2013/11/25

862【言葉の酔時記】あの建物は建築か建屋か、はたまた物件か

今朝の新聞(2013年11月25日朝日新聞朝刊)の2面に、写真のような囲み記事がある。コーヒー嫌いのわたしには記事内容には興味がない。
読んでてひっかかったのは、この店の特徴である「8m近い煙突」の話の続きに、「物件がなくて500件くらい探しました」とあるところだ。

たった8mほどの煙突の材料なんて、鋼管でもコンクリでもそこらに普通にあるもので、探しまわるほどの建築材料ではあるまいと思ったのだ。
記事全部を読み終えて、ふと気が付いた。そうか、この物件とは、建築材料物件ではなくて、店を構える不動産物件、つまり8mの煙突の付いた建物のことであるか。

不動産屋が扱う土地や建物のことを「物件」というのは、不動産業界用語だとばかり思っていたが、いまや一般用語になっていたのか。
この記事のように、「建物」あるいは「建築」のことを「物件」というのが普通とすれば、「建築家」は「物件家」となるのであろうか。

そうだ、「建屋」という言葉もある。原子力発電所の建物のことである。震災による破裂と核毒バラマキ事件で初めて知った、
タテヤと聞くとなんだか軽々しくて、とてもあんな危険な原子炉を入れておくところには思えない。もしかして、本当に軽々しく造ってあったので、あんなに軽々と吹き飛んだのだろうか。
「建築」と「建屋」はどう違うのだろうか。原子炉用の建屋を設計した「建屋家」は、どう考えていたのだろうか。
もしかして原子炉建屋は、普通の建築よりもはるかに重要な物件だから、丁寧に設計したので、名称も別にして「建屋」としたのだろうか。それでも吹き飛んだのだから原子炉は怖い。

では、いま話題の2020年オリピック用の新国立競技場案は、建築か建屋か。
原子炉ほどの超重要なものを入れるのが建築じゃなくて建屋なら、国際的あるいは国家的行事のオリンピックメイン競技場だって、これはもう絶対に建屋と言うべきだと思うが、どんなもんだろう。
そうだ、原子力発電所とかオリンピック競技場のような超重要建築の設計をする者は、「一級建屋士」の資格を持った「建屋家」でなければならないように、制度改正してはどうか。

与太話はさておいても、「建築家」という言葉は何とかしたほうが良いと思う。「家を築き建てる」って、つまり大工さんのことでしょ、architectの翻訳語としてはかなりへたくそだと思うよ、忠太くん。

2013/11/23

861【五輪騒動】明治神宮外苑はやっぱり神社の境内だからお祭りの賑わいがよく似合う

国立能楽堂で「盛久」公演が終わって、ぶらぶらと神宮外苑方面に歩いて、そのまま青山から渋谷まで歩いてしまった。
絵画館前のイチョウ並木が、ちょうど葉を金色に輝かせていた。このイチョウ並木を青山通りから絵画館方面にまっすぐに見通させるのが、外苑ランドスケープデザイナー折下吉延の一番狙った風景デザインなのだろう。

視覚の焦点に絵画館の中心のドームタワーを据えて、イチョウを針葉樹のように頭をとがらせる剪定をして、しかもその高さを青山側から次第に低くなるように頭を切り、パースペクティブを強調する。
もともとイチョウの木はあのような円錐の樹形にはならない。自然には横に大きくばらけて広がるものだ。ここの並木の樹形は不自然きわまる風景をつくり、そして、そこにこそ意味があるのだ。

ヨーロッパの王族の造りに造り込んだ庭園を真似て、明治天皇の事績を表す絵画館への視点を絞り込むことで、日本にはなかった王権賛美の風景をつくりあげた。
日本の王権賛美の風景とは、奥へ奥へと王権そのものが見えないように囲い込むことで権威を高めるものだから、正反対の風景が登場した。それが日本の大急ぎの近代化の風景のひとつであった。

それにしても、あの高い木の剪定はクレーンに乗ってやるのだろうが、形がよくそろうものだ。毎年ではあるまいが、本数も多いから時間も金もかかることだろう。
イチョウ並木の道はほかにもたくさんあるが、あのような揃え方をしているところはないだろう。横浜の日本通もイチョウ並木だが、もっとおおらかである。王権賛美の風景のためには、あれほどの手間がかかるというものだ。

視界を前方に限定されていたイチョウ並木を抜け出ると、丸い噴水池が現れて風景の出直しを演出する。
そこから先には、芝生の大広場が出現して視界が広がり、その向こうに絵画館の威容が全貌を見せて、芝生の大広場の真ん中をまっすぐにつき切る園路が行動を絞りこみ、絵画館が待ち受けるという風景の新展開があるはずだったが、今はそうはならない。

