2013/05/20

774迷惑かけても謝らない教育委員会ってのもリッパなもんである

 
「近所に迷惑かけているが、理解して協力せよ」
 言葉は丁寧だが、迷惑かけていると言いながら、
一言も謝らず、詫びず、恐縮もしない。
   こんな文書が郵便受けに入っていた。
 横浜市の教育委員会はなかなかの硬骨漢である。

 

2013/05/19

773【横浜ご近所探検】横浜の中のアメリカ合州国住宅地と日本ミニ開発住宅地のギャップに驚く

 狭苦しい横浜下町の中から、見上げる山手の丘の上に、なんだか広々としたところがありそうに見える。公園かゴルフ場でもあるのかしら。

 ご近所探検に、坂道を登って行ったら、突き当りになにやら鉄条網が見える。

 おお、ここはアメリカ軍の基地であるらしい。物々しいゲートである。

 横にまわりこんで見ると、鉄条網に「NO TRESPASSING」と大書してあり、網の中に住宅のようなものが見える。

 尾根の上から南のほうを見下したら、住宅らしい建物群が、芝生の中にゆったりと配置されて建っている。これが下から眺めた広々とした公園かなにかの正体であった。
 家の大きさからみて、子どもが遊んでもいるから、アメリカ軍兵士の家族住宅地らしい。ここはいまだに横浜の戦後占領が続いているらしい。
 兵器はないのだろうが、これこそいまどきいうところの典型的なゲーティッドコミュニティだ。軍事施設だからそういうものだろうか。

 尾根の上から反対側の北を見ると、なんとまあ南側とは違う風景だろうか。どちらも人間が棲んでいるが、これほど違う風景をみると、人間はどんな環境でも住めると思えてくる。

 goole earthで調べて、ここはアメリカ軍の根岸住宅地であった。根岸住宅地には、別のところから近づいたこともあったが、こんなところまで広がっているとは気が付かなかった。
それにしても、この金網の外と中の密度の違いは驚異的でさえある。アチラさんがゆったりし過ぎなのか、それともこちらがセコ過ぎるのか。

   もうちょっと拡大して見てさらに驚くのは、このアメリカ・日本・あの世(墓地)と3つの空間が併存している様子である。死んだらもっともっと過密居住?になるのであった。
まあ、死ねば物質に戻るのだからそれでも一向にかまわないが、こうしてじかに並ぶと、なにか奇妙であるし、文化人類学的にというか、民俗として興味深いものがある。


関連ページ:「横浜風景」弧乱夢一覧


2013/05/18

772アフリカの林の中に誕生してグレートジャー二―で日本列島にまでやってきた人類は今も林の中に棲んでいる

 東京・上野の科学博物館で、「グレートジャーニー」なる特別展をみた。
 久しぶりに会った友人が行くというので、予備知識もなくついて行った。
 もちろん、グレートジャーニーとは、人類がアフリカで発生してから、地球上の各地に至る長い長い旅のこと、一般知識としてそれくらいは知ってはいた。だからその足取りの資料の展示だと思った。

 ところが、TVでそういう題名の番組があったらしく、タレントか冒険屋か知らないが、人類発生からの旅をトレースしたので、その関連の展示だった。
 だから、沢山の展示の飛び飛びに博物館的資料があるのだが、多くはそのタレントが乗った船とか、集めた?珍しい人頭のミイラとか、旅先で出会った珍しい情景の写真パネルであった。
 TV番組を見ていた人には面白いだろうが、TV嫌いのわたしには、これはいったい何のことやらであった。国立科学博物館企画としては、いかがなものか。

 ちょっと面白かったのは、360万年前のアファール猿人の足跡の立体レプリカである。タンザニアのラエトリ遺跡にあるそうだ。
 その足跡を2足歩行でつけたであろうと想定した親子3人家族のレプリカ展示があり、そのまわりを歩く見物の現代人の親子家族との対比が、実に面白かった。
 現代人も猿人も裸になれば同じだよなあ、、。わたしたちは360万年経って、どれほど変わったのだろうか。
 彼らが棲んでいたアフリカの疎林やサバンナの中での生活は、どんなものだったのだろうか。

(この左手前の裸の親子は写真のイタズラ)
 
