建築家・山口文象の設計した建物探しは、いまだに新発見があって面白い。
先日(2012年3月)、世田谷文学館で、「都市から郊外へ―1930年代の東京」展覧会を見てきた。
その展示に彫刻家の菊池一雄のアトリエ建築の写真と、菊池の手書きのアトリエ案内地図があった。
おお、「菊池一雄アトリエ」は山口文象作品だ、思いがけない出会いに感激。これは1931年に建っているから、山口文象にとっては渡欧直前であり、建築家としてはまだ世に名が出ていないころの設計である。
石本喜久治の事務所で経験をつんではいるが、個人作品として現実に建った建築はまだ2、3作目のはずだ。
RIA所蔵の山口文象コレクションにもその写真はあるのだが、手書き案内図を見てこんなところに建っているのかと知ったのであった。
学芸員の方に聞くと、建築家・池辺陽による増改築の手が入っているが、現存しているとのこと。
早速に行ってみた。
元の山口文象デザインが変わっているとしても、池辺デザインならすぐわかるに違いないと、見当つけて歩いていたら、おお、やっぱり池辺デザインだ、これは。
例の池辺が一時期よくつかったことのあるスレート波板である。鉄骨と波板という工業製品を自在に組み合わせる池辺デザインが、鉄骨は見えないがここにも生きている。
もっとも、普通眼にはどう見ても工場にしか見えないので、そのデザインの意義は玄人にしかわからないだろうが。
道路は北側にしかないから見ているのは北面である。アトリエが建った頃はこの道路はなくて畑が広がっていた。
こちら側にあのアトリエのガラス面とガラス屋根そして急勾配瓦屋根の組み合わせによるモダンスタイルの立面があり、その峰から南に向かって大きな勾配屋根が下がっていっていた筈だ。
その北立面は全面にスレート波板の壁が立ち上がり、そのままスレート屋根になって登り、峰から南に南に向かって大きな勾配屋根が下がっている。
ふむ、これは南への大屋根は元のままで、北の壁を壁を壊してここに池辺デザイン増築をしたらしい。北側からみると昔の面影を伝えているものは、大屋根勾配とシャープな下屋庇であるようだ。スレート壁に瓦屋根の下屋が取り付いているのは、もとの瓦屋根のイメージ継承のつもりだろうか。
南側の庭の方を見ることはできなかったが、グーグルアースの衛星写真で見ると、大屋根のままだから、もしかしたらそちらは元のデザインがあるかも知れない。
山口文象とはかなり親しかった池辺陽だから、必ずやイメージとしては継承しているだろうと思う。
グーグルアースで見ると、周辺の家がどれも道路に直角に建てているのに、この菊池アトリエだけが南北軸にあわせていて、微妙にずれているのがわかるのだが、これはアトリエが当初の建物であることの証明である。
普通に見れば池辺デザインは異様であるが、それは芸術家の家であることのサインである。
山口文象作品でモダンデザイン木造住宅はひとつも現存しないと思っていたが、かなり変わってはいるがこれは現存している唯一のものだろう。
竣工時の写真では、まるで畑の中の一軒家のごとくであるが、いまはそれなり密度の高い住宅地のなかにある。
展覧会のテーマである「都市から郊外へ」については、1930年代から東京周辺の緑地帯は、こうやって住宅地化されていったのである。
そのなかで芸術家が果たした役割のようなことが、この菊池アトリエもそうだが、展覧会のひとつの柱らしい。
そこのところは、展覧会を見ても実はわたしにはまだよく飲み込めていないのだが、面白いテーマであるとおもう。
1930年代の東京の大きな変化は、1923年の関東大震災に起因するのである。
このところそのあたりの資料がありそうな展覧会で、この世田谷と、葉山の神奈川県立美術館での「村山知義展」、そして新橋パナソニックミュージアムでの「今和次郎展」をハシゴしたのであった。
そこで村山も今も、関東大震災を契機に新展開したことを確認したのであった。
建築家・山口文象を産み落としたのも同じく関東大震災であるから、20世紀末と21世紀はじめの東西の大震災は何を産み落とすのか、あるいは産み落とさないのか、興味があることだ。
参照→山口文象アーカイブス
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