2019/09/27

1421都市プランナー田村明の呪い…いつだれが解くだろうか

都市プランナー田村明の呪い
いつだれが解くだろうか
伊達 美徳

●横浜B級都心生活街暮らし

 都心隠居と称して横浜都心部に住み、地上20m空中陋屋借家から地上に降り下って街を徘徊する日常である。
   三方を丘に囲まれて一方が港のこの街は、19世紀半ばの開港後に形成されたから、歴史的にはたいして古くはないが、わたしは出自は建築史で、建築設計の後に都市計画に転向して飯を食っていたから その眼で見ると実に多彩で興味が尽きない。
 近ごろは横浜都心に観光来街者がものすごく多いのだが、それは港の辺りや中華街の関内エリアばかりであり、わたしの隠居する関外エリアはごく普通の商住混合の生活街である。アジア系外国人住人が多いのが、いかにも港町横浜らしい。

 徘徊には、そのA級観光街の関内にも行くけれども、むしろ人間臭いB級生活街の関外である。興味深い場所の例を挙げると、現役ドヤ街の寿町、元娼婦街の黄金町、昔の永真遊郭街、下町日韓エスニック横浜橋商店街、現役風俗店街の曙町、高架道路下の石川町三角街と堀川・中村川、あちこちの戦後復興の防火建築帯を辿るのも面白い。
 高層共同住宅が多い普通の都心生活街だが、なんとも奇妙な個性的な味があちこちに埋め込んであるので、歩き飽きず見飽きないのである。
横浜都心部

●石川町三角街

 さてその中で石川町三角街(わたしが勝手に名づけた)をここで紹介する。そこは関内と関外の境目で、堀川・中村川に接するあたり、JR石川町駅前で、1970年代以降に都市計画で造った街である。空から見ると3角形の街であるが、三角が大きすぎて地上ではそうとわからない。

 ある日の徘徊中に広い駐車場に四方を囲まれた中に、金網で囲った小さな児童遊園を発見した。こんな悪環境で子供を遊ばせるのかと不思議に思い、ちょうど出てきた子連れの母親に聞いたら、近くに建っている大きな高層共同住宅(通称マンション)と駅の下にある保育園の専用の遊び場だと言う。開発関連の提供公園らしい。

 見まわせばぐるりと高速道路の高架でとり囲まれていて、ここは首都高速道路石川町ジャンクション真っ只中である。どちらを向いても自動車走行の騒音と振動がひっきりなしに降ってくるし、目に見えないが排ガスもすごいに違いない。高速道路だから昼も夜もそうだろう。
   それに加えて鉄道高架もある。こんな悪環境の中の高層共同住宅に子供と共に住む人がいるのだと驚いたが、その母親には言わなかった。

山手のイタリア公園から俯瞰する横浜都心部

首都高羽横線と狩場線の石川町ジャンクション三角街

首都高と鉄道高架の中の街

都市計画がつくった街

 ここは首都高速道路の横羽線と狩場線の2ルートが出会って、三角形のジャンクションを構成している。地下から出てくる路線と、空中を走る路線とが高架でTの字に出会うとともに、地上からの出入りランプウェイもあるから、道路は平面的には3角形だが立体的には地下地上空中で重層交差する複雑な形状で、数十匹のトグロ巻く蛇のスパゲッティである。

 その三角地を首都高の高架道路の城壁が囲み、中には都市機能がそろっている。JR根岸線高架鉄道と石川町駅、商業施設つき超高層共同住宅ビル、中小共同住宅ビル、学校、保育園、小店舗、葬儀場、児童遊園、大駐車場、一般道路、河川等が、どうみても都市計画的とは見えない配置で建っている。この街には城壁をくぐって入る。
 この高速道路が都市計画事業であることから、そのなかの土地利用も都市計画によるだろうから、つまりこの三角街は横浜の都市計画の産物であるはずだ。
駐車場と高速道路高架の中に建つ高層高額共同住宅ビル
トグロの中の高層高額共同住宅

四百戸の超高層オクション

 これ等の中で高層住宅と学校が、主な大規模な施設である。生活と教育の場という都市の重要な機能を持っている街であることがわかる。
 それらがこのジャンクション(1990年開通)ができる前からあったのかと調べたら、どちらも後から建ったのだった。高層住宅ビル(2001年完成、23階建て、395戸)は高速道路の蛇にトグロ巻かれて建ち上っているが、実はトグロの中に自分から入り込んだのであった。そのような中の住宅での暮らしは、どのようなものだろうか。

 最近の中古販売広告に、この高層住宅が通称オクションで売り出されているのを見つけた。この騒音・振動・排ガスの中にあっても、駅前の便利さを買うのだろうか、元町や山手に近いのがイメージ誤解をよぶのか。
 実は横浜都心の中でこの場所は、この劣悪環境もさることながら、すぐ隣は寿町ドヤ街であって、決してイメージは高くないから、なんとも不思議きわまることである。
鉄道高架と高速道路高架の谷間に建つ小・中学校

●生徒六百人の小中学校
 
 学校(2010年、幼稚園、小・中学校、生徒592人)は、山手の静かな環境にあったのを、わざわざこの悪環境に移転してきたのだそうだ。変形三角敷地にある校舎と校庭は、2辺を高速道高架に、もう1辺を鉄道高架に囲まれている。教育環境としてこれがよいのだろうかと思う。
 JR駅前だから生徒集めの学校経営上で好ましい立地として選んだのかもしれないが、このような悪環境で学ぶ子供は、もしかしたら都市計画に目を向けてくれるかもしれないと期待するしかない。

 その学校敷地の一辺の高速道路を隔てた外側には大きな公園があり、これはジャンクションと合せて作った都市計画公園だろう。土地利用の常識からは、この公園を学校用地に、今の学校用地を駅前広場と公園にするべきだったろうと思う。
 この公害溢れる三角街の中に、六百人余の幼児児童生徒が毎日やって来るし、五百戸ほどの大小共同住宅に千人以上が住んでいることになる。都市計画で高速道路はつくったが、土地利用には計画性がない悪例だろう。

●上空を覆われた河川

 ジャンクションの高速道路は高架だけではなくて、地下から高架に登ってくるルートとのとりあいになっているから、地上部にもかなり高速道路があり、半端な残地もおおい。せめて高架下や残地を緑地や公園にすればよいのだが、どこもかしこも空いているところは裸の駐車場ばかりで、なんとも殺風景きわまりない街である。石川町駅前にはせっかく広い公開空地を設けてあるのだが、その上空は高速道路で覆われている有様である。

