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2012/07/06

639趣味の卓上出版「まちもり叢書」に書評が登場

谷口碩氏は、わたしと同年代・同業の都市計画家である。
 この春、東京から神戸に居を移されるとて、餞別として無理やり「まちもり叢書」(わたしの趣味の卓上出版)の内の3冊をわたした。
 そして神戸からの都市通信を待っていたら、病気になって入院という知らせに驚いたが、もっと驚いたのは入院中にわたしの3冊を読んで書評までくださったことである。

 この趣味を2010年の半ば頃から始めて、いまでは14冊になった。続刊も進行中である。
 これまで多くの人に無理やり渡してきたが、こうやってきちんと書評してくださったのは、これが最初である。
 おおいに感謝してここに掲載を許してもらった。

●谷口碩氏書評全文→「街なかで暮らす」「文化の風景」「風景批評の旅」
http://homepage2.nifty.com/datey/matimori-sosyo.htm#syohyo

●「まちもり叢書」:趣味の自著卓上自作出版の一覧
http://homepage2.nifty.com/datey/matimori-sosyo.htm

―――既刊(2012.05時点)――
・父の十五年戦争/神主通信兵の手記を読み解く
http://sites.google.com/site/dateyg/15senso
・横浜B級観光ガイドブック・関外/戦後復興の残照
http://sites.google.com/site/matimorig2x/yokohama-bkyuu-kankou-gaidobukku
・あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている
http://sites.google.com/site/matimorig2x/tokeisin
・波羅波乱歳時記/日々の小言僻言繰言寝言
http://sites.google.com/site/dateyg/haratachi-saijiki100412
・街なかで暮らす/あぶないマンション・いらないバイパス
・丸の内貼り混ぜ屏風/見世物としての建築
・かまくら冬夏/鎌倉元住人が内と外から描く古都の風景
・建築家 山口文象の世界/作品と評伝
・文化としての緑の環境/人口の緑しかない日本の自然
・ネパール風土逍遥/カトマンヅ・ポカラ・ルンビニ
http://sites.google.com/site/matimorig2x/nepal2011
・文化の風景/都市の伝統と鄙の民俗の風景を伝える
・風景批評の旅/斜めから裏から眺める風景
・美しい故郷に/高梁盆地の昨日と今日そして明日へ
http://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/utukusiikokyo
・福島原発を世界遺産に/地震津波原発おろおろ日記

―――続刊(見込み)―――
・東京駅復興/20世紀の歴史を消した21世紀の復原
・中越山村の四季/棚田の米つくりから見てくること
・山口文象/時代の先端を駆け抜けた建築家
・高梁川/鎮守の森から
・都市の文化景観
・中越山村の四季

2012/01/25

577能「船弁慶」を見た

横浜能楽堂で「船弁慶」を見てきた。観世小次郎信光の能は、見ていて面白い。世阿弥元清の幽玄なんてクソクラエである。
 義経が静御前と別れる愁嘆場が前場の見せ所だが、史実は一緒に舟に乗って逃避行だから、それを知っていて面白がるのだ。
 自由自在に動き回って暴れる幽霊を相手に、船の中で身動きならない義経一行の対比も、狭い舞台をうまく活かしている。

 小書きが「重キ前後の替」「名所教え」「舟歌」と3つもあって、シテ玄祥さんとアイ東次郎さんの大活躍である。
 でも、玄祥さんの前場の「盤渉序の舞」は良かったが、後の知盛はキレない。
 東次郎さんは咳が出て声がとおらなくなって、ちょっと大変そうに見えてしまった。10年ほど前に見た東次郎さんは良かったなあ、あの口ぶりだけで舞台は大嵐になった。

 どちらもお歳のせいだろうか。このようなスペクタクル見せ物能は、やっぱり若い演者のを見たいものである。
 といっても、8年ほど前にみたアイ和泉元哉のようなヘタクソでは困るが。
 惜しくも亡くなった関根祥人による、キレの良い船弁慶を見たかったなあ。

 義経が子方であるが、能のこのような子方の使い方はちょくちょくあるが、いつ見ても違和感がある。愛人の静御前との取り合いが悪すぎる。

 TV放送は3月3日1500からNHK教育。

横浜能楽堂 平成24年1月24日
「船弁慶 重キ前後之替」~観世流
シテ・静御前と平知盛の怨霊:梅若玄祥
子方・源義経:梅若秀成
ワキ・弁慶:殿田謙吉
アイ・船頭:山本東次郎
笛:一噌隆之
小鼓:観世新九郎
大鼓:柿原弘和
太鼓:助川治
後見:梅若長左衛門 梅若紀彰 小田切康陽
地謡:観世喜正 山崎正道 梅若猶義 松山隆之 
   角当直隆 坂真太郎 土田英貴 内藤幸雄

●関連
501杉本博司演出の三番叟
http://datey.blogspot.com/2011/09/501.html
434横浜で琉球のゆったりとした時間
http://datey.blogspot.com/2011/06/434.html
459義経千本桜を能の目で見る
http://datey.blogspot.com/2011/07/459.html
217野村四郎の能「鵺」を観る
http://datey.blogspot.com/2009/12/217.html
134三代の能楽
http://datey.blogspot.com/2009/05/134.html
050能「摂待」と「安宅」
http://datey.blogspot.com/2008/10/noh.html

2011/11/19

535◆千ページ英語小説一気読み

年寄りのヒマ人になると、こういうこともできるという見本のような行為。
 本文985ページの分厚いハードカバーの小説本「Fall of Giants」(Ken Follett 2010)を、20日間もかけて一気に読んだ。
 こんな分厚い本を一気に読むなんて、これまでにないことである。それでも毎日寝る前の4時間、20日もかかったってことは、英語だからである。暇だからこそ、面白いからこそできたことだ。
 ただし、ハードカバーでこれだけ分厚いと、重くて寝転んで読めないのが難であった。いすに座り続けて尻が痛くなった。

 日本語のようにななめ読み飛ばしでもわかるほどの英語読解力は、わたしにはない。一応全文に眼を通さざるを得ないから、まどろっこしい。
 さらにまどろっこしいのは、知らない単語や言い回しがしょっちゅう出てくることだ。
 いちいち辞書を引いていたのでは、この稀代のストーリーテラーの物語を読むという、本読みの醍醐味の興をそがれてしまう。辞書から本に眼を戻すと、はて、どこを読んでたんだっけ?

 だから判らなくても、まあこういうことだろうと前後から類推して、どんどん進む。
 ケン・フォレットは、くどくどと状況説明をしてくれる大衆小説だから、それでもなんとかなる。
 よくわからなくて類推に頭を働かせていると、大衆小説がブンガクになるような気がするところが、よろしい。
 そうやっても1000ページを毎日毎日読ませるだけのストーリーだってことがすごい。

 それにしても1000ページの本である。
 しかも、表紙に「BOOK ONE OF THE CENTURY TRILOGY」と書いてあるから、まだこれから2冊の続編が出るらしい。3000ページかあ、すごいなあ。
 フォレットの小説はペーパバックで全部読んだはずだ。歴史物は面白いが、現代ものは愚作もある。
 前作の「WORLD WHITHOUT END」は中世の都市物語で、面白かった。
 今回は20世紀の物語で、第1次大戦を英独仏露米と地球ひとまわりが舞台で、これも面白かった。次作は第2次世界大戦だろうか。

