2013/07/02

803【横浜ご近所探検】横浜都心の戦後復興期の残影と高度成長期の残滓を徘徊する

「中村川の上を通るのは景観的には問題だが
他の案よりはましだ」

 (田村 明著『田村明の闘い』84ページ)

 横浜市の都心部(関外)にある空中陋屋借家(地震を怖いから共同住宅持ち家は嫌い)に引っ越してきてから、もう11年になった。
 ここに来る前は鎌倉の谷戸の奥に住んでいた。買い物や街遊びには不便だが、一年中ウグイスやホトトギスが鳴き、深い緑の中は静かだった。それが、このガチャガチャした街の中に移ってきたはじめの2年ほどは、車の騒音に悩まされた。

 今はどうにか慣れたその騒音は、バルコニーの向う250mほど離れた中村川の上に架かる高架道路からやってくる。
 上下2層の高架構造物の上段は左から右へ、下段は右から左へとブンブン走る絶え間ないトッラク群の騒音が聞こえ、その排気ガスも臭うような気がする。
  山手の緑の風景を横にぶった切って美くしくないから、田村明が言うように「景観的には問題」だが、そこからの公害発生はとても「ましな」選択ではない。
(わたしの住まいのバルコニーからの風景に中村川の上を通る高速道路が大きく位置を占める)
 
                        ◆
 冒頭の一文は、この高速道路の都心部貫通計画で、いろいろな案があった中で中村川の上に通すことにしたのが、他と比べて「ましな案」と言っているのである。わたし個人としては、「他の案のほうがまし」であった。
 その本の著者・田村明は、その当時の横浜市の役人として、建設省の役人と争って都市計画決定路線を変更させた人である。
 田村明時代と言ってもよいほどに、高度成長期になる1970年代からの都市・横浜を造り育てた。田村時代の前は、戦後復興期と言ってよいだろう。

 いま中村川に行ってみると、暗い水面の両岸に鉄の箱柱が立ち並び、上空を鉄の箱梁で覆われて空がない。
 都市の貴重な水の空間をこうやってつぶすよりも、もう300mほどに南に追いやって、山手の丘陵にもぐりこむトンネルにしてくれれば、川も生きるし、山手景観も保つし、わたしも騒音に悩まされないのにと、後世の住民としてグチが出る。
 狭い都心部では、どこかがマシになれば、どこかがマシでなくなるのはやむを得ないとは知りつつも、そう思う。
◆続きの全文はこちらを参照「横浜都心の戦後復興期残影と高度成長期残滓
https://sites.google.com/site/matimorig2x/yokohama-tamura

2013/07/01

802「今でしょ」なんて流行語を知らなくても知らないことを自慢する歳になってしまった

 TVを見ない。嫌いでさえある。だから流行おくれの徘徊老人である。
 「いつやるか、今でしょ」
 最近、妙にあちこち(新聞、ウエブページ)で読む流行語らしいフレーズは、いつものようにTVからかしら、またお嗤い芸人か?

 で、これも貧者の百科事典で調べたら、大学受験予備校の講師が、その予備校のTVCM放送でのフレーズだそうである。
 UTUBEで見たが、なんだい、今は予備校講師もお嗤い芸人かよ~。
 ふん、つまらん。予備校なんて俺はいかなかったから、コンプレックスがあるんだよ。

 流行おくれと言えば、スマートフォンなるものをもっていない。買いたいような、要らないような。
 隠居したら外部との連絡が極端に少なくなってしまって、必要性を感じない。
 なるほど、これが社会的老化ということか。

 でも携帯電話機を持っている。ただし、文字通り電話機で、ネット接続できないからメールはもちろん、TVも見えないが、それでいいのである。
 ふらふらと当てもなく出かける徘徊老人には、行方不明や迷い爺になっても、これが本人と家人をつなぐ生命線である。

 携帯電話機の予定メモも使っているが、昔の手帳と比べて書き込み件数の少ないことよ。昔なら全部覚えていられるほどだが、今は脳力がそうはいかないから、役に立つ。
 ただし、書き込むことを忘れたり、書き込んだのに見ることを忘れることも、けっこう多い。

こういう小型大人のおもちゃを、昔から大好きである。
 1960年代のコニカコンパクト写真機、オリンパスマイクロレコーダー、70年代のポケコン、80年代のアップル初期コンピュータ、90年代のデジタル録音機兼カメラなどなど、初期の発売品を買っては、ロクに使わないうちに壊れて、また次に移るのであった。

 1980年代半ばから使ってきたWP専用機とコンピューターは、おもちゃと同時に仕事の道具であった。ただしゲーム嫌いである。
 WP専用機は、何回も買い換えた。10年間で12機くらいか。進化が著しく速かったが成熟も早かった。PCのWP機能が追い付くまでは、PCと併用していた。
 ワープロ通信を使っていた。いまと比べると通信速度がものすごく遅かった。

