2009/08/13

165【くたばれ乗用車】下種のマヌケフェスト

 選挙に行かない主義だが、今度の選挙はもしかしたら民主党がトップになるかもと、世の中が騒がしいように、新聞に書いてある。テレビ番組を見ないから、そっちはなんと言っているか知らない。
 そこで、政党の公約(最近ではマヌケフェストとかいうらしい)をウェブサイトで読んでみることにした。殊勝な心がけだと自分でも思うが、実はこれが結構手間がかかる。さっと出てこないのであるし、出てきてもこれが実に読みづらいのである。
 書きぶりも読みづらいが、見開き印刷用の原稿をそのままPDFにするものだから、画面では右左とスクロールが面倒なことおびただしい。html版でも、レイアウトが悪いから、途中でいやになる。他人に読ませようって努力がなっていない。どの政党もである。
    ◆◆
 全部を読むのがめんどくさくなったので、住宅・都市政策と高速道路料金問題だけ拾い読みした。
 公明党が住宅・都市政策について言及した文字数がいちばん多かった。コンパクトシティとかモーダルシフトとかトランジットモールとか、まあ、専門語というかオタク言葉でも書いてあって、ここは都市計画関係者が書いたらしい。
 もっとも、内容はプロからみると目新しいことは何もない、ただの羅列である。
 民主党の住宅・都市政策記述は、都市政策はなくて住宅政策についてちょっとだけある。
 わたしが注目したのは、「多様な賃貸住宅を整備するため、家賃補助や所得控除などの支援制度を創設する」ことで、やってもらいたいが、具体的になにをするのかしら。
 「定期借家制度の普及を推進する」なんて書いてあるが、元はといえば借家人追い出しのためにできた制度であるだけに、これを使ってなにをしようというのか、貧乏賃借人には不気味である。
 自民党の住宅・都市政策記述は、民主党よりは行数が多いが、たいしたことは書いてない。
 「特に子育て世帯や高齢者等が安心して生活できるよう、子育て支援施設やケア施設の併設された住宅等、良質な賃貸住宅を供給する」のところに注目するが、具体的になにをするのだろうか。
    ◆◆
 さて高速道路路料金問題である。
 自民党は触れず、公明党は現政策を恒久化するとのこと。
 で、無料にする民主党である。こう書いてある。
===引用===
「30.高速道路を原則無料化して、地域経済の活性化を図る
【政策目的】
○流通コストの引き下げを通じて、生活コストを引き下げる。
○産地から消費地へ商品を運びやすいようにして、地域経済を活性化する。
○高速道路の出入り口を増設し、今ある社会資本を有効に使って、渋滞などの 経済的損失を軽減する。
【具体策】
○割引率の順次拡大などの社会実験を実施し、その影響を確認しながら、高速道路を無料化していく。
【所要額】1.3 兆円程度
===引用終り===
 その一方で、「CO2等排出量について、2020 年までに25%減(1990 年比)、2050 年までに60%超減(同前)を目標とする」と書いている。
    ◆◆
 民主党ウェブサイトに一問一答の動画がある。そこでこの件について長妻民主党議員が言っているのは、経済効果が大きい、特にインターチェンジ付近の開発を誘導するので工場や産業や遊園地を誘致することができる、とある。
 おい、語るに落ちたとはこのことだぞ。高速道路IC付近でいちばんの産業は、郊外型ショッピングセンターなのである。そして現在それをいちばん抱えているのが、ジャスコのイオングループである。無料化するといちばんうまい汁を吸うのがイオンである。
 巷の噂では、イオン社長は岡田さんといい、民主党の岡田幹事長と兄弟だそうである。まさかと思うが利益誘導ではあるまいなあ、。
 それはともかく、これじゃあコンパクトシティ時代に郊外開発を賞賛していて、公明党にも劣るじゃないか。自民党だって商店街振興策を言っているぞ。都市問題に弱い民主党である。
    ◆◆
 そしてまた、環境政策との矛盾について動画では、渋滞が減る可能性があるから、総合的に見てCO2はそれほど増えないように思う、と、あやふやなことを言っている。おい、大丈夫か。
 そもそも道路の渋滞なんて、朝から晩まで365日やっているのじゃないのだ。多分、1年の時間のうちの数パーセントに過ぎないだろう。それくらいなら我慢しなさいよ、1.3兆円だよ、これでほかにやることがいっぱいあるでしょ。
 これについては、NGOがしごくもっともな共同声明をだしている(12日現在で21団体)。
「高速道路無料化・自動車関連諸税の暫定税率廃止に、反対します~ 高速道路無料化・割引は撤回し、暫定税率は炭素税などにシフトを ~」
http://www.kikonet.org/iken/kokunai/2009-08-05.html
 政治の流れが変るのは何かに期待したいが、タダだからいいだろうって下種の人気取りマヌケフェストで、こちとら車に乗らないものにも1.3兆円と排気ガスを負担させるなんて、気に食わない。
 え、なに、流通費が下がるから車に乗らないものも恩恵を受けるって?、、、それなら、流通業トラックや乗合バスだけ無料にすればよろしい。遊び乗用車はど~ンと高額にしてね、。1.3兆円もあるなら、CO2削減に寄与する鉄道や路線バスなど公共交通に投資しなさいよ。

