2014/03/18

909【地震津波火事原発】行政境界にある街は大災害にどう対応しどう復興するのか


 岩沼市の井口市長の講演を聞いた(2014年3月16日、横浜国大にて)。
 地震津波大被災からの復興へ、最先端を走り続ける姿勢に敬服する。聞いていて、ふと疑問が頭をよぎった。

◆二つの市の境界上にある被災集落
 実は岩沼市を訪ねたことはないのだが、その北隣の名取市北釜集落、正確には集落があったが津波で消えた跡地を訪ねたことがある。
https://sites.google.com/site/dandysworldg/natori-kitakama

 そこは名取市の南端部であり、南隣は岩沼市相野釜集落である。空中写真を見ると北釜とまるで双子のようによく似た地区、というよりも一つに集落に見えるが、どちらの集落も消滅した。
 北釜は119世帯という記録を見つけたが、相野釜の世帯数は分からない。いずれにしても大差はないだろう。地名のどちらにもつく「釜」とは、昔は製塩集落だったことを現す。
 たまたまこの2集落の間に行政境界が入っているが、多分、歴史的にも民俗的にも産業についても似たようなものだろうし、両集落にそれぞれ親戚関係者もおおいだろう。つまりひとつのコミュニティーであったにちがいない。

 普通に考えると、これら二つはともに同じところに集団移転しそうなものである。ところが、津波で被災した今、ふたつの集落は全く異なった方向に移転してしまうのである。
 北釜は北の方の空港の北地区に、相野釜は南の方の玉浦西地区へと、集団移転するのである。どちらも他の集落と統合する新たな住宅地を形成するのである。
 
◆同じコミュニティでも行政が異なると異なる移転先
なぜそうなるか、多分、二つの集落が別の自治体に属するので、それぞれ別の復興計画に従うからであろう。
 余所者の余計な心配だが、このように密接に隣り合っていたふたつの集落が、その間にたまたま行政境界が入っていることによって、復興のために離れ離れになることは、普通のことなのだろうか。いや、今回初めての事件だから普通のことではない。
 防災集団移転は、制度上は市町村を越えて可能であるようだが、この2集落は同じところに集団移転したい、あるいは世帯によっては隣の集落の移転先に行きたいとか、そのような要望がどちらの集落側からも出なかったのだろうか。もちろん出なかったのなら、わたしの杞憂である。

 井口市長が強調しておっしゃっていた、避難所も仮設住宅も元のコミュニティを維持できるように配置し、集団移転もそのように計画しているとて、それは誠に良いことである。
 だが、市町村を超えると県の役割となって、難しいことになるのだろうか。
 他の被災地では、このような例はあるのかないのか、どうなのだろうか。

 東北被災地では、市街地が行政境界を越えて連担する地域はなかったのかも知れないが、関東や東海道地域となると、そうはいかない。
 行政境界をまたぐコミュニティは珍しいことではないから、自治体を超える難しい問題があちこちで起きる可能性がある。

◆津波は行政境界に無関係にやってくるのに
 市境を挟んで南の岩沼側は、防潮堤、千年希望の丘、貞山堀土手嵩上げ、市道嵩上げという何重もの構えで守りを固めるのに対して、北側の名取市側では、千年希望の丘のような事業はないらしい。

 もちろん岩沼側でも防潮堤や防潮林を整備しているのを、わたしは見てきたのだが、千年希望の丘のような特徴ある計画はないらしい。
 両市の復興計画図を見ると、名取市北釜では交通結節点としてなにか開発的事業をやるらしい赤丸が画いてある。一方、岩沼市相野釜の方では千年希望の丘をつくるらしい。双方につながりはないようだ。

 ここに限らないが、沿岸部自治体の震災復興計画をみていると、行政境界で図がつながらないことがあちこちである。
 しかし、津波は市境とは関係なくやってくる。
 千年の丘や緑の防潮堤の有無で、その被害がどう違うのか、その時になってみなければわからないし、どのような方策が最上であるか誰もわからないだろうが、線の1本で隣り合う行政が異なる対策をとることが、わたしには釈然としないのである。


 こうなるとしょうがないから、こんどおいでになる津波さんには、市の境で別々に襲ってもらうように、お願いするしかない。

●全文は
宮脇昭提唱の森の長城づくりと行政の現場【岩沼市相野釜】
https://sites.google.com/site/dandysworldg/iwanuma-ainokama