 新品PCについては、すぐ買うなんてことはしなかったが、MACから始まって、今のWin7ノートに至るまでに、何機を使いつぶしただろうか。
 デスクトップ、ラップトップ、モバイルなど、12機くらいか。四半世紀でこれなら、大事に使っている方かもしれない。

 TVを見ないと、たしかに流行遅れになる。世間に影響力のあるらしいTVは、観てないわたしには何の影響力もない。
 でも不自由しないのは、既に社会的に老いているからだ。今やもう、流行語を知らなくても、知らないことを自慢するようになっている。

 そしてそれを補っているのは、PCによるウェブサーフィンである。
 これはすごい。
 ウェブサイトのほうがTVよりも幅が広く奥が深いと思う。ただし、深すぎて広すぎるので、どう取り組むかという問題はある。

 社会的孤立化する高齢者を救うものは、PCによるウェブサーフィンである。
 どうやら私は、その波の端っこにでもすがりついているらしい。
 これは要するに、TVを見ない代わりにインタネットに見入っているだけのことである。これからそういう老人が増える。わたしはその先駆けであるってことかよ~。
 老人ホームにはウェブサーフィンできるPCを常備してくれい!



2013/06/29

801【言葉の酔時記】BAD‐ASSとかEDとか街頭に大書の珍妙な広告に驚くのは観る方の心が歪んでいるのか

 ふらふら歩いていると、喫茶店の外壁に「BAD ASS COFFEE」と書いてある広告。
    え、そんなあ、いくら英語だって、普通の日本人だってわかるよ、そんな汚い言葉は…。
 「ワルケツコーヒー」かい、すごいなあ、飲み物に尻ケツなんてつけて。

 あまりにひどいので念のために、俗語の出ている辞書でbad assをみたら、形容詞として「たちの悪い」って意味はあるのだが、どうやら卑俗な使い方として、なんとまあ「凄い、素晴らしい、格好いい」なんて意味があるらしい。
 日本語に訳すと、例えば「やばい」だろうか、うん、「チョーヤバコーヒー」とか…。
 まあ、英語か米語か母国語の人には通じるのかもしれないけど、こちとらには印象が汚らしくって、そんなコーヒーは自宅でも遠慮します。

  ◆◆
 またふらふら、「ED」と巨大な広告が見える。
そうか、こんなに大書するほどだから、ED(erectile dysfunction)もいまや誰もが悩む市民権のある言葉になったんだなあ、薬屋の広告だろうなあ。
 よくみたら、どうもそうじゃないらしいと気がついたけど、それにしてもう~ん。

2013/06/25

800世界文化遺産だと決められた富士山がオレは自然火山だぞって怒って東海虎と共謀して地震噴火するかも

 今日2013年6月25日朝日新聞夕刊の4コマ漫画(作者:しりあがり寿 コピーを載せるのはまずいので言葉で書く)
1こま目 青くそびえる富士山
2こま目 2013年世界遺産 (人間が喜ぶ絵)
3こま目 青く輝く地球
4こま目 ××××年 宇宙遺産!!(宇宙人が喜ぶ絵)


◆宇宙遺産ってのをつくってはどうか
熊五郎 ご隠居、ご隠居、この新聞見て下さいよ。
ご隠居 なんだね、熊さん、騒々しいね。
 ホラ、これ見てくださいよ。
 なになに、ははは、宇宙遺産ねえ、いいねえ。
 あのね、覚えていないんですかい。
 なにをだい。
 あれはもう4年もまえのこと、鎌倉の世界遺産登録について、ご隠居と話したことがあったでしょ。あのとき,あっしが宇宙遺産ってのを提案したんですよ。
 ●参照http://homepage2.nifty.com/datey/kama-sekaiisan.htm
 おお、そんなことあったなあ、そうそう、そもそも文化財は、市指定より県指定が上で、それより上が国指定で、もっと上等なのが世界文化遺産だなんて、だれが考えたんだ、こうなりゃもうひとつ上の宇宙文化遺産ってのをつくろう、なんて、お前は息巻いていたなあ。
 それで、その第1号登録はガガーリンのスプートニク、第2号は月にある人間の足跡なんてね。
 ということは、この漫画でお前の意見にも、世間の人が気がついたってことだね。
 世間というか、漫画家がですよ、まあ、与太話の域を出ませんが、でも、あっしひとりの考えじゃないってことは、わかりましたよ。


