2025/10/29

1917【老酔録⑦】知らぬ間に診療報酬詐取事件の片棒を担がされた、この歳で臭い飯を食うかも、まさか

老酔録⑥】の続き

●詐欺話の出だしは警察からの電話

 米寿になるほどに歳取ってしまったわたしも、さすがに今年から「かかりつけ医師」なるものができてた。去年まではめったに医者に行くことは無かったが、歳とるとそうもいかないものかと思っていたら、診療報酬詐欺事件に巻き込まれたらしい。え、老酔か~?

 医療費詐取とはなんだかケチな詐欺罪らしいが、いやいや実は大犯罪かもしれない、などと好奇心を広げて、ヒマツブシをしている。もしやわたし共犯者かもしれない、まさか、この歳で留置場体験なんて、なんだかわくわくする不謹慎さである。

 ことの初めは、今年2025年5月初め、千葉県習志野警察署の刑事と名乗る女性らしい声の電話であった。習志野市内のあるクリニックで受診したことがあるかとの問い合わせだった。そんな遠くで医者にかかった記憶がない。詐欺電話かもと警戒しながら対応した。

 いろいろ聞いてみると、どうやらそのクリニックがわたしの名で架空の診療代を医療保険に請求している事件らしい。どこでわたしの情報を手に入れたのか知らないが、わたしを診療をしたと嘘ついて保険組合に請求して代金詐取したらしい。

 その時の話はそれでおしまいだが、続きがあった。6月12日付で封書がやってきた。発信者は「神奈川県後期高齢者保険広域組合」(以下この文中では という)とあり、内容は上記電話があった習志野市にある「クリニックあらい」(以下という)なる医療機関で診療を受けたことがあるかとの問い合わせであった。

 習志野市内のクリニックということで、思い出したのが上記の習志野警察からの電話である。ハハン、そうか、あのときの架空診療請求事件がこれだったのだな。もちろん、無いと返事を出した。これら二つのことは、このブログに【警察からまた電話が】とのタイトルで、詳しく書いている。

●わたしにも架空診療支給金を返せと

 それでおしまいともう忘れていたら、続きが発生した。2025年10月8日付でまたから文書が来た。「高額療養費について(お知らせ)」との表題で、今年1月20日にわたしに支給した「高額療養費」3,144円を返還せよと書いてある。

 あらら、そんなカネもらったっけ?、振込用の貯金通帳を見ると、確かに入金している。気が付かなかった。お知らせ文書をよく見ると、その架空診療を受けたのは2022年7月と8月であったと書いてある。高額療養費ってなんだっけと俄か勉強した。

 そんな3年も前の診療に、今年1月になって支給するって、常識として遅すぎるだろ。そもそもめったに医者に行かないわたしは、保険制度の高額医療費支給なんてめったに受けたことがない。振込通帳をさかのぼってみたら、パラパラと何回か数百円が振り込まれている。

 それでも、診療から3年も経って振り込んだ例はないようだ。このことがあって気にするようになって、最近の振り込みを見ると今年7月診療を根拠とする高額医療費は、10月16日の支給である。わずかに607円であるが3か月後である。3年も経っての支給ではない。

 その異常な支給時期は、たぶん、架空診療事件捜査対象になっていて、調査中とかで支給が遅れたのだろう。それにしても、それが詐欺行為の案件と分った後だから、支給しなくて良いはず、いや、支給してはいけないと分かっているのだ。にもかかわらず、わざわざ支給して返還せよなんて、手間のかかる奇妙なことをするのか??
支給された高額療養費返還請求文書

 そして更に、またから10月8日付で文書が来た。返還請求金の振込用紙が入っていて、11月4日までに納入せよとある。わたしが支給されるべきでない金だから返還するのにやぶさかでないが、何となくすっきりしない。

●わたしは詐欺医師の共犯者だろうか

 例えばこう考える。わたしとAとが共犯とみなされているのかもしれない。つまり、は診療報酬を詐取し、わたしは高額療養支給金を詐取するのだ。まあ、3000円でリスクとる犯罪ではないが、多くの診療回数があれば稼ぎになるだろう。はたぶん多数の個人情報を仕入れて、多数の架空請求をしたに違いない。わたしはそのほんの一部の片棒を担がされたのだ。

 すっきりしないのは、この加担させられた詐欺の内容が詳しく分らないことにもある。そんなこと知らなくてよいから、とにかくカネ返せは言っているようなのだ。公的機関には珍しい丁寧な言葉使いの文書であるが、慇懃無礼の感がある。

 好奇心に過ぎないが、わたしの名を使ってどのように詐欺事件が展開されたのか、知らぬ間に巻き込まれた当事者として知りたいと思えど、どこにも書いていない。は、ただただ返還せよという。まあ、犯罪に絡むから詳しく開示できないのだろう、とは思うが、、。

 そういえばはいまどうしているのだろうか、クリニックはたぶん閉鎖してるだろうなあ。医師は免許取り上げかしら、裁判中かしら、それとも臭い飯を食う毎日か、あるいは罰金納めて終わったか。
 もしもわたしがこれを返還しなかったら、わたしはどうなるのだろうか。怖いなあ。

●保険診療詐取された審査機関の責任は?

