2016/05/18

1193【東京徘徊】おやおやあの赤プリがボテ太りビルになってしまい今や東京は超高層建築さえも次々建て替える時代

東京の赤坂見附あたり、緑濃い弁慶掘りから眺める風景が、以前より大きく変わっている。
 あの屏風の切れ端のような超高層ビルだった赤坂プリンスホテルが、別のビルになっている。
 赤プリ建築は丹下健三の設計で1983年に建ったから、今や超高層ビルだって30年ほどで壊されて別のビルになる、そんな時代が来ているのか。
 そういえば日本超高層ビル草分けのひとつ、浜松町の貿易センタービルも建て替えが始まるとか。

 赤プリ跡の新しい施設の案内看板によれば、名前は「東京ガーデンテラス紀尾井町」といい、ホテル、オフィス、商店、共同住宅棟の複合開発のようだ。
 ここは崖地である。徘徊ヤジウマはさっそくこの崖地建築に入りこんで、昔のように崖の下から上の永田町まで通りに抜けでてみよう。
 でも建物の中をエスカレーターで登っても面白くもないので、弁慶掘り沿いに坂道階段が作ってあるので、そこを登って行くことにする。

弁慶掘を眺めると右手前に赤プリを建てなおした超高層オフィスホテル棟、
右向う隣りはホテルニューオータニの超高層、
左向うにはやはり超高層を超高層に建てなおした鹿島の本社ビル
面白いのは弁慶掘側の斜面緑地と江戸初期の石垣である。それらを修復して、新たにウッドデッキの緑道を設けてある。緑と石垣と弁慶掘りとその向こうの東京の街を眺めながら登るのは、なかなかよろしい。
 江戸城外堀の弁慶掘から立ち上がる石垣は、江戸城の赤坂門の一部である。1636年に福岡黒田藩が築造を担当したから黒田の家紋である裏銭紋を、石に刻印しているのが見える。
 そのような17世紀の江戸城の固い守りの城門の石垣に、20世紀の高速道路がズボッと突っ込んで攻め込むさまがが面白い。
江戸城の城門のひとつだった17世紀の石垣に
20世紀の高速道路がトンネルで攻め込む
石面に見える丸い刻印は石垣築造担当の黒田藩の紋

江戸時代の話になったので、ちょっとこの地の歴史をおさらい。江戸時代は徳川御三家のひとつである紀伊和歌山藩徳川家の中屋敷だった。もちろん今の西武鉄道関係の土地だけではなくて、麹町まで広かった。
 19世紀半ば過ぎて明治維新後は、皇族の北白川宮家の土地になり、20世紀の初め1910年日韓併合で朝鮮の李王家が日本皇族に取り込まれて、この地に邸宅を持った。その一部が、赤坂プリンスホテルの一部になっていた。

 そして20世紀半ば過ぎ、1959年に西武鉄道の堤康次郎がこの地を手に入れて、プリンスホテルを開業する。堤は各地の宮家の土地を獲得して、その宮家のメタファとしてプリンスをブランド名とするホテルを作っていった。これについては、都知事でミソつけた猪瀬直樹『ミカドの肖像』に詳しい。
 更に21世紀の初め2011年、巨大地震と津波の東日本大震災事件、そのときここが被災者たちの避難先の一時住まいとなったという歴史も忘れてはならないだろう。
江戸切絵図に現在の主な土地利用状況を書き込んだ
 さて崖上に登って、気になっていた旧李王家の邸宅(1930年築)の無事を確認した。これがなくなったら、この場所の歴史的意味を目で確認しにくくなるから、とりあえずよかった。
ただし、どうも昔とは位置が違うような気がする、前庭がもっと広々していたのが、いかにもせせこましい。これは曳家して移転したのだろう。
 この崖地の再開発は、プラン上ではいろいろと工夫があるのだろうが、新しい2棟の超高層建築もその外回りのデザインも、特に面白くもなんともない。写真を撮る気にもならない。
曳家して修復活用する旧李王家邸
2年振りくらいだろうか、坂上からこのあたりの街を眺めると、あちこちに高層ビルが建っていて、景観がずいぶん変わった。
 遠望しても覚えていた高層ビルの姿が見当たらないから、どこがどこやらわからない。だが、変わらないのは弁慶掘に沿う常緑樹林と、その項影を落とす堀の水である。
 旧李王家邸も、変わらないもののひとつと言ってよいだろう。

 もうひとつ変わらない面白い景観がある。
 旧李王家邸の真向かいに、このあたりで稀有と言ってよい木造住宅が建っているのだ。
 オフィスビル街のこの戸建て住宅を以前から気になっていて、今日もまだあるだろうかとやってきたら、おお、健在である。
 狭い敷地に小さい平屋の古家ながらも、立派な樹林を従えていて、道の上に枝葉を伸ばしている。
 人が住んでいるのかどうかわからないが、何かの事情でここに建ち続けているらしい。これからも建ち続けてほしい。

左に旧李王家邸、右に謎の小さな森の木造住宅
この上下の空中写真を比較すると旧李王家邸がかなり移動したことが分る





2016/05/13

1192【時事戯評イチャモン】身潰し自動車と日惨自動車の喜悲劇、オバマ大統領のお伊勢参りと広島原爆観光

【身潰し自動車と日惨自動車の喜悲劇】

 なんだかオカシイよなあ、乗用車の燃費詐欺なんて、その数は数台なんてなもんじゃないし、売ってきた年数だって去年からなんてなもんじゃないよ。
 その車を買って乗ってりゃ、燃費が違うなあって、だれでも分りそうなもんだろうに、身潰し乗用車に乗ってる人は、みんなみんなおバカさんなのかい?