参照
・地震津波核毒原発おろおろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

2014/03/17

908宮脇昭提唱の森の長城づくりの原点の森は横浜国大

 宮脇昭さんは、今86歳、東日本大震災の津波被災海岸部に、森の防潮堤を延々と築くことを提唱して、その実行にいまは老いの一徹のごとくに精力をかたむけている植物生態学者である。
 昨日(2014年3月16日)、横浜国大で「命を守る森の防潮堤ーこれからの展望」と題する講演会があった。ここは宮脇さんの古巣であり、彼のいう「本物の森」の最初の実践の地である。





 まだ落葉樹は葉がなくて寒々としているが、横浜国大キャンパスの常緑広葉樹の森は緑をたたえている。知らない人はこの森が人工林とは思わず、森を切り開いて大学キャンパスにしたと思うだろう。
実はここはもとはゴルフ場だったから、森ではなくて草原だった。そこに今では宮脇方式と言われる手法で、苗木を植えた常緑の森を作り上げたのだ。

 「まだたったの86歳です。120歳まで生きます」と、あいかわらぬ意気軒昂ぶりで、生態としての人間と自然のあり方をとうとうと説き続ける。
 わたしは最近は疎遠になったが、40年ほど前に知り合ってから、自宅にも研究室にもしょっちゅう訪れ、わたしがやっていた仕事で依頼した植生調査に一緒に行ったことも何回かあったし、ヨーロッパに植生調査団にも入れてもらって、彼の師のチュクセン氏を訪ねたこともある。

 その最初に会った頃と今とでは、彼の主張は「本物の緑を」と一貫しているのは、さすがであると思う。
 だが、最近はなんだか哲学の世界に入り込みつつあるようだ。いや、わたしはいつも現場からしかものを考えないのだ、机の上の哲学ではないぞ、と、怒られそうだが、現場の哲学である。
 少し耳が遠くなったのか、講演会の会場からの質問にすれ違ったお答えがあったりして、さすがに現場の鉄人も歳には勝てないらしい。

 この続きの宮脇さんと岩沼市長の井口さんの講演内容については、下記を参照のこと
宮脇昭提唱の森の長城づくりと行政の現場【岩沼市相野釜】
https://sites.google.com/site/dandysworldg/iwanuma-ainokama

2014/03/14

907【世相戯評】サッカー業界の摩訶不思議な無観客競技試合興業って真面目なの?

 スポーツ関係のニュースには全く興味がない。オリンピックが終わって、新聞の社会面にしゃしゃりでるスポーツ記事がなくなって、やれやれとおもっていたら、サッカーの記事がデカデカと出てきた。
 なんでも、サポーターとかって、サッカー競技場内に「japanese only」って書いた幕をたらしたとかで、ゴタゴタ。

 サポーターってなに? わたしが知っているサポーターってのは、スポーツ用猿股のことである。え、知らないの? あのね、男はぶらぶらすると邪魔だからキリッとまとめるんですよ。
サッカーするにも、そりゃサポーターを付けるんでしょうよ。それがどうした?
 てなことではないらしく、チーム応援団のことをサポーターというらしい。応援団は猿股なのか?

 「japanese only」って「日本人以外立ち入り禁止」って意味であることは、わたしでもわかるけど、サッカーでそれがどうしたのか? 
 観客席の入り口にそう書いた幕をたらしてあったらしいから、どうやらこのチームの応援団は、国粋主義者であるということらしい。ふ~ん、、。

 たかがサッカーごときで、そんな大げさな思想表明が必要なのかって、いや、もちろんヘイト垂れ幕はいけないけど、なんでそんなものがサッカー競技場に出現するのか、サッカーなるものを見たこともない私には、不思議きわまる現象である。
 その猿股が応援するチームには、外国人プレイヤーはいないのかしら。

 それにしても、その行為がケシカランってことで、それに対する業界(と言うのだろうか)トップから命じられた制裁措置が、「無観客試合」を行えというのが、なんだかすごいような、わけがわからんような、不思議な世界の出来事である。わたしの常識を超える。
 プロスポーツだから見せてナンボの興業に、客をひとりも入れないで興業しろって、たしかにアホらしさの極みの制裁であると思う。
 でも、そういうのって競技試合になるのだろうか?