 ジャンクション高架の三角形の1辺は、堀川・中村川の上空を覆いつつ、港方面と内陸方面の2方に延びる。川の上の高架は水辺の環境保全にも景観上でも邪魔なばかりか、川沿いの住宅地に騒音排ガス振動を振りまいている。川の両岸に高架を支える柱を建てて上空に高架道路をべったりとあるいは2段構えに通しているから、まるで大きなムカデが川の上を跨いで居座っている感じである。川に架かるいくつかの歴史的意義のある震災復興橋梁などの特色あるデザインも、これでは台無しである。

首都高が股を広げて上空を覆った堀川(元町付近)

首都高が上空を2段構えに覆う中村川(中村町付近)

参考:首都高に覆われていない大岡川の春

●都市プランナー田村明の仕事だった

 さて、なぜこのような奇妙な街が横浜都心に、都市計画によってできたのだろうか。それはたぶん、街を作ることは二の次にして、高速道路をつくることを主目的にしたからだろう。ジャンクションの土地の大部分は国有地と河川敷きだったから、まわりの少ない民有地も含めて街区再編成による適正な土地利用策があったろうにと思う。

 高速道路は都市計画事業でありながら、その土地利用はこんな奇妙な状況であるのは、まさに都市プランナーが不在であったのだろう。その横浜で都市プランナーと言えば、田村明である。横浜市在職中(1968~81年)に飛鳥田市政の下で横浜の街づくりに腕を振るった人である。
 田村が、都市プランナーとして采配を振ったいわゆる6大事業のひとつに、この高速道路計画があった。このジャンクションはその一部である。田村はこの石川町ジャンクションづくりに大いに関わったのである。

 このジャンクション開通は、田村が横浜市を去って9年後だが、その計画段階で石川町にジャンクションを決め、堀川・中村川の上空に高速道路を通すことにしたのも、まさに田村明が深くかかわった仕事だった。
 田村がこの計画に取りかった時にすでにルートは都市計画決定されていた。横浜駅・桜木町方面から大岡川を越えて、関内関外の境の派大岡川上空をJR根岸線に並行して石川町に至り、堀川の上空を港方面へ抜ける高架のルートだった。そのルート上の関内駅前の上空位置にジャンクションを設けて分岐し、大通公園の上空を内陸部へ南に伸びるルートをつくる計画であった。

 この都心部上空をTの字に横切って走る高架構造物が、関内関外の都心市街地空間を3つに分割し、しかも都心部の真ん中に三角のジャンクションができるのである。これには地元商店街はもちろんだが、当時の飛鳥田市長が「眉間の傷」になると言って大反対、田村がその解決にあたったのであった。
高速道路都市計画既決定ルート 中心部の三角が眉間の傷
(『都市プランナー田村明の闘い』田村明2006年より)

●田村明の闘い

 田村はこの都市計画決定していた派大岡川上空のルートの、分岐ジャンクションの位置を関内駅前から隣の石川町駅周辺に、そして分岐ルートを大通公園上空から堀川・中村川上空のルートに、それぞれ変更したのである(1970年都市計画変更決定)。同時に、派大岡川上空の高架としていた高速道路を、高架ではなく川を空堀にしてその底に通すことにした。
  その頃の都市計画決定権限は横浜市にはなくて県にあったが、事実上は国の建設省にあったから、横浜市長の意思による変更は難しいことだったが、田村の大仕事だった。

  こうして高速道路を都心周縁部に追いやって都心心臓部の景観の保全をしたのであると、この変更の目的を田村の自著にしっかりと書いている。詳しくはそちらに譲るが、飛鳥田市長に外から迎えられた都市プランナーが、市庁内の抵抗を納め、建設省テクノクラートの圧力を乗り越え、対案を検討して実現計画に至るのだ。もちろんこれは市長の強い意向のもとにインハウス都市プランナーとして田村が動いたのである。

 田村の自著だから当然のことに田村からの視点による計画評価であって、建設官僚側の考えはよく分らないが、官僚をヤッツケタという書きっぷりが痛快である。だが、どんな案がどのように検討されたか詳細が分からないから、どこか一方的な自慢話の感もある。
既決定都市計画を変更後の高速道路のルート(1970年変更決定)
(『都市プランナー田村明の闘い』田村明2006年より)
実現した都心部高層道路ルートを俯瞰  
左から地下を来て横浜球場右辺りから地上に出て中村川上空の高架となる
 しかしながら現実を見ると、それでうまくいったとは言えないのである。高速道路が地下のまま都心を抜けるのではなく、途中で地上に出てきて石川町駅と堀川・中村川あたりは、トグロ蛇と巨大ムカデが街の周りも上空も覆ってしまっている。関内関外の区間の半分以上は上空に高架が走るので、その周辺の環境と景観は大きく損傷したのである。

 そしてこの変更計画を選んだ田村もそれを予測しており、こう書いている。「中村川の上を通るのは景観的には問題だが、他の案よりはましだ(『都市プランナー田村明の闘い』田村明著2006年 学芸出版社 84ページ)
 さてこれをどう考えようか。

●変更前ルートのほうがましだった

 田村は気軽にこう書いたのではなかろうが、「ましな案」は都心部を鳥瞰したときにはその中枢部の傷(眉間の傷)にはならないが、こめかみと片頬の傷になっている。
 そのこめかみと頬の地の住民は、「ましな案」によって傷ついたのであるが、実はわたしも若干ながらもその傷を受けているひとりである。

 わたしの住む空中陋屋のバルコニーから眺めれば、200mほど向うに中村川上空の高速道路が山手の緑の景観を横断し、行き交う大型コンテナ―トラックの騒音が日夜聞こえるのだ。この10年ほどで高速道路の手前に建った高層共同住宅ビル数棟が、遮音壁となってくれて騒音は減った。だが、その騒音・振動・排ガスを受け止める共同住宅を、わざわざ買って住む人たちがいるのが不思議である。
わたしの住いから見る山手の緑を上下に分ける中村川上空の首都高高架
 
 わたしから言えば、あの高架が既決定ルートの大通り公園上空にあれば、わたしの家からそちら側は高層ビル群で視界が遮られているから、騒音は全く聞こえないはずだった。
 もしも今、わたしがここに住んでいて、この都市計画変更の騒ぎが初めて起こったとし、今現実になっている変更ルート案が出されたならば、わたしは地域エゴイズムとして反対運動にかかわっていただろう。

 これは鳥瞰的な行政計画に対して、虫の目的な住民の立場である、と書いて思い出した事件がある。飛鳥田時代の横浜で起きた「横浜貨物線反対運動」である。地域エゴイズム正当論を振りかざし、直接民主制を標榜する革新市政と真正面対立した市民運動が、1960年代中頃から15年間も続いた。田村がこれに関わったのかどうか知らないから、これ以上は書かない。(参照:『いま、「公共性」を撃つ : 「ドキュメント」横浜新貨物線反対運動』新泉社 1975年)