ちょうどイチョウ祭りとかいうイベントが行われていて、イチョウ並木の終わる噴水池の周りには、B級がC級グルメだかなんだか知らないが、雑多な食い物屋台が並んでいて、猥雑にして喧騒な風景に取り囲まれる。
その屋台の向こうに、絵画館が坊主頭だけちょこっと見せて隠れている。なかなかの劇的な風景展開である。面白い。これこそ神社のお祭り風景である。

そう、ここは明治神宮の一角であった。内苑でお祭りをやっているのかどうか知らないが、外苑は秋祭りである。
ではその屋台の向うに回ってみると、下世話な草野球が何チームも現れて、ウロウロわあわあと眼にも耳にも喧騒なことである。ここが草野球の場になったのは、戦後の進駐軍に接収されてからだろうか。あ、そうだ、ここはあの「血のメーデー」デモ出発点だったところだ。
野球広場のまわりには何やら仮設小屋のような建物がいくつもあるのは、屋内練習場やら更衣シャワー室などらしい。向こうのほうには鳥かごのようなものとか、照明塔も見える。
今日は野球をしていたが、祭りの休日には大道芸とかもここでやるらしい。
その庶民的猥雑な雰囲気と絵画館の権威的な姿との対比が、なんだかもう笑いたくなるほどに面白いのだが、これらを折下吉延が見たら怒り狂う風景だろう。

だが、考えるまでもなく、ここは神社の境内なのだから、お祭りには露店、屋台が出るのは当たり前、サーカス、怪見世物、お化け屋敷などが小屋を建て、素人芝居の仮設舞台が出現するべきなのである。これこそが神社境内のあるべき風景なのだ。
浅草にみるように、やがてそれらの小屋が常設になる。神宮外苑では、素人芝居舞台が軟式野球場であり、見世物小屋が神宮球場である。絵画館は当初から造られた見世物小屋である。あ、あれは絵馬殿だな。
野球場やテニス、プールなどは、いわば貸し小屋で明治神宮のご商売の場であって、宗教活動じゃないから税金がかかるらしい。

隣接する国立競技場も秩父宮ラグビー場も東京都体育館も、その一連のものだ。これらも神宮外苑の施設と思っている人が多いようだが、外苑の外であることはこの案内図に見る通り。

なんでも7年先には、地球上の各地で4年ごとに持ち回りするお祭りがここにやってくるとかで、それに対応するために常設小屋のひとつを建て替えるとて、なんやかやと騒がしい。

屋台や草野球の喧騒を抜けだし、まっすぐに行けないので横に回り込んで絵画館にようやくやってくる。ここは聖域かと思いきや、絵画館のまわりの広場は駐車場と言う物置場になっているのであった。うっとしい風景である。
せめてここくらいは折下さんの意図を実現してあげてはいかがでしょうかと、思いたくなる。

では、この外苑計画のもっとも焦点たる聖なる場所に行ってみようと、駐車の間を抜けて絵画館をまわりこむ。
明治天皇の葬式を記念する葬場殿址があるはずだ。いわば絵画館は拝殿であり、葬場殿址は本殿ともいうべきところである。ところが、ここも駐車場なのであった。
明治天皇の棺をとめていた聖なる場所が、大きな記念樹となって姿を見せているのだが、まわりは変哲もない団体バス駐車場である。ここが聖なる場所としてデザインされたとは、誰が見渡しても思わない風景である。

おやまあ、明治天皇の葬儀の場をもって聖なる場所としたのではなかったのか、なんだか肩すかしを食わされた。このあたりのランドスケープデザインには、佐野利器がとりしきっていて、折下吉延は腕を発揮できなかったのか。こういう奥の風景は、日本的な仕掛けなので、折下にはむかなかったか。
あるいはかつては、聖なる場所としてランドスケープデザインされていたのだが、いつのまにか車置き場の修景植栽に改変されてしまったのか。
わたしは、聖なる場を求めているのではないが、なんだか外苑の王権的デザインの心理的なあるいは宗教的な焦点が見えなくなっていることを、不審に思っているのだ。

佐野利器は、イチョウ並木の青山通りの入り口両側に、石積みゲートをデザインし、並木の視点の行き着く先の絵画館の奥に、こちらにも石積みで囲う樹木による葬場址記念シンボルをデザインし、両端で完結したつもりだったのだろう。
さて、今はどちらも見忘れられたというか、無視されているようだ。
それを妙に考え過ぎるとすれば、明治天皇が死んで1世紀、日本もようやくに王権の風景を捨て去る時代になったと見ると、それはそれでよいことである。

