2015/03/30

1075【未来が明るかった頃(番外)】やってきた未来の郊外開発地の現実と更にこれからの未来はどうなる

【未来が明るかった頃(3)】からつづく


 このブログにいま連載しているのは、大都市郊外に戦後新開発の住宅地が明るい未来を夢みていた、ということだが、今朝の新聞(2015年3月30日朝日新聞東京版)にその未来の今の話が出ている。
 鉄道沿線開発地にやってきた未来の今の現実は、「支えます 人生の終着駅」「私鉄各社、葬祭業ヘ進出」「沿線開発の宅地 高齢化進む」の見出しが物語っている。
 鉄道屋が葬祭業を始めたというのだ。

 鉄道業者は、戦後復興期から高度成長の人口増加時代に、若い世帯の住宅需要に対応して、沿線新開発住宅地を供給していった。
 そして今、人口減少と高齢化時代となり、鉄道事業者は高齢化したその住民たちのあの世行き儀式需要の増加に対応して、葬祭業を始めているのだそうだ。

 沿線開発の先駆者である阪急が、さすがに葬祭業進出が一番早くて1997年のこと、そのあと京急、東武、南海、京王が続いているとあり、このブログで今話題にしている近鉄はまだらしい。ただし、この新聞記事の正確度は分からない、なにしろすぐ謝る朝日新聞だからね。
 なんにしても、そういう「明るかった未来」が、このような形で来てしまった。
 
 この新聞記事に社会学者の原武史さんのコメントが載っていて、「今後は霊園開発にも手を広げなければならなくなるだろう」とある。これが、これからの先の明るい?未来であることが、なんだか悲しいような、当たり前でもあるような。
 駅前葬祭場が当たり前になる時代になって、この次は駅前火葬場ができて、駅前墓地ができるという、当たり前の未来を描くことができる。
 
 だが、更に人口減少が進むと、もう鉄道沿線には、人間(死んだ人間も含む)の住む場所はいらなくなるだろう。
 となると、そのうちに、いらなくなった駅前住宅地や墓地を、駅前山林や駅前田畑に「再開発」する時代が来るのだろう。材木や野菜を鉄道で出荷するのに便利である。
 そうだ、昔は砂利とか肥料(人糞)を運ぶ鉄道があったよなあ、そうか、未来は過去につながるんだなあ。

2015/03/28

1074【未来が明るかった頃(3】山の彼方の新興郊外住宅地は建築家デザインのモダンリビングで新ブランド化

【未来が明るかった頃(2)】のつづき:「楽しい生活と住宅博覧会」(1956年 朝日新聞社)を読んでレポート

 大阪から東に24km、生駒山を超えた奈良に、戦後1950年からの新開発住宅地は、近鉄の学園前駅を中心にひろがる。
 戦前から沿線開発に熱心だった関西私鉄では、近鉄の宅地開発は戦後からという後発である。しかも阪神圏の外の生駒山のかなたである。大阪人には遊びに行くところであっても、住むところではなかった。
 それだけに他とのイメージ的な差異を出して、新たなブランド化を図ろうとしたのだろう。わたしは関西のことはよく知らないが、この学園前や登美が丘の戦後新興住宅地は、ブランド化に成功したらしい。

 1956年のあやめ池と学園前での住宅博覧会に、その意気込みが現れている。
 建設業者による建売住宅群のほかに、有名建築家や全国コンペ公募した建築家による設計の建売住宅もとりいれ、しかも鉄筋コンクリートの建売住宅をならべたのだった。
 この住宅博覧会に先立って、会場の新開発住宅地に展示する建売住宅設計の、全国公開コンペを行った。
 その条件は、耐火構造、床面積18~23坪、家族4~6人、畳部屋を含むこと、工費は住宅金融公庫標準価格によるとしている。入選作は現実に建てられて、販売される。

 この審査員の顔ぶれがすごい。池辺陽、坂倉順三、滝沢真弓、西山卯三、村野藤吾、山口文象であり、東西から3人づつということになる。
 山口文象は戦後再出発をかけて1953年にRIAを創設し、精力的に庶民住宅に取り組んでいたから、適任であった。朝日新聞で住宅相談をやっていたからその縁によるのかもしれない。
 
 このコンペ入選者名の中に、高橋靗一、川島甲士、吉田桂二、小林盛太などの名があり、その頃は25~30歳の若者である。高橋はF4グループという名称で、郵政省仲間と共同で応募して入賞している。
 入賞作と佳作による設計の7戸と、審査員の池辺と山口による設計の2戸の鉄筋コンクリート住宅計9戸が学園前駅近くに建ったのは、博覧会が終わった後だった。
 これらはどのような売れ行きだっただろうか。

 まずは、コンペ入賞と佳作の建売住宅を見よう。わたしは住宅のプラニングを論評する能力はないが、コアプランのものがあるのが興味深い。ここだけは浄化槽を設置したのだろうか。
 意匠的には、とりたてて和風の皮をかぶることなく、素直にRC造の特徴を見せているところが、建築家好みだろうか。
 このあまりにも素直なモダニズムデザインを、博覧会に来た人たちはどうとらえたのだろうか。

 入選作の平面と外観(欄外記入は、「耐震不燃の新建築」(主婦の友社1957より)

工事費1,320,600円
土地とも1,965,900円、住宅金融公庫融資73万円を35年償還
住んでみての感想「融通性に富んでいて住みよい」


住んでみての感想「浴室のところに脱衣場がなくて困る」


 審査員としての山口文象によるコンペ評が載っている。
 応募作品364点中から入選作3点を得た。
 池田氏の作品は構造計画に無理がなく、低建設費でプランも良い。
 北原氏の作品は関西式住宅。現代的でしかも生活習慣を変えずにすめるのが特徴。
 F4グループ作品は鉄筋コンクリートではとかく大きくなりがちな構造を小さい柱で押さえたてんがよかった。
 応募作品全体を通じての印象は、鉄筋コンクリート構造と小住宅の関係についての研究と突込みが充分とは言えない。スケールの大きなものとの間には必然的に違った構想がなければならないと思う。したがってプランは構造とは違った発想からなり、木造的な考え方を出ない。
 鉄筋コンクリートにはそれなりのプラニングが有るはずだと思うが、そういうものがほとんど見当たらなかった。
 入選作品は優秀なものではあるが、上述の点でまだ十分安心できる元はいえない。主催者側と作家との間に詳細な検討が必要であると思う。
 いずれにしてもこの企画が若い有能な建築家の参加を得て、一応成功したことは喜んでよいことであり、この刺激が一般の人達の新しい住宅への関心を深める契機となるに違いない.