 ●田村明の呪い

 田村明が「他の案」という変更計画ルート案はいくつもあったことだろうが、詳しくはわからない。それらの中には、石川町ジャンクションも堀川・中村川上空ルートも、全部を地下にする理想案が、当然あったろうと思う。
 例えば、派大岡川の空堀から地下で石川町へそして中村川の下を抜けて、山手の丘の中にトンネルで高速道路を通す案があったかもしれない。だが残念にも、そこまでもの変更をできなかったのだろう(たぶん)。

 これで連想するのは、東京の眉間を傷つけた日本橋川上空の首都高を、いまになり地下に潜らせる計画である。この地下化計画は環境アセスメント手続き中と聞くから、実現に進んでいるのだろう。ならば、横浜の首都高だって地下に入れてほしいものだ。ついでに書くが、わたしは日本橋の上だけでも高架橋を保存して、高度成長時代の記念碑にすべきと思う。東京駅の悪例のように、善意のつもりの復元で、近現代史を忘却してはならない。

 誤解のないように附記しておくが、わたしは田村の計画が失敗したと非難しているのではない。田村でも頑張りきれなくて残った高速道路の高架がもたらした街の姿は、田村に言わせれば、都市デザインの分らぬやつらに任せておくと街はこうなるのだと、後世(現代)のためにワザと地獄絵を実現させたのであろう。これは田村が後世に向って「これを解いて見よ」と、かけた呪いなのだ。

 そして地獄絵の出現から30年もの今、その呪いを解いて極楽絵に変える力ある都市プランナーが、横浜市にはいるにちがいない。おりから東横線跡の高架活用プロジェクトが動き出したから、首都高跡高架活用も構想していることだろう。(2019/09/25)

(現代まちづくり塾『塾報』50号2019年9月号に掲載、一部補綴してここに掲載)

参考記事

2019/09/17

1420【人と緑】桂木は鉄の沓を履かされて緑陰哀し伊勢佐木モール

 
中心商店街のモールの道を徘徊、ふと街路樹の根元に眼が行った。おお、鉄の沓を履いてるよ、この木は。
 木の根元に高さ10センチほどの八角形の鉄の蓋、幹の周りは丸く空いている。
 けっこうコブコブのある老樹のようだが、すごいなあ、商店街から逃げ出さないように、鉄の足枷を嵌めたのだな、がっちりと地中にコンクリと鉄ボルトで留めてあるのだろう。


 更に近寄って見ると、鉄の沓の継ぎ目から、木の根がはみ出そうとしている。ということは、この鉄の沓の中には、木の根がいっぱいに八角形に詰まっているのだろう。
もちろんこの沓を履かせてもらったときは、余裕があったのだろうが、沓の中でだんだんと根が育ってきたのだろうなあ、なんだか痛々しいなあ。

 鉄沓の上30センチほどの幹に、口のように横に裂けた穴の中に、なにやら銀色の歯並びのようなものが見える。いや、ステンレスの網の一部かなあ、上は幹に食い込んでいて下方は切断したらしく見える。
 樹木の幹が育ち膨れると、そばの金網や鉄棒を呑みこむことは、よく見るからそれだろう。

 近くの別の街路樹の根元にそれに相当するものがあるかもしれないと、見てまわったら、あった。幹の周りに設けたステンレスワイヤ製ベンチである。
 これに幹が成長とともに食い込んだのに気がついた道路管理者が、ベンチを取り外そうとしたら外せないので切断し撤去したのだろう。
 いや、桂の木がステンレスベンチを食いちぎったのだろうな。 

 それでも冒頭のカツラの木はかなり剪定されつつも緑の葉をなんとか茂らせており、暑いオープンモールに緑陰を作っているのが、なんともけなげであるよなあ。
 生態的には、幹のまわりは土にして低木や草本で覆われるべきなのだろうに、都会の樹木は足元をガチガチに鉄とコンクリで固められ、しかも下半身スッポンポンとはねえ。



その木の隣には、同じように鉄沓を履かせられたまま、地上1mほどでちょん切られたミイラが並んでいる。このミイラも鉄沓を踏み越える努力の跡があるし、ステンレスの歯を食いしばる口も見えて、痛々しい。
 みれば大きなキノコが生えていて、死後も生き物を育てているのが、いじらしい。
  
 桂木は鉄の沓を履かされて緑陰哀しき伊勢佐木モール


2019/09/14

1419【戦中の歌の記憶】わたしはなぜ「海行かば」の歌詞も曲も知っているのだろうか?

 敗戦記念日に野次馬で靖国神社見物に行ったら、いつものようにウヨクさんたちに出くわした。「♪うみ~ゆ~かば~♪」と大音響の車を先頭に日の丸の旗行列である。

   ふと思った、わたしはこの歌「海行かば」を、歌詞とメロディーの両方を知っているのだが、いったいどうして知っているのだろう???
   この歌をわたしが歌った記憶は全く無い。耳にするのはウヨク行進に出くわす1年に1回あるかどうかなのに、なぜだろう。われながら不気味でさえある。

 わたしは15年戦争さなかに生れ、敗戦の日は国民学校の児童だった。音楽を得意とする少年ではなし、音楽好き家庭でもなし、大人になっても昔の歌を歌い聞く“なつメロ”趣味はまったくなし、歌声喫茶もカラオケも大嫌いだから、これがわたしの頭に戦後に埋め込まれた歌ではないことは確かである。

 どう考えても戦中に覚えた、たぶん、学校行事で覚えさせられた、つまり自分が意識する出来事の記憶ではなく、ごく日常の中で脳裏に埋め込まれた記憶であるに違いない。
 そういえば、他にも戦中の歌をいくつか、同じように覚えているのも不思議である。

 そこで戦中しか歌わなかったその時世独特の忠君愛国戦意高揚の歌を、無理矢理に思い出すことにした。タイトルと思い出す歌詞の冒頭あるいは中途の一部を、出てくるままにアトランダムにリストアップする。これがわたしの戦中の歌の歌詞全部である。2番や3番は全然出てこない。

 ◎:出だしから1番の歌詞を全部歌える(3曲だけ)
 〇:出だしから1番の歌詞の途中まで歌える(14曲)
 △:歌詞のどこか一部を歌える(4曲)

