2010/04/20

260【各地の風景】今、甲州は桃源郷

 いま甲州は桃の花の盛りとて、畏友を訪ねて韮崎へ。
 韮崎には新府城跡がある。新府城跡から見下ろす一面の桃の花のじゅうたん、その向うに雪をかぶる八ヶ岳がぎざぎざした山稜の連なりを見せていた。
 おきまりの桃源郷の風景だが、去年は雨で八ヶ岳が見えなかった
 甲斐の武田氏は、ここが滅亡時の最後の城だそうだ。
 周りに土塁や堀を巡らせた小高い丘の上に築いている。中世から近世への過渡期の城郭であろうか。

 城跡には武田氏を祀る藤武神社がある。今日はその祭礼に日とて、神楽の笛の音とカラオケらしい歌声とがこんがらがって聞こえる。
 急な100段以上はありそうな階段を息を切らせて上る。
 社殿そばの舞殿では、いましも神楽が進行中。見れば、翁が鈴を持って舞っている。神楽面ではなくて能面の切り顎の白式尉の翁面である。
 畏友にきけば、神話による神楽を行なうというが、今日は畑仕事が待っている。来年の祭礼にでもまた見にこよう。

 山上の広場にはたくさんの屋台が並び、焼そばやらの匂いが漂う。
 広場の向うには舞台もあって、いましもオバサンがなにやらカラオケ唱歌中である。神楽の笛と音が入り混じるのが困る。
 いつもは禁止だろうが、今日はたくさんの乗用車が登ってきている。松林の中が駐車場となっていて、どうにもこの風景はキライである。

 林の中を下って、観光客が通らない桃畑の道を抜けて歩く。ピンクの花の向うに八ヶ岳や富士山の白い山容をすかし見つつ、桃源郷を堪能する。
 もっとも、桃の花の本質は観光ではないから、これから花を摘んでいくので、桃源郷の風景は一気に褪せてしまう。摘んだ花から花粉を採って、また桃畑の残りの花に吹きかける作業をするのだ。こうして受精させて、果実を実らせるのである。

 ここは八ヶ岳噴火の溶岩台地のうえで、水はけが良いので桃の美味しく実るのだ。
 それでも観光客が通る道筋の桃畑では、道沿いに菜の花を咲かせている。黄とピンクとは取り合わせがなかなか良い。

2010/04/16

259【東京風景】ぶらり本郷から四谷まで徘徊

 本郷から四谷までぶらぶらと回り道しながらあるいた。延約8km、延約4時間である。西片町から裏町を歩きだしたが、本郷あたりはゴチャゴチャとした住宅地が面白い。
 時には昔のお屋敷のままにうっそうとした林の中に、和風住宅や蔵が見える。
 商店街のような住宅街のような通りの看板建築も面白い。

 水道橋まででて神田川を渡り、駅前の三崎町にでた。
 ここは地図で見ると、普通は碁盤目に道が通っているところに、斜めに道が入っている。
 だから6差路、5叉路、3差路の交差点ができているのが、今どきで面白いのだ。
 6差路交差点でパノラマ写真を撮る。こういうところは、たいていはロータリーを設けるのだが、ここには無い。かつては合ったのだろうか。
 もっとも、6差路が面白いと見えるのは地図や航空写真だけであって、地上から見る風景はゴチャゴチャした街並みで、面白くもない。

 
 このあたりはかつては神田三咲町といったらしい。
 千代田区のホームページによるとこう書いてある。
 「明治五年(1872)、東京の多くの町が新町名へ変更した際に、この界隈も三崎町と改称されました。明治二十三年(1890)には、陸軍練兵場(旧・講武所)が三菱社に払い下げられ、市街地としての三崎町の開発が始まりました。その後、劇場の三崎三座(東京座、三崎座、川上座)や神田パノラマ館ができ、日本法律学校(現・日本大学)も移転してきました」

 三菱合資会社が、丸の内地区を明治政府から高額で買い取らされたときに、交渉してここをおまけにつけさせたのであった。
 そして丸の内並みとは行かないが、計画的に開発をしたのであった。だから碁盤目状の道路に、西洋風の近代都市計画を気取って斜めの道を入れたに違いない。
 もっとも、丸の内のように建物まできちんとやらなかったらしいし、三菱が持っているのではなくて分譲してしまったらしいから、いまではどうってこともない風景になってしまっている。

