2010/08/17

305【父の十五年戦争】戦後60年の靖国神社に野次馬で行ってきた

 戦後65年目の今年の8月15日は暑すぎた。戦後60年目の8月15日に、わざわざ靖国神社に行ったことがあった。
 そのときの感想をまちもり通信に書いたのだが、どこに分類したか分からなくなったので、ここに再掲しておく。
 以下2005年の8月15日の記。
    ◆
 今年は8月15日、野次馬で東京九段の靖国神社に行ってみました。
 このところ総理大臣が参拝して近隣諸国が怒りアレコレあって、有名になりました。
 戦後60年目の節目の年(科学的な根拠はないでしょうが)とかで、どんなことが起きてるのかなあと興味津々、
 でも、実はたいしたことはありませんでした。
 起きてるだろうなあと思ったことが起きていたのは、終戦60年国民大会なる例の単純論調の絶叫が続く集まり、そしてこれも戦争懐古賛美らしき本やら映像やらの販売、無宗教の慰霊施設設置反対署名運動、みんなで参れば怖くない国会議員の集団参拝、日の丸を振る軍服の一団など。

 これらは当然やってるだろうと予想しましたが、ちょっと気になったことは、野次馬らしくない若者たちの姿が多いことでした。
 大勢の若者カップルが賽銭箱の前で手を合わせていて、もしかしたら初詣と間違えているんじゃないかしら、間違えているのならともかく、どこか不気味な感もありました。

 死者を貶めたくない遺された生者の心理と戦争暴力とがないまぜになると、このような社会現象がおきるのかなあと思うのでした。
いずれにしても戦死者を讃えると戦争駆動装置にならざるを得ません。いや、駆動装置だからこそ讃えるのか。
 南海に没した叔父もここに合祀されているのでしょうか。
 それにどんな意味があるのか理解できません。(050824)

   ◆

 上に「南海に没した」と書いた叔父は、フィリピンのマニラ東方山地で1945年5月に戦死したと、1948年になって戦死の公報が、名前を書いた白木の位牌のみ入った骨壷と共に届いた。
 そして遺族が、そのほぼ全滅となった悲惨な叔父の戦場を知ったのは、なんと1987年、死後42年も経ってからであった。
 わずかな生き残りの中の部隊長が、ようやく重い口を開いて手記を送ってきたからであった。そこにはジャングルを「転進」し続けながら、劣勢の中で戦ったことばかり書いてある。フィリピン戦線の悲惨さは悪名高いから、奇妙に思った。

 そこで傍証となる戦記を探したら、同じ戦場で兵站病院の衛生兵であった人の手記が出版されているのを見つけた。その中の一部に叔父の部隊の敗残兵たちの、あまりに無残な様子が書いてある。そこに叔父がいたかどうか知りようがないが、遺族が読むのは苦しい。
 これは父の十五年戦争執筆の、あまりに重すぎる副産物であった。

2010/08/15

304【世相戯評】夏の風物詩?

 東京は蒲田駅のコンコースに、西瓜を入れるロッカーが登場した。
 この駅の利用者は西瓜が大好きで、スイカの季節になると通勤の行きかえりに買っては、この保冷装置つきスイカ専用ロッカーに一時保管する。いかにも夏らしい風物詩である。
ということなのかしらと、昨日、蒲田駅をとおりかかってこれを見て思った。
   ◆
今日は敗戦記念日である。夏になると必ず登場する、古稀あたり以上の人には、それぞれに特別の思い出が詰まった日である。これも風物詩と言えそうである。
 先日、屋根を葺く瓦職人の話を聴く機会があった。そこに持ってこられた多くの見本の瓦のほかに、ちいさな瓦のかけらがひとつ。
 そのかけらの一面は普通の黒い瓦だが、もう一面は表面に粟粒模様が沢山できていて、なんだか煮え立った後のようである。
 実はこれは、1945年8月6日、広島で原子爆弾の灼熱を浴びたものの一部だそうである。
 瓦は熱線で、屋根の上で再び焼成されたのであった。
   ◆
 息子がやってきて、お盆だからやっぱり墓参りに行こう、という。親に似ぬ律儀な奴である。
 アア、そういえば世の中はそうであるな、神社の宮司であった祖父、父にもお盆なんてあったっけか?
まあなんでもいいやと、公園墓地におもむき、超暑い午後の陽に照らされつつ、墓石に榊を立てて、水をざぶざぶとかけてきた。
 これがいちばん夏の風物詩らしい。

