2011/10/22

511【ふるさと高梁盆地】小堀遠州作の名園の借景を守る

 高梁には江戸初期の幕府官僚アーキテクト・小堀遠州政一がデザインをした頼久寺庭園がある。
 小堀遠州は15年ほどの間、備中松山藩の代官だったことがあり、頼久寺に居を構えていて作庭をした。
豪快なサツキの大刈り込み、その背景の高い生垣、その向こうに雄大な愛宕山(あたごさん)がゆったりとやさしい三角の山容を見せている。遠近が効いていて大きな庭になっている。
 この愛宕山の借景が、遠州の作庭のポイントであったのだろう。
 
 ところが、地図や航空写真で見ると、実にちっぽけな庭である。それがどうしてあれほど大きく見えるのか、そのポイントは遠くにある愛宕山の借景にある。
 庭と愛宕山頂上とは、水平距離にして1.5kmもはなれている。その距離をこの庭に圧縮してとりこんだのである。  

 同じような借景庭園として有名なものに、京都岩倉の円通寺がある。比叡山をとりこんでいる。
 頼久寺と同じ頃に作られたが、こちらは後水之尾上皇による。頼久寺が武家の作庭なら、こちらは公家のそれである。

わたしは1960年ごろに、この庭を見た記憶があるのだが、そのときは刈り込みの背景の生垣の上に、すぐ外にある養老院のセメント瓦の屋根が見えていたような気がする。
 そう思ってアルバムを探したら、わたしが撮ったそのとおりの写真があった。

今は外の建物が見えないのは、その建物がなくなったのかと思って、向こうの生垣のすぐ外に出てみた。
 下の写真に見るように、それらしい建物が今もあるから、建物の高さを低く建て直し、周りに常緑樹による生垣を高くめぐらしたようだ。



 そう思って庭の中からみると、生垣がちょっと高すぎる感がある。外の建物を見切るためにそうなっているのであろうが、内外の境界を感じさせる。
 当然のことに、小堀遠州が作庭したころは、外は田園であろうし、小さな茅葺きの家はあったかもしれないが、刈り込みの背景をこれほど高い生垣をたてて、外を見切る必要はなかっただろう。
 いまよりは低い生垣で、おおらかに外の風景につながっていたにちがいない。

 それにしても、庭園の中から見る愛宕山と、庭のすぐ外の墓地に出て同じ視線でみる愛宕山とは、あまりにも異なる風景であることに驚く。とても同じ山を眺めているとは思えない作庭テクニックである。
 借景庭園の外に、高い建物が建って借景の山は見えなくなってしまった庭は多くあるだろう。
 あるいは借景の山がなくとも、庭園を取り囲む樹木の連なりが美しい庭園の外に、庭の樹林の上に無粋な四角なビルが顔を出したりすることも多い。
 東京の名園はどこもかしこも、ビルにのぞきこまれていいる。のぞきこむ名園が隣にあることを売り物にしている住宅ビルもあるから、まったく始末におえない。
 そのおかげで東京の浜離宮庭園が、ニューヨークのセントラルパークみたいになって、大名庭園は台無しになった

 頼久寺も円通寺も、その危惧があるので、庭から見える借景の範囲にある街に、高い建物を建てないように、都市計画で規制をしている。
 頼久寺の場合は、吉備国際大学の新設のときに、「地区計画」(都市計画の規制手法のひとつ)を決めたそうだ。
 それまでは特に高い建物が建つようなところでもなかったが、大学ができると高いビルが建つことは十分に考えられる。
 都市計画の用途地域も、それを許す指定であったので、市民から何とかするべきとの声が上がった。

 そこで、庭園の外の借景が見える方向の街の中の、高い建物が建ちそうなところに風船を上げて、頼久寺の庭から眺めてそれが見えない高さに、建物の高さ規制値を定めたそうだ。
 市民の努力は実って、いまも借景の愛宕山は美しい姿を見せている。
 そういえば庭園ではないが、高梁の近くにある倉敷市の有名な倉敷川あたりの美観地区では、その風景の背景に高いビルが建たないように条例を決めて規制している。(2011.11.121960写真追加、関連して文を一部修正)

参照→景観戯造(各地の借景庭園風景)

参照→怨念の景観帝国(京都岩倉円通寺庭園の今)

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伊達美徳=まちもり散人
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2011/10/21

510ふるさとの鎮守の森

 久しぶりの生家の御前神社訪問で、鳥居が新品で白くなってびっくりしたが、参道を登って境内広場に入ってまたびっくり、見えなかったもう一段上の境内にある社殿が見えるのだ。
 参道を登って丘の中腹を、2段に伐って境内地はつくられている。その下の段に広場があり、ここではかつては祭りには神楽が舞われ、戦時中には武道訓練の矢場になったり、戦後食糧難の頃は芋畑になったりしていた。いまは駐車場である。