黄金色のイチョウ並木は美しいが、わたしの生家のあった神社境内の巨木のイチョウのことを思い出せば、秋に散り敷く落ち葉の掃除が大変だった。ギンナンの実が臭かった。

(関連ページ参照)
◆新国立競技場に関する瓢論と弧乱夢と似非言い
http://datey.blogspot.jp/p/866-httpdatey.html

長屋談議 2020年東京オリンピック新国立競技場はモノスゴイもんだ
https://sites.google.com/site/dandysworldg/newnationalstadium

2013/11/21

860国立能楽堂で能「盛久」(シテ野村四郎)の英語字幕を見てお経の意味がわかった

久しぶりの国立能楽堂、今日は野村四郎と宝生閑という、今の能楽界では大ベテランによる能「盛久」である。

1年ほど前に来た時はなかったような気がするが、各椅子の背に字幕が出てくる装置がついている。出てくるのは日本語と英語。日本語は謡の古語のままだから、耳で聞いて分からないところは読んだとて分らない。

英語は読めばわかるが、日本語のニュアンスは伝わらないのは仕方ない。だから耳では日本語、目では英語と言うのは、古語の解説つきで能を見ていることになり、これをやってみた。

文楽や沖縄の能である組踊、外国語の演劇やオペラなどでは、舞台の横に字幕が出てくる。この場合は、舞台の動きと字幕を同時に見ることができる。
しかし、国立能楽堂の前の席の背にある字幕と、舞台と同時に見ることは不可能だから、ちょっと都合が悪い。字幕を読んでいては舞台の動きを見逃してしまう。
なにしろ能はちょっとした足の動きで数百キロを動いてしまうし、ちょっとした首の動きで感情を表現する。だから、動きない場面でのみ字幕を読んだが、実はそれが役に立った。お経の意味が分かったのだ。

「盛久」ははじめて見る能なので、事前に岩波の謡曲集の中の逐語解説を読んできたので、筋書きや謡は分かっている。
だが、謡にお経の文句が入っていると、世にお経のようなものと言うごとく、どうせ分らないのだからとて、そこは読む気がしないのだ。
舞台で盛久が経を読むところは動きがないので、字幕の英語を読んでいたら、お経の意味が書いてあった。ああ、お経にも意味があるんだと知り、その経文(実は「偈文}というらしいが)の意味が、実はこの能の重要な役割なんだと知ったのである。

歌舞伎にはイアフォンガイドなる器械の貸し出しがあり、無線放送で耳に解説を送る。能楽でもこれをやろうとしないのはなぜだろうか。
能の舞台がわかりにくいのは、歌舞伎のように舞台装置やら舞台転換やらが、まったく無いことと、上演言語が古語のままであることだ。
その上、削ぎに削いだ筋書きと演技だから、観客の頭の中で演劇として組み立てることを要求する。そこに能の真髄とされる面白さがある(らしい)。
それを解説するイアホンガイドがあってよいだろうと思うが、ないところを見ると、日本オペラなんだから、耳でしっかり舞台の音を聞け、ということだろう、たぶん。

それもわかるが、わたしの隣にドイツ語を話す西洋人の風貌の3人の男たちが座って「盛久」を見ていたが、わたしでさえも眠くなったのに、字幕も見ず眠りもせずにいたのが不思議だった。
終ってから、そっと小さい声で笑い合っていたのは、なんだかさっぱり分らなかったなあ、と言っている感じだった。イアホンガイドがあれば良かったろうに。

さて「盛久」である。
作者は『歌占』『隅田川』『弱法師』などの名作者の観世十郎元雅、父の世阿弥が「子ながらも類なき達人」と期待したほどだが、惜しくも若くして死んだ。
でも、わたしには他の作品と比べてまったく面白くなかった。はじめからしまいまで清水寺の宣伝演劇である。弱法師が天王寺を舞台にしても、別に天王寺の宣伝にはなっていないのに、これは何かスポンサーとかの事情があったのだろうか。

開演と同時に、揚幕を出てきた囚人護送されている途中の盛久が、護送する側の責任者らしい土屋某に話しかけるのだ。
まだ橋掛かりの上を舞台に向かって登場の途中である。こういう演出ははじめて見た。面白い。
たいていの能は、ワキとかシテが自分はなんのなにがしであると、名乗ることから始まる。能に慣れれればそれが当たり前だけど、舞台の初めに自己紹介するなんてのは、演劇台本としては出来が悪い。