 ケンフォレットのインタネットサイトを見たら、こう書いてあった。
More information on Fall of Giants
Winter of the World
Winter of the World, the second book in the 'Century' series, will feature the children of the characters in Fall of Giants as they live through the Depression and the Second World War. It is due to be published in the second half of 2012.
The third book, due out in 2014, will be about the next generation during the Cold War.
 そうか、これで来年と再々来年の暇つぶしは決まった。

●関連→japaniese-knotweed
http://datey.blogspot.com/2009/09/182japaniese-knotweed.html

2011/11/03

520鎌倉世界遺産登録推進第ワークショップ

毎年開いている鎌倉ワークショップへのお誘いです。
      
●鎌倉世界遺産登録推進第5回ワークショップ

【テーマ】『住んでよく、訪れてよい鎌倉のまちづくり』
「武家の古都・鎌倉」は日本の世界文化遺産としての登録を
ユネスコへ推薦されることになりました。
登録後を見すえた「歴史を活かすまちづくり」について、
みんなで語りあいましょう。
・主催 鎌倉世界遺産登録推進協議会
   http://www.shonan-it.org/KWH-kyogikai/
・共催 鎌倉の世界遺産登録をめざす市民の会

【ワークショップの進め方】
①下記のテーマごとのグループに分かれて自由に意見交換
Aグループ
  
交通問題:交通混雑への対策、望ましい回遊空間の整備
Bグループ
  
情報センター:世界遺産情報の発信とその内容、保護、管理
Cグループ
  
まちの姿:鎌倉の多様な空間要望に応える都市空間の整備
②意見や提案を付箋に記入、多様な考え方を一覧しながらグループごとにまとめる。
 意見や提案は必ずしも一つにまとまる必要はありません。
③中間で進行状況を発表、ゲストや運営側の感想や意見を聞く。
 さらに、グループとしての意見をまとめて発表。
*提案の成果は、事務局でできるだけ早くまとめて公表します。

【日時】平成23年11月27日(日)13:30~16:30<13:15開場>

【場所】鎌倉市役所・第三分庁舎講堂(鎌倉駅西口徒歩5分)

【参加料】無料

【申込締切】平成23年11月18日(金)必着
   先着50名様…結果は全員に通知いたします

【申込み先】
 〒248-8686(住所は省略できます)
 鎌倉市役所 鎌倉世界遺産登録推進協議会「11/27ワークショップ係」
 電話:0467(61)3849
 FAX:0467(23)1085 
 E-mail:sekaiisan@city.kamakura.kanagawa.jp

【申込方法】
 下記必要事項を記入、FAX・Eメール・はがき、
 いずれかでお申込みください。

=====参加申し込み=======
11月27日第5回ワークショップ参加申込書
・氏名(ふりがな)
・住所 〒
・性別   男性 女性(○をつけてください)
・電話番号
・FAX番号
・Eメールアドレス
・参加希望するグループ(○をつけてください)
  第一希望  A交通問題 B情報センタ Cまちの姿
  第二希望  A交通問題 B情報センタ Cまちの姿
  第三希望  A交通問題 B情報センタ Cまちの姿
・ご意見や話題にしたいテーマなど自由にお書きください。




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このブログの関連ページ→210鎌倉の世界遺産

2011/09/26

500カリフォルニア歌人

今日の朝日歌壇(朝日新聞朝刊2011年9月26日)に掲載の歌のひとつ。

仰ぎ見る万国旗は皆同サイズアメリカアフガン並びてはためく
(アメリカ)大竹幾久子

ことしの1月のこと、やはりこの人の歌が朝日歌壇に載ったことがある。

香港とスロバキヤから来し嫁と厨に立ちて雑煮を作る
(アメリカ)大竹幾久子

この歌人にわたしは面識がない。
だが実は、この人の夫と兄とわたしは大学寮の同期生であった。
のちに夫となる男とは、山岳部仲間として夏の日も雪の日も一緒に山の中のテントで暮らし、岩壁では一本のザイルにつながって身を託しあった。
兄なる男とは、つい先日も新潟で稲刈りなどして一緒に遊んでいる間柄である。http://datey.blogspot.com/2011/09/498.html
この二人が義兄弟になり、妹夫婦はカリフォルニアに住み着いたと、兄から聞いていた。この正月の歌を新聞で読んで、はて、もしかしたらと、その兄に尋ねて分かったのであった。

今日の朝日歌壇には外国からのもうひとつの歌が載っている。

原発にさよならをしたこの秋のドイツの空の風みどり色
(ドイツ 西田リーバウ望東子)

これらの歌には、期せずしてだろうが、地球をひとまわりする想い、あるいは人間の未来に対する思いがこめられている。
ほかの入選歌には、そのようなことを歌うものはひとつもない。
故国の地を離れて歌うときは、人はグローバルに思いをはせるものだろうか。
と思ったが、いつもそうではないだろうから、これは選者の採りあげるときの視点であろう。

さて、来月末には歌人が夫とともに故国にやってくると、その兄が教えてくれたのは、一昨日のことであった。楽しみなことである。
これはその挨拶ブログである。

●参照⇒648日本人は5度も大被曝しても原発を動かす

2011/03/06

394ジジババ旅行

 鉄道会社のJRが発行する「ジパング」という、会費を1年に4000円だったか払うと、ジジ65歳以上、ババ60歳以上専用の3割引き切符がある。
 その乗車券には「ジ割」と書いてある。女性用は「バ割」と書いてあるのだろう、多分。
 もちろんJR線のみ有効で、1年に20回使えるのだが、なんでも3割引ではない。特に、「新幹線のぞみ号」に乗ると特急券だけは割引しない。
 昔、まだ仕事で出かけることが多かった時期には、のぞみ号でも大いに利用して、年に20回を超えて、以後(ここでいえないが)ある種の対策を講じたこともあった。
 いまは時間はあるから、のぞみ号じゃなくてひかり号でも(こう書いて思いついたが、どっちも昔の煙草の名前であるな)、新幹線じゃなくても、特急じゃなくても、普通車でどこでも行くことができるのだが、それも限度があるから、時には有料特別列車にも乗る。
    ◆
 昔のように時刻表とにらめっこしなくても、インターネットにいろいろとルートや時間や料金検索できる乗り物サイトがあるから便利である。
 田舎のバス(こう書いて思い出したが、♪オンボロぐるま~、タイヤは傷だらけ、窓は閉まらない~♪、ってメロディー、これで笑う人がこれを読んでいる人でどれくらいいるだろうか)も時刻表がネットに出てきて便利になった。
 で、ジジ割引のジパングの話であるが、どの乗り物サイトを見ても、このジパングに対応するものがない。
 のぞみ号に乗らない場合というジパングむけの検索が、さすがにJRのサイトにはある。
 ところが東日本会社のそれだと、西日本会社の範囲内で乗り替えると、時刻は出るのに料金が出ない、西日本のサイトは東日本の新幹線からはずれると行き先が無いとでてくる。不親切なものだ。
 だから、3つ以上のサイトで検索をして、いちいちそれらをジパングに合うように、PCの外で組みなおし計算しなおす必要があるのだ。まあ、ひまだからいいけどさ。
 どちら様でもいいから、ジパング用の検索仕掛けのサイトをつくってくれると、利用者が多いと思うのでぜひ開発してほしい。
 あ、そうか、鉄道利用者は多いがインタネット利用者がすくないのか。

