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2017/12/17

1308【続・山口文象設計茶席常安軒】リベラリスト関口泰が愛でて後半生を過ごした浄智寺谷戸の自然と茶席と庭と

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その2
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)

その1】のつづき
大き巌うしろになしてこの梅はことしれうらんと咲きにけるかも  関口 泰

●関口泰が愛でた浄智寺谷戸の風景

 鎌倉は谷戸(やと)と呼ばれる地形に特徴がある。三浦半島特有のデコボコ丘陵ばかりで、海辺の外には広い平地が少ないので、12世紀ごろの昔から丘に切りこむ狭い谷間に宅地をつくってきた。
 谷戸は谷の向きや深さによっては、日中のほんの少ししか日が当たらない。奥になれば坂道は急になり階段になる。歳とると住みにくい。

 浄智寺谷戸は南上りであり、旧関口邸茶席はその奥にある。まわりを緑の丘陵に囲まれていて、豊かな自然風景に恵まれているが、その一方で陽光が照る時間は少ない。
 この茶席をつくった関口泰も谷戸を愛し、短歌「浄智寺谷風景」や随筆「小鳥と花」に自然を描いている。
 そこには、鶯の声で目を覚まし、彼岸桜、紅梅、山桜、染井吉野、大島桜、蝋梅、雪柳、緋桃、芍薬、牡丹、山躑躅、山吹、山藤などの花々を愛でる日常を、優雅な筆にしている。

2017/12/16

1307【山口文象設計茶席常安軒】紅葉の浄智寺谷戸に傘寿越す茶席建築を卒寿の建築家と訪ねる

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その1
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)

●北鎌倉に山口文象設計の茶席建築を訪ねる

 秋も深まり初冬になり、北鎌倉に紅葉狩りに行ってきた。いや、実は行ってみたら紅葉が美しかった結果なので、真の目的は山口文象和風建築狩りであった。
 わたしがそれを訪ねるのは2度目だが、1976年以来の40年ぶり、その時の同行者には、設計者の山口文象がいた。そして今回は山口の一番弟子ともいうべき和風建築の名手である小町和義さんが一緒だった。

 40年前に来た目的は、山口文象(1902~78)の作品集をつくるために、評伝を執筆する佐々木宏、長谷川堯、河東義之の各氏たちも一緒だったが、山口はその2年後に急逝した。その本は1983年に刊行になった『建築家山口文象・人と作品』(RIA編)である。わたしはRIAに在籍していて、この本の編集執筆担当だった。
 山口文象がこの茶席を訪ねたのは、その時が40年ぶりと話していた。気が付けば、その時の山口文象よりも、わたしも小町さんも年寄りになっていた。そうか、二人とも山口文象よりも長生きしているのであったか。

2017/10/06

1291【小町和義の仕事展】建築家・小町和義氏の仕事と宮大工棟梁の小町家に伝わる古文書等の地域文化資料の展示を八王子市民団体が企画

 八王子で11月17日~21日に「小町和義の仕事展」が開催されるそうである。小町さんからお知らせの手紙をいただいた。
 90歳になられてますますお元気である。今回の展覧会は「八王子の宮大工小町家と番匠~小町和義の仕事展~」と銘打って、地域の市民団体「八王子の市民史を記録する会」の企画によるものだそうである。
 (展覧会パンフPDFはこちらからDL

2015/10/20

1135【終活ゴッコ】建築家山口文象と初期RIAに関する資料コレクションをRIA山口文象資料庫に納めた

●蔵書を箱づめ送り出す

 蔵書をどんどん手放している。他に手放すべき財産らしいものがないので、これが重要なる終活(終末活動)である。
 箱詰めして送り出すのだが、箱詰め作業がけっこうな労働になるので、ただいま腰椎圧迫骨折治療中の身としては、リハビリテーションを兼ねてボチボチユルユルと進めている。

 あちらこちらの知人たちに、こんな本があるけど要りませんかと、本棚の写真を添えて頼みこんで、受け取ってもらうのである。
 今年の初めに、知人の若い研究者に、本棚の写真を送って、この中で要る本があるなら、喜んで差し上げると言ったら、100冊くらいを引き取ってくれた。
 これに味を占めて、この分野の本ならあの人が、この分野の本ならこの研究会メンバーが、などと、あちこちに声をかけて、良い返事をいただいたところに箱詰めして送る。もしかして押し付けになっているかもしれない。

 もちろん、近くの古本屋に売るとか、震災復興支援で古書寄付なんて方法もあるのだが、それは最後にして、やはり読みたいお方に受け入れていただきたいのである。特定のテーマによる資料収集は、そのテーマに関係の深い方に受け取ってもらいたいとも思う。 
 ある友人が、全部を受け入れようと、超ありがたいことを言ってくださったので、それに甘えてボチボチ送り付けている。ただし、何でもかんでも片端から詰め込んで送るのも申し訳ないので、ジャンルごとに整理して箱詰めして送る。
 
 そうやって蔵書を棚卸していると、同じ本が2冊も出てくることがたびたび出現する。ボケたので同じものを次々に買った、のではない。
 この現象の原因は、買ったけど読まないままに忘れてしまい、また買ったに違いないのである。自分の興味ある本はいつまでも変らないってことか。

 稀覯本を集める趣味はないが、なかには珍しいような本もある。調べもののために古本屋めぐりしていて発見した戦前の本など、調べものが終ってからは本棚に入りっぱなしだった本を、懐かしく再発見している。それを読んだりするから、箱詰めは遅々として進まない。

●未読本の読破で余生を送る

 前から自覚していはいたが、買うばかりで読んでいない本、つまり未読本が非常に多いのが、なんとも悔しい。興味ある本を見つけると、絶版になると困るからとにかく買っておく、という行為を重ねてきた結果が、未読本の山になったのだ。
 未読のままに人さまにさしあげるのは残念な気もするが、一方では、もらってくださった方から、キレイな本ばかりと感謝されて、良かったようで、こそばゆい。
 
 4年ほど前に、本の処分をしないと死んだ後の処分が大変だなあ、息子に申し訳ないことになるなあと気がついて、もうこれからは本を買わないと決めた。
 これからは未読本を読破することをもって、わが余生の過ごし方とすることにして、ウチにない本は近くの市立や県立の図書館に行くことにした。図書館は宝庫である。
 そしてほぼそれを守ってきたのだが、じつのところは未読本読破余生は遅々としてはかどらない。その最大の原因は、インタネットウェブ徘徊である。読書時間がWEB時間に食い込まれてしまった。どうやら読破前にわが身が終末になるだろう。

 未読本読破はもういいや、ってことにして、箱詰め外部送り出しとなったのである。自分ではできないので、未読本読破作業の外注である。
 今年になってから送りだし始めたのだが、これまでに段ボール箱22個、でも、まだまだ半分もはけていないから、本の終末よりわが身の終末が先になりそうだ。
 まあ、そのときはテキトーに息子がやってくればよい。そのときは持ち主は不在で、なにも文句を言わないからね。

●建築家山口文象関係資料をRIAへ

 そのような中で昨日のこと、大物コレクション発送して、ちょっと息をついたところだ。
 それは建築家・山口文象に関する資料である。RIA在籍時代の1982年に、「建築家山口文象 人と作品』(相模書房)を発刊したが、これの編集に6年間ほど携わった。
 50歳でRIAを離れてからも山口文象研究を続け、2003年には『新編 山口文象 人と作品』(アール・アイ・エー)を発刊、山口文象に関する資料を収集し続けてきた。その間に新発見もあった。

 完全に集めるほどのマニアではないが、初期RIA分の資料も入れて、ついつい増えて書棚の一角を占拠し続けてきた。だが、もうこの山口文象ストーカー行為も終活にすることにした。あとはベルリンに行って調べるしか残っていないが、そこまでの文象マニアではない。
 ということで、終活発送箱にこれら資料も加えることにしたのである。幸いにしてこの受入れ先は以前から明確になっており、山口文象が主宰したRIA(㈱アール・アイ・エー)である。
 RIAには、山口文象関係資料庫があり、戦前の山口文象建築事務所じだからの図面、書籍、書類を保存しているので、その中にわたしのコレクションも入れてもらうことにしたのである。
 送り出すとなって整理して、リストを作り、箱詰めしたら4個になったのであった。