 ところで、この支給を行った機関のKには、責任はないのかしら。文書に添付されている「保険診療の流れ」なるフローチャートに、(審査支払機関とみられる)の役割に「審査」があると書かれている。今回の件はわが受給も含めて審査ミスになる。

 その審査ミスによって、わたしは知らぬ間に詐欺の片棒を担がされたのである。しかも高額療養費支給金詐取までもね。厳密にいえば、支給時に気づいてKに抗議するべきであったのに、それに気づかなかったわたしが悪いのかしら、う~ん?、ハイハイ。

 そのあたり審査責任はどうなっているのだろうか。これは医療保険制度を支える被保険者のひとりとしても、に訊きたいところである。このような審査ミスがどれほどあるのだろうか、めったにないことか、それとも頻発しているのか、気になってきた。

 さて、寒くなったけど腰を上げて返還指定振込銀行にいくかなあ、どうしようかなあ。
 このブログ内容をKに質問しようとKのネットサイトを見たが、電話しかできない。でもこんな長い話を電話でするのはあまりに面倒すぎる。いまどきEメイルが無いのは何故だろう。訊きに訪ねていくには不便なところだ。このブログを読んでくれることを期待するしかない。 
 なお、近所の区役所の保険担当課を訪ねて訊いたが、に訊くしかないとのことだった。(2025/10/30記)


2025/11/04追記
 ともかくも受給するべきでないとされたKからの高額療養費支給金(3144円)を、Kに返還すべく指定納付期限の今日、指定銀行口座に振り込んでおいた。
 まさかと思うが、これも実はKを騙る振込め詐欺であった、なんてことはないだろうなあ。








ーこのブログ内の関連する記事ー
2025/05/02・1884【警察からまた電話が
 https://datey.blogspot.com/2025/05/1884.html

ーーー老 酔 録ーーー
米呪を越えて老いに酔い痴れる日々の記録

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡/老酔録 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

2025/10/19

1916【老酔録⑥】コロナと介護で縁が切れた世間へ復帰を目指して米寿手習い陶芸教室へ

老酔録⑤】のつづき

●コロナ後の老後をどうしようか

 コロナと老々看護という、わたしの人生末期大事件で、世間と縁が切れてしまって、いまやすでに5年にもなる。
 コロナ期間中は、老人は世間と交際するなとて、世間との縁を断絶させられてしまった。また在宅看護中はは、逆に見知らぬ医療や介護の専門家たちが入れ代わり立ち代わり毎日のように訪問してきて、それまでに経験したことがない賑わいであった。だが、これは限られた専門家たちであり、突然に看護当時者がいなくなると同時に全く縁が切れた。

 もちろんその間も、全く世間と完全に縁が切れてはいなくて、インタネットによるSNS、Eメール、ブログ、ZOOMで、限られた旧友たちとはつながっていた。インタネットのある時代に間に合ってよかったと思ったものだ。だが所詮は、バーチャル空間の中のことであり、面と向かっての縁は切れた。

 コロナも在宅看護も解消したのは2024年の夏だった。2020年に始まった4年も経っていた。さて、縁が切れた世間と復縁しようかと思ったのだが、その間に世間の方が大きく変わって、わたしが復する場所がなくなってしまった。若ければあらためてで付き合いを再構築できるが、いまや老残の身になってしまって、復するべき世間を見つけられないでいる。

 近所に「ケアプラザ」なる公的な高齢者支援施設がある。老々在宅看護を始めるにあたって世話になったところである。ここで高齢者向けにいろいろイベントがあるとて、パンフレットを見て参加するかなと思えど、どうもよろよろ相手の行事ばかりのようだ。こちらももちろんよろよろだが、それほどじゃないからなあ、と思う。実は一度だけ参加したことがある。10人くらいで体操してフレイル度合いを計ったが、継続する興味がわかなかった。

 そんなとき、市の広報の片隅に見つけたのが、「陶芸教室」である。近所の「コミュニティハウス」なる公的施設でやるらしい。そうか、これなら面白いかもと、申し込んだ。わたしは手先は器用であることは、本づくり趣味で自任している。初めてでもなんとかなるだろう。