◆富士山と鎌倉を一体に登録すれば
 今年の世界遺産登録騒ぎは、結局は鎌倉は不合格、富士山は合格ってことだったねえ。
 鎌倉はユネスコ委員会にかかる前に、こっちから取り下げたんで、不合格の烙印は押されなかったでしょ。
 あ、そうだね、イコモスっていう専門家による勧告団体に、事前に不合格って言われたんだね。まあ、いろいろあるんだろうが、20年もたなざらしになってたのを、ようやく玄関まで持って行けたのに、そこで引き返したなんて、なんだか格好つかないような気分だね。
 イコモスってのは、世界の文化に優劣をつけるなんて、そんなに権威があるもんですかねえ。
 なんだかヘンなんだよ、富士山についてのイコモスの勧告は、三保の松原を外したら合格って、条件付きだったんだね。ところが、ユネスコの委員会では三保の松原を入れるべきってことになって、無事に一緒に合格なんだよ。
 ってことは、イコモス勧告が無視されたんですね、そりゃまた権威がないんだなあ。それともユネスコ委員会は政治的に左右されるような、もっと権威のないところでしょうかね。そんなことなら、鎌倉も取り下げないで政治工作してたら合格だったかも…。
 おお、そうだったかもしれないねえ、惜しい。でも、なおさら権威のないものなるがね。
 三保の松原がいいのなら、鎌倉の海岸からもあちらに負けず富士山がよく見えますよ、ついでに鎌倉も富士山の登録に含めてもらえばよかったのに…。
 だんだん、いい加減な世界遺産になってくるねえ。

◆富士山はなぜ文化遺産なのか
 どうもピンとこないんですが、なんで富士山が自然じゃなくて文化遺産なんですかねえ。山でしょ、山が何で文化財なんです。
 そうだねえ、わたしも釈然としないんだよ。たとえばヒマラヤのエベレスト、ほんとはネパール語でチョモランマと言うんだけどね、これは世界自然遺産なんだよ。

 あ、そうだ、最近は金さえかければ、シェルパが寄ってたかって押し上げてくれる。一定以上の体力があれば、極端には80歳の老人でも登れるらしいですよ。だから登山者の行列ができていて、夜に見ると登山道に灯りがずらーっとならんでるそうですよ。ゴミだってすごいらしい。
 じゃあ、富士山とおんなじだねえ、まあ、あちらが登録したときは、まだあんまり人が居なかったのかもしれないねえ。スイスアルプスのユングフラウのあたりも世界自然遺産だよ。
 あっしは遊びに行ったことがありますよ。あそこは富士山よりも高いほとんど頂上まで登山電車で登りましたよ。富士山なみに大勢登山者がいるし、富士山より高いところにホテルや観光施設あるし、富士山にはない登山電車やロープウェイはあちこちにあるし…。それなのに、あちらは自然遺産こちらは文化遺産、この違いはどこにあるんでしょうねえ。
 あちらと比べてこちらはよっぽど俗化していて、イコモスの専門家の目にはとても自然に見えそうにない、でも世界遺産になりたい、しょうがないから居直って文化遺産てことで登録申請したって、こういうことなのかねえ。
 なるほど、居直り文化遺産ですか。そうまでして登録されたいのですかねえ。

◆富士山が火を噴いて怒るかも
 自然に対して人間の手がはいる度合いで、文化人類学的な意味で文化度がきまるとすると、文化遺産と自然遺産の境界線はどこにあるのかねえ。あまり権威がなさそうだと分かったイコモスやユネスコ委員会が決めたこととしても、富士山を文化遺産と決めつけられていいもんかい。
 富士山がオレは自然そのものだぞ、バカにするなって怒ってドッカーンって噴火なんてね。なにしろ東海トラフが目の下にあるんだから共謀して、揺するは津波をおこすは噴火するは、なんてことになったら、たまったもんじゃないですね。
 そうだねえ、そうなったら登録はどうなるんだろうね、文化的な構成資産が無くなったら、自然遺産に登録変更するのかねえ。
 なにをのんきなことを言ってるんです。ま、そうならないように祈っても、こればっかりはどうにも止められませんね。
 まあ、あたしが生きてるうちでないことを願ってるよ。
 勝手なこと言ってますねえ、ま、そういう人ほど長生きしますよ。
 そうだ、その前に福島第1原発を世界遺産に登録するべきと、わたしは震災直後から言ってるんだけど、漫画には出てこないかい。
 まだのようですよ。こっちのほうがご隠居が生きている内にもできないような。
 もしかして、これもアベノミクスで再稼働したりしてね…。
 おお、、地震津波に噴火に核毒、こいつぁヤバイのミックスだあ~。


●参照→裏長屋の世界遺産談義
http://homepage2.nifty.com/datey/kama-sekaiisan.htm

2013/06/23

799富士山を世界自然遺産ではなく文化遺産として登録することになんとなくジレンマを感じる

(空から見る自然富士)

 富士山が世界文化遺産登録になった。
 日本を代表する山だが、ではヨーロッパを代表するアルプスはどうなっているか。
(スイスアルプスのアイガー、メンヒ、ユングフラウ)
そこは「スイスアルプス ユングフラウ - アレッチ Swiss Alps Jungfrau-Aletsch」として2007年に世界自然遺産登録になっているのだ。
 そう、あちらは自然遺産で、こちらは文化遺産なのである。