 では、そういう山口文象が設計したモデル住宅は、どんなものだったか。

【未来が明るかった頃(4)】ひときわ異形の山口文象設計のモデル住宅」につづく

2015/03/27

1073【未来が明るかった頃(2)】郊外開発住宅地に広がる戦後モダンリビング建売住宅

 【未来が明るかった頃(1)】からつづく:(「楽しい生活と住宅博覧会」(1956年 朝日新聞社)を読んでレポート

 奈良あやめ池遊園で住宅博覧会があった1956年、その頃はようやく戦後を脱出しつつあった。
 この年の経済白書に「もはや戦後ではない」との、後に有名になる言葉があった。
 それは朝鮮戦争の特需景気で、なんとか経済回復してきたことを意味はしたが、まだ高度成長期には夜が明けていない。

 戦争による都市の焼失と戦後の急激な人口増加で、衣食住のうち衣と食はなんとか回復が見えたが、住宅不足は深刻極まるものだった。もっとも、住宅問題は、その後に形を変えているが、未だに解消しないでいる。戦後復興で最も遅れた政策が住宅であった。
 1955年に、政府系金融機関として住宅金融公庫が設立され、金づまり時代の庶民の住宅建設に低利融資をはじめた。

 あやめ池の住宅博覧会の第1会場には、住宅博覧会らしく、生活文化館、住みよい街と住宅館、そして住宅設計館があった。
 生活文化館は、住宅関連製品メーカーの商品展示場があり、新生活の場となる住宅のモデルルームがあった。
 このモデルルームのデザインは、RIA建築綜合研究所の担当であった。このRIAとは、建築家・山口文象が戦中・戦後の逼塞の時を終えて出直すべく、1953年に創立した建築共同設計組織である。
生活文化館のRIAデザインのモデルルーム
モデルルームの想定は、24坪、夫婦と子供2人の4人家族と記述があるが、どんな平面かわからないが、戦後ブーム生れの子どもがいる若夫婦が対象であり、それは戦後の新しい主流の家族形態である核家族である。
 この世代がその頃は希望に燃えて、新しい住宅を求めていたのであり、博覧会はそれに応えるイベントだった。
 そしていま、そこにいた子どもが団塊の世代と言われて、もうすぐ大量のリアタイア世代となる。希望の時代は終わり、高齢社会問題に突入している。
 
 この住宅博覧会は、そのような戦後核家族対象の住宅の現物を、建売住宅として建設して、販売したことに特徴がある。それが第2会場である。
 あやめ池駅の南西にある第2会場に行ってみよう。松林の丘陵を切り開いた新開発住宅地に、26戸の建売住宅が建っていた。そのまわりには分譲宅地が広がる。
住宅博覧会第2会場の分譲住宅展示場
「C」のあたりが分譲住宅展示場

 展示の建売住宅の区画坪数75~180坪、売出し価格は土地建物合わせて一戸当たり95万円だった。
この価格を現在のそれと比べるべく、モデル分譲住宅展示場が建っていた土地の相続税路線価格をみると、67000円/㎡前後である。75坪としても今や土地だけで1700万円ほどにもなる。こうなってしまった未来の今は、明るいのか暗いのか。

 26戸のモデル住宅の事業主体は近鉄で、木造平屋で住宅金融公庫融資に適合し、販売価格は土地建物共で95万とする条件で、建設業者を選んで設計施工を請け負わせた。
 購入申し込み最多あるいは現地人気投票で上位の建設業者を表彰して賞金をだして、インセンティブをつけているのが面白い。この26戸は抽選となる人気で、期間中に全戸販売した。
 ここに戦後モダンリビングの様相の例としてあげるが、臭突(汲み取り便所の便槽臭気排気筒)が懐かしい。
人気投票上位の分譲住宅(右下は方位が逆のような気がする)
戦後モダンリビングいろいろ
この26戸の分譲住宅のほかに、あやめ池駅の隣りの学園前駅の近くで、耐火構造の住宅11戸が建売に出された。これは博覧会会期中には間に合わず、年末売出しだった。
興味深いのは、この耐火構造分譲住宅の設計案は、公開コンペで募集し、その入選案を建設したことである。
 そのコンペの審査員の顔ぶれがすごいし、審査員もモデル住宅の設計していて、興味深い。
(【未来が明るかった頃③】住宅博覧会の建築家によるモデル住宅へ、つづく)

2015/03/24

1072【未来が明るかった頃(1)】原子力飛行機に未来の希望が乗っていた高度成長夜明け前

 こんな写真のある本が書棚から出てきた。なんとまあ、原子力飛行機である。
 戦争からようやく立ち直った人々の心の中に、原爆を超えて原子力に代表される明るい夢と希望の未来が待ち受けている(と思っていた)1956年のことであった。

 ウチの書棚の膨大な本の処分整理をぼつぼつ始めた。山口文象関係の書棚から、忘れていた珍しい本が出てきた。
 「楽しい生活と住宅博覧会」(朝日新聞社1956年11月1日発行)とある。その年の3月から5月にかけて69日間、奈良の近鉄奈良線あやめ池遊園地で、朝日新聞社が主宰して開催した博覧会の記念アルバムである。
今日の眼から見ていると、その頃のいろいろな社会情勢が反映されていて、じつに興味深い。
 これが建築家・山口文象資料のひとつであるのは、この博覧会でモデル住宅を設計して建てていることと、博覧会行事の住宅公開コンペの審査員をしているからである。

 この本をはじめから見ていくことにしよう。
 博覧会場は、近鉄あやめ池駅前のあやめ池遊園地の第1会場と、隣りの学園前駅近くの新開発住宅地の第2会場である。
 あやめ池遊園地では、生活と住宅に関する諸情報の展示で、これは見世物小屋の立ち並ぶいわゆる博覧会形式である。
 第2会場の学園駅の方では、新規造成地にモダンリビングの当時流行のモデル住宅を建てて、これを売りだしている。近鉄による郊外住宅地開発の先鞭であったようで、この建売住宅を売るのが博覧会の本当の目的だったらしい。

 博覧会と言えば、万博は別格としても、あちこちで独自の博覧会が開かれる。
 1956年と言えば、1945年の終戦のどん底から、1950年勃発の朝鮮戦争による特需景気で浮上し、日本全体が戦争の疲弊からやっと立ち直りつつある時期だった。
 この年の政府が出した経済白書に、「もはや戦後ではないとあった。未来への希望を無理やりにでも抱いて進んでいた頃だ。

 そのころ全国各地で、地方主催の博覧会がめったやたらに開かれていて、岡山市での博覧会に行った記憶がある。ウィキをみると各地の博覧会が書いてるが、そこに「岡山産業観光大博覧会(岡山県、1954年)」とあるのがそうだろうか。
 それら中でも特徴的なのは、「原子力平和利用博覧会(東京都・広島県広島市など全国11都市を巡回、1955年-1957年)」である。未来への明るい希望の火だった。