 陶芸といえば仕事で何度か多治見に行ったことがあるし、人間国宝の加藤卓男氏を市之倉の幸兵衛窯に訪ねたこともある。自分の陶芸とは何の関係もないが、ついそんなことも思い出した。多治見は興味ある街だった。(参照→美濃焼の多治見
 陶芸教室の案内パンフに、講師のお名前が加藤さんとある。おや、卓男、藤九郎など美濃焼著名作家たちと同じだ。

 関連してもう一つ思い出した。同様に伝統工芸の漆芸である。これに関しては越前塗の町にかなり通ったものだった。福井県鯖江市河和田地区である。この街の漆芸の中心となる「漆器の里ーうるしの里会館」づくりで、プロジェクトマネージャーをやった。漆芸についてかなり細かく知ったが、陶芸のように素人習い事として簡単にはできない。

 そういえば、わたしはお稽古事を嫌いな性分であった。これまでそれらしいことは、人間国宝の野村四郎師匠に能の謡を20数年習ったこと(参照→野村四郎師匠逝く)が唯一である。しばらく遠ざかっていた習いごとに、陶芸で復帰するのも面白そうだ。米寿の手習いか。これがコロナと介護で切れた世間付き合いの再出発点になれば嬉しい。

●毎日曜日に近所の陶芸教室へ手習いに

 陶芸教室開催のコミュニティハウスに受講申し込みに行った。費用2800円、簡単に受け入れてくれた。氏名と年齢だけで詳しい個人情報は一切聞かないのが今時らしいのか。年齢も65歳以上か否かだけを聞かれて、「ど~んと上の齢でございます」と答えた。受講生は6人とのこと、こちらもどんな人たちか聞かない。毎日曜日午後で5回連続とのこと。

 さて、初回の日、コミュニティセンターの一室にやってきたのは、わたしのほかは、講師も含めて全員が女性であった。中年以上だろうか、年齢をよく分らないのは、この間の世間と途絶が長かったからだろう。米寿の手習い仲間はどんな方々かしら。

 各人にそれぞれに道具一式をそろえて貸してくれ、粘土を1キロも用意してある。道具に中に小さな轆轤もある。粘土をこねて轆轤にに載せて回すのだが、意外にも難しい。陶磁器産地で轆轤を回しているの見たことがある。あのようにまん丸くすーっと椀の形ができると思いきや、わたしはこんな不器用であったかと思い知らされた。

轆轤回しは意外に難しい

 それでも何とか形にしたのは、出だしは抹茶茶碗のつもりだったが、ひねた形の犬猫用のの飯茶碗みたいになった。そんなのを大小二つと、いびつな角平皿一枚ができた。ま、こんなもんか、何しろ初めてだからね。

 他の人たちの作り様を見るともなく見ると、どなたも洋食器風であるのに対して、わたしはいかにも下手の手びねりである。何やら基本的スタンスが異なるらしいが、それでよし。初日はそれでおわり、次回まで室内で乾燥させておく。いろいろな受講生がいろいろな質問をして、講師の先生は大わらわなようだった。

 1週間後の2回目は、乾いて赤みがかった粘土色の器になっていた。これを鑢やサンドペーパーで修正整形して、これに化粧用の色粘土を溶いた溶液を刷毛で塗って、模様や色付けをするのだ。わたしは、椀については半分だけ白色を塗った。溶液に半分だけざぶんと漬けようとしたが、溶液が浅くて刷毛で塗った。できるだけ人手の跡が出ないようにしたいのだが、刷毛目が付きそうだ。今回はこれまでで、2週間の乾燥をさせる。

 今日はちょっと手すきになったので、講師の入選作品が掲載されている展覧会図録を見せていただいた。その入選作品は焼き物の先入観を破って、抽象的な現代アートであった。いま眼の前でやっていることとのギャップに、ちょっと驚いた。そうなんだ、器ばかりが陶芸ではないのである。としてもわたしにはアブストラクトセラミツクアートは無理である。

 3回目は、窯場のある近くの中学校の地域交流室に移動して、作品を持っていく。わたしは大丈夫とは思ったが、それでも途中で転んで割ってしまうのが心配になり、タオルで包んでリュックザックに担いで持って行った。中学校には電気釜があり、これに入れて素焼きにするとのことで、それは講師に頼んで、今日はここまで。


窯から出したばかりの素焼き状態の椀二つ 良い色だ

●いよいよ釉薬をかけて本焼の窯へ

 4回目は、素焼き作品を窯から取り出した。若干色が変わっていて、このままでもよいような気がした。これにさらに釉薬を塗って、色付け模様がけなどするのだ。色ごとに釉薬が何種類もあるのだが、小さな色焼き見本を見ても、実際にどんな色になるのか、ほとんど想像がつかない。どうなるのかわからないのがむしろ面白いとするべきか。

