いずれもすでに見たことがある。「花月」は旅芸人の芸事を見せるのが趣旨で、見て面白かった。
「花筐」は、継体天皇が越前の田舎から出てくる時に置いてきた女に追いかけられた話で、狂女ものでそれほど面白くもない。継体天皇を題材にしたことが面白いと言えば言える。
「鉄輪」を見るのは2度目であるが、ちょっと不気味に面白い能である。
名もない庶民の女が主役の能は珍しい。女の夫がほかに女をつくって捨てられたとて、大いに恨んで相手の女も前夫も呪い殺そうと、貴船神社に深夜にたびたび参詣して祈願する。
ある日、貴船神社の社人からその願いを叶えてやるから、顔を赤く塗り、赤い衣装を着けて、頭には鉄の輪を嵌めてそこに3本の松明をつけて参詣せよと告げられる。
そこで女は、深夜にその姿になて参詣して祈るのだが、祈り殺されるはずの男が事前に察知して、陰陽師の安倍晴明に頼んで呪いを阻止する仕掛けを施しており、それに負けた女はすごすごと帰っていく、という筋である。
女の橋姫の面も怖いし、頭に松明という奇怪な姿もおどろおどろしている。その呪い殺すという題材と姿の不気味さがこの能の面白さであろう。
ワキの安倍晴明は、女がやって来る前に祭壇で呪い排除の祈りをして、そのあとは女がやっくる。ここでシテとワキとが祈り祈られる、能によくある戦いをするのかと思ったら、ワキの晴明は座ったままである。
女が祭壇に寄って、呪いの言葉で先ず夫の新しい女を呪い殺し、次に夫を殺そうとしたら晴明の手先の神たちが待ち構えていて呪いの力を失った、と、地謡が口でいうだけで終わり。女は呪いの身振りをするが、蝋燭の灯の暗い中での演技がよく見えない。
今回のこの「鉄輪」が、蝋燭能だったのだ。わたしは、これまで200番くらいは能を見ているが、蝋燭能なるものを初めて見た。
舞台と橋掛かりのそばの白洲に蝋燭の灯を13本立て、電気照明は真っ暗ではないがかなり暗くしてある。あまりに暗くて、目がしょぼつく老人には舞台がよく見えないのだ。
それでも期待したのは、作り物で出てくる祈祷台の蝋燭とか、頭に鉄輪のうえの3本の松明には、本物の灯がついて出てくるのだろう、そういう部分照明の効果が面白いだろう、ということであった。
ところが、見事に期待は外れて、どちらにも灯はついていなかった。ただただ暗い舞台だった。
以前に見たときは、普通にライトがついていた。あの時の方が、不気味さがよく分り、ちょっと怖かった。今回は暗くてよく見えないので、怖くないのだ。
蝋燭能はどういうつもりでやるのだろうか。たしかに鉄輪は夜中のシチュエーションである。だから暗くするのか。そういうものかしら。
これは芝居なんですよ、演技で暗さを表現するべきだと思いますがねえ。歌舞伎でダンマリという暗闇の芝居があるが、舞台照明は明るいのに、演技は一寸先も言えない暗黒の場である。見物客が、頭の中で暗闇を演出する。芝居とはそういうものだろう。
能「隅田川」も中心となる場面は、真夜中である。これを蝋燭能でやるのだろうか。
わたしはこれまで10回くらいは隅田川を見てきたが、その記憶にある舞台は、前半は明るく、中盤以降は暗い(ように思う)。そして終幕に「ほのぼのと明けゆけば」と地謡が謡うと、舞台が明るくなってくる(ように思うのだ)。
ほとんど舞台装置のない能舞台は、見物客の頭の中で舞台美術をつくりあげなければならない。演技者は、見所にそう見せる演技しなければならない。そこが面白くも、また難解であるのが能である。
というわけで、鉄輪は頭の上で蝋燭が燃えていたなら面白かったが、照明がただ暗いだけの蝋燭能は、目を凝らすので疲れただけ、眠くなっただけだった。
それにしても、鉄輪の女主人公は、新しい女に走った男に敵討ちもできずにすごすごとかえっていくなんて、可哀そうである。救いがない。
能に良くある、最後の土壇場で「仏果を得たり」と救われるという、ご都合主義もないのである。気の毒にもそのいでたちの異様さによって、同情を得難いのだろうなあ、可哀そうに。
これこそ悲劇の能である。
鉄輪を頭に嵌めて3本の松明を立てる |
母親は、京から東国の果てまで長い長い旅の末に、ついに探していた息子の最期を知り、墓も見つけて、幻ではあるが再会し、これでようやくにして彼女の旅は終わり、「東雲の空はほのぼのと明け初めて」新たな日がはじまり、新たな人生を始めることできる。
そして「あわれなりけり」の終章の意味は、「哀れ」ではなくて、深い詠嘆の「あはれ」なのである。こう示唆して終止のトメになる。
鉄輪の女は、返り討ちにあって何も解決できずに、「時節を待つべし」と謡って、再度の復讐劇を心に秘めて幕に走り込む。まだまだ悩みを持ち続けるのである。
隅田川の母の夜が明けたが、鉄輪の女の夜は続くのである。
貴船神社奥宮 |
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