2011/02/28

391エッセイコンテスト

 このところエッセイのコンテストに応募することに凝っている。
まちもり通信」や「伊達な世界」に書き込んできたことを、募集のテーマと規定に沿ってエッセイに仕立てるのである。
 今日発表あった「風花随筆文学賞」に応募していたが落選した。
 その内容はこのサイトに「法末の四季」としていくつも書いていることのなかで、「棚田の米つくり」についてエッセイ風にまとめたものである。
 農村や高齢問題をからませたつもりだが、入選作を見るとどれも身辺の家族のことなどが主題で、中味が軽いのである。
 先月落選した「安曇野エッセイ賞」もそうだったが、入選作を読んで分ったのは、これは観光宣伝が主催者の目的で、安曇野賛美の軽い内容ばかりであった。
 それなのに、わたしときたら安曇野にもう行かない、なんてことを書いてしまった。これでは落選は当たり前だ。
    ◆
 まだコンテスト初心者であるとつくづく思った。むかしむかし建築や家具のコンペに出した頃のことを思い出すと、戦術を忘れていた。
 1月に表彰式があった「ホームページコンテスト」は、シニアの部優秀賞にひっかかったが、全体ではかなり下位の入選であった。
 わたしは景観の変化について社会批評をした作品のつもりだったが、それは評価されなかったらしく、表彰式会場での作品紹介では、美しい風景に詩が書きそえてあると言われて、ほんとにがっくりしたものだ。入選はどれも事実報告の努力賞的なものが多かった。
 入選するための戦術は軽く軽く書くことであるらしいが、ただいま応募済みで発表待ちがいくつかあって、軽く書いたものもある。さてどうなるか、タノシミ。

2011/02/23

387雪とロボット

 2月14日といえばバレンタインデー、それと何の関係もない同年の仲間3人で、甲府郊外の山を歩いてきた。
 薄曇りで寒いが、先日の雪が林床には10センチくらいあって、面白いトレッキングであった。
 そう、この仲間はネパールに仲間であるから、トレッキング練習なのだ。
 登る途中で、父がかつて権禰宜を務めていた神社の方から電話あり、わがサイトの「父の十五年戦争」を見たとメールを下さった方の祖母と母親(らしい方)からで、なにやら親父のことを長々と歩きながら聞いた。
 山中でラーメンを作って昼飯、3時頃下山して、公衆浴場に行き、ファミリーレストランで夕食。雪が段々と積ってきた。韮崎穴山の仲間の家に行き泊まる。
 翌朝起きてみれば快晴、30センチくらい積雪、雪かきをするが、昨日でなくてよかった。でも法末の4メートルに比べるとあかんぼ並み。桃畑の向うに甲斐駒がけぶっている。
 畑に行ってみると、わたしの設計施工の小屋が雪帽子をかぶってけなげに建っている。期待の焚き火をできなかったのが残念。
 山梨大学の森研究室に行き、盲人歩行ガイドロボットデザインとネパール予習をする。
 ロボットカバーのデザインが、ロングスカートみたいで野暮ったいので、一部を切ってミニスカートにしてかわいらしく直した。

219大人の火遊び http://datey.blogspot.com/2009/12/219.html
136小屋を建てる http://datey.blogspot.com/2009/05/136.html
094ロボット車いす「ひとみ」http://datey.blogspot.com/2009/02/blog-post_09.html

2010/07/09

289【お遊び】やまももでジャムをつくったら美味い

 ヤマモモの実でジャムを作った。
近くに住む旧友のF田さんからメールが来た。庭にあるヤマモモの木に、沢山実がなったから取りの来いととのこと。
 ふた月ばかり前にも、サクランボの実がなったから来いとのメールで、大喜びで自転車で駆けつけた(このことはコチラ)のだから、持つべきものは旧友である。
 今度は暑いから自転車はやめて、おなじ同期生の旧友のY崎さんの車に拾ってもらった。

 庭のヤマモモの木は、背丈の1倍半ほどでさほど大きくもないのに、実は沢山ついている。老人3人で夢中で採って10キロほどにもなったろうか。
 売ろうってのじゃないから少しでいいのだけど、なんだか食べ物を残してはいけないような気分で、ついいついムキになった。それでもまだ残した。
 F田夫人も一緒になっって与太話しつつ、お昼ごはんもご馳走していただく。
 採ったヤマモモを山分けし、Y崎さんが持ってきた自作の野菜もいただいて、お土産の山を抱えて戻りついた。
    ◆
 ヤマモモは焼酎やブランデーにつけて果実酒にすると美味いそうだが、わたしは酒は酒で飲むべしとのマニフェストの飲酒党員だから、ジャムを作ることにする。
 WEBサイトでヤマモモジャムの作り方を検索してみると、これはマーマレードよりは簡単そうである。実が腐りやすいとあるので、さっそくジャム製造に寄りかかる。

 全部で6キロくらいはあるだろうか、丁寧に洗い、若い実はどけて、できるだけ熟したものに精選すると、7割くらいになった。
 これをホーロー鍋二つに入れて軽くゆでる。
 荒い金網笊で裏ごしをする。これがいちばん面倒であった。
 種と果肉とのまじったものすごく沢山のゴミが笊の上に出て、せっかくいただいたのに、こんなに捨てるのかとちょっと気が引ける。

 汁と裏ごしされた果肉とは鍋ひとつに納まったので、これを煮詰めていく。
 砂糖を400グラムくらい加えて、かきまぜつつ、あくを掬い取る。レモン半分をスライスして入れる。
 さて、だんだん少なくなってきたが、マーマレードみたいに粘り気が出てこない。いつまでもサラサラのコンクジュースである。
 どのあたりで火をとめるか悩んだが、残量がこれ以下になるとあまりにも少なすぎてもったいないなあ、エイヤッと完了。
    ◆
 市販ジャムの空き瓶2つ半が製品となった。原料からの激減が悔しいような、もったいないような。減らすために投入したガスと人力のエネルギーに見合う味であれば良いが、、。
 しばらく冷まして味見である。プレーンヨーグルトに入れて食えば、おお、美味い!

 そこで味比べをしたのが、お土産にいただいたF田夫人製ヤマモモジャムである。おお、わたしのと同じくらい美味さである、ということはわたしの初めてのヤマモモジャムは大成功したのであった!

 Y崎さんからの玉葱とレタスもサラダにして一緒に食べると、これはまあなんと幸せなことか。
 もらいものだけで幸福になれるなんて、やはり持つべきものは旧友である。
 あ、待てよ、オレはお二人に何もさし上げていないなあ、コチラへの一方通行か、、う~ん、、ま、いいか、、お二人に感謝。 