2009/08/11

164【父の15年戦争】石原莞爾の「世界最終戦論」を古本屋で見つけて買ったら

 野毛坂の古本屋で変な本を見つけて、つい、買った。
 石原莞爾著「世界最終戦論」(第一改定版1940立命館出版部発行)である。
 父の十五年戦争を追っていて、満州国に興味が深まった。満州というキメラには前から興味はあったのだが、そこに身内が命を懸けたとわかると、それなりに興味の湧き方も深まるものだ。

 徘徊老人のいつものコースの横浜ご近所古本屋探検は、ちかごろは105円棚の充実する伊勢佐木町ブックオフで思いがけない掘り出し物に凝っているのだ。
 特にこのところの十五年戦争関係資料の掘り出し物は、「日中戦争」児島襄の第1巻と2巻であったが、この類はブックオフにはめったに出ない。

 やはりブックオフでは奥が浅いので、古典古本屋にも回帰しつつあり、今回の石原莞爾である。
 ときには古典的な紙魚の香りがする古本屋さんにもいかないと、禁断症状が出る、ということもある。
 満州のことについてなにを読んでも教祖様の如く石原莞爾が出てくるし、とくにその「世界最終戦論」は、彼の満蒙植民地化論のバイブルみたいに書いてある。その後の世界の構造を予言したとも書かれている。

 気になっていたが特に探す気もなかったのに、偶然にその論の本に出会ったのだ。四六判、100ページ足らずで定価40銭、古本価格は1000円であった。
 1940年9月10日初版5000部発行、すぐに20日には増刷5000部、更に重ねて買った改訂版まで合計3万1千部発行である。
 大ベストセラーである。時代の空気をどう読むべきなのだろうか。

 たまにこのような戦前戦中の古い本を買うことはあるが、これまではほとんど建築か都市系の本であった。
 いよいよ老人趣味になってきたか、、、もっとも、初版本や稀覯本をあさるような古書趣味は全くない。

追記:その後、青空文庫に「世界最終戦論・戦争史大観」という石原の著書があるのを見つけた。買わなくてもよかったのだ。インタネット時代はすごい。

2009/08/09

163【言葉の酔時記】へんな政党の名前だこと

 「みんなの党」だってさ、新党である。
 おかげで「みんな投票に行こう」なんて投票宣伝文句は書けなくなった。
 ひらかな党は、むかし「新党さきがけ」ってのがあったな。

 思い出せば、むかしは選挙のたびに「公明選挙をしよう」といっていたものだ。
 公明党のことじゃないよ、公明党ができるまでのことだ。それがあの党ができてふっつりと消えた。投票キャッチコピーを乗っ取られたのだ。

 政党はどんな名前をつけてもかまわないのだろうか。選挙広報や新聞に書かれるので、宣伝になるとて、変な名前の政党が時々出現するようだ。
 どうだい、「選挙党」とか「投票党」ってのは、、。選挙に行きましょうとか投票しましょうとか、言えなくなっちまうぞ。

 あっ、今、このブログを書きおわり、公開する作業の画面にしたら、「幸福実現党」の宣伝文句がでてきたぞ、う~む、この政党名もなんだかなあ、、。

 いや、そんなことより、このグーグルのブログは企業等の宣伝がないので気にいっていたのだが、開設の初めのうちは宣伝文句を見せないようにしていて、もうブログをやめそうにない頃になると見せるって作戦なのか、う~む、おぬし、ようやるよのお、けっ、。

