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2012/06/17

631わたしも日本に出稼ぎに行きたくなったあの人の豪邸

殺人事件犯人として服役していたあるネパール人が、新証拠で無実かも知れないと分って、それはよかったが、ここからがわたしにはなんだかわからないが、釈放されて、故国に戻って大歓迎というニュースでもちきり。

 わたしが驚いたのは、そのネパール人が帰宅したカトマンズの自宅が豪邸であることだ。
 今朝の新聞を見ると、ギリシャ建築オーダーつき柱の立つ3階建ての家のバルコニーから、凱旋したその人が手を振っている写真が載っている。
http://goo.gl/ke1vo
 
 それで思い出したことがある。
 昨年、ネパールに遊びに行ってあちこち見てきたが、新開地の住宅地にいろいろな家が建っている。
 その多くは1~2階建てで、細いコンクリ柱の間にレンガを積んだものだが、なかにまさに今朝の新聞のような豪邸がボツボツと建っている。

 そのあれこれ洋風デザインのディテール引用が、いかにも成り上がり的なのが気になってガイド氏に聞いた。
 彼が言うには、それら豪邸はイギリスの傭兵として働いてきたゴルカ兵が、引退帰国して建てたもので、かれらの給与や年金が故国とは大違いにハイレベルだからそうだ。

 こちらはポカラの街の郊外にある山岳博物館の敷地から外を撮った。
 金網は博物館の囲いだが、外に見える新住宅地の手前は低カースト階級の家で、その向こうに新築の家が建ちつつある。

 その住宅地の中で撮った豪邸。

 そこで今回の豪邸である。
 そうなのか、日本への出稼ぎもこんなに立派な家を建てさせるほどの高収入になるのか。
 わたしの住む家は、あのマイナリとかいうひとの豪邸の何分の一かの大きさである。
 なんだか、ネパールに遊びに行ったのがはずかしくなった。
 わたしも日本に出稼ぎに行きたい。

2012/01/01

563フォトエッセイ「異文化への旅・ネパール風土逍遥」

めったに縁がないのに、2年連続で賞なるものをいただいた。

 フォトエッセイ「異文化への旅・ネパール風土逍遥」
 第16回彩の国ホームページコンテスト2011シニアの部最優秀賞
   (主催:埼玉県情報サービス産業協会)

 昨年も「風景を愉しむ」を応募してシニアの部優秀賞だった。
 シニアの部に限るのが悔しいが、少しは上達したってことらしい。
 あ、まさか年寄り応募者がわたし一人だけだったってことじゃないだろうなあ。
 2011年3月~4月の「ネパール400kmバスの旅」の一部を応募用に編集したのである。

追記2012年1月19日 本日表彰式あり、聞けばシニアの部応募は3点のみ。それに優秀賞は該当作なしとある。冗談抜きにこりゃ入賞率が高いなあ。シニア資格は60歳以上だから、もっといてもおかしくないのに不思議である。
 応募総数は108点、入賞は13点だった。わたしのほかは全員埼玉県内の人、しかも幸手中学校2年生の女生徒がそのうち5点を占めている。それはよいのだが、ほかの中学校はどうして応募しないのか。
 16回目というのにまだ全国的な広がりを持っていないのか。インタネットという無境界性の代物なのに、地域限定的になっているはどういうわけだろうか。
 孫のような入賞者ばかりの中で、そう思った。

2011/08/23

480ネパールからモティさんがやってきた

 ネパールからモティ・マハジャンさんがやってきた。
 モティさんは、カトマンヅ日本語学院の教員である。今年3月末から4月にかけてわたしが遊び仲間とネパール旅行に行ったときに、通訳兼ガイドをしてくださった。
 国際交流基金による日本語研修を受けるために来た。埼玉県に研修宿泊施設があり、50カ国程度から90人ほどの研修生が、遠くは南米コロンビアからもいるそうだ。

 モティさんはもう4回目の来日、横浜はまだというので、研修が休みの土・日曜日に、関東南部から行ったF、Y、Dの3人が横浜の港の街を案内、Fが自宅に宿泊招待した。
 元町を歩いていて、モティさんが突然立ち止まって店の看板を見ながら、このパン屋さんのご夫婦をネパールで案内したことがあるといい出した。
 閉店直前の店に入り、確かめたらまさにそうであった。そこを訪ねる予定はなくて適当に歩いていたのだから、まったくもって国際的偶然であった。
 数日前の休みには、研修生仲間の数人で富士山にも登ったという。モティさんはヒマラヤのある地の人だから、富士山の登りははたいしたことはなかったが、下りの須走りには困ったそうだ。