 これまで10人くらいの学生や院生たちが、山口文象やら戦後復興期の都市づくりに関して論文を書くとて、わたしに問合せが来たり、インタビューされたことがある。
 その資料が、ボケが来つつあるわたしのところにあるよりも、RIAにあるほうが世の中に役立つ時が来たということである。

 なお、わたしの『山口文象+初期RIA資料まちもりコレクションリスト』を載せておいた。完全なリストではないが、ある程度は役に立つだろう。
 これまでのRIA所蔵の資料は、まだリスト化されていないので、検索が難しい。その内容をもっともよく知っているのは、わたしだろう。でも、わたしはもうボケてきたから、これを機会にわたしのコレクションと一緒に整理、リスト化をしてもらいたいものである。

参照:山口文象+初期RIAアーカイブス(伊達美徳編)
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html




2015/08/19

1119【山口文象研究:ブルーノ・タウトとの出会い(後編)】タウトが山口にジードルングの論文自筆原稿を贈ったことなど

中編からの続き)

●タウトが設計助手として山口のスタッフの河裾逸美を借りたこと

 タウトは1934年8月から、高崎にすっかり腰を落ちつけて、井上工房で工芸デザインをしている。時々東京の行って講演したり、建築家たちと付き合い、展覧会などに出かけている。
 1934年10月26日のタウト日記。
「午前、美術研究所に所長の矢代幸雄教授を訪ねる。矢代教授はヨーロッパ特にドイツの芸術に精通し、ドイツの学者とも親交があり、先ごろはまたベルリンの日本展覧会を主宰された。立派な人柄の芸術学者である。それから同氏の友人で建築家の山口(蚊象)、谷口(吉郎)と、バーナード・リーチ氏のつ迎賓展覧会を見た。作品はいずれも決して悪い出来ではない。同行の建築家たちはリーチ氏のものをあまり好まない様子であった。つまり作風が日本化し過ぎているというのである。」
 有島生馬のプロジェクトで、タウトは山口に仕事を取られたが、それを互いに知っていたか知らないのか分らないが、山口とタウトの間にはなにも起きなかったらしい。

 高崎では、井上工房で数々の工芸品や家具のデザインをして試作を続けるが、製作現場とタウトの意図とのすれ違いにイライラしている様子が日記にある。それでも、井上の経営する軽井沢の店で、タウトデザイン工芸品を売り出しつつある。時には日本住宅の設計を頼まれて、設計図を書いている。彼のもとには3人の助手がいたらしい。
 1934年12月10日のタウト日記。 
「私の助手諸君のうちの一人(儘田氏)は少林山、二人(水原、河裾)の両氏)は高崎で、全試作品(実際に製作されたものばかりでなく、図面だけのものも含めて)のカタログを、私の指示に従って編集している。」
 この3人所助手の内の河裾とは、河裾逸美のことであると訳者註にある。

 河裾逸美(1904~?)は、山口文象が所属していた逓信省営繕課の同僚であった。彼も山口等が1923年関東大震災の余燼の中ではじめた「創宇社建築会」の活動に、1927年から参加している。
山口文象が1931年に帰国後、すぐにとりかかった東京歯科医科専門学校附属病院の設計にあたっての山口の仕事の最初の相棒、つまり山口文象建築事務所の最初の所員である。1937年にまで在籍していたから、山口の最盛期のスタッフであった。
 河裾が何時からタウトの助手であったのかわからないが、山口がタウトに貸したのだろうか。10月に一緒にバーナードリーチ展を観に行ったとき、タウトから建築図面を書く助手がほしいと相談されたのだろうか。

 そこで気になったので、ほかにタウト関連の本を探したら、「ブルーノタウトへの旅」(鈴木久雄 2002 新樹社)にこれに関する記述を見つけた。
 その頃、井上工房はタウトのデザインによる製品を数多くつくるようになり、軽井沢に「ミラテス」という名の販売店舗をもっていたが、更に東京の銀座の交詢社ビル向かいのビルの1階にも店を出すことになった。
「店の詳細設計は、助手の河裾逸美が実測をつくって、タウトの指示で作図をした。河裾は元逓信省経理局営繕課の雇員だった建築のよく分る人物で、タウトの信頼を得ていた。」(「ブルーノタウトへの旅」150p)
 なるほど、店舗のインテリア設計のできる建築設計助手をタウトは欲していて、それを山口文象には話したのだろう。
 そうして銀座に「ミラテスが開店したのは1935年2月12日だった。

 ところが、1935年1月19日のタウト日記に、また河裾が登場する。いろいろと井上工房での愚痴を書いた後に、このようにある。
「河裾(逸美)氏は、つい近頃井上工房を鮮めてしまった。この人は、自分だけでも貧しいのに、僅かな俸給を勉強中の弟さんの為に割いていた。河裾氏の月給は四十五円だし、水原氏のは恐らく三十円にも達しないだろう。河裾氏は文字通り飢えんばかりの生活をしていた。昼の食事でも歯が痛いからと言っては、いつも十銭の弁当で済ませるという風であった。」
 水原とは、最後までタウトの助手であった水原徳言で、日本での唯一のタウトの弟子である。

 ということで、河裾はタウトのもとを去った。安月給で雇われていたが、ミラテスの仕事も終わってクビになったのかもしれない。山口文象建築事務所にまた戻って、更に2年ばかり在籍した。山口には洋風と和風の両方の系譜の建築があるが、洋風が河裾の担当だった。
 河裾は戦後は大阪に住んで、建築設計をやっていた。わたしは何度か大阪の安孫子にある自宅を訪ねて、話を聴いたことがあるが、タウトのことを聴いたことはない。

●山口文象資料にあるタウトの自筆原稿のこと

 山口文象がドイツにいた1931~32年には、タウトはベルリンのシャルロッテンブルグ工科大学の教授だったが、山口文象の滞欧手帳にはタウトの名は登場しないから、出会ったかどうかわからない。
 山口文象とタウトの出会いに関しては、ここまでの話は日本でのタウト日記だけが資料であるが、山口側にも唯一のタウトとの接触を示す強力な資料がある。それは、タウトから贈られたという自筆原稿のカーボンコピーである。

 RIA(㈱アール・アイ・エー)に保管してある山口文象資料の中に、『Siedlungs-Memoiren』と題する、手書き原稿45頁のカーボンコピーがある。原稿末尾に「Hayama,30.8.33 B.T」とある。
 別の紙が表紙に添えてあり、そこに山口文象の筆跡で「ブルーノ・タウトから贈られる」と記してある。つまりこの自筆の葉山と日付とB.Tはブルーノ・タウトのサインである。本文と筆跡が異なるから、本文は秘書のエリカ・ヴィッティヒによるのであろう。タウトの原稿はほとんどが口述であり、エリカが筆記していたそうである。

 1933年8月30日の日付をもとに、タウト日記にそれを探したら、1933年9月2日に「論文『ジードルング覚書』(45頁)を脱稿。」とあり、訳者の註で「『ジードルング覚書 Siedlungs-Memoiren』」とあるからこれだろう。
 この原稿をいつ山口文象が贈られたのか分らないが、12月に前田青邨邸であったときだろうか。

 この「Siedlungs-Memoiren」は「ジードルング覚書」として篠田英雄訳『タウト 日本の建築』(春秋社1950年)に収録されている。ただしこれはのちの改稿原稿である。
 山口文象の持っている自筆原稿が初稿だろうが、その翻訳版は公刊されていない。だが、山口の翻訳になるタイプ原稿が山口文象資料に保管されている。その日付は1948年8月30日とあるから、山口はタウトからもらったまま持っていたが、戦後ヒマな時に翻訳したのであろう。多分、どこかの雑誌に発表するつもりだったのだろう。
 ただしこの訳文はかなりの悪文だから、雑誌に売りこんでも掲載されなかったのだろう。
https://sites.google.com/site/dateyg/1946burunotaut-siedlungs