 ここからまた鳥居をくぐって、石段を登り上の段の境内にでると社殿がある。下の段から上の段の社殿は、森の樹木の葉にさえぎられて見えない、はずなのが、今は丸見えになっているのである。
 その森の何本かの大木が伐られて、見通しがよい、明るいのだ。

 私の住んでいた宮司住宅はとりこわされて空き地に、それにつながる社務所は建て替えられえ、明るい白壁が見える。
 1957年にわたしが出てゆき、弟たちが去り、そして最後に両親がここをあとにしたのは1966年であった。

 少年の日と比べて、なにもかも明るい。広場も建物もきれいに管理されている。
 少年のわたしは、ここを掃除させられるのがいやだった。掃いても掃いても落ち葉はあるし、むしってむしっても草は生える。
 社殿の横で栗の実を一つぶ拾った。ここでは少年の頃にも拾ったと思い出したが、何代目の木だろうか。ジーンズのポケットに、いまもはいったままだ。

 おもいだせば、あれは戦後すぐのころだろうか、下の段の境内広場の南にあった、大人が3人でかかえるくらいの、イチョウの巨木を倒したことがあった。ここにしか倒す方向はないという位置に、樵職人はみごとに切り倒した。(参照→大銀杏の死

 家にかぶさるように枝葉を張っていたモミの大木があった。家の中から窓ガラス越しに枝葉とその間に見える空が描く複雑な模様を見上げて、なにか怪物の影にみたてて怖がった幼年のわたしを思い出す。これを切り倒したのは、いつだったのだろうか。

 周りは暗く真上の空だけはやけに明るい境内の森の中を、社務所で敗戦の放送を聴いたばかりの大人たちが、列になって黙りこくって参道を下っていく風景を思い出す。
 それは1945年8月15日、暑く快晴の昼過ぎのことであった。(参照→66年目の空襲と疎開

 高校生だった1955年の夏、少し遠くに住む同級の友人が遊びにきた。
 持ってきたてメタセコイヤの苗木を、境内の石垣の小段に植えた。すくすくと育って30mくらいの大木になっていた。
 青春の記念樹であったが、これも伐られて大きな切り株だけになっていた。大木が風でゆすられて、石垣が危うくなったのだろう。
 わたしも木も歳をとりすぎた。 わたしの記憶の中にある秋と春の祭礼の日には、境内から参道に幟旗やぼんぼりが立ちならび、綿菓子を売る露店などがでて、街から人々がおおぜいやってきた。
 そして人々の肩にかつがれた重い神輿が、行列をしたがえて街の中をめぐる。神輿の直前には、装束をつけた父が歩いている。

 今も、祭礼はあり、神輿が街を巡るそうだ。
 だが、氏子といわれる旧城下町の北半分の街の人口は減り老齢化が進む。神輿はトラックの荷台に載せて巡るそうだ。あとは推して知るべしである。

2011/10/20

509鳥居が200年ぶりにリセット

 久しぶりに故郷・高梁の生家の御前(おんざき)神社を訪ねた。跡取り息子のはずのわたしが逃げたので、今は近所の別の神社の宮司が兼務である。
 サツマイモのような形の高梁盆地の東の丘の中腹にある社に、街の道路から鳥居をくぐって参道を登る。
 昔は石段だったが、いまは車が登れるように急な坂になっている。

 その鳥居をくぐろうとして、なにやら雰囲気がおかしい。みれば、鳥居が新品の真っ白な総御影石造りになっている。
 おや、ここには江戸時代からの風雨に耐えた風格ある鳥居があったはずだが、これはどうしたことか。江戸時代がリセットされてしまっている。

鳥居の柱に書き込んである。
再建立 平成二十三年八月吉日」、もう一本の柱に「干時文化七庚午年六月吉辰」とあるのは、こちらが元の鳥居に書いてあったのだろう。そうか、1804年に建てたものだったか。
本当かどうか怪しいけれど、この神社の創建は774年とあるから、先代の鳥居も何代目かだったのだろう。
 知人にきいたら、参道を登っていた自動車が、何かの間違いでバックして鳥居にぶつかって、片足がぽっきり折れた。保険で立て直したのがこれだそうだ。
 19世紀はじめに生れた鳥居は、207年を経て21世紀はじめに新たに生まれかわったのであった。