2010/05/10

266【老い行く自分】さくらんぼ狩りをして少年時代の神社境内の生り物の味覚を思い出す

 サクランボを木から直接とって食べ放題、そんな贅沢をした。近くに住む友人の庭木である。実の付いた枝を折ってもらってもちかえった。
 太陽の下で、赤い実を一粒づつつまんでは口に入れていると、思い出したのは少年時のこと、生家の神社境内にあったユスラウメを同じようにして食っていた。
 そういえばその頃、本当にサクランボを食ったことを思いだした。参道の石段沿いに山桜と八重桜があり、そのなかに花が散ったあとで大きめの実をつけるものがあった。
 濃い紫色になる頃に食べると、口の中が紫色になった。ただし美味くはなかったから、味を試す程度だった。今のようなサクランボがあることを知らなかった頃のことで、これをサクランボといっていた。
   ◆
 境内の広場の周りや山林には、いろいろな木の実、果実が四季に応じて勝手に実った。何の手入れもしていないが、そういうものであった。
 戦後の食べのもののない頃は、腹の足しにするおやつでもあった。子どもはそれで四季を知る。
 春の桃は数個が生った。昨今の店に並ぶものと違って、歯ごたえがあり、ほんのり甘くほんのり酸っぱかった。懐かしい味だが、もう出会えそうにない。
 梅の実はたくさんなった。母が梅干を作っていたこともあった。
 広い斜面の竹やぶには、マダケのタケノコがたくさん生えてくる。ちょっととって来てと台所から母に言われて、崖上から身を乗り出しタケノコを折りとった拍子にヤブの斜面をずり落ちたことがあった。
   ◆
 夏になるとユスラウメとグミである。たくさんの実をながい間にわたって食べさせてくれる。グミといわず違う名であったが、思い出せない(追記100620 これを読んだ高校同期の女性がメールをくれて、30分考えて「ぐいび」といったと思い出して教えてくれた)。
 秋は銀杏の巨木から、たくさんの臭い実が落ちてきた。拾い集めて樽に入れてかき回して皮と種を分離する。種を干しておいて貯蔵し、ホーロクで炒って食べた。そういえば焙烙なる素焼き陶器の台所道具は、今もあるのだろうか。
 林の中の一角にキノコが群生していて、これは食べられたが、なんと言うキノコだったのだろうか。
 山栗のイガがはじけて落ちてくる。朝早く拾わないと、散歩に来た人に拾われてしまう。鎮守の森の山林のあちこちに栗の木があるのだが、これはその場所を知っている境内の住人のわたしの秘密の場所である。
 甘柿渋柿2本の柿ノ木には、1年交替でたくさんの実がなった。渋柿はゆでて甘くした。
   ◆
 冬はなにかあったろうか。そうだ柚子があった。濃い緑の葉の独特の香りと、棘を思い出す。葉を食って育った大きな毛虫が、そのまま柚子の葉のにおいを発散していた。
 父が京都の苗木屋から取り寄せて植えた果実の木があった。その名は「チンカポポー」。幼児の耳にも覚えていて、どんな実が成るかたのしみだった。だが、この木は大きくなるばかりで、一向に実がならないままだった。チンカは珍果であったらしい。
   ◆
 ずっと後に鎌倉に住むようになり、庭にユスラウメとグミを実らせたのは、思い出の再現である。
 庭に実生で生えてきた枇杷の木を大きくしたが、これは実が出るとすぐにリスに食われてしまって、めったに人間の口に入らなかった。
 その裏山には栗の果樹園があった。栽培中は入れないが、終わると入れたので枯葉のなかに拾い残しを拾った。キノコも沢山出ていたが、さすがにこれは採集する気にはなれなかった。
   ◆
 サクランボの友人の庭にも、たくさんの実のなる木があった。梅、ヤマモモ、甘夏、みかん、柿、キウィ、ユズなど、味で四季を感じさせる。この元プラスチック技術者は、玄人大工はだしのDIY趣味の延長上で果実作りもやっている。
 韮崎にいる友人もいろいろな果実をつくっているが、こちらは庭ではなくて広い畑である。ここのサクランボはまだならない。リンゴ、ソルダム、栗などとともに、何種類もの野菜も植えていて、この情報工学の専門家はロボット盲導犬の開発に忙しいが、農作にも忙しい。

 参照→136小屋を建てる 025今もし失明したら

2010/05/02

264【各地の景観】スイスアルプスのアイガー北壁

 ドイツ映画「アイガー北壁」を見てきた。
 映画館に入ったのは何年ぶりだろうか。
 シネなんとかっていう、いくつも映写ホールのある映画館だが、スクリーンがずいぶん小さいし、客席も100人もはいるだろうか。8割くらいのいりこみだった。
 老人料金は1000円であった。さてこれは高いのか安いのか。もうちょっと待てば、近くの貸しディスク屋で老人料金200円で1週間かりられる。

 どうして見に行ったか。
 大学時代の山岳部仲間から、面白かったというメールが来たこと、昔々、この映画原作となっているハインリッヒ・ハーラー著「白い蜘蛛」を読んだ記憶があること、そして2006年6月にわたしはアイガー北壁を登ったことがあるからだ。
 登ったとは、北壁の中のトンネルをユングフラウ登山鉄道で登ったのである。
 それにしてもこんなところを電車を通すなんて、ものすごいことをやるものである。今なら環境保護派が承知しないだろう。
 長いトンネルを掘ったズリを、北壁の横にあけた穴から下に落としたのだそうで、途中の駅でその穴から外をのぞき見ることができる。

 ユングフラウ・ヨッホからの帰りには、トンネルを出たところのアイガーグレッチャー駅で途中下車し、歩いて下山を始めた。
 左にメンヒとユングフラウを眺めつつ、アイガー氷河に沿って下る。氷河の末端部が滝のように崩れ落ちる巨大さやら、その汚れやらに驚嘆する。
 とにかくあらゆる風景がスケールが雄大であり巨大であることに驚いている。

 放牧の牛の糞だらけの草原を下って、クライネシャイデック駅につく。ここのホテルが、北壁と共にもうひとつの映画の舞台であった。
 北壁の雪と氷と岩の壁に宙吊りとなって苦闘するトニー・クルツたちの苛烈な風景の映像が突然に一転して、暖炉の火の燃える温かく優雅なホテルの内部に替わる。
 この極端なる対比を映像は狙っていたのだろうが、ちょっと常套的すぎる。

 対比といえば、当時(1936年)のナチの台頭による政治的な様相を、オーストリア併合の問題も含めて、このアイガー北壁登攀に絡ませていることも、違和感があった。
 もちろん原作にはそんなことは書いてないのである。
 ただ登りたいだけのアルピニストに、政治を絡ませるのは映画としてはありうることだ。ただし、描き方がどうもとってつけた感があり、どこかしっくりこなかった。

 クライネシャイデックで一息入れて、右に方向を変えて下っていく。今度は右にアイガー北壁の正面をいつまでも眺めていられる。
 下のほうはよく見えているのだが、上方の「白い蜘蛛」辺りから上は雲の行き来が忙しい。あまりに巨大すぎて、見上げる首が痛い。足元に注意しつつ真正面から見上げるアイガー北壁を堪能する。
 これだけでかいと日本の山の岩登りはものすごく小さく思えて、ルートハンティングの勝手がおおいに違いそうだ。
 なんだかどこでも登れそうだが、はっとスケールを勘違いしていることに気付き、どこも登れそうにないと見えてくる。
 
 赤い断崖の下あたりや、その左あたりにいくつかの穴が見える。左の穴は窓になっていて、アイガーヴァント駅のところで、登りには途中下車してそこからこちらを見下ろしたことろだ。
 右のほうの穴は、最後にトニー・クルツ救助隊がここから北壁に取り付いた。
 悲劇の主人公トニー・クルツの恋人はここから出て、トニーを励ましつつ、氷の岸壁で夜を明かしたし、目の前にぶら下がるトニーの死を見つめることになる(原作にはない)。
 この女性を登場させるのも、映画の常套手段として、もっともらしいことであるとは思った。
 トニークルツに肩入れしたい昔山岳部としては、彼女をもっと純粋な形に登場させてほしかった。

 さて、たっぷりと北壁の眺めを味わいつつお花畑を下っていった。仲間は咲き乱れる花にしゃがみこんだりしているが、わたしはもっぱら見上げているばかり。
 そうやってアルピグレン駅まで歩き、また登山電車でグリンデルヴァルトに下った。

 映画の原作といっている「白い蜘蛛」を、昔々わたしは読んだ覚えがあるのだ。学生の頃だろうか。
 その中にあった一枚の写真、トニー・クルツがザイルで空中にぶら下がる姿に、強烈な印象をうけたのだった。救助のために出た坑道辺りから撮った書いてあった(ような気がする)。