 身潰し自動車がいちばんオカシイのだけど、もっとオカシイのは日惨自動車だな、OEMかなんかで身潰し自動車が作った車を売るんだから、当然に検査してから売ってるのかと思ったら、無責任にもそのまま売ってたんだなあ、ここもおバカさん。
 ということで、これはもう作る方も、売る方も、買う方も、み~んなおバカ同志で、これまでず~っとハッピーだったんでしょ、愚者の幸福という。

 それがここへきて突然の不幸のどん底とか、フン、いい気味だよ、わたしは乗用車に乗らないからね。
 でもねえ、もしかしたら、この事件は、日惨自動車が仕組んだ、企業買収劇のような気もする。
 だってさ、身潰し自動車の詐欺を暴露したのが、ほかでもない提携している日惨自動車だよ、仲間を売ったんでしょ、国際競争社会は仁義なき戦い。
ウヒヒヒ、ウマクイッタナア~、♪ゴ~ン♪


【オバマ大統領のお伊勢参りと広島原爆観光】

 今は5月のさわやかな日本、オバマUSA大統領がお伊勢参りにやってくるとか。今年で任期がおわるので、お礼参りだろう。
 志摩でお土産に真珠を買い、ついでに世界あちこちの首脳政治家たちと会談して、つづいて広島に行って牡蠣ともみじ饅頭を食い、ついでに平和記念公園の観光をするらしい。
 日本ではトップ大ニュース扱いである。

 ところがその本家のUSAでは、オバマの後釜の大統領を決める選挙戦の最中で、栗きんとん3ダースがどうとか、トランプ占いがどうとか、USAメディアはそちらのニュースで連日もちきりらしい。 
 だから、もう死に体の今の大統領がヒロシマに行くなんてどうでもよいって、マスメディアの扱いはごく小さいのだそうだ。そんなことをニューヨーク在住の人が電話でしゃべっているのを、ラジオで聞いた。
 
 オバマが戦中の核爆弾投下を謝るだろうか、なんてのが日本では話題だが、オバマとしてはUSAでそんなことが話題になりそうにない、今の時機を狙って広島行きなんだろう。
 上梓切手に考えると政治家のオバマは謝りっこないよなあ、広島に行ったことで核廃絶へのポーズを取ればいいんだからね。

 むしろ、JAPAN政府としては謝られたら困るでしょうね、だってそうでしょ、そうなりゃお返しにパールハーバーに謝りに来い、なんて言われるでしょ。
 更に話は広がって、南京とかマニラとかから謝りに来いってなると、こりゃもうアベサンがいちばん嫌がることでしょ。

 ジーセブン首脳会議とか言うから、ジーさんばかりかと思ったら、メルケルなんて婆さんもいるよ、オ婆マもいるよ、ジジババセブンって言いなさいよ。
 オバマ氏は、ご先祖が出た地(?)の小浜市を訪れるのだろうか。あ、それとも横浜(オーハマ)かな。良い気候なのに、伊勢志摩寒いッと、さ。


2016/05/09

1191【横浜ご近所探検隊が行く】死者のための空間と生者のための空間のせめぎあいが面白い墓地の景観

●日本の表現主義デザインの墓標

 五月晴れのすがすがしい日、今日の徘徊は、ヒョイと思い出して、こんなものを観に行った。
おお、これは目いっぱい表現主義ですねえ、よくまあこんなものがこんなところに。
 実はこれは墓標である。こういう表現主義の造型は、1920年代あたりに流行したから、その頃に建てたのだろう。
 そこは横浜のけっこう中心部にある広大な市営「久保山墓地」(1874年開設)の中、その名はそばに建つ碑に「無縁供養塔」と書いてある。縁者のない死者たちを葬った共同墓だろう。

 ネットで調べると、当時の雑誌「建築新潮」に載っていて、設計者は山本外三郎(聞いたことがない)、1925年にできたとある。その頃に横浜で無縁の死者が多く出たとすれば、1923年の関東大震災であろう。
 石本喜久治の卒業設計「涙凝れり(ある一族の納骨堂)」(1920年)を連想、更に山口文象の「丘上の記念塔」へと飛んだ。そういえば丘上の記念塔も、関東大震災の記念塔提案だった。
 外国では、有名なメンデルゾーンによる「アインシュタイン塔」(1921年 ポツダム)である。

 広大な墓地の石の森の中にある、この無縁の死者のための墓標に偶然に出くわしたのは、2008年のことだった。今回、また見ようとやって来たが、広大な墓地のどこにあったやら分らない。
 あれから8年、高低の激しい石の森を彷徨する脚力が、今のわたしになくなった。もう探すのをあきらめて、わたしも墓地の世界に近づいた。だから写真は8年前のものである。

 わたしは墓とか墓場に興味があるのではないが、もうひとつ面白い墓碑を見つけた。軍服姿の石彫刻人物である。おお、リアルだよなあ、戦死者への哀惜の情がこれを作ったのだろう。
 そばにある読みにくい碑銘に明治37年という文字を読み取った。1914年の戦争と言えば、第1次世界大戦である。欧州大陸が戦いの場だったが、極東の中国大陸の青島(チンタオ)で日本軍は漁夫の利を得る戦いをした。そこで戦死者だろうか。もう100年もこうやって、丘の上から遠くを眺めて立っているらしい。
もう100年余もこうやって立ち尽くす戦死者の石彫象のうしろに
みなとみらい21地区にある超高層建築が墓石となって寄り添う
●あの世とこの世が出会う景観の面白さ

 なにしろ久保山墓地は、12.6ヘクタールもある広大さ、14000もの区画があり、丘陵の稜線から派生する大きな二つの尾根から谷底にかけて、傾斜地形なりにびっしりと墓石群が覆う様は、石づくりの網がかかっているようだ。
 その墓地の周りの傾斜地には、これまたびっしりと小住宅群が尾根と谷を埋め尽くす。その向こうに「みなとみらい21」の超高層建築群が、これまた墓標群のように立ち並ぶ。
尾根と谷を埋め尽くす墓標は、はるか向こうの「みらい21地区」まで続く
昔々は、墓地は生活空間と混然としていたような記憶がある。大きな屋敷内には墓地もあったし、田畑の一角にいくつかの墓石が建っているのも当たり前だった。あの世の人のための場所も、この世の人の世界と交わっていた。
 今や都市の墓地では、もう存在しない人間のための墓地の空間と、それを取り囲んでいる存在する人間の生活空間とが、互いにせめぎ合いながら接して、なんとか折り合いを見つけようとしている様子である。東京都心でもそんな景観に、ひょいと出会うのが面白い。
急傾斜墓地の周りは新旧の急傾斜住宅地
 墓地の過密超低層石造柱列群の森林の中から石塔を透かして見ると、その外にはこれまた超過密低層木造住宅群の森があり、その森の上から更に向こうにこれまた過密超高層ガラス建築群の林が樹幹を並べているのが見える。
 林立する超高層建築群はモダンな墓標となって、あの世とこの世は時間も空間も地続きになるのがオカシイ。「みなとみらい21」は、墓標の街となる。
石塔墓標群と超高層建築群の区別がつかない
石と鉄とガラスの新旧墓標が建ち並ぶ
いかにももっともらしくなるのがオカシイ(これは戯造画像)
それを空中写真で見ると、墓石群と住宅群とは、じつは要素の大小の違いあれども、実は相似形のようであるから、人間はあの世でもこの世でも大差ない棲家にいるのである。
 この世の空間が自然発生的に地形にすがりついているのに比べて、あの世の空間の方が都市計画的に構成されているのが、実に面白い。
 ふむ、生者よりも死者の方が管理されているのであるか。
久保山墓地とそれを取り囲む急傾斜の住宅地
久保山墓地から東にみなとみらい21地区の超高層群が見える

