2010/01/04

225【法末の四季】大雪の中越山村

 今、中越の山村・法末集落は、暮から降り出した雪が積り積っている。
 その法末にある仲間の活動拠点「へんなかフェ」に、M田さんは28日からひとりで泊まりこんでいる。いや、もう住み込んでいるといったほうがよいか、。
 大晦日、M田さんは1mの視界の吹雪の中を、集落の中の山頂にある神社に、雪を掻き分け掻き分けて2年詣でをしたそうだ。
それは集落の年中行事の一つであり、どんな吹雪の大晦日でも住民はおまいりをするのだ。
 そうして民家に戻れば、屋根に厚く厚く積った雪を家の周りに落とし、その落とした屋根に登れば吹雪で飛ばされそうになる。雪をまた家から離れた場所に片付けなければならない。
これを雪かきならぬ雪堀りという。その寒さの中でも、雪との格闘は汗ダグになってしまう。 しかし地上に積った雪の上に、更に屋根から落ちた雪が積って、もう軒までもの雪山になってしまうと、手作業ではとてもできない。除雪機を頼むしかない。
 そうやって除雪しても、また天から雪は更に次々と降り積もる。天気予報はず~っと雪マーク。
そんな豪雪の村からのM田さんの日常報告ブログを、はらはらしながら見ているのである。
 応援に行きたいが、今すぐはちょっと都合が、、、う~む。
(追記)1月14日の現地情報は、ものすごい近来まれな大雪とのこと。

●参照→法末天神囃子   ・中越・法末四季物語

2010/01/02

224【老い行く自分】元旦だとても書くこと無し

なにか特に書くほどのことがある元旦でもありません。そういう日々なのです。
 元旦だから何かを書かなければ、という、ある種の“追いかけられ感”、自分自身にドライブをかける装置としての元旦、それはもう必要でなくなったようです。
 でも、そのこと自体がなんだか危ないなあ、と考えている自分もいるのですから、まだ枯れきってもいないようです。
 今日着いた年賀葉書が135枚。ありがたいことです。
 さて、これはわたしにとっては多いのか少ないのか。どうも多すぎる感もあります。だって、こちらからは去年に続いてまだ1枚の年賀葉書も出していないのですから、。
 もっとも、寒中見舞いを出しましたが、、。
   ◆◆◆
 とりあえずここで、このブログをお読みいただいているありがたくも奇特なるお方様たちに、「謹賀新年」のご挨拶を申し上げます。
ことしも健康にお過ごしくださいませ。
 あなたのご健康状態はここでは分かりませんが、わたくしのそれは、もしもあなたが日常的にこのブログをお読みいただいているならば、そして、もしもここに1週間の書き込み途絶え期間があったならば、それはわたくしが倒れた、もしくはPCの故障、そのどちらかとお考え下さいませ。
 とにかく、今年があなたにもわたくしにも、よい年であればいいですがねえ、、どうも祈るってことが苦手なモンで、。

2009/12/31

223【老い行く自分】今年も年賀状を書いていない

 今年も年賀状を書いていない。昨年からやめている。
 理由は簡単、年末になると喪中葉書が多くなって、出してよい人と出していけない人の区別が面倒になったのである。
 一年が巡っても、どうってこともない歳になったこともある。
 でも、一年に一回くらいは季節の挨拶をしたほうがよさそうである。
 身内に不幸のあった人にだって、浮世の習慣で年賀をお断りされても、寒中お見舞いならば受けとって下さるだろう。年賀の季節をはずして寒中見舞いを出すのだ。
 平々凡々として、月日が過ぎていく。昨日の続きは元日もほかの日も同じである。そうやってしだいに終点に向っていく。
参照→077年賀状をやめる

2009/12/29

222【くたばれ乗用車】交通信号を歩行者のために

 酔っ払って歩いて帰る真夜中のこと、さすがに横浜都心部でも表通りのほかは車も人もめったに通らない寂しい街となっている。わたしの家の近くの交差点をわたった。
 と、右のほうから「オトーサンオトーサン」と声が聞こえる。こんな真夜中に路上で親子喧嘩かしらと聞き流して直進する。ところが声は「オトーサン」と、わたしを追いかけて来る。
 え、右に振り向けば、作業衣・作業帽子のような姿の若い男が追いかけてくる。
 “あのね、わたしは息子が2人いますけど、3人目のあなたを誰かに生ませた覚えはありません、ごめんなすって”って言おうとしたら、
「オトーサン、信号無視は危ないですよ、気をつけてください」
 え、なんだよ、大きなお世話だよ、って思いふと見ると、棒のようなものを持っていて、どうも警官らしい。
 ごたごた言って引っぱられても困ると分別が働き、「ご忠告ありがとうございます」といって、そそくさとそいつと別れた。追っては来なかった。でも、なんでオト-サンなんだよ?