◎1.海行かば「海行かば水漬くかばね山行かば草むすかばね大君のヘにこそ死なめかえりみはせじ」
2.紀元節の歌「雲に聳ゆる高千穂の高嶺おろしに草も木もなびきふしけん…?」
◎3.天長節の歌「今日のよき日はみ光の射し出給いしよきひなり」
△4.広瀬中佐の歌「?…船内くまなく尋ぬる三度…?」
5.紀元二六〇〇年の歌「金鵄輝く日本の…?紀元は二六〇〇年ああ一億の…?」
6.?「ここはお国を何百里離れて遠き満州の赤い夕陽に照らされて…?」
7.?「徐州徐州と人馬は進む徐州よいかすみよいか…?」
8.?「青葉繁れる櫻井の里のあたりの夕まぐれ木の下陰に駒とめて…?」
△9.?「…?今日も学校に行けるのは兵隊さんのおかげですお国のために戦った兵隊さんのおかげです」
△10.?「…?国民學校一年生」
◎11.日の丸の旗「白地に赤く日の丸染めてああ美しい日本の旗は」
12.?「煙も見えず雲もなく風も起こらず波立たず…?」
13.?「僕は軍人大好きよ今に大きくなったなら…?…お馬に乗ってはいどうどう」
14.?「見よ東海の空明けて旭日髙く輝けば…?…わが日本の誉れなる」
15.軍艦行進曲「守るも攻めるも鉄の浮かべる城ぞ頼みなる…?」
◎16.?「勝ってくるぞと勇ましく誓って国をでたからにゃ手柄たてずに死なりょうか進軍ラッパを聞くたびにまぶたに浮かぶ母の顔」
17.?「あああの顔であの声で手柄立て…?」
△18.予科練の歌「…?予科練の七つボタンは桜に錨…?」
(以下は後日に思い出して追記)
19.?「さらばラバウルよまた来る日までしばし別れの涙がにじむ…?」
20.?「父よあなたは強かった…?」
21.同期の桜「貴様と俺とは同期の桜…?」

 ここまで18番まで昨日から2日かかって頭を振り絞った結果の記憶だが、意外に多いのに驚いている。これはどうも毎日通う国民学校で覚えさせられたに違いない、そうでなければこうも出てこないだろう。家にラジオさえもなかったのだから。

 それにしても、幼い少年時に覚えさせられた歌を、ずっと忘れていたのに、今になってそのつもりになれば歌詞とメロディを思い出すことができるのは、軍国教育の一環として頭にしっかりと叩き込まれたのだろうか。
 年寄りは最近のことは忘れても、昔のことをよく覚えているものだと言われるが、これはその典型かしら。

 間違っているかもしれないが、自分の記憶調べだから、たぶん、you-tubeには全部載っているだろうが、あえて調べない。メロディも同時に歌詞よりも長く頭の中に出て来るが、楽譜を書けないので割愛する。
 なお、このほかに例えば「マサカリかついだ金太郎」とか「桃太郎さん桃太郎さん」のような童謡を思い出したが、それらは戦中独特の歌ではないのでリストアップしない。

  これらの歌に関連する出来事の思い出は全くなくて、懐かしい気持ちも全くおきないから、タイトルや歌詞をあらためて調べる気も起きない。自分の記憶なのに不思議で、不気味でさえある。
 これを読む同年代のお方たちはいかがだろうか?

(追記2019/09/18)
 学校同期の友人たちからたくさんのコメントをもらった。幼少時の記憶だから、その頃の1年の差が大きいと分かって面白い。
 記憶を並べてみて気がついたのは、これらはすべてメロディと一緒に出てくることである。歌詞だけでは全然出てこない。歌詞が出なくてもメロディだけが出てくる。

 幼いころの記憶にメロディがたたき込まれ、ついでに歌詞があるらしい。ふ~む、それなら算数の九九とか教育勅語も、メロディ付けて覚えさせれば、ずいぶん教育効果が上がったろうにと思う。

 なお、この文章を読んでくださって、わたしの軍歌博識薀蓄披露と誤解した人がいて、ちょっと困ったの付記しておく。
 まったくその逆で、幼少時のおぼろげな記憶断片を今になって初めて拾い集めて並べてみただけである。わたしは戦中の歌を歌った記憶がないのに、どうしてこんなにも記憶の底からでてくるのか、その不思議さ不気味さを書いたのである。

(追記2019/09/21)
 同年の知人のHさんから、こんなメールが来て、わたしの絞り出した記憶を、同じようにご自分の記憶で題名と歌詞を補ってくださったので、参考までに引用しておく。
 赤太字部分がわたしの記憶欠落部分のHさんによる補追。
 ―――――(Hさんメール)――‐―
 私の記憶をたどって、カンニングなしで追記します。間違えて覚えているところも多いと思いますが、何しろ意味は分からないまま覚え、大人になってから多分こうだろうと勝手に意味づけしたのだから。
 主に「…?」の部分だけ書きます。
1.海行かば「海行かば水漬くかばね山行かば草むすかばね大君のヘにこそ死なめかえりみはせじ」
2.紀元節の歌「雲に聳ゆる高千穂の高嶺おろしに草も木もなびきふしけん大御世を仰ぐ今日こそ楽しけれ
3.天長節の歌今日の良き日は大君の生まれ給いし良き日なり今日のよき日はみ光の射し出給いしよきひなり」
4.広瀬中佐の歌「轟く筒音飛びくる弾丸荒波洗うデッキの上に闇を貫く中佐の叫び杉野はいずこ杉野は居ずや船内くまなく尋ぬる三度」
5.紀元二六〇〇年の歌「金鵄輝く日本の栄えある光身に受けて今こそ祝えこの朝紀元は二六〇〇年ああ一億の胸は鳴る
6.戦友「ここはお国を何百里離れて遠き満州の赤い夕陽に照らされて勇士はここに眠れるか
7.?「徐州徐州と人馬は進む徐州よいかすみよいか洒落た文句に振り返りゃお国訛りのおけさ節兵は徐州へ戦線へ
8.櫻井の別れ「青葉繁れる櫻井の里のあたりの夕まぐれ木の下陰に駒とめて世の行く末をつくづくとしのぶ鎧の袖のへに散るは涙かはた露か
9.?「肩を並べて兄さんと今日も学校に行けるのは兵隊さんのおかげですお国のためにお国のために戦った兵隊さんのおかげです」
10.?「みんなで勉強うれしいな国民學校一年生」
11.日の丸の旗「白地に赤く日の丸染めてああ美しい日本の旗は」
12.?「煙も見えず雲もなく風も起こらず波立たず鏡のごとき黄海は曇りそめたり時の間に
13.?「僕は軍人大好きよ今に大きくなったなら勲章下げて剣吊ってお馬に乗ってはいどうどう」
14.?「見よ東海の空明けて旭日高く輝けば天地の精気はつらつと希望は昇る大八洲おお晴朗の朝雲にそびゆる富士の姿こそ金甌無欠揺るぎなきわが日本の誉れなる」
15.軍艦行進曲「守るも攻めるも鉄の浮かべる城ぞ頼みなる浮かべるこの城日の本の御国の四方を守るべし
16.?「勝ってくるぞと勇ましく誓って国をでたからにゃ手柄たてずに死なりょうか進軍ラッパを聞くたびにまぶたに浮かぶ母の顔」
17.?「あああの顔であの声で手柄頼むと妻や子が千切れるほどの振った旗遠い雲間にまた浮かぶ
18.予科練の歌「若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨今日も飛ぶ飛ぶ霞ケ浦にゃでっかい希望の雲が湧く
19.ラバウル小唄「さらばラバウルよまた来る日までしばし別れの涙がにじむ恋し懐かしあの島見れば椰子の葉陰に十字星
20.?「父よあなたは強かった兜も焦がす炎熱に三日も
21.同期の桜「貴様と俺とは同期の桜同じ兵学校の庭に咲く咲いた花なら散るのは覚悟見事散ります国のため
 ーーーー(Hさんメール終り)-----
 なお、二人とも幼時の記憶だけで書いたから誤りがあるだろう。しかし、前述のように歌詞やメロディの調査が目的ではなく、脳中の幼児期のナマな記憶拾い出しが目的だから、正確な題名や歌詞を調べる気は全くない。
関連記事
8月11日~22日ブログ記事【戦争の八月】