2009/08/07

162【言葉の酔時記】ご苦労さまとは失礼な首相である

 首相ともあろう人が、こういう時にこういう言葉づかいはないだろうと思った。
 6日に広島で、原爆症救済策の確認書に首相と原告代表が調印して、原爆症認定訴訟を終結させたときである。
 原爆被害者側の『坪井代表委員が麻生首相と握手し、「ご決断ありがとうございました」とお礼を言うと、麻生首相は「ご苦労さまでした」と答えた』そうである(8月6日YOMIURI ONLINE、同日朝日新聞夕刊)。

 わたしくらいの年代では、首相のこれは誠に不遜なる言葉使いであって、失礼にあたると腹が立つのである。
 訴訟に絡むことだから微妙なこともあるだろうが、調印は対等であるし、相手が礼を言っているのに、それに対して目下をねぎらう「ご苦労さま」との言い方はないだろう。
 文字が読めない人として有名だが、言葉づかいも知らない人である。

 最近、メールの出だしに「お疲れ様です」なんて書いてくる変なやつが複数いる。 外でも会議の後で「お疲れ様でした」などと送り出されてムッとすることがある。
 もちろん言うほう書くほうは気にせずに気楽につかっているのだろうし、言葉は時代と共に変ることも承知しているが、このつかい方は未だ変り切っていないことも事実であるから、使うほうも気をつけてもらいたいのだ。
 その辺のガキどもならともかく、アソウさんのようなお方はねえ、。

2009/08/06

161【くたばれ乗用車】そこのけそこのけお車様が通る

 電気モーター自動車とか電気ガソリン併用自動車とか、要するに電気モーター走行自動車がもてはやされつつある。そこには排気ガスがない(これは疑問であるが)とか、騒音がないとかの利点があるそうだ。
 今朝の朝日新聞社会面に「静かすぎ車 音出す実験 電子音・擬似エンジン音・・「わかりにくい」多く」との見出しの記事がある。

 電気モーター走行の自動車が歩行者のそばにやってくるとき、騒音がないので歩行者が気づかないので危険であるから、気がついてよけてくれるように、安全のために騒音をわざと出すのだそうだ。
 全くもって世の中には、とんでもないバカなことを考える人たちがいるものである。
 だって、自動車の騒音が深刻な社会的公害問題であることは明々白々であり、自動車のほうが歩行者よりも絶大に強くて加害者になることも明々白々であるのに、この記事はそのどちらも否定しているのである。

 国交省の委員とかの意見として「音だけで車だとわかり、、、」と、騒音発生を肯定し、音を出して歩行者がよけることを前提にしているのである。
 絶対的に強い自動車のほうが注意して歩行者を回避するべきが前提なのに、その逆を前提にものごとを考えている。
 自動車が歩行者を回避できないときは、停まればよいのだ。そして窓から首を出して、「恐縮ですがそこを通してください」って言いなさいよ。

 刃物を振り回しているヤツの刃物を取り上げるのじゃなくて、振り回すと刃物から音が出るようにして、近くにいるものが逃げやすいようにしようって発想である。
 バックしてくる自動車が「バックします、注意してください」と、甲高く機械発音するのがいつも癪に障る。注意するのはそっちだろうが、、。
「そこのけそこのけ車が通る」思想は、抜きがたい20世紀型発展神話として、日本人の脳裏に植えつけられてしまったのだろう。 頭の中はいまだに発展途上国である。

 そういえば、60年代に自動車が普及し始め頃、車を運転するヤツはやたらとクラクションを鳴らしていたものだ。日本が発展途上国の頃、自動車が発展神話の象徴だった。今は中国だろうか。
 電気自動車の出現で空気がきれいになるというのは嘘でも、騒音はなくなるのは本当らしいと思っていたら、なんとわざわざ騒音発生装置をつけるんだとさ。
 それがいかにも歩行者の安全のためにというおためごかしの理由で、、、バッカジャナカロカ、、、静かに走って自動車のほうで気をつけてよけろよっ!。
 そのうちに携帯電話の着信音みたいに、それぞれ自動車ごとにてんで勝手な音を出して、そこのけそこのけって走るんでしょうな。、、、いやだいやだ。
 参照→電気自動車に税投入は適切か