 
●タウトとの別れの送別会で山口は青邨の色紙を贈ったこと

 タウトは日本を目的地としてやってきたのではなく、日本経由でアメリカに行くつもりだった。しかし、水原徳言によると、秘書のエリカ・ヴィティヒのビザを取ることができなくて、あきらめたそうだ。
 タウトは故国に妻子をおき、秘書のエリカとの間にでき子もおき、エリカと二人でナチスからの逃避行の先が日本だったのだ。エリカには、もうひとりの子もいたが置いてきた。火宅のカップルであった。

 しかし本職の建築設計の仕事はないし、工芸デザインも順調ではないし、日本の気候が体に合わなくて病気がちだったから、なんとして日本を出たかった。日記をドイツの親戚や知人に送るとともに、ヨーロッパ方面の知人への連絡を欠かさなかった。
 そして1936年9月30日に、朗報がトルコのイスタンブールからやってきた。ケマル・アタチュルク大統領による新生トルコ共和国の芸術アカデミー教授に招かれたのだ。タウトは大喜びですぐにも出立することになる。

 1936年10月10日のタウト日記には送別会の記事がある。
「井上氏の肝煎で、同氏のほか吉田(鉄郎)、蔵田(周忠)、斎藤(寅郎)の諸氏が幹事役となって、盛大な送別会を催してくれた。会場に当てた赤坂幸楽の二階には、五十人ばかりの知友が集まった。(中略)山口(蚊象)氏からは岳父(前田青邨氏)の色紙を頂戴した。私への餞けの言葉は、いずれも賛辞ばかりで、美しい屍に捧げる頒辞でも聞いているようだ。そこで私は、どうか私に封する非難のお言葉も頂戴したいものです、と言った。」
 山口文象はタウトとの最初の出会いも山口青邨がらみだったが、最後の別れもまたそうであった。石本喜久治を間にしてむしろ困らせたと言ってもよいが、設計作業で困っているタウトに事務所スタッフの河裾を貸したので、帳消しになったかもしれない。結局のところ建築家としての深い付き合いはなかったのだろう。
 そして、タウトが設計した可能性もあった「番町集合住宅」を、山口が設計したという因縁はある。

 ブルーノ・タウトは多くの日本の建築家たちと交流したが、結局のところ、力量を高く評価した建築家は、吉田鉄郎だけだったようだ。吉田は当時は逓信省所属の建築家で、東京駅前の東京中央郵便局(現在は改築してKITTE)の設計者として有名である。山口文象は吉田に逓信省時代に出会っている。
 また建築設計作品らしいものは、インテリアデザインの日向利兵衛別荘地下室だけと言ってよいだろう。幸いにも今は保存公開されている。
 タウトの日本の滞在の日々は、総じて気の毒なことだったが、日本の建築界としてはその謦咳に接したことでよかったと言えよう。しかし彼の建築の腕前を発揮させることができなかったのは、実に惜しいことだった。

◆ブルーノタウトと山口文象
前編http://datey.blogspot.jp/2015/08/1117.html
中編http://datey.blogspot.jp/2015/08/1118.html
後編http://datey.blogspot.jp/2015/08/1119.html

山口文象アーカイブス
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html

2015/08/15

1118【山口文象研究:ブルーノ・タウトとの出会い(中編)】タウトと山口が同じ敷地に別々の建築計画を進めて山口案が実施になったこと

前編からの続き)

●タウトが画家・有島生馬から依頼のトルコ大使館の設計受注に失敗したこと

 タウトは結局日本では建築を設計する機会には恵まれなかった。来日以来、仙台で工芸指導所や蒲田の陶磁器会社でデザイン指導、あるいはあちこちで講演をつづけてながら糊口をしのいでいた。建築の設計の仕事をしたいのだが、機会に恵まれない。
 何回か設計を設計を頼まれて図面や透視図を書いてはいるのだが、どれも実ることなく、時には日本の建築家にさらわれた。建たない設計には金を払わない日本の習慣の前では、いつもタダ働きだった。できたのは僅かに熱海の日向氏別荘の地下室のインテリアのみであった。
 そのタダ働きのひとつに、画家の有島生馬(1882~1974年)から依頼された建築計画があった。

 1934年7月11日に、タウトは画家の有島生馬と出会っている。その日の日記。
「有島氏は現在の家屋と地続きの所有地に建築をしたい、ついては私の日本における『建築の皮きり』としてその設計にあたってほしいという。有島氏は好個の紳士だ。」
有島生馬

 そして7月29日の日記。
「有島氏にトルコ大使館の建築平面図2葉を届けておいたが、今日は方角を考慮して少し変更を加えた見取り図を描き、これに設計の謝礼をも含めた費用見積もりを添えた。有島氏とトルコ大使館との交渉がどんな結果になるのかは、今のところまったく不明である。有島氏は、もしこれが不調に終わったら、例の土地へ外国人向きの宿泊所を建てたいと言っている。有島氏は私に好意を寄せているようだ(私も同氏の人柄が好きである)、まさか私を見捨てる様なことはあるまい。」
 どうやら既にプランを提出済みだが、更に変更案を追加して届けたらしい。これがだめでも「外国人向きの宿泊所」の仕事が来ると期待している。

 だが1934年10月7日のタウト日記に、有島に見捨てられたことが書いてある。
「数か月前に有島(生馬)氏の依頼で、トルコ大使館の設計をしたことがある。これについていつか同氏に手紙を出したら、今日その返事を受け取った。有島氏の言い分は、あの件はトルコ大使館が処理するべき事柄で、自分には全く係りがないというのである。井上氏はこういういざこざは、日本ではありがちなことで、しばしば不快な事態を惹き起こすものだという。だがその手紙は、なにも補償を要求したものではなくて、ただ仕事の価値をありのままに述べたに過ぎないのである。」
 井上氏とは、有島を紹介した井上房一郎で、後にタウトは高崎の井上工房に雇われる。タウト支援者の一人である。

 どうやらドイツ流の理知的な言葉と日本流の曖昧な解釈とのあいだで行き違いがあったらしく、タウトはこの設計受注には失敗した。そうなったら、「外国人向きの宿泊所」の設計受注へとフォローすればよいのに、怒ってしまったらしい。
 この年のクリスマスに、タウトは有島からクリスマスプレントを受け取って、設計料の9分の1くらいの値段のものと、また憤慨している。

 タウト側のこの件の記述は以上であるが、山口文象の側から見ると、この続きがある。
実は、このタウトが受注失敗した有島生馬のプロジェクトは、山口文象が「外国人向きの宿泊所」を完成させた。もちろん、これはわたしの推理であるが、ほぼ間違いない。

●山口文象がタウトの失敗した有島のプロジェクトを実施したこと

 有島がタウトに設計を依頼した土地は、山口文象の設計で1936年8月に建った「番町集合住宅」の場所らしい。そこは東京の麹町区六番町である。有島生馬の兄の有島武郎の住宅であったが、武郎の死後は生馬が管理していた。

 現在そこには、出版業の文芸春秋社の社屋が建っているが、1945年の空襲で焼けるまでは、「番町集合住宅」が建っていた。そしてそれはタウトに有島が語ったように、「外国人向きの宿泊所」つまり外国人向けの賃貸アパートメントである。
番町集合住宅
有島は、タウトと縁が切れた後か、あるいはそれよりも前か、それを山口に設計を依頼したのだった。タウトはまた日本建築家に“横取り”されたのだった。
 有島と山口との出会いは分からないが、山口には画家の知り合いが大勢いて、安井曽太郎や菊池一雄などいくつもアトリエ設計をしているから、その線であったのだろう。