 翌日の弘明寺観音で、ネパールから来たと聞いた僧侶が、近くにネパール料理店があると教えてくれて、早速にたずねたら店中をあげて大いに盛り上がる。
「ゴルカキッチン」の名のごとく、カトマンヅからきたゴルカ出身者の経営である。
 経営者の弟の若者が給仕をしてくれて、横浜国大のドクターコースでバイオテクノロジーの研究をしているとのこと。さすがに日本語がうまい。
 久しぶりにネパールの味に再会した。評判の品はなんですかと聞くと、それはナンです、と答えるので、食ってみたがたしかに美味かった。ただし年寄りには1枚でも多すぎるのが、ナンである。

 つい先日、ネパールでは肝心の憲法はいまだにできないままに、首相が3ヶ月でまたもや辞任するというニュースがあった。
 その裏をちょっと聞いてみたが、南北にインドと中国という大国にはさまれた多民族国家の深い悩みは、政治素人外国人にはよくわからない。
 ネパールで案内してもらっているときは、忙しくてじっくりと話が聞けなかったが、こちらでは飯を食いながらあれこれと日本とネパールの違いやら同じところやらを聞いて、実に面白かった。
 長い昼飯となったその店を出て、「今度はヒマラヤでまた会いたいね」と、わたしはそこで別れた。東京に用事あるFが、銀座に案内して行った。

参照→●ネパールの旅      ●ネパール逍遥  ●草の根校舎の会

2011/05/30

426政治災害の国

日本は自然災害の国だけど、ネパールは政治災害なんですよ
 つい先月の3日、カトマンヅで会ったある市民から聞いた言葉である。わたしはちょっと震災を逃れて(?!)、ネパールに疎開観光していたのだ。
 今朝の新聞の国際面に小さな記事がある(朝日新聞東京版8面)。要約する。
「ネパールで王政廃止後の新憲法制定を今年5月末と決めて目指してきた制憲議会は、2ヶ月延期を決めた。野党の賛同を得るために2月に就任したばかりのカナル首相は、近く辞任をすると表明した」
   ◆
 ネパールでは2006年にマオイストによる10年間の内戦が終結して、2008年の総選挙で制憲議会が発足した。
 240年続いた王家を追放し、国名も王国からネパール共和国になった。
 共和制憲法を2010年5月までにつくるとした。
 だが、延々とあれこれやってきたが1年延長、それでも決らないというのだ。
 ちっとも決ることも決らず、権力争いばかり続いて、首相が8ヶ月も不在になったり、せっかく決ったらまた辞任だし、政治腐敗もはびこり、憲法をつくれない、内政も進まない。
「政治災害の国なんですよ」と、国民からも疎まれるありさま。
 これで内戦から抜け出す和平プロセスはまた停滞である。
 また内戦になるのじゃないだろうなあ。
   ◆
 あれ、これは、なんだか身近にもありそうな。
 くるくると首相が替わり、内戦のような原発大災害があっても、権力闘争ばかりが見え見え。
 まあ、国難とか、挙国一致とか、国家総動員とか、そういうのもキナ臭くてやりきれないけどねえ。
 どうすりゃいいのでしょうかねえ、なにとぞ自然災害プラス政治災害の二重苦になりませんように

●ネパール事情は毎日JPに詳しい。
http://mainichi.jp/select/world/news/20110530ddm007030083000c.html