博物館から外に出て、久しぶりに上野公園の中を歩けば、おや、その林の中に現代人が棲んでいる。
 おお、アフリカからグレートジャーニーで日本列島にやってきた人類は、今も疎林の中に青い巣をつくって棲むのであったか。
 十数年昔の上野公園と比べたら、その段ボールハウス青テントの巣の数が、ずいぶん減っている。どこに行ったのだろうか。
 でもそれは、たぶん、景気がよくなって脱出したのではなくて、公園管理者が林の下に繁っていたブッシュを刈り込んで棲みにくくして、現代猿人たちを追い出したからだろう。
 かれらは、再びグレートジャーニーに出かけたのだろうか。
 
 あ、そうか、こちら渋谷の宮ノ下公園のブルーシートストリートは、現代グレートジャーニー途上の姿かもしれない。アベノミクス空景気は、彼ら現代猿人には届かない、、、わたしにも、、。

2013/05/17

771地震で壊され津波にさらわれ原発核毒を浴び火山灰にまみれ更に戦争もしたいってこりゃまた忙しい時代

熊五郎 ご隠居、ご隠居、富士山が爆発するって、本当ですかい、せっかく世界遺産になったのに。
隠居 おや、熊さん、あわてちゃいけないよ、今朝の新聞で、活火山の危険について書いてあったのを見たんだね。まだ、正式に世界遺産になったわけでもなし、明日にでも爆発するわけでもあるまいよ。

熊 ええ、まあ、そうなんですが、明日にでも噴火しておかしくないらしいですよ。
隠 なんだねえ、先ごろは東海とか南海トラフの大地震で大津波がやってくると大々的な発表だったし、今度は火山が噴火するって、まったく忙しいねえ。
 
熊 でね、世界遺産について、富士山は合格、鎌倉は不合格って、先日でたでしょ。
隠 ああ、イコモスってところがユネスコにそう勧告するってことだな。

熊 富士山大噴火の話を、今日まで出さなかったのは、その世界遺産登録に影響するかもしれないって、そう思ったからでしょうかね。
隠 あ、そうかもな。でも、6月に正式登録を決めるユネスコの会議があるらしいから、そこで何か言われるかもしれないよ。

熊 世界遺産にしてやるから、絶対に噴火しないようになんとかしろ、なんてね。
隠 う~ん、考えてみれば、明日にでも避けようもなく燃えて壊れる物を、世界の文化遺産でござい、と言ってもなあ。まあ、その儚さも世界に誇る日本文化の真髄と考えるか。

熊 それにしても、地震で壊され、津波にさらわれ、原発核毒を浴び、溶岩と火山灰にまみれ、ご隠居からは小言をくらい、もうタイヘン。
隠 あ、なんか関係ないことも言ったな。ま、そうだねえ、3・11大災害が地獄の釜というかパンドラの箱というか、蓋を開け放ったらしいな。それまでは分かっていてもくさいものに蓋していたのに、急に何でもかんでもいうようになったな。

熊 そうそう、憲法を変えて軍隊持って戦争できるようにするってのも、臭いものの最たるもんですね。
隠 ああ、口先介入だけの景気回復に便乗もいいところだな。

熊 世の中、景気が良くなったって噂も聞きますが、あっしらには株高も円安も、なんのことだかわかりませんやね。
隠 なんだねえ、わたしのような年寄りはさっさとあの世に逃げるって手があるけど、熊さんのような若い世代は、大変な天変地異に加えて、大借金返済の時代を生きるんだねえ。日本国は100兆円の借金らしいよ。

熊 ご隠居たちの世代と違って、あっしたちは外国に逃げるって手がありますよ。グローバル世代ですからね。
隠 そのうちに発展途上国からやってきた何も知らない外国人が日本人になり、今の日本人は借金のがれに海外に移民してしまうって、民族大転換が起きるかもなあ。


2013/05/15

770東北被災地徘徊譚12【野蒜6】被災した既存市街復興と丘陵上の新市街造成とは一体となる都市計画を展望しているのだろうか

 
●769東北被災地徘徊譚11【野蒜5】からの続き
http://datey.blogspot.jp/2013/05/769.html

●図18:東松島市復興まちづくり計画の野蒜地区の構想図

 東松島市の復興まちづくり計画が出されているが、津波被災地域を具体的に今後どうするのかは、これでは見えない。
 見えないのだが、一方では北部丘陵開発はすでに着手している。被災者の早期移転のためには着手せざるを得ない事情はよくわかる。特に、元の地に戻ることが難しい立地の、海辺に近い集落の人々の行きどころは深刻であろう。