 その未来への希望の火は、この住宅博覧会でもバッチリと展示されている。それは原子力飛行機という未来の旅行の姿としてである。
 会場の中央に鎮座している原寸大の原子力飛行機の模型は、「前長200尺、翼長145尺、胴体最大直径18尺」とあるから、たぶんこれは原寸の模型であろう。内部に観客が入るようになっている。

 その周りにはアメリカ軍の戦闘機とともに、旧日本軍の「零戦」や「飛燕」が展示してある。終戦から15年経つと、もう空襲のことを忘れるたのか、忘れたかったのか。
 それから60年後の今、わたしは原子力飛行機なるものの実在を聞いたこともない。そんなものが墜落してきたらどうなるのか。ネットで見ると、原子力飛行機開発はとうの昔に放棄されたらしい。

この博覧会のあった1956年と言えば、その前年に原子力基本法ができ、この年に原子力員会が発足した。委員長は読売新聞社主の正力松太郎、委員参与には朝日新聞の田中慎次郎もいた。朝日主催の博覧会に原子力飛行機が登場するのは不思議でない。

 そして日本で最初の原子力発電は、東海村で1963年10月26日だった。飛行機に乗ることさえも夢の夢の時代のこと、その飛行機さえも飛ばす夢のエネルギーだった。
 原爆を超えて明るい希望のエネルギーは、今や3・11を経て不安なエネルギーになり果てた。

 面白いのは、この飛行機と並ぶ見世物が、飛騨白川郷から移築してきた合掌造り民家だったことである。その頃に電源開発していた御母衣ダムで水没する庄川村の民家を持ってきたのだろう。これは水力発電というエネルギーの犠牲になった秘境から来たのだ。
 原子力、飛行機という未来の最先端風景と、秘境、茅葺民家という過去の伝統風景があり、その間にモダンリビングというその時代における最先端生活風景があるのだった。

 なお、この博覧会でのモダン建築として円形劇場が建った。その設計者は、円筒形建築で売り出していた坂本鹿名夫だった。その後、ここでOSK松竹歌劇団(日本歌劇団)が定期公演を行っていた。
 この博覧会の目的は、新開発住宅地の土地と建物を売ることだったのだが、その客寄せに原子力飛行機も大きな役割を持ったのが、未来に希望をもつべき世相を表していて興味深い。
下に近鉄あやめ池駅と博覧会ゲート、右上に円形劇場、左上に原子力飛行機
このときに用意していた26戸の建売住宅は、抽選により完売した。69日間会期中の入場者は80万人とある。
 1926年開園のあやめ池遊園地は、2004年に廃園となって、住宅地開発だそうだ。
 そういえば、わたしには親しみがあった東急沿線の多摩川園遊園も二子玉川園遊園も、とっくになくなった。

 その年、わたしはと言えば、大学受験に失敗して、小さな城下町盆地の森の中に逼塞して、この1年は人生には存在しなかったことにするべく受験勉強であり、明るい未来があると自分にムリヤリ信じさせるしかない日々だった。

 (【未来が明るかった頃(2):郊外開発のモダンリビング】へつづく)

2015/03/23

1071歌劇「オテロ」を観てきたが実は歌劇「イアーゴ」だなこれは

 久しぶりのオペラ見物、ヴェルディ作「オテロ」、原作はシェイクスピア、はじめて観た。
 音楽の展開は面白かったが、ストーリー展開は「?」の感だった。もっとも、歌劇や能楽のストーリーについてマジメに考えると、どれもバカらしくなるから、それはよしとしよう。
 目と耳が楽しければよいというのが、オペラだろう。 

 第1幕の初め、オテロが嵐の中を船で凱旋してくる。ようやく上陸して最初の言葉が、憎い回教徒を海に沈めてきた、という。
 おいおい、いまどき、それを言うのかいって、しょっぱなで現実に戻ってしまった。
 近ごろは回教徒とは言わないから、原語(イタリア語)はイスラム教徒となっているのを、字幕ではわざと回教徒としたのだろうか。
 
  このオテロが、いとも簡単にイアーゴに騙されて妻を殺すという筋書きを、なんとも理解できない。これまでも誰もがそう思うらしく、そのことでパンフレットに解説が書いてある。
 それによると、実はシェイクスピアの原作にあった第1幕を、ヴェルディのオペラではカットしているのだそうである。
 そのカットした原作の第1幕では、オテロの出自がネグロイドのイスラム教徒であったのが、キリスト教に改宗し、底辺から出世してコーカソイドの貴族の娘デスデモーナとの恋を実らせたことによる、社会的摩擦と個人的苦悩の根源が語られているそうだ。

 このオペラの主題は男の嫉妬だが、実はその裏には宗教や人種問題が潜んでいるのであった。だからいきなり、回教徒撲滅が出てくるし、主役ひとりだけがネグロイド人種のムーア人で、ほかはみなコーカソイドなのである。
 もっとも、わたしは原作を読んだことはないから、19世末のヴェルディや原作者の17世紀初のシェイクスピアが、宗教や人種に関して、今日的な意味で問題と考えていたかどうかは知らない。後世の解釈かもしれない。

 カットされたシィクスピアの第1幕を知らないと、オテロのあまりにもおバカな行動が、なんとも理解できない。
 つまり、このオペラをつくった1887年の頃は、これを観る人たちは17世紀初のシェイクスピア劇を、すでに知っているという前提で制作されているのだ。
 おや、能と同じだな。連想したのが、日本のオペラともいうべき能楽である。わたしはまたもや能楽を観る眼でオペラを観ることになる。

 多くの能は、それが作られた頃には古典文学になっていた源氏物語、平家物語あるいは伊勢物語について、観客は既に知っているという前提で筋書きできている。古典文学を知っていないと面白さが半減する。このオテロの場合と同じである。
 突然に思い出したのは、わたしは10年以上まえのこと、「オセロ―」という新作能を観世能楽堂で見たことがある。内容を忘れたが、観世流の津村礼次郎がシテを演じたような気がする。

 戻ってからオセローと津村をネット検索したら、津村禮次郎のサイトには、次のようにある。
・1991年に新作能「オセロー」(上田邦義能原案・津村禮次郎作能)初演
 ほかには、「英語能・シェイクスピア能・現代口語能」のページに次のようにある。
・平成4年10月(1992年) 公演「新作能・オセロー」(日本語)作・演出(初演)(宝生能楽堂 主催:朝日新聞社。観世流緑泉会公演、シテ・津村礼次郎。能楽師による我が国最初のシェイクスピア能公演。
・平成12年6月15日(2000年)、『能:オセロー』シテ:津村禮次郎、アイ:野村萬斎
 初演が1991年か92年かわからない。またべつに、宝生流で2014年に初演ともある。
 わたしが見たのは2000年だろうか。狂言方の萬斎がイアーゴとして登場したのが面白そうだが、覚えていない。