2010/08/11

303【歴史・文化】南海の海中で世界遺産となった旧日本群の戦艦

 さきにビキニ環礁が世界遺産として登録されたことを書いた。
 昨日、読んでいたものの本に、そこには戦艦長門が沈んでいる旨が書いてあった。さっそくweb siteを探すといろいろ出てくる。

 日本海軍の軍艦の中で、太平洋戦争敗戦時に生き残っていた戦艦は「長門」のみであった。(戦艦に分類される軍艦が何隻あったのか分からないが、)
 1945年の日本敗戦でアメリカ軍に接収された戦艦「長門」(全長224.94m)と巡洋艦「酒匂」(174.50m)は、1946年3月に原爆実験のためにビキニ環礁に移動させられた。

 1946年7月、この月2回の爆発実験で、原爆の標的になる多くのアメリカ軍の軍艦とともに長門も酒匂も、もう戦わないただの鋼鉄の物体としてビキニ環礁の海中に沈んだ。
 第2次大戦敗戦の軍艦は、次なる冷戦のお役に立ったのだ。

 その後も何回も実験はあって冷戦終了と共に実験停止、そして2010年、ビキニ環礁は原爆実験の場であったことをもって世界文化遺産として登録された。
 そこには原爆が生まれる前の日本の戦争の歴史を背負い、戦後の冷戦の歴史も背負った2つの証人も含まれているのである。

 長門は海面下50mの海底に逆さに沈んでいて、高度な水中ダイビングで沈黙のその姿を見ることができるらしい。
 日本で保存されている水爆被爆の第5福竜丸も、3つ目の日本の船の世界文化遺産であるといってよいだろう。
●参照→300南海の苦楽園世界遺産

2010/08/10

302【世相戯評】今年の暑さが特別なのか

 やっぱり暑さのことを書いておこう。
 ロシアでは自然発火した泥炭が燃えつづけて、大煙霧が広がり、火はチェルノブイリ事故で放射能汚染した森に及ぶかと心配されているそうだ。
 日本も今年は特に暑い暑いと人も言うし、新聞やTVニューズでもいう。

 だが、と、へそ曲がりは言わなければならない。
 今年は、わたしの部屋の冷房機をめったにつけることがない。去年よりは明らかに少ない。だって、けっこう風があるんだもの。もしかして歳のせいで鈍感力が増大したからであって、いまに室内で熱中症か、干物か、、。
 7階という高みにあるせいか、バルコニーのドアーを半分開けて寝ると、ときには風邪を引くかと思う涼風もあり、目覚めてあわてて薄物をかける。
 事実、一回風邪をひいてしまって、ようやく元に戻ったところである。夏風邪は治りにくい。

 本当はいつもの年とそう違わない暑さかもしれない。暑い暑いというのが新聞屋テレビ屋の仕事であるのに乗せられている。
 晴れた夏の空を見ると、鎮守の社の森の木々でぎざぎざに縁取られた境内広場の上の狭い空から落ちる真っ白な陽光の中を、大人たちが黙々とラジオ放送を聴き、黙々と森を出て行ったあの日を思い出さずにいられない。
●参照→166夏の日の鎮守の森で