新しくなった鳥居
 
 さて、鳥居のそばには鐘撞堂(かねつきどう)が建っている。4階建てくらいはある搭状木造建築である。次はこれが建て直しになるような気がする。
 いや、取り壊しになるか。

 ここには17世紀はじめの鋳造になる釣鐘があり、時の鐘として定時に神社の宮司が打っていた。そう、父が朝昼晩と登って撞き鳴らしていた。父が戦争に行っていたときは、母が撞いていた。
 その釣鐘は、1941年の暮れに、戦争のために供出されて出て行ったまま、いまだに帰ってこない。

 終戦の次の年、父とわたしは、瀬戸内海の直島にその鐘を探しに行った。まだ鋳潰していないかもしれないという、父のはかない期待は外れた。大砲にでもなったのか。
島の精錬所には、鋳つぶされずに残った全国各地からの無数の釣鐘が、夏の日に照らされて小学生の校庭の朝礼のように行儀よくならんでいた。そのシュールな光景を思い出すと、あれはなんだか夢であったような気がする。
 今はもう多分80歳を超えたであろう鐘撞堂だけが、ひとり黒々と立ち尽くしている。

●参照→ふるさと高梁の風景

2011/10/19

508故郷のoldtown&newtown

 久しぶりに故郷の高梁に行った。
 高梁川をさかのぼる伯備線で、倉敷から30分、典型的な盆地の旧城下町である。
 ここは映画「男はつらいよ」シリーズに登場する、いわゆる懐かしい町である。

 寅さんの義弟がこの町の出身となっている。上流武家屋敷町だった石火屋町にある豪壮な旧家のお屋敷が、その生家である。今回の訪問でその前を通ったら健在であった。
 少年のわたしは親に命じられて、なんどかこの家にお使いに行ったことがある。二つの玄関があって、どちらからはいるべきか悩んだものだ。

 その武家屋敷町は、かなり前から町並み保全と修景をしているから、いかにも城下町らしい風景である。観光拠点にもなっているので、いかにもそれらしい風景である。しかし、空家空き地が目立つようになっているのが気にかかる。
 武家屋敷町は空家空き地になっても、土塀で囲まれているから、一見したところでは町並みが連続している。

 だが、商家町では空き地が目立って、歯抜けになった町並みとなっている。
 かつての繁華街だった本町や下町の商店街は、商店街の体をなしていない。空き店舗と住宅の連続になっているが、その中のあちこちで空き地が目立つのである。駐車場になっているが、がらんとしてガラクタがおいてあり、草が生える。これは寂しい。
 これらの空き地には、元はといえば格子窓や連子窓の瓦屋根の堂々たる旧家が建っていたのだ。跡地に新たな住宅でも建ってくれればよいのだが、歯ヌケのままで寂しい。

 それは今に始まったのではないが、人口減少が止まらないからだ。旧市街地を中心とする合併前の高梁市の区域の人口が、1960年には約35000人いたが、現在は約24000人である。このさきも減少は止まりそうにない。空き地空家が出るのは当たり前である。
●以下続きの全文は「故郷のオールドタウンとニュータウン」
http://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/takahasi111013

●関連→ふるさと高梁の風景

2011/10/18

507わたしの本棚

(このエッセイは、雑誌「本の雑誌」に投稿して2011年11月号に掲載された)

 小中学生のころは戦争直後で、本が無かった。あちこちの大人の本棚をあさったので、戦前の漱石とか日本古典の全集もあったが、戦後のカストリ雑誌も読んだ。
 貸し本屋が流行っていて、少ないお小遣いで探偵小説を借りたものだ。わたしには大人用の江戸川乱歩が先だった。

 勤め人になって自分の金で本を買えて嬉しかったが、狭い家ですぐに困って、本棚の空きと相談して買うようになった。
 50歳でフリーランスとなって、東京に仕事場と平日泊りの部屋を借り、鎌倉の自宅は休日用にした。3ヶ所あればもう置き場に困らないと、本買いが止まらなくなった。
 そして20年、仕事をやめて大量の本の処分に窮した。古本屋に売る気にならず、知人たちにあげたり、イベントに無料お持ち帰りをと出したりした。たくさんの「本の雑誌」、「東京人」(坪内さんのころか)、「季刊銀花」なども同じ運命。

 なんとか整理して自宅だけにしたが、ついつい本買いが止まらない。だがいまや本棚も年金家計も限界である。
 そこで去年から、近くの市立と県立図書館の積極活用で、本買い停止と決めた(あ、「本の雑誌」だけは買ってます)。
 近頃の図書館員は若い美女が多くて、「どうぞこちらへ」「ありがとうございました」なんて、町の本屋並みに親切、もっと前から利用すればよかったなあ。