 能ならばどうするだろうかと思いながら、オテロの舞台を見ていた。
 群集劇の場面が、その動作や衣装の多様さが眼では面白いが、視覚が散漫になってどこでオテロやイアーゴが歌っているのかわからない。
 能ならば、シテのオテロとワキのイアーゴの歌唱に、地謡が群衆の歌を謡うだろう。そう思いながら、舞台をみていた。

 舞台装置も視線を散漫にさせるが、ちょっと面白い装置ではあった。完全なるリアリズムでもなく、かといって抽象でもない。よく見ればかなり具象であり、同じ装置を演技中の舞台上で動かして場面転換する。
 そして中央には8角形の置き舞台があって、ここが演技中心であることを示している。

 置き舞台は能舞台だとすれば、周りに立つ装置が煩瑣なのである。同じ装置を向きを変えて使いまわしするから、場面が転換しても視覚では転換前の印象を引きずってしまう。
 これが能ならば、わずかな作りものはあるばあいもあるが、舞台装置を観客の頭のなかに作らせるから、もっと自由に観ることができる。但し、それには演者も観客も技量と努力を要する。
 吊り橋のような装置を上げ下げして出入り場面があったが、これは能ならばまさに橋掛かり演出で、実に効果的になるのになあ、と思った。

 このオペラの主役は、実はイアーゴだなと思いつつ観た。ただし、これはストーリーの上でのことで、観た舞台のイアーゴの演技は、なんとも脇役級であった。
 イアーゴを主役にして宗教や人種問題を主題に据えた演出の、オペラ「オテロ」ならぬオペラ「イアーゴ」を観たいものだ。
 たぶん、既にどこかにあるような気がする。

 3階席の一番上手の一番前の席で6000円、よく観えよく聞こえて、値段の割にはよい席だった。
 しかし、今回つくづく思ったのは、上階の席への出入りには、これからだんだんと苦痛になるだろうということだ。客席階段の蹴上げは高いし、踏み面の幅は一様でないから、けっこうヨタヨタしてしまった。まあ、運動というか、リハビリテーションにはなった。
 年とると安い席に行けなくなるなあ、そうか、能楽堂に年寄りが多いわけがわかったぞ、だって、あそこは平土間席ばかりだもんなあ。


神奈川県民ホール開館40周年記念
神奈川県民ホール・びわ湖ホール・iichiko総合文化センター・東京二期会・神奈川フィルハーモニー管弦楽団・京都市交響楽団 共同制作公演
ヴェルディ 歌劇「オテロ」全4幕
新制作/イタリア語上演日本語字幕付
公演日時: 2015年03月21日(土)~2015年03月22日(日)
指揮:沼尻竜典
演出:粟國 淳
装置・衣装:アレッサンドロ・チャンマルギ
照明:笠原俊幸
音響:小野隆治
合唱指揮:佐藤宏
舞台監督:菅原多敢弘
出演:21日/22日 
オテロ 福井 敬/アントネッロ・パロンビ
デズデモナ 砂川涼子/安藤赴美子
イアーゴ 黒田 博/堀内康雄
エミーリア 小林由佳/池田香織
カッシオ 清水徹太郎/大槻孝志
ロデリーゴ 二塚直紀/与儀 巧
ロドヴィーコ 斉木健詞/デニス・ビシュニャ
モンターノ 松森 治/青山 貴
合唱:びわ湖ホール声楽アンサンブル、二期会合唱団、赤い靴スタジオ(児童合唱)
管弦楽:神奈川フィルハーモニー管弦楽団

2015/03/19

1070【世相戯評】東洋ゴム免震偽装事件だなんて昔あった姉歯耐震偽装事件の教訓は活かされてなかったのか

熊五郎:ご隠居、大工仕事ですかい、精が出ますね、あっしがやりますよ。
ご隠居:おや熊さん、いらっしゃい。そう、この長屋もあちこち傷んで、時にはこうやって大工もするんだが、本職のおまえさんにやってもらいたい。
:おまかせを。でもなんですねえ、このボロ長屋じゃ、あんな心配はなくて、よかったですね。
:ボロはよけいだが、なにが心配ないんだい。

:ほら、ゴム屋が免震偽装って、震えないって嘘ついて、震えるビルが建っちまったって話ですよ。この築300年のボロ家なら、免震ゴムは使ってないでしょ。
:なに言ってんだい、これでも築50年だよ。免震ゴムはないけど、何回もの地震をくぐり抜けて建ってるってのは、これこそ免震の証拠だよ。
:アッ、そいういやそうですね。
:昔々、姉歯って名前の建築の設計屋が、嘘ついて地震に弱い建物を設計して、日本中で大問題になったけど、また起きたんだね。
姉歯耐震偽装事件はまだ完全解決してないらしいですね。とにかく、あれで建築設計屋性善説は完全に壊れて、建築家悪人説になりましたね。
:そうそう。で、今度はゴム屋が悪者なんだね。

:今朝に新聞にこうありますよ。
 東洋ゴム工業の3製品の評価を行った日本免震構造協会の澤田研自・専務理事は
 「大企業が相手なので性善説に立っている。制度そのものを考え直す必要がある」と話す。
:おお、性悪説に変えるんだな。それにしてもこの澤田って人は、けしからんね。
:そうそう、手抜き評価作業しましたって、言ってますもんね、でもまあ正直な人だ。
:もっとひどいのは、「大企業だから性善説」って言ってるよ。つまり中小零細は性悪企業なんだね。この人はどういう人なんだろ?
:おお、そうですよね、ひどいよなあ、この差別発言は。これからは政府認定の品物を買うときは、中小零細企業製品にしますかね。それなら悪者扱いで、しっかりと検査してくれてるんでしょうからね。

:新聞にこんな見出しがついてるよ。
 戸惑うマンション住民「資産価値下がる
:そうでしょうねえ、その偽免震マンションは売れませんよね。
:でもね、そもそも「マンション」じゃないよ。マンションてのは、アメリカ大統領のいるホワイトハウスのような大庭園のある豪邸を言うんだよ。
:また、それを言う、「名ばかりマンションって言いたいんでしょ。
:それに、「資産価値が下がる」って心配もおかしいよ。
:だって、売れなくなるんだからしょうがないでしょ。
:あのね、住宅ってのは憲法にも言う、人間が生きる基本的人権にかかるものなんだよ。それを最初に心配するのが、売れるか売れないかって商品価値でしか判断しないのが、世の中おかしんだよ。

:そういやそうですね。安心して暮らせる生活基盤が壊された、そういう心配を第一にするべきですよね。
:あのね、日本の居住政策は、住宅を基本的人権としての社会政策じゃなくて、景気対策の経済政策でやってきたんだね。庶民は一世一代の大借金しないと住宅が手に入らない。だから、借金のカタの住宅は資産価値で判断するんだよ。安全とか環境で価値判断をしないように、政府に飼いならされてしまったね。
:だから大企業性善説に立って、なんでもかんでも大企業が儲かるように任せているんですね。アベノミクスで大企業ばかりが繁盛するのも、環境汚染やエネルギー消費に関して性善説でやってるからですね。