●ここは大災害のときに大丈夫なのか 

 生きているときは坂道だらけの住宅地で、日当たりは悪いし、買い物に行くのも大変だった。横浜にはそのような住宅地がいっぱいある。この久保山墓地周りもそうだ。
 だが、死んだ後は、狭いながらも道は整い、小さいながらもまとまった石造共同住宅に住んでいて、日当たりも見晴らしもよいようだ。
 そうだ、身よりもない死者は、あのカッコいい表現主義デザイン共同住宅に住むことだってできるのだ。

 ところで、最近は天変地異の災害が多い。いまも、熊本で大地が揺れ続けている。
 この墓地は、急傾斜地を骨壺とコンクリと石塔が覆い尽くしているのだが、大地震が来たらどうなるのだろうか。
 この密集する石の林が倒れると、足の踏み場もないありさまになるだろうし、重いから片づけるのも容易ではない。死者はもう死なないにしても、まわりの被災した生者たちが、ここに避難することもできない。
 豪雨が襲ったら、一挙に谷底めがけて洪水が集まってくるだろう。下流の住宅地はどうなるのだろうか。調整池を作ってあるのだろうか。死者が死者を生み出す恐れはないのだろうか。
 墓地が被災するときは、まわりの急傾斜住宅地は大被災だろう。

 わたしは死後の世界を全く信じないから、生者の心にしか存在しない死者のために、これほどに広大な空間を維持しなければならないのが、なんとももったいないと思う。
 墓地内の一角に超高層共同墓を建てて骨をそこに集めてしまって、生じる土地を公園と住宅地にすればよさそうなものだ。そうすれば、墓参りだって広い墓苑の狭い高低差のある道を行き来しなくてもよくなるし、そのビルに火葬場も組み込んでおけば余熱を地域冷暖房に利用できる。
 死者のための空間が、生者が生きるための空間になることに、死者は文句を言うまい。死者よりも生者を大切にしたい。(あ、念のために書いておくけど、マジメナ冗談ですよ)
中央に見えるのは横浜市内にある根岸共同墓地
そのまわりのアメリカ軍用住宅地と日本民間住宅地を比較すると、、

2016/05/02

1190【横浜ご近所探検隊が行く】みなとみらい地区に結婚式場が4つもできてそんなに結婚する人がいるのかしら

 久しぶりに横浜MM21新港地区散歩、桜木町から汽車道をゆけば、左手運河向うに派手な景観が広がる。
 半月形のホテル、西洋館風結婚式場建築、巨大な遊園地観覧車、中華風ドラゴン船、なんだかここらあたり全部が遊園地になってしまったようだ。

 反対側の汽車道の右手運河向うは、ただ今開発中の北仲通り地区。おや、ちょっと見ぬ間に、なにやらずんぐりとしたビルが建ちあがっている。
 なんだろう?、囲いになにか書いてある。
 「遊びゴコロある大人の為のコンセプチュアルウェディング」
 

え、なんだい、またもや結婚式場かい、汽車道を挟んで左右対決ってか、へえ、「大人の為の」ねえ、でも「子どもの為のウェディング」ってあるのかなあ、。
 あちらは派手派手なのに、こちらはなんだか地味な格好であるなあ、それでも帝蚕倉庫イメージの延長かなあ、ま、そうやって違いを強調か。
 そういえば、残った2棟の帝蚕倉庫のうちの1棟を、ただいま取り壊し作業中だったなあ。
汽車道を挟んで両岸に向かい合って結婚式場対決
最近できた商業施設があるらしいので、ぶらぶらと新港埠頭近くに歩く。
 ワールドポーターズと赤レンガ倉庫の間をつなぐ位置、新港埠頭の横の水際に、なんだか倉庫街を模したようなデザインのである。エイジングも施してあるようだ。
「MARINE  & WALK YOKOHAMA」と名付けてある。
 オープンの中庭を囲むように、2層の建物に各種の特色ある個店が顔を出している。今日は休日とて、けっこうな人出である。これはちょっと懐かしい感じがある。
MARINE & WALK  YOKOHAMA


80年代に海外のウォーターフロント開発を調査する旅に、なんどか行ったことがある。あのころ有名なラウス社の開発もたくさん見た。ちょっと思い出してみようか。
 バンクーバーのグランビルアイランド、ニューヨークのサウスストリートシーポート、サンフランシスコのピア39、ボストンのファニエル・ホール・マーケットプレイス、ボルチモアのインナーハーバー、サンディエゴのシーポートビレッジ、シドニーのダーリンハーバーなどなど、どこも楽しいところだった。今はどうなってるんだろうか。
 もっとも、わたしは見ただけで、日本じゃバブルパンクでひとつも実現できなかった。

 それらをふと思い出しだしたのだが、それは中庭の雰囲気だけのことで、なにかが物足りない。一番大きなそれは、海辺なのに海との接触が薄いことだろう。
 前の港はプレジャーボートが浮かぶような誰もが近づく海ではなく、立ち入り禁止の鉄柵の向こうにあるのだ。ここにヨットが浮かび、漁船が出入りして、市場があるとずいぶん面白くなるのになあ。もったいないなあ。
マリンウォーク前の港の海、左向うが新港埠頭
  もうひとつの問題は、この施設まわりが空き地で、これにいちばん近い商業施設の赤レンガ倉庫までも、公園を挟んでけっこう離れていることだ。ワールドポーターズとも半端な近さだ。それらとの動線をもうすこし楽しく演出があるとよいのだが、。
これからこのあたりの空き地に、何か新たな商業開発が出るのだろうか。
 わたしが上にあげたいくつかの外国の例の内、ここでやってほしいのはサンディエゴで見たシーポートビレッジ型の開発である。昔、そのような開発を横須賀の造船所跡地でやろうとしたが、結局は大きなショピングセンターになってしまった残念な想い出がある。
横浜みなとみらい21新港地区あたりの空中写真
 アレッ、ここにも結婚式場ができているぞ。
おや、おや、北仲地区にもできると驚いていたら、ここにもまたひとつ既にできてしまっている。新港地区ではこれで4つめってことになるのか。多過ぎるような。
 ちょっと調べてみてわかったけど、このあたりは結婚式場だらけになってきた。人口は減るし、若者は結婚しなくなってるし、そんなに需要があるもんだろうか。
 まさか海外アジア人観光客の結婚式対象じゃあるまいなあ、いや、あるかもなあ、日本人が外国で結婚式やってるんだから、中国人が日本でウェディングの時代かも、うん、面白い。
 