2019/08/31

1418【フェイクバカ狐乱夢8月まとめ】表現不自由、台風進路、五輪遺産、熱中コロリ、戦争の八月


8月4日【表現の不自由列島】
日本列島全部が不自由展覧会場になってしまったのか~、津田大介の思うツボだろうな。モダンアートはそれが呼び起こす社会の動きそのもののもアートなのだから。
すごい時代に生きあわせたもんだなあ、イヤだイヤだ、
 今日も暑いぞ、冷房しないで、熱中コロリ期待しようっと。


8月6日【台風進路と日韓問題】
こんな図を見ていつも思うけど、政治的には喧嘩しても、台風情報は日韓協力してるんだろうなあ、日本製台風導入拒否運動とか、進路ウソ情報伝え合うとか、、まさかね、 対馬海峡の南と北の皆様にお見舞い申し上げます。

8月8日【東京オリンピック負遺産かしら?】
オリンピックで選手村として使った共同住宅団地を、中古住宅として売り出すそうだ。
 場所は東京の晴海、晴海と言えば東京湾内の埋立人工島、地盤ズブズブ海抜1m津波モロ歓迎、あんな狭い島に4000戸もの超過密住宅団地、しかも選手たちが使った後の中古品。それなのに値段がなんと1億円、そして購入競争率71倍とのこと。
 売る方も売る方だが、買う方も買う方で、まったくもって、世の中には物好きな人がいるものだ。団地の名前がシャレているよなあ、「晴海部落」(harumi flag)って。
へ~、この団地の広さは13.4ヘクタール、そこに5,650戸のアパート造るんだってさ、とすると一戸当たり3人として約17000人が住むのかな、1ヘクタール当たり約1200人かよ~、ひょえ~、スラム街もビックリ過密じゃん、まわりの海にこぼれ落ちるかな、。
 こんな過密プラニングの共同住宅団地でも、しかも中古なのに、なんと一戸一億円で売る奴がいて買う奴がいる東京って、どうなってるんだろ???
 世界中からやってきた人たちに、日本の居住政策の貧困を宣伝する場になるんですね、すごいなあ、やることが、、。
住宅余りの時代にこの供給とは、これって、財政学の新説「現代貨幣理論(MMT:Modern Monetary Theory)」のように、住宅はいくらたくさん新築供給しても問題ないという新学説「現代住宅理論(MHT:Modern Housing Theory)が存在しているのかもしれませんね。


8月9日【熱中症コロリ志願】
今年も暑い暑いと言いながらも、わたしの部屋をいまだに冷房にしていない。超高齢社会問題解決の策として、ささやかながら寄与するために、数年前から夏になると熱中コロリゲームをやっている。だが、毎年ゲームに負け続けていると、身体の耐暑性能が次第に向上する一方で、自然の方も猛暑性能を次第に向上させているらしい。う~む、。

8月10日【東京地下鉄迷路駅にて】
平河町駅での改札を出ようとしたら、後ろから来たスマホ見つめる人から尋ねられた。
「エート、地上に出る5番口はどこでしょうかね」
「この改札の向こうのようですね」
「エ、外に出るのですが、この改札をまた入るのですか?」
わたしは手に持つ切符を見せつつ
「いやいや、ここを出るんですよ」
「エ、ということは、わたしはまだ改札の中にいるんですか」
かなりウロウロしてきたらしい。

8月12日【原発安全対策費5兆円】
フン、5兆円かかろうと、10兆円かかろうと、お上がやれと言うからやるんだよ、な~に、そのカネは電気代で徴収するから平気平気、いやなら電気を使わなきゃいいんだよ。


8月15日【縦断か横断か】
台風10号は西日本を縦断するのかい、これって横断してるように見えるけどなあ、縦断というからには、急に右カーブして列島上を進むんだね、怖いなあ。
 南北に横切ると、画面の縦方向だから、縦断と言うのかなあ?、う~む、中国地方を横切ったのに、これを縦断と言うかなあ、どう見ても横断でしょ、ならば道路の交差点には横断歩道と縦断歩道があるのかなあ。



8月18日【わたしのブログ来訪者たちって??】
この1週間分の「伊達の眼鏡」ブログ来訪者の国別人数は、ドイツ478、ポーランド428、アメリカ合衆国195、ウクライナ182、日本177、トルクメニスタン4、オランダ3、オーストラリア2、ブラジル1、、エ~ッ、どういうこと?、おれはこうも国際的に知られたのかあ、この週になり突然に?!、なのに日本人は見てくれないなあ、トホホ、まあ、どうでもいいけど。


8月11日~22日ブログ記事【戦争の八月】

2019/08/28

1417【戦争の八月(4)】昭和館で敗戦放送を聴き、旧軍人会館で定番復元保存開発に出会う

戦争の八月(3)】からつづく

九段坂下の昭和館へ

 千鳥ヶ淵から九段坂を下るころは脚がヨロヨロ、この辺りでどこか涼しいところに入りたいと、田安門から下を眺める。左に見える虚無僧の笠のようなのは昭和館だが、あそこなら涼しい休みどころもありそうだ。
 その右に見える瓦屋根のあるビルは九段会館(昔は軍人会館)、どうやら壊しているようだが、そうか建て直すのか。とにかくあそこまで行こう。
田安門あたりから九段坂下を眺める
  坂を下りきる直前に「昭和館」入口が目に付いたので、冷房のホールに入った。
 この建物は外から見ると窓がない巨大排気塔のような、バケツを伏せたような、虚無僧の編み笠のような、奇妙な形である。
 建築家菊竹清訓の設計で、記憶では計画段階ではこれをの字に腰折れした(靖国神社に向って礼拝している)姿だったが、景観的に変だとあちこちから総スカンの声が出て、それがこうなったのだった。でも特によくなったようにも見えない。鬼才菊竹にしては駄作だろう。