 2009年12月28日の朝日新聞夕刊社会面に、「無視される信号なくせ」との見出しで、車がちっとも通らないのに交通信号が長い赤信号になっていて、歩行者や自転車の信号無視が常態化している場所があるが、実情に合わせて赤を短くとか、信号を取っ払うのだそうである。
 そうだよなあ、誰にでも身に覚えがある。交通信号を歩行者向きにすることはよいことですよ、やってください。
 わたしが住んでいるあたりは、たいした車の交通量があるのでもないあちこちの道に、やたらに信号がある。真夜中は無駄もいいところである。信号機屋と警察と結託でしているのかとあらぬ疑いを持つのである。
 モチロンわたしはきち~んと信号に従って歩いておりますよ。
 その記事には、警察庁によると、交通事故死者のうち歩行者が占める割合が日本は高く、2007年はドイツ、フランス、イタリア、オランダは10%台なのに対し、日本は33%とある。
 おいおい、日本はそんなに車優先社会なのかよ、まったく、くたばれ自動車、。

 ところが同じ夕刊にこんな記事がある。
「HV車「音だし」1月に指針公表」の見出しで、電気自動車が静かに走るので歩行者に危険だとして、走行音を出すようにするのだそうである。
 国交省は「視聴覚障害者らが危険を感じているので、早めに開発を」といっているとある。
 おいおいバカヤロ、わかんないヤツだな、おためごかしの口を利きやがって、。
 これについては既にその馬鹿さ加減を書いているが、まったくもって、そこのけ自動車思想はやっぱり変らないのであった。
 まったく、もう、くたばれ自動車!
 参照→161そこのけ車が通る

2009/12/28

221【横浜ご近所探検】日の丸デモ・鉛筆ビル

◎ご近所探検その1・日の丸デモ
 散歩に出ると横浜大通り公園が騒がしい。見れば沢山の日章旗(日の丸)やら旭日旗(放射状)が立っている。その旗棹を抱えた男女2~30人くらいが集まって演説をきいている。
まわりには制服警官や私服警官らしき人たちも、うようよといる。
 アジ演説をしているが、演説口調がドスのきいた絶叫であるから、ウヨクさんたちかなあと近づいてみればプラカードやのぼりもあって、拉致問題にも触れて外国人犯罪を撲滅どうとかこうとかと、外国人排斥のようなことも書いてある。NPOナントカカントカとも団体名を書いてある。ふ~ん、NPOも色々あるんだなあ。
 そのそばにはリサイクル露店群が地べたに品物を並べていて、福祉ボランティアの出店もあって、その平和な風景と対照が奇妙である。
 ウヨクさんたちはそのうちに一列になって、警官たちを引き連れてデモ行進に移っていった。

◎ご近所探検その2・鉛筆ビル
近所の方のビル建設計画のお知らせが郵便受けに入っていた。図面を見て現地と照合すると、左右後と三つの鉛筆ビルにはさまれた小さな敷地に、鉛筆ビルを建てるのである。裏になる隣の共同住宅は完全なる日陰になるが、仕方ない宿命であるとしてよいのかしら、。
 わたしが住んでいる横浜都心部にある共同住宅の周りには、大きな敷地の太目の集合住宅ビルも多いが、狭い敷地の細身のっぽビル、いわゆる鉛筆ビルがたくさんある。
 これらのたいていは土地を持っている人がビルのオーナーであるらしく、下に店舗や事務所、一番上にはそのオーナーの住宅、中間に共同住宅というのが典型的な例である。
 肩を接して建ち並ぶから、住宅の日照は道路側だけに頼らざるを得ない。近所よりは早めに建てて隣にむいて窓をあけていても、そのうちに建ち並んで日陰ビルになる。
 じつはわたしの住む南側の道路向こうは、低層ビルと駐車場である。ここにいつ高層ビルが建つだろうかと、びくびくしている。そのときは引っ越すしかないが、借家だからその点はちょっとは気楽である。
 その北側で建設中のままで止まってしまった高僧共同住宅ビルは、いまだに再開の様子は見えない.

