2012/11/13

689(東北被災地徘徊譚1)石巻で映画「猿の惑星」の主人公になった眩惑に見舞われた

 宮城県の石巻は、旧北上川の河口にある港町らしい。石巻駅に降りて、観光地図を眺めたら、なんだか妙な宇宙船のような建物があるらしい。
 あ、そうか、津波被災地の写真でたびたび見た石ノ森章太郎萬画館はここにあるのか、あの風景の街はここかと気が付いた。
 なんの下調べもせずに、朝起きて急に思いたってふらりと、被災地徘徊に訪れたのである。石巻のことは全く知らない。石巻どころかほかの街のことも知らない。

 東北地方に大震災の被害が起きていることは百も承知である。せめて冥途土産に(こういう言葉を使いたい年頃である)に、被災模様を見学に行きたいと思う。
 だが、あちら方面は恥ずかしいほどに地理不案内で土地勘が全くない。知り合いもいない。特に太平洋沿岸部には、一度も行ったことがない。
 神戸の大震災の時は、土地勘あり知り合いありで、すぐに行ったし、繰り返し行った。もっとも恥ずかしながら、野次馬だったが、。
 
  もう1年と8か月もたって、仙台に用事をつくって、ようやくにして沿岸部を訪れて惨状を見る機会をもった。
 だが、どこにどうやって行けばよいか、さっぱりわからないから、とにかく仙石線で東のほうに行けば、途中で気が付くだろうと出かけた。
 仙石線は途中が被災したまま未開通で、代行バスに乗った。これは1995年の2月に訪れた神戸でもそうであった。

 さて、石ノ森章太郎萬画館である。旧北上川河口の中州にそれはあった。
 中州のかつての姿は知らないが、この萬画館があるということは、ほかにも観光的な施設が建っていたに違いない。
 それが荒涼たる荒れ野の島になり、この萬画館とそばのハリストス教会があるだけで、遠くに廃屋が2、3みえる。
 萬画館は荒野に降り立った宇宙船というか、荒れ地に生えた毒キノコの体である。
 この形ならば、津波をさらりと受け流したのかもしれない。どうやら修理中らしい。
 
 と、萬画館から下流部の中州の中に、何やら白い人の彫像のようなものが建っているのが見える。
 こちらに背中を向けて、右手を挙げて何やら赤いものを掲げているのは、もしかして「自由の女神」の像か。でも左下半身あたりが隠れている。 
 水辺に花束があるのは、だれか津波遭難者への供養だろうか。

 荒れ地の中を近づいて見ると、これはまさに自由の女神であった。立派なコンクリづくりの台座の上に立ち、左下半身を失いながらも、トーチを掲げて海のほうを見ている。
 プラスチックの裾広がりの衣類が腰まで破れて、心棒の鉄柱が丸見え、見上げるとスカートの中を覗くようで、なんだかはずかしい。
被災した自由の女神は、どんな出自でここに立っているのだろうか。もしかしてここにはラブホテルが建っていて、そのシンボルだったのか。

 振り返ると、片足女神の向こうに、宇宙船のごとき萬画館が横たわって見える。
 荒野でこの二つの取り合いの風景は、なにか異郷風景というよりも、超現実的なイメージに誘われてしまう。なんだろう、それは。
 
アッ、と気がついた。
 これは映画のシーンだ、あの「猿の惑星」のラストシーンである。
 地球を出発した宇宙船が不時着した惑星は、猿が支配する世界であった。船長(チャールトン・ヘストン)ひとりが助かって、あれやこれやとあるのだが、最後に猿の世界が立ち入り禁止とした地域に逃げ出して見たものは、荒野の中に半分埋もれた自由の女神の像であった。「帰ってきていたのだ」と船長は号泣する。
 つまり船長がどこかの惑星と思ったのは、実は進化(退化か)した地球であり、しかもここはニューヨークだったという、オチだけが面白いB級映画だった。
 なお、船長の時間と地球の時間には数千年の差があるのは、よくわからないが光速に近い航行すると宇宙船内の時間が縮まるという相対性原理トカナントカによるらしい。

 被災地徘徊でこのような幻惑にとらわれるとは、なんということだろう。被災する前にここにきていたら、同じようなこと思っただろうか。
 戻ってからインタネットで調べてみたら、どうやらここは公園であったらしく、そのなかに立ついくつかの修景施設のひとつに自由の女神もあったらしい。ほかのものは流れてしまったが、これだけが負傷しながらもけなげに耐えたらしい。
 わたしと同じように、猿の惑星のラストシーンを思いついて、BLOGなどに書いている人も発見した。

 石巻はこのような像を街に建てるのが好きらしい。
 メイン商店街らしい「マンガロード」となずけられた道沿いには、石ノ森章太郎が生み出した漫画の主人公たちの像が立ち並んでいる。
 その極彩色の像群と、被災してほとんど営業していないさびしい商店街の対比が悲しい。
 地方都市はどこも中心市街地が空洞化している問題を抱えているが、地震と津波に空洞化の後押しをされてしまったのが現状だろう。さて、これはどう復興するのか。

 駅前にいかにも大型店舗でございという姿のビルがある。だが看板に石巻市役所と書いてある。
 ああ、そうか、地震と津波で被災した庁舎をここに移したのか、多分、閉店した跡ビルなのだろうなあ、なかなかいいことだ、中心市街地活性化に役立つなあ、と、思ったのであった。
 ところが、戻って調べたら、経営不振で閉店した百貨店跡には違いないが、市役所が移ったのは震災前の2010年であった。
 2階から上が市庁舎で、1階には商店があるのはなかなかよろしい。土曜日で市役所は休みでも一階の商店はあいているから人の出入りがある。

 かつての繁華街の一角であったと思われる四つ角に、向かい合わせに奇妙なビルがあった。地方都市によくあるのだが、洋風の姿をまとう木造建築である。
 「SSビル」とあるほうは、多分、元は金融機関の建物であったろうが、左官仕事のギリシャ風のオーダーの付いた柱型がある。
 「観慶丸商店」とあるほうは、タイル張りの洋館風建物で、その名の千石船の船頭であった創業者に由来するそうだ。1930年に百貨店として建ったとパフレットにある。
 たくさんの新しい建物が失われた市街地の中で、よくまあ地震にも津波にも耐えたものである。


 
参照
・石巻の自由の女神パノラマ写真サイト
http://photo.sankei.jp.msn.com/panorama/data/2012/0328ishinomaki03/
・森の長城づくりがはじまった
https://sites.google.com/site/dandysworldg/greatforestwall
・地震被災地:人間と自然はどう折り合うのか
https://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-nobiru

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