 わたしは二つの椀は、校庭でもぎ取ってきた木の葉に釉薬をつけて、器の底に印を押すように葉脈模様をつけた。意外にうまく葉の形が付いた。何色になるのかわからない。もう少し小さいほうがよかったかなとも思うが、まあ、どう出るか分らぬのが面白からこれでよい。そしてこの二つの椀ともに、透明釉薬にざぶりと漬けただけであった。

釉薬をかけたこれを本焼きの窯に入れる どんな色に出るか見当がつかない

 平皿はイメージとして緑色だけの佐野乾山を真似したくて、織部と名がついている釉薬にざぶりと漬けた。果たして緑色になるか。他の人たちは、何やら繊細な絵付けをしておられるようだ。

 こうして釉薬を塗った作品を、今度は本焼きするのだ。それは講師の先生にお任せするしかない。先生はわたしの平皿を見て、釉薬が多すぎるから、うまく削っておくとのことで、ありがとうございます、よろしくお願いしますと、お任せするばかり。今回も初会のごとく、かなり講師の先生の指導をこまごまといただいた。次回の窯出しを楽しみだ。

 今回が最後の教室で、作品が出来上がる。窯の前にみんな集まって、先生が取り出すのを待ち受ける。おお、意外にわが作品はよくできているぞ。初めての経験しては上出来だと、密かに自賛することしきりである。あ、講師の教えがよかったのだ。

 よく見れば、椀二つはほぼ思い通りに近い色だが、白色に刷毛目が出ているのが残念だ。葉の模様付の色が濃過ぎた、もう少し小さい葉の方がよかったか、などと思う。
 でもまあまあ、はじめただからこれでよし、自分に言い聞かせたのだ。さっそく教室での茶話会に使う。

うまく焼きあがった、さっそくこれで干菓子をいただく

 平皿は緑色というには濃すぎた。わずかに縁のあたりが緑色になったが、底は黒色だ。でも一面に真っ黒っではなくて、薬が地に届かないままのいくつかが模様となって、地色が見えているのがかえって味がある、平皿の底に小宇宙を覗く、なんて思うことにする、ふふふ。
 ほかの方たちの作品もそれぞれ出来上がった。それを論ずる能力はない。どの方の作品もわたしのそれとはずいぶん違うなア、と思うばかりだ。

食卓でじっくりと鑑賞中

●わたしの社会復帰はまだ手探り

 こうして陶芸教室は終わった。わたしはこれで社会復帰できただろうか。実のところはよく分らない。客観的に見て、わたしの教室での態度は、かなり不愛想であった。失礼でもあった。わたしの現役時代は、見知らぬ大勢の他人と話すのは、普通のことだった。会議とか、講演とか、大学講義とかで、それが仕事だった。

 そのわたしでさえも、5年ものブランクは、不愛想人間になった。それは、見知らぬ他人との付き合い方を取り戻そうとしても、その距離の取り方を計りかねていたからだ。老いたものだ。いつの日かそれを意識せずに話すことができるようになるだろう。だがその前に、老いがその時が来ることを許さないだろう。だがさて、次はどんな教室に行こうか。

(2025/10/19記)

ーーこのブログの陶磁器関連ブログーー
2013/06/09・791【金継ぎ】琉球焼き物マグカップ金継ぎ修理https://datey.blogspot.com/2013/06/791.html
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ーーー老 酔 録ーーー
米呪を越えて老いに酔い痴れる日々の記録
https://datey.blogspot.com/p/blog-page_23.html

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡/老酔録 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


2025/10/12

1915【言葉の酔時記:政党名】公明・民主・参政など政党が日本語から普通名詞を奪っていく

 

    そういえばそんな名前の政党が前世紀末まであったよな

 中央政界では、公明党は自由民主党に対して、四半世紀にわたる連立政権から離脱を告げたそうだ(2025年10月10日)。わたしは政治についてはよく分らないから、政界では一大事件らしいことにも、この狂歌程度しか言えない。

 ついでにもうふたつ狂歌を書いておく。
   あこがれの鉄の女になろうとし鉄の男に肘鉄を食らう
       逃げられて参拝障壁ひとつ消え密かににんまりサナエさん

 戯れ言はこれくらいにして、実は公明党にまじめに文句を言いたいことがある。この政党が「公明」を固有名詞として名乗ったために、日本語から「公明」という普通言葉が消滅の危機に瀕していると文句を言いたい。