この能は、場面が何度も替わるのだが、もちろん能では観たところは全く変わらないから、観る方の頭の中でそのたびに舞台装置を造るしかない。これがつくれないと能を見る面白さが分らない。
舞台場面は、まずは京の街の中、つづいて桜の咲く清水寺、そして京から鎌倉への東海道下りの道中、鎌倉での屋敷内、由比ヶ浜、最後は頼朝館と変わっていくのだが、謡や動作をもとにした頭の中でやっている舞台転換を、視覚的に補完してくれるのが、囚人護送の輿(こし)の駕籠である。

盛久は、源氏に敗れて逮捕された平家方の武将であり、罪人として処刑されるべく鎌倉に護送用の駕籠に閉じ込められて東海道を東へと送られるのである。
その移動中は駕籠の中にいるので、舞台ではワキの駕籠かき二人が盛久の頭上に、駕籠にみたてた屋根のようなものを掲げる。
この駕籠かきと屋根とが登場したり引っ込んだりすることで、場面転換がわかる仕掛けである。東くだりの道行き場面では、駕籠かき役2人は屋根を掲げる片手を長時間あげっぱなしで、さぞ疲れて大変だろうと、見ていて気になった。

盛久は、清水寺の観音信仰に凝っていて、鎌倉について次の日に斬首されると言われて、その経文を読んで、観音の慈悲にすがるのである。
じつはここで上に述べた字幕を読んでいて、その経文がなんともすごい意味なのである。お経だから聞いてもさぱりわからないが、英語で意味を知って驚いた。ちょっとアレンジして日本語訳するとこうである。

「あのね観音様よ、わたしはあなたをこれほどにも信じているのだから、生きているうちにご利益をくださいよ。死んでからご利益あるなんてのでは、あんたは人を救う能力がないよ。むかしある人が王様の怒りにふれて、刀で処刑されようとしたときに、観音さまの力を信じて祈ったら、刀がいくつかに折ればらばらに壊れたそうだよ、どうだね」

ちょっとどうも、観音さまを脅迫している。そしてその晩に、誰かが替わってくれて命が助かるなんて、都合の良い夢さえ見るのである。
さてその次の日、処刑場の由比ヶ浜で、観音を脅迫して祈った通りのことが起きる。不思議に思った頼朝は盛久の処刑をやめさせるというのが、この能の話である。
清水寺の観音様のご利益はすごいもんだと宣伝しているのではあるが、へそ曲がりのわたしは、なんだかどうも素直にはそう読めないのである。

史実の盛久がどうやって死んだか知らないが、これは現在能ではなくて、様式の異なる夢幻能であろうと思うのだ。
世阿弥が発明した夢幻能形式は、後場で過去の出来事をワキが夢で見るのだが、この「盛久」では、シテ盛久が霊夢を見たと言った後は全部、彼が見た夢であろうと、わたしは思う。
これならば、古拙な信仰劇よりも現代的な演劇としての見方ができる。

後場での、盛久が頼朝の面前に出る重要な場面なのに、頼朝が舞台に登場しないのも、盛久は頼朝を見たことがないのだから夢にも登場させようがなかった、ということでは、どうだろうか。
そして延命して喜びの男舞から妙にあっけなく終幕となるのは、夢から覚めたのであると解釈するのだ。現実の盛久は無惨に斬首されるのだ。
こうやって勝手に頭の中で作り上げて観ることができるのが、能の面白さである。

謡いも語りも多い長い長い能で、上演1時間半もかかった。後半は調子が上がったが、前半はかなり冗長で、演劇と言うよりも謡を鑑賞するのであろう。退屈である。
ある場面での野村四郎の語りに、地頭浅井文義(の声のような気がしたが後見の浅見真州だろうか)のプロンプトが入った。空耳でなければ、わたしが観た四郎の舞台では初めてのことである。
野村四郎、77歳、次は12月の「関寺小町」、円熟した大家の大曲である。

国立能楽堂定例公演 2013年11月20日
能【観世流】盛久
シテ/盛久     野村四郎
ワキ/土屋某    宝生 閑
ワキツレ/太刀取 宝生欣哉
笛                      一噌隆之
小鼓                    飯田清一
大鼓                    安福健雄
地頭                    浅井文義

●参照→「能楽師・野村四郎

2013/11/17

859偽装食品と偽装冷却便にわたしも加害者被害者両方になったことがある

1年ほど前のことだが、ある製パン工場から米粉で作ったパンを買った。遠くだしたくさんだし、もともと冷凍保存してあるのを、クール宅急便で送ってもらった。
着いたのを開けてみると、全く冷凍ではなくて、フワフワしている。箱には冷凍と書いてあるし、中の説明書も冷凍を前提で食べ方を書いてある。
ヘンだなと、製造発売元のパン工場に連絡したら、運送屋が間違ったというお詫びが来た。