 当時の新聞(1936年だが新聞名や日付は不明、山口文象建築事務所の資料)に、「集合住宅(ジードルング)を有島氏が計画』との見出しで、透視図つきの記事がある。
「故有島武郎氏が生前の作品中に或は書簡文中に「番町の家」としてのせられ有名だった麹町区下六番町10の邸宅はその後一時文芸春秋社と平凡社が仮社屋に借りていたことがあったが最近は七百坪の名庭は荒れるにまかせペンペン草やあざみの花が咲いていたが、今度令弟有島生馬氏が同所に純独逸風の集合住宅「ジードルング番町の家」を立てることになり思い出の邸は沢山の鳶職が入って取り壊している。「ジードルング番町の家」は先日本紙に掲載した「町田外人街」と同様に在京外人、中流以上の人々に、ホテルより手軽に在来のアパートより一層機能的に、家一軒借りるより文化的な住み家を与へる目的で、青年建築家として水道橋の東京歯科医専その他進歩的なデザインで有名な山口蚊象氏がデザインに当り、ドイツのウォールグロッピュース氏流のテイピカルなジードルングの設計を終り目下建築許可の申請中で八月末日まで竣工の予定である。」
 ウォールグロッピュースとは、山口文象がドイツで師事したWalter Gropiusのことであろう。

 そこに有島生馬の談も載っている。
「住宅地としてはこの辺は東京一等地ですし、欧州を旅行してかねがね本場のジードルングにあこがれていたので、一念発起いま山口君と大童になっていいものにしようと頭をひねっています。地代を支払ってはこの仕事は引き合いません。とにかくスーツケース一つ提げてくればすぐ住めるものに、しかも外装は飽くまで瀟洒たるものにします。」

 1936年11月号の雑誌「国際建築」に番町集合住宅の写真と山口の解説文が載っている。解説文をこう締めくくる。
「この「番町の家」が本当の意味におけるジードルングであるかどうかは別にして、この計画を実施された有島先生の英断に敬意を表し、また若輩の私に設計工事に関する一切を一任して下さったことを心から感謝を述べたいと思ふ。」

 皮肉なもので、その当時ならばジードルング(集合住宅)の設計では世界中でこの人の右に出る者はいないであろうタウトに接触していたのに、その起用にならなかったのは、日本の集合住宅のために実に惜しかった。
ブルーノタウトによる集合住宅 ベルリン・ブリッツ・ジードルング
一方では、山口文象がそのジードルングの「番町集合住宅」を設計して、更に名を挙げることができたのは、山口の弟子の端くれにいいるわたしとしては、よかったとおもう。

 山口文象が「本当の意味におけるジードルングであるかどうかは別にして」と言っているのは、金持ち外国人向けの賃貸集合住宅が、労働者層を対象とする社会政策としてのドイツのジードルングと同じとは言い難いと思ったのであろう。
 ドイツで本物のジードルングを見てきたし、グロピウスの下でジードルング設計にも携わった山口文象だから言えることだろう。

●タウトが山口文象建築作品個展を観てモダンデザインを酷評したこと

 ところで、タウトはその土地に山口文象がジードルングを設計したことを知っただろうか。時期的にはタウトが日本を出たのは1936年10月15日だったから、知ってもおかしくないが、そのようなことは日記に登場しない。
 では、タウトが同じ土地に別の計画で関わったことを、山口は知っていたのだろうか。

 「山口文象建築作品個展」と銘打って、その自信作を展示したのは1934年6月13日から17日まで、銀座資生堂ギャラリーでのことであった。
 展示したのは、日本歯科医科専門学校附属病院小泉八雲記念館、アパートメント試作、アトリエⅠ、アトリエⅡ、協同組合学校、関口邸茶席、モデルルームの8つの建築作品である。多分、図面と写真、一部は模型もあったかもしれない。
日本歯科医科専門学校附属病院

 1934年6月15日のタウト日記。
「建築家山口蚊象氏の作品展覧会を観る(同氏はドイツでグロピウスの許にいたことがある)。作品のうちでは茶室がいちばんすぐれている、――山口氏はここでまさに純粋の日本人に復ったと言ってよい。その他のものは機能を強調しているにも拘らずいかにも硬い、まるでコルセットをはめている印象だ。とにかくコルビユジエ模倣は、日本では到底永続きするものでない。」
 タウトにももちろん招待状を出したに違いないが、やってきタウトは酷評である。唯一のほめている関口邸茶席は、コテコテの和風建築であった。展示作品のうち唯一の和風デザインである。
関口邸茶席

 日本歯科医科専門学校は、山口が帰国してすぐの設計で、彼の出世作ともいうべき、時代の流行最先端を行くモダンデザイン建築である。
 小泉八雲記念館は、松江市の武家屋敷街にある旧八雲住居跡に建つ。これはモダンデザインというよりは新古典主義的な影をもつ洋館であった。ワイマールにあるゲーテ記念館を模したと言われるが、本当かどうかわからない。現在あるゲーテ「ガルテンハウス」のことならば、ずいぶん違う。
 そのほかのアパートメント試作、アトリエⅠ、アトリエⅡ、協同組合学校は、展覧会用の試作だったのだろう。

 ここで気になるのは、「アパートメント試作」なるものである。このころ山口がとりかかっていた可能性があるアパートメントならば、「番町集合住宅」と「青雲荘アパートメント」の二つがある。
 もしも展示作品が番町集合住宅ならば、有島は山口にアパートメント設計を依頼しながら、いっぽうではこの後の7月11日にタウトに会った時に、同じ土地にトルコ大使館設計依頼という、二股をかけたことになる。
 そして、トルコ大使館が不調になったら「外国人向きの宿泊所」にすると言い、それを山口文象に依頼してあると正直に言ったのかもしれない。だからタウトは有島にキャンセルされても、フォローしなかったのであろう。あるいは山口とは言われなかったが、怒ってしまってフォローしなかったのかもしれない。
 このあたりは類推して、勝手に面白がるしかない。

 山口としては作品展で、ドイツから持って帰ったモダンデザインを、タウトに褒めてもらいたかったであろうに、それらはけなされて、和風の関口邸茶席のみを髙く評価されたのだった。岳父の前田青邨の絵のようには高い評価をされなかったことは、彼にとっては皮肉なことだった。
 しかし、タウトがあちこちを見て発している、極めつけの「いかもの」(ドイツ語ではキッチュ)と言われなかったのだけは、とりあえず幸いであったか。
   (後編につづく)

◆ブルーノタウトと山口文象
前編http://datey.blogspot.jp/2015/08/1117.html
中編http://datey.blogspot.jp/2015/08/1118.html
後編http://datey.blogspot.jp/2015/08/1119.html

山口文象アーカイブス
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2015/08/12

1117【山口文象研究:ブルーノ・タウトとの出会い(前編)】タウトが山口の結婚式に招待されて悩んだこと

●建築家ブルーノ・タウトの日本訪問のこと

 日本が戦争に入ろうかとしていた頃、ナチスのドイツを逃れて一人の建築家がやってきた。その4年間の滞在で日本の建築文化に足跡を残した。その足跡のほんの一部だが、山口文象(1902~1978年)も関わっている。
ブルーノ・タウト
 ブルーノ・タウト(1880~1938年)は、20世紀初めのドイツ表現派の建築家として、また、戦間期のワイマール共和国時代の政策であったジードルングと言われる中産階級向けの集合住宅の秀作を設計を多くしている。今もそれらは住まわれていて、一部は世界遺産登録になっていて有名である。

 タウトは一時、ソ連で仕事をしたことからナチスに睨まれて左翼の烙印を押され、逮捕リストにのったことを、あるルートからひそかに知った。その手を逃れて1933年にシベリア鉄道、ウラジオストック経由で日本にやってきた。
 そのときちょうど招請を受けていた「日本インターナショナル建築会」を頼ったのである。
 そして日本経由でアメリカに亡命するつもりが失敗して、1936年にトルコに去って行った。2年後、トルコで客死したのであった。

 日本でのタウトは工芸デザインに携わるしかなくて、建築家としてはかなり不幸な人生だったが、日本の建築や文化について多くの著作を出して、日本の建築家や文化人に新しい刺激を与えたのであった。
 タウトの日本での動静は、その詳しい日記で知ることができる。

●ブルーノ・タウトを悩ませた山口文象の結婚式のこと
山口文象

 タウトが日本にいたころ、山口文象は新進建築家として名をあげつつあった1930年渡欧の前は建築運動の活動家として知られ、1932年にドイツから戻ってきていきなり東京医科歯科専門学校附属病院(1934完成)のモダニズム建築で建築家として世に出た。
 日本でのタウトは、山口文象と何回か出会っていることは、タウトの日本日記で分る。

