2025/10/09

1914【老酔録⑤】米寿と米呪、老衰と老酔 

 米寿と米呪、老衰と老酔  伊達 美徳

 わたしの郷里に住む歌人藤本孝子さんの第五歌集『碧空へぽかりぽかりとんでゆけ』に、こんな歌が載っています。

 「もう飽きた人生の盆地を飛び出したい」十八の頃と同じこと言ふ

 歌人によると、これはわたしのことだそうです。

藤本孝子歌集『碧空へぽかりぽかりとんでゆけ』 2025年10月版

 そのとおりで、わたしは少年時には、閉鎖環境の高梁盆地を飛び出したいと思い続けていました。少年は誰もそうだったことでしょうが、わたしのそれは十九歳の時にようやく叶いました。飛び出したままのそれから60年後、八十歳になったわたしはこんなことを書いていました。

「思えば十五年戦争のさなかに生まれ、もの心ついたら戦争が終わり、社会に出ると高度成長期、大きな災害傷病に遭遇もせず、平和な時代の幸運な人生だったが、また盆地脱出願望が湧きつつある。80年余の人生という盆地に、疲れてはいないが、もう飽きてきました」(『鳩舎第三号』2018年より引用)

 それからさらに7年後の2025年秋の今、これを書いています。そうです、いまだに飽きた人生盆地にいて、とうとう米寿になってしまいました。その間も平和であったかといえばこれが大違いで、この人生晩期になって、実は二つの大変な事件に遭遇したのでした。

●人生盆地の中で2重落とし穴に嵌った

 それは新型コロナパンデミック老々介護です。これらは人生盆地の底に潜んでいた、大きな落とし穴でした。前者は2020年初から始まり、後者は次の年の夏からと、二つの事件は重なり続きました。
 それらの二重落とし穴のどちらからも、ようやく抜け出すことができたのは、2024年の夏でした。密かに解放宣言を歌い唱えたものです。 

 だがしかし、この間に取り返しできそうにない大問題が起きていました。コロナは人々に出会うことを制限しました。在宅介護は特殊な世界に閉じこもらざるを得ませんでした。
 だから、わたしはこの5年間は世間から隔離されていたのです。それ以前は仕事の延長などで、社会とのつながりがいくつもあったのに、この間にいずれも断絶したのでした。落とし穴から抜け出したら、周りは荒涼たる世界でした。地獄から戻った浦島太郎です。

 若いうちならばこれを修復して世の中に復帰するのは容易でしょうが、後期高齢者にはそれは容易なことではありません。つながる世間そのものが消えているのです。
 コロナパンデミックという地球規模の事件に遭遇するとは、人間として実に稀有な珍しい経験をしたものです。右往左往の地球と世間を面白がってもいたのも事実です。

 そしてコロナ後には人間世界はどう変わって出現するのか、楽しみにしていました。未曽有の地球的事件を越えた人間の英知が、これを教訓に見事に再構築するに違いないと、ほのかな希望を持っていました。それを見たいために2重苦の苦闘の日々を生きてきたと言っても過言ではありません。

 だが実際にコロナの闇夜が明けた今、現実は見ない方がよかった世界が出現しています。まったく酷いものです。この分断世界はどうしたことでしょう。コロナがこれを生んでしまったのでしょう。またもや二度目の地球規模の戦争に出会いそうです。コロナの前にこの世を去っていった友人たちを羨ましいとさえ思います。

 この二重の落とし穴に嵌っている最中、わたしの世間とのつながりは、ほぼインタネットによるもののみであったと言ってよいでしょう。Eメール、SNS、ズームなどによる旧友たちとの交流や、ブログ書き込みなどなど、これがあったので正気を保つことができたと言ってよいほどです。インタネット社会に、わが人生が間に合ってほんとうによかったと思っています。