 そのいっぽう、復興計画では東名運河から北の区域では、市街地の再建がうたわれているから、必ずしも北部丘陵に集団移転することが前提ではないようである。地盤を1.5メートル以上高くするか、RC造基礎を1.5mメートル以上高くすれば居住することもできる様に規制が緩いから、現地再建をする可能性が高い。
 この地区に他の海岸部集落から防災集団移転する制度があってもよいような気がするが、ないのであろう。ついでに言うが、自治体を越えて移動する防災集団移転もあってよいと思うのだが、制度上は可能だが実際は行政が渋って難しいらしい。

 野蒜地区の平地の旧市街地が元のように復旧するかと言えば、大きな違いは、JR仙石線が北部丘陵に線形を変えて、2つの駅が移設することだろう。この地域の生活がどれほど鉄道依存しているか知らないが、仙台駅から30分余の鉄道交通条件からいえば、その通勤通学利用は十分に高いであろう。
 高台への鉄道の移設が、新市街地形成を促進するいっぽうで、旧市街地の復旧を戸惑わせる、そういうことはないのだろうか。

 北部丘陵ニュータウンの詳細な計画は分からないが、わかる範囲の模型や図面を見ると、駅前広場からまっすぐな道路、元の地形と無関係な画一的な町割り、そしてニュータウンを既存の街から隔離する大きな緑地、これらは高度成長時代の郊外型ニュータウンのプラニングと同じように見える。今の時代もそういうものだろうか。
 かつての平地部の野蒜の街と新たな丘陵上の野蒜の街は、地域の再生という視点では地形的にも都市計画的にもほとんど連続しないように見えるのだが、そういうものだろうか。

 旧市街の復興、松島観光事業の建て直し、漁業や農業の再建、そして新たな産業機能の導入などがうたわれるが、それらは北部丘陵開発とどう連動するのか、総合的な計画があるのだろうか。
 人口減少と超高齢化社会がやってきてコンパクトシティ再編成の時代に、あえてニュータウンをつくって市街地を拡大する意義を、大義名分の災害復興だけにもとめるのではなく、野蒜地域全体のなかで計画するべきであろう。
 人口減少時代に逆行しているようにも見えるが、あえてその意図をもっての計画ならば、それはそれで興味深いのである。そこには仙台都市圏の将来、松島観光エリアの展望などあるだろうから、その意図するところの論拠をぜひ知りたい。
  ◆◆◆
 以上、6回に分けて【野蒜】編を掲載してきた。情報が現地瞥見とインターネットの範囲だけだからあたりまえだが、東松島市の野蒜復興計画には、野蒜地域の全体像の展望がまだ見えていない。これからどのように展開するのか楽しみに観察しよう。
 同じような観察記録を名取市北釜地区について書いたし、今後もまたがどこかの被災地について書きたいが、わたしはなにかを提案をしているわけでも、なにか実行しようとしてるわけでもない。現地をとおりすがりの、昔は都市計画を仕事にしていた余所者徘徊老人の、勝手な心配ごとである。もうちょっと格好よく言えば都市計画評論であるにすぎない。(20130515)

○全6回分をまとめた全文はこちら
○参照⇒
東北に大津波被災地を訪ねて【東松島市野蒜地区】
https://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-nobiru
東北に大津波被災地を訪ねて【名取市北釜地区】
https://sites.google.com/site/dandysworldg/natori-kitakama
地震津波原発コラム
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#jisin




2013/05/14

769東北被災地徘徊譚11【野蒜5】津波被災市街地が再生するためには今のままの都市計画でよいのだろうか

 
●768東北被災地徘徊譚10【野蒜4】からの続き
http://datey.blogspot.jp/2013/05/768.html

●図17:野蒜地区都市計画用途指定状況

東名運河沿いの南北両側から北の山裾までは、もともと土地区画整理事業で整備した住宅地である。市街区域内であり、国道沿いは第2種中高層住宅地域、そのほかは第1種低層専用住宅地域である。
 ここももちろん災害危険区域だが、運河から南は鉄筋コンクリート以上の頑丈な2階建て以上の建物ならば建ててもよいのである。住宅を除外していない。
 低層や中高層の共同住宅が立ち並ぶかもしれない。それはそれで景観や配置などの適切なコントロールがされると、リゾート的な郊外住宅地となる可能性がある。