付記:インタネット新聞JANJAN2009.8.12に、「歩行者脅す「エコカー音発生装置」は本末転倒」という記事が載った。
付記2:2009年8月18日朝日新聞朝刊「声」欄に、「HV車 音に頼るより声掛けを」と題して、天野俊歩さんの次のような投稿が載った
「・・・私は歩行者が多い道を走るときにはほとんど歩行者同じ速度を保つようにしている。モーターで動くHVはエンジンと違ってエンストすることもないから容易なことだ。しかし追い越したいときには窓を開けて「すみません、先に行かせてください」と声をかけている。これでたいてい気がついてよけてくれる。もちろん、お礼を言いながら頭を下げる。・・・だいたい音を出して歩行者をよけさせようという発想が傲慢だ。道の上ではお互いに尊重しあうのがあたりまえではないか

2009/08/05

160【法末の四季】都会の中の自然の音と山村の自然の音

 横浜都心の7階に住んでいると、聞こえる音は、ほとんどが自動車走行の騒音であり、近くに消防署があるので救急車が特にうるさい。
 朝はシャッターが上がる音が毎日定時に聞こえる。時には人の声も聞こえるが、それは喧嘩のような大声であるときだ。
 時にはどこかのビルの火災報知非常ベルが聞こえ、いつまでも鳴っていると不安になる。

 自然の音といえば、強風のときの壁に当り角を切る音が強烈である。
 雨は、吹き降りで窓にたたきつけると音が聞こえるが、普通の雨はまったくわからない。雨だれの音はないから、外を見ないと雨かどうかわからない。
 今は真夏、この季節だけは蝉の鳴き声が、ミ~ンミンミン、ジージージーと聞こえている。これがこの家でのもっとも自然の音らしい音である。

 蝉といえば、生家は神社の鎮守の森の中にあったから、夏の間は蝉の声に包まれていた。それはもう、森の中の空間には蝉の声が充満していた。森の中に縁台をだして、蝉の音にくるまれつつ昼寝をしたものであった。
 その音色が夏のはじめから秋に向って次第に変っていった。それは蝉の種類が変るからだ。その音色の変り具合で、耳から季節の変化を感じ取ったものである。ヒグラシが鳴き出すと、夏も終わりの寂しさがただよう。

 中越山村の法末の夏、茅葺民家に寝ていると、早朝一番にヒグラシが鳴きだす。日暮しならぬ日明しである。その音でちょっとだけ目を覚まし、あちこちでカナカナカナと交互に呼び合いつつ鳴く声を聞きながら、また寝入るのは心地よいものである。
 夜中には、庭の池の主である蝦蟇がゲコゲコググと鳴き続けるの聞きつつ寝入る。

 茅葺の上にトタンを張っているから、雨音は大きい。雨だれが土を打つ音も聞こえる。でも、雨音で目覚めることはない。
 朝目覚めて初めて聴く雨音で、今朝は田んぼ仕事は休みだなあと、また2度寝に入るのは、ちいさな幸せである。

2009/07/28

159【父の十五年戦争】戦場はかくも悲惨だったのか

 父の遺品の中にあった、1931年から45年までの兵役時代の手記や記録類を解読して、「父の十五年戦争」としてまとめる作業をしている。
 そのために5月ごろから、満州事変から日中戦争のいろいろな戦史・戦記を読んでいる。

 関連して母方の叔父が戦死したと聞いていたので、その娘の従姉妹にどこで、いつなのかと聞いたところ、1945年フィリピンのマニラ近郊であった。
 なんとその戦場がわかったのは戦後も40年経ってから、部隊長だった人からの手紙であったそうだ。遺族としては、どう受け取ったのだろうか。
 この叔父は1944年7月、わたしの父は1943年12月、共に戦局のきわまりつつある時に充員召集され、叔父は南方戦線に送られ、父は輸送船が無くて内国勤務と、運命を分けている。

 わたしが棚田の米作りに行っている中越の山村の法末に、90歳の元気な長老がいる。
 この人も戦争体験者だとて、先日の夕方、ひとり暮らしの自宅に夕飯持参で訪ねて、話を聞いた。こちらは中国の宜昌作戦と、ビルマのインパール作戦に参加したのであった。