それでもどうも不審だったのは、冷凍ならば発泡スチロール箱に入っていそうなものを、それは段ボールのままでやってきたのだ。発送するときから間違っていたような気もする。
それとも、近頃、新聞をにぎわしているように、送り出だしは冷凍運送のはずが、途中の仕分け中に融けてしまって、冷凍偽装食品になってしまったので、スチロール箱を捨てたのか。
パンだから良いが、本当のナマモノなら、食中毒である。

そのパンは旨かったのだが、以後そこから買っていない。
運送屋のいい加減さが原因なら、工場には気の毒なことだが、そういう方向違いの信用失墜問題はどこにもありそうだ。運送屋さんよ、そこのところをきちんとフォローしなさいよ。
そういえば、その季節になると天然生ガキを送ってくださる人がいるのだが、いつもなんだか妙に生臭いのは、もしかしたら、、、でも、送ってくださる人には言えない。

わたしが偽装食品を、ひとさまに送り付けたことがある。もちろん、レストランやホテルの社長が言うように、わたしも偽装のつもりではなったのだが、、、。
越後の山里の棚田で、体験的に米つくりをしてきて、もう7年になる。その2年目の新米ができたとき、あまりに美味いのであちこちの知人に送り付けた。
現地の活動拠点としている家の座敷に並ぶ新米の袋から、自分で小分けして発送した。自慢たらたらの手紙を添えて。
ところが、反応がどうも鈍かった。まあ米なんて当たり前すぎて、そんなものかと思っていた。


しばらくして、息子がやってきて言う。彼は送り付けられたうちのひとりである。
「あのコメは不味かった、古米としか思えない、何か間違ったのだろう」
えっ、自分が食った新米は美味かったのに、う~む、よくよく考えてみて、どうも座敷に並んでいた新米の袋のそばに、去年の古米のはいった袋があったらしい。よく確かめずにそれを入れて送ったに違いない。

息子だから平気でクレームをつけてくれたが、送り付けられた知人たちは困惑したに違いない。といって、あれは違っていましたと、取り換えようにも新米の季節はとっくに過ぎているし、どうにも恥ずかしい。
とにかく次の年に、こんどは間違いないように新米を送った。こんどは美味いと反応があった。問題は、前の年にだれだれに送ったか、全員を思い出せなかったことである。

2013/11/16

858少年の頃は地震にナイーブに反応していたのに大人になって免疫がついた

先ほど(2013年11月16日20時40分頃)に、ちょっと大きな地震があった。TVを見ると横浜のうちのあたりは震度4と出ていて、いちばん大きい数値である。
べつに一番大きいと自慢しているのではないが、それでも何も被害がなくて一番大きいのは、なんだか偉いような気がする。

2011年3月11日以来、なんども何度も繰り返す余震に神経質になって、ちょっと揺れても心臓がドキドキ、腰かけている椅子のバネが揺れただけなのに地震かと思うし、揺れていないのに揺れている幻覚がおきて、これはもう老化によるボケがきたななんて思ったりして、しばらく困ったものだが、もう慣れてきてドキドキはしなくなった。

それどころか、初動の微妙な揺れ具合で、オッ、これは大きそうだ、ウン、これは小さいな、なんてわかるような気がしてきた。
先ほどのヤツは、初めに真下から小さくツンとたたいてきて、すぐ止まった。ハハン、こいつはなにか大物をネラッテルな、大きそうだぞ、と、待っていたら(いや、期待しているのではないが)、2秒ほどでオマタセ~てな感じで、グラッ、グラグラーとやってきた。
ヤッパリな、と思いつつ揺れを鑑賞したのであった。鑑賞対象は、天井からつるしている照明器具の揺れである。

鑑賞しつつも、立って何かしようか、いや、なんにもやることはないよな、なんて心の中はそれなりに忙しい。大揺れになったら本棚を押さえるのが仕事だろうな、あ、つれあいの具合も見なくちゃ、とか。
昼間ならバルコニーから外を眺めて、よそのビルの屋上に立つ避雷針がユッサユサとしなるのを鑑賞するのだが、夜は見えないから、つまらない。

昼間に見るものに、工事用のタワークレーンがある。大揺れになって倒れるかもしれないと、申し分けないが期待しつつ見るのだが、どういうわけか、あれはあまり揺れないようになっているらしい。あれが倒れるようなら、うちの共同住宅ビルが倒れるか。
TVとPCで地震速報を見ると、千葉のあたりが震源らしいが、津波はないというから安心だ。