 東名運河から北のエリアの住宅土地利用規制はさらに緩く、地盤を1.5m以上かさ上げするか、鉄筋コンクリート基礎高を1.5m以上にすれば、住宅建設も規制を外れるから、事実上はなにを建ててもよいことになる。
 もともと土地区画整理事業によって道路等の基盤整備はされているから、今のような広大な空き地をそのままにしておくと、敷地ごとに建物が建ってくるだろう。仙台通勤圏のこの土地を不動産業界は狙っているような気がする。

 特に国道27号沿道は、用途地域が中高層住居専用地域で容積率200%だから、ここには高層共同住宅が建つ可能性がある。
 東名運河の歴史的な景観、あるいは松島湾方面からの景観、地域内の環境など、今のうちにコントロール方法を用意する必要がありそうだが、現実はどうなのだろうか。
 ついでに思い出したが、北部丘陵稜線に緑に成り代わって創り出すニュータウンの景観も、松島の風光明媚とどう調和させるのだろうか。

 中高層共同住宅と低層木造住宅が入り乱れるとなると、居住環境形成としては行政が積極的にコントロールを働かせないと困ったことになりそうだ。同時に、集団移転跡地の公有地の有効活用も計画的に組み込む必要がありそうだ。
 そのあたりは、今、どう動いているのだろうか。たとえば地区計画等による土地利用のコントロールをしようとしているのか、なくてもよいのか心配になる。杞憂ならそれでよいのだが。

 もう一つの心配は、この跡地の再市街化が進むと、せっかく作る北部丘陵の新市街が空洞化するかもしれないということである。
 被災跡地の再市街化が可能となると、被災者たちは元の街に暮らすほうがよいと思い、移転を思いとどまり、丘陵の新しい街にはたくさんの空き家空き地ができるかもしれないからである。

 あるいは、空き地空き家はでないかもしれないとも思う。それは、被災者が移転するのではなく、仙台に30分余の通勤圏として、津波被災とは関係ない住宅需要層への住宅市場としての立地であると見られるから、ここには新居住者らがやってくるかもしれないからである。集団移転対象にならなかった空き地空き家は、新住民対象となる。
 それはそれで新しい街は機能するが、本来の役目を忘れることになる。それでも良いとするか、悩ましいことである。

 防災集団移転地の新たな都市計画と、被災した市街地の既存の都市計画、それらの土地利用がどう連携するのか、それとも連携が必要ないのか。
 被災市街地再生のためには、既存の都市計画はそのままで変更しなくてよいのか、あらたな都市計画は必要ないのか、いろいろと気になる。
 大きなお世話のよそ者があれこれ言っていることは、東松島市の野蒜地区に限ったことではなく、大なり小なりどこの被災地の復興にも当てはまることかもしれないと思うのである。 (つづく)

○参照⇒東北に大津波被災地を訪ねて【東松島市野蒜地区】
https://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-nobiru

2013/05/13

768東北被災地徘徊譚10【野蒜4】津波被災跡地の広大な元の市街はこれからどうなるのだろうか

 
767東北被災地徘徊譚9【野蒜3】からの続き
http://datey.blogspot.jp/2013/05/767.html

図16:野蒜地区の津波防災区域(災害危険区域)指定状況

 東松島市では、東名運河の南も北も災害危険区域に指定しており、今後の住宅や児童福祉施設などの立地は制限している。
 この災害危険区域内の土地建物権利者は、防災集団移転事業制度によって、野蒜北部丘陵に市が開発する新しい高台の街に移転先するならば、東松島市にその住宅跡地を売渡し、移転先の土地を買取りまたは賃借、あるいは市の建てる公営住宅を賃借することができる。

 移転先の新しい街については、すでにその計画案と検討課題を書いたが、同時に移転跡地をどうするかという問題がある。そこは平地の広大な空き地である。
 災害危険区域の関係権利者の全部が、防災集団移転事業で北部丘陵の新しい街に移転するのではないだろう。
 住宅でない営業施設等は集団移転の対象にならない。住宅であっても建設完成を待てないなどの理由で自主的に他に移転するものも多くいるだろう。
 災害危険区域の住宅禁止に関する緩和規定を使って、地盤を高くしたり2階以上のコンクリート住宅にする、あるいは被災残存住宅を修理するなど、元の場所に住むものもいるだろう。