:免震構造って、建物が免震ゴムって下駄を足元に履いてるんだってね。それで建物が地震で震えるのを免れるんだね。ぜんぜん揺れないんだ。いいねえ。
:いや、震えを免れるんじゃなくて、震え方の急激さが減るだけらしいですよ。揺れることは揺れるんだけど、揺れ方が違うらしい。
:エッ、なんだい、免れないのか、じゃあ免震ってインチキ誇大ネーミングだよ。
:そうそう、減震構造、減震ゴムって言うべきですね。
:建物がゴム下駄を履いて揺れないなら、わたしはね、ゴム草履で歩けば転ばないと思ったんだけどねえ、ダメかい。最近、どうも徘徊するときヨロヨロするんだよ。
:アハハ、でも、ちっとは効果があるかもしれませんね。免震ゴム草履特許とって、高齢者向けに売り出せば大儲けかもなあ、東洋ゴム以外のメーカーで作らせてね。




:それにしても、東洋ゴムってひどい奴だね。
:ほかのゴム製品のメーカーは大丈夫なのかなあ。
:いま思いついたけど、ゴム屋がインチキしたらだよ、え~と、ほら、あのゴム製品があるだろ、あれは大丈夫なのかね。
:変なところに頭が回るね。日本は見事に人口減少しましたから、避妊偽装じゃなかったんでしょ。
:じゃあ、これからは、積極的に偽装してもらいましょ、その製品については。


関連参照ページ⇒姉歯耐震偽装事件
          ⇒名ばかりマンション

2015/03/18

1069【終活ゴッコ】たくさん溜まった年賀状と名刺を捨てる作業をしたら意外に面白かった

 ここ数年は、知人との音信は電子メールシステムばかり使っているから、郵便による紙情報がやってくることは少なくなった。ときにはface bakaが通信手段になる。
 特に仕事をやめてからは、郵送でやってくる紙は、150枚くらいの年賀状が9割以上を占めている感じである。

 仕事をしている頃は、年賀状が300枚くらいは来たし、こちらも250枚くらいは出していた。わたしはフリーランスなので仕事を徐々にやめていったのだが、それにつれて出す枚数を絞っていった。
 更に2009年からは年賀状を出すのをやめて、2月頃に寒中見舞いにしたら、来る年賀状も150枚くらいに減った。寒中見舞いにしたのは、喪中の葉書をいただいた方にも挨拶できるからである。
 今年の寒中見舞いは85枚にした。これからも年ごとに次第に減っていくだろうから、これはもう立派な「終活ゴッコ」である。

 最近7年分のいただいた年賀状を、なんとなく保存していた。これを捨てることにした。まずは一枚一枚の住所等を、PCに保存してある住所録と照合して、必要な訂正をした。
 3年ぶりくらいに住所録整理をしたら、削除する名前もたくさんあった。死亡者である。こういうのをまとめて削除するのは、あまり気分がよくないものと知った。
 そして全部の年賀はがきを、ビリビリと破ってゴミ袋にすてた。なにしろ1000枚以上はあるだろうから、紙質が良いのでけっこう力が要って、手が痛くなってしまった。
1000枚以上ビリビリ破くと手が痛くなった

 それを終えて、そうだ、ついでに名刺も溜まっているから、この際にこれも整理しようと、終活モード全開になってきた。
 名刺の数は、いっときは、5~6000枚はあったかもしれない。これままでに整理をときどきやってきているから、今ではたぶん1000枚くらいだろう。

仕事をやめてからは、名刺を出すことがどんどん減って、いまではめったに出すことももらうこともない。会合で多くの人に出会っても、積極的にそうするべき気分にならないからだ。時には、人さまからいただいても、「ごめんなさい、いま、名刺を持ち合わせてないので」と、こちらが出さないこともある。

 年賀状は一応、今年の分だけ一枚一枚点検してあとは見ないで捨てたが、名刺については、最近のものを中心に100枚ほどに絞って、あとはざっと見て捨てた。
名刺整理箱に100枚ほど残した
ざっと見ていると面白かった。同じ名前の人の名刺が何枚もあるのは、その人が肩書が変るごとに下さったのであろう。あるいは、お会いしたことを忘れて、何度も名刺交換したのだろう。
 昔の名刺は、黒文字で縦書きがほとんどだったが、次第に横書きになり、色刷りになり、写真が入ってくる。
 わたしは90年代から、外から支給される場合は別として、自分の名刺はすべて自分で、PCとプリンターで作ってきた。だから、気分でしょっちゅうデザインを変えている。

名刺を繰っていると、懐かしい人々の名前が何度も登場して、この方はこうだった、この方とはああだったとか、あれこれと人柄とその前後の状況を思い出すのだった。
 わたしはいただいた名刺に、その日付と場所、紹介者などを書き込んでいるから、もしも自伝を書くならこの名刺がある役立つだろう。
 名刺のデジタル化は本よりも簡単だから、やろうかとふと思ったが、まあ、もういいやと、思いきって捨てたのである。デジタル化は、スライドフィルムだけでいまは手いっぱいである。

 わたし自身の昔からの名刺も何枚も出てきた。最も古い名刺には、1965年と書き込みがある。東京の地名になっているから、その頃に東京に転勤したのだろうか。
もっとほかの重要肩書名刺もあったような、、左上が最古、右下が最新
その後、何回も肩書が代わり、新たな肩書が加わり、あるいは別の肩書の名刺も並行して持ったり、その上に仕事場も自宅も何度も引っ越しをして住所が変り、その都度に仕事用と私用の2種の名刺をつくっていたから、いったい何種類の名刺を使ったか、いまでは思い出せないほどの数であった。

 最近は名刺を使うことがほとんどなくなったので、それはそれでなんだかサミシイ。まあ、名刺を使うことがなくなるということは、「終活ゴッコ」が順調に進行しているということであろう。
 

2015/03/16

1068【終活ごっこ】たくさんの蔵書の一部を知人に貰っていただいたがまだ残りの方が多くて悩みは尽きない

 人間を永くやっていると、いろいろものがたまる。わたしには宝物や資料でも、他人にはゴミであるものばかり、今ではそれらをどうやって捨てるか、悩んでいる。
 わたしがボケたり死んだりしたら、家族は迷惑なだけである。特別に家族思いでもないが、気にはなる。

 インタネットのわたしのサイト「まちもり通信とブログ「伊達の眼鏡」には、わたしの執筆したページが、もういくつあるか見当がつかないほど、溜まりに溜まっている。
 しかし、後に迷惑かけることはないように、公開を前提の内容であるし、物体でもないから、後々に問題はないだろう。