2010/08/06

301【横浜ご近所探検】ご近所心霊スポットは昔は小学校だったのが、、

 横浜関外のわたしの住いの近くに、横浜市立大学の病院がある。
 いっときわたしは足が不治の難病となって通院していたときに、その近くにある廃墟の汚い5階建てのビルの前をとおっていた。
 今は廃墟だが、かつては横浜市立大学医学部であったのだと、つい最近になって知った。
日本建築家協会(JIA)が主催して、旧日吉小学校の見学会があるというので見に行ったら、なんとその廃墟がそうであった。
   ◆
 なんでも元はといえば、1926年に建てられた由緒ある小学校の建物が、戦後は市立大学になったのだそうだ。それがもうすぐ取り壊しになるという。
 建物は特にデザインが特徴あるようなものではないが、入って驚いたのは、解剖室があったことだ。
 ドアに解剖室と書いてあって、中は総タイル張り、傍らには冷蔵庫のような扉があって、中には死体を入れるラックが錆付いておいてある。
 まさかこれが小学校教室であるはずはないから、小学校の建物を医学研究用に改造したのだ。
 ほかにも寄生虫学教室とか動物飼育室とか書いてある。
 最近廃墟探検が流行らしいが、都心の廃墟の心霊スポットとしてピカイチ物件かもしれない。
 わたしは心霊スポットに興味あって行ったではなく、行ってみて初めて知ったのであった。
 そんなことで侵入者が絶えなくて、防犯上で問題があるらしく、町内会から市に対して取り壊しの要望が出たそうだ。
   ◆
 なんにしても区役所に建替える予定で、今月中には壊すとかで、建物の保存を要望していた建築家協会がお別れの見学会をしたのであった。
 わたしは保存する建築家団体メンバーでもないのだが、保存要望した建築家達がこの建築をどう評価して保存したいのか、そこに興味があった。
 だが、わたしが見学して考えた歴史的評価とは、ずいぶん食い違っていた。
 なお、不治の難病との診断は、治癒する病の誤診で、治療もせずに自然治癒した。
 参照→歴史の証言としての建築記録保存

2010/08/05

300【歴史・文化】核兵器実験による南海の苦楽園は人間の醜さの記念として世界遺産に

 最近、世界遺産に太平洋のマーシャル諸島のビキニ環礁を、文化遺産として登録したという。
美しい珊瑚礁を自然遺産ではなくて、核爆弾実験場として人類の負の文化遺産だそうである。
 ここで1946年から1958年まで、アメリカは水爆の実験を含めて67回もの実験を行なった。
 今はマーシャル諸島共和国だが、その当時はアメリカが国連信託統治していたから、島民と協定して実験場にしたのであった。
 南海の楽園に見えるが、実験のために持ってきて破壊沈没させた多数の戦艦、爆発跡の巨大クレーターなどが、美しい珊瑚礁の中にできものの如くちりばめられている。
   ◆ 
 今では残留放射能は低減しているそうだが、現地の農水産物はあぶない。いまだに米軍基地らしいから、観光気分で世界遺産訪問はできないようだ。
 南海の楽園ならぬ苦園である。見た目が美しいだけに一層その苦の世界が痛ましい。
 世界遺産委員会のサイトに「its paradoxical image of peace and of earthly paradise」と書いてあるように、まさに矛盾の世界である。
   ◆
 ビキニといえば思い出すのは、第5福竜丸事件である。
 1954年、マーシャル諸島の海でマグロ漁をしていた日本の漁船が、水爆の放射能を含む灰を浴びて、乗組員1人が死亡した。
 このときはマグロは食ってはいけない魚になって、日本漁業に大きな影響を与えた。
 日本に保存してある第5福竜丸も、ビキニ世界遺産の一部とするって考えはなかったのかしら。
 同時に、マーシャル諸島の住民も放射能の灰を浴びた。それは日本の原爆症と同じ問題をいまだに抱えているようだ。
   ◆
 このような人類の負の文化遺産の世界遺産登録は、ナチスのユダヤ人収容施設、アフリカの奴隷輸出施設、広島の原爆ドームがある。ほかにもあるかもしれないがよく知らない。
 今年の新規登録の中のひとつに、オーストラリアとタスマニアの刑務所群がある。
 18~19世紀にかけてイングランドの犯罪人を、遠くオーストラリアに流刑して収容したところである。そこで囚人達に植民地建設をやらせたのであるが、そこでは原住民のアボリジニを追い払ったのであった。
 アボリジニにとっては、イングランドと戦争したわけでもなく、その災禍はビキニの原爆実験と同じある。
 これも負の遺産なのだろう。
   ◆
 考えてみると、歴史的文化遺産は、それを築いた王朝か支配者が作った施設が多いのだが、そこに至るには戦いがあって多くの血が流れたに違いない。
 京都は先の戦争といわれる応仁の乱があったし、登録待ちの中世都市鎌倉も地中から多くの中世人の白骨が今も出てくる血なまぐさい戦乱の地であった。
 人類の発展の証しと唱える文化遺産の陰には、人類の負の遺産が隠されていることを、ついつい忘れそうになる。
   ◆
 ビキニといえば、あの布切れの水着である。
 あのような衣装は昔からあったのだが、なんでも、1946年にビキニ原爆実験のものすごさを知ったフランスの下着デザイナーが、「ビキニ」とネーミングしたら売れたのが元だそうな。
 1945年の「ヒロシマ」ではないのは、どうしてなのだろうか。ヒロシマとビキニの間に横たわるなにかに、心がひっかかる。
●関連→210鎌倉の世界遺産