 飯田橋から竹橋方面に抜けて、千鳥が淵を通り過ぎて、半蔵門へ出る。
 半蔵濠のあたりの桜は散りかけているが、土手の菜の花が美しい。

 ぶらぶらと赤坂見附から居の国坂を登りかけて、途中で外堀の上にかぶさる高速道路の下から、ホテルニューオータニを見上げる。
 外堀の水と生い茂る斜面の常緑樹の森、その上の超高層建築、そしてかぶさる高速道路の取り合わせに、近世から近代への動的な風景を見ることができる。
 
 さらに登って赤坂迎賓館に出る。久しぶりである。
 正面の門扉を通して片山東熊設計の宮殿建築を見れば、おや、うしろに超高層建築が数本あるではないか。
 東京ならこうなるのは当然であろうが、何しろここの敷地は広いから、向うに建つ超高層建築には負けないだけの距離感がある。まあ、ちょうど良いくらいのプロポーションか。

参照→東京風景

2010/04/10

258【父の十五年戦争】小田原に花見に行ってきたが実はそこは父の戦場だった

 昨日もまた花見に行って来た。小田原城を訪ねると花盛りをすぎて散りかけている。それもまたよし、花の下で生ビールである。
 そしてまた、小田原から酒匂川を遡って足柄平野の北の松田山を訪ねたのだが、ここの河津桜は緑の葉桜になって、枝垂れ桜が見ごろであった。
 だがしかし、だがしかし、そんなものを見に行ったのではなかったのだ。

 今から65年前、1945年の5月から8月まで、この足柄平野は血走った兵士たち大勢がやって来て占拠されたのであった。
 太平洋戦争の末期、大本営はここを本土決戦の戦場としようとしたのであった。湘南海岸に上陸してくるアメリカ軍を迎え撃つのである。

 その軍の兵士の中に、わたしの父も居たのだ。住民たちも動員してあちこちに銃砲の陣地を作って、上陸に備える準備をしていた。父は松田の山中で穴掘りをしていたという。
 だが、アメリカ軍が上陸してくるよりも前に、敗戦となって穴掘りも陣地つくりも中止、兵士たちは引き揚げていった。跡には掘りかけの穴がたくさん残った。住民たちは疲弊した。

 もしもアメリカ軍が上陸してきたら、武器は足りないし兵は老兵の日本軍ができることは、肉弾戦しかなかったのだ。悲惨な沖縄戦の再現であり、確実に父は死んでいただろう。
 その父が1945年の夏に、はるか遠い岡山県の片田舎の三人の幼子と妻を思いつつ眺めたであろう足柄平野の風景、それを65年後のわたしも眺めてきたのだった。

 今のあまりにものどかで平和な風景では、父のそのときの心境を想像することさえできなかった。
 参照→「父の十五年戦争」全文公開

2010/04/07

257【お遊び】桜5景

 この季節は、やっぱり今は桜の花のことを書いておこう。
 母校の大学に花見に行った。本館前庭にたくさんの大木にはながさきみだれている。
思えば1957年に入学したときはほんの3mにも届かない若木の林であった。
 その林の中を行き交い、毎水曜土曜の山岳部トレーニングの二子玉川マラソンはここから出発して、ここに帰りつき、体操をし、スロープでうさぎ跳び、石垣で岩登り練習であった。
 その若木はいまや老木となって、花は美しいが幹は真っ黒で瘤だらけ、つまり、これはわが姿であるのだと感慨を催すのであった。

 久しぶりに五反田に行く。
 89年から2000年までここにオフィスを構えていた。
 90年にその前の道の歩道に桜の若木が植えられた。2年ほどで桜は咲き、2階のオフィスのわたしの席のまん前が花のカーテンとなった。
 この桜も道路の上空をトンネル上に覆って、花のカーテンは4,5階あたりになっている。この若木は育ったが、こちとらは年取った。

 横浜のわたしの近所では、大岡川の両岸が美しい。屋台がたくさん出ていて、懐かしい花見が風景が広がる。
また、半世紀ほども前までは遊郭だった真金町には、誘客がそぞろ歩きした広い道があり、その中央に桜が植わっている。その昔なら紅灯に映えていたのだろう。