参照→092隣に迫る大不況

2009/12/26

220【言葉の酔時記】数の単位

 数の単位で、1キロは1000、1メガは100万、1ギガは10億、1テラは1兆、1ペタは1000兆だそうである。順に千倍になっていくのである。
 日本語は万からさきは億、兆、京と、順に万倍になって単位がつくから、IT語とずれてしまって勘定がしにくい。

 ところがコンピューターの情報量のバイト数は、1ギガバイトは1000メガバイトではなくて1024メガバイトなのだそうである。
 そんな半端な数になぜなるのか、なんだか2進法に関係ありそうだが、1000倍ごとに単位を切り上げる法則から外れていて、奇妙である。

 最近のハードディスクは1テラバイトなんて大容量の宣伝をしているが、あれは実は正確には1.024テラバイト(1兆240億バイト)なのだそうである。
 デジタルカメラの画素数は、100万画素なんていって、1メガ画素といわないのもヘンである。ならば1テラなんていわないで1兆バイトって言ったらどうか。
 IT用語はどうもいい加減で困る。

 で、今年の政府予算案が92.3兆円だそうである。つまり92.3テラ円である。
 なるほどそうか、この日本列島内外から集めるテラ銭を元手にしているからなんだな、。

2009/12/23

219【お遊び】大人の火遊びをやりに山梨県の韮崎まで行ってきた

 大きな焚き火をしてきた。火遊び仲間4人は同年だから、焚き火は当たり前の時代に育ったから、懐かしいイベントである。
 焚き火をしたいために、3人がわざわざ横浜から出かけて、韮崎市内に住む友人の広い畑で、倒した木の枝を積上げて盛大に燃やしたのだ。
 今はCO2の排出が増えるとかダイオキシン発生とかで、焚き火はどこでも禁止らしい。世知辛くなったものである。
わたしは森の中の神社で生まれ育ったから、冬の朝は広い境内からはき集めた落ち葉を盛大に燃やす焚き火で身体をあっためてから登校したものである。お正月の初詣の人たちも皆焚き火の周りで暖をとっていた。
 40台で鎌倉の一戸建てに移ったときに、庭でやりたいことのいちばんは焚き火だった。喜んでやっていたのだが、しばらくして近所から文句が来た。なにせ狭い敷地だから煙はどんどん隣に行くのである。そうか、ここは一山の森がある神社の境内ではないのだと気がついて、止めざるを得なかった。
 昨年から年に1、2回、韮崎まで焚き火に通っているのである。ぜいたくな大人の火遊びである。

 ●参照→108焚き火http://datey.blogspot.com/2009/03/108.html

2009/12/19

218【老い行く自分】微妙な年頃

 今の自分は、実に微妙な年頃であると思う。
 古稀過ぎたなんていうと、昔なら大年寄りだが、今はそうでもない、だけど年寄りではあるから、社会的な立場が微妙である。
 もっと微妙に思うことは、自分に課している人生の宿題となる、いくつかの調べごとがあるのだが、それらをあまり早く仕上げてしまうと、その後の人生がつまらなそうであるし、そうかといってボチボチとやっていて、まだ気がすまない状況のままにボケたら、それもまた悔しいと思うのである。
 なにしろ、これから渡っていく自分の人生時間という綱の先ッぽがどの辺にあるのか分からないままながら、そう遠くではあるまいと分かってからの綱渡り人生は、考えてみるとスリルに満ちている。
   ◆◆◆
 同年の友人が言う。
「時間は今や無限にあるようになった」
 わたしが言う
「時間って有限だろ」
「ところがね、今や仕事はないし、稼ぐ必要もないので、自由な時間だけで過ごしている。この状態が死ぬまで続くことは間違いないからだよ」
「じゃあ、死ぬまでしか時間は無いだろ、有限だよ」
「いやいや、時間は人間が作り出したものだよ、その人間が死ぬまで時間を気ままに使えるってことは、時間に限度が無いんだよ」
「まあな、仕事という自分の外部から決まる締め切りという有限の時間に追われることのない生き方は、無限に時間があるってことだな」
「そういう状況の中で死ねば、締め切りなる有限時間はいまからずっと永遠に存在しないんだよ」
「ふ~ん、実存哲学のような、至極単純アタマのような」