 入り口ホールは冷房で涼しいが座るところがない。上階の展示場に行こうと入場券を買おうとしていたら、案内人がやってきて今日は無料とて、喜んでエレベーターに乗る。
 ずっと昔に一度だけ来たことがあるが、内容の記憶はない。観客はたいして多くないが子供連れが結構いる。夏休みの宿題か。
 集めた戦中庶民の資料が狭い展示場にこまごまと並んでいるが、足が疲れているのでじっくり見る気分ではない。あとでじっくり見たい資料もあるが、撮影禁止なのでさっさと通り過ぎてしまう。

 戦中戦争直後の米搗き一升瓶とか防空頭巾とか学童疎開の記録など、こういうところの定番展示である。しかし、わたしはかつて実際に体験した当事者なので、あの耐乏貧乏腹ペコ生活なんて面白くもない。
 庶民生活が展示されているところが、遊就館と対極にあるのだが、戦争によるあの悲惨な生活の影が薄いのは、遊就館と同じだ。
 撮影禁止なので、パンフの一部を載せておく。このような資料なら積極的に撮影させて、SNSで宣伝すればよいと思うのだが、どういうわけか。



敗戦放送の日の記憶

 下の階の図書室なら座れるだろうと階段を下りていたら、踊り場に人だかりがある。壁の棚にあるラジオから1945年8月15日敗戦放送が聞える。あの独特の棒読みのお経のような節回しである。
 音声がきれいなので、「こんなんじゃなくて雑音だらけだったなあ」とつぶやいたら、前に立つ中年男が振り返って「リアルタイムで聴いたとはスゴイですね」と言う。はずかしくなって急いで階段を下りた。
 思えばあの内容で、あの口調で、あの雑音の放送を聴いて、どれほどの人たちが、敗戦放送と分ったのだろうか。庶民に理解させる気が全くない。ユーチューブで改めて聴くと、ほとんど言い訳ばかり、なぜ負けたか反省も謝罪もないトップ責任者の言葉。

 当時の憲法が定める戦争開始と終結の責任者たる天皇が、1945年8月15日の正午から、初めて肉声で放送する事件、これにわたしは遭遇した。場所は岡山県中西部の高梁盆地の、生家の神社社務所であった。
 その社務所の大広間座敷には、その1か月半前から兵庫県芦屋市の精道国民学校初等科六年生女児20人と職員1名が、集団学童疎開でやってきて住んでいた。盆地内のほかの寺社などに児童51名が疎開して来ていた。

 当時ラジオのある家は限られていたが、その疎開学級が持っていた。社務所の玄関口に近所の人々が集まって、敗戦の詔勅を聴いていた。
 放送を聴き終わると誰もみな声もなく散会して、列になって黙々とぼとぼ参道の石段を下って行くのを、わたしは社務所縁側から見ていた。緑濃い社叢林の上はあくまで晴れわたり、暑い日であった。
 もちろん8歳のわたしには内容を分らない。その場の情景の記憶のみである。
 聞いていた人たちがこれを敗戦と分かったのは、たぶん、疎開学級の教員がそれを伝えたのであろう。

 その半月後に父が兵役解除で戻ってきた。父は満州事変、支那事変、太平洋戦争と3度も繰り返して通算延べ7年半も兵役に就いた。最後は本土決戦に備えるとて、小田原の海岸から上陸する敵を迎え撃つ陣地構築をしていたが、「父の十五年戦争」がようやく終わった。
 だが、わたしの家では戦後戦争とでもいうべき難が始まった。戦後農地改革で小作田畑を失い、食料源がなくなったのであった。支払われた補償金は数年間の分割払いで、戦後超インフレで紙切れ同様になった。
 昭和館の展示をわたしが見て思い出すのは、とにかく腹が減っていたことばかり、3人の子に食わせてやれないのが、父母の一番の悩みだったろう。

 図書室では、「戦史叢書」(朝雲新聞社)全巻が開架でそろっていたので、本土決戦編を取り出して父の3度目の徴兵時の記録をぱらぱらと読んだ。
 この書物は、わたしの父の死後に見つけた父の戦争メモをもとに「父の十五年戦争」なる記録を書いたのだが、その時に資料として読んだものだ。

 図書室には子どももけっこういて、母親が戦災の絵本を読みきかせしている声も聞える。とりあえずは冷房での休息になったが、閉所恐怖症のわたしはこの建築は窓無しと知っているので、長居すると気分が悪くなる。15分ほどでたちあがる。

 おにぎりがつぶれたような変形プランで使いにくそうだし、展示スペースは狭いし、敷地も狭い。これでは増築もできないから、資料を大量に収集してもどう収蔵展示するのか、博物館建築としては困るだろう。メタボリズムを標榜した建築家の設計にしては、いっこうにそのメタモルフォーゼできそうにない駄作である。
 靖国神社の近くで、元軍人会館の隣りという立地であり、しかも昭和という天皇制に依拠する館名称とて、これって何だかなあと考えさせる。

九段坂下の旧軍人会館は今

 外に出て隣の元軍人会館の九段会館を眺めると、今や建替え工事中である。そういえば311地震で死者を出して閉館していたのだった。
九段下交差点から九段会館を見る 2013年8月15日

同上 2019年8月15日
工事用仮囲いに完成予想図などが展示してある。みれば元の九段会館の姿を道路側の2面に修復保存して、裏に超高層建築を建てるらしい。
 これって下駄ばきとか腰巻きとかカサブタとか言われる定番保存開発手法である。東京駅前の元中央郵便局、今のKITTEがこれにいちばん近い手法だろう。

 この九段会館は1934年に「軍人会館」の名称で、在郷軍人会が建てて軍の予備役・後備役の訓練、宿泊に供した建築であるから、ここにも戦争の残影がある。靖国神社のある九段らしい立地である。
 建築デザインはコンペで決められた。そのコンペ要綱に「容姿ハ国粋ノ気品ヲ備ヘ荘厳雄大」なデザインを求めるとあった。それがこの近代洋風デザインに城郭風の瓦屋根を載せた姿になって出現してのであろう。

 このスタイルはその頃の公共建築の流行であったから、軍関係だからこの姿だったとは言えないにしても、日本風デザインを強調していることは確かだ。
 そういえば、靖国神社の遊就館、千鳥ヶ淵戦没者墓苑、日本武道館など、このあたりではどれも日本風勾配屋根である。
 いわば地域のデザインコードが働いているようだが、誰かがコーディネートしたのではなく、戦争の時代の表徴として和風と洋風の混合勾配屋根になったのだろうか。
靖国神社遊就館 伊東忠太 1932年
同新館 三菱地所設計 2002年 