 映画を見てきて、「白い蜘蛛」を県立図書館から借りて再び読んだ。奥付を見ると、1938年に初登攀したハイリッヒハーラーが1958年に出版した「DIE WEISSE SPINNE Die Gschichte der Eiger-Nortwand]で、日本では「白い蜘蛛-アイガーの北壁」と題して1960年に横川文男訳で出版している。
 ところが不思議なことに、そのトニー・クルツの写真がないのである。ということは、わたしの読んだのは別のなにからしいが、いったいそれは何だったろうか。

 岩壁登攀の映像は、かつて岩登りをしていたことがあるものから見ても、なかなか迫力があった。
 「アイガーサンクション」という映画があったが、岩壁登攀映像はインチキ臭くて、見るのがバカらしくなったものだ。
 ただ、岩登りをしていたものや、登攀ルートの知識のあるものには興味深いが、それだけに物足りない感がある。
 もっと事前のルートハンティングや、現場でのルートファインディングの苦労を見せてほしいものである。

 逆に、岩登り知識のないものには、場面場面の迫力はあるが、なぜそうなるのか全然分からないだろう。自然は厳しいものだなあ、てなくらいなものだろう。
 まあ、娯楽映画はそんなもんだ、といえばそうなのであろう。
 日本の山岳映画として最近評判になった「剣岳 点の記」よりははるかによかった。「点の記」はストーリーがなってないし、風景映像は美しいが順序がでたらめ、下界でのあれこれ場面がなんで必要なのかさっぱり分からなかった。

●参照→昔山岳部●参照→・ヨーロッパアルプスは棚田だった(2006)
http://homepage2.nifty.com/datey/swissalps.htm

2010/04/21

261【言葉の酔時記】腹立ち猜時記

 コンピューターを毎日いじっているが、まったくもってこんな役に立つ機械は無いと思う。わたしの人生がこれに間に合ってよかったとつくづく思う。
 その一方で、こんな未完成なものを売りつけてけしからん、そのうえ使い方の説明の日本語がまったくもってなっとらんと、腹が立つ毎日である。
 コンピューターばかりか、世の中分からんこと、なっとらんこと、そして危ないことが増えてくる。
 例えば、電気自動車なんてものをもてはやすのが分からない。
 電気自動車は排気ガス出さないけど、電気を製造するときにガスも核廃棄物もどしどし排出しているから、これはちっともクリーンじゃないぞ、なっとらん。
 もうひとつ例えば、大規模超高層マンションである。
 あんな危険きわまる代物を、どうして世間では売り買いするのか、まったくもって理解できない。阪神淡路大震災であれほどその危ないことを証明されたのに、もうわすれたのかしら。
  ◆
 アラウンド古稀のわたしはアラコキというらしい。ウソコキも上手になった。
 アラコキほどの馬齢を重ねると、そしてそれなりに知識は多く積み重なってくる。
 そしてまた、それなりに枯れてきたり、余裕の心になってくるはずである。
 ところが、わたしの知識と世の中の知識が、どうもずれて来ている様子があるのだ。
 だから、世のものごとがどうもおかしなこと、わからないことが多くなり、それが腹立つのである。
腹立つ方向は、なにも人様ばかりではなく、自分自身に対して腹立つことも多い。
 食い物に関しては、年とると不幸なのは、どんなに美味いものを食っても、どこかでこれより美味いものを食ったなあ、思い出すことである。
 若い頃はなにを食っても美味いと思っていたのに、不幸になった。
 変な言葉遣いをする若いやつらに出会うと、そんな口の利き方は無いだろうよと言いたくなるが、そこは我慢して腹が立つ。
 そう思って腹を立てる自分に腹が立つ。もっと素直に、美味いもの食ったときは真直に喜び、若者の感性を理解しろと、自分に言い聞かせる。
 あ、いかん、年寄りの愚痴を言うのではないのであった。
   ◆
 そんなことを「伊達な世界」ブログ「まちもり通信」サイトに、グダグダだととりとめもなく書き連ねてきた。あまりぼう大になったので、その中でいくつかを採り上げて、カテゴリーごとにまとめて編集してみた。
 実は5年ほど前にも同じようなことを考えて、そのときは書籍にして出版しようかと考えた。
 だが、これだけインターネットが普及すると、紙情報よりもこちらのほうがよさそうな感じになってきた。
 売れなくて抱え込むことは無いし、わたしが死んでも絶版は無いし、何時でも追加訂正できるし、制作費も送料もほぼただ同然である。
   ◆
 というわけで、題して「腹立ち猜時記」である。
第1章 自分のPCなのに分からん
第2章 ブログが分からん
第3章 ハイテクITが分からん(業界編)
第4章 ハイテクITが分からん(言葉編)
第5章 デジカメが分からん
第6章 電気自動車が分からん
第7章 電話もテレビもおかしい
第8章 日本語がおかしい(会話編)
第9章 日本語がおかしい(単語編)
第10章 医療がおかしい
第11章 マンションがあぶない
第12章 東京駅があぶない
   ◆
 ところで、これについて面白いことがあった。
 WEBサーフィンで偶然に「作家になろう」というサイトを見つけた。サイトの管理者はインテルとあるから、アメリカのハイテク企業らしい。
 小説とかエッセイとか日記とかの原稿を、そのサイトにあるシステムに投稿すると、そのサイトの中で書籍のような形にして読むことができるのである。
 もちろん投稿すればそのまま公開されるのではなくて、管理者のインテル側で審査して、公序良俗違反とか特定宣伝とか誹謗中傷とかあれば、公開掲載不可となって書き直しを求められる。
 そこで、この「腹立ち猜時記」を投稿したのである。各章ごとに審査をするのであるが、結果は見事にどの章も公開不可となった。
 いくつかの章はコンピューター屋を罵倒しているから、あちらから見れば誹謗中傷に読めるのであろうから、それはしかたがない。ほかの章がどうしてNOなのかは分からないが、それなりの企業判断があるのだろうから、それもしかたがないか、。
 そこで、ためしに「横浜B級観光ガイド」を投稿してみたら、これも全章が公開不可の通知が来たのであった。
 う~む、オレはそんな無茶を書いているのかなあ、、、世の中が分からなくなった。

2010/04/20

260【各地の風景】今、甲州は桃源郷

 いま甲州は桃の花の盛りとて、畏友を訪ねて韮崎へ。
 韮崎には新府城跡がある。新府城跡から見下ろす一面の桃の花のじゅうたん、その向うに雪をかぶる八ヶ岳がぎざぎざした山稜の連なりを見せていた。
 おきまりの桃源郷の風景だが、去年は雨で八ヶ岳が見えなかった
 甲斐の武田氏は、ここが滅亡時の最後の城だそうだ。
 周りに土塁や堀を巡らせた小高い丘の上に築いている。中世から近世への過渡期の城郭であろうか。

 城跡には武田氏を祀る藤武神社がある。今日はその祭礼に日とて、神楽の笛の音とカラオケらしい歌声とがこんがらがって聞こえる。
 急な100段以上はありそうな階段を息を切らせて上る。
 社殿そばの舞殿では、いましも神楽が進行中。見れば、翁が鈴を持って舞っている。神楽面ではなくて能面の切り顎の白式尉の翁面である。
 畏友にきけば、神話による神楽を行なうというが、今日は畑仕事が待っている。来年の祭礼にでもまた見にこよう。