 更にどうも分らないのは、競技試合ってのは独り相撲じゃないんだから、相手チームが必要なんだろう。
 その相手にされたほうは、もっとアホらししいだろう。なにか特別報酬をもらわないと、無観客競技試合なんてやってられないだろうと思うのだが、どうなんだろう?
 そうやって両方でアホアホの競技にならない手抜き試合をやらせて、何の制裁の意味があるのだろうか?   

 さらによく分らないのは、その幕を掲げたアホ猿股じゃなくてサポーターはともかくとしても、普通のサッカーファンにも見せないって、どういうこと?
 これって普通のファンも制裁されるに値する行為なのかしら?

 どこか一部始終が子供じみている。いい大人がやることかしら? 真面目なの?
 わけが分からんけど、ま、どうぞご勝手におやんなさい。


2014/03/11

906【地震津波火事原発】400年前に津波防災集団高台移転した東海道宿場町は今その教訓を生かしているか

 東海道五十三次の宿場町のひとつに、蒲原宿がある。駿河湾の一番奥に位置する街である。今は静岡市清水区蒲原となっている。
 先日そこの昔の宿場町で、まちづくり活動団体の集まり「しずおか街並みゼミ」が開催されるとて、なんの予備知識もなくて訪ねた。
 集まりが「防災」をテーマとするということなので、3・11大地震で日本列島本州東沿岸部の被災以来、かまびすしい地震津波対策を本州南沿岸部の街ではどうしているか、それを知りたかったのである。

 かつての蒲原宿の街は、本陣や旅籠跡のある街並みに、今も江戸時代の面影をわずかながら伝える風景である。
この蒲原宿あたりのかつての東海道筋は、海岸線に平行して400mほど山側を東西に走る。
 その道は南の海岸部の平地よりはかなり高い位置にあり、北側はすぐに山である。つまり、街は海岸から離れているのである。しかもこの宿場町あたりだけが、不自然に山側に回り込んでいるのである。
 ということは、昔の人は津波がやってくる海岸を避けて、宿場街をわざわざ地形的に高い位置に設けたのであったか、偉いもんだと思ったのだが、地元の方のお話を聞いて、そこには悲劇のドラマがあった。

 蒲原宿あたりの東海道筋は、江戸初期までは海岸低地を通っており、当然に宿場町も低地にあった。それが、1699年に台風高波による大津波が来襲し、街は壊滅して多くの死者をだした。
 そこで徳川幕府は、街道と宿場町をそっく、り今の高い位置に「所替え」させたそうである。つまり、今、本州東沿岸部でやっている「防災集団高台移転事業」を、400年前にやっていたのであった。なお、1707年には富士山が噴火した宝永大地震が来て、大きな被害があった。

 今の街の標高を見ると、宿場町あたりで海抜15~25m、所替え前の宿場町あたりは海抜10~12mである。高台というほどではないが、山裾の高い土地に移ったのであった。

 今では海岸には防潮堤が高く海から街を遮り、その際までびっしりと家々が立ち並んでいる。所替え前の17世紀までの旧旧東海道宿場町あたりも、今では住宅地である。
 江戸時代に所替えしたばかりのころは、海に近い平地部には街はなかったのかもしれない。いつごろまで街はなかったのだろうか。
 防潮堤がいつできたのか知らないが、これができてから、人々は安心してかつての津波被災の土地に住むようになったのだろう。

 東北でも三陸海岸部は、歴史的に何度も大津波に襲われており、そのたびに高台に集落を移転、まさに所替えをする。
 だが、高い防潮堤ができて、もう大丈夫と思って、時間がたつとまた低地に暮らすようになる。
 そして想定外の次の津波で、やっぱりまた被災している所が多いそうである。

 駿河湾自体がトラフであり、蒲原はそのトラフの真ん前だから、東海地震が起きると津波は0分でやってくるらしい。トラフが動くと地形が盛り上がって、津波を跳ね返すのだろうか。
 さて、蒲原宿では、その本州東沿岸部での3・11教訓、というよりも、かつて自分のご先祖たちが所替えになった400年前の教訓は、今、どう生かされているのだろうか。
 駿河湾の奥で、東海大地震による津波高さ予想値はいくらかわからないが、駿河湾に面する今の防潮堤が、江戸時代の所替えの教訓を生かした高さなのだろうか。3・11で見直しがあったのだろうか。