●参照→ネパール400kmバスの旅
http://sites.google.com/site/matimorig2x/nepal2011

2011/04/12

412・地震大国ネパールのカトマンヅ盆地には揺れるとすぐ倒れそうな危険な歴史的街並み

 2011年3月11日の地震からしばらく様子を見ていて、どうやら揺れが収まったらしい27日に、かねてから行く予定だったネパールに発った。
 4月5日にネパールから横浜の自宅に戻ってきて、家人に揺れはどうだときけば、その後はないよという返事にひと安心。
 ところが、わたしの帰国を待ち受けていたように、大きな余震が続いておきている。また毎日が酔っ払いになる。
   ◆
 調べたら、ネパールは日本と肩を並べる地震大国であるらしい。
 5000万年前に、ユーラシア大陸の南の海岸にあったネパール(その頃まだネパールはないのだが)の、ずっと海の向うに離れていたインド亜大陸が押し寄せてきてぶつかってきた。
 そのプレートはちょうど太平洋プレートが日本列島の下にもぐりこむように、ユーラシア大陸の下にもぐりこんで押し上げてできたのがヒマラヤ山脈である。
その北には盛り上がったチベット高地ができ、南には高い山のシワ(マハバラート山地、シワリーク丘陵)がいくつもできて、南のはじっこに平らなところ(タライ平野)が残って、そこらが今のネパールである。
 現在も押され続けているから、日本と同じように地震が頻発する地帯なのだ。1934年にはカトマンズ盆地で大震災で、5000人近くも死んだそうだ。だが、その頃はラナ専制下の鎖国時代で、いまとは人口とは大違いであった。
ネパールの全人口は2300万人、一極集中カトマンズ首都大都市圏エリアはこの20年でも倍増の勢いでその13パーセントの300万人が住み、カトマンヅ盆地には100万人近くも住んでいる。
 ここで大地震が起きると大変なことになりそうだ。海からの津波はないが、ヒマラヤの氷河湖が決壊したら、山の上から津波がやってくる。
 一方、原子力発電所はないから、その点での危険性はない国である。水力発電所だけだそうで、乾季には需要に対応する発電ができなくて、わたしが行ったこの3、4月は夕方から夜中は計画停電が毎日であった。しかし、どこにも自家発電機がそなえてあるらしくすぐに切り替わり、誰も騒がない。
   ◆
 そのカトマンズ盆地の三大都市であるカトマンヅ、パタン、バクタブルの市街中心部を歩いてきたのだが、ここの建築は地震にまったく無防備としか思えない怖いところであった。
 あそこで地震にあったら、建物の下敷きになって死ぬことは確実である。
 まず基本がレンガ造建築なのがそもそもの問題だが、古いものはもちろんだが、新しいものでも見れば見るほどそれは地震で倒れるに違いないように見える。
 古いもので現に倒れかけているもの、傾いているもの、レンガ壁がはらんでいるものが街なかのあちこちにある。
 新しい建築も鉄筋コンクリートの細い柱と梁の間に、レンガを積上げて壁を作っているが、工事中を見てもどうもその壁には鉄筋補強がないようなのだ。
 コンクリート耐震壁らしいものはなく、壁という壁は全部レンガ積み、少ないけれどコンクリートブロック積みもあるようだ。
 古いレンガ造建物でも上に上にと増築を重ねているし、1階は店舗で開口を取るために木柱だけで、木材の梁で上の何層ものレンガ壁を支えている。偏芯荷重で柱列が明らかに傾いているものも多い。







                                                                       ◆
 古い建物はレンガ造らしいが、よく見るとレンガと木材の混合構造で、レンガ積みを木材で補強してるらしい。このことは王宮や寺院の塔を調査した、日本工業大学の報告書にも記してある。
 開口部のマグサは木材であるらしく、美しい歴史的建築の開口部の上には細かい彫り物をした木のマグサがかかっていて、そこから上にある何層ものレンガ壁を支えているように見える。
 修復した建築は壁の中の見えないところで補強してあるのかもしれないが、一般にはそんなことはないらしくて、なんだかかなり怖いのである。
 地震があるとそんな建築の中の住民はもちろんのこと、狭い道路にひしめく観光客も崩れてきたレンガでつぶされるに違いない。
 世界文化遺産の古都は、世界でも有数の危険都市である。


