2014/08/23

986少年の戦争の日を語るアラキジュ仲間生前遺稿集でも作ろうかなあ

 いまやわがことながら昔々になってしまったが、東京の大学寮で暮らしていた時期があった。
 その同じ大学の同じ大学寮で生活をしていた、わたしの同期生たち39名のあいだで、メーリングリストによる連絡網がある。その管理人を、わたしがしている。

 靖国神社と千鳥ヶ淵に野次馬徘徊に出かけた日、ふと思いついて、
「1945年8月15日の終戦の日に、あなたはどこで何をしていましたか」
と、この連絡網でみんなに聞いてみた。
 誰もがいまは喜寿のあたりだが、その時は国民学校初等科の1~3年生、ようやくに世の中のことが見えてきて、記憶をもっている年頃だ。
 日本の大激変の日、少年の行方を決めた日を、どう迎えたか。

 大学の中にあった学生寮だから、全国各地から東京にやってきた者たちである。
 大学のある東京に家があったものも、その頃は空襲を避けて疎開で各地に移っていたから、東京でのその日の体験者はないようだ。
 ほかの都市に住んでいたものでも、田舎に疎開してそのまま住みついて長じ、大学に入ってきたものもいる。

 わたしのように、小さな田舎町でのほほんと育った者もおおいが、それはそれなりに戦争を体験している。わたしはあの日、あの放送の時の大人たちの沈黙しきった姿を記憶しているし、それから始まる飢餓の日々の記憶の方が多い。
 あの夏、原爆も含む空襲による戦災、満州や朝鮮の外地から引き揚げなど、混乱の中で生命の危機に係わる過酷な体験をした者たちもいる。
 原爆について言えば、しっかりと被曝して生死をさまよった者、きのこ雲を遠くから眺めた者、被爆した近親者がいる者など、複数のそれぞれ原爆体験者がいる。

 若い日々のある年を一緒に過ごした仲間のひとりひとりが、幼少時の1945年という同じ年の同じ暑い日々を、まったく違う土地で、まったく違う環境にいたのに、戦争でつながる体験を語るメールが、次々とやってくる。
 実は、このメーリングリストは、平素はたいして情報交流はない。ときどき書き込む常連がいるが、その一方で読むだけ常連の方が多い。

 それなのに、この問いかけについては、過半数の仲間が語ってくるのを読み続けて、この暑い日々は驚いたり感銘したりして過ごしている。
 それらはまるで、敗戦の年の日本の縮図である。
 そろそろ戦争のことを語っておこう、と思うアラキジュの年頃になったせいかもしれない。
 みんなのメールをまとめて編集して、「少年の戦争の日々を語る生前遺稿集」にでもしようかなあ。

参照→「少年の日の戦争」(伊達美徳)


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