息子の勤め先に感染者が出たそうで、しばらく息子に会えそうにない。コロナ戦争の戦火が身近に迫っている。
買い物には困らないが、文化施設閉鎖に戸惑う。図書館閉鎖に困っているが、あそこはそんなに人間密度が高いかなあ。新本屋も古本屋も半部程度の営業であるが、密度あるかしら。
近所の有隣堂書店は営業継続、そこそこに人が入っている。支払いカウンター前の列が妙に長いのは間をあけて立つからで、そうかとコロナ戦争を思い出す。
もう10年ほども前からだったか、本を買うのをやめる決意を実行しだした。そしてけっこうたくさんの積読本をまとめて、あちこちの人様に差し上げる減本プロジェクトを開始した。うちに残すのは、わたしの残り人生で読破できそうな量にした。
要するに本をついつい買っちまうのだけど、うちにこれ以上の本があっても、人生の残り時間で読む能力がなくなったからである。金もないし。
日常の本屋巡りの楽しみから買うという行為を廃止するって、初めはつらかったが、そのうちに慣れてきて、立ち読みだけになってしまい、更に本屋巡りをやめてしまった。
その代わりに図書館に通うことが多くなった。徒歩圏に県立と市立の中央図書館があるから、ほぼ無い本は無いといってよい。新本屋も古本屋もすっかりあきらめがついた。
これでうちに本が増えることはなくなったし、本屋巡りに変わる趣味もできて、本に関する問題は解決した。
ところが、これで問題が起きたのは、図書館内徘徊やって読むだけではなく、ついつい読みたい本を借りるので、せっかくうちに残してあるそれなりに多くの未読本を読むひまがなくなるということである。減本プロジェクトの意味が失われる。
そして今のコロナによる図書館閉鎖である。図書館徘徊が不能となり、しょうがないからうちにある本を読む日々である。コロナのお陰で減本プロジェクトの原則に立ち返ったことになる。
ではそれで朝昼晩に積読本の消化が進んでいるかというと、これもコロナのおかげで、そうとも言えないのである。
なにしろPCのなかのネット社会にはコロナ戦争情報が満載で、これがまるで先行きまったくわからぬハラハラドキドキの長編大河ドキュメンタリー小説を読んでいる気分になるのだから、読書時間がおのずから削られるのだ。
年寄りはコロナ蟄居のままだと足腰が弱って、コロナ戦後は寝たきりになるおそれがある。それでは戦後復興の足を引っ張ることになるし、年寄りは死ぬ前にこの世がどう変わるか見届けたいからと、脅迫したり遺言したりして、外出禁止の戒厳令下の目を盗んで、街の中を徘徊する。
飲み屋に入るのは怖いしカネもかかるから、ついつい本屋巡りを復活させた。商店街の街の通りはコロナ戦前の半分以下の様だが、本屋の中は戦前の7割くらいはいるようだ。みんなコロナ蟄居中の読書に励んでいるらしい。コロナ関連本が積んであったから、コロナ景気もあるのかしら。
図書館のほかの文化関係にも戦火が身に及んできた。楽しみにしていた6月10日の神奈川芸術劇場での芝居公演キャンセルの通知が来て、チケット代と郵送料を返すからどこの振り込むか手紙をよこせとのこと。ご時世だから窓口で直接返却はしないという。ご親切でありがたいが、さぞや大損だろうなあ、気の毒に。世界中で起きているのだろう。
次の7月の野村四郎能楽公演も、10月のトゥランドット公演もキャンセルになるかもなア。
何でもかんでもご時世だからって、怖いなあ。色々と都合悪いことの言いわけとか、都合よく使うとか、何でもかんでもコロナのせいにすれば、当座は逃れられる。
でも、なんでもご時世のせいにしたために、何か大きなことに大失敗するような、デジャビュの気分がする。コロナ戦争は、人間を原則に立ち還らせたり、ご都合主義を助長したりして、戦後にどんな社会が来るのか、不安になってしまう。
やはりこのあたりでピンピンコロナが良いかもなア。
●参照:「コロナ大戦おろろろ日録2020/01//24~」
https://datey.blogspot.com/p/corona.html
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