 そうです、この冒頭写真の歌集づくりも、インタネットがあればこそできているのです。藤本孝子歌集は、2014年の第2歌集「ぽかりぽかり」から第五歌集の今日まで十二年の間に、歌人とわたし(企画、制作担当)、この間に顔合わせしたのは3回のみ、全てインタネットによるやり取りで協同プロジェクトになりえているのです。インタネットあればこそ、こんな活動ができたているのです。

●歌集出版という知的遊び

 そして今年発行の第五歌集『碧空へぽかりぽかりとんでゆけ』は、2025年3月から、毎月10冊程度を制作発行してきました。この10月で100冊になりました。普通なら一度に多数の本にして、多くの人に同時に渡したいところを、このような悠長な毎月10冊発行としたのはもちろん理由があります。

 これまでの藤本孝子歌集の第二~第四歌集「ぽかりぽかり」シリーズは、ソフトカバーでしたが、今回は歌人もわたしも米寿になった記念として、格好つけてハードカバーにしようとなったのでした。 
 ところがこのシリーズは、わたしの趣味である手作りの本なのです。今どきの市販の本はすべて機械で製本していますから、手作りの本なんて珍しいのです。ソフトカバー本は手づくりでも簡単ですが、ハードカバー本はその10倍以上に手間がかかるのです。

 そこで考えたのです。一度に大量制作出版するのではなくて、毎月10冊づつ、毎月の新作の短歌も順次に載せて、手作りして10カ月で100冊にしよう、さらに続けることができたら来年までも続けようとなったのです。月刊歌集です。
 こうして3月から8カ月目の今月で、初期の目標100冊に達しましたが、このまま毎月発行をこれからも続けます。

 この月刊歌集遊びをいつまで続けるのか、それはわたしたちの老いが決めてくれることでしょう。それにしてもこの遊びは、老いゆくわたしには有意義なものです。
 そこで老いについてちょっと述べましょう。

●ついに八十八歳という米呪になったこと

 わたしは2025年5月5日に88歳になりました。昔から世にいうところの「米寿」です。もっとも、数え歳のそれは前の年になっています。これまで喜寿、傘寿なる齢を通り越すときには、ほとんど年齢のことを気にしたことはありませんでした。何を「壽ぐ」のだよ、今じゃそんな年齢は珍しくもないのに、と反発したものでした。

 ところが今年米寿になってみて、考えなおしました。そうか、これは「米呪」だな、この年齢を迎えたことを呪詛するんだなと、気が付いたのです。
 真実に対して遠慮会釈もなく「呪う」といわずに、同音で「壽ぐ」と迂回して言うことで、呪うべき歳になってしまったことを緩和しようとする、世間の浅はかな知恵に違いありません。

 わたしが米寿となって積極的に、これを米呪とも見立てて使おうと考えが変わったのは、もちろん理由があります。まさに呪うべきことが起きているからです。88年も生きたことがもたらす不幸です。

 その呪うべきことは二つあります。ひとつは前述のような事情で社会と断絶されてしまったこと、もうひとつは老いという不治の病に取りつかれたことに気がついたことです。長生きし過ぎたからです、残念無念。
 コロナと介護が明けたらどんな明るい世が待っているのか、大いに期待していましたが、裏切られました。まさに米呪が待っていました。

●コロナ後の世に失望してわが老酔録を書く

 というわけで、いまわたしは老衰期に入ったことを自覚したのです。もちろん人生はじめてのことです。それならば、自分が日々に老い衰えていく様を、自虐・諧謔・ギャグ的に記録しておこうと思いつきました。そうですわがインタネットサイト「まちもり通信」のなかに『老酔録ー米呪を越えて老いに酔い痴れる日々の記録』ブログを設けたのです。これまではコロナ後世界の観察に目を向けていたのですが、現実には失望してしまいました。

 そこで自分自身に目を向けることにしました。わが身がどのように衰えていくのか、おおいに興味があるので、老いて暇すぎる日常の格好のヒマツブシにしようとの魂胆です。ついでにこのブログ記事をインタネットで読んで面白がる人がいるとうれしいですね。

