2010/03/18

251【都市と地域】百貨店時代の終わり?

 東京都武蔵野市の吉祥寺にある伊勢丹百貨店が閉店したそうだ。
 わたしの近くでは横浜・伊勢佐木町の松坂屋が昨年に閉店した。
 どちらの街も人口が減ってはいないから、基本となる購買客はいる。閉店の理由は、近くの商業施設あるいは繁華街に負けたか、百貨店という業態が終わろうとしているのか、どちらかだろう。
 吉祥寺伊勢丹百貨店については、わたしは思い入れがある。1970年前後のこと、現地に通ってこの建物の設計監理をしたからだ。開店は1972年だから38年でひとつの幕が下りた。
 わたしは1990年に、こんなことを「週刊まちづくり」に描いたことがあるので再掲する。
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●吉祥寺は中心市街地活性化の元祖だ(気まぐれコラム1990 伊達美徳)
 吉祥寺はいまでこそ一大商業地だが、1970年でしたか伊勢丹百貨店の開店から急上昇した街。なぜ吉祥寺まちづくりは成功したか、思い出してみる。
 第1に、地域にまちづくりリーダーたちが居たのです。加えて、積極的にまちづくりを進める革新行政(有名な社会党市長)があった。伊勢丹のビルは実は市の公社が事業主です。ついでに、それを支えるコンサルタントがいた(つまり私たちのことですね)。
 第2に、当時としてはしっかりしたマスタープランをつくって再開発を進めたこと。もちろんプランどおりにできあがってはいなけど、プランがまちづくりの羅針盤であったことはたしか。
 第3に、大型店の配置が、既存商店街の外周部にあること。街を楽しく回遊するように伊勢丹、近鉄、東急の3店がとり囲むようにした。アメリカ型大ショッピングセンターと同じですね。駅前で客をすべて吸収してしまうような、よくある大型店配置ではないところがミソ。
 第4に、まちづくりの端緒となった伊勢丹のビル(正式には伊勢丹も含めて武蔵野市開発公社ビルという)づくりは、実は道路づくりと一体となっていること。当時バス通りが今のサンロードであったごとく、まるで道路が無い吉祥寺に、2本の都市計画道路を抜いた。その道路に当った商店群をこのビル内に移転してもらうためのビル建設だったのです。
 第5に、自動車を商店街の中から排除したこと。今ではあたりまえですが、当時としては画期的で、わたしはこの計画を警視庁の交通担当者に説明して、えらく怒られた覚えがあります。地上を人だけにして、地下に車のネットワークを作りますと案を説明したところ、なにを寝ぼけたことを言うか、車でどこでも行けるのが街だ!と。
 第6に、これが最も重要と思いますが、吉祥寺には密度の高い暮らしの街がとりまき、緑濃い井の頭公園があること。しかも所得階層の高い世帯が多いことが特徴です。商業側から言えばしっかりした日常マーケットがあり、都市としては街を支える緊密なコミュニティベースがあることですね。
 つまり、良い街はよい暮らしをする住民がいることが大前提であるということで、思えばあれは中心市街地活性化事業の元祖であったか。
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 さて、そうして2010年であるが、周りに密度の高い高所得世帯がいることは、今も多分変わらないと思うのだが、それでも伊勢丹の撤退とは、、?
 1970年代の中央線の街には、立川にも八王寺にも伊勢丹は進出した。そのどちらも今はない。
 当時の伊勢丹の人に、吉祥寺店を作る意図を聞いたところ、新宿の伊勢丹を旗艦店舗として、その裾野にあたる中央線市場を総て手に入れるためとのことであった。中央線沿線の客は、新宿まで来なくても、伊勢丹ブランドを地元で享受できるようにするというのであった。
 伊勢丹が吉祥寺に進出後に、百貨店は近鉄(後に三越となり今は安売り電器屋)と東急が、専門大店として丸井とパルコが出てきた。
 何でもあるようで何にもない百貨店といわれるそうだ。わたしは、本と電気製品のほかには買い物をしないから、よくわからない。
 ただ、いつも買わないもの、例えば贈り物とかお土産を買うとき、どこになにを売っているか何を買って良いか分からないから、とりあえず百貨店に行けばなんとかなるのが便利ではある。こんな客だけ相手では、成り立ちっこないなあ、。

●参照→中心市街地活性化問題の背景と周辺

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