わたしの人生での地震の思い出では、一番大きかったのは、やはり3・11であった。
この時は道端でバスがくるのを待っていた。山梨県の友人から電話がかかってきて、ネパールに遊びに行く話していたら、地面がゆさゆさしてきた。
「なんだか、揺れるねえ」
「ああ、ずいぶん揺れるねえ」
電柱につかまらないと、脚がふらふらする。そばの平屋の大きな建物がゆさゆさ揺れて、倒れてきそうな感じになって、あわてる。
「ああ、こりゃ大きい、切るからね」
「うん、おおきい、おおきい」
揺れる家が倒れてきても電柱が支えてくれると考えて、電柱につかまったまま歩道から車道に降りて、家とわたしの間に電柱を挟む位置に立った。実に冷静な判断による行動のようだが、電柱ごときで倒れる家を支えることができるものだろうか。

そのうちに揺れはとまった。やがてバスは何事もないかのようにやってきたので、乗った。伊勢佐木町の繁華街あたりを通過するときに見ると、道路にものすごく大勢の人が歩いているので、今日はなにかイベントがあって賑やかなんだなあと、思いつつ帰宅した。
あとから思えば、その日はイベントは別になくて、いや、地震という大イベントがあって、ビルからみんなが外に出て避難していたらしい。家に戻って、ちょっとドサクサがあったが、たしたことではない。

昔の地震の思い出は、福井地震である。1947年、小学生のわたしは岡山県の中部にある家で驚いた記憶がある。
家は森の中の神社だから、家が揺れると共に、おおきな木々がゆさゆさ揺れていた印象があるが、福井はかなり遠いところなのに、そんなに大揺れだったのだろうか。被害はなかった。
大和百貨店の建物がグジャっとなっている新聞写真を今でも覚えているし、ネット検索するとその写真が出てくる。

岡山県のあたりは、今も昔も地震がめったにないところだから、その福井地震しか覚えていない。
その地震の少ないところから、少年時代の終りに関東に移ってきたのだが、こちらはなんとまあ地震の多いところだろうと感じた。そのころは地震がくると、大小にかかわらず毎度必ず心臓がドキ~ンとしたものだ。体に悪い土地だとおもった。アッとか声をあげていたかもしれない。笑われたそのドキ~ン・アッ癖は、5、6年は続いたように思うが、そのうちに免疫がついてしまった。
だから、3・11地震は、わたしには64年ぶりの大地震であったので、少年のナイーブなドキン癖が再発して戻っていたのだ。でも、また大人の免疫も戻ってきたらしい。


2013/11/14

857体験的書評「まちをつくるプロセス RIAの手法」 

●RIAの本が出た
『新建築」といえば、いわば建築ジャーナリズム界のメジャーファッション誌だろう。
わたしが学生の頃は、これに加えて『建築文化』『近代建築』『建築』があり、その後『都市住宅』が出た。今は『近代建築』だけが、なんだか広告専門誌のようになって続いている様子だが、他はみな廃刊らしい。

新建築の別冊『まちをつくるプロセス RIAの手法』がでた。RIAと言えば、わたしがフリーになる四半世紀前まで所属していたところだ。
ふむ、これはまた地味な表紙だよなあ。いまどきモノクロかい、いや、ちょっと色がついているか、それにしても商売けがないというか、淡泊というか、いや、気取っているのか。
え、3500円、高いなあ、だれが買うのだろうか。近頃の建築学生は金持ちなのか。

では、せっかくだから「体験的書評」なるものをやってみよう。体験的とは、本の中身にわたしの体験をもぐりこませるのである。

●以下続きと全文は⇒「体験的書評「まちをつくるプロセス RIAの手法」」
https://sites.google.com/site/matimorig2x/ria-process

2013/11/11

856【五輪騒動】建築家たちの新国立競技場デカ過ぎ論には肝心の都市計画問題が抜けている

オリンピック用に建て替える計画がある霞ヶ丘国立競技場について、先般、それがあまりにデカ過ぎて問題だと、100人ほどの建築家を主とする有識者たちが、文部省に改善を要望したニュースを知った。
それはそれでよいのだが、都市計画に関心のあるわたしとしては、なにかが抜けていると思えてならない。

新国立競技場計画案が、あれがそれほどでかいのは、必要な機能を積み重ねていくとそうなったのだろう。(コンペ一等案
そんな機能の施設は要る要らない議論はさておいて、計画する新競技場の建物の高さが70mという高さが重要な問題として指摘されていることについて、都市計画から考えてみよう。

ここで都市計画として高さ70mについて、その数値に合理性があるかどうかが問題であるが、それもさておいて、その高さを認めた都市計画手続きについて考えてみたのである。
そうしたら分ったことは、なんとまあ、都市計画ってのは内からも外からも、ほんとにバカにされているってことである。
この続きと全文は、こちら