参照


2011/04/11

411カトマンヅ市街と旧王宮

 ネパールの首都カトマンヅは、この10年ほどで人口急増、まさに一極集中らしい。
 だが、特の都市計画の土地利用規制も道路計画もないらしく、旧王宮のある丘の上の旧市街を中心に、四方にだらだらと広がっている。
 カトマンヅ中心街の街並みは、自然発生的な曲がりくねった細い道沿いに、4~6階程度の煉瓦増を中心とした建築が立ち並ぶ景観は、まるでヨーロッパ中世の町とソックリである。ここはアジアとはとても思えない。
 ヨーロッパとの違いは、こちらが広告物、電線、汚れ、そして人、バイク、車、牛までもいて、どこもごった返していて、なんとも汚らしいことである。この活気はオリンピック頃の東京か。
 カトマンヅ盆地にある古都のパタン(ラリトプル)、バクタプル(バドガオン)にも行ったが、どこも似たようなものである。なかではバクタプルが比較的キレイであり、カトマンヅが最も汚かった。
   ◆
 旧王宮のダーバー広場に入る。入場料金をとるのだが、どうも外国人団体だけを対象にしているらしい。あちこちに街の路地がつながっていて、回りこめばタダで入ることがいくらでもできる。これはパタン、バドガオンでも同様である。
 旧王宮には、16世紀からのネパール式というかネワール族の建築様式というか、煉瓦と木材を組み合わせた建物と、20世紀はじめの洋風様式石造建築とが並んでいる。
 白い洋風様式建築はそれなりにスタイルが整っているのは、ラナ専制時代にイギリスの建築家にこれを設計させたからそうだ。
 この16世紀と20世紀との建築様式のとり合わせは、建築史家はもちろん観光客にも評判が悪い。同行した友人たちにも不評だった。
 だが、日本でも19世紀中ごろに一生懸命に洋風様式建築で近代化を目指したのと同じことのようにも見える。日本で似たような銀行建築がいまや重要文化財となっているものがあるから、ネパールのこれが100年後に世界遺産の一角に加わっていても当たり前であるといえる。わたしにはそれらの歴史の重層する風景が実に興味深く面白い。
 ほかにもラナ時代の白い洋風建築がたくさんあって、今は官庁となっている。
 しかし、日本の明治洋風建築の摂取と、ネパールのラナ専制時代(1951年までの104年間)のそれとの異なる点は、ネパールでは国家の西欧型近代化とまったく関係がないことである。ネパールの洋風建築は南隣の英国植民地インドからもたらされたものであろう。
   ◆
 王宮と道を隔てた向かい側の民間の建物群も、店舗や住宅らしいがどこか伝統的デザインコードをまとう様子であり、それは市街のメインストリートの建築にも見られる。いわばにほんでビルに格子状の窓と勾配屋根をつけるようなものである。
 それはパタンやバクラプルでも同様であった。それらの世界文化遺産のコア施設としての旧王宮建築のバッファゾーンとしての市街地の建築を、どう見れば良いのだろうか。どこからどこまでは世界遺産のコア施設か分りにくい。
 興味深いのは、あきらかに世界遺産コア施設となっている旧王宮や寺院建築に、大勢の人たちが何の規制もなく入り込み、座り込んでいる。観光客もいるが地元の老人たち、しかも男がほとんどである。ホームレスの居場所のようにも見える。
 世界遺産の重要文化財に上がりこんで大勢寝込んでいるなんてことは、ちょっと日本では考えにくい。この文化財の人間臭い生活臭にあふれている身近さは一体どう考えればよいのか。
 ここはかつて世界遺産としては危機遺産に登録されて廃止になるかもしれなかったのが、今はそれも解除されたそうなので、ガイドになにをしたのか聞いてみた。答えが正しいかどうか分らないが、かつては土産店が入りこんでいて汚かったのだが、それらを排除して、車も入れないようにし、修復もしたからだという。
 物売りや物乞いが近づいてくるのは、かつてのローマやアテネで経験したが、久しぶりだった。