 その出会いは、どこか妙な具合もある。最初はどこであったのか分らないが、1933年11月初めに、タウトは山口から画家の前田青邨邸への招待状を受け取った。
 11月4日に日記。
「建築家の山口(蚊象)氏からも、岳父の前由青邨邸へ来てほしいという招きがあった。山口(旧姓は岡村)氏はすぐれた建築家だ、某氏のひどいあくどさを知らしてくれる(この男は正眞正銘のやくざ者だ)。山口氏は以前グロピウスに就いたことがある。」
 前田はその当時に山口文象が婚約していた前田千代子の父である。12月に蒲田に前田青邨邸を山口と共に訪れて、その純日本家屋の寒さ、静謐さ、美しさに驚き感銘した記述がある。
 タウトは後に展覧会を観に行って、日本画家としての前田を高く評価している。
前田青邨

 そして1934年1月16日に、山口から結婚式への招待状を受け取って、「思いがけないことだ。日本では初めてである。」と驚く。
 そして1月21日の日記。結婚式は1月26日に迫っている。 
 「山口(蚊象)氏の結婚式のことでいろいろ思い煩う。下村氏は、京都-東京の往復切符を私達に提供しようと言ってくれる、『面白そうだから構わずに東京へ行っていらっしゃい、しかしまたここへ戻ってこなくてはいけませんよ』。私がこの結婚式に出席したくない理由は、山口氏と建築家Ⅰ氏とは互に競争相手なので、どちらにも格別に親密な関係を持ちたくないからだ。結局下村氏も私の意見に同意し、またあとから上野君もこれに賛成した。
 下村氏とは、大阪の大丸百貨店の経営者で、上野君とは日本インターナショナル建築界の上野伊三郎であり、どちらもタウトを支援した人である。
 
 そして3月21日のタウト日記。
夜、建築家山口(蚊象)夫妻を訪ねる(同氏は、私が結婚の贈り物や祝電を取りやめたことについては何も触れなかった、それでもお互に格別気まずい思いをしないで済んだ。・・・」
 というわけでタウトは悩んだ末に、山口の結婚式にはかかわらなかったのであった。
 さて、タウトの日記に具体的なことは書いてないが、どのようなことで悩んだのだろうか。

●山口文象と石本喜久治の確執

 タウト日記の「某氏」や「I氏」という仮名になっているのは、元は実名が書いてあるのを、訳者の篠田英雄がそうしたことは、篠田自身がタウト日記の解説に書いている。
 私のかなり確度の高い推理では、この「某氏」と「I氏」とは、建築家・石本喜久治(1894~1963年)のことであろう。石本と山口は犬猿の仲であったのだ。そしてタウトはインタナショナル建築会の石本の世話になっていた。間にはさまったタウトが悩んだのは無理もない。

 山口は1923年の関東大震災の余燼のなかで創宇社建築会を立ち上げて、盛んに建築運動をしていた。逓信省営繕課での図面画きで実務の経験を積むとともに、この運動で建築会には少しは知られた。
 そして1926年から石本の下で設計の仕事をしていた。朝日新聞社や白木屋デパートなどである。ここで設計の実務経験をしっかりと積んだのである。
 石本事務所には、ほかに二人の創宇社建築会メンバーもいて、共に仕事と運動をやっていた。
 しかし石本は創宇社建築会の活動を嫌って、脱退を指示したことから、山口は石本と喧嘩をして、1929年に石本事務所を去った。他の2人もやめた。

 そして翌年渡欧してベルリンのW・グロピウスのもとで働き、32年に帰国した。すぐに東京医科歯科専門学校附属病院の設計をはじめた。これが山口の建築家としての出世作となる。
 1934年4月に歯科医専はできるのだが、その過程で石本が、山口はアカだとの怪文書を関係者に配って、仕事を妨害するという事件があった。当時の建築許可機関の警視庁へも送って、許可が停滞したという。タウトが知ったこの時期は、まだホットな事件であった。
 この資料は無いが、わたしはこの件について、当時山口文象の下にいた二人(山口栄一、河裾逸美)から直接に聞いたことがあるから、このようなことがあったことはまちがいないだろうし、建築界では知られた事件だったらしい。
 タウト日記には、この二人の確執を具体的には書いてないが、それを山口や他の建築家などから聞いて知っていたらしい。
石本喜久治

 石本は、タウトを招聘した日本インタナショナル建築会の幹部だから、タウトの世話をいろいろと焼いていた。タウトは二人の確執を知って、出席するべきか否か困り果てて、支援者たちに相談して、結局は1934年1月の結婚式には出席しなかった。
 もっとも、タウトの石本への印象は、あまりよくない様子が日記にある。石本の建築作品について、例えば白木屋百貨店を見て「いかもの」との烙印を押している。

 1975年にタウト日記が公刊されたときは、石本はこの世にいなかったが、もしも読んだら、あれほど世話してやったのにと、怒ったことだろう。タウト日記には、ほかにも読んで怒った人は大勢いると思われる記述がいっぱい出てくるのが面白い。
 このタウトを悩ました山口の結婚は、3年後に破局を迎えたのであった。ゴシップはこうして終わった。                
 (中篇に続く

山口文象アーカイブス

2015/04/07

1077【未来が明るかった頃(4)】ひときわ異形の山口文象+RIA設計の建売モデル住宅は売れたか

未来が明るかった頃(3)」からつづく

 奈良盆地の西の端にできた新開発住宅地に、20戸の鉄筋コンクリート造りの建売分譲モデル住宅が建ったのは、戦後住宅難がまだまだ続く1956年11月のことだった。
 小さな木造住宅さえも手に入れにくい時代に、鉄筋コンクリート造の建売住宅である。コンクリの建物なんて、公共建築とか都心のビルにしか使われない頃だった。

 しかも、それらは全国から公募した設計とその審査員による設計だったから、よくある工務店の設計施工ではなく、建築家が設計したのであった。
 建売住宅をコンクリートで、しかも建築家が設計するということ、そして、それが住宅に関しては保守的な風土の関西においてのことだから、きわめて珍しいことだったろう。

 そこには、関西の私鉄では沿線住宅地開発事業者としては、最も後発であった近鉄の戦略があったのだろう。最新式の構造である鉄筋コンクリート住宅というのが、先行している関西私鉄住宅開発との違いを生み出したかったのだろう。
 なお、このコンクリート建売住宅は、住宅博覧会の期間中(1956年3月20日~5月7日)に建設売出しが間に合わなくて、博覧会が終わった11月初めに完成して売り出された。
 
コンクリート造建売モデル住宅展示場風景 右端に山口文象設計のカマボコ屋根住宅が見える
『楽しい生活と住宅博覧会』(1956朝日新聞社)より引用
建築専門雑誌の「新建築」(1957年2月号)にも、関西の住宅雑誌「新住宅」にもその掲載をしている。ここからは主として、その「新建築」の記事をもとにしながら書く。
 そのコンクリートモデル住宅の中で、最も先鋭的であったのは、公開公募設計競技で審査員であった池辺陽と山口文象(正確にはRIAだろうが)の設計によるものであった。

 池辺の設計によるモデル住宅は、見たところはシンプルな形である。
『楽しい生活と住宅博覧会』(1956朝日新聞社)より引用
『新建築』(1957.02新建築社)より引用
 池辺自身の解説(『新建築』1957年2月号62ページ)を一部引用する。
「この住宅の設計目標は、内部をできるだけ制約しない、コンクリートの箱を造ることであった。(中略)内部間仕切りは生活のシステム、家族構成によって、どうにでも取ることができよう」
 つまり、柱を外まわりにのみ立てて、大スパンを飛ばすためにPSコンクリートの梁をかけた構造である。がらんどうの中に、間仕切り壁が自由に立つのである。
 しかしがらんどうで売り出すわけにはいかないから、池辺流のプランになっているが、それでも間仕切りはかなりフレキシブルに動くようになっているらしい。