 蒲原の海岸沿いの街には高層ビルが見当たらない。防潮堤の上空に高架で通る国道バイパスは、防潮堤よりも高いから、津波の時にはこの高架の上に逃げるしかなさそうだ。そのためには非常用階段をたくさんつける必要がありそうだが、ついているのだろうか。
 わたしは昨年、南三陸町の被災後の海辺の街で、海沿いの高架道路が完全に壊された風景を見てきた。やって来る津波は橋の下を通り抜けたが、戻り津波がたくさんの家々などを引き連れて来たために高架橋にひっかかり、これに押されて壊れたそうだ。高架道路が安心とは言えないから、悩むほかない。

 東海道の宿場町では、蒲原宿のほかにも7つの宿場町が津波で所替えしたそうである。それらの街でも、今、どう考えているのだろうか。
 江戸時代と今とでは土木技術力が大違いだが、それでも三陸大津波のように、世界一の防潮堤さえももろかった。
 どこまで技術力で自然に対抗し、どこから自然に逆らわずに逃げるのか、そのあたりのことを江戸時代の所替えがあった街でこそ、生かす知恵がありそうだ、と思った。
 でも、そこのところは、じつのところよく分らなかった。

 実はわたしも横浜の港に近いところに暮らすので、他人事ではないのである。
 ここに来る前に住んでいた鎌倉では、相模湾から押し寄せる津波が届かない位置と高さに住んでいたが、引っ越してきたここは津波被害がほぼ確実にあるところだ。
 3・11以後に引っ越すなら、ここには来なかっただろう。とりあえずはビルの7階なので、ここまでは水は登って来ないにしても、足元の街の機能が失われるだろう。
 やっぱり気になる太平洋岸の街である。

 蒲原では、多くの方々にお世話になり、たくさんのことを教えていただいたことに、厚くお礼申し上げます。

参照⇒588『津波と村』海辺の民の宿命か
http://datey.blogspot.jp/2012/02/588.html

地震津波核毒原発おろおろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

2014/03/07

905【怪しいハイテク】携帯電話機に電話がかかってきてもウンともスンとも言わなくなった

 ドコノモンという携帯電話機販売店のお兄ちゃんとわたしの会話。
ド「いらっしゃませ、どのようなご用でしょうか」
私「あのね、この電話機がアホになり、かかってくる電話にウンともスンとも音を鳴らしません。どうしたんでしょう?」
ド「はいはい、ではちょっと開けてみますが、よろしいでしょうか?」
私「え~と、聞いてるのはわたしなんで、そういう修理の技術上のことを聞かれても、わたしはよろしゅうございますとも、よろしくないともお答えする能力がございません」
ド「あ、はいはい、ではここを開けて、やってみます」
私「よろしくお願いいたします」
ド「お客様、ドライブモードになっておりますよ」
私「それがどうしました?」
ド「ここに出ている自動車の小さいマークを消すとかかってくるようになります。消してよろしいでしょうか?」
私「わたしは技術上のことは分かりませんので、聞かれてもよろしいともダメとも返答できません」
ド「あ、はいはい、では消します。これでかかってくるようになりました」
私「はい、ありがとう。では次の件、どうも電池が弱ってるようなのですが、どうなんでしょう?」
ド「では電池をとり出してみますが、よろしいでしょうか?」
私「私に技術的なこと聞かれても、良いとも悪いとも、、」
ド「あ、はいはい、では電池を取り替えましょう。ご本人確認ですが、昭和から生年月日を言っていただいて、よろしいですか?」
私「そういう技術的なことを聞かれても、、あ、じゃあないか、、はいはい、あ、でもどうして昭和からなの、わたしは大正かもしれないよ、もしかしたら平成かも、、ま、いいや、19●●年●月●日」
ド「はい、電池を取り替えましたので、もう大丈夫です」
私「どうもありがとう、さて、では次の問題です。SMS返信はできるのに発信できません」
ド「では、わたしが発信をしてみますので、よろしいでしょうか?」
私「だから、そういうことを聞かれても、、、」

 お読みなる方もそろそろ嫌になっただろうから、老人と若者の会話はこの辺で打ち切りとする。
 若者は親切に対応してくれたなあ、マニュアル通りにしゃべってね。
 それにしても、この「文字画像音声送受信用携帯型無線機」(通称ケータイ)の画面に登場しているこの小さいアイコン群は、いったい何の意味だろうか?