 富士山だって本場アルプスだって、大勢の人が登っているのに、どうしてあちらは自然でこちらは文化なのか。どちらにも登ったことがあるわたしは、その差はなんなんだ、と思う。
 ヨーロッパアルプスでは、かなり上の方までいろいろな機械仕掛けで登ることができる。富士山頂並みの標高にホテルがあったりする。
 ユングフラウなんて、富士山頂上よりも高い頂上近くまでも電車で登ることができる。
(ユングフラウ登山電車:アイガーグレッチャー駅)

 富士山は5合目まで自動車で登る道路があるが、そこから先は歩くしかない。
 その開発度合いつまり文化度合いを比較すると、アルプスの方がは文化遺産にふさわしいのではあるまいか、などと思ってしまう。

 実は富士山も、当初は世界自然遺産としての登録をもくろんでいたのだ。
 それなのに、どうもこの人間の手の入りようでは、西欧文化的な眼しかなさそうなイコモス連中はウンと言いそうにない、これじゃあ自然遺産じゃ無理らしいとて、戦術変更した。
 そこで居直って、こんなに高いところまでも、こんな広い裾野や海岸までも、隅々まで人間の手が入っているのは、日本人の山岳信仰という文化行為の結果である、としたのであった(らしい)。
(東海道新幹線からみる文化富士)
 
(中央高速道路からみる文化富士)

 文化遺産とは、歴史的な長い時間においていかにたくさんの人間の手が入り、思いが込められているか、その度合いが評価の軸である。
 日本の富士山はもう自然ではない、世界の権威(らしい)ユネスコからそう認められたのである。
 冨士山が自然遺産でなくて文化遺産という決めつけ方が、いかにも西欧的自然観が表れているとおもう。そこに誰もジレンマを感じないのだろうか。
 自然は人間が征服するべきもの、征服し終わったものは文化遺産、征服できないままのものが自然遺産なのだろう。
 人間も自然も一体とする東洋的自然観から言えば、せめて自然と文化のハイブリッド遺産にしてもらいたいとは、日本側では思わなかったのだろうか。富士山はれっきとした活火山の自然そのものである。

 ついでの話だが、ヒマラヤのエベレストは世界自然遺産に登録されている。
 近頃は商業登山が盛んになっていて、富士山ほどではないが、登山者が行列していて、難所では震えて待つそうである。
 いまに富士山のように、文化遺産に登録替えするときが来るかもしれない。

 もう一つついでに冗談だが、三保の松原がユネスコ委員会で富士山の構成資産に認められたそうだから、鎌倉の海岸からも富士山はよく見えるから、こちらもついでに入れてもらえばよかったのに…。
(鎌倉の海岸から見える富士山 non copyright)
 

参照:三保の松原と高田の松原
http://datey.blogspot.jp/2013/05/759.html
 

2013/06/22

798【横浜ご近所探検】三渓園で荘川村からきた合掌造り巨大民家を見て建築の移築保存の意味を考える

 歩いて行けないこともないが、梅雨の雨もよいなのでバスに乗って。ご近所探検隊は三渓園に行ってきた。
 いつもは非公開の重要文化財建築を見せていると聞いて、突然、思い出した。そうだ、ここにも学生時代の思い出があったぞ、1960年のこと、あの移築工事中だった巨大民家は今どうなっているだろうかと。プチセンチメンタルジャーニーである。

 その、民家は何やら奥深い谷間に埋もれるように立っていた。
 はて、53年前はもっと明るく広いところだったような記憶があるが、それは工事中だったことや、戦後の荒廃期から立ち直りつつある時期で、木々も繁っていなかったのだろう。
 あのときは、大学で所属したばかりの歴史研究室の先生や先輩、同期生たちと、移築工事中を見に来たのであった。既にサスは立ち上がり、たくさんの萱の束が積んであった。
 「旧矢篦原家住宅」といい、岐阜県飛騨の山奥にある荘川村からやってきた。御母衣ダムに水没する重要文化財の避難先がここであったのか。

 あれ以後に三渓園に来たのは、これがは初めてではない。
 4年ほど前にも入ったが、その時はこのことを忘れていたし、古建築や庭園に興味薄れていて、裏門から入って展望台に上り、また裏門から戻っただけであった。もっぱら埋立海岸のものすごい景観に目が向いていた。
 そのときの写真はこれ(右図)である。かつて原三渓が松風閣から愛でていたであろう海の風景は、今はこんなになっているのだ。
 せっかくなので、三渓さんが眺めた風景を復元してみたのが、これ(クリック)である。