赤丸印が結婚式場施設
  でもなあ、これからは結婚式よりも、葬式の方がはるかに需要がありそうな気がするのに、あまり見かけないのはどうしてかなあ。
 海辺で葬式ってよさそうだけどなあ、そうだ、冠婚葬祭どれでもOKってのはいかがですか。今日は結婚式、明日は葬式、こちらの会場は告別式やらお通夜、その隣の会場では結婚披露宴、、ついでにその隣には離婚披露宴、、これなら人口減少時代にも経営安定か、、。



2016/04/22

1189【地震津波核毒おろおろ日録】ヒビ割れだらけ日本列島で天災人災から少しでも安全そうな地域をネット徘徊で探す

●天も地も右も左も上も下も大揺れの日々

 災害は忘れぬうちにやってくる。
 熊本を中心にして九州のお方たちは、いま、揺れる大地におそれおののいておられることでしょう、心からお見舞い申し上げます。
 日本列島では、お見舞い申し上げる立場が、明日は逆転して申し上げられる側になるのが、悲しい。
 
 「地震雷火事泥棒」と言っていた日本伝統の災害番付は、今や「地震津波原発ミサイル」と言い換えなければなるまい。
 日本列島のあちこちで地震が起きると思ったら、あれから5年でまたまた九州で大地震、そして太平洋の向うの南米でもおきて大勢の人が死んだ。
 火山の噴火も奄美とか箱根とか桜島とか阿蘇とか、煙を派手にあげる。
 負けてはいられぬと地震ナマズが奮い立って、熊本あたりで大地震を起したらしい。次はもうちょっと南に寄って南海トラフで暴れるぞって、ナマズも健在を誇示している。
 ヒビワレ煎餅かコナゴナ硝子板かの日本列島は、はたして人間が住むところなのか。

きな臭いのは大地ばかりじゃなくて、人間の方だよなあ。集団的自衛権行使問題なんて、東京のあたりを震源地にして、人間ナマズが暴れている。
 北方の海の向う半島付け根あたりから、日本列島の軍事基地とか核毒発生施設(原発のこと)めがけてミサイルが飛んでくるかもしれない。基地と原発からから遠くに住みたい。
 もう、この日本列島では、どこにに行けば安心して暮らせるのか、皆目分らない。
 外国に逃げ出す金力も気力もないしなあ。

●日本列島で比較的安全なところは、あるか?

 ということで、しょうがないから、せめて日本列島の中で暮らすに、ちょっとは安心できそうなところを探しに、これからネット徘徊にでかけよう。
 その条件は次のようである
(1)地震がないって無理だろうからせめて他と比較して少ないところ
「日本全国広域 最新30日間の震央分布図 (独立行政法人防災科学技術研究所)」
 http://www.hinet.bosai.go.jp/hypomap/

1923年~2013年のM6以上の地震発生地図
http://kojishin.iinaa.net/jishinmap6.html#

(2)海で地震があっても津波がやって来ないところ
「国土交通省 津波ハザードマップ」
http://disaportal.gsi.go.jp/viewer/index.html?code=4

(3)噴火する活火山から遠いところ
「国土交通省 火山ハザードマップ」
http://disaportal.gsi.go.jp/viewer/img/japan/s6.gif
「内閣府防災情報 日本の活火山分布

(4)核発電所から遠いところ
「全国の原子力発電所の周辺人口(2005年)埼玉大学谷謙二研究室」
 http://ktgis.net/tohoku_data/genpatsu/
このページはスゴイ。
 
(5)軍事基地から遠いところ
これがアメリカ軍の日本での基地の分布

 もちろん、このほかに気候とか地形とか便利さとかもあるけどね。
 ということで、これをお読みのあなたは、どこかよさそうなところが見つかりましたか。

●地方創生は安全な地域であることからだな
 
 ところで、上に見た地図類は、どれもこれも危険なものがある場所を示すものばかりである。しかもこれらを一緒にした地図がないから、安全な地域を探すのがけっこう面倒である。
 どうして安全地図というか、逆ハザードマップがないのだろうか。誰か作ってくれるとありがたいのですが。

 近ごろ、痴呆じゃなくて地方創生なんて政策で、日本列島でだんだん減っていく人間を、各地域で奪い合う作戦を練っているらしい。こちらの地域こそいいところだと宣伝するのだろう。
 そこでこういう宣伝したら効果あると思いますよ。
 こちらの地域は昔から地震は少ないでのすよとか、つい最近大地震がったから100年以上は無いでしょう、とか。
 海から遠いから、絶対に津波はきませんよ、とか。火山からも遠いですよ、とか、核発電所から200キロ以上離れていますよ、とか、米軍基地も自衛隊基地もありませんよ、とか、。
 それを見ると、きっと移住してくる人が増えるような気がする。そんな地域逆ハザードマップを作ってはどうですか。
  
 実は、わたしもそう言う想いでいろいろなハザードマップを見ていて、わたしはなんとマヌケなんだろうと気が付いたことがある。
 それは、わたしが捨てた故郷が、日本列島の中でも有数の安全な地域らしいのである。今ごろそれに気が付くとは、なんとも皮肉なものである。
わたしが捨てた安全な故郷は高梁
 それでも、わたしには、身近に安全な場所があることを知っている。
 それは、あの世である。死んでしまえば安心も安全もないもんだ。
それを思うと気楽なもんだ。

●参照:地震津波核毒おろおろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html


2016/04/20

1188【五輪騒動】神宮外苑地区計画の変更原案を東京都で縦覧中、その内容から妄想する都市計画の公益性とは?