 一番の困りものは、本、書籍の類である。ゴミではあるがゴミではなくて、溜まりに溜まっていて、都市系、建築系、歴史系、文学全集などなど、いったい何冊あるのか見当がつかない。
 数えるのが面倒なのでやったことはなが、1000冊以上は確かだろう。これでもこれまでの4回の引っ越しで、そのたびに整理したのだが、いつの間にか増えて溜まってくる。
 一昨年から、今後は本を一切買わないと固く決心したので、そこからは増えていないはずである。

 古本屋に来てもらって処分するしかない。それでも、古本屋も持って行かないものも、たくさんあるような気がする。
 うちに一冊も本がなくなったら、せいせいするだろうか、それとも寂しくてたまらないだろうか、どっちだろうか。
 若いころは、本を買うのが大好きであり、家の本棚の場所がなくなるのが大悩みだった。
 50歳で自分のオフィスを持ったとき、これで本棚の心配なく本を買うことができると、嬉しかったものだ。今の悩みなど想像もできなかった。

 先日のこと、face bakaに、知人が探していたある雑誌を、古本屋を見つけて買ったと、喜んでいる記事を載せているのを見た。
 その雑誌をわたしは持っているだから、言ってくれれば差し上げたのに、と思ったのだった。

 そこで、その知人にわたしの本棚の一部(全体の5分の1くらいか)の写真つきで、この中でご入用の本があれば、喜んで贈呈しますとメールを送った。
 迷惑かもしれないと思ったのだが、返事が来て写真の本に印をつけたので、それをほしいと言ってくれたのである。

 ありがたやと、さっそく抜き出して送るための箱詰めしたら、3箱にもなったのには驚いた。
 だって、抜き出したあとの本棚は、まだまだたくさんの本が詰まっているからだ。
 これで200冊もあるのかと数えたら、たったの73冊で、これまた驚いた。
知人に送り付けても、残りの本の方がはるかに多いばかりか、これでも全体の5分の一ほど
73冊を箱詰めしたら3箱にもなったのに驚いた
 
箱詰めしていて、こんなボロ本を送りつけていいのかなあと、思うものもあった。ひとつは「共同研究 転向」(思想の科学研究会)(3冊)である。すっかり紙が茶色になっている。
 もう一つは、二川幸夫・伊藤ていじによる「日本の民家」(2冊)である。この本のことはここに書いた
 わたしは本を集める趣味はなくて、資料としか考えていないので、現物には愛着はないが、どちらも1960年代の若い貧乏なころに無理して買ったことを、ふと思い出させてくれた。

 さて、まだまだ本はあるなあ、どうしようかなあ、また誰かに本棚お見合い写真を送って、無理やりお嫁入りさせるかなあ。
 実は、未読本がかなり多いので、それを読んでから処分したいのだが、未読本の読破終了前に、ボケが来るだろうから、もういいのだ。早くなんとかしなくっちゃ。
 終活ゴッコは、まだまだ続く。



2015/03/14

1067【終活ごっこ】技術革新で30年間も生えていたシッポがなくなってついに無線になったウチのPC

 わたしのPCから、シッポが一本消えた。インタネットつながりがようやく無線になって、LANケーブルのシッポがなくなったのである。シッポに変る「モバイルルーター」なる器械がやってきたのだ。
 もっとも、まだいくつかのデバイス用のシッポが生えているのだが、。

 うちのPCのこの通信シッポは、6年前に生えてきたのだが、その前は電話線がシッポだった。電話線時代でも、出先でどうしても無線でやる必要がある時は、携帯電話機をシンポにしてインタネット接続していた。

 ニフティサーブなるプロバイダーに登録して、電子通信(インタネットとはまだ言わない頃)を始めたのが、今から30年くらい前だったから、それだけながらく通信用シッポをつけてきたことになる。
 もちろんその間にPCは何台も替わった。インタネット時代が来る前は、ワードプロセサー専用機を電話線につないで「ワープロ通信」をやっていた。それが「パソコン通信」になって、今はインターネットである。

 そしてそれが10年くらい前から、世のなかはワイヤレス全盛時代になっているが、わたしはもう外で仕事することはほとんどないから、まあいいやと、シッポつきでやってきた。
 有線から無線にする手続きが、もう面倒な年ごろになってしまったこともある。
 でも、いよいよ年取ると、老人ホームに入るってことになるかもしれない。その時もPCを手放そうとはとても思わないのだが、問題は行く先にLANがあるだろうかということである。

 そこで思い切って、今のうちに無線化することにしたのだ。無線化すれば、どこに引っ越そうとPCとモバイルルータさえ持っていけばよい。
 そう気がついて、今やその筋の専門家システムエンジニアになっている息子に、その無線化を頼んだのである。

 それがまあ、なんともいとも簡単に無線化したのであった。昔は新システムとか新PCなどのインタネット設定は、超面倒で疲れはてたものだが、これはまあ拍子抜けするくらい簡単にやってくれた。
 しかも、通信量4GB/日を息子名義で共用する契約で、わたしは息子の通信扶養家族になったのである。なんとも親孝行ものであると息子に感謝している(多分、初めて)。
LANケーブルを抜いてもインタネットにつながっているウチのPCとクレ-ドルに乗るモバイルルータ
さてこれからわたしがやるべきことは、30数年つきあったNIFTYとの解約、NTTとの光通信の解約、そしてひかり電話を一般電話に戻すことである。
 これらが面倒なような気がするなあ。ボケ防止にやってみるか。

 ニフティで書いてきた「まちもり通信」サイトのページは全部をgoogleサイトにコピーしたし、ニフティのメールアドレスがなくなっても、いまやgmailにしているので、もう問題は起こらないだろう。
 起きても、もう仕事してないから、気にしないのだ。


2015/03/12

1066ただいま渋谷駅は巨大な立体迷路遊園地かつ健康ウォーキングランドでバリアフリーくそくらえ

 東京の渋谷駅は、ただいま、大改造中である。駅を降りると出るルートがしょっちゅう変わって、なにがなんだかわからない。
 でも、高齢社会に生きる私のような高齢者にとって、これは実に素晴らしいことである。
 なにがしばらしいかって?、それをこれから書く。
東横デパートが消えた
東横線が東にぐんと移動して、しかも地上2階から地下5階に深ーく深ーくもぐりこんで、今では地下鉄になってしまった。
 地上の2階や3階の上空にあるJR線、京王線、銀座線の渋谷駅とは、水平距離も増えたし、垂直距離も長くなって、とてもじゃないが同じ名前の駅とは思えない。
 地下鉄大手町の各路線の駅があまりにばらばらで、ひどいと思っていたが、あれよりもすごくて渋谷駅が勝ったな。