 今回は正門から入った。53年前もここから入ったのだろうが記憶がない。
 日曜日とて、大勢の人がぞろぞろと歩いている。わたしの目的は荘川民家だが、ついでに原三渓がどこかから移して建てたいくつかの家屋も見た。
 ボランティアガイドの説明を耳にはさんだが、建物がいかに古く由緒あるかとか、贅を尽くしているとか、細部の特殊さとかを強調して話しているのに、どうも違和感をもった。いわゆる変古珍奇なるものを尊重する、旧弊な博物館の思想をひきずっている。
 ここでは建物よりも、建物から庭園へと風景を観ることこそが原三渓への礼であると、わたしは思うのだ。三渓の思想に近づくガイドをしてほしい。
 原三渓は審美眼にたけた人だったらしく、建物蒐集趣味というよりも、それを使っての造園趣味であったらしい。

 由緒ある古建築をいくつも持ってきて、自分の好みに改造し、地形も変えながらそれらを適切な位置に配置し、木を植え池を掘り谷川をつくり築庭していく。こうして自分が好む風景をつくりあげていったようだ。
 建物は緑の中にさまようように繊細な軒の線を描いている。庭と建物は一体、というよりも建物も庭そのものである。
 それは一貫して大名庭園風であり、貴族趣味である。

 風景と言えば、山上に見える三重の塔が、この庭園のランドマークである。三渓がここを1906年に一般開放し、それから8年後のこの塔を移築して、その時点で外苑は完成したとされる。
 ところが、その塔に競うように山の向こうから顔を出してるものがある。ロケットのような煙突のような鉄の筒型の塔である。
    これは上に書いた松風閣からみた、1960年代につくった本牧埋立地にあるコンビナートの一部である。1939年に他界した原三渓はあずかり知らない風景である。
 後世の人々は、さすがに園内では風景のコントロールできても、外のコンビナートまでは無理だったのだろう。三渓が生きていたら、どうしただろうか。

 荘川村からやってきた合掌造り巨大民家も、三渓はあずかり知らないことである。
 この民家が、外苑の大風景にはまったく登場しない奥まったところの配置されているのは、三渓がつくった風景を乱さないようにしたのであろう。
 だが、奥まった谷間の狭いこの位置が、この巨大な建物にとって、適切であるのだろうか。
 余所から移築してきたのだから、これのもともと建っていた環境の再現をしているはずだが、どうなのだろうか。

 そこで移築時の公式資料「重要文化財旧矢篦原家住宅移築修理工事報告書」(三渓園重要文化財建造物修理委員会 1960年11月)をもとに調べてみた。
 結論から言えば、この建物の立地環境に関しては、全く触れていないのである。ひたすら建築のことしか書いていないのである。そういうものであるのかと、意外であった。
 荘川村きっての豪農の家であったとあるから、庭園だってあっただろう。この4月に遠野で見てきた千葉家住宅のように、大きな付属屋だってあったろうと思うだ。

 この報告書にある解体中の集落風景写真では、広い盆地の中にあって、移築後の三渓園の中のような狭いところではない。(矢篦原家が建っていた岩瀬集落の風景も参照のこと
移築前の東面には池のあるにわがあったらしいが、今はいきなり崖である。 

    どうも、この巨大な合掌造りの家屋のみに焦点を当てて移築したらしい。文化財の保存とはそういうものだろうか。

 これを移築するときに原三渓が生きていたら、どうしただろうか。
 彼は単に建物蒐集趣味ではなく、自分流に環境まで作って移築し改造もしているから、こうはならなかっただろう。
 いや、貴族趣味の三渓が、このような木太く大屋根の鈍重なる風景の民家を、そもそも歓迎するはずがないようにも思う。
 わたしが三渓だったなら、この民家を付属屋ももってきて、座敷の正面に池のある庭をつくり、その外には田畑のある山村風景をつくりだす。内苑が日常の住まいとすれば、これは風雅な田舎の別荘とするだろう。それはもう三渓園のなかではできないことである。

 実は、内苑に見える瓦の大屋根にも、これは三渓の大名庭園風とは異なる感があると、違和感を抱いた。この写真は2009年の春にとったものである。
これは1987年移築とあるから、三渓の死後のことである。やはりそうかと思う。コンビナートの煙突ほどではないが、どこかその屋根の硬質さが、他と異なるのである。檜皮葺にすればよいかもしれない。
 三渓なきあとに持ち込まれた建物は、これら二つと新築の三渓記念館と管理棟である(らしい)。この記念館のデザインは誰に寄るのか知らないが、ピンとこない。
 中途半端なのである。どうせやるなら、三渓流にどこかから古建築を移築して、白雲邸の延長として三渓の庭園を補強する意気込みでやるか、真反対に現代建築デザインで真正面から三渓の庭園デザインと勝負するか、そのどちらかでやってほしかった。

