その典型は「疎開」だろう。コロナの大流行の地域から、まだ流行していない地域への移動を「コロナ疎開」というらしい。そういえば2011年の福島原発事故の時は「原発疎開」があり、それはいまも続いている。三度目の疎開である。
一般に「疎開」というとかつて太平洋戦争下で、連合軍の空爆のある都市から、空爆がないかもしれない地方へ移動することに使われた用語だった。
正確には避難とか退避とか言うべきなのに、戦時下で「逃げる」意味あいの用語を嫌って「疎開」と言ったのだそうだ。れっきとした法令上の言葉である。
戦中は生産疎開、建物疎開、人口疎開など、地域間で避難移動した。学童疎開は人口疎開のひとつである。それが疎開の意味として広くつかわれたので、今もその意味で使われる。
ところが今や、地域間疎開は疎開者がコロナ感染を拡大することになるとて、疎開される地域から「コロナ疎開お断り」とされる。疎開の意味を変えなくてはならない。
ところが、実はもともとの「疎開」とは軍事用語で、兵士が集中していると敵からの攻撃に被害を大きくしやすいときに、疎らに散開して兵士相互の間隔を開けることを言う。
そう、疎開とは実は近頃流行語の「ソーシャルディスタンス」であったのだ。日本語にすると社会的間隔となってちょっと変だが、コロナ感染を防ぐには人と人の間隔を2mほど開けろとして、これが現代コロナ大戦下社会の基本マナーであることになった。
つまり、ここでようやくにして疎開が本来的な意味に戻ったことになる。この前の大戦中には疎開の意味を曲げていたが、今や堂々と復活したことになる。
つい4か月ほど前のコロナ戦争前は、やれ絆だ、やれインバウンドだ、やれ交流人口だ、イベントだオリパラだと、とにかく人と人が出会って近くにいるほど先進的社会であるみたいな雰囲気だった。
コロナ3密禁止 |
社会だった。
それが今は何だよ、うっかり飲み会やると知らない間にコロナちゃんが接客サービスしてくれてエライことになる。そればかりか道で出会っても近づくのは危ない、学校さえも行くな、親子さえ会うな、密室に入るな、密閉するな、密集するな、だから、この間のものすごい落差にただただ驚くばかり。あれは何だったんだ?
この先に何があるのだろうか?
かつて太平洋戦争末期には、大慌てで地域間疎開をしたものだ。わたしは学童疎開に出くわしている。わたしが疎開した学童ではなくて、わたしの生家の神社に都会の学童が集団疎開してきていたのだ。その間に疎開元の都市が空爆に遭って、親を亡くした子もいた。
今のコロナ大戦下では、コロナ空爆は都会も田舎も無差別だから、爆撃機となる人間を相互疎開する「人間(じんかん)疎開」が日常生活で求められている。
その人間(じんかん)疎開が何をもたらしつつあるのか、この眼でしっかり観たいと考えて、コロナ戦争空襲警報発令じゃなくて緊急事態宣言下の今の世を見つめるべき街を徘徊する。
目的を持つ出歩きを徘徊とは言わないが、実のところはどこもかしこもコロナ戦禍の街だから、うろうろしてしまってやはり徘徊である。
住宅街、中心商店街、近隣商店街、観光街など、人の姿が消えると街の姿はどう変わる
対コロナ武装 マスクに千人針 |
日々の記録をしておきたいと、うしろめたさを感じつつも、帽子マスク眼鏡手袋ステッキで不完全武装して、三密禁止人間疎開の街を眺め歩いて、戻りつくと玄関先で身辺消毒をする。どこか滑稽にして深刻な自分の姿に、なんだか老後の生きがいが出てきた感があるのは、コロナのおかげか。
そういえば「三密」というコロナ新語も、実は仏教用語として存在しているのだった。
現今の三密は「換気の悪い《密閉》空間、多数が集まる《密集》場所、間近で会話や発声をする《密接》場面」だそうで、これを避けるとコロナ退治になるらしい。
真言密教には「身密(しんみつ)・口密(くみつ)・意密(いみつ)」という三密があるそうだ。ネットに出て来る詳しい解説を読んでもよく分からないが、ありがたい仏の教えらしいから、神仏頼りになったコロナ退治に役立つかもしれない。
もひとつコロナ新語「巣ごもり」ってのも、変だなあ。もともとは鳥が卵を抱いて孵すために巣に籠ることを言うのだから、子づくりの意味である。
コロナ疎開で引きこもって子づくりするとなると、コロナ禁止3密の内の2密をやるってことになるけど、いいのかしら。ま、コロナ後に人口が増えるっていいことか悪いことか分からないが、わたしには巣ごもりは無理だな。
〇参照:伊達の眼鏡「コロナ大戦おろおろ日録2010~」
0 件のコメント:
コメントを投稿