 山梨県の塩山市で、昔々数年にわたって仕事をしたことがある。
 あそこは今頃は桃源郷にふさわしい景色だ。風景が一面に桃色に霞んでいる。
 そこの慈雲寺に巨大な枝垂桜がある。
 あれはもう30年も前のこと、その花の下で美しい女性たちがお茶会をしているところに出くわした。上に桜花の瀧、下に緋毛氈の波、そこに和服の女性たち、これはこの世のものとも思えなかった。

 能「紅葉狩」は秋の妖怪変化の出来事だが、これは春のそれかと思うばかりであった。
 そこを再び訪ねたいと思うばかりで年月がすぎていく、ああ、行きたや、行きたしと思うとすぐに実行しないと、来年があるかどうか分からない年頃になった。本当にそんな悲しいことが、もうあれは10年も前だったか、病を得た飲み友達に起きたことを思い出す。

 今日は松田町に花見に行く予定だったが、雨で延期である。
 花見にも行くのだが、本来の目的は父が十五年戦争参加の最後の任地、つまり敗戦を迎えたところが松田だったので、父が眺めた風景を見に行こうと思ったのだ。
 もしかしたら、父が掘った塹壕の跡があるかもしれない。戦争遺跡を訪ねるのである。

2010/04/01

256【横浜ご近所探検】横浜B級観光案内ガイドブック:関外

 横浜の昔からの都心は、関内と関外地区とされる。
 港があり、山下公園があり、中華街があり、馬車道があるのは関内である。つまり観光で有名なところはこちらである。

 では関外には何があるか。そうですねえ、伊勢佐木モールぐらいのもんでしょうか。でもここは、最後の百貨店の松坂屋は閉店したし、老舗の専門店は閉店していって、だんだんとチェーン店ばかりが増えてくる。この横浜いちばんの繁華街は、B級になってきた。

 伝統ある都心というけど、実は太平洋戦争の空襲で丸焼けにない、戦争が終わったら今度はアメリカ軍に占領されてしまって基地になり、1955年頃まではまったくどうしようもなかったから、実態は戦後の都心である。

 他の戦災都市と比較すると10年は遅れた戦後復興の涙ぐましい努力は、いまも街並みに見えている。わたしはその痕跡を探して、徘徊老人を続けている。
 関内と関外では、戦前・戦後の都市の痕跡がかなり違う。関内はある程度は戦前の伝統らしい痕跡が見えるのだが、関外では戦前の痕跡はほとんど見えない。

 わたしが面白いと思うのは、関内では中華街である。あそこはB級感が漂っていて好きである。そのほかは特に面白くもない。
 関外はどうかといえば、これは全体がマニア好みとしか言いようがない。どんなマニアか問われても困るのだが、総じてどこかB級感が漂っているところが面白いのだ。

 わたしはそのB級感覚を吹聴して、ときどき悪仲間を引率して関外ツアーをやっている。何度もやる内に、これはガイドブックがあればよいのにと思ったが、関内側のガイドはいっぱいあれど、関外は無いのだ。
 そこで自分で書いたのである。ちょっとマニアっぽく、、。

 詳しくは→「横浜B級ガイドブック・関外編」をどうぞ。
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hama-b

2010/03/28

255【東京風景】東京タワー半世紀

 東京の下町に新・東京タワーとて、スカイツリーなる鉄塔が立ち上がりつつある。
 今の東京タワーは1957年に着工し、1958年12月に完成した。
 その頃わたしは大学生になって関東に移ってきた。今のスカイツリーと同じように、東京タワーの途中の高さの鉄塔を見た。芝公園の緑の上に立っていた。
 なんだかスカスカした鉄骨だなあと、建築初学生は思った記憶がある。

 あれから半世紀以上がすぎて、スカイツリーは2011年12月に完成するそうだ。
 なんだかよく分からんが、テレビ放送がデジタル化するので、これが要るのだそうだ。今の東京タワーよりも高くしないと、デジタル電波って奴は届かないのだろうか。

 だったら宇宙衛星から電波を投げれば、あんなものよりもうんと高いから、それがいちばんよさそうなものだ。
 なんで地上デジタル、略して血出痔の電波にする必要があるんだろうか、全く分からん、まあ、わたしはデジタル化してくれなくても一向に差し支えないから、知りたくもない。

 お国の都合でデジタル化して、わたしの家にあるTV受像機という財産が機能を無理矢理停止させられたら、これは公共工事による私有財産の強制収容と同じだから、当然に正当な補償として新TV受像機をくれるんでしょうね。