 それに加えて、駅と周辺の大再開発工事中とて、あっちでもこっちでもトンカチだから、乗り換え相互連絡通路が工事の場所をよけるためらしく、何度も曲がりくねり、上り下りするので、複雑極まる上に、その通路の位置が行くたびに変わっている。
このような工事計画を考える人は天才だと思う。
 渋谷駅で乗り換える度に思うのだが、ここでは立体迷路を通ってクイズを解いている楽しみで、頭のボケ防止になるし、ウォーキング運動にもなって健康によろしい

 その上、どういうわけか、地下深い東横線から、地上への出入りルートで、下りエスカレーターはあるのに上りのそれがないところがあり、うっかりそのルートにはいりこんだら、横目でエスカレータで下る人を見ながら、長ーい長ーい上り階段をいつまでもいつまでも登って行く羽目になる。実は昨日、それをやらされたのだ。
 そういう時は、これはありがたいことだ、足腰の衰え防止に役立つなあと、ヨロヨロしながら、ハアハアしながら、感謝をするのである。

 更にまた、地下に潜る前の東横線は、渋谷駅が終点だったから、横浜から乗るわたしは、うっかり寝過ごしても大したことはなかった。
 ところが今やメトロ地下鉄に乗り入れて、そこから西武線にもつながって、ハッと目覚めると埼玉の山奥深くにいて、はて、秩父の狐に化かされているのか、ってことになりかねない(らしい)。
 だから、うかうかと居眠りもできずに緊張して電車に乗るから、これまたボケ防止になる。ありがたいことだ。

 こういう高齢者の頭と足腰を鍛える場が、便利な都心部の交通拠点に用意されるのは、大都会だからだろうなあ、田舎ではどこに行くのも車だもんなあ。健康な高齢者は、田舎よりも大都会に多いに違いない。バリアーフリーなんてクソクラエである。

 思えば利用者にとっては、ただ今の渋谷駅は被災地であるよなあ、我慢して復興の日を待つしかあるまいが、大きな問題は、いくらボケなくて健康になっても、その日まで生きていないだろうってことだ。

 昨夜遅く、吉祥寺からの帰りに、井の頭線から東横線へと渋谷駅で、乗り換え通路をヨロヨロしながら、ハモニカ横丁の安酒酔っ払い頭でこう思ったのであった。
こんな風になるらしいが、わたしが生きているうちは無理だな
思い出したが、横浜駅も近いうちに駅ビル工事が始まるらしいから、こちらも立体迷路出現に違いない。う~む、こりゃもうボケようったって、ボケさせてくれないな。

◆渋谷ならこちらも参照  渋谷駅20世紀開発の再開発時代



2015/03/07

1065【言葉の酔時記】ちかごろの朝日新聞はあの事件からは誤報しても安易に訂正お詫びするような気がする

 例の慰安婦強制連行吉田証言と福島原発事故吉田調書の両誤報(どっちも吉田でこんがらかる)のお詫び事件以来、朝日新聞には誤報訂正がけっこう頻繁に載るようになった感じである。それも、文末に「訂正してお詫びします」と書いてある。
 あの事件の前までは、「訂正します」だけで、「お詫びします」が付くことはめったになかった。明らかにお詫びするべき訂正でも、それがなくて変だなあと思っていた。

 また、どうして間違ったかも書くことはなかったのが、最近は確認しなかったからとか、なんだかテキトーな理由がつくようになった。
 ちゃんとお詫びと書くようになって、それはそれでよくなったと思うが、一方で、「訂正してお詫びします」と書けば、なんでも許されると思うようでは困る。

 さて、では最近の朝日新聞訂正お詫び記事の例を二つあげる。
 ひとつめは、今日(2015年3月7日)朝刊に、ダムのことを「建築構造物」と書いた記事(1月31日)の件の訂正である。
 正しくは「土木構造物」と書くべきを、建築物は建築基準法で「土地に定着する工作物のうち、屋根及び柱若しくは壁を有するもの」なのに、「確認が不十分でした」ので「訂正してお詫びします」とある。

 ふ~む、お詫びするほどの誤報というのだから、ダムのことを建築構造物というと、建築基準法違反で検挙されるのだろうか。
 いや、建築基準法には「建築物」とはあるが、「建築構造物」とは書いてないよ。
 誰か厳重に訂正申し入れした、マニアックな人でもいるのかしら。
 それじゃあ、え~と、ダムって壁だから、もしもダムの上に屋根をつけたら建築物になるんだな。

 そもそもそんな法律表現を持ち込んで訂正するほどの誤報記事なのだろうか。庶民から見れば、ダムが建築だろうが土木だろうが、どっちでもよいことだ。
 法律用語と新聞記事の関係で用語訂正をしだすと、きりがないような気がする。例えば「容疑者」と「被疑者」とかね。

 では、ダムのことを「土木構造物」と言わなければならないと、例えば「土木基準法」なる法律があって、そこに書いてあるのだろうか。そんなこと聴いたこともないけどなあ。
 そもそも「構造物」とはなんだろうか。「構築物」とは違うのか、「建造物」とは違うのか、「建築物」とは違うのか。
 あのね、ここは「建造物」と言えば、建築だろうが土木だろうが、物置だろうがタワーだろうが、穴ぼこだろうが(これは無理かな)、どれでも含みますからね、新聞屋さんよ、これを使うと誤報率が減少しますよ。
 
 二つめの訂正お詫び記事は、昨日の夕刊にある。
 谷崎純一郎の細雪に登場する4姉妹の和服姿を描いたイラストレーション(丸山敬太画)が2月27日の夕刊に載ったのだが、それが着付けの作法にあっていなかったというのだ。
 画き替えしたイラストレーションを載せて、「紙面編集の際に確認が不十分でした」とて、訂正お詫びである。
訂正お詫び記事2015/03/06

元のイラストレーション2015/02/27
 こういう寄稿の記事でも、やっぱり新聞屋が謝ることなんだろうか。
描いた人の肩書がファッションデザイナーとなっているから、衣服関係のプロである。プロが描いたのなら、それなりに意図があるはずだ。だって、この絵に添えてある描き手の話の内容が、着物の着付けのことなんだからなあ。どうなんだろうか。
 もしも本当に間違ったとすれば、それは編集部じゃなくて、丸山敬太氏がお詫びするべきのように思うし、せめて連名でしょ。
 それとも、寄稿でもいったん新聞記事にすると筆者の手を離れるのだろうか。

 これって、たぶん、読者の中の着付けマニアのオバサマ方が、まあ、朝日新聞ともあろうものが、ファッションデザイナーともあろうものが、なんて、厳重に訂正せよって投書や電話が、わんさと押し寄せたのかもなあ。
 と思って、電網検索したら、こんなのがあった。
  うん、映画スチル写真と比べても、なんだか着付けが違うよなあ。