 そうすると災害危険区域には、集団移転者跡を買い取った市有地と、元の民有地が入り乱れていることになる。
 公有地がまとまっていれば、有効な活用もしやすいが、まだら模様では難しいだろう。それらを土地区画整理事業をやって入れ替えすればよいだろうが、市は移転先だけで手いっぱいだろう。民間事業者がやるほどのポテンシャルがあるか。
 さて、被災跡地の広大な元の街を、これからどうしようとしているか。

 野蒜の災害危険区域の建築制限は、比較的に緩い条件にあるが、東名運河から南の災害危険区域は、運河沿いのほかは市街化調整区域である。
 災害危険区域と市街化調整区域という2重に厳しい土地利用制限があるので、新しい機能が入ってくることはほぼできないだろう。

 野蒜海岸に近い南余景や松島湾に近い東名などの街は、当初は砂丘の上にできたらしい漁村集落だったように見えるが、被災前には漁業者がどれほどいたのだろうか。
 漁村というよりも一般住宅が多いようにも見えるが、これらの調整区域内の元の地権者たちは、2階建て以上のコンクリート住宅を建てるだろうか。

 市街化調整区域内の最も住宅制限の厳しい野蒜海岸沿い地区は、もともと海岸林だったから住宅が建つとは思えないし、ここに建てるリスク好きがいるとも思えない。

 余景の松原などの緑地は、景観林としての緑地復旧する方向になるのだろうか。ほとんどの樹林が津波倒伏あるいは流失した、元のような松林がよいのだろうか。 (つづく)

○参照⇒東北に大津波被災地を訪ねて【東松島市野蒜地区】
https://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-nobiru

2013/05/11

767東北被災地徘徊譚9【野蒜3】防災集団移転コーポラティヴニュータウンは震災復興都市に新展望をもたらすか

765東北被災地徘徊譚8【野蒜2】からつづく

●図13:野蒜地区防災集団移転高台の造成工事
   図4で見える丘陵地に行ってみた。山林を伐採し、土地を削って、大工事中である。
 この高台の新しい街に、平地部に暮らしていて津波で何もかもなくした被災者たちが、防災集団移転事業によって移転してくるのだ。JR仙石線も駅を二つ抱えて引っ越してくる。

 その工事の風景は、ちょっと懐かしかった。日本の高度成長期の人口増加時代に、各地の大都市近郊で山を削ってニュータウンをつくったが、その時代の大規模造成による開発風景を思い出したがのだ。
 この前に、このような大規模な造成工事を見たのは、2004年の中越震災による山古志村での棚田復旧造成事業以来で、それを見た2006年にも懐かしく思ったものである。災害が土木造成工事技術を継承しているようだ。


●図14:野蒜地区北部丘陵移転先の土地利用計画図(野蒜復興新聞2013/04)

●図15:野蒜北部丘陵移転先の新しい街の模型(野蒜の復興事業事務所にて撮影)
 この新しい大規模ニュータウンづくりは、東松島市がUR都市機構に委託して事業しており、「野蒜北部丘陵土地区画整理事業」だそうである。約91.2 haにもなる大掛かりな新市街地造成事業である。
JR仙石線もこれに見るような線形にして、平地から陸に上がってくるように路線変更する。

 昔のニュータウンは、どこからともなくやってきて増加する都市人口を吸収するためであったから、あらかじめ特定の入居者たちが予定されていたのではない。だから事業者もプランナーも時代の要求を展望しつつ、かなり自由に計画することができた。
 しかし、この野蒜北部丘陵にかぎらず被災地での、防災集団移転の新しいまちづくりは、特定の大勢の被災者がそこに暮らすことがあらかじめ決まっているので、その人たちの意見を計画に反映しなければならない。