千鳥ヶ淵戦没者霊園 谷口吉郎 1959年

 それらに交じって建つ最も新しい昭和館が、いかにも特異な姿に見える。地域のデザインコードを無視していると言えよう。
 それは菊竹が意図したアンチテーゼか、あるいは菊竹は一般に景観デザインには無頓着だったから、やりたいデザインをやったまでのことだろうか。
 冗談で言えば、せっかくだから新しい九段会館の高層部分は、隣の昭和館のデザインの系譜にすればよかったのになあ。
左手前 昭和館 菊竹清訓 1998
その向うとなり 九段会館 川本良一 1934年
右手前 日本武道館 山田守 1964年
軍人会館は戦後になって国有財産となり、遺族会に貸与して九段会館の名で営業してきた。わたしも何度か会議でここに来た記憶がある。
 地震被災して閉館後に、国は競売して東急不動産が取得、またもやホテルになるらしい。それでようやく戦争の影がなくなるのかと思ったら、建築の姿として軍人会館時代を継承すると言うから、まさに残影そのものが表象として継続することになる。
 九段坂の上と下を戦争の残影がしっかりと押さえている。

●九段下交差点ウヨク行列見物

 さてもう疲れたので地下鉄に乗って帰ろうかと思うと、九段下交差点は異常に騒がしい。あ、そうだ、毎年ウヨクさんたちが輪になって演説したり、道路を日の丸行進してやってくるだと思い出して、それらを見物してから帰ることにする。
 
 九段下交差点のこちらと向うに別々のグループが10数人集まっていて、それぞれ定番の日ノ丸や旭日旗を建てて、これまた定番らしい天皇ものの演説をしている。
 そこへ歩道ではなく車道を、一人一人が日ノ丸の旗を掲げた行列がやってきて、交差点に入ってきた。おお、いつものウヨクデモだな。
 「♪うみーゆーかばー♪」とスピーカーで流す小型バンを先頭に、数百人はいそうな参加者が、各人おなじ大きさの国旗を弔旗にして竿の上に掲げて、折から台風影響の強風になびかせながら、交差点を斜めに向うに進んでいく。

 その行列にはシュプレヒコールもプラカードもない。国旗が参加者の数だけなびいている。沿道群衆から時折「ありがとう」「ありがとう」と叫ぶ声が入る。
 参加者の個性は見えなくて、数百人が統一されている様子である。これはいわゆるデモ行進ではなくて、軍隊の分列行進をなぞっているらしい。その沈黙の旗行列は、交差点を過ぎて向うの街角に消えていった。
 参加者たちの顔を見ると老若男女ごくふつうの人たちの様子で、コワモテウヨクらしい風情は見えないのが不思議というか、かえってコワイ。

 後でネット検索したら、この行進の最初から最後までを主催者として撮った動画がユーチューブにあり、350人参加だそうである。リーダーらしき人の演説では、靖国に祀る戦死者たちを慰霊する趣旨の行進らしい。最後は靖国神社大鳥居の前に集り、「君が代」と「海行かば」を斉唱して解散した。
 なぜ「海行かば」なのだろうか。これは大伴家持が天皇へのひとえに帰依従属を誓う政治的な意味を持つ歌であって、戦死者鎮魂の歌ではない。1948年10月に神宮外苑の競技場で学徒兵たちの出陣式で「海行かば」が歌われたように、天皇の戦争に命を捧げに赴く若者を鼓舞するための歌である。

 暑いさなかにいながら、心が寒くなってしまい、そそくさと地下に潜ったのであった。

(完)

参照 「戦争の八月

2019/08/20

1416【戦争の八月(3)】アジア太平洋戦争で日本人戦没者より多い被侵略国の死者を想う千鳥ヶ淵戦没者霊園


千鳥ヶ淵戦没者墓苑へ

 靖国神社遊就館ホールで涼んで一休みしたので、拝殿の前あたりで参拝客の列にその年齢性別の多様な人の様子を見物して、南に境内を出た。
 これから千鳥ヶ淵戦没者墓苑を目指すのだ。薄曇りながら暑い街のなかを歩くと、台風の余波で若干の風が吹いているので助かる。学校や共同住宅や事務所などのビル街を抜けて、千鳥ヶ淵に出ると豊かな緑の陰と水の涼しさが嬉しい。

 そうだ、この水と緑の空間は江戸城の北の丸であり、皇居の外苑の一部、つまり実は天皇家の領分であったことに気がついた。これから訪れる墓苑はもともとは宮家の邸宅地であった宮内庁管轄地であったし、そこでの埋葬者たちも天皇の命令のもとに外地に出かけて戦って死んだ人たちが大部分を占める。あたり一帯に天皇制あるいは天皇教とでもいう空気がみなぎる。


 靖国神社が民営の慰霊施設とすれば、千鳥ヶ淵戦没者墓苑は国営である。だから宗教色はないはずだ。だが後でネット検索したら、この日に僧侶たちの団体が仏式の儀式をしているのがみつかったが、ほかの例えば神職たちのそれは見つからなかった。
 だからと言ってここが仏教による墓苑ではないだろうから、どの宗教も儀式をしてもよろしいのだろう。
 

 とは言いながら、ここには天皇制(天皇教)という日本独特の宗教性が色濃くあることを感じるのである。例えば、前屋をはいると左右に昭和天皇の大きな歌碑がふたつも待ち構えることがそれを表徴している。

 納骨の六角堂に各界からの献花がたくさんあるが、総理大臣や天皇からの花もある。どちらも靖国神社には行かないが、こちらには来るのか、あるいは靖国神社のように献花だけだろうかと思ってまとでネット検索したら、政府広報にアベサンが献花して拝礼する動画があった。

 献花者の名札を見てきて気がついた。どの名も敬称はつかないのは、死者への捧げ物だからあたりまえだろうに、例外が正面左右にある2つには「陛下」の敬称つきである。
  ということは、天皇の命令で死んだ者は、死後も天皇の隷下にあり、花を下げ渡されているということか。

 ところで天皇教の表徴である天皇の名札だけが2本もあり、しかもどちらも「天皇皇后両陛下」と表記されている。天皇と皇后とふたつではない。二人まとめては失礼のように思う。
 他は例えば、「内閣総理大臣安倍晋三」であり、「呉竹会長頭山興助」であり、「長崎県遺族代表団」である。「内閣総理大臣安倍ご夫妻様」ではないし、「長崎県遺族代表団殿」でもない。
 ここでは公的な職位や団体名を書くのならば、「徳仁天皇」だけであるべきだろう。せめて「徳仁天皇」「雅子皇后」の2本にすれば他とバランスするのだがと、眺めていて思ったのであった。