2014/03/06

904【くたばれ乗用車】アホディの小型車の宣伝広告はおかしいぞ

 この写真の説明はこうである。
 「入り組んだ道の多い日本に、車幅1.795mm、常識を超えたプレミアムコンパクト」
 今朝の新聞広告である。
 アホディなる車屋さんが出したらしい。

 たしかに、「入り組んだ道の多い日本に、常識を超えた」広告である。
 これでもう言いたいことが分るだろうから、書くのを終えようかとおもったが、まてよ、こんな写真を平然と出す企業や広告屋や写真家たちだから、ぜんぜん分らないだろう。
 しょうがない、蛇足ながらつづきを書く。

 こんな写真の状態なら、歩いている人はどうするんだよ、車に轢かれろってのか、え? 家からも出られないだろっ。
 自動車ってのは、歩いている人間とぶつかると、絶対に勝つ、そしてよく人を殺すものである。だからこそ、自動車のほうが積極的に遠慮するべきなのである。どこでも行けばよいってもんじゃないんだよ。

 それをなんだよ、こんな細道でも入れるよって、お前は感覚がおかしいよ。
 そもそもこんなところに自動車が入るもんじゃないんだよ。緊急用の救急車か警察車なら別だけどね。
 以前にも、車屋の無神経な「人を撥ね飛ばす車BMW広告」に腹が立った。http://datey.blogspot.jp/2011/11/537.html

 どうせなら「車幅600mm、常識の乗り物」ってのを作りなさいよ。アホディさんよ。
 多分、アホディさんちの車は、人とすれ違う時は、幅60センチに縮んじゃうんだな。
 読んでもわからないかもしれないから、パロディパラパラ動画にしてみた。
 われながらヒマにまかせてアホなことをやっている。


2014/03/05

903【東京風景】東京の銀座の風景がこうなるとつまらない感じもする

 東京の銀座通りを歩くと、なんだかビルのスカイラインの調子が、デッコンヒッコンと激しくなりつつあるようだ。
 東京一番の土地がの値段が高いところだから、戦後は31mの制限いっぱいいに建てていたのを、今ではその5割増しくらいの高さに次第に建て替えているらしい。
 よくあるように、前を引っ込めて広場をつくって、ドドーンと超高層ビルを建てるってやり方じゃなくて、もとのビルをそのまま縦に引き延ばすやり方らしいのだ。
 どうも頭打ち高さ制限があるらしく、そこまで目いっぱいに高くしている。
 だからこれまでは四角だったビルが、幅がそのままに縦に細長くなるのである。
 いたずらパラパラ動画をつくってみた。みんなが目いっぱいに建て替えて、スカイラインの凸凹がそろうと、こんな風になるのかしら。
 よく言えば削っていない色鉛筆がびっしりと並んだようだ。悪く言えばぼろきれパッチワーク簾。
 なんだかつまらない風景のような気がする。

関連参照ページ
景観戯造

2014/03/01

902【山口文象】J・コンドルの和風建築と山口文象のモダン建築の出会い

J・コンドルの和風建築と山口文象のモダン建築の出会い 伊達美徳

◆コンドル、山口文象、キリスト教、労働運動

 ジョサイア・コンドルと山口文象の設計した建築についての展覧会が、2014年3月10日から東京の芝にある「友愛労働歴史館」で開かれる。
 日本の近代建築史をちょっとでも知っている人は、このあまりにも縁がなさそうな二人の建築家たちの間に、そして日本の労働運動の歴史との間に、どのような関係があるのか不思議に思うだろう。

 J.コンドル(Josiah Conder、1852 - 1920年)は、20世紀への変わり目を挟んで40年ほどを日本で活躍したイギリス人建築家、山口文象(1902-1978年)は、1930年代から戦争をはさんで40年ほど活躍した建築家である。
 年代的にもその出自からしても、あるいは極端に違う作風からしても、普通に考えると出会うはずもない。