 それはたとえれば、分譲共同住宅ビル(いわゆるマンション)を不動産業者が建設して売り出すのが昔のニュータウンであり、特定の人たちが共同出資して自分たちのためにつくる分譲共同住宅(いわゆるコーポラティブハウス)が今回の防災集団移転事業である。
 防災集団移転のまちづくりは、いわばコーポラティブタウンである。
 このコーポラティブタウン計画への参加者たちは、みんなが同じ近隣社会に暮らしていて、みんなが同時に津波被災したという、空間的にも時間的にも物質的にも精神的にも、あまりにも緊密なるつながりの中にあることが特徴的である。

 もう一つの特徴は、彼らの多くが高齢者を抱える家族ということである。
 その街が丘陵地であることから、造成工事にそれなりに時間がかかる。
 今の仮設住宅から新たな街に移るまでには、野蒜の例で見るとはやくても2017年から18年らしいし、たいていの事業は遅れるからまだ5年以上も先のことになる。
 若者の5年と高齢者の5年は大違いである。

 高齢者たちがそれまで仮設住宅で生活に耐えるだろうか、という問題がある。高齢者を抱える家族は、防災移転を待ちきれなくて、他に家を求めるかもしれない。それまでのコミュニティがいかに緊密であっても、その時間がもたらす生物的限界によるひずみは避けられない。
 そのような家族が多くなると、せっかくの事業地に空地空き家がたくさん出るかもしれない。そうでなくても人口減少の時代である。
 このことは、わたしの勝手な推測ではなく、先般、いくつかの現地復興事業関係者に聞いたことである。

 ただし、野蒜地区のような、大都市仙台通勤圏にあり、海と緑のリゾート環境に恵まれた中での新たな宅地開発は、若い都市住民を呼び込む可能性もある。
 東北での防災移転事業による新しい街が、新たな住民を呼び込む仕掛けになるとすれば、それはそれで地域の再生のためにはむしろ良いことである。もっとも、事業の本旨には悖るだろうが。
 被災した人たちに限ってしまうと、閉鎖圏として人口減少が進むだけになるが、これを契機にあらたな世代の積極的導入をできると、展望のある被災地復興となる。

 そのあたりについては防災集団移転事業をどう進めているのだろうか。単に平地から高台への住み替えのためのまちづくりとしてつくったなら、縮小再生産になるだろうと気がかりである。
 防災移転事業は各自治体が行う事業であるが、これだけ多くの事業が各地で同時進行であるとなると、いろいろと多難なことだろう。
 事業資金は国庫補助で何とかなるのだろうが、おおぜいの避難所暮らしの被災者たちへの対応とともに、彼らの多様な意見をとり入れつつ進めるこの事業は、都市計画や建設計画の人材もノウハウも足りないだろうし、そのうち工事の資材も高騰するだろう。

 特に計画段階の現在は、どのように地域の人々が参加し、将来を見据えた事業にするか、かなり重要である。自治体も地域住民も、そしてプランナーもそれぞれの能力を問われている。
 これまで丘陵地開発と言えば、どちらかと言えばハードウェアづくりの土木技術が優先していたが、今度ばかりはソフトウェアとしてのコミュニティー再編成というまちづくりの基本が問われている。都市計画からいえばこちらの方が本道である。

 1995年の神戸大震災の復興は、市街地再開発という旧来の手法であった。しかし今回は、旧来のニュータウンづくりも市街地再開発事業とも異なる様相である。
 新たな都市計画人材が生れるだろうと期待もしている。  (つづく)

参照⇒東北に大津波被災地を訪ねて【東松島市野蒜地区】

2013/05/10

766【世相イチャモン】近頃なんだか怪しげなおカネのニュースが多いような

●お金ジャブジャブとクロダさんは言っているけど
 市場に通貨をじゃぶじゃぶと流通させるぞ、こんなことをニチギンのクロダさんが言っている。
 よくわからないが、多分、おカネがたくさん世に出るってことだろうが、ニチギンと言えばあの紙幣や貨幣をつくっているところだから、ウソではあるまい。
 で、もう、それをやってるんだろうか。やってるとすれば、わたしの懐にもジャブジャブおカネが入ってくるはずであるが、いっこうにその気配がない。
 市場っていうから、近くの青果市場に行ってみたが、お金が渦巻いてもいない。
 ついでに、カブがいまや高値になっているという噂もあるので、イチバの八百屋を見たが、カブもダイコンも特に高くもない。
 円が安くなったと世間で言っているから、そうか、財布からおカネを少なく出せば物が買えるようになったのかと、イチバで物の値段を見たが、特に安いような感じもない。
 なんにしても庶民には関係のないケイザイのハナシらしい。