 山上の広場にはたくさんの屋台が並び、焼そばやらの匂いが漂う。
 広場の向うには舞台もあって、いましもオバサンがなにやらカラオケ唱歌中である。神楽の笛と音が入り混じるのが困る。
 いつもは禁止だろうが、今日はたくさんの乗用車が登ってきている。松林の中が駐車場となっていて、どうにもこの風景はキライである。

 林の中を下って、観光客が通らない桃畑の道を抜けて歩く。ピンクの花の向うに八ヶ岳や富士山の白い山容をすかし見つつ、桃源郷を堪能する。
 もっとも、桃の花の本質は観光ではないから、これから花を摘んでいくので、桃源郷の風景は一気に褪せてしまう。摘んだ花から花粉を採って、また桃畑の残りの花に吹きかける作業をするのだ。こうして受精させて、果実を実らせるのである。

 ここは八ヶ岳噴火の溶岩台地のうえで、水はけが良いので桃の美味しく実るのだ。
 それでも観光客が通る道筋の桃畑では、道沿いに菜の花を咲かせている。黄とピンクとは取り合わせがなかなか良い。

2010/04/07

257【お遊び】桜5景

 この季節は、やっぱり今は桜の花のことを書いておこう。
 母校の大学に花見に行った。本館前庭にたくさんの大木にはながさきみだれている。
思えば1957年に入学したときはほんの3mにも届かない若木の林であった。
 その林の中を行き交い、毎水曜土曜の山岳部トレーニングの二子玉川マラソンはここから出発して、ここに帰りつき、体操をし、スロープでうさぎ跳び、石垣で岩登り練習であった。
 その若木はいまや老木となって、花は美しいが幹は真っ黒で瘤だらけ、つまり、これはわが姿であるのだと感慨を催すのであった。

 久しぶりに五反田に行く。
 89年から2000年までここにオフィスを構えていた。
 90年にその前の道の歩道に桜の若木が植えられた。2年ほどで桜は咲き、2階のオフィスのわたしの席のまん前が花のカーテンとなった。
 この桜も道路の上空をトンネル上に覆って、花のカーテンは4,5階あたりになっている。この若木は育ったが、こちとらは年取った。

 横浜のわたしの近所では、大岡川の両岸が美しい。屋台がたくさん出ていて、懐かしい花見が風景が広がる。
また、半世紀ほども前までは遊郭だった真金町には、誘客がそぞろ歩きした広い道があり、その中央に桜が植わっている。その昔なら紅灯に映えていたのだろう。

 山梨県の塩山市で、昔々数年にわたって仕事をしたことがある。
 あそこは今頃は桃源郷にふさわしい景色だ。風景が一面に桃色に霞んでいる。
 そこの慈雲寺に巨大な枝垂桜がある。
 あれはもう30年も前のこと、その花の下で美しい女性たちがお茶会をしているところに出くわした。上に桜花の瀧、下に緋毛氈の波、そこに和服の女性たち、これはこの世のものとも思えなかった。

 能「紅葉狩」は秋の妖怪変化の出来事だが、これは春のそれかと思うばかりであった。
 そこを再び訪ねたいと思うばかりで年月がすぎていく、ああ、行きたや、行きたしと思うとすぐに実行しないと、来年があるかどうか分からない年頃になった。本当にそんな悲しいことが、もうあれは10年も前だったか、病を得た飲み友達に起きたことを思い出す。

 今日は松田町に花見に行く予定だったが、雨で延期である。
 花見にも行くのだが、本来の目的は父が十五年戦争参加の最後の任地、つまり敗戦を迎えたところが松田だったので、父が眺めた風景を見に行こうと思ったのだ。
 もしかしたら、父が掘った塹壕の跡があるかもしれない。戦争遺跡を訪ねるのである。

2010/01/07

226【お遊び)リンゴジャムを作る

昨年11月に、韮崎に焚き火に行ったとき、友人からたくさん貰ったリンゴが、冷蔵庫に未だにあるので、思いついてリンゴジャムを作ることにした。
 以前に福岡の友人から貰った夏みかんでマーマレードを作ったことがあるから、すぐにインタネットでレシピ検索である。便利である。

 いろいろな造り方を読んで、マーマレードに比べるとずいぶん簡単なので、適当に覚えて製造にとりかかった。
 リンゴ3個を芯だけとって、皮をつけたままざくざくと適当に切りつつ、塩水につける。これは色が黒くならないためらしい。
 無水鍋に、水を切ったリンゴをいれ、レモン1個を絞りかけ、甜菜糖約350グラザーッと入れて、木の箆で適当にかき回す。
 火をつけてしばらく見ているとどんどん水分が出てくる。適当なところで蓋をして、弱火で約30分、開けてみるとやわらかになっているので箆でつぶす。
 適当につぶしたら火を止めて蓋をして、そのまま冷めるまで放置。

 並行して、できあがったジャムを入れるため、市販ジャムの空き瓶を大きな鍋に入れ、熱湯で煮沸する。これは保存ジャムにカビが生じないようにするためである。
 しばらくして、熱湯消毒の瓶も無水鍋も熱さが取れたので、ジャムをすくって瓶に入れた。結局瓶は2個で納まった。ずいぶん減るものである。

 味見をすると、結構美味いのは自分が作ったからである。
 でも、こんな甘いものはたくさん味見できないから、明日の朝食の紅茶に入れるのを楽しみにして、今日の作業はおしまい。

(次の朝の追記)いつものようにロシアンティーにする。今朝はマーマレードではなく、手製のリンゴジャムである。
 おお、美味い、自作ジャムは美味い、ジャムだけでは甘すぎるのが、紅茶の中でほどよい香りほどよい甘さである。
 小市民的しあわせとはこういうことであるか。次は自作の米でドブロク密造だな。

2009/12/23

219【お遊び】大人の火遊びをやりに山梨県の韮崎まで行ってきた

 大きな焚き火をしてきた。火遊び仲間4人は同年だから、焚き火は当たり前の時代に育ったから、懐かしいイベントである。
 焚き火をしたいために、3人がわざわざ横浜から出かけて、韮崎市内に住む友人の広い畑で、倒した木の枝を積上げて盛大に燃やしたのだ。
 今はCO2の排出が増えるとかダイオキシン発生とかで、焚き火はどこでも禁止らしい。世知辛くなったものである。
わたしは森の中の神社で生まれ育ったから、冬の朝は広い境内からはき集めた落ち葉を盛大に燃やす焚き火で身体をあっためてから登校したものである。お正月の初詣の人たちも皆焚き火の周りで暖をとっていた。
 40台で鎌倉の一戸建てに移ったときに、庭でやりたいことのいちばんは焚き火だった。喜んでやっていたのだが、しばらくして近所から文句が来た。なにせ狭い敷地だから煙はどんどん隣に行くのである。そうか、ここは一山の森がある神社の境内ではないのだと気がついて、止めざるを得なかった。
 昨年から年に1、2回、韮崎まで焚き火に通っているのである。ぜいたくな大人の火遊びである。

 ●参照→108焚き火http://datey.blogspot.com/2009/03/108.html

2009/05/29

136【お遊び】友人の畑に作業小屋を設計施工で建てたのだが、、

 何十年ぶりだろうか、建築の実施設計図を描き、しかも初めて施工までした。
 といっても、わずか1間半×半間の物置小屋である。家具というには大きく、建築というには小さすぎる。

 韮崎に大学同期の友人Mが住んでいる。ロボット工学(情報工学かもしれない)が専門らしい国立大学名誉教授だが、自宅のそばにざっと千平米もの大農園があって、なにやら農作業もしている。
 その半分以上は雑草を育てている気配だが、その中にリンゴ、サクランボ、ナシ、クリ等の果樹が、まだ背丈くらいだがあちこちと植わっていて、その下にはてんでな方向の畝に、イチゴ、アスパラガス、トマト、チンゲンサイなどが育っている。ミョウガやフキは適当に生えてくる。てな具合の楽しい農作遊びをしているらしい。