●その他参照なさると面白いページ
◆新国立競技場に関する瓢論と弧乱夢と似非言い
http://datey.blogspot.jp/p/866-httpdatey.html

「842なぜ今頃になって建築家は新国立競技場の計画案に異議申し立てなのか」
http://datey.blogspot.jp/2013/10/842.html

【長屋談議】2020年東京オリンピック新国立競技場はモノスゴイもんだ
https://sites.google.com/site/dandysworldg/newnationalstadium

神宮外苑地区地区計画
http://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/keikan01_001070.html

神宮外苑地区地区計画を決めた東京都都市計画審議会議事録(14ページ)
http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/keikaku/shingikai/pdf/giji201.pdf

2013/11/08

855偽装安全原発から偽装美味食品まで偽装日本の総理大臣はもうすぐ任期1年が終わる

●時事ニュース(その1)
小泉純一郎→安倍普三(2006年)、安倍晋三→福田康夫(2007年)、
福田康夫→麻生太郎(2008年)、麻生太郎→鳩山由紀夫(2009年)、
鳩山由紀夫→菅 直人(2010年)、菅 直人→野田佳彦(2011年)、
野田佳彦→安倍晋三(2012年)、ときたら、とうぜん次は、
「安倍晋三→?(2013年)」となるはず。

日替わりならぬ年替わり総理大臣制度をお始めにあったアベさんとしては、このあたりでお辞めにならないと、せっかくお作りになった「潔く後進に道を譲る」って、日本の麗しき伝統を守れなくなりますよ。

●時事ニュース(その2)
このところ、食品の偽装ばかりがニュースになっている。どれもこれも高価である。
ありがたいことに、わたしが食うものがひとつも登場しない。つまり、ビンボー人は正しい食品ばかりを食っているんだろうなあ、ああ、幸せなことである。

気の毒なのは金持ちだな。だって、知らないで舌がバカだから騙されても、「芝エビだ、阿波牛だ、やっぱり美味い美味い」って食ってりゃ、それなりにハッピーだったのに、偽装と知ったばかりに不幸になった。
はじめから、そんなものに縁のないこちとらビンボー人は、他人の不幸は蜜の味、である。

でも、ちょっと気になることがある。
もしも、、芝エビをバナベイエイビと、鮮魚を冷凍品と、車エビをブラックタイガーと、フランス産栗を中国産栗と、阿波牛を鹿児島牛と、手ごねハンバーグを既製品と、ばくらい宮城を岐阜県産と、和牛を外国牛と、ああ、きりがないけど、こういう方向に偽装していたら、ニュースになるのかしら?

2013/11/07

854【東京下町徘徊】三ノ輪-新吉原-白鬚-向島百花園-曳舟ウロウロ

久しぶりに東京の向島百花園で、遊び仲間(正確には「街なか研究会」)の会合がある。行かないとあいつもボケたと思われてもシャクだ。夜の会合なのに、どうせヒマだからとて、真昼間から出かける。
地下鉄三ノ輪駅に降りて、適当に東に向かえばいいだろう。大川にぶつかるから、橋を渡ればすぐそばだ。
まっすぐ行っても芸がない。山谷と新吉原に寄ってからにしようかと思う。

山谷は有名なドヤの街である。わたしの暮らしている横浜の関外にも、それに負けない寿町があり、しょっちゅう通っているからドヤ街はもういいやと、新吉原に向かう。
おっ発見、角海老本店じゃんかよ~。なんで角えびなんだろうか、まあいいや、このあたりがかの遊郭街なんだな。
ほほう、見事な下半身商売の街並みである、さすが新吉原。

でも地名が千束町とある。はて、建築家の山口文象が生まれ育ったのが浅草千束町だが、遊郭の中ではなかったはずだ。
これは多分、例の地名変更の結果で、吉原という地名を避けて、千束町を広く決めたのだろう。
なになに、揚屋通りとある。この道には遊郭の揚屋が並んでいたのか。

ハデハデまちなみ建築のそれぞれの前に立つオニイイサン方たちが、お声をかけてくださる。
「どうですか、ちょっと寄りになって」「写真だけでも見てくださいよ」「あ、どうぞ、こちら」
最近、横浜の福富町あたりを歩いても、こちらの貧相な年寄り顔を見て、お声をかけてくださることはない。
ここ新吉原では、きちんとお声がかかって、素直にうれしい。ときには「ありがとう」なんて、御礼の言葉だけでもお返しするのであった。

白鬚橋を渡る。関東大震災の復興橋梁のひとつで、1931年竣工とある。実ははじめてわたるのだ。
ふむ、復興橋梁らしいデザインである。むこうにスカイツリーなる新名所が見えている。わたしはいまだにスカイツリーに登っていない。そう、学生時代に建ちあがっていく風景を見た東京タワーに義理立てして、登らないままにしようと思うのだ。どうでもいいけど。