憲法第二十九条 財産権は、これを侵してはならない。
2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。

2010/03/27

254【言葉の酔時記】感謝状は授与するもんじゃなくて贈呈するもんでしょうに

 横浜の関外の黄金町といえば、かつては青線街、特殊飲食店街として悪名高い街だった。
 警察の手入れと復活のいたちごっこだったが、2005年からその一掃に県警が乗り出し、地元団体や大学等も協力して「初黄・日ノ出町環境浄化推進協議会」を作って地域再生に取り組んでいる。
 このたび、その取り組みに努力している安部 泰輔氏と横浜市立東小学校及び児童を、地域再生まちづくり貢献者として、横浜市長が表彰した。
 それはよいことであり、努力に敬意を表するものである。
   ◆
 わたしがこの件でひっかったのは、横浜市のWEBサイトにこう書いてあることだ。
「第11回協議会定例会の中で感謝状を受賞者に授与します。」
 この「授与」という言葉である。この意味は上から下へと授け与えるものである。
 感謝状というものは、授けるものだろうか。そうじゃなくて贈るものであろうと思う。
 市長が市民を代表して、感謝の意を込めてお礼を申上げるのだから、「感謝状を贈呈いたします」と書くのが普通だろう。
   ◆
 ところで授与式をネット検索すると、今ちょうどその最中だからか、卒業証書授与式、学位記授与式がいっぱい出てくる。ほかには本田賞授与式、ハイチ国際救援隊隊旗授与式なんてのが出てくる。
 大学という権威、本田宗一郎なる斯界の権威の財団、国家という権威が授け与えるある種の資格のようなものの場合らしい。
 授与と並んで授章式もある。これも権威筋から賞を授け与えるもので、文化勲章、芸術院賞、日本アカデミー賞なんてのが出てくる。
 では文学賞はどうか。これはどれも贈呈式である。芥川賞のような、いまや権威の世界になっても贈呈式である。上から授け与えるのではなく、下からか横からか知らないが贈るのである。
 授与か贈呈かで、それを出すほうが権威主義に乗っているとみるか、それともデモクラティックなスタンスに立っているか、なんとなく違いが見えてくる。
 貰うほうも、その権威にひれ伏すか、あるいは市民的連帯を喜ぶか、考えるところがあるかもしれない。
 なんにしても賞にも感謝状にも縁の無いこちとらがいうと、単なるヒガミに聞こえるかなあ、。

2010/03/23

253【怪しいハイテク】情報の検閲と検索

 アメリカ企業のグーグルが、中国での検索事業から撤退すると発表した。
 中国で検索事業やるなら国家権力による情報検閲のもとで行なうべし、とする中国政府の指示のもとで商売するのはイヤだってのが理由だそうである。中国側は中国で商売するなら中国政府の方針に従え、いやならやめなさいってことらしい。
 一方は、検閲そのものがけしからんから引き上げだ、一方は、検閲する政策だから従え。国家権力の行使に仕方に関する基本的な違いは埋めようが無い。
   ◆
 商売人ならば、お上の言うことにしたがっておけば儲かるんだから、ここは目をつぶろうってのが普通だろう。
 現に、グーグルはこれまで中国での検索事業は、自主的に政府に都合が悪い情報は出てこないようにしていたそうだ。中国進出のときに政府と取り決めたのだそうだ。やっぱりね、。
 ところがここにきて突然に毅然とした態度になった、ように見えるのはどうしてか。本当にそんな格好よいものなのだろうか。国際的な中国非難の揺さぶりを期待できる環境になったってことかなあ、。
 思えば、グーグルが世界の先頭に立って築いたインターネット情報検索技術の発達は、国家権力による情報検閲技術も発達させてしまった。皮肉である。
   ◆
 グーグルが「日本語入力」という、PCで日本語を書くソフトウェアーを無料提供している。
 ダウンロードの最初のページに「豊富な語彙 Webで使われている膨大な用語をカバーしています」とある。検索能力を生かしてWEB上にある言葉を、キーボード打ち込みを日本語に変換するときに取り込むらしい。多分、使用頻度順の高い順に変換するだろう。
 問題は、猫杓子ブログ時代だから、間違いだらけの猫杓子語が横行する。
 でもそれが間違い言葉かどうかグーグル検索は判断をしないから、世に間違い言葉書き込みが多くなると、多数決でどんどん間違いが横行して、言葉は変わっていく。
   ◆
 このことについて先日の朝日新聞の日曜版に載っていたのは、「喧々囂々」(うるさいこと)と「侃々諤々」(各自固執すること)をごっちゃにした「喧々諤々」(あれ、IMEでこれが出てきたぞ、おかしいなあ)がグーグル辞書に登場する事例をとりあげて、グーグル日本語入力ソフト導入には注意せよとあった。
 たしかにケンケンガクガクっていいそうだなあ、でも辞書には載せないだろうって思い、ためしに広辞苑で「喧々諤々」をひくと次のようにある。
けんけん‐がくがく【喧喧諤諤】(「喧喧囂囂(ケンケンゴウゴウ)」と「侃侃諤諤(カンカンガクガク)」とが混交して出来た語) 多くの人がいろいろな意見を出し、収拾がつかない程に騒がしいさま。「―として議長の声も聞こえない」 おやおや、間違い語のままに辞書に載ってしまっている。IMEにもあるのだから、これじゃあグーグルにケチをつけられないなあ、朝日さん。こうやって言葉は変わっていくのだ。
 つまり検索技術が上達すればするほど、実は衆愚検索、いや、集愚検索となる可能性を持っている。こここそ検閲が必要だろうが、言葉を検閲をすると次は内容の検閲になるか、、う~む、。