 蔵書量増加は止まったが、机上のPCの中のデータはどんどん増えていく。これは置き場に限度は無いが、難点は整理しにくいことだ。
 本は版型や色を視覚で記憶しているから、たとえ名前がわからなくても、ほぼ間違いなく見つけられる。PCデータは名前でしか記憶できないので、歳とともに名前を忘れるから行方不明が増加する。もっとも、棚の蔵書と同じく、保存してから一回も見ないデータがけっこう多いのだが。

 さて、自分の蔵書が増えなくなったので、他人の蔵書を増やしてやる趣味をはじめた。PCの中にあるわたしの著述類を机上で編集して、「まちもり叢書」と名づけて十数種類、これを装丁・印刷・製本して手製ブックレットにする。
 いやとは言わせないように、わたしの遺言だから受け取ってくれと、知人たちに配っている。ただいま延べ発行部数105冊。(伊達美徳・都心隠居74歳・横浜市)

(この投稿に対して本の雑誌の浜本編集発行人のコメントがついている。曰く「なにはともあれ、本誌だけは購入いただき、ありがとうございます」)

●参照→まちもり叢書
http://datey.blogspot.jp/p/dateyggmail.html

2011/10/11

506濃縮核毒と共に生きる

 どうもわからない。原発から降ってきた核毒を、地上から取り除く「除染」である。
 おなじことを何回も考えては書いてしまう。
「消染」ならわかるが、除ってのはとり除くだけで、染まった核毒が消えるのではない。消すことができないらしい。
 だから、ここからとり除いた核毒は、何十年か何百年か知らないが、あいかわらずどこかにあるのだ。
 しかも、除染作業によって集めた核毒ゴミは濃縮されたことになる。除染濃縮核毒である。

 そんな濃縮毒物質をどこか最終処分場にもっていくまで、あちこちの中間貯蔵場に積んでおくらしい。右にあった毒を左に置くだけである。
 で、その中間貯蔵場は、あたりまえなのことに、だれもがNIMBY(NOT IN MY BACKYAD)である。東電からの贈り物なんか、うちの裏庭においてほしくない。
 だからわたしはITNPY(IN TODEN NUCLEER PLANT YARDS)しかないと思うのだが、誰もそういわないのが不思議である。
 
 そこで更に思うだが、もうものすごく核毒降り積もる東電福島第1原発の周りの除染はどうするのだろうか。
 あ、そうだ、原発そのものの除染はどうするのだろうか。ものすごい毒性でものすごい量のゴミが出るだろう。どこかに持っていくなんて常識はずれだ。
 考えてみると、原発を要としてひろがる核毒扇のどこまでを除染するのだろうか。
 その除染超濃縮核毒汚染ゴミを、常識的には持っていくところがあるはずがない。
 それなのに、中間貯蔵場とか最終処理場とか言う。そもそも処理できるものなのか

 わたしたちは核毒と共に生きていくしかない、いや裏庭の核毒に埋もれて死んでいくしかない、思えば思うほどそうとしか思えないのである。

 除染、除染とこのところ騒がしいが、多分、除染産業なるものがおきるだろう。いや、もう起きているだろう。
 福島の産業の再生は、除染産業がになうことになるだろう。そして除染科学が地域に学問を興すかもしれない。
 それは原子力産業が支える地域の、もうひとつ姿である。
 それは核で生きてきた地域の悲しい宿命である。
 福島のほかにもその宿命を背負う候補地があることを、忘れてはならない。

2011/10/08

505除染核毒は東電が持っていくのが当り前

 福島第1原発が発射した核毒物質に汚染された地域を除染(この用語がでてこないのでPCに今教えたぞ)するのだが、その汚染土壌などをどこにおくかということが、問題になっていると報道が伝える。
 そんな毒物質を集めて、自分の家の近所に置かれてはたまったものではないってのは、実に健全なる考えである。

 そりゃNIMBYだよって思う向きもあろうが、これがNIMBYと違うのは、ゴミや車や火葬場のような、その発生に自分がかかるものではないことにある。
 毒の発生源はあくまで東電のせいであるから、これは東電が引き取るのが当たり前と思うのだが、そんなことは新聞のどこにも書いてない。
 誰もそう言っていないのだろうか。不思議である。

 そもそも東電から、その毒物を返していただきますって、言いだすべきであると思う。原因者が責任とるのは、なんでもあたりまえでしょ。
 全部引き取るには土地が足りなければ、福島第1原発の周りの土地を買いとればよいでしょ。いくら地主が愛着あるといったって、あんな毒だらけの土地にだれが住むもんですか。