日本軍に押しかけられた国の死者は

 ここにはアジア・太平洋戦争で日本列島の外で死んだ人たちの内で、引き取り手のない37万人分の遺骨が埋葬されているとのこと。遺骨収集を今も継続していて、最近その遺骨が日本人ではないことが分ってきたとかのニュースもある。
 わたしは死ねば人は自然に還ってしまうと考えるから、わたし自身の父母たち墓にさえも疎遠であるように、霊を祭る神社も遺骨を保存する霊園にも何も感じない。もちろん他人がどう感じているのか、それは自由である。

 その遺骨の死者の数え方を「37万柱」と公式サイトに記しているが、「柱」とするのは神道によるの神の数え方である。国営墓苑でも、死者は神道による神になって祀られるのか。ここは宗教性を抱いている。
 大きな説明版が立っていて、アジア・太平洋戦争の15年で、日本人の軍人軍属一般人の戦没者は240万人と記されている。その戦争の区域の各国ごとの数が記されている。あんなに遠くまで出かけて、こんなにも多くの死者を出したのかと驚く。
説明版のアジア太平洋戦争区域戦没者地図(実に見づらい)
上の図を分りやすく書きなおした図(朝日新聞2019年8月16日)
地球儀に戦争のエリアを描くとそのあまりの広大さに兵站不能な戦争だったと、
 しかしその一方では、その日本人の死者たちがそこに戦争に押しかけたならば、その押しかけられた側の各地には人々が住んでいて戦争に遭遇し、やはり死んだはずである。そのことを忘れてはなるまい。
 他の戦争の資料では、例えばフィリピン人は110万人、中国人は1321万人、朝鮮人は20万人が死んだとされる。上の地図にその各国の戦没者数を書きこんでみた。
赤字は日本軍に押しかけられた側の国の死者数
押しかけた日本人よりも、押しかけられた側のほうがはるかに多くの死者を出している。それらは背中合わせの死者である。想像力をそこに働かせないと、死者の一部しか見ないことになる。
  そう、アメリカ軍に押しかけられた沖縄戦で多くの日本人が死んだように、各地の戦争でその地の人々が死んだのであった。わたしの父も日本軍の一員として2度の中国戦線にいった。父の世代はそんなにも多くの人々を殺しに出かけたのか
 そのことに暗然とすると共に、それを説明版のどこにも書いてないことにも暗然とする。戦争を相対化する表徴はどこにもないのか。それでは靖国神社と同じであるが、それでよいのだろうか。

天皇教の軸線設定

 靖国神社と違って、こちらの人出はまったくもって少なくて静かなものである。この違いはなんなんだろうかと、毎度思う。
 この施設の配置は納骨堂の六角堂に向かって、北北東から南南西への軸線を設定しており、したがって拝礼は南南西に向けて行うことになる。一般に神社なら本殿は南面し礼拝は北に向かい、仏教寺院なら本堂は東面し礼拝は西に向かうのが原則だから、ここではどういうことなのだろうか。南西の海の死者ばかりではないはずだ。
 ところで、靖国神社はほぼ東西軸配置であり、本殿は南面ではなく東面していて、礼拝は西に向かうのだから、これはまるで仏教寺院配置であるのは何故だろうか。

 そしてまた地図を見ていて気がついたのは、長屋門のような前屋を抜けて、その先にある納骨の場の六角堂に至る北北西から南南東に向かう軸線を、北北西に伸ばしていくと靖国神社の本殿に突き刺さるのである。ここで死者に礼拝したときの姿勢は、その背後の方向つまり尻を突き出す先に、もうひとつの死者を祀る神社本殿がある。
 更にまたその軸線を逆に南南東に伸ばすと、皇居の新宮殿に至るのだ。つまり死者を礼拝すれば、そのまま天皇を礼拝することになり、まるで天皇遥拝殿であるのだ。
 特に今は二つの献花の名札「天皇皇后両陛下」に向かって礼拝するから、これはあまりにも象徴的というか寓意的過ぎる天皇教の表徴である。
千鳥ヶ淵戦没者霊園の施設配置の礼拝軸線設定は、
後方は靖国神社本殿へ、先方は皇居新宮殿に至る
六角堂を礼拝するこの軸線上の向こうには皇居新宮殿があり、
背後には靖国神社本殿がある
 この寓意的軸線の設定は、敷地の制約からやむをえず出てきた配置には見えないから、意識的にそのように設定したのに違いない。
 それは造園家・内田剛によるデザインか、建築家・谷口吉郎によるものか。仏教系でも神道系でもない軸線、これは明確に天皇教の軸線設定である。

  こちらは靖国神社よりもずいぶん狭いと思う。ここは公園としての墓苑だから、もっとエリアを広げてほしい。今はまわりの高層ビルから覗き込まれている。
 敷地を広げることが今さらかなわないならば、千鳥ヶ淵の側を囲まないで、濠と一体的総合的にランドスープデザインをしてはどうか。千鳥ヶ淵に北の丸公園とつなぐ橋、あるは軸線の延長上に橋を架けてはどうか。
   谷口吉郎の建築は、このスケールならば、先生の得意とするところである。1959年建設だから、わたしが大学で教えていただいていた頃であったか。

あらたな戦争の予兆に出くわす

 疲れてきた、もう地下鉄九段下駅に向かって帰ろうと、千鳥ヶ淵に沿って歩いていると、なにやら喧騒な雰囲気に出くわした。
 路上に大勢のインド系の顔をした人たちが集まり、大声を上げ、旗を振っている。言葉も分らず、プラカードの文字も読めない。
 はて、今日はいつも東京で出会う外国人観光団体客に出会わなかったが、ここで出会うとは何だろうか。立派なモダン建築の前であり、みればどうやらインド大使館らしい。
パキスタンの国旗を振っている
それで思いついたのは、これは今や国際紛争になろうとしているインドのカシミール併合問題の余波だろう。インド大使館前でインド系の顔の人たちが抗議デモするとすれば、これはパキスタン人たちだろう。
 振っている旗に、星と新月が描いてあり、後で調べたらやはりパキスタンの国旗である。アジア太平洋戦争の残影のなかをよろよろと歩いてきたら、こんどはインド亜大陸の現実の紛争、もしかしてまたインド・パキスタン戦争再来か、新たな戦争の予兆に出くわすとは、まったくもって暑い地球である。

 もう足が疲れたから、九段坂を下って帰ろうと思う。(実はこの先で、更にまた戦争の表徴の数々に出会うのであるが、)

戦争の八月(4)】につづく