●新国立競技場がらみの都市計画変更原案がでてきた

 新国立競技場がらみの都市計画の変更原案が、東京都と関係3区で縦覧に出ている。5月6日までに、意見書を出すことができる。
 新国立競技場がらみの都市計画である、外苑地区地区計画が決まったのは、2013年6月のことであった。そのときは誰も意見書を出さなかったので、原案通りに決まった。
変更計画の新旧比較一覧
色つきの3地区が今回変更あり、その他は変更なし
 ザハハディドの案がなんだか問題になってから、あの都市計画はオカシイ、高さを高くし過ぎたとか、霞ヶ丘都営アパートを廃止して公園にしたのがケシカランとか、いろいろな人が騒いだ。
けれども、法律上の手続きはとっくに終ってしまっていたから、いくら言っても後の祭りであった。なんであの時言わなかったのか。
 それに懲りて、こんどこそはこの変更案に、誰か意見書を出すのだろうか、どうだろうか。都民なら意見書だす資格がある。

 この前のときに、新国立競技場に関係する国や都、区の土地ばかりか、神宮外苑やその周囲の一部の民有地までも、一つの地区計画に含まれていた。
 オリンピック主会場として建設するために急いでいる新国立競技場関係の土地のところは、内容を決めて都市計画決定したが、そのほかのところは、どさくさまぎれにかどうか知らないが、内容は決まらないがとにかく地区計画の区域に入っておこうということだったらしい。
 
 そのときは内容が決まらず形式的に区域に入っていただけの外苑ハウス部分が、実体的に内容が決まったことと、JOC・日本青年館敷地の北隣の三角公園跡地あたりの既に決めたところも変更があるとて、その内容を書き込んだ地区計画の原案を作ったので、変更の都市計画決定をしたいというのである。

 三角公園あたりは、地区施設の広場に設定されており、そことJOC・日本青年館敷地との間には、外苑ハウスの敷地の一部が挟まっている。
  この縦長にまとまった土地を、JSC・日本青年館とJOC・岸記念会館の2つのビル敷地にするように変更するそうだ。地区施設の三角公園広場も、敷地の一部であるらしい。
2016年4月に縦覧の外苑地区計画変更原案の変更対象地区

●外苑ハウスの地区計画の詳細が決まったらしい
 
 新国立競技場とは関係ない民間共同住宅の外苑ハウスは、これまでは詳細が決まっていなかったのを、追加変更した。
 現在の容積率は200%、これが400%に倍増する。現在の高さ制限は30m、これを80mにするとあるから3倍近い。かなりの緩和である。
 計画では、敷地の一部であるスタジアム通りに通じる通路状の部分(図の)が、上記2ビルの敷地に取り込まれたので、その分の敷地面積(400㎡程か)が減少するようだ。土地売買があるのだろうか。

 敷地がスタジアム通りに面しなくなって、裏の狭い幅4mの区道に接するだけとなり、そのままでは建替えが不可能となるはずである。どうするか。
 その対策であろうが、外苑西通りから入ってくる区道を、4mから12mに拡幅するとしている。拡幅るための用地は、都営住宅跡地の明治公園である(図の)。その長さは80mとあるから、640㎡、つまり都市公園の面積がそれだけ減少するのである。
 
 敷地内の北境界沿いに幅6mの歩行者通路、同じく南境界沿い幅4m以上の緑道、西の道路沿いに幅4mの歩道状空地、敷地西寄りに1000㎡の広場、同じく南寄りに400㎡に広場を、それぞれ設けることとしている(図の緑色部分)。
 つまり、容積と高さの緩和は、これらの地区施設となる空地を敷地内に設けて、これを一般に公開することと引き換えになるのであろう。

●外苑ハウス建替えで街の環境が大きく変わる

  ここまでは外苑ハウスがらみの地区計画変更の中身を紹介したが、ここからわたしの個人的コメントを書く。
 念のために書いておくが、わたしはこの地区のあたりにも、ましてや外苑ハウスにも、何の関係もない。単なる都市計画フリークの閑な老人のボケ遅延防止策として、なにやかにや勝手に考えて書いているだけであることを、おことわりしておく。
 ただし、公益的な都市計画であるから、関係のない一般市民がそれについて書いても、許されるであろうと思っている。

 外苑ハウスの容積率や高さの規制緩和は、敷地内に設ける二つの広場や緑道、歩行者通路、歩道状空地という公開しなければならない地区施設と引き換えであろう。それらが相互に引き換えに相当する価値があるのかどうかは、わたしは分らない。
 しかし、そのその地区施設によって、この地区及び周辺市街地環境がかなり変化することは確実だろう。
 現在の外苑ハウスは、表通りからは奥まったところにあり、まわりを金網で囲ってあって、近寄りにくい建物だった。いわばゲーティッドコミュニティである。
右が現・外苑ハウス、この狭い裏の区道は拡幅しないが、
右の敷地側に4mの歩道状の空地を作るから広くなる
地下鉄外苑前駅に抜けるこの狭い裏道は人通りが大幅に増えるだろう
ところが建て替えると、建物外部の敷地の大半は、公開しなければならない地区施設になるので、敷地の多くは広い開放空間となる。
 しかも、一階には住宅以外の賑わい交流施設も導入するとあるから、建物への一般の人の出入りも多くなるのだろう。
 北隣りは公園だから人の出入りは自由、東隣のJOCやJSCなどのビルの敷地もまわりに緑道や歩道上空地の地区施設をめぐらすし、西からの区画道路を拡幅するなど、この外苑ハウス敷地にまわりから流れて込む人の動線はかなり太いものになりそうだ。

 とくに新国立競技場から地下鉄外苑前方面へ流れる観客の動線が、こちらに大量に入ってくることだろう。ここから南へと区道も人通りが多くなり、これまでの静かな裏町ではなくて、かなり賑わうことになるだろう。
 このさき、都営霞ヶ丘住宅跡地に新霞ヶ丘広場ができて、外苑ハウスまわりの広場や緑道が整備されて、狭い道路が広くなると、この裏道がどう変わっていくか、おおいに興味がある。
外苑西通りから外苑ハウスへのこの区道は左に拡幅して3倍の広さになる
左は廃止されて公園になる都営住宅、正面に現・外苑ハウス

●オリンピックは公益に寄与するのか

 一民間施設である外苑ハウスという共同住宅が、なぜ新国立競技場がらみの都市計画にはいっているのか、わかりにくいのである。実は今もわからないので、そこを考えてみる。
 外苑ハウスに再開発等促進区をかけてまで、その建て替えを都市計画で応援する公益的意味があるのか。
 都市計画とは、公益のために行うものであるから、それによって私権への優遇をするなら、かならずその公益的見返りが必要である。つまり、建築の規制緩和は、その規制強化と対になるものである。これを通称「アメとムチ」という。