「このような住居が現在一般に考えられている建売住宅とかけ離れた考え方であることは明らかである。しかし私は鉄筋コンクリートという永久的な材料と展示会という問題、一軒だけを造るということ、(もしも数多く作る場合はもっと違った形になっていただろう)、などの条件から、このような住居をつくってみたのである。
 この住居は恐らく生活の単純化を要求するであろう。しかし同時に私はこの住居が、今までの住居では得られなかった新しい生活の多様化を可能にする、と考えている。そしてそれは住まい手の考えにかかっているのである。ここに造られたものは、その基本要素に過ぎないであろう」

 こうしてこの住宅の買い手は、ここで新たな暮らし方を発明して暮らすことを要求されている。
 だが、そのような先進的な生活像を描いて、高い買い物(1,508,400円)をすることができる買い手が、この建売住宅にはたして現れただろうか。

 もう一人の審査員建築家の山口文象による、というよりも山口文象が主宰していたRIA建築綜合研究所によるモデル建売住宅は、池辺よりももっと過激だった。池辺が一種の逃げをうっているのにたして、こちらは真正面から突っかかっていった。

 それはなんとカマボコ屋根が二つかかっているのであった。
 他のモデル住宅がほぼフラット屋根であるなかで、これは異形である。しかも、室内の天井も、この屋根に形のままに蒲鉾状になっている。
 わたしは住宅を論評することは不得手だから、図と写真を見ていただこう。
「楽しい生活と住宅博覧会」(1957朝日新聞社)より引用
『新建築』(1957.02新建築社)より引用
『新建築』(1957.02新建築社)より引用

『耐火不燃の新建築』(1957主婦の友社)より引用

『耐火不燃の新建築』(1957主婦の友社)より引用

『耐火不燃の新建築』(1957主婦の友社)より引用
『新建築』(1957.02新建築社)より引用

どうしてこのような外観あるいは構造を選んだのだろうか。これが山口が審査員講評で書いている「鉄筋コンクリート構造と小住宅の関係についての研究と突込み」の山口流の回答であろうか。
  1954年にRIAに参加した近藤正一が、後になって「当時RIAがはまっていたシリンドリカルシェル構造のゾーンプランの家であった(「疾風のごとく駆け抜けたRIAの住宅づくり」(RIA住宅の会 彰国社2013)と書いている。RIAは同じ1956年に、「日比野医院」という歯科医院兼住宅と、東京板金という工場をカマボコ屋根の設計をしているから、「はまっていた」のだろう。
 余談だが、当時はようやく撤退していきつつあったが、占領軍の基地があちこちにあって、その兵舎等の建物がカマボコ屋根で立ち並んでいた。

 RIAの三輪正弘が、「新建築」(1956年2月号)に、この建売住宅の解説を書いているので一部引用する。この設計担当は三輪だったのだろう。
 「コンクリート構造体をどうして住宅という空間のために成形させるかというテーマである。それはコンクリートの固いラーメンの中にもうひとつの木造を建てこんでいく習慣的方法から切り離すための手段に他ならない。連続した二つのシェルの断面の中にその建築的な答えを一応見ていただけると思う。」

 どうやら、ここでは池辺とは正反対に、コンクリート構造自体に内外の空間造形に意味を持たせているのであった。それはRIAが木造小住宅で、垂木構造による内外とも一致する造型を試みていたのと同様の思考であったのだろう。
 だが、建売住宅という不特定対象のこの商品を、この造型とその値段(1,267,300円)で買う人がいたのだろうか。

 「新建築」1956年2月号には、やはり審査員だった西山卯三が、「関西とモダンリビング 鉄筋コンクリートモデル住宅を見る」と題して、東の建築家による建売住宅と関西人の住宅感を対比して論評をしているのが面白い。
                   

2015/03/28

1074【未来が明るかった頃(3】山の彼方の新興郊外住宅地は建築家デザインのモダンリビングで新ブランド化

【未来が明るかった頃(2)】のつづき:「楽しい生活と住宅博覧会」(1956年 朝日新聞社)を読んでレポート

 大阪から東に24km、生駒山を超えた奈良に、戦後1950年からの新開発住宅地は、近鉄の学園前駅を中心にひろがる。
 戦前から沿線開発に熱心だった関西私鉄では、近鉄の宅地開発は戦後からという後発である。しかも阪神圏の外の生駒山のかなたである。大阪人には遊びに行くところであっても、住むところではなかった。
 それだけに他とのイメージ的な差異を出して、新たなブランド化を図ろうとしたのだろう。わたしは関西のことはよく知らないが、この学園前や登美が丘の戦後新興住宅地は、ブランド化に成功したらしい。

 1956年のあやめ池と学園前での住宅博覧会に、その意気込みが現れている。
 建設業者による建売住宅群のほかに、有名建築家や全国コンペ公募した建築家による設計の建売住宅もとりいれ、しかも鉄筋コンクリートの建売住宅をならべたのだった。
 この住宅博覧会に先立って、会場の新開発住宅地に展示する建売住宅設計の、全国公開コンペを行った。
 その条件は、耐火構造、床面積18~23坪、家族4~6人、畳部屋を含むこと、工費は住宅金融公庫標準価格によるとしている。入選作は現実に建てられて、販売される。

 この審査員の顔ぶれがすごい。池辺陽、坂倉順三、滝沢真弓、西山卯三、村野藤吾、山口文象であり、東西から3人づつということになる。
 山口文象は戦後再出発をかけて1953年にRIAを創設し、精力的に庶民住宅に取り組んでいたから、適任であった。朝日新聞で住宅相談をやっていたからその縁によるのかもしれない。
 
 このコンペ入選者名の中に、高橋靗一、川島甲士、吉田桂二、小林盛太などの名があり、その頃は25~30歳の若者である。高橋はF4グループという名称で、郵政省仲間と共同で応募して入賞している。
 入賞作と佳作による設計の7戸と、審査員の池辺と山口による設計の2戸の鉄筋コンクリート住宅計9戸が学園前駅近くに建ったのは、博覧会が終わった後だった。
 これらはどのような売れ行きだっただろうか。

 まずは、コンペ入賞と佳作の建売住宅を見よう。わたしは住宅のプラニングを論評する能力はないが、コアプランのものがあるのが興味深い。ここだけは浄化槽を設置したのだろうか。
 意匠的には、とりたてて和風の皮をかぶることなく、素直にRC造の特徴を見せているところが、建築家好みだろうか。
 このあまりにも素直なモダニズムデザインを、博覧会に来た人たちはどうとらえたのだろうか。

 入選作の平面と外観(欄外記入は、「耐震不燃の新建築」(主婦の友社1957より)

工事費1,320,600円
土地とも1,965,900円、住宅金融公庫融資73万円を35年償還
住んでみての感想「融通性に富んでいて住みよい」


住んでみての感想「浴室のところに脱衣場がなくて困る」


 審査員としての山口文象によるコンペ評が載っている。
 応募作品364点中から入選作3点を得た。
 池田氏の作品は構造計画に無理がなく、低建設費でプランも良い。
 北原氏の作品は関西式住宅。現代的でしかも生活習慣を変えずにすめるのが特徴。
 F4グループ作品は鉄筋コンクリートではとかく大きくなりがちな構造を小さい柱で押さえたてんがよかった。
 応募作品全体を通じての印象は、鉄筋コンクリート構造と小住宅の関係についての研究と突込みが充分とは言えない。スケールの大きなものとの間には必然的に違った構想がなければならないと思う。したがってプランは構造とは違った発想からなり、木造的な考え方を出ない。
 鉄筋コンクリートにはそれなりのプラニングが有るはずだと思うが、そういうものがほとんど見当たらなかった。
 入選作品は優秀なものではあるが、上述の点でまだ十分安心できる元はいえない。主催者側と作家との間に詳細な検討が必要であると思う。
 いずれにしてもこの企画が若い有能な建築家の参加を得て、一応成功したことは喜んでよいことであり、この刺激が一般の人達の新しい住宅への関心を深める契機となるに違いない.