 この党が1964年に登場するまでは、日本語で公明というは普通名詞として一般に使われていた。例えば「公明正大」だが、この単語の意味説明は不要であろう。ところが公明正大なる政治というと、公明党を持ち上げていると思われるからか、そのような言い方は消えた。

 あるいは「公明選挙」である。これも選挙のたびに使われていた。ネットで見ると1953年に「公明選挙運動」なるものが世の中にはじまり、全国に広がって行ったそうだ。その名の運動団体も数多く活躍しており、選挙では普通に使われていた。

 ところが、公明党誕生以後は、これを言うたびに公明党を応援しているかのごとくになってしまう。1965年に運動団体は名称を「明るい選挙運動」に変更せざるを得なかったらしい。こうして公明なる言葉が固有名詞化して、普通名詞であることをやめてしまった。

 これで日本語は一つの普通名詞を失った。たとえば「創価党」とでもすれば、こんなことにはならなかったろう。公明党の日本語に対する罪は大きい。もしかして公明選挙なる言葉を失ったので、いまだに選挙違反がなくならない、なんてこともあるまいが、残念だ。

 それで思いつくのは、もしかして「民主」もそうかもしれない。なにしろ自由民主、社会民主、立憲民主、国民民主などなど、日本の政党は民主の大安売りである。政党で独占している言葉の感がある。

 もしかして現今の民主主義の衰退現象は、これらが安易に名乗ったせいかもしれない、なんて思う。次に危ない言葉は「参政」である。参政権運動なんて使えなくなるにちがいない。そして政治に参加すること自体が衰えるあろう、心配だ。

 政党名を安易につけることを禁止する法律制定を国会で審議してもらいたい。大いに揉めそうで面白そうだ。       (2025/10/12記)

(20251016追記)

クリックすると音楽が流れます

人気先行くシンジロを追っかけて
どたんばで逆転のウヨクのサ〇エさん
みんなが嗤ってるお日さまも嗤ってる
ルルルルルル今日もノーテンキ

人事で頑張り無視をしたあの事件
ウラガネも起用したイコジなサ〇エさん
みんなが嗤ってる青空も嗤ってる
ルルルルルル今日もノーテンキ

鉄の女と張り切ったそのとたん
コウメイから離縁されマヌケなサ〇エさん
みんなが嗤ってる子犬も嗤ってる
ルルルルルル今日もノーテンキ

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡/老酔録 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

2025/10/09

1914【老酔録⑤】米寿と米呪、老衰と老酔 

 米寿と米呪、老衰と老酔  伊達 美徳

 わたしの郷里に住む歌人藤本孝子さんの第五歌集『碧空へぽかりぽかりとんでゆけ』に、こんな歌が載っています。

 「もう飽きた人生の盆地を飛び出したい」十八の頃と同じこと言ふ

 歌人によると、これはわたしのことだそうです。

藤本孝子歌集『碧空へぽかりぽかりとんでゆけ』 2025年10月版

 そのとおりで、わたしは少年時には、閉鎖環境の高梁盆地を飛び出したいと思い続けていました。少年は誰もそうだったことでしょうが、わたしのそれは十九歳の時にようやく叶いました。飛び出したままのそれから60年後、八十歳になったわたしはこんなことを書いていました。

「思えば十五年戦争のさなかに生まれ、もの心ついたら戦争が終わり、社会に出ると高度成長期、大きな災害傷病に遭遇もせず、平和な時代の幸運な人生だったが、また盆地脱出願望が湧きつつある。80年余の人生という盆地に、疲れてはいないが、もう飽きてきました」(『鳩舎第三号』2018年より引用)

 それからさらに7年後の2025年秋の今、これを書いています。そうです、いまだに飽きた人生盆地にいて、とうとう米寿になってしまいました。その間も平和であったかといえばこれが大違いで、この人生晩期になって、実は二つの大変な事件に遭遇したのでした。

●人生盆地の中で2重落とし穴に嵌った

 それは新型コロナパンデミック老々介護です。これらは人生盆地の底に潜んでいた、大きな落とし穴でした。前者は2020年初から始まり、後者は次の年の夏からと、二つの事件は重なり続きました。
 それらの二重落とし穴のどちらからも、ようやく抜け出すことができたのは、2024年の夏でした。密かに解放宣言を歌い唱えたものです。 

 だがしかし、この間に取り返しできそうにない大問題が起きていました。コロナは人々に出会うことを制限しました。在宅介護は特殊な世界に閉じこもらざるを得ませんでした。
 だから、わたしはこの5年間は世間から隔離されていたのです。それ以前は仕事の延長などで、社会とのつながりがいくつもあったのに、この間にいずれも断絶したのでした。落とし穴から抜け出したら、周りは荒涼たる世界でした。地獄から戻った浦島太郎です。