 外苑地区計画の区域を見ると、外苑ハウスの敷地は半島状に突出していて、不自然なゲリマンダーに見えるのである。ここだけがなぜ飛び出し半島状に指定するのはどうしてか。
 その隣の学校や、裏道の向うの寺院や住宅地は、なぜ地区計画の区域に入っていないのか、整備しなくてもよいのか、
 これが提案型都市計画だから、提案する地権者に入っていなかったからだろうけれども、提案を受けて都市計画を定めるのは東京都である。提案のままでよいのか。
 なぜ外苑ハウス建て替えに、都市計画という公益性が賦与されるのか。

 そこでわたしは思案したのだ。オリンピックは公益に寄与する事業だから関連する事業も公益であるのであろう、たぶん、そのように一応の仮定をするしかないのである。
 JOCや岸記念会館ビルは、オリンピック推進に関係が深いらしい。そのビルを建てる用地を確保するために、外苑ハウスのスタジアム通り側の一部(図の)を必要とする。外苑ハウス側としても、ちょうど建て替え時期が来ていたので、それにひっかけたい。そして交渉の末に、その提供と確保が成立した、のであろう、たぶん。
 これが公益的必要性の理由だろう、たぶん。

 で、その敷地減少に見合うように、容積率をかさ上げしたのだろう、たぶん。いや、敷地を売った土地代が入っているハズから、それもおかしいなあ。
 でも、それだけでは外苑ハウスが納得しなかったのだろうなあ、たぶん、だから地区施設の整備も合わせ技にて、容積率も高さもかなりの緩和をして、それで手を打ったのであろう、たぶん。と、これが公益的理由かもしれない。でも、、、

外苑ハウスは都市公園法も許す公益上特別必要か

 ところで、外苑西通りから入ってくる区道を、幅4mから12mに拡幅しているのはどうしてだろうか。
 これは、たぶん、前面道路幅が狭い4mでは外苑ハウスの建替えが法的に不可なので、取り付け道路として12mに拡幅するのであろう。
 だが、その拡幅用地として公園用地の一部(図の)を充てたことについては、どう解すればよいのだろうか。
 一民間共同住宅の建替えのために公園用地をつぶすのだから、その土地代と道路工事費を、外苑ハウスが負担することになっているのだろう、たぶん。

 そしてまた気になるのだが、都市公園面積の減少を禁止する都市公園法16条にいう例外措置「その他公益上特別の必要がある場合」に該当するのだろうか(参照:追記2)
 だって、外苑ハウスって一民間共同住宅の建て替えのためですよ、これが「公益上特別必要」かなあ、でもまあ、なんせオリンピックの日本総本山JOCビル建設のためだもんなあ、ってことかしら。
 そして、都市公園の都市計画変更も必要なように思うが、なぜその変更原案が、今回だされていないのだろうか。
 
 なお、外苑ハウスを地区計画に入れて、建て替えを促進している理由のひとつに、オリンピック競技場まわりのテロ対策があるかもしれないって、わたしの妄想については既に書いたから、ここで繰り返さない。
http://datey.blogspot.jp/2016/04/1185.html

 最後に、まだ詳細が分らないが、ここで土地区画整理事業を行うそうだ。区画整理とは、土地の入れ替えをしたり、道路や公園をつくる都市計画事業である。

 でも、都市公園用地の確保と言ったって、都営住宅跡地をそっくり移管するだけのことだ。
 土地の入れ替えがあるのは、図ののところだけである。
 道路を作るのは図ののところだけだが、これも都営住宅跡地の一部を移管するだけだ。ほかには区画整理するべきところがない。
 まあ、工事をするってことはあるが、それをわざわざめんどうな区画整理事業にとりこんでやる必要はないだろう。
 事実上たった一か所の土地移動だけのために、シチメンドクサイ手続きのある土地区画整理事業を施行するのは、なぜだろうか。
 まあ、その理由についてある程度は想像はつくが、どうもオカシイ。
 
●話を簡単にまとめるとこうなる
 
 地区計画と土地区画整理事業という都市計画を使って、ひとつの民間共同住宅ビルの建替え事業を行う。
・外苑ハウスが敷地の一部(図の)を、JOCビルの敷地に譲ることにした。
・そうすると外苑ハウスの前面道路幅員が4mになって建て替えが不可能となる。
・そこで外苑西通りから入る区道を都市公園用地(図の)を充てて12mに拡幅する。
・外苑ハウス敷地内に広場や緑道を設けて容積率と高さを大幅に緩和する。
  
 これを外苑ハウス建て替えに関する公益と私益で考える。
・公益に資する件は、外苑ハウス敷地のなかの地区施設である緑道や広場である。これは私益にも資する。
・私益に資する件は、容積率と高さの大幅な緩和である。
・公益を私益のために資する件は、の道路拡幅である。

 普通の共同住宅建替え(通称マンション建て替え)は、その敷地が未利用分の容積率を使うことで事業採算を成り立たせる。
 ところが外苑ハウス建て替えは、容積率も道路も建替え不可能な条件にあるところを、都市計画を使って可能にする。ものすごい荒技で、さすがにオリンピック便乗はスゴイ。
 これを前例にして、このあたりは次々に地区計画の範囲をゲリマンダーに拡大して行き、どんどん都市計画変更して容積率や高さを緩和していくのだろう。うまいことやるものだ。
 このような都市計画を都や区の都市計画審議会が、どう審議するか楽しみである。
  
 このあたりで妄想をいったんおしまいにする。
 この神宮外苑あたりの都市計画に、わたしは何の関係もないのに、その一部分の外苑ハウス地区だけでも、いろいろと分らないことがあって、実に楽しく妄想できる。
 老人のボケ遅延策になってありがたい。これからも続けたい。

(追記1 2016/04/21)
 念には念を入れて書き添えておきますが、上の一文は、この都市計画について、わたしが疑問に思ったことを、ひまにまかせて書き連ねているだけのことです。これをお読みの方は、わたしが外苑ハウス建替え反対運動をしていると解されたら、それはまったくの誤解です。それについては賛成とか反対とかいう立場にありません。そのための都市計画の公共性を懸念しているだけです。念の為。(まちもり散人=伊達美徳

(追記2 2016/05/25) 
 フェイスブックでAtsumiさんという方が教えてくださったのですが、(図の)の部分は実は公園用地指定になっていませんでした。都営霞ヶ丘アパート用地を公園に指定するとき、予めこの部分を除外してあったのでした。都市計画決定の図が小さくて、その部分を判別できなかった、わたしの判断の誤りでした。したがって、都市公園法上の問題はないのでした。
 