2011/04/07

410ネパールに行ってきた

 3月10日にネパール旅行の航空券を買ったら、次の日が東北太平洋沖大地震。
 旅の出発日は28日、揺れはだんだんとおさまってきたが、原発事故が拡大している。
 これから横浜にも放射能が降ってくるのかしら、毎日停電かしら、そうしたら疎開しなけりゃならない、そんなときに海外で遊んでたら帰ってきてどんなこと言われるか、その後の人生が窮屈なことになりそうだなあ、う~む、さて、行って良いものかどうか、楽天的なわたしでもちょっとは悩んだ。
 役に立たない老人が日本にいて食糧やエネルギーを消費しているよりも、外国に行っているとその分だけでも被災地に回るかもしれないなんて屁理屈をひねり出して、ネパールに疎開をしたのであった。
   ◆
 大学同期の畏友から、ネパールに行こうと誘われたのは今年1月のこと。
 なんでもカトマンヅにある日本語学校を支援している大阪にあるNGOの主催だそうで、旅程の一部にはその支援活動も入っているという。
 ミニトレッキングもあるそうだから、ヒマラヤに出会う経験もできるだろう、もうこれが最後の海外旅行だろう、なんて思って、行くとすぐに返事した。
 やはり同期の畏友たち2人が加わって老人組4名の仲間が、関西の4名とで行くことになった。後で分ったが、生まれ月からわたしが最年長であった。
   ◆
 行くと決めてから調べてみたら、それなりに目的が定まった。
 そのひとつは大学山岳部以来の憧れのヒマラヤと出会うことである。2006年にもうひとつの憧れだったヨーロッパアルプスに行ってきたから、これで仕上げとなる。
 ヨーロッパルプスで感激したから、あれよりも雄大なヒマラヤ山脈に囲まれる体験をしたいという願望は、残念ながら叶わなかった。
 トレッキングと書いているから、早とちりして、ヒマラヤの麓まで行くのだろうと思ったのだが、ポカラの山の上からはるかに遠望するだけであった。
 ではヒマラヤ遊覧飛行に乗ろうと思ったら、予定したポカラ飛行場からは飛んでいないのであった。
   ◆
 第2の目的は、カトマンヅ盆地の歴史的市街地を見ることである。これは短時間ではあるが、それなりに目的を達した。
 旧王宮については、大学時代の恩師である藤岡通夫先生が、晩年にその調査に力を入れておられて、調査報告書や随想集「ネパール建築逍遙」(1992年 彰国社)をあらかじめ目を通してから行くことができた。
 カトマンズ盆地は世界文化遺産に登録してあるので、こちらの鎌倉(暫定登録中)の大先輩格である。
 鎌倉と同様に市街地と歴史的資産が交じり合っている環境にあるのだが、その混じり方は大きな違いがあって、それが実に興味深いものであった。
 この世界遺産と市街地とのことについては別に書きたい。
   ◆
 第3の目的は、釈迦の生誕地ルンビニを訪問することである。といっても、釈迦の生誕地としてのルンビニには、わたしは何の興味もないし、実際にも面白くなかった。
 実はそこにある「ルンビニ博物館」と「ルンビニ図書館」に用があるのだ。これら二つの建築の設計は丹下健三である。
 実はその設計担当がそのころ丹下事務所に所属していた同期の親友・後藤宣夫(故人)なのである。後藤は1984年にここに滞在している。
 2000年に先に逝ってしまった親友の仕事に図らずも出会うのが楽しみである。この目的は半分だけ達した。
   ◆
 今回の旅で予測しなかったことでもっとも印象的だったのは、カトマンヅからポカラを経てルンビニに至るまでの400キロメートルに及ぶ長距離バスの旅であった。
 中高地から低地へ、山地から平原へ、温帯から亜熱帯へ、多様な植生、農山村集落、街道筋の地方都市、大都市の市街、そしてそこに暮す多様な民族の姿、次々と展開するネパールの人間と自然の景観に興奮した。
 ほんの通りすがりにすぎないのだが、たくさんのことを考えた。

2011/04/06

409停電が普通の地から戻ってみれば

 ネパールは停電が当たり前である。水力発電だけだから、乾季の今は1日のうち14時間も停電している。
 レストランで食事中でも、ホテルの便所の中でも、突然に真っ暗になっても慌てることはない。そのあたりにローソクを用意してあるから火をつければ良いのだ。
 とは言うものに、わたしは煙草を吸わないからマッチもライターもなくて、風呂場で真っ暗になってもローソクが役に立たない。だからしばらくそのまま待つ。やがて自家発電機が動いて、必要最小限なる明るさが戻ってくる。
 どこの店も家も自家発電機を備えているそうだ。日本語学校のネパール人教師から、日本でもそうかと聞かれて、とまどった。そうか、日本でわたしたちは停電がないことを前提に生活しているのである。
 太平洋戦争で敗戦して数年間は、日常的に停電をしていた。自家発電機はなかったが、ローソクもマッチもいつも用意していたものだ。
 ネパールから9日ぶりに横浜に戻ってきてみれば、停電しないのが当たり前の生活に戻った。そして揺れないのが当たり前の生活にもなっていた。
 でも原発の放射能恐怖はあい変らずで、原発のないネパールでお見舞いの言葉をいただいたのを恥かしく思いだした。
    ◆
 ただし、ネパールは世界有数の地震の地である。インド大陸とユーラシア大陸がぶつかって、そのせいでヒマラヤ山脈ができたところなのだ。
 首都のカトマンズでは1934年の大地震で4296人、1988年にはウダイプール地震で721人が死んだそうだ。
 ところが、世界遺産登録になっている歴史的な市街地では、目でみてわかるくらいに古い建物、それも3階、4階建てのものがたくさんある。
 それらは伝統的な木材と煉瓦を組み合わせた構造なので、目に見えて傾いていてかなり怖いものもたくさんある。隣の新築煉瓦ビルに寄りかかっているものもある。
 新築のビルも多くは4~5階建て、20センチ角くらいの細いコンクリート柱を5m間隔くらいに建てて細い梁でつなぎ、間に鉄筋の補強もなしに煉瓦あるいはコンクリートブロックを積み上げている。開口部のマグサは厚さ10センチ程度で頼りにならない。
 1932年とは比べ物にならないくらいに人口集中が著しいカトマンズで、もしも大地震が起きたら、万を超える人が死にそうだ。停電は平気でも地震は怖い。