 若いうちならばこれを修復して世の中に復帰するのは容易でしょうが、後期高齢者にはそれは容易なことではありません。つながる世間そのものが消えているのです。
 コロナパンデミックという地球規模の事件に遭遇するとは、人間として実に稀有な珍しい経験をしたものです。右往左往の地球と世間を面白がってもいたのも事実です。

 そしてコロナ後には人間世界はどう変わって出現するのか、楽しみにしていました。未曽有の地球的事件を越えた人間の英知が、これを教訓に見事に再構築するに違いないと、ほのかな希望を持っていました。それを見たいために2重苦の苦闘の日々を生きてきたと言っても過言ではありません。

 だが実際にコロナの闇夜が明けた今、現実は見ない方がよかった世界が出現しています。まったく酷いものです。この分断世界はどうしたことでしょう。コロナがこれを生んでしまったのでしょう。またもや二度目の地球規模の戦争に出会いそうです。コロナの前にこの世を去っていった友人たちを羨ましいとさえ思います。

 この二重の落とし穴に嵌っている最中、わたしの世間とのつながりは、ほぼインタネットによるもののみであったと言ってよいでしょう。Eメール、SNS、ズームなどによる旧友たちとの交流や、ブログ書き込みなどなど、これがあったので正気を保つことができたと言ってよいほどです。インタネット社会に、わが人生が間に合ってほんとうによかったと思っています。

 そうです、この冒頭写真の歌集づくりも、インタネットがあればこそできているのです。藤本孝子歌集は、2014年の第2歌集「ぽかりぽかり」から第五歌集の今日まで十二年の間に、歌人とわたし(企画、制作担当)、この間に顔合わせしたのは3回のみ、全てインタネットによるやり取りで協同プロジェクトになりえているのです。インタネットあればこそ、こんな活動ができたているのです。

●歌集出版という知的遊び

 そして今年発行の第五歌集『碧空へぽかりぽかりとんでゆけ』は、2025年3月から、毎月10冊程度を制作発行してきました。この10月で100冊になりました。普通なら一度に多数の本にして、多くの人に同時に渡したいところを、このような悠長な毎月10冊発行としたのはもちろん理由があります。

 これまでの藤本孝子歌集の第二~第四歌集「ぽかりぽかり」シリーズは、ソフトカバーでしたが、今回は歌人もわたしも米寿になった記念として、格好つけてハードカバーにしようとなったのでした。 
 ところがこのシリーズは、わたしの趣味である手作りの本なのです。今どきの市販の本はすべて機械で製本していますから、手作りの本なんて珍しいのです。ソフトカバー本は手づくりでも簡単ですが、ハードカバー本はその10倍以上に手間がかかるのです。

 そこで考えたのです。一度に大量制作出版するのではなくて、毎月10冊づつ、毎月の新作の短歌も順次に載せて、手作りして10カ月で100冊にしよう、さらに続けることができたら来年までも続けようとなったのです。月刊歌集です。
 こうして3月から8カ月目の今月で、初期の目標100冊に達しましたが、このまま毎月発行をこれからも続けます。

 この月刊歌集遊びをいつまで続けるのか、それはわたしたちの老いが決めてくれることでしょう。それにしてもこの遊びは、老いゆくわたしには有意義なものです。
 そこで老いについてちょっと述べましょう。

●ついに八十八歳という米呪になったこと

 わたしは2025年5月5日に88歳になりました。昔から世にいうところの「米寿」です。もっとも、数え歳のそれは前の年になっています。これまで喜寿、傘寿なる齢を通り越すときには、ほとんど年齢のことを気にしたことはありませんでした。何を「壽ぐ」のだよ、今じゃそんな年齢は珍しくもないのに、と反発したものでした。

 ところが今年米寿になってみて、考えなおしました。そうか、これは「米呪」だな、この年齢を迎えたことを呪詛するんだなと、気が付いたのです。
 真実に対して遠慮会釈もなく「呪う」といわずに、同音で「壽ぐ」と迂回して言うことで、呪うべき歳になってしまったことを緩和しようとする、世間の浅はかな知恵に違いありません。

 わたしが米寿となって積極的に、これを米呪とも見立てて使おうと考えが変わったのは、もちろん理由があります。まさに呪うべきことが起きているからです。88年も生きたことがもたらす不幸です。

 その呪うべきことは二つあります。ひとつは前述のような事情で社会と断絶されてしまったこと、もうひとつは老いという不治の病に取りつかれたことに気がついたことです。長生きし過ぎたからです、残念無念。
 コロナと介護が明けたらどんな明るい世が待っているのか、大いに期待していましたが、裏切られました。まさに米呪が待っていました。