 では、そういう山口文象が設計したモデル住宅は、どんなものだったか。

【未来が明るかった頃(4)】ひときわ異形の山口文象設計のモデル住宅」につづく

2015/03/27

1073【未来が明るかった頃(2)】郊外開発住宅地に広がる戦後モダンリビング建売住宅

 【未来が明るかった頃(1)】からつづく:(「楽しい生活と住宅博覧会」(1956年 朝日新聞社)を読んでレポート

 奈良あやめ池遊園で住宅博覧会があった1956年、その頃はようやく戦後を脱出しつつあった。
 この年の経済白書に「もはや戦後ではない」との、後に有名になる言葉があった。
 それは朝鮮戦争の特需景気で、なんとか経済回復してきたことを意味はしたが、まだ高度成長期には夜が明けていない。

 戦争による都市の焼失と戦後の急激な人口増加で、衣食住のうち衣と食はなんとか回復が見えたが、住宅不足は深刻極まるものだった。もっとも、住宅問題は、その後に形を変えているが、未だに解消しないでいる。戦後復興で最も遅れた政策が住宅であった。
 1955年に、政府系金融機関として住宅金融公庫が設立され、金づまり時代の庶民の住宅建設に低利融資をはじめた。

 あやめ池の住宅博覧会の第1会場には、住宅博覧会らしく、生活文化館、住みよい街と住宅館、そして住宅設計館があった。
 生活文化館は、住宅関連製品メーカーの商品展示場があり、新生活の場となる住宅のモデルルームがあった。
 このモデルルームのデザインは、RIA建築綜合研究所の担当であった。このRIAとは、建築家・山口文象が戦中・戦後の逼塞の時を終えて出直すべく、1953年に創立した建築共同設計組織である。
生活文化館のRIAデザインのモデルルーム
モデルルームの想定は、24坪、夫婦と子供2人の4人家族と記述があるが、どんな平面かわからないが、戦後ブーム生れの子どもがいる若夫婦が対象であり、それは戦後の新しい主流の家族形態である核家族である。
 この世代がその頃は希望に燃えて、新しい住宅を求めていたのであり、博覧会はそれに応えるイベントだった。
 そしていま、そこにいた子どもが団塊の世代と言われて、もうすぐ大量のリアタイア世代となる。希望の時代は終わり、高齢社会問題に突入している。
 
 この住宅博覧会は、そのような戦後核家族対象の住宅の現物を、建売住宅として建設して、販売したことに特徴がある。それが第2会場である。
 あやめ池駅の南西にある第2会場に行ってみよう。松林の丘陵を切り開いた新開発住宅地に、26戸の建売住宅が建っていた。そのまわりには分譲宅地が広がる。
住宅博覧会第2会場の分譲住宅展示場
「C」のあたりが分譲住宅展示場

 展示の建売住宅の区画坪数75~180坪、売出し価格は土地建物合わせて一戸当たり95万円だった。
この価格を現在のそれと比べるべく、モデル分譲住宅展示場が建っていた土地の相続税路線価格をみると、67000円/㎡前後である。75坪としても今や土地だけで1700万円ほどにもなる。こうなってしまった未来の今は、明るいのか暗いのか。

 26戸のモデル住宅の事業主体は近鉄で、木造平屋で住宅金融公庫融資に適合し、販売価格は土地建物共で95万とする条件で、建設業者を選んで設計施工を請け負わせた。
 購入申し込み最多あるいは現地人気投票で上位の建設業者を表彰して賞金をだして、インセンティブをつけているのが面白い。この26戸は抽選となる人気で、期間中に全戸販売した。
 ここに戦後モダンリビングの様相の例としてあげるが、臭突(汲み取り便所の便槽臭気排気筒)が懐かしい。
人気投票上位の分譲住宅(右下は方位が逆のような気がする)
戦後モダンリビングいろいろ
この26戸の分譲住宅のほかに、あやめ池駅の隣りの学園前駅の近くで、耐火構造の住宅11戸が建売に出された。これは博覧会会期中には間に合わず、年末売出しだった。
興味深いのは、この耐火構造分譲住宅の設計案は、公開コンペで募集し、その入選案を建設したことである。
 そのコンペの審査員の顔ぶれがすごいし、審査員もモデル住宅の設計していて、興味深い。
(【未来が明るかった頃③】住宅博覧会の建築家によるモデル住宅へ、つづく)

2015/03/24

1072【未来が明るかった頃(1)】原子力飛行機に未来の希望が乗っていた高度成長夜明け前

 こんな写真のある本が書棚から出てきた。なんとまあ、原子力飛行機である。
 戦争からようやく立ち直った人々の心の中に、原爆を超えて原子力に代表される明るい夢と希望の未来が待ち受けている(と思っていた)1956年のことであった。

 ウチの書棚の膨大な本の処分整理をぼつぼつ始めた。山口文象関係の書棚から、忘れていた珍しい本が出てきた。
 「楽しい生活と住宅博覧会」(朝日新聞社1956年11月1日発行)とある。その年の3月から5月にかけて69日間、奈良の近鉄奈良線あやめ池遊園地で、朝日新聞社が主宰して開催した博覧会の記念アルバムである。
今日の眼から見ていると、その頃のいろいろな社会情勢が反映されていて、じつに興味深い。
 これが建築家・山口文象資料のひとつであるのは、この博覧会でモデル住宅を設計して建てていることと、博覧会行事の住宅公開コンペの審査員をしているからである。

 この本をはじめから見ていくことにしよう。
 博覧会場は、近鉄あやめ池駅前のあやめ池遊園地の第1会場と、隣りの学園前駅近くの新開発住宅地の第2会場である。
 あやめ池遊園地では、生活と住宅に関する諸情報の展示で、これは見世物小屋の立ち並ぶいわゆる博覧会形式である。
 第2会場の学園駅の方では、新規造成地にモダンリビングの当時流行のモデル住宅を建てて、これを売りだしている。近鉄による郊外住宅地開発の先鞭であったようで、この建売住宅を売るのが博覧会の本当の目的だったらしい。

 博覧会と言えば、万博は別格としても、あちこちで独自の博覧会が開かれる。
 1956年と言えば、1945年の終戦のどん底から、1950年勃発の朝鮮戦争による特需景気で浮上し、日本全体が戦争の疲弊からやっと立ち直りつつある時期だった。
 この年の政府が出した経済白書に、「もはや戦後ではないとあった。未来への希望を無理やりにでも抱いて進んでいた頃だ。

 そのころ全国各地で、地方主催の博覧会がめったやたらに開かれていて、岡山市での博覧会に行った記憶がある。ウィキをみると各地の博覧会が書いてるが、そこに「岡山産業観光大博覧会(岡山県、1954年)」とあるのがそうだろうか。
 それら中でも特徴的なのは、「原子力平和利用博覧会(東京都・広島県広島市など全国11都市を巡回、1955年-1957年)」である。未来への明るい希望の火だった。

 その未来への希望の火は、この住宅博覧会でもバッチリと展示されている。それは原子力飛行機という未来の旅行の姿としてである。
 会場の中央に鎮座している原寸大の原子力飛行機の模型は、「前長200尺、翼長145尺、胴体最大直径18尺」とあるから、たぶんこれは原寸の模型であろう。内部に観客が入るようになっている。

 その周りにはアメリカ軍の戦闘機とともに、旧日本軍の「零戦」や「飛燕」が展示してある。終戦から15年経つと、もう空襲のことを忘れるたのか、忘れたかったのか。
 それから60年後の今、わたしは原子力飛行機なるものの実在を聞いたこともない。そんなものが墜落してきたらどうなるのか。ネットで見ると、原子力飛行機開発はとうの昔に放棄されたらしい。

この博覧会のあった1956年と言えば、その前年に原子力基本法ができ、この年に原子力員会が発足した。委員長は読売新聞社主の正力松太郎、委員参与には朝日新聞の田中慎次郎もいた。朝日主催の博覧会に原子力飛行機が登場するのは不思議でない。

 そして日本で最初の原子力発電は、東海村で1963年10月26日だった。飛行機に乗ることさえも夢の夢の時代のこと、その飛行機さえも飛ばす夢のエネルギーだった。
 原爆を超えて明るい希望のエネルギーは、今や3・11を経て不安なエネルギーになり果てた。