2009/12/13

217【能楽鑑賞】野村四郎の能「鵺」を観る

 久しぶりに野村四郎師の能を観てきた。
 
能 鵺 白頭 
  シテ野村四郎 ワキ江崎金治郎 アイ山本則秀 
  大鼓佃良勝 小鼓幸正昭 太鼓観世元伯 笛一噌隆之
  地頭浅井文義     2009年12月12日 川崎能楽堂

 「鵺」という能ははじめて観た。源頼政に退治された怪物の話である。頭は猿、身体は虎、尻尾は蛇というキメラである。
 例によって、旅の僧が泊まった川辺の仏堂に怪しいものが出てくる。お前は誰かと聞けば、頼政に殺された鵺の幽霊で、成仏できないので弔ってほしいと言って姿を消す。
 ここまでが前場で、後場は僧が読経していると、鵺が出てきて殺されたときの様子を仕方話して、また消える。話はそれだけである。

 見所は、鵺が殺される前後の演技であろう。鵺が自分のことの物語だから、殺される側の鵺の演技はあたりまえだが、殺す側の頼政の演技もするので、よく考えるとおかしいのだが、能にはそんな演出が普通にある。それを観ているときはおかしいと思わないのは、演技の力である。
 この怪物の鵺は、僧の念仏で成仏したのだろうか、そこがよく分からない。鵺の最後は、祈ってくれといいつつ、よろよろと幕に入ってしまう体となる。これは川流れである。
    ◆◆◆
 この鵺を退治した頼政に関しては、その名をつけた能がある。彼は歳とってから、どうでもよいことで平家に刃向い挙兵して殺されてしまう。能「頼政」はその殺される合戦の様子であり、能「鵺」と似ている。作者がどちらも世阿弥だから、つながりを持って作っているだろう。
 その能「頼政」も、最後は「あと弔い給へ、御僧よ」と頼みながら草の陰に消えるのであるが、明確に成仏したとは謡われない。

 能ではどんな苦しむ霊でも最後に成仏させることが多い。例えば能「清経」では、「仏果を得しこそありがたけれ」と納まるし、能「砧」では「成仏の道あきらかになりにけり」と謡うのである。
 それに比べて鵺も頼政も踏ん切りが悪い。どうもこれは成仏していないらしい。敗者の悲哀がこの能のテーマと言われるのはそこにあるのだろう。
 だから演技でいちばんの核となるのは、実は最後のほうで流れ足で橋掛かりに入ってからの、小舟で流されていく遺骸となった鵺の哀感表現かもしれない。今回の野村四郎の演技も、そこに惹かれた。
    ◆◆◆
 狂言は「福の神」であった。山本則俊以下、則重、則孝、泰太郎、則秀と大蔵流山本東次郎家がぞろぞろ登場して、西の和泉流茂山家に対抗できる人数で、まことに繁盛おめでたいことである。
  来年2月13日午後、目黒の喜多能楽堂で野村四郎「松風」がある。野村四郎はやはり三番目物がいい。
 参照→野村四郎師サイト

2009/12/12

216【言葉の酔時記、怪しいハイテク】中身を真っ新に改めないのに「更新」とは言葉が違うよ

 インタネットサイトの「更新」という言葉がおかしいと昔から思っている。
 この世界では、なにか記事を付け加えただけで「更新」というのである。何も書き換えていないのに、なぜ更新なのか?

 ではおなじみの広辞苑。
・こう‐しん【更新】①あらたまること。あらためること。「記録を―する」 ②〔法〕契約などの期間が満了した時、その期間を延長し、または新契約を結ぶこと。 ③〔生〕植物群落の遷移。特に、極相森林で世代の代ること。
・あらた・める【改める・革める】①新しくする。これまでのをやめて、別のものにする。 ②あるべき状態になおす。改善する。正す。 ③(ことばや態度を)堅苦しく儀式ばらせる。きちんとさせる。

 ということで、ブログのようにただ付け加えただけでは更新とは言わないのである。掲載記事を書き換えたら更新なのである。
 まったくもって、IT用語の日本語知らずである。

 思い出せば、ずっと以前に「購読」てのがあって、インタネット用語では「サイトを見ること」だって、ある人から聞いたことがある。
 でも、無料で購読ってのはおかしいでしょといったら、今はカイヘンをゴンベンに直して「講読」と書くことにしたと返事をもらった。
 今もそうしているのだろうか。辞書で「講読」を引いてみなさいよ、大間違いなんだから、。