑に見える瓦の大屋根にも、これは三渓の大名庭園風とは異なる感があると、違和感を抱いた。この写真は2009年の春にとったものである。
これは1987年移築とあるから、三渓の死後のことである。やはりそうかと思う。コンビナートの煙突ほどではないが、どこかその屋根の硬質さが、他と異なるのである。檜皮葺にすればよいかもしれない。
三渓なきあとに持ち込まれた建物は、これら二つと新築の三渓記念館と管理棟である(らしい)。この記念館のデザインは誰に寄るのか知らないが、ピンとこない。
中途半端なのである。どうせやるなら、三渓流にどこかから古建築を移築して、白雲邸の延長として三渓の庭園を補強する意気込みでやるか、真反対に現代建築デザインで真正面から三渓の庭園デザインと勝負するか、そのどちらかでやってほしかった。
矢篦原家住宅についての三渓園での解説は、あまりに簡単すぎる。どうしてこれを移築しなければならなかったのか、そこのところが全く抜けているのが、気になる。
実はこの移築の背景には、日本の戦後復興期の大きな騒動があるのだ。その後に各地で起こってくる大規模公共事業反対闘争の初期における、ダム反対闘争である。
今、世界遺産となって観光地化している白川郷は、そのときの御母衣ダムに水没しなかった集落であり、この荘川村の白川郷は、村民たちの7年半にわたる強硬な反対闘争の末に水没したのであった。
上白川郷といわれた豊かであった荘川村の6集落、面積700ヘクタール、254戸、1206人が水没対象となったが、それは、荘川村の生産と経済基盤の約50パーセントにあたるものであったそうだ。(この数字はwikipediaによる)
それが関西の都会へ送る電力というエネルギー源として消えた。矢篦原家住宅もそのひとつであった。
そこには悲劇もあったろうが、荘川桜のような美談も語られている。
そのような地域史の背景も語るのが歴史的建築物の保存だろうと、わたしは思うのだが、ここでは何も語られない。
西面(移築前)
西面
南面(移築前)
北面
「おくざしき」の床の間(移築前)
「おくざしき」の床の間
「ひろま」から格子ごしに外を見る動画
荘川村の集落については下記のベージが参考になる。
「御母衣ダムが建設される前、そこには360棟の合掌造りの家が建つ大集落があった」http://doyano.sytes.net/keiryu/3/
http://doyano.sytes.net/keiryu/3/img/miboro-2.swf
http://doyano.sytes.net/keiryu/3/img/miboro.swf
●景観戯造「横浜三渓園」(昔の景観を復元してみた)
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