●図5:廃墟となっているJR仙石線野蒜駅
3.11大津波は、野蒜海岸から堤防を越え、海岸砂丘の松林をなぎ倒し、更に広大な余景の松原もなぎ倒し、東名運河も渡ってやってきた。まったくもってそのあまりの攻撃ぶりの結果の広大なる荒涼の地を眺めて、ただただ驚くばかりである。東名運河に接するJR仙石線の野蒜駅は、ホームも駅舎も付属の観光施設も廃墟の風景をまざまざと見せて、津波の攻撃にすさまじさを想像させる。まわりの瓦礫塵芥がかたずけられていればいるほど、廃墟の意味がよくわかるのである。鉄路が砂や草にに埋もれる風景は、あれから2年という時間を視覚化する。
この駅も鉄道も、数年後には北部丘陵の上に移るのだが、いまは代行バスが廃墟の駅前停留所に止まる。
●図6:東名運河は明治政府の野蒜築港関連の歴史的遺産
野蒜地区の東に流れ込む鳴瀬川河口に、かつて明治政府が大築港をした。そして最初の設計にはなかったのだが追加して、野蒜の西の松島湾からこの野蒜築港まで開削した運河が東名運河であり、野蒜地区を東西に横断する。(明治政府野蒜築港図)
この運河は野蒜築港からさらに東に向かって北上運河となり、反対に西には松島湾の向こうの貞山運河に航路がつながって、日本で最長の運河である。
野蒜築港は完成するとすぐにその立地が失敗と分かり、明治政府は放棄した。いまでは築港も東名運河も日本の近代化遺産として新たな評価の光が当てられている。
復興計画には、これらを歴史的資産として復元することがうたってある。玄人筋には有名だったが、一般には無名だった野蒜築港が、これを機会に歴史的遺産として再生することになれば、それはまさに復興である。
●図7:津波被災前の野蒜駅周辺地区の空中写真(2010/04/04)
それ等の森に囲まれた街は、津波から守られているかのように見える。
だが、 東名運河の南の地区は地盤の海面からの高さが-1~+2m程度で低く、北側は4m以上である。
●図8:津波被災直後の野蒜駅周辺地区の空中写真(2011/04/06)
運河の南北地区共に津波被災したが、運河より北の地区には残存家屋が多いが、南はほぼ壊滅である。海からの距離の遠さもあるだろうが、土地の標高の違いが津波被害の差になって表れている。
海岸林や街を囲む森は、津波にどう抵抗してくれたのだろうか。抵抗が無駄なほどにもものすごい津波であったのだろうか。津波は松林をもろともせずになぎ倒して、東名運河の北にまで押し寄せて街を破壊した。
●図9:津波被災1年後の野蒜駅周辺地区の空中写真(2012/04/12)
松林から出た沢山の津波による倒木や潮による枯れ木がかたずけられて、緑も住家もほとんどない丸裸の土地が姿を現した。
あの深い森と見えたものが、これほどもあっけなく消え去ったのが不思議である。標高が1m以下の地に生えていた松林は、地下水位が高いので根が浅かったために、津波に耐えきれなかったのだろうか。
津波で倒木となると、それは液体の波が固体の破壊力をもって街を襲ったに違いない。伊勢湾台風(1959年)が高潮とともに名古屋を襲った時に、港にあった大きな貯木場の海面に浮かんでいた無数の大丸太が街の中を暴れまわって、被害を増大した事件を思い出す。
●図10:野蒜駅前から東名運河を渡ってみる風景
図7に見るように、このあたりは一面の深い森林であり、中学校はその森の中にあり、そのむこうには住宅地があり、更に向こうにはまた海岸林の松林があったはずだ。
それが一面の野原の向こうに、海岸林らしいまばらな松がみえるだけとは、あの松原はどこにいったのか。
●図11:被災前に東名運河の南にあった余景の松原
空中写真で深い森と見えたが、明るいスカスカの松林であった。もしもこれに広葉樹の中木・低木のある密な混交林だったら、もうちょっとは津波に抵抗してくれたかも知れないと思う。
しかし、日本人が好む森林は、木々がすっくと立ち並び、低木がきれいに刈り取られて、いつでも入りやすい明るい林である。深い森は好まれない。
特に海岸林は、白砂青松と称して、白い砂に緑の松がまばらに立ち並ぶ風景が好まれる。だから侵食してくる広葉樹を常に刈り取る手入れをしてきた。あの消えてしまった高田の松原もそうであった。
津波にどこまで抵抗できるかわからないが、少しでも抵抗するなら、密に樹木が重層する混交林にしておくほうがよいような気がする。
●図12:東名運河の北側の街の津波被災の様子
未修理の住宅は、今後に修理して住むつもりか、放棄のままだろうか。このあたりは元の住宅街に戻っていきそうな気配がある。(つづく)
参照⇒東北に大津波被災地を訪ねて【東松島市野蒜地区】
0 件のコメント:
コメントを投稿