●屋根のない能舞台に久しぶりに出会って
昨日(3月14日)午後、久しぶりに能楽鑑賞に行ってきた。川崎能楽堂で観世流能「俊寛」と大蔵流狂言「文蔵」であった。川崎能楽堂へは24年振りのような気がする。会場の雰囲気を忘れていたが、能楽堂の広さはかなりコンパクトで狭く、舞台と客席が近かった。
舞台には屋根が無くて、四隅の柱は1mほどで伐られてる。見所と舞台の間に玉砂利もなくて、能専用の能楽堂なのに、何やら小ホールの中に見所と舞台が混在している感があった。見所で演じているようでもあった。
ここでは見所と舞台が同じ高いひとつの天井のもとにあるから、見所の中で演能がなされている、あるいは客は舞台上で見ている、そんな不思議な気分になった。屋根があり柱があると見所と舞台は画然と異なる空間になるものだと改めて認識した。
舞台と見所は画然と異なる空間であることに慣れていたので、改めてその関係を考えた。演能は特別なことを起こしているのだから、見物客のいる空間とは別の空間の方が良いようにも思える。特に、能のような様式美を強調する場合は、画然と別空間の方が良いような気がする。
ということは、狂言の方はむしろ舞台と見所は一体に近い方が良いかもしれない。いかにも日常の延長のような芸を見せるのだから、舞台ではなくて客席の延長にある方がリアリティがありそうだ。そうか、狂言と能とはその点で基本的に異なるものと改めて思う。
●能と歌舞伎
狂言「文蔵」は、石橋山合戦の語りがメインである。講談のような堅い口調の語りを長々としゃべらせておいて、軽く逆転的なオチにもって行く。話としては面白くもないから、オチのあたりの段差への演技が重要だが、堅さが売り物の山本家狂言では、難しそうだ。
能「俊寛」は、演劇的なストーリーで舞いが全くない。最期の瞬間が置き去りにされて嘆く場面が見せ場である。同じストリーの歌舞伎「平家女護が島」があるが、最後の場面の表現が能と歌舞伎の基本的違いを見せるのが面白い。
能では抑えに抑えた表現でもって大きな悲しみを表現するが、歌舞伎では叫び泣き暴れて手放し状態で悲しみの表現をする。これは能「隅田川」と歌舞伎舞踊「隅田川」の違いも同様である。歌舞伎では嘆き悲しみ過ぎて、見ているこちらが恥ずかしくなる。
ここでも能舞台が気になった。橋掛かりが短くかつ狭いのである。最期にご赦免船が出ていく場が、どうも窮屈なのである。取り残されて嘆く俊寛の演技と、出ていくご赦免船の一行との間合いの具合が、どうも悪い。
●舞台も見所も歳とってしまった
観世の演者たちは観世宗家の一門だったので、もう4半世紀も前から東京の松濤の舞台上でで何回も見てきた人たちが多くいた。懐かしく顔を眺めて、あれ、あの人がこの顔になったか、年取ったものだと、自分の歳を棚に上げて眺めたのであった。
地頭の関根知孝、小鼓の鵜沢洋太郎、後見の寺井栄など、若手だったのになあ。シテの観世恭秀の面の横にはみ出る頬の皴に、素面でもよいだろうにとつい思ってしう。山本泰太郎は則直の子で東次郎の甥であるか、そうだ、5月に東次郎の花子を見に行く予定を思い出す。
そう、5月3日には東次郎「花子」、友枝昭世「鬼界島」を見に行くのだ。しかもこれには馬場あき子の解説があるのだから超豪華版だ。観世の俊寛と同じで題名が違う「鬼界島」を喜多流ではどう見せるのか楽しみだ。
東次郎とわたしは生年月日が同じであるし、馬場はその10歳上、友枝は40年生まれだから、わたしもいれて4人のうちの誰かが、5月にはこの世にいないかもしれない、そんなスリルのある能楽の日を待ち遠しい。その日のことは、この続きで書こうと思う。
今回の能鑑賞には、息子と初めて同行した。実は介護人と言うべきかもしれないが、なんにせよ能に興味を示してくれて嬉しい。そして先輩としてなにがしかの能楽解説をして、知ったかぶりを発揮できることも嬉しい。
(2016/03/15記)
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