 今はやく、除染した毒物を引き取るって東電が言えば、それだけ社会不安も減少するはずでしょ。除染毒の処理で地域コミュニティが壊れそうなのが心配である。
 はやいこと、もう戻れない地域を決めて、そこに核毒をどんどん運び込むしかないと思う。そしてそこが「東日本大震災記念公園核毒禁断の森」になっていくのだ。

2011/10/04

504なんだ?4K3DTVって

 4KTV受像機なるものを電気屋が売りだすそうだが、なんのこっちゃ?
 3K仕事ってのがあったよなあ、暗い、怖い、汚いってことだったな。
 で、TV受像機はどうなのよ、もうひとつ「くだらない」を加えるってことなんでしょうね。
 暗いってのは画面があかるくないのかしら、怖いってのはたとえば火が出るとか、汚いってのは画面が汚くなるのかしら、クダランてのは中に映る番組がそういうことなんだな。

 では、3Dってなんのこと?
 ドジ、ダメ、デクノボー?
 まあ、そういう番組ばかりのように思えます。正直でよろしい。

2011/10/02

503押上の斜塔

 東京下町に自転車で行って、今、評判のスカイツリーなるものを眺めてきた。
 スカイツリーって「ジャックと豆の木」のつもりかしら、でも、うえがちょん切れている。
 ツリーならば枝葉を茂らせているはずだけど、枝も葉もないゴボウ状態の枯れ木である。
 まあ、ねぎぼうずのお化けってところか。

 下町の河童橋本通りから見るスカイツリーは、電線やら看板やら信号やらの枝葉を茂らせている。
 この風景はスカイはないけどツリーになっていて、なかなかによろしい。

 浅草寺の伝法院の庭園に入らせていただいた。回遊式庭園そのものはなかなかよろしいが、小高い景色を眺めるところにくると、いけない。
 昔は富士山が見えてよかったのだろうが、いまは色とりどりのビルの箱が立ち並ぶ。
 ひょいと視線をめぐらすと、浅草寺の五重塔とスカイツリーが、妍を競っている。これはこれでなかなかよろしい。

 久しぶりに隅田川くだりで浜離宮(ちょっとクリックをどうぞ)へ。
 優雅な吊曲線を描く清洲橋の向こうにスカイツリー。
 20世紀はじめの関東大震災の復興橋梁とその100年後のスカイツリー、前者は地球の重力に横方向に逆らい、後者は縦方向に逆らう。

 せっかくだからスカイツリーのそばまで見に行った。
 まだ工事中であるが、もう、傾いているような、、、、。
 危ないので斜め下から押し上げておいた。何しろ建っているところが「押上」だから。
 
 面白かった。企画とお世話してくださった、
東京ダイバーシティと自転車まちづくり研究会の方々に感謝。
 あ、見たのはスカイツリーばかりじゃないけど、
そのほかのことはまたいつか書きます。

2011/09/29

502名作建築と道路拡幅

 新発田市のまちなかに、カトリック新発田教会という、アントニンレーモンドが設計した、小品の名作建築がある。
 木造のよさをみごとに表現して、和風に陥らずに教会の空間をつくりあげている。
 以前は前面の道が狭くて建築全体像は見えにくかったが、それなりに建築と植栽とがよい雰囲気であった。
 その前面道路が都市計画道路であったので、このたび行ってみたら拡幅されていて、教会建築がよく見えるようになっていた。

 実はまえまえから、その都市計画道路の拡幅が、教会の建物の軒先をかすめるように線引きされていて、そのまま道路ができると教会前の植栽はなくなって、名建築の雰囲気がなくなることを、教会や建築関係者は心配していた。
 それがこのたび行ってみたら、道路は予定どおりに拡幅が完了していたのだが、なんとその歩道の中に教会の植栽空間が保全されていたのである。
 どのような経緯が関係者の中であったのか知らないが、ひとつの解決策である。

 よくあるのは、道路予定地に信仰対象の大木があって、これを道路内に残したり、迂回することだが、民有地の植栽空間を名建築のために保全したのは、これが初めてかもしれない。
 できたら、教会側のペーブメントを歩道上にも展開できたら、もっとよかったとは思うが、それにしてもよくできたものだと、関係者に敬意を表する気持ちになった。
 レーモンドもあの世で喜んでいるかもしれない。

 レーモンドの功のついでに、罪のことをこちらに書いているの、どうぞ。

●関連ページ
◆新発田:同時多発の中心街再生策で5年後が楽しみhttp://homepage2.nifty.com/datey/sibata04.htm   
◆新発田-雪の城下町(2008)

●関連外部サイト(建築としてのカトリック新発田教会)