隅田川を渡れば、墨堤は2階建てになっていて、上に高速道路、下には青テント小屋の暮らしの場である。ちょっと2階が高すぎて、雨除けになるのかと気になる。
上から車の騒音が降ってくることを別にすれば、今日のような日和の中で見る青テント暮らしは、よそ眼にはいかにものんびりとしている風景のアジールである。
住民の方々は、こちらではアルミ空き缶をカンカンとたたいて延ばしておられ、こちらではなにやら工芸品をつくっておられる様子である。

 
 
その青テントアジール街並みの前は広々とした大河の流れがある。そしてその背後には、緑の公園の向こうに延々と連なる共同住宅群の壁がある。
公園の中に隅田川神社がある。どんないわれの社か知らないが、普通は本殿の背後に森があるのだが、ここでは高速道路の桁がかぶさっているのが、いかにもの感がある。

そしてまた、これが木母寺、あの梅若伝説の故地である。ほう、ここであの能「隅田川」の母親は、死した子を葬った塚に出会ったのか。
 
 
あの都から見ると荒漠たる中世の東の果てとして描かれた演劇の風景は、今の高速道路と巨大集合住宅の谷間からはとても想像がつかない。
わたしはこの能を好きだ。世阿弥が期待しながら夭折した息子の元雅の作である。能には珍しく、仏の救いのないままに終幕となる。しかし、実は救いがある演出になっていると、わたしは最近になって発見した。

青色テント住居や木母寺の東側の背景となっているのは、万里の長城のごとき、あるいは新たな墨堤のごとき、高層共同住宅群である。
この新墨堤は、大地震がやってきて下町に大火災が起きたら、この燃えないコンクリ壁群が火を止めて、逃げてくる人々を川のほとりに避難させるって、そういう大野望のもとにつくった代物らしい。ものすごい。

向島百花園での宴会が終わって、曳舟駅から電車に乗ろうとして駅前を見上げたら、スカイツリーらしきローソクが屋根の上にあがっていた。
ちかごろは、こういう代物が立つと、景観がどうやらこうやらと騒ぐ人がいるのに、こいつのときはどうだったのだろうか。低層下町には並はずれて高すぎて、話にならなかったのか。
 
参照⇒オペラ「カーリューリバー」 (まちもり通信G2版)
https://sites.google.com/site/matimorig2x/opera-curlew-river

2013/11/05

853わたしの個人史と重なる共同設計組織RIAの職能拡大展開の軌跡を書いてみた

 戦前は有名建築家だった山口文象が、戦中戦後の10年間のブランクの後に起こした建築設計集団「RIA」は、個人名を排した共同体とした点で、同世代の他の有名建築家たちとは一線を画し、戦後民主主義の嵐の海に再びの船出をしたのだが……。

 建築家というと普通は個人の職能をさすだろうが、建築学会誌『建築雑誌』編集者からの依頼には、2013年11月号に『「建築家が問われるとき:自己規定の軌跡と現在』と題する特集を組むので、設計集団RIAの職能について書けとの注文である。

 ふむ、面白い、これまで山口文象につてはあれこれと書いてきたが、わたしが所属していたRIAについては、意識して避けてきた。
 でも、わたしももう歳が歳だから、このへんで自分の社会人としての位置を築いたRIAについて書いてもいい頃だろうと思えてきた。

 そこで、なんの資本的バックもない徒手空拳の建築家集団RIAが、戦後復興期の荒波中で新たな職能像を求めて苦闘を重ねた、1950~70年代迄の軌跡を書いてみた。いわば個人史と重なる建築設計組織の職能拡大展開の歩みの論考である。
 題して「RIAが選んだ建築家共同体組織とその職能展開の軌跡
 
 もちろん、いまやRIAのもっとも初期メンバー生き残りとなった建築家・近藤正一さんに話を聞き、古い雑誌記事などを読み、同輩に手助けしてもらって、ようやく書いた。
 自分のいた時代なのに、はじめて分かるようなこともあり、面白いことだった。
 英文の題名は、学生時代の同期生だった友人に決めてもらった。 
History of unique cooperative system in Research Institute of Architecture(RIA ) with some reference to expanded horizons of architects' professions

 なお、RIAの正式名称は「RIA建築綜合研究所」、現在は改称して「株式会社アール・アイ・エー」である。

●本文はこちらを参照のこと
「RIAが選んだ建築家共同体組織とその職能展開の軌跡」
https://sites.google.com/site/dateyg/ria1952-1979