【言葉の酔時記】

2015/03/05

1064【横浜ご近所探検】半年前の台風による横浜成田山の崖崩れ死者発生事故現場は工事再開

去年の秋、台風がやってきて、横浜の市立図書館近くにある、横浜成田山なる寺院の工事現場で、がけ崩れが起きた。
 崖上の工事現場の足元から崩壊して、崖下で潰された寺院の建物に居た修行僧が死んだ。
 その事故の直後に現場の様子を見に行ってここに書いている。今日はその続きである。
横浜成田山のがけ崩れ現場の事故発生当時の様子2014/10/07
半年ぶりにそこを通りかかったら、崩れた崖面はコンクリートで固めてあり、崖の直下にはまた崩れたら受け止めるような、高いごつい塀を建ててあった。
 崖下のつぶれた寺院は、キレイにかたずけられて空き地になっている。立て看板に「現在参拝ができない状況であります」とあるから、ご本尊はどこかに避難しているのだろう。
横浜成田山の崖崩れ事故現場の半年後の様子2015/03/04

たぶん、崖上の寺院の工事中は、崖下の寺院にご本尊を移して、営業を(?)続けていたのだろう。今となっては後の祭りである。
 後から言ってもしょうがないけど、初めからこうやって工事していれば、死人は出なかったろうに。

 わたしは宗教心は皆無だから素朴に不思議に思うのだが、この寺院では参詣者や自動車の無病息災・身体健全・息災延命・安全祈願をするらしい(寺院のサイトに書いてある)が、自らの工事の安全祈願は役立たなかったのだろうか。事故で死者を出しても、ご利益はあるものだろうか。
急崖の上と下を急階段でつないで建っていた崖地崩落前の横浜成田山満福寺と周辺の様子
参照⇒横浜ご近所探検隊が行く

2015/03/02

1063戦後復興期の横浜都心まちづくりの主役は防火建築帯か防火帯建築か:JIAシンポのこと

 わがボケ進行がいささかでも遅れるかもしれぬと、ときどき勉強会に出かける。
 2月末日、日本建築家協会(JIA神奈川)主催の二つのシンポジウムに顔を出してきた。会場がどちらも近くなので歩いて往復、午前の部のあと昼飯にうちに戻り、午後また出かけた。

 午前中のシンポは、『横濱らしい「横浜」戦災復興』と題して、横浜都心部の関内、関外にある防火建築帯をとりあげての話しだった。
 出演者は、その防火建築帯で博士号をとった研究者の藤岡泰寛さん、横浜を舞台に書き続ける小説家の山崎洋子さん、横浜の街を撮り続ける写真家の森日出夫さん。

 会場の参加者は100人もいただろうか、たぶん建築関係者ばかりだろう。テーマが地味というかプロ過ぎる。
 でもまあ、建築家たちがこの地味なデザインの戦後復興時代の建築群に目を向けるようになったのは、ようやくにして建築史にも戦後が登場し、大衆の建築と都市の時代が来たということだろう。
 でも、建築界は有名建築有名建築家主義の桎梏から、抜け出ることができるのだろうか。
横浜戦後復興期の防火建築帯造成事業の模範例:福富町

 藤岡さんの、横浜の近代史から説き起こして、戦後復興の防火建築帯までつながる話は、なかなかに面白かった。
 だが、面白いと思うのは、わたしが興味を持っているからである。それは、わたしが若いころ防火建築帯づくりに大阪で携わった経験があり、現在わたしが暮らす横浜都心の徘徊コースの日常風景のなかにあり、これまで若干は自主研究したこともあるからだ。
 専門研究者の研究対象となることも、建築家の興味の対象となることも、いろいろな意味で嬉しい。

 横浜の街で、その戦後復興建築が建ち並ぶ街を行き交う普通のひとびとには、開港記念館や赤レンガ倉庫のようには、見れども目には止まらないものだろう。
 それが証拠には、山崎さんも森さんも、このシンポに出演を依頼されて、初めて防火建築帯なるものを聞いて、歩いて眺めて、いつも見ている風景が、実は横浜の戦後復興に重要な役割を果たしたと知ったという。
 
 横浜の都心部では「歴史を活かしたまちづくり」と称する行政施策が行って、歴史的建築の姿を保全することで、地域のアイデンティティを目に見える街の姿にしようとしている。
 だが、戦前の近代日本開港の歴史を強調するスタンスにあり、戦後史はまだ評価されていない。戦後復興期をどう位置付けるのか、まだ見えていないらしい。

 戦後史のはじまりの、戦災からと占領からの復興まちづくりが、いま、ようやく評価の舞台に登ろうとしている。さて、その評価は、プラス側にでるのか、マイナス側にでるのか、なかなかに難しい局面にあると思う。
 戦前の様式建築とは違って、眼に見えて珍しくもないし、特別に美しくもないから、世間からは受けがイマイチだろうことは、赤レンガ東京駅と東京中央郵便局の保全への世間の態度にみるがごとしである。
 だが、これこそが普通の大衆の暮らす街の風景であり、横浜都心のベースとなっている景観なのである。
 
 防火建築帯へのわたしの評価は、既に書いているので改めてここには書かない。あの時代に復興建築に関わった者として、保全すべきだなんて感傷は持っていない。
 横浜都心ではこれらの建築群が、戦後から現在までの街のアイデンティティとなる風景を形成してきたことは確実なので、その風景の継承と新たな展開に、建築家たちが、あるいは横浜市の「歴史を生かしたまちづくり」行政で、今後どう取り組むのだろうかと、大いに興味を抱いている。
研究会が制作したパネル:防火帯建築の2015年分布状況

研究会が制作したパネル:防火帯建築の1970年代分布状況

 なお、気になったことを一つ。
 「防火建築」と「防火建築」という、似たようなふたつの言葉が横浜の研究者や建築家あるいは行政では使われているらしい。
 現に「防火建築群の再生スタディブック」なる本が出されているし、JIAには「防火建築研究会」があるようだ。 
 法定用語としては、耐火建築促進法に「防火建築」とある。

 だからといって、「防火帯建築」が誤用というのではないだろう。
 都市内の防火帯として耐火建築を並べる手法は一般的なことだから、その意味では防火帯建築と言ってもよいだろう。
 つまり、沢山ある防火建築の中の分類のひとつとして防火建築があるという概念であろう。

 どうでもよいのだが、言葉があまりに近すぎる並び方なので、知らない人が聞くと同じことを言ってるんだろうと、混同してしまうおそれがある。何とかしたほうがよいと思う。
 あの時代の建築と都市づくりの歴史と、現代へのその資産の継承に目を向けるものならば、防火帯だけではなくもっと広げて、例えば「横浜戦後復興都市建築」の研究と言ってはどうか。

参照
横浜都心戦災復興まちづくりをどう評価するか
横浜都心の戦後復興期残影と高度長期残滓(2013/07)
横浜関内地区戦後まちづくり史(2007)
横浜B級観光ガイドブック
戦後復興期の都市建築をつくった建築家 小町治男氏にその時代を聴く