 矢篦原家住宅についての三渓園での解説は、あまりに簡単すぎる。どうしてこれを移築しなければならなかったのか、そこのところが全く抜けているのが、気になる。
 実はこの移築の背景には、日本の戦後復興期の大きな騒動があるのだ。その後に各地で起こってくる大規模公共事業反対闘争の初期における、ダム反対闘争である。
 今、世界遺産となって観光地化している白川郷は、そのときの御母衣ダムに水没しなかった集落であり、この荘川村の白川郷は、村民たちの7年半にわたる強硬な反対闘争の末に水没したのであった。

 上白川郷といわれた豊かであった荘川村の6集落、面積700ヘクタール、254戸、1206人が水没対象となったが、それは、荘川村の生産と経済基盤の約50パーセントにあたるものであったそうだ。(この数字はwikipediaによる)
 それが関西の都会へ送る電力というエネルギー源として消えた。矢篦原家住宅もそのひとつであった。
 そこには悲劇もあったろうが、荘川桜のような美談も語られている。
 そのような地域史の背景も語るのが歴史的建築物の保存だろうと、わたしは思うのだが、ここでは何も語られない。


西面(移築前)

西面

南面(移築前)
北面
「おくざしき」の床の間(移築前)

「おくざしき」の床の間

「ひろま」から格子ごしに外を見る動画

 荘川村の集落については下記のベージが参考になる。
「御母衣ダムが建設される前、そこには360棟の合掌造りの家が建つ大集落があった」
http://doyano.sytes.net/keiryu/3/
http://doyano.sytes.net/keiryu/3/img/miboro-2.swf
http://doyano.sytes.net/keiryu/3/img/miboro.swf

●景観戯造「横浜三渓園」(昔の景観を復元してみた)


2013/06/19

797【横浜ご近所探検】戦後復興期の防火建築帯がこのまま老朽立ち腐れの道をたどるのは惜しい

 ふらふらと長者町通りの商店街を歩いていたら、店にシャッターが下りて「閉店のお知らせ」と書いてある。
 その理由として、「建物老朽化に伴い、お客様の安全が確保できない為」とある。
え、ちょっとまてよ、この店は、その名も「長者町8丁目共同ビル」なる4階建て共同ビルの1階にあるんだぞ、隣の店もその隣もさらに隣も同じビルだろ、建築構造体は一体だろ、ということはこのビルもついに取り壊しか。
 当然に、ほかの店も閉めているのかと見ても、普通に営業していて、他に閉店らしいところはない。なかには、内装工事中で新開店するらしいところもある。

 
 外から見たところでは、共同ビルの1、2階は各店舗のコマ割りのままに上下が続いている店らしいが、3階から上の住宅は全く別のところから階段で登るのだから、下とは関係なさそうだ。
 となると、この閉店した店だけが老朽化したからといって、ここだけ取り壊して建て直すことはできないし、安全でないと言ってここだけ耐震工事しても意味がない。
 ここで安全でないと宣言されても、ほかの店や住宅から文句は来ないのだろうか、なんて、大きなお世話の心配をするのである。
 たしかにこのビルは年季が入っている姿である。一回も修繕したことがないかのように、汚れに汚れているが、倒れる程かどうかは分からない。

 長者町通りには、戦後復興期の防火建築帯の4階建て程度のビルががたくさん建っていて、いまも現役として使われている。
 このビルもそのひとつで、資料「横浜市建築助成公社20年史」(1973年発行)で調べてみると、土地所有者8人が共同しており、1957年度に融資したとあるから、次の年くらいに竣工したのであろう。。
 ということは、建ってから55年ほどは経っているのである。

 ここのような横浜都心で、これくらいの規模の建物で、これくらいの年数が経っていると、普通なら老朽化という前にでも建て替えられているだろう。
 それができないのは、たぶん、その共同化による権利関係が複雑であることが原因だろう。
 柱や梁が続いているから、建築構造的に一部だけを取り壊して建て直すことが不可能である。

 全部を建て直すには、土地建物の所有者や賃貸借者の全員が同意しなければならないが、数が多いとなかなか難しいだろう。
 当初は共同所有者が8名だったらしいが、いまは相続や賃貸借でさらに増えているだろう。
 日ノ出町駅前で、再開発ビルを建設中だが、そこにも同じような共同ビルがあった。たぶん、複雑だった権利関係を、時間かけて解きほぐしたのだろう。

 
 ここ横浜都心部では、戦後復興期に耐火建築促進法による防火建築帯という助成制度を使って、主要な道沿いに積極的に共同建築を建てて、戦災と占領による復興の遅れを取り戻したのであった。
 それはまさに模範的な復興事業であり、横浜の街並みが整って行き、現在の都心町並み景観をつくっている。
 そして半世紀以上が経ち、その共同化があだとなって時代に対応する街の更新ができないでいる。