2010/03/21

252【世相戯評】環境悪化移転制度?

 風で作った北海道産の電気を、東京駅前の丸ビルに送ると新聞に書いてある(2010年3月21日朝日新聞1面)。
 電気に色がついているのかしら。そんなに遠くまで送ったら途中でずいぶん減ってしまいそうだ。
 よく分からないのだが、東京都の新制度で、今後5年間でCO2削減目標6~8%に届かない場合は、自然エネルギーを使う方法で削減に対応することができるのだそうだ。そこで丸ビルは北海道や東北地方で作った風、水、バイオマスによる発電を買うのだとか。
 でも、本当にその電気が丸ビルまで電線を伝って来るのかしら。他の電気と混じっちゃうだろうし、電線の中で行く先を間違えるんじゃなかろうか。

 またもやよく分からないが、なんでもその間にグリーン電力証書なるシステムが介在するらしい。その証書を買えば、北海道から電気が来たとみなすらしい。だったら沖縄からでも、南極大陸からでも電気が来ることになるんだろうなあ。まだよくわからん。

 またまた分からんことも書いてある。森林のある地域では、その森林が吸収するCO2の量を他のCO2排出企業に売ることもできるとか。これも証書にして売るのだそうだ。
 ということは、もう林業できなくて常緑樹も広葉樹も茂り放題の裏山が、ある日突然に宝の山になるのかしら。何か不自然なような。うちの庭木も金になるかも。
   ◆◆
 関連して自分の専門領域のことで思いついたのは、容積率移転という都市計画手法である。
 土地には敷地ごとにその上に建てられる建築物の床面積の上限が法によって定められていて、それを容積率という。

 ある敷地に建物を建てるときに、ある一定区域の地域内ならば、他の敷地が上限まで使いきっていない容積率を持ってきて、こちらの敷地の容積率に加算して、上限を超えて建築することができる。
 このときこの2敷地の所有者間で容積率の売買を行なうことになる。
 CO2排出権の売買とは、どうも排出権という名の容積率移転を、日本中に広げたみたいなものらしい。

 建築の容積率は、かなり狭い範囲で限定された条件下でないと移転はできない。周囲の環境が異なる敷地間で移転が起こると、たとえば低層住宅地の中に超高層ビルが建つような環境破壊が起きるからである。

 CO2排出権の移転はどこにも持っていってもよいらしい。となると、ある施設がCO2排出権をよそからじゃんじゃん買い取れば、その施設周辺はどんなに環境悪化しても構わないってことになるのだろうか。
 なんだか環境悪化移転制度みたいである。日本のゴミを開発途上国に捨てるってことが起きているそうだが、どこかしらなんだか似ているような、違うような、、。
 とにかく、排出権が移転してきた施設の辺りには住みたくないよなあ。
 またもやまたもや言うが、どうもよく分からん。

2010/03/18

251【都市と地域】百貨店時代の終わり?