2010/08/02

299【怪しいハイテク】机上の地球goole earthにはまる

 マニアではないが地図や航空写真が好きである。都市計画をやっていたから、仕事としても好きを生かすことができた。
 インターネットに、地図のウェブサイトが沢山できている。あれこれ情報が入っているのはよいが、いらない商売情報が多い。
 その一方で、地形や土地利用という地図としての基本的な情報が欠けているのが、気に入らない。
 やたらに道路ばかり出てくるのだが、そのくせ細い歩けるだけの道になるとほとんど登場しない。要するの自動車でなにかにアクセスするために使うようにできているらしい。
    ◆
 カーナビゲーションの地図がまさにこれである。あそうか、あの地図屋がカーナビゲーションをやっているのだから当りまえか。
 カーナビゲーションの普及で、運転人間はだんだんとバカになる。カーナビゲーションの中のオバサンの声に導かれて目的地に着くから、途中のことは何も知らなくても良いことになってしまったのだ。
 それまでは運転する人は地図を自分の頭に読みこんで、方向感覚とか地形の目印とかを覚えていたのだが、もうそんなことは不要になった。
 もしも災害かなにかで車を使えなくなったら、迷子だらけになるだろう。
 地図はやっぱり国土地理院のものがいちばんすばらしい。
    ◆
 航空写真は地図とは異なる情報が満載されていて、どこのでも見飽きない。
 古いものは国土地理院のサイトの空中写真だが、新しいものはいまやgoogle earthの衛星写真である。
 google earthサイトはわたしにとっては机上の地球である。世界のどこにでも一気に飛んで行ける。
 海外旅行で訪問した街に、空から懐かしい訪問もできる。そこにgoogle streetがあれば、街並み歩きもできる。
 故郷の生家の前にも、中国での父の戦場跡(1933年)にも、アイガー北壁の途中にも、フィリピンでの叔父の戦場跡(1945年)でも、、、、いや、まったくすごいもんである。
 そのうちに弱ってきて動けなくなったら、これで旅行三昧の徘徊老人に浸ろう。
   ◆
 でも喜んでばかりいられないことに気がついた。
 ところどころ、妙に塗りつぶしてあるようなところがある。どうも軍事施設らしい。その筋からイチャモンが入って墨塗りしたらしい。
 ということは、もしかしたら写真自体に偽造がされているところもあるに違いない。本当は陸なのに海になっていたり、建物があるのに山の緑になっているとか、、。
 景観戯造はわたしの遊びだが、これはまさに景観偽造である。
 衛星写真だから真実を写しているなんて、うっかり信じてはいけないのだ。
   ◆
 日本が中国やアメリカを相手に戦争していた頃、軍事施設のある町の風景写真絵葉書には、軍のお達しで手を入れて一部偽造していたことがあった。例えば、横須賀のその頃の写真を見ると、あるはずの山がないとか、奇妙なところがある。
 もちろん地図も軍事施設のあたりは偽造していた。
 そういうことがgoole earthにも行なわれていることは、十分に考えられる。
 それも怖いことだが、写真の精度が上がってくると、青空の下ではうっかり変な真似はできなくなる日常の怖さがある。立ちシ●●ベンは、木の下でやりましょう。
 この衛星写真といい、街にはびこる監視カメラといい、どこでもいつでも監視されて、住みにくいケチな世の中になったものである。気をつけなくっちゃ。