 それが横浜の都心が、関内関外から横浜駅周辺へそしてみなとみらい周辺と移行してきている原因でもあるだろう。
 ちかごろ伊勢佐木モールの店舗の変りようは、場末感がすすむような雰囲気である。
 だが、考えようでは、これだけ長く使ってきた街並みだから、これからも使っていくことができる様に、今の時代に対応すように修復して、生き返らせる方法がありそうなものである。
 技術的に耐震化修復が可能だろうし、デザインもあらたにして街並み景観の再生をしてはどんなものか。

 その目でこの長者町8丁目共同ビルを眺めると、なかなかにモダンでプロポーションも美しいデザインである。
 2階から上のファサードを特徴づける、縦格子は当時としては新しいプレキャストコンクリート板らしい。
 全体にあまりに汚れているが、磨けばよみがえる美しさを秘めているようだ。このまま老朽化立ち腐れの道をたどるのは惜しいことである。

 ところで、この共同化と建て替え困難問題にかんしては、今はやりのマンションなる虚名で売っている分譲集合住宅、正確には区分所有型共同住宅ビルの住宅についても、まったく同じことが言えるのだ。
 ホイホイとアホノミクス宣伝に乗せられて、あんな「名ばかりマンション」を買ってると、いまに面倒なことになっちまうよ、老朽化する前に大地震がやってくるらしいからね。

(2018年6月3日追記)
 長者町8丁目共同ビルは、昨日前を通ったら、きれいに撤去されてしまい、敷地は白い工事用仮設塀に囲まれていた。もうすぐ新建築の工事が始まるのだろう。




 
参照:横浜ご近所探検隊の横浜風景散歩コラム
http://datey.blogspot.com/p/blog-page_19.html
 ◆横浜B級観光ガイドブック
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hama-b
 ◆横浜都心戦災復興まちづくりをどう評価するか
http://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/yokohama-sensai-fukko
 ◆関内地区戦後まちづくり史
https://sites.google.com/site/matimorig2x/kannai-kangai

2013/06/18

796【横浜ご近所探検】寿町のドヤのほうがマシなマンボーネットルームが長者町防火建築帯に汚い店構え

 長者町9丁目の角に、1年くらい間だったか、見た目は何とも汚い広告だらけの店ができた。
 何だろうと近づいてみると、値段表示看板にNetRoomとあって、時間賃貸料金が書いてある。
 各部屋にTV,PC、ソファー、机、椅子があり、共同のトイレやシャワールームとかロッカーもあるらしい。

 ああ、これがネットカフェなるものか、ふ~ン、1時間100円かあ、忙しいビジネスマンが会社や家を離れて仕事するところか、あるいは書斎代わりに使う人もいるのかもなあ。
 あ、24時間2400円か、そうだ、この値段なら寿町ドヤなみだよ。これにエアコン、TV、PCがついてるんだから、ドヤよりこっちの方がいいなあ。ドヤ街から引っ越してくるやつがいるんじゃないかしら、なんて思ったのであった。

 ところがマスメディア情報によると、この事業者が建築基準法違反の超狭くて(3㎡から5㎡)、窓なし部屋を、しかもシェアハウスとして数人に共同貸ししていて、東京都から摘発されたそうである。
 シェアハウスとネットルームと違うのか同じか知らないが、実は同じようなもんだろう。寿町のドヤは5㎡で個室だから、広さはドヤのほうがましである。

 なんにしても、そんなものが流行るなんて、戦後68年たってもいまだに住宅難は解決してないってことだ。
 基本的人権である住まいさえもない階層が増えていて、それを食い物にする商売が成り立つなんて、アホノミクスで景気が良いなんて、ウソでしょ。

 ところでこの横浜長者町のマンボールームのビルは、どうやら戦後復興期の防火建築帯のひとつであるらしい。
 1、2階に店舗、3階から上に共同住宅を乗せた典型的な形である。建ってから、たぶん、50年以上は経っているから、よく働くビルである。


2013/06/16

795雑誌「本の雑誌」投稿雑文をここに注釈つきで掲載するが注釈の正否は読者が判断してね

 もう本を買うのはやめたが、雑誌「本の雑誌」だけは毎月買う。そこに投稿したら載せてくれた記事がこれ。
 間違って書いたところもあるので、ここに脚注*をつけて掲載する。

