2014/08/11

981横浜都心のセミしぐれの中で大人のセミ採りならぬセミ撮りをした

 世の中は夏休みらしい。新聞も今日は休みである。
 そういえば8月11日は2016年から国の祝日になるそうだ。ほっといても世の中が休みである日を、わざわざ祝日指定する意味が分からないが、まあ、こちとらは毎日休日だから関係がない。

 昼日中に散歩に出て、木陰が続く横浜大通り公園をふらふら歩いていたら、木の根元まわり地面のあちこちに、直径1センチほどの小さな穴がたくさんあいている。
 なんだかこれは見たような気がする、あ、そうだ、これは幼いころに遊んだ生家の神社の境内にあったなあ、セミの幼虫が土の中から抜け出た跡だ。懐かしや。

 と、急に蝉しぐれが降ってきた。いや、前から降っていたのだが、気にしていなかったのだ。アブラゼミが中心で、ミンミンゼミが混じる。
 セミしぐれが上から来れば、車騒音時雨も横から間断なくやってくるのが、都会の真ん中である。

 幼虫の穴があり、成虫が鳴いているなら、抜けがらがあるに違いないと、クスやサクラの幹に目を凝らすと、あるある。あんな高いところに登って羽化するのか、都会のセミは。
  そして成虫が幹や枝にとまって、羽を少し広げ気味、肢も立て気味にして、一生懸命に鳴いている。ニイニイゼミ、クマゼミ、ツクツクボウシが聞こえないのは、まだ早いのか、もともといないのか。

 こうやって、70年ぶりくらいにセミ採りならぬセミ撮りをしたのであった。セミ撮りをしていて、ちょっと不思議だったのは、夏休みというのに、子どものセミ採りをひとりも見かけなかったことだ。
 近ごろはそういう幼稚なことはしないのだろうか。それとも冷房の部屋で、蝉取りゲームなんてのをやっているのだろうか。

 わたしの幼児の頃には、毎日のようにセミ採りをしたものだ。生家の神社の境内をひとまわりすると何十匹もとれてしまう。獲物は飼っていた鶏の餌にするのであった。鶏は喜んでついばんでいた。
 わたしの生家の神社の境内は、今頃はセミしぐれというよりも、セミ夕立、セミどしゃ降りほどにも、社叢林はセミの声で充満していた。
 そのセミ夕立は、セミの合唱団による圧倒的な斉唱であり、森の底に充満したセミの声に、おぼれそうなほどだった。
 少年のわたしは、その斉唱の森の中に縁台と蚊取り線香を持ち出して、そこに寝そべって本を読み、セミしぐれを子守歌にして昼寝をするのが夏休みの日課だった。

 大通公園はセミしぐれと自動車騒音しぐれが競争していて、昼寝の子守歌にはなるまい。ホームレスおじさんも見えない。
 こんなにセミの穴やセミしぐれに気が付いたのは、もしかしたら少年の時以来かもしれない。この大通り公園も毎夏に歩いているのに、今ごろ気が付いたのも不思議なことだ。 
生家の神社の社叢林


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