 ところが、このふたりの設計した建築が、東京都港区の芝にある同じ敷地の中に立ち並び、太平洋戦争の空襲で焼けるまでの9年間ほど、今考えるとなんとも特異な風景をつくっていた。
 並んでいたのは「日本労働会館」と「青雲荘アパート・友愛病院」という。日本労働会館がコンドルの設計であり、青雲荘が山口文象の設計であった。
 どちらも財団法人日本労働会館の所有で労働者運動の拠点であり労働者のための福祉厚生施設であった。この財団のバックには、労働運動のナショナルセンターである日本労働組合総連合会(連合)がある。

 今はどちらの建築も消滅して、跡地には同じ財団によるオフィスとホテルの入る超高層建築が建っている。
 そのビルの一角に、財団が運営する「友愛労働歴史館」があり、その展示室で戦前の活動拠点であった消え失せた二つの建物について、その歴史を再発見しようと企画した展覧会を開くのである。 

 いろいろ聞いて、調べてみると、日本の労働運動とキリスト教活動は元は深い関係にあったのだった。
 コンドルが設計した日本労働会館は、前身はキリスト教会の「惟一館」であり、その教会が日本の労働運動を起こす源流となり、活動拠点となった場であり、山口文象が設計した青雲荘は、労働者のための本格的な厚生福利活動の源流となった場であった。

 コンドル、キリスト教会、労働運動そして山口文象という、一見したところ関係があるとは思えない人物と事柄が、実は深く結びついていることを知って大いに興味がわいた。そこで、ここに素人論考を展覧会の案内のつもりで、素人向きに書くことにした。

 わたしは山口文象についてはそれなりに研究してきたが、コンドルについては建築史ディレタントの域を出ないし、キリスト教と労働運動についてはまったくの門外漢も甚だしい。
 労働運動側の事情については、その歴史館事務局長の間宮さんにうかがった話、友愛労働歴史館サイトにある各種の資料、『財団法人日本労働会館六十年史』(1991、渡辺悦次著、日本労働会館)などを主な資料として記述する。

以下全文は「J・コンドルの和風建築と山口文象のモダン建築の出会い
https://sites.google.com/site/dateyg/seiunso

2014/02/26

901【老いゆく自分】今にボケ老人ネット被害対策が必要な時代がくるだろう

 隠居して数年たつと分かるのは、どんどんとEメールが減ることである。メールの数は、自分の社会とのかかわりの度合いをしめすことを、あらためて思った。
 今では、仕事してた昔からの関係学会や諸団体や仕事仲間からのメーリングリストが生きていて、それらから一方的にやってくるものばかり。
 それらに混じって、たまに遊び仲間からのお誘いメールである。そしてさらに稀に、原稿の依頼がくる。ヒマだから、どちらにも張り切って返事を書く。

 さて、そうやってメール付き合いが狭くなる中で、変らぬ愛をこめて大量のメールがやってくる。そう、ゴミというか、迷惑というか、エロというか、その類の代物は不滅らしい。
 毎日、200通くらいだろうか、もっとあるか、数えたことはないが、これが来るので、わたしもまだまだ世の中に大勢のつながりがあるような錯覚に陥る。

 いやまったく、どなたか知らないが、飽きもせずに、毎日毎日せっせとアホメールを送って下さる努力に、心から感服せざるを得ない。
 まあ、機械で自動的に送ってるんでしょうが、読まないのに送り付けていただき、ご苦労さん。
中には読んで反応してくるやつもいるかももしれないって、数撃ちゃ当るって作戦であろう。
 それにしても、その送る中身の文章などは、誰かが書いているのだろうし、いつも同じじゃ読んでくれないだろうから、あれこれと書き直して、努力しているにちがいない。


 わたしは、この数か月、それらアホメールの中身は読まないにしても、発信者とタイトルを毎日読まねばならない羽目に陥っている。
 nifty web mailメールアプリケーションに、何かおかしなことが起きているらしく、やってくるメールのすべてが、迷惑メール受信箱に入っているのだ。
 しょうがないから、発信者と表題だけ見て、読みたいものだけ正常な受信箱にとりだしている。

 アホメールの表題からみて、大きく分類すると、エロ系、薬品系、新技術系、金儲け系になるようだ。
 新技術系では、LINEなる通話システムと、TV視聴万能カードの売り込みが多いようである。
時代によってアホメールも進化するというか、時代を先取りしているというか。
 一時、中国かららしい読めない漢字アホメールが多かったが、最近はないのはどういうわけか。