●空気を金に換える錬金術をわたしも使いたい
 東京の首都高速道路の維持費をひねり出すために、その道路の上に蓋をして道を建築敷地に変更し、その開発権を空中権として余所に売って、カネを稼いではどうかという。政府の諮問機関が検討せよと言ってるらしいから、与太話ではないようだ。
 まあ、道の上の空気を売って金を稼ぐって、空気錬金術である。
 昔から狐でも狸でも、人間を化かすためにつくるお札のもとは木の葉を使うぞ。それが人間サマは、なんと空気をお札に化けさせるのだから、さすがに狐狸妖怪の上を行くエライものである。
 マスメディアのニュースでは、東京駅の容積移転を前例に出しているが、それは間違っているぞよ。
 あれはもともとがレッキとした建築敷地であって、道路を敷地に無理に化けさせたものではない。そこが根本的に異なるのだが、いい加減なこと言ってどこでもかしこでも錬金術空中権化かしあいで、都市計画を壊さないでほしいものだ。
 さて、こうなると、わたしも考えるぞ、住んでる長屋の裏路地の空中権を売って、ひと儲けしたいなあ、それで介護老人ホームに入りたいなあ。

●現金払いが損する不公平な電車賃をやめてくれ
 わたしは鉄道の運賃カードを大嫌いである。運賃を何百円か何千円か何万円か、どさっと先払いするのに、1円も利息を付けないなんて、資本主義社会の正義に悖る行為である。
 あれは鉄道屋が利息を儲けるだけで、乗る方は何のメリットもない。だから買わない。
 それなのに、けしからん、不公平である。乗り物運賃をカード払いに限って、1円単位の運賃に変更するとのニュースである。
 現金払いはこれまでどおりに、四捨五入で10円単位のままという。それじゃあ、現金払いが損するばかりだよ。
 せめて5捨6入にしてくれ、いや、6捨7入にするなら、カード1円単位運賃に賛成するぞ。8捨9入なら、、。

 
 

2013/05/09

765東北被災地徘徊譚8【野蒜2】津波は堤防を越え海岸林も森林もなぎ倒し運河も渡ってやってきた

   【野蒜1】からの続きhttp://datey.blogspot.com/2013/05/764.html


●図5:廃墟となっているJR仙石線野蒜駅
   3.11大津波は、野蒜海岸から堤防を越え、海岸砂丘の松林をなぎ倒し、更に広大な余景の松原もなぎ倒し、東名運河も渡ってやってきた。まったくもってそのあまりの攻撃ぶりの結果の広大なる荒涼の地を眺めて、ただただ驚くばかりである。

 東名運河に接するJR仙石線の野蒜駅は、ホームも駅舎も付属の観光施設も廃墟の風景をまざまざと見せて、津波の攻撃にすさまじさを想像させる。まわりの瓦礫塵芥がかたずけられていればいるほど、廃墟の意味がよくわかるのである。鉄路が砂や草にに埋もれる風景は、あれから2年という時間を視覚化する。
 この駅も鉄道も、数年後には北部丘陵の上に移るのだが、いまは代行バスが廃墟の駅前停留所に止まる。


●図6:東名運河は明治政府の野蒜築港関連の歴史的遺産
   東名運河の護岸も運河沿いの松林も、津波により大きく損傷した。東名運河は津波の時にどのような挙動をしたのだろうか。河川のひとつだから、これが津波遡上のルートになったのだろうか、それとも東西のある水門が防いだのか。

 野蒜地区の東に流れ込む鳴瀬川河口に、かつて明治政府が大築港をした。そして最初の設計にはなかったのだが追加して、野蒜の西の松島湾からこの野蒜築港まで開削した運河が東名運河であり、野蒜地区を東西に横断する。(明治政府野蒜築港図
 この運河は野蒜築港からさらに東に向かって北上運河となり、反対に西には松島湾の向こうの貞山運河に航路がつながって、日本で最長の運河である。

 野蒜築港は完成するとすぐにその立地が失敗と分かり、明治政府は放棄した。いまでは築港も東名運河も日本の近代化遺産として新たな評価の光が当てられている。
 復興計画には、これらを歴史的資産として復元することがうたってある。玄人筋には有名だったが、一般には無名だった野蒜築港が、これを機会に歴史的遺産として再生することになれば、それはまさに復興である。