 東京都武蔵野市の吉祥寺にある伊勢丹百貨店が閉店したそうだ。
 わたしの近くでは横浜・伊勢佐木町の松坂屋が昨年に閉店した。
 どちらの街も人口が減ってはいないから、基本となる購買客はいる。閉店の理由は、近くの商業施設あるいは繁華街に負けたか、百貨店という業態が終わろうとしているのか、どちらかだろう。
 吉祥寺伊勢丹百貨店については、わたしは思い入れがある。1970年前後のこと、現地に通ってこの建物の設計監理をしたからだ。開店は1972年だから38年でひとつの幕が下りた。
 わたしは1990年に、こんなことを「週刊まちづくり」に描いたことがあるので再掲する。
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●吉祥寺は中心市街地活性化の元祖だ(気まぐれコラム1990 伊達美徳)
 吉祥寺はいまでこそ一大商業地だが、1970年でしたか伊勢丹百貨店の開店から急上昇した街。なぜ吉祥寺まちづくりは成功したか、思い出してみる。
 第1に、地域にまちづくりリーダーたちが居たのです。加えて、積極的にまちづくりを進める革新行政(有名な社会党市長)があった。伊勢丹のビルは実は市の公社が事業主です。ついでに、それを支えるコンサルタントがいた(つまり私たちのことですね)。
 第2に、当時としてはしっかりしたマスタープランをつくって再開発を進めたこと。もちろんプランどおりにできあがってはいなけど、プランがまちづくりの羅針盤であったことはたしか。
 第3に、大型店の配置が、既存商店街の外周部にあること。街を楽しく回遊するように伊勢丹、近鉄、東急の3店がとり囲むようにした。アメリカ型大ショッピングセンターと同じですね。駅前で客をすべて吸収してしまうような、よくある大型店配置ではないところがミソ。
 第4に、まちづくりの端緒となった伊勢丹のビル(正式には伊勢丹も含めて武蔵野市開発公社ビルという)づくりは、実は道路づくりと一体となっていること。当時バス通りが今のサンロードであったごとく、まるで道路が無い吉祥寺に、2本の都市計画道路を抜いた。その道路に当った商店群をこのビル内に移転してもらうためのビル建設だったのです。
 第5に、自動車を商店街の中から排除したこと。今ではあたりまえですが、当時としては画期的で、わたしはこの計画を警視庁の交通担当者に説明して、えらく怒られた覚えがあります。地上を人だけにして、地下に車のネットワークを作りますと案を説明したところ、なにを寝ぼけたことを言うか、車でどこでも行けるのが街だ!と。
 第6に、これが最も重要と思いますが、吉祥寺には密度の高い暮らしの街がとりまき、緑濃い井の頭公園があること。しかも所得階層の高い世帯が多いことが特徴です。商業側から言えばしっかりした日常マーケットがあり、都市としては街を支える緊密なコミュニティベースがあることですね。
 つまり、良い街はよい暮らしをする住民がいることが大前提であるということで、思えばあれは中心市街地活性化事業の元祖であったか。
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 さて、そうして2010年であるが、周りに密度の高い高所得世帯がいることは、今も多分変わらないと思うのだが、それでも伊勢丹の撤退とは、、?
 1970年代の中央線の街には、立川にも八王寺にも伊勢丹は進出した。そのどちらも今はない。
 当時の伊勢丹の人に、吉祥寺店を作る意図を聞いたところ、新宿の伊勢丹を旗艦店舗として、その裾野にあたる中央線市場を総て手に入れるためとのことであった。中央線沿線の客は、新宿まで来なくても、伊勢丹ブランドを地元で享受できるようにするというのであった。
 伊勢丹が吉祥寺に進出後に、百貨店は近鉄(後に三越となり今は安売り電器屋)と東急が、専門大店として丸井とパルコが出てきた。
 何でもあるようで何にもない百貨店といわれるそうだ。わたしは、本と電気製品のほかには買い物をしないから、よくわからない。
 ただ、いつも買わないもの、例えば贈り物とかお土産を買うとき、どこになにを売っているか何を買って良いか分からないから、とりあえず百貨店に行けばなんとかなるのが便利ではある。こんな客だけ相手では、成り立ちっこないなあ、。

●参照→中心市街地活性化問題の背景と周辺