 なかに、ウィルスバスターなるアプリケーションの宣伝メールがくる。
 なんだかしょっちゅう書き直しているらしく、「これが最後」、「もうすぐ終了」、「今だけ」なんて、表題に書いているのだが、それがもう1年以上も続いている。なにが、今だけ、だよ~、アホ。

 実人生で足が衰えて街なか徘徊ができなくなると、WEB徘徊バーチャル人生になるだろうと、これは実感している。
 孤独な老人のつながる世間は、机上の四角なガラス板を通してのWEB世界に限定されていって、そのメール友達も次々と消え去るとき、飽きもせず送ってくるアホメールだけが世間とのつながりになるかもしれない。

 そうなると、アホメールのひとつにでも反応して、返事を出してみようかなんて、半ボケ頭で思うかもしれない。初期認知症WEB徘徊となって来ると、エロやらサギやらのメールに誘われて、新たなバーチャル人生にさまよい出るかもしれないなあ。
 そこには何が待ち受けているのだろうか、楽しみであるし、こわくもあるが、さまよい出る当人はぼけているから、なんだかよく分らないままでいるのだろうなあ。

 そうか、今はネット利用超高齢老人は稀だろうが、もう10年もしたらネット徘徊被害ボケ老人対策が必要になるのだろうなあ。
 振り込め詐欺師のみなさん、今のうちですよ、半ボケ老人をネット経由で誘い込んで、ネット経由で貯金を振り込ませるのは、、。あ、もうやってるかもなあ、気を付けようっと。



2014/02/25

900【くたばれ自動車】なんだかこの列島に生きていくことが嫌になってくる世だなあ

 ラジオを聞いていたら、NHKのお知らせかなにかで、アナウンサーがこうしゃべっていた。
車を運転する人は、老人を見たら早めにブレーキをかけて、思いやりのある運転をしましょう
 猛烈に腹が立った。

 おいッ、俺たち老人は、「思いやられる」って立場なのかよ、、あんた、「思いあがって」るんじゃないよっ!
 車ってのは、生身の人間とぶつかったら、絶対的に勝つ凶器なんだよ。刃物と同じなんだぞ。
 刃物を持った奴らは、弱い生身の徘徊老人のことを、可哀そうなやつらだ、しょうがないからここで止まって待ってやるか、もたもたしないで早く歩けよ、なんて「思いやって」くれるんだな。
 たしかにお強いでしょうから、上からの視線で見下して思いやっていただきまして、おありがとう存じます。

 ラジオは続けてこうも言った。
お年寄りの方は、無理な道路横断をしないで、遠回りでも横断歩道を歩いて渡りましょう。
 あのなあ、横断歩道があんまりにも遠いし、近くにはえっちらおっちら上り下りする横断歩道橋しかない。しょうがないから、足が痛いので無理しても近くを横断してるんだよ。
 そんなこと言うのなら、道路の全部を横断歩道にしろよ

 更に、こうも言った。
横断歩道では、青信号でも左右をよく見て渡りましょう
 はいはい、ありがたいご忠告です。車って凶器を持ってるやつには、もう相手は狂人だと諦めて、青だろうと赤だろうと道を譲り、近寄らないってことですね。もう、外を歩くなってことですね。
 そうだ、昨日だったか、名古屋でレンタカーを借りて、これを凶器にして歩いている人たちをひき殺そうとしたアホ狂人がいたなあ、あ、ちょっとまえ、秋葉原にもでたなあ、たしかになあ、、。アメリカの銃乱射とおなじだな。

 こんどからこう言ってくれ。
自動車は凶器です、運転手は狂人かもしれません。出かけるときは、歩かないで、あなたも凶器に乗って、狂人になって出かけましょう」
 大昔に、映画館で見た短編ディズニー漫画に、歩いているときは物静かな紳士だが、いったん車に乗るとむちゃくちゃ運転する動物の主人公がいた。ウォルトは未来を見通していた。

 とにかく、バカや狂人から思いやりを受けるような車社会のこの世、そして大震災と原発核毒被害にまた出会うらしい近未来、さらに海を隔てた隣と不仲でまた戦争容認するこの列島からは、早くおさらばした方が幸せと思うようになってきた。

 おもいだしたが、昔、こんなことを書いたことがあった。
横断歩道橋は素晴らしい 
https://sites.google.com/site/machimorig0/hodokyo