 米壽を呪詛して米呪と言い、老衰を嗤って老酔とするのです。酒飲み酔っ払い老人のようでしょうが、今や酔っぱらうほどに酒を飲む気力も体力も失せてしまったし、酔いでもって失せさせたいと思うほどの悩み事も過ぎ去ったのです。老いに酔い痴れるしかないのです。

 これが「卆呪」から「白呪」へと進む前に、なんとかしてコロリと逝きたいものです。そう、またもや起きるに違いない世界戦争から、絶対安全安心地帯の「あの世」へと避難しておくのです。

 では、「老酔録」の記事をどうぞごひいきに。
 ●老酔録―米呪を越えて老いに酔い痴れる日々の記録―https://x.gd/c1ANm

(注)この文は、藤本孝子歌集『碧空へぽかりぽかりとんでゆけ』(2025年)の、10月発行分に挟み込む「栞」に掲載した。

(2025/10/08日記)

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2025/10/01

1913【老酔録④】歩行能力維持しようと街を徘徊すれば世界戦争準備中の風景に出くわす

 老酔録③からの続き

●足がのろい

 米呪88歳もの年寄りともなると、あちこち故障が出るものらしいが、私の自覚症状はただ一つ(?)、それは足というか脚に来ている。歩行速度の低下、普通に歩く速度が次第に遅くなっていまでは時速2キロ程度、常人の半分だ。

 階段の上り下りも不得手になってきた。駅では機械に頼るが、ときにそれがない駅もある。手すりがあれば掴まって何とかなる。手すりがないと、考え込んでしまう。でもナントカ杖を頼りに慎重に動けばなんとかなる。その姿は老人そのものだ、あたりまえか、

 日ごろ特に急いで歩く必要もない日常だが、ときには時刻を決めた約束がれば、十分に余裕を持って出かけるようにしている。要するに急ぐことは何もないから、脚が遅くなってもかまわないのだ。でも、こういってしまうのも、ちょっと寂しい。

 少年時は生家が丘の中腹の神社だったから、その参道を平気で昇り降りした毎日だった。大学時代には山岳部に所属して、これはもう足でどこにでも上ってしまうのであった。社会人になっても、知友上のあちこちの都市を歩き回る仕事だった。ああ、それなのに・・。

 足の衰えに少しでも抵抗しようと、毎日せいぜい歩く努力をしている。歩くのは昔から好きだから、全く苦にはならない。この夏のように暑い日が続くころは、早朝の涼しいうちに出かけて、暑くなる前に戻ってくるのだ。

 近所を用もなく1~2時間をぶらぶら歩いてくる(これを徘徊と言う)のが、もう何十年もの生活習慣だ。出かける先は、近所を一回り2キロ程度を基本とするが、1週間に一度は電車やバスを使ってちょっと遠足をする。そんな時は4キロくらいは歩いてくる。

 今もそれを続けているのだが、歩く速度が遅いと、一定時間を歩いても距離が短くなる。一定時間を歩いて疲れるのは同じだから、かつてのように遠くまで行けない。さすがに米呪となると疲れやすくもなる。ただし疲れるが、足腰や身体が痛むことはないのだ。

 歩きながら街や公園などの風景を眺めて、季節により、年代により、世相により、どんなに変化するのかを眺めるのが楽しい。横浜都心部は建設活動が盛んだから、都市風景が急速に変わる。それを追いかけて眺めるのが面白い。批判的に考えると面白い。

 この変化を都市デザインから批評眼で観るのを、かなり昔からやっている。もちろんあちこちへの旅行もそうである。かつてはこれは仕事の一部だったが、今は単なる野次馬、でも楽しいものだ。疲れて歩く距離が短くなれば、毎日の徘徊がつまらない。

●足がふらつく

 だが、更にこの歩行動作についても、なんだか困ることが起きてきた。今年になってからのような気がするが、足元がなんだか安定しない感じなのだ。わずかだが左右にふらつくのだ。なんだか左に傾くようだ。思想はともかく身体は左傾化、右翼化する世相に抵抗か。