●図7:津波被災前の野蒜駅周辺地区の空中写真(2010/04/04)
   この空中写真を一見すると、海岸には防波堤があり、防波堤に沿って厚い海岸林があり、更にその内側の街には深い森がある。
 それ等の森に囲まれた街は、津波から守られているかのように見える。
 だが、 東名運河の南の地区は地盤の海面からの高さが-1~+2m程度で低く、北側は4m以上である。

 
●図8:津波被災直後の野蒜駅周辺地区の空中写真(2011/04/06)
   運河の南北地区共に津波被災したが、運河より北の地区には残存家屋が多いが、南はほぼ壊滅である。
 海からの距離の遠さもあるだろうが、土地の標高の違いが津波被害の差になって表れている。
 海岸林や街を囲む森は、津波にどう抵抗してくれたのだろうか。抵抗が無駄なほどにもものすごい津波であったのだろうか。津波は松林をもろともせずになぎ倒して、東名運河の北にまで押し寄せて街を破壊した。


●図9:津波被災1年後の野蒜駅周辺地区の空中写真(2012/04/12)
   津波から1年の後には、瓦礫・塵芥・倒木類はきれにかたずけられている。この徹底ぶりには頭が下がる。
 松林から出た沢山の津波による倒木や潮による枯れ木がかたずけられて、緑も住家もほとんどない丸裸の土地が姿を現した。

 あの深い森と見えたものが、これほどもあっけなく消え去ったのが不思議である。標高が1m以下の地に生えていた松林は、地下水位が高いので根が浅かったために、津波に耐えきれなかったのだろうか。

 津波で倒木となると、それは液体の波が固体の破壊力をもって街を襲ったに違いない。伊勢湾台風(1959年)が高潮とともに名古屋を襲った時に、港にあった大きな貯木場の海面に浮かんでいた無数の大丸太が街の中を暴れまわって、被害を増大した事件を思い出す。


●図10:野蒜駅前から東名運河を渡ってみる風景
   廃墟の野蒜駅を背にして東名運河の壊れた様子を見ながら橋を渡れば、一面の野原である。右向こうに中学校であった建物廃墟と、ほかに工場だったらしい建物廃墟、そしてここだけは復旧したらしい墓地が見えるだけである。

 図7に見るように、このあたりは一面の深い森林であり、中学校はその森の中にあり、そのむこうには住宅地があり、更に向こうにはまた海岸林の松林があったはずだ。
 それが一面の野原の向こうに、海岸林らしいまばらな松がみえるだけとは、あの松原はどこにいったのか。


●図11:被災前に東名運河の南にあった余景の松原
   この写真はウェブサイトで拾ったのが、野蒜駅前から東名運河を渡ってちょっとの位置の松林風景(「余景の松林」というらしい)である。図10とほぼ同じあたりで撮ったらしい。この森を抜けると住宅地で、右のほうに中学校があるはず。
 空中写真で深い森と見えたが、明るいスカスカの松林であった。もしもこれに広葉樹の中木・低木のある密な混交林だったら、もうちょっとは津波に抵抗してくれたかも知れないと思う。

 しかし、日本人が好む森林は、木々がすっくと立ち並び、低木がきれいに刈り取られて、いつでも入りやすい明るい林である。深い森は好まれない。
 特に海岸林は、白砂青松と称して、白い砂に緑の松がまばらに立ち並ぶ風景が好まれる。だから侵食してくる広葉樹を常に刈り取る手入れをしてきた。あの消えてしまった高田の松原もそうであった。
 津波にどこまで抵抗できるかわからないが、少しでも抵抗するなら、密に樹木が重層する混交林にしておくほうがよいような気がする。


●図12:東名運河の北側の街の津波被災の様子
  東名運河の南の地区に比べて北側の街は土地が高いので、山沿いは被災を免れたし、被災した地区でも被害をありながらも取り壊さないで、修理して住んでいる住宅、未修理のままに空き家で建つ住宅がたくさんある。
 未修理の住宅は、今後に修理して住むつもりか、放棄のままだろうか。このあたりは元の住宅街に戻っていきそうな気配がある。(つづく)

参照⇒東北に大津波被災地を訪ねて【東松島市野蒜地区】