●「本の雑誌」2013年7月号「三角窓口」掲載投稿

「本の雑誌」5月号発売日に有隣堂に寄ったら、村上春樹『色彩を……』(長ったらしくて覚えられない)(*1)も発売日とてドサッと積んである。新刊だからだれも読んでいないはずなのに大評判てのが気に食わない。
 ハルキさんて君の名は(*2)、北欧の林業(*3)とか海辺の鱶(*4)とか知能指数(*5)とかの本で以前にも評判になったような。
 わたしはこの人の本を読んだことがない。実は読みたいのだが、毎度毎度世間が騒げばわが心中の天邪鬼偏屈虫も騒ぐので、これも読めないだろう。
 今回は、出版社のチラチラオモラシ宣伝がインタネットで事前評判になったと新聞にある。でも、インタネットサーフィン好きのわたしが発売日まで知らなかったとは、覗き込む先が普通とは違うのかしら。
 それにしても、本ってのは世間の評判(インタネット)とか、出版屋や本屋の推薦(直木賞、本屋大賞)とかに頼って読むものかいッ、本くらいは自分で選べよなあ。
 だが後期高齢ともなれば春樹と龍(*6)がこんがらかり、これに夏樹と春菜(*7)が参戦してきて脳内混戦中、やはり教えてくれる人が要るかなあ、ねえ、ツノさん
(*8)。


*1:たぶん、眼の病気の悩みを書いた本だろう。白内障手術したわたしには用がないな。
*2:1950年代の人気NHKラジオ大河ドラマ「君の名は」主人公の名が「後宮春樹」
*3:書名は「フィンランドの森」、いや、スエーデンだったかな。
*4:書名は「海辺の蚊不可」で、海水浴で蚊に刺された話ではないかしら。
*5:書名は「ⅠQ84」で、知的障碍者が主人公かしら。
*6:村上龍のことだが、これがまた村上隆(リュウと読める)とこんがらかる。
*7:池澤親子で混戦に参入して四つ巴になって困ったものである。
*8:津野海太郎のことで、「本の雑誌」に『百歳までの読書術』なる老人物コラムを連載していて、どうも同年輩らしく、これがまあ身につまされるんだよなあ。

2013/06/14

794復興庁のエライ役人がツイッタ―なるアホ道具使ってオコラレているらしいがこの人はエライもんだ

 復興庁の水野さんてエライ役人が、ツイッタ―なるアホ道具使って、あれこれとワルクチやらグチを書いて、あちこちからオコラレているらしい。
 ヒマなヤジウマのひとりとして、どんなこと書いたのかとネットサーフィンして探したら、あった、あった。
 よくまあ、こういうのがあるもんだよなあ、あきれた、いや、ツイッタ中身じゃなくて、こんな一部始終蒐集編集ページがインタネットにはあるんだ、ということに呆れた。書いた当人は削除してもムダな努力。

 さて書いてある中身だが、まず、エライと思ったのは、チャンと実名がわかってしまうところである。
 当人は覚悟して書いているのだ、いや、カクゴするほどの内容じゃないけどね。まあ、言いたいだろうなあ、グチ言いたいだろうなあ、と、同情する内容もある。
 天下に高言してバチバチ叩かれるほどの、ものすごいグチであるかといえば、アホツイッタ―と同じで、いまなになにしたナウ、どこどこだナウ、なんて、よくあるツイッタ―マニアのアホプライバシーさらけ出しも多い。

 中には読み方によっては、本当にスゴイかもしれないというのもある。一番感心したのは、これ。
「白黒つけずに曖昧なままにしておくことに関係者が同意しただけなんだけど、こういう解決策もあるということ」
 なかなか、含蓄あることですよ、なにのことでそうしたか分らないけど、なにか復興庁の担当する国策についてそうするなんて、よほど政治的な裏動きがあったんだろうなあ、
 うん、これって皮肉を装った内部告発なんだろうなあ。

 田舎町議会とか左翼のクソとかなんて、そりゃ言いたいことあるでしょうよ。
 その悪口グチを聞かされた相手が怒るのは、言ったのが役人だろうが、徘徊老人だろうが、それはしょうがないことだ。
 役人の場合は、怒られたらばっちりと論理だてて反論するべきと思う。それが役人たるべきことであろう。
 すぐに謝って逃げてしまうのが、よくある役人の手だが、この人はそうではなさそうだ。復興庁も覚悟を持って対決させてはどうか。
 もちろん、間違った反論すれば、ますます叩かれるだろうが、それは覚悟するしかない。

 徘徊老人なら、ごめん、ゴメン、ボケてるもんだから、と逃げるのである。
 わたしもツイッタ―アカウント持っているが、これはなんとも使えない代物である。ブログの書き込み紹介だけである。
 なぜ使えないかというと、この水野さんと同じで、短かすぎてグチになってしまい、言いたいことの1割も書けないからだ。
 ツイッタ―マニアの橋下さんも、長文をちょこちょこ区切って書いているので読みにくい。橋下さんのにかぎらず、わたしはツイッタ―を読まない。
 しょせんツイッタ―は、まとまった文章を書けない奴のアホ道具である。

 これを機に、役人はツイッタ―使うなとか規制するようでは、料簡が狭すぎる。
 お互いにしっかりツイッタ―でもブログでもやりあう方が、明るい社会になると思うよ。なんだかアホアホ会話の2チャンネル国家になりそうだけど。
 もうすぐ参議院選挙でそのアホアホぶりが暴露されるだろう。