●コロナ後の世に失望してわが老酔録を書く

 というわけで、いまわたしは老衰期に入ったことを自覚したのです。もちろん人生はじめてのことです。それならば、自分が日々に老い衰えていく様を、自虐・諧謔・ギャグ的に記録しておこうと思いつきました。そうですわがインタネットサイト「まちもり通信」のなかに『老酔録ー米呪を越えて老いに酔い痴れる日々の記録』ブログを設けたのです。これまではコロナ後世界の観察に目を向けていたのですが、現実には失望してしまいました。

 そこで自分自身に目を向けることにしました。わが身がどのように衰えていくのか、おおいに興味があるので、老いて暇すぎる日常の格好のヒマツブシにしようとの魂胆です。ついでにこのブログ記事をインタネットで読んで面白がる人がいるとうれしいですね。

 米壽を呪詛して米呪と言い、老衰を嗤って老酔とするのです。酒飲み酔っ払い老人のようでしょうが、今や酔っぱらうほどに酒を飲む気力も体力も失せてしまったし、酔いでもって失せさせたいと思うほどの悩み事も過ぎ去ったのです。老いに酔い痴れるしかないのです。

 これが「卆呪」から「白呪」へと進む前に、なんとかしてコロリと逝きたいものです。そう、またもや起きるに違いない世界戦争から、絶対安全安心地帯の「あの世」へと避難しておくのです。

 では、「老酔録」の記事をどうぞごひいきに。
 ●老酔録―米呪を越えて老いに酔い痴れる日々の記録―https://x.gd/c1ANm

(注)この文は、藤本孝子歌集『碧空へぽかりぽかりとんでゆけ』(2025年)の、10月発行分に挟み込む「栞」に掲載した。

(2025/10/08日記)

このブログの関連記事

ーーー老 酔 録ーーー
米呪を越えて老いに酔い痴れる日々の記録

2025/06/14・1893【歌集をつくる
友人の歌集を毎月発行、
多分これが最後の本づくり
 https://datey.blogspot.com/2025/06/1893.html

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡/老酔録 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


2025/10/01

1913【老酔録④】歩行能力維持しようと街を徘徊すれば世界戦争準備中の風景に出くわす

 老酔録③からの続き

●足がのろい

 米呪88歳もの年寄りともなると、あちこち故障が出るものらしいが、私の自覚症状はただ一つ(?)、それは足というか脚に来ている。歩行速度の低下、普通に歩く速度が次第に遅くなっていまでは時速2キロ程度、常人の半分だ。

 階段の上り下りも不得手になってきた。駅では機械に頼るが、ときにそれがない駅もある。手すりがあれば掴まって何とかなる。手すりがないと、考え込んでしまう。でもナントカ杖を頼りに慎重に動けばなんとかなる。その姿は老人そのものだ、あたりまえか、

 日ごろ特に急いで歩く必要もない日常だが、ときには時刻を決めた約束がれば、十分に余裕を持って出かけるようにしている。要するに急ぐことは何もないから、脚が遅くなってもかまわないのだ。でも、こういってしまうのも、ちょっと寂しい。

 少年時は生家が丘の中腹の神社だったから、その参道を平気で昇り降りした毎日だった。大学時代には山岳部に所属して、これはもう足でどこにでも上ってしまうのであった。社会人になっても、知友上のあちこちの都市を歩き回る仕事だった。ああ、それなのに・・。

 足の衰えに少しでも抵抗しようと、毎日せいぜい歩く努力をしている。歩くのは昔から好きだから、全く苦にはならない。この夏のように暑い日が続くころは、早朝の涼しいうちに出かけて、暑くなる前に戻ってくるのだ。

 近所を用もなく1~2時間をぶらぶら歩いてくる(これを徘徊と言う)のが、もう何十年もの生活習慣だ。出かける先は、近所を一回り2キロ程度を基本とするが、1週間に一度は電車やバスを使ってちょっと遠足をする。そんな時は4キロくらいは歩いてくる。

 今もそれを続けているのだが、歩く速度が遅いと、一定時間を歩いても距離が短くなる。一定時間を歩いて疲れるのは同じだから、かつてのように遠くまで行けない。さすがに米呪となると疲れやすくもなる。ただし疲れるが、足腰や身体が痛むことはないのだ。

 歩きながら街や公園などの風景を眺めて、季節により、年代により、世相により、どんなに変化するのかを眺めるのが楽しい。横浜都心部は建設活動が盛んだから、都市風景が急速に変わる。それを追いかけて眺めるのが面白い。批判的に考えると面白い。