 面白いのは、この飛行機と並ぶ見世物が、飛騨白川郷から移築してきた合掌造り民家だったことである。その頃に電源開発していた御母衣ダムで水没する庄川村の民家を持ってきたのだろう。これは水力発電というエネルギーの犠牲になった秘境から来たのだ。
 原子力、飛行機という未来の最先端風景と、秘境、茅葺民家という過去の伝統風景があり、その間にモダンリビングというその時代における最先端生活風景があるのだった。

 なお、この博覧会でのモダン建築として円形劇場が建った。その設計者は、円筒形建築で売り出していた坂本鹿名夫だった。その後、ここでOSK松竹歌劇団(日本歌劇団)が定期公演を行っていた。
 この博覧会の目的は、新開発住宅地の土地と建物を売ることだったのだが、その客寄せに原子力飛行機も大きな役割を持ったのが、未来に希望をもつべき世相を表していて興味深い。
下に近鉄あやめ池駅と博覧会ゲート、右上に円形劇場、左上に原子力飛行機
このときに用意していた26戸の建売住宅は、抽選により完売した。69日間会期中の入場者は80万人とある。
 1926年開園のあやめ池遊園地は、2004年に廃園となって、住宅地開発だそうだ。
 そういえば、わたしには親しみがあった東急沿線の多摩川園遊園も二子玉川園遊園も、とっくになくなった。

 その年、わたしはと言えば、大学受験に失敗して、小さな城下町盆地の森の中に逼塞して、この1年は人生には存在しなかったことにするべく受験勉強であり、明るい未来があると自分にムリヤリ信じさせるしかない日々だった。

 (【未来が明るかった頃(2):郊外開発のモダンリビング】へつづく)

2014/11/23

1031山口文象90年前の橋の設計図:新宿地下広場で土木学会百年記念展覧会

 
久しぶりに山口文象が描いた設計図を見た。しかも1925年という大昔のものであるから、山口文象がまだ岡村蚊象と名乗っている、駆け出しの頃の作である。
 その駆け出し時代の図面とは、帝都復興局土木部橋梁課の嘱託技師をしていた頃に作成した「八重洲橋」の手すりや橋塔の詳細図である。どっしりとした石張りで、表現は風の刻み込みを指示している。
八重洲橋は右上方に見える八重洲通りが外堀を渡る位置にかかっていた
土木学会100周年記念事業の土木エンジニアドロウイング展として、土木学会の土木コレクションアーカイブのなかから、他の関東大震災復興橋梁の図面と共に出品されていた。
 ガラスケース入りで大事に、しかもこの図面だけ、山口文象デザインであるとの顔写真つきの解説がある。山口文象もこうなるとは夢にも思わなかったろう。

 その八重州橋の詳細図の右下を見れば、山口文象のサインが設計と製図の欄に「岡村」とあり、その上に技師と照査欄に「成瀬」のサインがある。成瀬勝武であろう。
右上には「親柱詳細」と、山口文象の筆跡でタイトルがある。
 この図面の描き方は、線がコーナーでクロスしていていかにも建築図面である。他の人の手による八重洲橋の几帳面な図面とくらべて、筆致が分って味がある。



 なお、八重洲橋は木下杢太郎のデザインという説があるらしいが、本当だろうか。杢太郎の兄の太田円三が復興橋梁建設の指揮をしたから、詩人の杢太郎は兄からその風景のあり方を相談されたかもしれない。実際はどうなのだろうか。 
 八重洲橋は1948年に外堀の埋立てで、地の中に埋もれて消えた。
 
 たくさんのパネル展示を見ていて、その土木建造物の設計者やデザイナーが記されているものが結構多くあることに気が付いた。かつては土木の世界では、特定の設計者の名前を出さないのが約束のようであったが、どうやら変わったらしい。
 土木系の設計者名の他に、建築系の設計者あるいはデザインに係った者の名もちらほらある。その建築家のひとりとして、駆け出し時代の山口文象の名が顔写真と共に登場するのが嬉しい。

 山口文象がかかわった土木構築物の内、上記の八重洲橋のほかに、清洲橋、数寄屋橋、そして富山県の庄川にある小牧ダムが展示されて、山口の名が記されていた。
 ちょっと残念だったのは、山口が世に出てから設計した黒部発電所の目黒橋と小屋平ダムがなかったことだ。土木界では高く評価していないのだろうか。

 山口文象の他に登場する建築家は、「聖橋」デザインの山田守と「東京駅」設計の辰野金吾のほかには、見当たらなかった。それだけ山口文象は特異な存在であるらしい。
 しかし、実のところ、山口文象が土木デザインに実務として、どの程度かかわったのかは、よく分らない。そのあたりのことも知りたいのだが、小牧ダムの解説に同じようなことが書いてあるから、土木界でもよく分らないらしい。
山田守デザインの聖橋のパース(岡村蚊象画)
その頃、山口は創宇社建築会を結成して、若い仲間たちと大井瀧王子の自宅を梁山泊のようにして、建築運動の拠点にするとともに、橋の設計の仕事をしていたらしい。
 創宇社建築会仲間の竹村新太郎にわたしが直接聞いた話では、山口の担当する橋の欄干や親柱あるいは照明器具などのデザインは、創宇社建築会仲間でアルバイトでやっていたとのことだった。

 わたしが山口文象に、現物の橋のそばで直接に聞いた話(1976年12月11日)は、清洲橋では川の中の船から橋を横に見るとき、橋桁とそこからはねだす歩道の鉄骨の見付が、いかにスレンダーに見えるようにするか腐心したということだった。
 浜離宮南門橋は、その様式デザインを求められてやったけれど、これは好きではないとのこと。数寄屋橋については、稲田御影の手すりの天端からサイドへと角を丸くしていくのだが、その丸みのカーブに腐心したといっていた。
 戦後の貧乏で無骨一点張り、あるいはデザイン下手の見本みたいだった土木構築物にも最近は、今回の展示に見るような戦前に倣う良いデザインが、ようやく登場するようになった。

 この展示は土木構築物をテーマにしているのに、辰野金吾の東京駅がはたして土木構築物であろうかという疑問がわいた。
 そしてこの東京駅を最近の復元による改築をテーマにしてとりあげているのだが、その解説に辰野金吾は登場しても、肝心の復元設計の建築家の名が登場しないのは、どうしてだろうか。かつての土木の無記名性がよみがえったのか。
 東京駅の復元をとりあげているように、展示を戦前に絞ったのでもないようだ。とすれば、最近は建築家によるデザインの土木構造物もあ多いだろうに、数が多くなりすぎるので限界があったのだろう。

 今回の展示は、このような誰もがアクセスできる会場にて行うとは、土木学会はずいぶん開けていると思う。
 しかしそれでもひとこと言いたいのは、内容がやはり普通の眼で見るとマニアックであることだ。わたしはマニアだから面白かったが、これでは一般には興味の湧きにくいプレゼンテイションであった。
 土木は一般に身近にある日常世界のものである。日常の世界でこんなにも素晴らしい役目をしているのだと、普通の人たちの眼にももっと面白い展示を次は期待している。

 そういえば、わたしの生まれ故郷の高梁盆地の高梁川にかかる「方谷橋」が展示にあった。この橋は、わたしが少年の頃に何度も行き来し、毎夏には橋の下で泳いだ日常の思い出が深い橋である。わたしが生れた年にできた橋だから、同年同期である。
 パネルの写真には、わたしの生家の神社の森も写っている。こうやって見ると、ああ、これも記念すべき土木遺産なのだと気がついた。わたしはそんな事情でこの橋に感情移入できるが、ふつうなら解説を読んだだけでは特にどうってことはない。
竣工時の方谷橋。現在はこの親柱は失われている

参照→「ふるさとの川と橋」(伊達美徳)
参照→「山口文象アーカイブス」(伊達美徳)

参照→「土木コレクションアーカイブ」(土木学会)
http://dobokore.jsce.or.jp/archive/