 この3月に遊びに行ったとき、「雨水貯留装置プロジェクト」を手伝った。畑にやる水を、家の水道からバケツで運ぶのがいやなので、畑で雨水を貯留しようというのである。
 ようするに畑よりちょっと高い道端の地面に青テントを敷いて、そこに降った雨を低いほうの角に流して如雨露でタンクに流し込友人も畑にむという、不精なものである。一応は水がよく貯まっているという。
 雨が降らないと役に立たないのが難点であるが、雨が降ると畑に水をやる必要がないという矛盾もある。

 その次は、畑の隅に「肥料や農機具の収納小屋プロジェクト」であり、手伝ってくれと、Mは言い出した。

 家の裏壁に寄りかかる半間角の農具の物置があり、Mが木材と塩ビ板で自作しているのだが、どの面も長方形ではなくて平行四辺形というデザインに、少しは自覚して困っているらしい。

 そこで、昔々建築家のわたしに、既製品物置が簡単だけど、味気ないから設計しろ、という。ふん、面白そうだ、たかが物置だ、それくらいなら設計できる腕前は、まだ残っているだろう。
 で、二人でホームセンターに行って、日曜大工用品売り場をうろうろしながら、あれを使いこれを使いとアイデアを出し合った。
 それから2ヶ月くらいあれこれとメールやり取りして、設計図はできた。もちろん自分たち素人が施工するのだから、それなりの能力に見合うものでなければならない。
農作業小屋の設計図 
型枠用36べニア7枚から部材をきりだして組み立てる
建築設計やる者は当然に施工もやるものだと、Mは思い込んでいるらしかったが、わたしは施工なんてしたことがない。現場で施工業者に文句をつけた経験はある。
 1間半×半間の大きさにすると決まって、CADソフトなんて持っていないから、ペイントで設計図を描いたのだった。

 設計の一番のポイントは、2つの既製品スチール製棚を買い求め、これを1間半×半間の床板の上に左右両方に向かい合わせに立てて、この周りをベニヤ板で囲めば、スチール棚が定規になって、素人でも直方体がかっちりと建ち上がる、という点にあった。

 さて、基礎のブロックまではMがひとりでやって、5月27日午後、わたしとMは例のホームセンターに材料買出しである。
 ベニヤ板はコンクリート型枠用の、片面に防水コーティングしてあるものを求め、これを設計図にしたがってホームセンターで裁断してもらった。
   
 次の日からいよいよ施工である。朝5時起床でとりかかる。わたしはいつもは10時頃起きているので、時計が5時間も戻った。
 なにしろ、オーナーのMが早起きだから、設計施工出稼ぎお遊びボランティアのこちらは、泣く泣く目ヤニをこすりながら従う。

 まず、床板をブロック基礎の上に置く
 この上に、組み立てておいたスチール棚を持ってきて立て、3方にベニヤ板を取り付けていく。
 ここでもう、大変な見込み違いに気がついたのであった。

 そのスチール棚が定規になるどころか、なんとヘナヘナ鉄板づくりでベニヤ板のそりに負けてしまうくらいだし、直方体どころかM自作の物置なみの平行四辺形になるのだ。え、ナンだよー、おまえは鉄だろ、木に負けてどうする~。

 でもいまさらしょうがない、ヘナチョコ鉄棚をなだめすかし、ぶったたきながら、ベニヤ板をボルトで取り付けていくと、何とか納まったようである、まあ、近くによって見なければ、、。
 この治しきれないスチール棚ひずみが、後々まで響いた。この次には(そんな機会はないが)スチール棚を使わないぞ、ベニヤ板だけでやるぞ。

 そうやって片方の棚が立ち上がり、もう一方が立ちあがりそうな時に、突然の雷鳴、土砂降りになった。あわててビニールテントなどかけて、家に退避して休憩である。
 わたしの予定では1日で組立完了、次の日は補修とペンキ塗りで全部完了のはずが、この日は、昼寝(朝早いので)、雷雨で4時間あまり作業しなかったので、両方の棚を立ち上げて繋いだところで日没、床と壁はあるが屋根も扉もなくて終了となった。
施工順序
次の日も5時起きである。空が怪しい、そのうちにしとしとやって来た。いそいで屋根板を組み合わせ、乗せて取り付ける。
 雨は降り続き、雨具を着て作業である。とにかく屋根の取り付けまですれば、なんとか文字通りに雨露をしのげる。結局のところ、扉の取り付けと、細かい補修や補強を残して、昼過ぎに引き上げ、今回の工事はここまでとした。

 材料費は3万円ちょっとくらいだったから、既製品を買うよりもかなり安い。
 久しぶりの建築もどき日曜(正確には水木)大工仕事は、実に楽しかった。設計中も、久しぶりに昔のようなものづくりの知的興奮をちょっとだけ持った。
 Mも喜んでいたから、あとは畑作業の合間にぼちぼちとやるだろう。

(追記:6月9日)完成したとMから写真が来た。まあまあのできである。

 関連→119桃と桜花そしてブナの森へ

2009/02/22

099【京都見物】能「田村」そっくりの幻想の清水寺

久しぶりに京都に3日間遊んできた。
 1日目はバスで動いたが、上賀茂神社の社家町(重伝建地区)、西陣電話局(岩元禄設計)を見た。
一条戻り橋の晴明神社を訪ね、夜はRIA時代の旧友たちと町屋の料理店(秦家)で遅くまで話し飲み、烏丸御池のホテルに泊まった。

 2日目は地下鉄北大路駅から歩き出し、加茂川を飛び石で渡り(ちょっと怖かった)、岩倉の円通寺で庭を見て、借景問題で考えることあり(→怨念の景観帝国

 電車で鞍馬駅まで行って、小雨の中を歩いて鞍馬寺の本院までよたよた登る。
 時刻はすでに15時15分、ちょっと迷ったがままよっとばかり山道を奥の院へ登り、貴船の鞍馬西門にむけてくだる。この間、寺の人を別にして鞍馬山中で行交ったのは女6人、男2人であった。
 西門から貴船神社奥宮まで往復してきたら、夕暮れになった。

 貴船口駅まで歩き電車にのって岩倉で降り、国際会館前駅のそばにある平安教会山口文象設計、プロポーションよくないをみて、地下鉄でホテルに帰ってきた。
 寒かったが、人の極端に少ない洛北の冬を満喫した。

 3日目は、大原に行こうかと思ったが、毎度京都訪問の定番コース東山に行こうと、京都駅から歩き出す。
 土曜日でさすがに人出が多い清水坂の混雑を避けて、大谷本廟から鳥辺山の墓地を抜けて登れば、閑静なものである。 
 三寧坂、二年坂から八坂に抜けてバスに乗り、帰宅の途についた。

                ◆
 清水寺の舞台の手前で鳥辺山方面を眺めていたら、同年くらいの男が横に立って、「清水はいま工事ばかりです」という。
 なるほど、見渡せば、舞台の足元はブルドーザーがうなっているし、子安の塔には足場が組まれている。