 歩いていてよそ見をして元に戻そうとすると、ふらつく感じだ。そうか、これが老酔かもしれない。酔ってくれば足元が不安定になるものだ。ふ~む、そうにちがいない。これは神経のせいか、筋肉のせいか、たぶん両方のせいだろうなあ。

 2022年半ばから、(亡妻)が足をふらつけせて転倒するようになった。最初は街の中の歩道上で転倒して、救急車で病院に運び込んだ。これは顔面打撲傷だけの診断だった。次第に家の中でも転倒回数が増えてきた。わたしもこの初期症状だろうか。

 Kは23年秋に大転倒を機に脳内巨大動脈瘤の存在を発見、で症状悪化し右半見不随の寝たきりとなり、その動脈瘤の破裂で24年の夏に逝った。わたしにもまさかと思うが脳内に何か不具合があって、足元が不安定なのだろうか。ボケか転倒かの二者択一か。

 もしそうだとしても、どうせ治癒しないし、この年で手術する体力もなし、それに従って死ぬしかないが、それでよいのだ。むしろそうなることが、自然なような気もする。この年になって、薬だ、手術だ、リハビリだと、あと数年の命なのに延命手当に意味あるか。

 まあ、できることとして、外出には転ばぬ先の杖ストックを必ず持って出る。このストックは、20年以上もまえに、大学同期仲間十数人と一緒に、5日で百キロを歩く春秋の遊び旅行を何年もやっていたときのものだから、年期が入っている使い慣れた杖である。。

 それが遊びの道具からケア道具に変わったとは、感慨深いものがある。あの頃は1日に20キロ歩いたのだから、今なら10時間もかかってしまうことになる。つくづくオレも老いたものだ、うっかり長生きし過ぎたもんだ、死に損なったもんだ、なんて感慨深い。

●徘徊で戦争準備中風景に出くわす

 さて、先日は急に思いついて遠足徘徊に、横須賀の町まで行って歩いてきた。家から電車で40分ほど、昔、30年間ぐらいを多くの仕事でしょっちゅう行っていたところだ。都市計画の仕事だから、それが形になったとことろもあれば、計画倒れのところもある。

 それらの場所を眺めながら歩くのは、楽しかったり怒ったりほろ苦かったりする。4キロほどをゆっくりと4時間ほどかけて歩いてきた。秋の日は柔らかで風も涼しかった。だが、ぎょっとする風景に出会った。

 この横須賀町徘徊で昔からよく知っている風景だが、あらためて眺めて、今どきだからこその新たな思いに駆られたので書いておく。それは横須賀軍港に浮かぶ旭日旗を掲げる潜水艦や軍艦のある風景にぎょっとしたことである。

公園で弁当を食べてふと目を上げると真っ黒な船が、

旭日旗を掲げる潜水艦が3隻浮かぶ

街なかの歩道橋を渡っていてふと気が付くと軍艦がこんな近くに

 今それらの軍艦群を見て、この生々しさは、まさしく今の地球の不安定な政治事情を反映するものか、世界戦争の準備中の姿か、以前にも何度かこの風景は見ているが、そんな風に思ったことはなかったから、ショックだった。そう思うべき時代の再来か。

 そう言えば、ここにはアメリカ軍基地もあって、核発電施設を備えた航空母艦もしょっちゅうやって来て停泊したいる。このあたりはまさしく戦場となる確率が高いのだ。更に2011年に福島で起きた事件の再現も現実的なのだ。全く怖いところだ。

 そして、老酔録に戻るのだが、わたしはもう88歳の米呪、そんな戦争にまたもや出会うのは嫌だ避けたい、何とかして早期に避難しておきたいものだ。そこに行けばもう2度と避難の必要ない絶対安全安心避難先の「あの世」へ。

(20250930記 つづく)

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