2010/08/01

298【怪しいハイテク、故郷高梁】机上で故郷の生家を訪問できるなんて、、、

 わたしの生まれ故郷は岡山県の高梁市である。
 もう20年も前のこと、ハイデルベルクに遊びに行って驚いたことがある。まるで高梁とソックリなのである。
 まちの中を歩いていて、デジャビュに襲われてしまって、どうしてなんだろうと気分がモヤモヤしていたが、アッ、ここは生まれ故郷の高梁なんだと気がついて、晴れ晴れとしたことがあった。
 このことは前にも雑誌に書いているのだが、最近、高校同窓会誌にもそれを書いた。
参照→異国で発見した故郷
参照→高梁:日本のハイデルベルク
    ◆
 ところで、goole streetなるサイトがあって、ここで高梁の街並み見物ができるのである。
わたしの生家は神社なのだが、その鳥居、参道、鐘楼がいまも健在である姿を、机の上で懐かしむことができるのである。
 生家の近くの武家屋敷町も、なんだか映画のセットのようにきれいに見える。高校生が自転車で走っているのも見えるから、絵葉書ではない楽しさがある。
 この高梁は、映画の「男はつらいよ」寅さんシリーズで2回登場する。
 その寅次郎の義弟、つまり妹さくらの夫の生家が、この武家屋敷町の中にある設定になっているからだ。珍騒動の舞台も見える。
 日本各地で撮影車を走らせているgoogle street屋さんて、これでなにをしようとしているのだろうか。
 まあ、便利は便利だが、ただ便利がっていてよいものかしら、、なんだか不気味でもある。

2010/07/29

297【横浜ご近所探検】共同住宅ペンシルビル

 近くにある小さな空き地で工事が始まった。お知らせパンフレットを見ると、8階建ての共同住宅である。
 典型的なペンシルビルで、間口を1スパン、奥行き2スパンで、これを縦割りにして各階に2戸のワンルーム型の住宅とする。最上階2階分が建て主の住居らしい。
 既に3方を共同住宅ペンシルビルで囲まれていて、残りの道路側も向いは10階建てビルである。
 道路側から午後の短時間だけ陽が当たる。そのような住宅でも需要があるのだろうか。
    ◆
 気の毒なのはCの共同住宅ペンシルビルである。これがこの一角でいちばん最初に建ったらしく、各階が何戸あるか分からないが、いずれもバルコニーを隣地のAとBの側に設けている。Bにビルがない頃は十分に陽があたっていただろう。
 その後に建ったBビルで、7割がたのバルコニー面はふさがれている。写真②でみるように、バルコニーの先に建築基準法で言う「窓先空地」がまったくないのである。規模から見て違法ではないだろうが、実態としては真っ暗住宅である。
今度はAのビルで、このCビルは残りの3割がたの採光面もふさがれることになる。どういうわけか南の道路側にほとんど開口部がない。
 隣の土地にビルが建つ可能性は当然にあるのに、これはCの設計が悪い。
いまさらではあるが、ABCDの土地を共同開発すれば、住み良い共同住宅ビルになったであろうに、と思う。
      ◆
 こんなことが都市の真ん中ではあちこちでおきつつある。こういう共同住宅は今後どうなるのであろうか。
寿町の簡易宿泊所(通称ドヤ)のビル群が、まさにこの状況である。
あれは住宅ではなくて、一時滞在を前提とするホテル旅館だから、法的には許されている。しかし実態は日常的に暮らしている低所得者住宅である。立体スラム住宅街の感がある。
 共同住宅ビルがこのように日照通風が悪くなると、住み手がなくなって空き家ビルになっていく。そうなると空き家を埋めるために、寿町ドヤのようなものに変化していくのだろうか。
 できの悪い都市の不良資産は、立体スラム化するおそれが十分にある。

2010/07/25

296【横浜都計審】ついに市民委員をクビになったらしく遺言を言えないまま退任かよ

 今日、横浜市の都市計画課から、先日の都市計画審議会関係の追加書類が来た。
 都市計画行政のプロである市民委員のMさんが、これでは資料不足であると指摘した磯子三丁目地区計画について、事業者提案と横浜市案との比較対照一覧表と、一括指定している散在する緑地の各位置と面積の詳細資料である。
 審議会の席では、横浜市は資料に遺漏はないようなことを回答していたが、やっぱり気になったのであろうか。

 それはそれでまあよいとして、送り状に次の審議会は11月と予告が書いてある。
 ということは、わたしは2年の任期がそのときは終わっていることになるから、いまや既にクビになっているのであった。
 なんだよ、9月にやるのかと思っていたら、今年度は都市計画審議会開催がそれまでの年度よりも1回少ないのであるか、、。

 次回は引退試合となるから、きちんと遺言の挨拶をしようと思っていたのに、そのまえにクビになって残念である。
 では近いうちにわがまちもり通信サイトで、横浜都計審総括論文を書くことにしようっと。
参照→都市計画審議会を改革せよ