 この変化を都市デザインから批評眼で観るのを、かなり昔からやっている。もちろんあちこちへの旅行もそうである。かつてはこれは仕事の一部だったが、今は単なる野次馬、でも楽しいものだ。疲れて歩く距離が短くなれば、毎日の徘徊がつまらない。

●足がふらつく

 だが、更にこの歩行動作についても、なんだか困ることが起きてきた。今年になってからのような気がするが、足元がなんだか安定しない感じなのだ。わずかだが左右にふらつくのだ。なんだか左に傾くようだ。思想はともかく身体は左傾化、右翼化する世相に抵抗か。

 歩いていてよそ見をして元に戻そうとすると、ふらつく感じだ。そうか、これが老酔かもしれない。酔ってくれば足元が不安定になるものだ。ふ~む、そうにちがいない。これは神経のせいか、筋肉のせいか、たぶん両方のせいだろうなあ。

 2022年半ばから、(亡妻)が足をふらつけせて転倒するようになった。最初は街の中の歩道上で転倒して、救急車で病院に運び込んだ。これは顔面打撲傷だけの診断だった。次第に家の中でも転倒回数が増えてきた。わたしもこの初期症状だろうか。

 Kは23年秋に大転倒を機に脳内巨大動脈瘤の存在を発見、で症状悪化し右半見不随の寝たきりとなり、その動脈瘤の破裂で24年の夏に逝った。わたしにもまさかと思うが脳内に何か不具合があって、足元が不安定なのだろうか。ボケか転倒かの二者択一か。

 もしそうだとしても、どうせ治癒しないし、この年で手術する体力もなし、それに従って死ぬしかないが、それでよいのだ。むしろそうなることが、自然なような気もする。この年になって、薬だ、手術だ、リハビリだと、あと数年の命なのに延命手当に意味あるか。

 まあ、できることとして、外出には転ばぬ先の杖ストックを必ず持って出る。このストックは、20年以上もまえに、大学同期仲間十数人と一緒に、5日で百キロを歩く春秋の遊び旅行を何年もやっていたときのものだから、年期が入っている使い慣れた杖である。。

 それが遊びの道具からケア道具に変わったとは、感慨深いものがある。あの頃は1日に20キロ歩いたのだから、今なら10時間もかかってしまうことになる。つくづくオレも老いたものだ、うっかり長生きし過ぎたもんだ、死に損なったもんだ、なんて感慨深い。

●徘徊で戦争準備中風景に出くわす

 さて、先日は急に思いついて遠足徘徊に、横須賀の町まで行って歩いてきた。家から電車で40分ほど、昔、30年間ぐらいを多くの仕事でしょっちゅう行っていたところだ。都市計画の仕事だから、それが形になったとことろもあれば、計画倒れのところもある。

 それらの場所を眺めながら歩くのは、楽しかったり怒ったりほろ苦かったりする。4キロほどをゆっくりと4時間ほどかけて歩いてきた。秋の日は柔らかで風も涼しかった。だが、ぎょっとする風景に出会った。

 この横須賀町徘徊で昔からよく知っている風景だが、あらためて眺めて、今どきだからこその新たな思いに駆られたので書いておく。それは横須賀軍港に浮かぶ旭日旗を掲げる潜水艦や軍艦のある風景にぎょっとしたことである。

公園で弁当を食べてふと目を上げると真っ黒な船が、

旭日旗を掲げる潜水艦が3隻浮かぶ

街なかの歩道橋を渡っていてふと気が付くと軍艦がこんな近くに

 今それらの軍艦群を見て、この生々しさは、まさしく今の地球の不安定な政治事情を反映するものか、世界戦争の準備中の姿か、以前にも何度かこの風景は見ているが、そんな風に思ったことはなかったから、ショックだった。そう思うべき時代の再来か。

 そう言えば、ここにはアメリカ軍基地もあって、核発電施設を備えた航空母艦もしょっちゅうやって来て停泊したいる。このあたりはまさしく戦場となる確率が高いのだ。更に2011年に福島で起きた事件の再現も現実的なのだ。全く怖いところだ。

 そして、老酔録に戻るのだが、わたしはもう88歳の米呪、そんな戦争にまたもや出会うのは嫌だ避けたい、何とかして早期に避難しておきたいものだ。そこに行けばもう2度と避難の必要ない絶対安全安心避難先の「あの世」へ。

(20250930記 つづく)

●このブログの関連記事●
2024/12/10・1855【東京湾原発稼働中
 https://datey.blogspot.com/2024/12/1855.html

ーーー老 酔 録ーーー
米呪を越えて老いに酔い痴れる日々の記録

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡/老酔録 https://datey.blogspot.com/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━