 おお、そうですねえ、と言いつつ見れば、その人は清水寺の人らしい仕事着である。
 「花守ですか」としゃれようかと思ったが、まだ花には早い。
 「こちらのお寺の方ですか、よろしければ教えてください」
 そして話は、この寺を創建した坂上田村麻呂のこと、見渡す眺めの音羽山や鳥辺山、遠くの東寺など名所を教えてくれる。
 10分ばかりすると時計を気にしている様子、質問を切り上げてお礼を言うと、人ごみの中を田村堂の方にそそくさと消えた。
 おお、これは、能「田村」の前場に、まるでそっくりである。

 能では、東国から旅の僧(ワキ)が京にやってくる。折から花のさかりの清水寺を訪ね、そこに現れた箒をもった童子(前シテ)を見て、「花守か」と問うのである。
 能のこの前シテは「花守の宮つ子」と答え、問われるままに清水寺や地主権現の由緒を語り、眺め渡す景色の名所教えをして、忽然と田村堂の中に消えるのだ。

 わたしは本堂舞台、地主権現、子安の塔、音羽の瀧と一巡して元に戻り、順路と逆に入り口から出ると、どうもありがとうの声に2,3歩行って振り向けば、先ほどの人がにっこり笑って手を上げている。拝観券のチェックをしているのだった。

 「門番の宮つ子」の彼は、田村堂のそばに立って見送ってくれる。こちらも手と笑顔で答え、清水を後にした。
 能のように夜までここに居たらば、坂上田村麿(後シテ、観世流の能ではこう書いてサカノウエノタムラマルと発音する)の姿で出現して、戦いの様子を語り舞ってくれたかもしれないなあ。

 そういえば今回は、「田村」と「熊野」の清水寺、「鞍馬天狗」の鞍馬、「金輪」の貴船(安倍晴明も登場)、「賀茂」の上賀茂神社と、図らずも能楽の現地を訪ねる旅であった。
 京都はどこを訪ねても、そういう歴史舞台であるということだろう。


2009/01/02

079【世相戯評】箱根駅伝実況放送のTVで無神経きわまるビール屋のCM

だから商業放送は嫌である。
 今日、たまたま箱根駅伝競走のテレビ中継の、箱根の山登りあたりから見始めた。
 もっとも、見る目的は駅伝競走にあるのではなくて、宮の下にある山崎発電所取水堰(山口文象デザイン)が画面背景に写るのを見ようと思ったのだ。

 おお、あれだあれだと取水堰を見ていたのだが、そのうちに駅伝競走が気になってきた。
 早稲田大学がトップを行くのだが、次第に山梨学院大学が追い上げてきて、デッドヒートになってきた。抜きつぬかれつ、おお、すごい、どっちもがんばれ、いけいけっ、アッ突然画面が変になった、故障か、、、え、いや、コマーシャルだ、なんだっバッカヤロッ、こんな良いときにコマーシャル入れやがって、どこのドイツだっ、え、野村不動産?、もうあそこの家はゼッタイに買わんぞっ、ア、まだあるのか、こんどはナンだナンだ、早く終われよっ、サッポロビールッ?、もうビールはやめるぞっ、こんな無神経な、購買客の心理も分からない企業のものなんか買うもんか、、。

 で、また画面が戻ったら、なんと、デッドヒートはどこへやら、早稲田がズ~ンとリード、山梨はよろよろ、え、一体この間になにがあったのだっ、いいところ消しやがって、、家もビールもやめだっ、、。

 さて、こんどは東洋大の1年生がどんどん追い上げてきた。登り坂をものともせずにゴボウ抜き、トップの早稲田に迫る迫る、おお、ついに追いついたぞっ、いやまた早稲田がトップだ、、、、、え、またかい?コマーシャルなの?、いい加減にせ~よ。

 画面が戻ると東洋大が早稲田をはるかに追い抜いている、、、、もう、野村とサッポロのバカやろ、めったに見ないテレビを見ていたのに、その楽しみを奪いやがって。
 本当にどういう神経なのだろうか。日本テレビのこの番組の制作監督(というのかしら)は、こんなにも著作権を侵害されて平気なんだろうか。スポンサーは神様なのか。

 ならばもう一方の神様・消費者としては、少なくともわたしは許さない。
 最近は舞台での演劇やコンサートにも、スポンサーが付いていることがほとんどである。
 もしも、このスポンサーが、例えばバレーの公演の途中でちょうどクライマックス場面でピタッと演技を止めさせて、そこへコマーシャル出演者が出てきてサッポロビールは美味いっ、なんてやって引っ込む、バレーの続きが再会、、、どうだろう、もう、総スカンになるはずだ。
 それがテレビでは許されるのが、なんだかもう、これはかなり低級な代物の感がするのである。
 というわけで、明日の復路競争は腹が立って血圧に悪いので見ないことにする。
 あ、そうだ、コマーシャルのときだけ駅伝を写す裏番組を、どこかでやってくれえ、。 

2008/10/16

051【法末の四季】棚田でコシヒカリをつくる稲作遊びはななか難しいけど面白い

 このブログの9月30日の記事に、法末集落の棚田での稲刈りのことを書いた。あれから2週間、ハサ掛けした稲穂が乾いた頃とて、仲間と一緒にハサからおろして脱穀をした。
 脱穀は昔流を貫徹させるならば、稲コキで手でしごかなければならないが、さすがにそこまではやらない。田の持ちのTさんが操作してくださるコンバインを使っての機械式である。

 ハサ掛けのそばにコンバインをつけて脱穀作業開始、ハサ掛けした稲束をはずしては次々に運んでコンバインに入れると、もうもうとした藁埃と稲藁束が排出され、籾は袋に入る。
 脱穀しても稲藁にたくさんの穂が残る問題があり、それを再度抜き取ってコンバインにかける手間があった。
 それは稲束の穂先がそろっていないからである。来年は稲刈りのときに穂を揃えるよう注意して短く刈るようにしよう。
 藁ホコリまみれになりながら、機械に追われて休みなく3時間ほどの労働で、新潟コシヒカリの籾は合計17.5袋、約500kgを得て、米も稲藁束も今年は豊作だった。

 ところが、さて脱穀して籾はできたが、今年の籾は乾燥不足で水分が多すぎることが分かった。乾燥がよくないと梅雨時にカビの原因となる。
 これでは機械乾燥をする必要がある、Mさん所有の乾燥機で引き受けてくださることになり、その作業場に籾を持ち込んだ。
 現在の籾の水分は18.3パーセント、これを理想的な15.4パーセントまでに涼風でゆっくりと乾燥することとし、それは明日までかかる。その上で、後日に精米機にかけることになった。

 一昨年も昨年も除草剤は入れず、機械は脱穀コンバインだけだったが、今年は除草剤を入れ、機械は稲刈りバインダー、脱穀コンバイン、乾燥機を使い、3年目にして農遊から農業に近づく気配がしてきた。
 ということで、いまだに新米の飯にありつけていない。

 なにしろ一年がかりの作業だから、1~2週間ぐらいずれてもどうということもない、、と思ったのだが、考えてみるとそれは大きな問題がある。
 売っているのではないから、マイペースで適当にやりたいと思うのだが、季節がこちらの都合に関係なく、雨・風・気温・水温などで農作業を待ったなし、あるいは延長、延期を要求してくるので、従わざるを得ない。

 機械を使うとなると、こちらは全く所有していないから、地元の農家の方たちに頼らざるを得ない。そうなるとその機械の稼動工程に合わせなければならない。
 稲作の農作業は勝手な遊びでやっているのではできないのだと、3年目にして分かってきたのである。
 実際のところ、田起こし、水管理、農用機械使用、作業のタイミング指導などなど、集落の人たちの支えがあるから作っていられるのだってことを、わすれないようにしなけば、、。

 参照→法末の四季物語