フェイスブックにも、とても宗教など信じそうにない知り合いたちが、神社や寺院への初詣の風景写真を、次から次へと掲載なさって来る。しかも、初詣のはしごまでなさるのである。
おお、このお方は、そんなにも信仰心の厚いお方であるのか、と、畏敬の念をもって見直すのである。
初詣だけじゃなくて、去年も年8月15日に野次馬で靖国神社に行って見たら、きちんと参拝する行列のまあ長いこと長いこと、しかもけっこう若い人たちが多いのであった。
初詣の参拝行列には、どこか無邪気さがあるが、靖国神社参拝には、ある種の不気味さを伴うものである。
行ったことのない初詣の写真はないので、 2014年8月15日の靖国神社参拝者の列 |
昔と違って、休日に遊びに行くところはほかに腐るほどあるのに、わざわざ年寄りじみたお宮参りやお寺参りなんてしなくて良ささそうなものだと思う。
では、そういうおまえはどうなんだ、と、聞かれたら、堂々と言うのだが、生まれてから一度も初詣をしたことはない。
そりゃ近くに神社がなかったからだろうと言われると、また堂々と答える、わたしの生家は神社であったのだ、と。
つまり、生まれたときから初詣には行くのではなくて、余所の人が来るところであったのだ。
だから、一家そろって初詣に行くどころか、父母は超忙しいお正月で、こどもにかまってなんかいられないので、わたしは初詣なんてしたことがない。
生家が神社なら、信心深いだろうと問われたら、堂々と、その逆だ、と答える。
そのわけはいろいろあるが、簡単に言えば、日常的にいつもそばにある神様なんて、ありがたくもなんともないものだ。
少年時にときどき、神殿の掃除で父を手伝ったことがあるが、すると、御神体なんてものにもお目にかかり触るのだが、あ、これがみんなが拝んでいる神様本体なの、な~んだ、てなもんである。
大人ならば、なにがしかの形而上的な意味をご神体に持たせてみることもできるが、少年の眼には単なる汚い金属の円い板である。
少年であればこそ、冷徹な意識が働き、そのほかのいろいろな儀式の無意味さも含めて、神社は無神論への培養器であった。
これでは信心もなにも起きないのが当たり前。
ということで、一切の神仏に祈ることはない人間に育った。当然、父の後を継ぐこともなかった。
今、気が付いたが、わたしの二人の息子の宮参りとか七五三とか、一切考えたこともなかったなあ。
ただし、お祭りは大好きである。ご馳走を食べられて、神楽があり、ぼんぼりが立ち並び、にぎやかだったなあ。
大人になってから、義理で参列する冠婚葬祭に、日本や西洋の神や仏の儀式が登場するのに困惑したが、そこは付き合いとして割り切って、周りに失礼ないように形だけは整えている。
わたしは神社や寺院を訪ねることは、嫌いではない、いや、むしろ好きかもしれない。お祭りはもちろん好きだ。
それはその風景や環境あるいは建造物を愛でに行くのであり、そこでも参拝することは、一切ない。
だから、正月の神社寺院やら敗戦記念日の靖国神社などで、人々は長い列をつくっても神妙に礼拝する様を、この歳になってもさっぱり理解できないでいる。
反対するとか不快であるとか思うのではないが、とにかく不思議である。