●参照:五輪騒動まちもり瓢論
 http://datey.blogspot.jp/2016/04/1185.html


2016/04/16

1187【地震津波火事核毒】もういいかげんにしてくれ~未練はないけどこの世をいやになっちゃうよ~

 こんどは九州で大地震がただいまどんどん発達進行中である。こわい。
 なんだか震源地が北東に進んでいて、もうすぐ四国にわたって伊方原発直撃だろうなあ。
 そして南西にも進んで行けば、薩摩川内原発を直撃、おお、どうするのだろうねえ。
今さら核発電をやめても、完全に危険でなくなるまでには何十年、何百年もかかるとかで、こうなったら毒を食らわば皿までって覚悟して、あきらめの境地でこの列島でよろよろと生きて行くしかないのかなあ。

 ちかごろ身に覚えがあるだけでも、1995阪神淡路、2004中越、2007中越沖、2008岩手宮城、2011東日本+福島核毒、2016熊本・大分、もういいかげんにしてくれ~
 どこか安心して暮らすことができる所をおしえてくれ~。あ、そうか、一番手軽に行けるその地をおもいついたぞ、そう、あの世である。

2016/04/10

1186【大阪傾奇き建築・その2】継承される絢爛桃山風ファサードは何のアイデンティティの表徴なんだろうか

 大阪にあった新歌舞伎座と言う芝居小屋は村野藤吾のデザインだったが、これを高層ホテルに建て替えるにあたって、その建築に村野デザインを継承する話【大阪傾奇き建築その1】の続きである。
 で、その新登場するホテルの名は、「ホテルロイヤクラシッ大阪」(仮称)だそうである。長たらしく面倒だから、ここでは「HRCO」と言うことにする。
HRCO計画図(事業者公開資料を引用して作成した)
●歌舞伎座とつけば東京も大阪も隈研吾か
 東京の歌舞伎座は、もとの場所で腰巻コピーして、超高層ビルを従えて、隈研吾デザインで再登場した。ところが、大阪の新歌舞伎座は、名前と興業内容はおなじでも、まったく別の場所にまったく別の姿で再登場したのである。
 東京歌舞伎座はあの岡田信一郎から吉田五十八へ、そして隈研吾へと継承されたデザインがアイデンティティとなっていたのに、移転した大阪新歌舞伎座では、あの村野デザインの絢爛桃山風の衣装を脱ぎ捨ててしまって、全く継承していない。

 古来の唐破風は、格式の高い意匠として、格式ある建物正面や、貴顕専用の出入りのための正面の門の意匠として、中央部に孤高を保って位置するものなのに(近代になって遊郭や風呂屋でも)、これは軒唐破風が左右にも上下にも連続して、まるで簾のごとくに建物を覆って大盤振る舞いのである。
 その逸脱ぶりは、まさに歌舞伎ならぬ傾奇である。その傾奇くデザインを、なぜに新・新歌舞伎座は継承しなかったのか、そのことも傾奇現象のようにも思えてくる。
 関西での歌舞伎上演は大阪松竹座と京都南座であったから、名は似通っていても歌舞伎と新歌舞伎座とが結びついていない奇妙な現象(これも傾奇か)、結果としてこのようなことになったのだろうか。
 
 そのような大阪の土壌において、大阪新歌舞伎座の桃山風連続唐破風と欄干ファサードを、そっくりそのままHRCOにコピー腰巻にするようだ。いま腰巻と書いたが、絵をよく見ると御堂筋の表側だけのようであるから、腰巻ではなくて相撲取りの化粧まわしというほうが適切なようだ。
あの特異なファサードをコピーするのだから、このHRCO設計は当然のことに村野・森建築事務所の後継「MURANO design」であろうと思った。ところが、ホテル事業者の株式会社ベルコによるプレスリリースでは、設計は隈研吾建築事務所と鹿島建設だそうである。
 エンジニアリングは鹿島が担当であろうから、以前の建物では村野と大林でどちらも地元大阪出身だったが、こんどはどちらも東京であるのが違う。

 隈さんと言えば、あの東京の歌舞伎座をデザインした建築家である。そこではエンジニアリングは三菱地所と清水建設が担当したのであった。
 ほう、あの歌舞伎座とほとんど同じ手法の使い回しで、HRCOの下半身にはもとの姿コピー化粧まわし、上半身にはアルミの白いタワーを建てるのである。下半身は傾奇いていても、上半身は端正で傾奇くことはない。
 その手慣れた手法で、基本的には東京歌舞伎座の真似である。あ、いや、同一人のデザイン手法だから真似ではないな。 
東京の歌舞伎座と歌舞伎タワー
HRCOのカイラインに髷が見える

 でもアレッ、よく見ると白い箱タワーのてっぺんに、髷のような三角が載っているぞ、そこが東京の歌舞伎座とは違うから、真似ではないようだ。上半身もちょっとだけ傾奇いているようだ。
 そうかなるほど、髷を結った力士が白い裸体に化粧まわしを締めて、すっくと立った姿であるか。化粧まわしの寸法が、もうちょっと高いほうが格好いいけどなあ。これじゃあ、ずり落ちたパンツだ。

●村野の継承ならば許される堂々のコピー
 ところで、この村野意匠コピーは、デザイン盗用にならないのだろうか。たぶん、そこは隈事務所はMURANO designに、それ相応の仁義を切っているのであろう。
 それにしても、このコピーぶりは尋常ではない。あの特異極まる形をそっくりそのままである。何のアレンジメントもないように見える。建築家の創造性はどこに行ったのか。
 これについて上記のプレスリリースに、「設計者(隈研吾氏)のメッセージ」があるので引用する。

「国内外から多くの人々が集うような、新たなミナミのランドマークとなり、観光都市大阪の発展に貢献する建物となることを目指しました。
 建築家 村野藤吾氏の代表作であり、長い間大阪ミナミの「顔」でもあった新歌舞伎座の意匠を継承しました。我々はそこに奥行き感があり繊細な表情を持った高層部のデザインを行い、新旧の調和のとれた建物となるよう計画しました。

 おお~、正面切って堂々と「新歌舞伎座の意匠を継承」、つまりコピーであると言う。そしてその理由は、村野の代表作であること、ミナミの顔であったことを挙げている。でも、村野のこのファサードデザインに対する評価は何も言っていない。
 「村野藤吾氏の代表作」との表現をもって、髙い評価と読むこともできるけれども、隈研吾はそう思っているらしいが、これを村野の代表作とするには一般的にはかなり無理があると思う。どうもコピーの言い訳に聞こえる。村野教信者は多いから、予防線を張ったか。
 なんにしても、継承となればコピーもOK、だからここまでは隈研吾デザインではないと宣言。