 叔父のマニラの戦いと、法末長老のインパールの戦いは、ともにアジア太平洋戦争のなかでも特別に悪名高い負け戦であった。それらの関連資料など読むと、あまりにも悲惨きわまる非人間的な戦場であり、それらが元はといえば作戦計画のずさんさからきているのが、まったくやりきれない。
 これまで興味が無かったが、こうして初めて戦記や戦史あるいは戦争文学を読んでみて、人間そのものへの不信感と嫌悪感がわきでてくるのをどうしようもない。人間同士で文字通り相食むのだもの、、、。
   →131戦争情報を下さい

追記:ここに書いた叔父と長老の二人の戦争に関する記録を、下記に載せた。
父の十五年戦争(附:田中参三叔父の戦場)
村の長老・大橋正平さんが語ったビルマの戦場

2009/07/26

158【山口文象】ほろ酔い気分で隅田の川風に吹かれつつ豊海橋へ

 昨日土曜日、新宿で旧友たちと久しぶりに逢って昼食、別かれてから東京駅丸の内探検へ。
 東京駅は今や工事現場と化していて、景色がはなわだよろしくない。北の三角ドームは皮をはがれて頭の骨が見えている。
 政治家も登場してお騒がせだった東京中央郵便局は、駅前広場側の2スパンを残して、裏側はきれいさっぱりなくなっていた。

 その斜め南向い側にあった丸の内八重洲ビルは、その南の三菱商事ビルと一体開発の丸の内パークビルとなっていて、角の塔が超高層ビルにくっついている。
 三菱商事ビルの跡には、コピー復元した三菱1号館が、超高層パークビルに従うように完成している。
 さてこの新三菱1号館を建築家・建築史家たちはどう評価するのか、タノシミである。京都の元第一勧銀ビルのように無視を決め込むのか、文化財の復元だとほめそやすのか。
   ◆◆
 今日は、隅田川花火大会の日であると知って、見てこようかと思いついて、地下鉄東西線に乗って、どこで下りようかと路線図を見ていて、門前仲町が目に付いた。
 そうだ、あそこの駅近くにうまい魚を食わせる酒場があったぞ、と思い出した。ここで花火見物は二の次になってしまった。

 門前仲町に下りるのは10年ぶりくらいだろうか、あの居酒屋が未だあるだろうか、どこにあるか分かるだろうか、店の名前も思い出さない。
 でも酒飲みはすごい、すぐに見つかった。魚三酒場である。
 1階は味のしみこんだカウンター席ばかり30席ほど、昔はすぐには入れないほど混んでいたのが、土曜日のせいか不景気のせいか、その中の5席ほど空いている。

 冷酒で鰯てんぷらを食いつつ見れば、ほぼ満席になかに以前は見かけなかった若い女性が、6,7人いる。男ときている者や女二人連れも居る。女一人は居ないようだ。
 でもこんなうまくて安い店に女性も入るようになって、それはよいことだが、混み具合が進むのが困るような。
 酒2合、肴4品で1240円、美味くて安かった。
  ◆◆
 さて、花火を思い出した。隅田川の橋まで歩けば見えるかと、ふらふらと永代橋までやって来た。
 だが、花火は遥か遠くの北のほうで、ビルや高速道路の裏から、頭だけパッパッとみせていて、これでは見物にはならない。

 そばの豊海橋がライトアップされているのを見つけた。
 この橋はわが師匠の山口文象がデザインにかかわっているから、敬意を表しに行き、半分だけ渡ってもどってくる。
 この橋から永代橋の夜景もよく見える。

 それにしても橋をライトアップすると、なんだかそれは元の橋とは違うものに見える。
 河川や両岸の風景とあわせて結ぶ風景、そしてその構造技術の美しさ、それらがあいまっての全体像が橋の基本的な風景なのだが、ライトアップされると特定部分の強調となってくるので、昼間の太陽の下の橋とは別物に見える。
 それがよしあしではなくて、そういうものとしてライトアップデザインをしているのだろうか。

 川風が涼しい。 魚三酒場の冷酒の酔いがまわってきて、橋と水の夜景がだんだんとぼやけてきた。
 よりかかる欄干からドボン、、。

2009/07/22

157【ふるさと高梁】少年の日にあった日食の思い出

 ただいま2009年7月22日午前11時ちょっとすぎ、半分以上は太陽が月に覆われているはずである。
 だが、横浜あたりは空は雲のおおわれていて、なんだか薄暗いだけで、ただいま進行中の日食は目に見えない。