2011/01/10

366ネパールへ行こう

 大学同期の友人からネパールに行こうと誘われた。ちょっと考ええすぐに、よし、行こうと返事をした。
 いつか行けるからそのうちに、なんて思っている時間はない年頃だから、できそうなことならあまり分別もなく実行するのだ。
 この前の海外旅行は2007年にヨーロッパアルプスだった。そのときもそんな感じではあったが、大学山岳部のときのあこがれを満たす目的に適う旅であった。
 こんども同じような憧れを満たす目的に適うらしいのは、ヒマラヤがすぐそばだからトレッキングにいけるかもしれない、いけなくてもダウラギリやマナスルをこの目で拝むことはできる。
 商業ツアーではなくて、何かボランティア団体に関連するひとが個人的に企画しているらしいが、実はよくわかっていない。誘ってくれた親友が,以前にもそれで行ったというから、信用していくことにした。
   ◆
 概略旅程は次のとおり。
 関西空港→バンコク→カトマンズ→タラコット→ポカラ→ルンビニ→カトマンズ→バンコク→関西空港(3月28日~4月5日)
 カトマンズとポカラではヒマラヤにトレッキングかヒマラヤ飛行機遊覧か、ぜひやりたい。大学時代の憧れを満たしたいのである。
 カトマンズでは迷路のような町をうろうろと歩いてみたい。わたしの大学での研究指導教官であった恩師の藤岡通夫先生は、ネパール王宮の研究をなさっていたことを思い出したので、王宮を訪ねたい。
 釈迦の生誕地ルンビニ訪問は、わたしには釈迦生誕地としてはまるで興味がわかない。
     ◆
 ネパールに行こうと思うと建築同期の友人に話したら、同じく同期の親友であった建築家の後藤宣夫が、設計監理担当した博物館の建物がルンビニにあると教えてくれた。
 2000年になくなった後藤宣夫は、丹下健三事務所の在籍していた1984年に現地に滞在してこれに携わったと、彼の作品集の年譜にもある。
 釈迦が生まれた聖地を「ルンビニ園」として整備する計画を、丹下健三がマスタープランを作成したのだ。その中にルンビニ博物館がある。
 ネット検索したら見つかった。
・Lumbini Museum
http://daishinji.net/essay/lumbini.shtml
http://www.panoramio.com/photo/15251567
 ボールトの連続デザインは、なんだかルイス・カーンを連想させるが、この地域のデザインモチーフは共通するのだろうか。行って見れば分るだろう。
 隣に国際研究所なる建物もあり、ソックリのデザインだからこちらも後藤担当だろう。
・Lumbini International Research Institute
http://www.panoramio.com/photo/4755616
 釈迦の誕生地なんてまったく興味なかったが、これで楽しみになった。
   ◆
 昨日、黄金町にあるアート系の古書店にフラリと入って棚を見ていたら、おや、藤岡先生の書いた「ネパール建築逍遙」がある。見覚えのある本なので家の本棚にあるかもしれないが、偶然ながらタイミングがよすぎて、これはなにかのお導きだろうと1000円で買った。
 実はそのときまで忘れていたのだが、上に書いたように恩師はネパール建築の研究者でもあったのだった。
 美術出版社から発刊した分厚い大きな高価なネパール王宮の研究書があったような気がする。もしかしたら買ったかもしれないとわたしの書棚を探したがそれはなくて、おなじような高価な本の「京都御所」はあった。
 ネパールも実はちょっと身近になった。
 旅に出る前に事前勉強をしない主義できたのだが、こんどはちょっと勉強して行こうと思う。