 そしてまた、新歌舞伎座とのアイデンティティの表現でもないのは、上に述べた様に、既に新歌舞伎座は別の姿で他に移って興業を続けているからである。
 隈研吾としてのデザインは「奥行き感があり繊細な表情を持った高層部」にあり、下層部の村野の旧建築コピーに、この高層部デザインを調和させたという。
 こここそ隈研吾のデザインであるから、明確に高い評価を与える表現をしているのであろう。
 さて、調和しているかどうかは、現物ができてみないとわたしにはなんとも言えない。

●上半身こそが隈デザインってことか
 では同じ手法の東京の歌舞伎座も、「奥行き感があり繊細な表情を持った高層部」だろうか。下半身に旧デザインコピー、上半身には白いハコという組み合わせは大阪も同じだが、大きな違いは上下の正面の面位置(つらいち)の距離である。
 東京では上層部の面は、下層部のそれから20m以上奥に離れているから、コピー再現部はかなりの大きさで元の姿を独立的に見せているので、継承の度合いは高いといえよう。
 しかし大阪のこのHRCO計画図を見ると、上層部と下層部はほぼ同じ面位置である。下も上も一緒に見えてしまって、これでは「奥行き感」がないのである。
HRCO事業者が公開した計画立面図

 そこでクマさんは考えたのですな。その上下の間の一階半分の高さを奥に引っ込め、暗いガラス張りにして、上下を切って見せている。そしてそこに千鳥破風が嵌るようにする。
 この破風はちろん、村野デザインの継承である。村野が屋根の中央にこれを設けたのは、東京の歌舞伎座へのオマージュかもしれない。
 戦前の岡田信一郎デザインだった東京の歌舞伎座は、左右に切妻破風を従えて、中央に高く千鳥破風が立ち上がっていたのを、戦後の吉田五十八改修で失われたのだが、それをここに復元する意図だったのかもしれない。

 上下を分ける中間を少し引っ込めて、転換のキイとして千鳥破風を入れるとは、なかなか上手い手法のように見えるのだが、異種をつなげる場合の建築デザインの常套的手段でもある。
 見上げると千鳥破風の後ろには鏡面ガラスがあり、奥行きが2倍に見えるのかもしれない。だがその上には、その上層階が突出してかぶさっているので、「奥行き感」はは出にくいなあ。
 なんにしても、その千鳥破風よりも上にある上層階部分こそが隈研吾のデザインだろう。なにもない単なる白い箱として、下層部のキンキラキン桃山風唐破風群と極端に対比する作戦は、東京歌舞伎座と同じである。

 だが面白いのは、その唐破風と入母屋破風の上に乗る白い箱を見上げると、その最上部スカイラインになにかトンガリ庇が浮いて見えるのである。おお、これは左右の長さが異なる流れ破風である。最上部にあらたな現代風の破風をもつ庇を浮かばせた。
 東京ではただの箱でスカイラインは水平線であるのと比べて、ここが違う。下半身の傾奇にちょっとだけ対抗するように、上半身もちょっと傾奇いているのだ。
 破風のある屋根をモチーフにしながら、その現代的アレンジで新たなスカイラインを形成することで、村野デザインへの敬意と隈研吾としての創意を表現したのであろう、と、一応は良い方に評価しておこう。まあ、帝冠様式だな。
 でも、何か傾奇き足りないよなあ。

●伊達の眼鏡ブログをクマさんが見てたのかなあ
 ここまで、もっともらしい解説をダラダラとやってきたのは、実はここで話を“お笑い”に持ち込むためである。
 というのは、わたしがこのブログに、かつて東京の歌舞伎座の建て替えで、隈研吾デザインの姿が登場したときに、そのデザインをちょっと茶化して書いたことがある。その一部を引用する。
(●参照:839新歌舞伎座のタワーの頭に千鳥破風でも載せてちょっとはカブいてほしかった

傾奇デザインがお得意な建築家・隈研吾の出番は全くない。隈さんはあちこちにデザインについて発言されているようだが、実態的には保守系デザインがお得意な三菱地所設計の作品と見るべきだろう、と、思った。
 まあ、考えようによっては、和でも洋でも右でも左でも?どんな傾向のデザインでもできる隈研吾さんにとっては、これは彼の傾奇デザインのひとつには違いない。
 そのカブかない歌舞伎座建築の特徴は、歌舞伎タワーである。晴海通りの向かいから眺めて、黒い瓦屋根の上に建つ白っぽいタワーは、雨もよいのくもり空に巨大に建っていた。
 これまたカブかないデザインであることおびただしいのは、これは歌舞伎芝居の黒衣(くろご)のつもりなのだろう、いや、これは白衣というべきか。まあ、黒衣ならカブくわけにはいかないだろう。
 しかし、せっかく隈研吾さんのデザインなんだから、あのドリックオーダーがぎょろりと突っ立った出世作のように、タワーの頭に千鳥破風(岡田信一郎デザインにあった)でも載せた「傾奇タワー」にしてほしかった。こうすればようやくモダンデザインと伝統デザインが対決して、隈さんの現代建築家としての力量を発揮できたのだろうに、と思うのである。
  では、ちょっとやってみようか、戯れに、、。
東京の歌舞伎座の実物画像とわたしの戯造画像
というわけで、こんな冗談を描いていたら、
大阪では本当にそれらしいことをやるらしい。 
 ことのついでに大きなお世話だけど、
どうせコピーやるなら、ここまでやったらどうですか~?

こんな戯画を作ったのは、実は思い出したことがあるからだ。
東京駅赤レンガ駅舎保存論争が盛んなとき、
丹下健三がこの類の提案を出した。
あの赤レンガ建築をあの幅で高さ100mまで積み上げて、
テッペンに復元ドーム屋根を3つを乗せるってね、
青山の丹下事務所でその模型を見ながら、
丹下さんに説明を受けた記憶がある。
超高層時代における辰野金吾先生を継承する
歴史的建築再生のありかたはこうだ、と。
もう、30年ほども昔、1980年代の半ばのことだった。
う~ん、思い出す丹下案戯造、ほぼこうだったような、、
駅前広場全体に人工地盤が2階レベルまでかかっていて、
そのうえに建っていたような気もする。