 日食といえば、いつも北海道の北にある礼文島を連想する。
 小学生のころに、皆既食ではないが印象に残る日食を見た。
 生家の神社の境内で、子どもも大人もガラスのかけらにローソクで煤をつけて眺めたものだ。肉眼でも見えるぞと、じっと見つめていたら確かに太陽の姿が見えるのだが、その後しばらく目が見えづらくなった。

 そのときは、礼文島が観測適地だったらしく、新聞に礼文島のことがよく載ったので、記憶に日食=礼文島が刷り込まれている。行ってみたいと思いつつ、いまだに行っていない。
 調べてみるとそれは1948年5月9日のことである。その日は雲のない晴天であった。

 その3年前の8月15日も雲のない晴天であった。その昼過ぎ、この境内を近所の大人たちが黙りこくって、列になって街に戻る姿を思い出す。終戦の天皇の詔勅放送を、神社の社務所に集まって聴いた後であった。

2009/07/18

156【老いゆく自分】昔々の大学山岳部員だったころ岩場から落ちて死にかけた

中高年の山登りが流行とかだが、その60歳前後の山登りツアー客が北海道の山で10人も一日のうちに死んだという報道である。
 それもなんと、雪崩や岩崩れではなくて、寒さによる凍死だそうである。
 お気の毒とは思うが、そのひとびとの歳が歳だから、大学山岳部OBとしては、この山行きはどこかおかしい。
 ガイドに率いられて10数人が出発し、男女年寄りが風雨のなかで疲れた人の度合いによって、ばらばらになって離れて歩いていったというのは、常識はずれの言語道断である。まずガイドの資質を疑う。
    ◆◆
 思い出せば半世紀も前のこと、大学山岳部では若かったから、結構無茶もしたような。
 夏の剣岳合宿でのこと、仲間と2人でその日の行動に出たところ、わたしはうっかり雪の急斜面を滑落したのだ。
 すぐにピッケルを刺してとめようとしたところ、雪面が切れて急な岩壁になってしまった。
 岩壁ではごつごつした岩に跳ね飛ばされるからもう駄目だと観念して、ひょいと下を見たら小さな岩棚がある。
 うまい具合にその棚めがけて飛び降りて、ようやく滑落は停まった。下は絶壁である。
 死ぬ直前だったから、しばらくはショックで息が切れて、座り込んでいた。
 どれくらいそこにいたろうか、上にいる仲間の声にわれにかえって、のそのそと落ちたところを登って仲間の隣に戻った。 
 わが身を見れば、擦り傷はあちこち、すねに打ち身、ズボンはビリビリになっていた。岩場のせいである。
 その日の予定行動は取りやめてキャンプ地に戻った。
 それでも歩けるから、すねの打ち身を揉みながら合宿は続け、岩登りもしたし穂高までの縦走もした。
 そのときは合宿が終わってから横尾に残り、屏風岩の第2ルンゼを登ったのが、わが岩登りの最大ルートであった。つまり全く反省しないのであった。
◆◆
 この滑落は、わが人生の最大ショック事件で、それから半世紀後の去年、山岳部同期生のあつまりで、そのときに一緒だった相棒にこの事件を話して、ショックだったよな~って言うと、そんなことあったっけ覚えていないよ、と言う。これまたショックであった。
 不思議でさえあったが、人の生とは人それぞれにそういうものなのである、、自分でも言ってることがなんだか分からないが、、、。
 この山岳部同期仲間からどえらいやつが出た。ノーベル化学賞の白川英樹である。
 合宿テントの中で俺があいつに化学を教えてやったからなんだよって、受賞当時にヨタ話をしたものであった。
 なにで受賞したか当人から話を聞いたが、何のことだかさっぱり分からなかった。
 ときどき中高年の山登りに誘われるが、行かないのである。昔の山と今の山とは、風景も人もおおいに違うだろうから、それを見たくない。が、本音は、もしもバテたら昔山岳部として恥だからである。
 大学山岳部時代には夢のまた夢だったヨーロッパアルプスの山登り(正確には山降りだが)に、2006年に行ったからそれで満足である。
参照◆昔山岳部その2
参照◆ヨーロッパアルプスは棚田だった(2006)
参照◆アイガー北壁